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高市皇子の妃・御名部皇女は承知していた天智天皇の皇統

すめ神嗣て賜へる吾なけなくに

万葉集巻一の「和銅元年(708)戊申」という表題のもとに、阿閇皇女(76番歌)と御名部皇女(77番歌)の二首が並んでいます。二人は姉妹で、右大臣蘇我石川麿の娘・姪娘(めいのいらつめ)が天智天皇との間にもうけた皇女達でした。姉の御名部皇女は高市皇子に、妹の阿閇皇女は草壁皇子にそれぞれ嫁ぎ、二人は子どもたちにも恵まれていました。
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慶雲四年(707)
二月、平城京遷都の話は諸王臣(五位以上)には知らされました。
六月、文武天皇崩御。七月、元明天皇即位。

和銅元年(708)は平城京遷都の二年前です。
この日までに、二人がどんなに運命に翻弄されてきたか、想像に難くはありません。
祖父は蘇我倉山田石川麻呂、讒言により自ら命を絶ちました。母・姪郎女は天智帝の夫人となり女子をもうけました。壬申の乱を越えて、姉の御名部皇女が高市皇子に、妹の阿閇皇女が草壁皇子の正妃となりました。あまたの皇女の中で、二人は特別でした。
草壁皇子の妃となった阿閇皇女は、持統三年(689)に夫を亡くしました。御名部皇女も、持統十年(696)に太政大臣だった高市皇子を亡くしました。二人はお互いを支え合ったに違いありません。持統十一年(697)に持統天皇が孫の文武天皇に譲位し、大宝二年(702)に力尽き崩御となりました。しかも、文武天皇までも慶雲四年(707)に崩御となり、極位が空位となるところをつないだのが元明天皇(阿閇皇女)だったのです。
元明天皇の即位の時、壬申の乱以来の天武朝の重臣たちはどう行動したでしょう。草壁(大津)高市の皇統が継承すべきという当然の声が内部にはあったはずです。
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(高市皇子が心血を注いで造った藤原宮)
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御名部皇女の和する歌は和銅元年(708)ですから、大嘗祭が行われたのは即位の翌年です。そこで、二人の歌

76 丈夫の鞆の音すなり もののふの おほまへつきみ 楯立つらしも
77 わご大王 ものなおもほし すめ神の 嗣ぎて賜へる 吾なけなくに


「皇祖神は、あなたに着けて私を賜った」と御名部皇女は歌いました。ここで、主張されているのは「あなたが即位するのは何も不思議ではない。私もあなたも皇祖神は同じで、あなたを支えるために私が付けられている。心丈夫に、安心していてください。私たちが天智帝の皇統であり、蘇我の血を引くことを忘れてはならない。」と詠んだのです。「すめ神」とは、皇統の正統を示す神に他なりません。

御名部皇女は、天武帝の皇統ではなく天智帝の皇統に皇位が継承されるべきだというのです。高市皇子の妃である人が詠んだ歌です、これは。
天武朝の世にありながら、天智帝の皇統を支えようというのです。
御名部皇女は何もかも承知していたのでしょうか。夫の死の真相も、持統天皇や草壁皇子の出自も。そのうえで、妹が極位に着くことを全面的に支えたと云うことでしょうか。

今日の結論、御名部皇女は天智天皇の皇統への皇位継承を承知していた
妹を支えた御名部皇女の77番歌を読むかぎり、「元明天皇の皇位継承は正当である」とそう主張したと理解せざるを得ません。自分たちをして、「すめ神」が賜われた血統の「吾と大王」と詠んだのですから。
元明天皇の即位の時(708)、天武朝の重臣が数多並ぶ状況で、太政大臣高市皇子の妃として「すめ神の嗣ぎて賜える吾」と御名部皇女は詠んだのです。この言葉は、高市皇子についていた大伴氏を始め多くの「壬申の乱以来の重臣たち」を黙らせるに、十分だったはずです。
御名部皇女の言葉には重みがありました。
姉妹の固い結束は揺るぎませんでした。阿閇皇女は深く感動したはずです。ですから、夫・草壁皇子の意思も汲み、姉の愛も受け止め、しかるべき時が来たら「長屋王と吉備内親王の子どもたちの地位を二品に引き上げ、皇位継承の権利を残しておこう」と思ったでしょう。実際に実行していますからね。

御名部皇女の毅然とした態度は、阿閇皇女に決意させた
天智帝と蘇我の血統の皇女達は、皇后(中宮天皇)になれる地位に生れたのです。だから、阿閇皇女は元明天皇となりました。つまり姉妹は「倭姫(ヤマトヒメ)・皇位継承者を生む女性」という地位にあったということです。
阿閇皇女が姉の子どもたちに皇位継承権を与えても不思議ではないのです。もちろん、それは皇位継承に一矢を放つことになるのですが。
元明天皇は即位の時(708)の天武朝の重臣が数多並ぶ状況で、太政大臣高市皇子の妃としてあえて歌を詠んだ姉の気持ちに、妹として報いた結果と思うのです。

元明天皇は譲位する時(715年)になって、急に「娘の吉備内親王の子を二品に引き上げる」ことを思い立ったのではないのです。思慮深い元明天皇は、娘・氷高内親王以外には、この事を洩らさなかったと思います。


そうして、元明天皇は、藤原氏の血を引く首皇子・聖武天皇ではなく、氷高内親王(元正天皇)に譲位したのでした。長屋王の子どもたちを二品に引き上げたうえで。

それは、藤原不比等にとって晴天の霹靂だったことでしょうね

即位後、元明天皇は天智帝の皇統であることを主張し続けた
「天智天皇の発願の寺院」として、大幅に遅れ滞っていた筑紫観世音寺の造営を進め、「天智天皇の改めまじし常の典(のり)」即位の詔に持ち出した元明天皇です。天智天皇の常典をもって、天武朝の皇位継承の基本的な考え方とするのは変な話でしょう。しかし、元明天皇は堂々と実行しました。元明天皇は持統天皇の遺言を守り、深く天智天皇を思い、草壁皇子の意思を汲んで最後まで行動したのです。
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35 これやこの倭にしては我が恋ふる木路にありとふ名に負う瀬能山

草壁皇子を亡くした翌年の紀伊国行幸での阿閇皇女の御歌です。この時、夫を亡くし、三人の子を守る阿閇皇女は、どんなに心細かったでしょうね。この行幸で、皇女はどんなことを思っていたのでしょう。阿閇皇女の強さは此の辺りで培われたのでしょうか。

さて、このように、持統天皇の家族について何度も確かめる作業を続けている理由ですが、それは「人麻呂歌集」の紹介の為です。一昨年からそのように思っているのですが、唐突な中身にならないように足元を固めているのです。いずれ、万葉集の「人麻呂歌集」に入るつもりです。
その時は、よろしくお願いします。

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by tizudesiru | 2018-01-28 17:41 | 322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌 | Trackback

明日香と泣いて別れた元明帝と不比等の演出


飛鳥明日香と藤原宮を捨てて平城京へ

それは、不比等の演出だった
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和銅三年(710)、藤原不比等は五十歳を越えていました。
これまで、娘の宮子を文武天皇の夫人として深く後宮に入り込み、持統天皇崩御(701)後から平城宮遷都をもくろんでいました。
和銅三年、平城宮遷都がついに実現し、元明天皇は藤原宮を去りました。

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万葉集巻一78に、元明天皇の明日香への別れ歌があります。
和銅三年、平城宮遷都の時の歌です。わずか16年で藤原宮は捨てられました。あの瓦葺の条坊を持った周易の風水にかなったという藤原宮が捨てられた、のです。いかなる理由があったのでしょう。

和銅三年庚戌の春の二月、藤原の宮より寧樂の宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め、古郷をを廻望(かえりみ)て作らす歌 
 一書には「太上天皇の御製」といふ

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
  一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ

飛ぶ鳥の明日香の里、この里を置いて行ってしまったならば、あの方の眠っていらっしゃる辺りは見えなくなってしまうのだろうか。

 一書 がいらっしゃる辺りを見ないですごすのであろうか、これから。

平城宮の辺りの新城への遷都の話は、天武五年(678)から始まりました。しかし、天武十二年(683)に方針が変わり、藤原の地が選ばれ持統天皇八年(694)に藤原宮に遷りました。藤原宮での16年間に、高市皇子・弓削皇子・新田部皇女・大江皇女・明日香皇女・大伯皇女・持統天皇刑部皇子文武天皇但馬皇女が世を去りました。持統天皇崩御(702)から遷都話は起こり文武天皇崩御(707)の翌年、和銅元年(708)平城京地鎮祭が行われました。
そして、和銅三年の遷都、遂にその時が来て詠まれた歌です。
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それは、不比等の演出だった
藤原宮を去る時、宮殿跡はさら地になっていました。宮殿の移築で瓦も柱も平城宮に持って行ったからです。それを見た時の元明天皇の心のうちは如何ばかりだったでしょう。
行列が長屋の原にさしかかると、御輿は停まりました。平城宮と藤原宮の中間点(長屋の原)で…そこで古京を振り返ります。耳成山が見え、畝傍が見え、天香具山が見える、そんな処で御輿を停めて歌が詠まれました。

飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
ここで、元明天皇は涙されたでしょう。

夫であった草壁皇子、愛しい吾子の文武天皇、心の支えであった持統天皇と共に過ごした飛鳥の明日香をすてるのです。
元明天皇の心情がそのままに詠まれ、女帝は涙されたはずです。「一書に、太上天皇の御製という」のは、女帝の心裡をそのまま詠んでいたからだと思います。女帝を泣かせる演出をしたのは、藤原不比等でした。
彼は明日香と藤原宮への未練を断ち切る儀式を中ッ道の中間点で行ったのです。
この時の左大臣は石川麻呂、右大臣は藤原不比等です。左大臣石川麿は藤原宮の留守司に任命されていました。藤原宮で天皇の御輿を見送ったでしょう。

別れの儀式を演出できたのは、藤原不比等を置いて他にはおりません。彼は文武天皇の外戚として元明天皇に寄り添い、その心裡までおもんばかっていたでしょう。
左大臣石川麿は、上手に廃除されていたのでしょうか。

よく考えてみると、彼がこれから元明天皇を誘う平城京は、藤原氏のための都となっていました。藤原氏の興福寺が帝のお住まいを見下ろす位置に造営されていますからね。


なぜ飛ぶ鳥の明日香は捨てられたのか

其の答は、単純です。そこは、藤原宮は高市皇子が造営した都だったからです。大津皇子の意見を取り入れて選ばれた都だったからです。天武帝の純血統の都だったからです。
持統天皇はそれでもよかったのですが、藤原氏は嫌だった、のです。

天智系の草壁皇子系の都が欲しかったのです。真の王朝として、北に天子の宮殿を戴く都が欲しかった、そして、その京を我が藤原氏が守ると、密か計画し堂々とやってのけた、のでした。
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78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
この歌は、元明天皇の涙と不比等の野心と暗躍を伝えてくれるのです。

また、ブログの内容が万葉集に飛びました。
目まぐるしいかも知れませんが、万葉集こそ歴史の真実を語ってくれると、「言霊」として世に残されたと、思っているのです。
日本書紀と矛盾する箇所もありますし、補間する箇所もあります。
万葉集は地図と共に、歴史の扉を開く鍵だと思います。

その鍵を探しに旅をしている…
次は、「飛ぶ鳥の明日香」と詠んだ人麻呂の「挽歌」を読みましょう。




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by tizudesiru | 2017-12-23 11:35 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

倭姫命と伊勢・度会の神

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

キトラ古墳の被葬者は舎人皇子

キトラ古墳の被葬者は
舎人皇子
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古代史ファンの注目を集めた壁画を持つキトラ古墳の被葬者はだれでしょう。私は舎人皇子と思うのです。キトラは天武帝の家族の領域に位置しています。
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天武持統陵は藤原宮(白いポイント)の真南にあります。文武陵は天武陵のほぼ南にありますが、真の文武陵は中尾山古墳とされています。
高松塚古墳Ⓑは耳成山の真南にあり、藤原宮と結ぶと間に中尾山古墳が入ります。耳成山の真南に中尾山と高松塚古墳があるのです。
皇族のトップになる高貴な人の陵墓は、適当には造営されていません。ちなみにⒶ は菖蒲池古墳です。
同じ氏や家族の墓は意味のある場所に造られ、ゆかりの人の墓や寺とラインが引けます。すると、キトラ古墳の主は、天武朝の皇子ではないかと思うのです。
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(中尾山古墳)
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(高松塚古墳)
キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵に造られた壁画を持つ古墳で、壁画も高松塚古墳に似ています。
キトラの被葬者も天武帝の皇子でしょう。それも皇位継承権があった皇子だと思います。
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天武天皇の皇子はあまた居ますが…
草壁皇子亡き後、持統天皇が皇位を受け、10年後に軽皇子(文武天皇)に譲位しました。軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子は、文武三年(699)に薨じました。彼は兄の長皇子の方が軽皇子(文武天皇)より皇位継承の地位が高いと主張したのではないでしょうか。

若い文武天皇の崩御が慶雲四年(707)です。
持統天皇も既に崩御(702)されていたし、大変な事態となりました。しかし、文武天皇の母である元明天皇が即位したのです。孫の首皇子(聖武天皇)に皇位をつなぐためでした。

和銅七年(714)首皇子が元服

和銅八年(715)氷高皇女即位
いよいよと思われたこの年、有力皇子(親王)が次々と亡くなりました。
6月(長皇子)、7月(穂積皇子)、8月(志貴皇子)、そして9月に即位したのが、氷高皇女(元正天皇)だったのです。
(父の文武天皇も15歳で即位したのに、首皇子即位はかないませんでした。聖武天皇が即位したのは、10年後の養老八年(724)です)

和銅八年、有力皇子は次々と死亡しています。
長生きして50歳を超えたのは、新田部皇子と舎人皇子でしょうか。ふたりは、天平七年(735)に没しました。
二人の違いは母の出自でした。
新田部皇子の母は鎌足の娘・五百重娘ですが、舎人皇子の母は天智天皇の娘・新田部皇女です。二人の身分は全く違っているのです。長皇子も弓削皇子も母は天智帝の皇女でした。もちろん高市皇子の母も天智帝の皇女です。皇位継承権は天智・天武の皇統にこそあったのでしょう。
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(キトラ古墳)
発掘された歯のようすから50~60の皇子となれば
キトラに眠るべき皇子は舎人皇子(舎人親王)以外にはいないのです。
万葉集からも舎人皇子が皇位継承の立場にあったことが窺えます。
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人麻呂は708年に没した柿本佐留だと考えていますから、人麻呂の歌は舎人皇子の若い時に献じたものだとなります。
舎人皇子、皇子が皇位継承の対象である限り、ゆめゆめ油断召さるな。
多武峰の霧はいつでも厚く立ち込めて皇子を狙っているのですから。


長生きした舎人親王は王者として、しかし、こじんまりとしたキトラ古墳に葬られたと思うのです。薨去の時舎人皇子に残されていたのは、優良な皇位継承者だったという名誉だけだったのでしょうか。
だからこそ、舎人皇子の息子・大炊王(淳仁天皇)は藤原仲麻呂(恵美押勝)に担がれるのです。そして、父の舎人皇子に「天皇」の追号を望むのですが果たされませんでした。

キトラ古墳に戻りますが、皇子でなければ、天体図の元には眠れないと思うのです。舎人皇子は高市皇子と同じく行政のトップ(知太政官事)にありました。721~735の十五年間もです。その間には「長屋王の変」がありました。事件に遭遇した時、舎人皇子はどんなことを考えたのでしょうね。

もしかしたら、舎人親王は常々「皇位継承の正当性を正そう」と息子に語っていたのかも知れませんね。
大炊王はそれを現実のものにしたかったと…考えられないこともありません。


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by tizudesiru | 2017-09-17 00:26 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback

長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成

長屋王の亡骸を抱いた男・

平群廣成の慟哭


謀反罪で死を賜った長屋王


長屋王は高市皇子の長子でしたが、家族と共に死を賜わりました。その王の亡骸を埋葬したのは誰でしょう。
罪科ある人の墓はほとんどどこにあるかわかりません。しかし、長屋王の墓は伝承があり、その墓が明治になって整備されたのです。
明治までその墓を伝えたのは平群氏でしょう。

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(長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町にあります。江戸時代の文書に長屋王の墓という伝承が残されていたのです。)

長屋王墓の近所には夫人の吉備内親王の墓もあります。二人を近くに葬るには、それなりの努力と尽力があったと思います。続日本紀には、

「王をして自ら尽(し)なしむ。その室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王ら同じく亦自ら経(くび)る」
「長屋王・吉備内親王を生馬山(いこまやま)に葬らしむ。」
「吉備内親王は罪無し。例になずらえて送り葬るべし。」
と書かれています。

この謀反事件で、現天皇の叔母の家族を断罪したのです。吉備内親王は前天皇の妹であり、前々天皇の娘なのです
内親王の家族を全て死なせた事件なのです
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平群氏は長屋王家に出入りしていた

奈良市の長屋王の屋敷後から、多くの木簡が出土しています。その中に、平群廣足(ひろたり)平群廣成(ひろなり)の名が書かれた木簡が見つかりました。

廣足は倭舞の名人だったようで、宮中の雅楽寮(ががくりょう)より派遣を要請されています。

廣成は天平五年遣唐使として唐に派遣されています。帰国後は順調に官位を進めて、最後には従四位上(長官クラスの官職)に任ぜられ、出世を果たしました。
ですから、長屋王の邸宅に出入りしていたのは若い頃でしょうが、その時、主人の難に遭遇しました


数多の兵と役人に囲まれた王の屋敷内に、従者が出入りすることはできなかったでしょう。
屋敷の召使たちも外でじっと邸宅を見つめ、畏れおののいていたことでしょう。
遂に、長屋王と吉備内親王と四人の男子は、死を撰ばされました。
大邸宅の周りの空気は、泣き叫ぶ召使たちの声で震えたことでしょう。
王の妻だった他の女性たちは、各々の実家で知らせを聞いたでしょうから、屋敷の周りにいたのは庶民だったようです。

続日本紀によれば、このあと、都では長屋王事件に
ついて噂と憶測と追悼の声が溢れ、長く終始が
つかなくなるのです。

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吉備内親王は罪無し、しかし、長屋王は…
平群廣成は長屋王の傍に生活したのです。主人を十分に知っています。
主人がいかがわしいことをする人物かどうか、知らないはずがありません。
彼は糾問される主人を待ち続け、死後はその亡骸を抱いて泣いたと思います。
罪無くして逝ったその人を。
だから、平群氏の本貫の地に長屋王の亡骸を葬ったと思うのです。

長屋王の墓は、「前方後円墳の後円部の上に造られている」と書かれた文を読んだことがあります。
罪科のある主人を小さな墓に埋葬しなければならないと十分知りつつ、せめて王墓のような大きさにしたいと、廣成は祖先の墓を長屋王のために提供したと…そう思いませんか。
吉備内親王の墓は少し離れた微高地にありますので、当時はまるで仲良く並んでいるように見えたことでしょう。
平群町の小さな墳丘には、平群廣成の思いが込められていると、わたしは思います。

長屋王の大邸宅は、光明子のものとなりました。

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ここからは、おさらい


なぜこのような悲惨な事件が起こったのか、以前もブログに書いたと思いますが、少しおさらいしてみましょう。事件が起こったのは、
長屋王が恵まれ過ぎていたからです。父母は御名部皇女(内親王)と高市皇子(親王)で、妻は元明天皇の娘であり、文武天皇の妹でした。多大な財力と権力を持ち、当代随一の名家であり、将来も揚々たるものだったのです。

霊亀元年(715)二月、元明天皇(草壁皇子の妃)は「勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を皆皇孫の列(つら)」に入れたと続紀にあります。
長屋王の子どもたちの身分を三世王から二世王(天皇の孫)あつかいしたのです。

藤原不比等は「皇太子の首皇子が十五歳で即位すれば、外戚になれるから」と、長屋王家の特別待遇を容認していたでしょう。

しかし、元明天皇が譲位したのは皇太子の首皇子ではなく、娘の元正天皇でした。それは、政変のような衝撃だったのです。
元明天皇は、前年元服した皇太子・首皇子に不安を覚えていました。

養老二年(718)長屋王大納言。大伴旅人中納言。
     この年、養老律令を撰進(藤原不比等ら) 
     功績に関わらず不比等は右大臣のまま
養老四年(720)日本書紀撰進。藤原不比等没
養老五年(721)一月、長屋王右大臣。十二月、元明太上天皇崩御。

元明太上天皇は長屋王家へのレールを敷いて崩御されたのでした。が、チャンス到来と
藤原氏は着々と首皇子の即位に向けて準備をはじめました。

山上憶良ら当代の知識人を東宮(皇太子)の周りに集めます、そして、元正天皇に譲位を迫りました。元より中継ぎを承知だった元正天皇は、元明天皇の崩御の三年目の二月に首皇子(聖武天皇)に譲位されました。崩御からほとんど二年しかたっていなかったのですが。

この時(724年)、長屋王は左大臣となったのでした。
元明天皇の思いが元正天皇に引き継がれていたのでしょうか。
そして、この時、長屋王の運命は決まったのです。

引き金は、聖武天皇の皇太子(基王)が一歳で没したこと(728年)でした。
聖武天皇の皇位継承者より、長屋王の男子の方が有力だったのです。
神亀六年(729年)、基王の死から半年後、長屋王事件は起こりました。

長屋王がどんな左大臣だったか、都の庶民は知っていました。その事をめぐって様々な噂といざこざが起こり、殺人事件も起こりました。もちろん、聖武天皇は十分に知らされていなかったでしょうね。
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全ては、歴史の靄の中に。


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by tizudesiru | 2017-07-25 15:05 | 271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成 | Trackback

269彷徨える大国主命と宗像君徳善

彷徨える大国主命宗像君徳善
さて、彷徨える大国主命の話の方へ移りましょう。
万葉集巻六「冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発ちて道に上がりて、筑前の国宗形郡名兒山を越える時に作る歌一首」におおなむちの神が歌われています。

963 おほなむち すくなひこなのかみこそは 名付けそめけめ 名のみを 名兒山とおいて あがこふる 千重の一重も なぐさめなくに

むかし、おおなむちとスクナヒコナの神がはじめて名付けられたという「名兒山」だけど、わたしが都に置いて来た娘を恋しく思う心に比べれば、「なごやま(汝の兒の山だよ)」と聞いても、千重の一重も少しの慰めにもならない。

幾度か取り上げた万葉集の大伴坂上郎女の歌です。
このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神だったと、既に紹介しています。
では、おおなむちとスクナヒコナの神は、宗像氏の支配地域の神だったのでしょうか。支配神でなくては、山の名付け等できないはずです。
しかし、三女神を「宗形氏などが祀る」と書紀にも書かれています。万葉集とほぼ同時代に、同じ地域で神の名がずれているのです。
考えられるのは、同じ八世紀にご祭神が入れ替わったと云うことです。
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宗像氏は日本書紀に出てきますが、特に天武天皇の嬪となった宗像君徳善の娘・尼子娘は、高市皇子を生んだと書かれています。その宗像君徳善の墓が宮地嶽神社にある宮地嶽不動古墳とされていますが、徳善の墓ではないという説もありますね。
幾度もこのブログでも取り上げましたが、その古墳の所在する宮地嶽神社を再訪してみましょう。

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元のお社は階段を上り詰めたこの辺りに在りました。背面の山は神社のご神体山です。拝殿の大注連縄は、直系2.5m、重さ5t、日本一だということです。
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山門をくぐったこの境内で、毎年筑紫舞が(10月22日)奉納されます。
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特別の舞である「磯良の舞」が舞われた年もありました。安曇磯良は安曇氏の祖先神です。白装束で顔を隠して登場します。安曇氏は海神を祀っています。
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この宮地嶽神社のご祭神は三女神ではありません。また、宗像氏ともかかわりのないご祭神でもあります。
息長足比売命(神功皇后)

勝村大神(かつむらおおかみ)

勝頼大神(かつよりおおかみ)


神社の創建は1600年前とされ、1200年前に神功皇后が遷座されたと云うことです


ご遷座された日が10月22日と云うことで、御遷座記念祭が行われているのです。

平たく言えば、神功皇后は後の世に入って来られた神なのですね。

宮地嶽神社古墳は、相島(神社の正面の海に横たわる島)
の玄武岩で造られた巨石の横穴式石室の古墳です。

(日本で二番目に長い巨石の羨道をもっています)。

以上のことから、この神社の古墳が宗像君徳善の墓であると思いますか?
素人は、違うのではないかと疑ってしまいますね。
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このブログの『148光の道は弥生から』を見ていただくと、宮地嶽神社と古墳のことが分かるのではないかと思います。光の道で有名になった神社です。

さて、再度「彷徨える大国主命」の話の方へ移りましょう。

このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。大国主は関東地方の神にもなっていたのだと。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神
でした。
すると、おおなむちとスクナヒコナの神は、もとは古代宗像氏の支配地域の神だったのでしょう。(支配神でなくては、山河の名付け等できないからです)

永く神として祭られていた大国主(おおなむち)の神、しかし、歴史のどこかで主祭神ではなくなっていったようです。
おおなむち神は北部九州辺りの神だったのに、その後、何処に行かれたことになります。
古事記によると、おおなむち(大国主)は多くの妃との間に多くの子どもをもうけています。

須佐之男命の娘・須勢理毘賣(嫡妻)
八上比賣ーー木俣神
高志国の沼河比賣
宗像の奥津宮の多紀理比賣ーー阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)・高比賣(下照比賣)
神屋の楯比賣ーー事代主神
八島牟遅神の娘・鳥耳の神ーー鳥鳴海神(とりなるみ)


広範囲から妻を迎えていますね。出雲のスセリヒメ、越の国のヌナカワヒメ、宗像のタギリヒメなどなど、日本海ルートの国と深いつながりがあるのですね。そして、関東にまで手をのばしていた、ということです。

子孫も古事記で辿ってみましょう。
スセリ姫には子が書かれていません。スサノウの娘で、しかも嫡妻ですから、オオナムチ(大国主)が出雲に入るには、出雲の支配者の娘を娶る必要があったと云うことです。もしかしたら、スセリ姫は年齢が高くて子供が産めなかったのかも知れませんね。それでも、嫡妻にしなければならなかった…
この掟(慣習)は、古代国家にもその後にも受け継がれる「王権の条件」ですね。古代では、皇后には皇女でなければなれなかったのですから。


では、大国主の子孫たち、鳥鳴海神から続きます。
鳥鳴海神
と日名照額田毘道男伊許知邇神ーー国忍富神(くにおしとみ)
国忍富神と葦那陀迦神(八河江比賣)ーー速甕の多氣波夜遅奴美神
多氣波夜遅奴美神天の御仲主の娘・前玉比賣ーー甕主日子神(みかぬしひこ)
甕主日子と於加美神の娘・比那良志毘賣ーー多比理岐志麻流美神
多比理岐志麻流美神と比比羅木の其花麻豆美神の娘・活玉前玉比賣神ー美呂浪神
美呂浪神と敷山主神の娘・青沼馬沼押比賣ーー布忍富鳥鳴海神
布忍富鳥鳴海神と若盡女神ーー天日腹大科度美神
天日腹大科度美神と天の狭霧神の娘・遠津待根神ー遠津山岬多良斯神

おおなむちの神が妻を迎えた地域は、広範囲にわたりました。
途中から「天御中主神」が入ってきますね。甕(みか)・日子・天など九州に所縁の深い詞が子孫の名についています。九州の勢力が大国主の勢力に浸透していったと云うことでしょうか。
その後、オオナムチ神は摂社や境内社へと遷座されていったようです。または、名前を変えて…
時々、思わぬ場所で「大国主」が祭られている神社に出会います。
そんな小さな祠にも、村社の摂社にも、知られざる歴史の面白さを感じますね。
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(関東平野の最奥の筑波山とつくし池です。写真をお借りしました)
(古事記では、多岐理比賣がオオナムチの妻になっていますが、書紀には市杵嶋姫という一書もあります。また、宗像大社の辺津宮の女神でもあります。「宗形三女神のお仕事」で祭神はとりあげています)


今回も長くなりました。読みづらいでしょうね。
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by tizudesiru | 2017-07-20 11:20 | 269彷徨える大国主命 | Trackback

太政大臣高市皇子を苦しめた皇女達

太政大臣高市皇子の苦悩 
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持統天皇と吉野行幸の不思議
やっと春が来て、その春も過ぎ夏が来たらしい。神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の時代になったのだ』はつらつとした歌ですが、持統帝が実権を握るのは晩年でしたから、これは初老の婦人の歌です。これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのですが。一体、いつ詠まれたのでしょうね。歌の意味と即位後の吉野行幸が結びつかないのです。

日本書紀の持統天皇の吉野行幸を見ると30回以上あり、即位しても仕事していたのかどうか疑いたくなります。即位は称制期間の三年を経ての持統四年1月ですが、吉野行幸がつづきます。行幸の月は、持統三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)ですから在位中の行幸の多さには驚きますね。これで、天皇としての仕事ができたでしょうか。持統天皇は即位していなかったか(太上天皇と称されているが)、すべてを高市皇子にゆだねていたのかなど疑う人もいますが、高市皇子が政権の中枢にいたとしか考えられません。
天皇が旅行している間は政治を留守司がやっていたことになりますが、その立場にあったのは高市皇子でしょう。持統四年(690)に高市皇子は太政大臣になっていますが、天武帝は天皇親政をしていた(議政官の任命はない)のですから、天武帝存命中から高市皇子が行政のトップだったのでしょう。

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高市皇子が造営した藤原宮
高市皇子が行政のトップとして政治を行っていたところへ「天武十二(683)大津皇子、朝政を聴く」状況が入ってきました。藤原宮が耳成山の南の地に造営されたのは、大津皇子の政治参画によって候補地が変えられたためだそうです。都地を選んだのは大津皇子だったというのです。と云うことは、大津皇子(686没)が大きな存在だったと云うことです。高市皇子はどう思ったでしょうね。
確か、新益京(藤原宮)は「周易」で造られたのでしたね。条坊の真ん中に宮殿があるという京で、平城宮のように北に宮殿が置かれた都とは造営の思想が違っています。
都の中央に宮殿があり耳成山の南の平地に広がる都が…広大な条坊を持った瓦葺の宮殿を持った「新益あらましき」の都が、なぜ捨てられたのか、不思議でなりません。藤原宮は15年で捨てられているのです。
万葉集には藤原宮の「藤原宮御井の歌」など寿ぐ歌がありますが…
遷都の理由は何か、答は少ないでしょう。高市皇子が造った京だから破棄された、藤原宮とは別の思想で造られた都が欲しかった、ここが呪われた京だと思われた、この都を支えた氏族が離反した、謀反者・大津皇子が望んだ都地だったから破棄した、などなど考えられますが。
(藤原宮の瓦も見事です。九州の観世音寺と同じ瓦当文様です。元明天皇の時代になっても60年ほど完成されなかった観世音寺と同じです。この瓦は、この後全国に広がる瓦当文様のモデルとなったようです)。

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ここで思うのは、持統天皇と高市皇子の確執です。ほとんどの権力を掌握していたであろう高市皇子が太政大臣に留まり、称制していた持統天皇が持統四年に即位するという展開は、次の天皇の出現を待っていたためでした。その事は、高市皇子を苦しめなかったのでしょうか。頼りの女帝は留守で、天智朝の皇子皇女が大勢いる中での政治ですから、困難がなかったとは思えません。

大津皇子を死に至らしめたのは、持統天皇の草壁皇子に対する愛の結果だと噂されています。が、天武朝の他の謀反事件を見ても「謀反の判断を下したのは議政官」でした。藤原広嗣の乱も橘諸兄が謀反と判断、長屋王事件も密告を受けて動いたのは藤原氏でした。天皇に直接密告することはできません。間に議政官がいるのです。

ですから、大津皇子を断罪したのは、持統天皇というより高市皇子だったと考えたが自然です。

天武朝の期待の星・大津皇子を断罪(686年)しなければならなかったのが高市皇子だったとすると、その心中はいかばかりだったのか。
そして、高市皇子を苦しめたのは、これだけではありませんでした。高市皇子は壬申の乱の後遺症も残る新政権のトップだったのですから。
妃の御名部皇女は天智帝の皇女ですし、壬申の乱後に妃に迎えた十市皇女(大友皇子の妃だった)は、天武帝が斎宮に向かった後に自殺しています。異母姉・十市皇女の死に高市皇子は苦しみました。その時の歌が、万葉集の挽歌に残されています。さらに、天武帝の皇女で鎌足の娘の氷上娘の生んだ但馬皇女は、高市皇子を裏切り穂積皇子に走りました。これらのことは既に書いていますが。

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その後、十市皇女は祟り神になったと思います。過酷な皇女の人生とその結末を考えると、人々は畏れたことでしょう。ひそかに祟り神を慰めたり鎮めたり、守護神として頼りにしたり、南都・鏡神社の辺りに天満宮信仰(菅原道真の祟りを鎮める)の原型として、比賣塚信仰が潜伏していたのだと思います。

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以前に紹介した新薬師寺の門前の「比賣神社」は、鏡神社の摂社でした。
この南都・鏡神社は、806年に唐津の鏡神社(藤原広嗣を祀る)からの勧請です。

806年は桓武天皇の崩御年で、平城天皇の即位年です。平安京の平安の為に南都の新薬師寺の守護神として、強い祟り神を選んだのです。祟りが強ければ強いほど霊力が強力だったし、守護神として頼りになったのです。

比賣塚
にもそういう祟り神としての伝承があったので、鏡神社の宮司様が十市皇女を改めて祭られたのだと思います。
わたしがこの比賣塚を十市皇女と結びつけたのは、比賣塚の横に「神像石」があったからです。弘文天皇(大友皇子)の在りし日を顕彰し、四代にわたる御姿石を長く祀ったと書かれていたからです。隣り合い身を寄せ合う塚と石がある、それは何を意味するのでしょう。比賣塚は十市皇女以外に考えられません。
それは、祟り神となった悲しみの王妃を偲ぶ縁となっていたのです。


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by tizudesiru | 2017-06-24 00:05 | 259王権と高市皇子の苦悩 | Trackback

高松塚古墳の被葬者は高市皇子

再度、高松塚古墳の被葬者
NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で、高松塚の被葬者について追及していました。石棺・壁画とその陵墓の位置を分析しながら。面白く拝見しました。最後まで視聴者を引っ張って面白かったのですが、最後に疑問が残りました。被葬者が高市皇子ではなく刑部(忍壁)皇子となったからです。わたしは被葬者は高市皇子だと思っています。彼こそ新益京(藤原京)を造営した人だからです。最高権力者としてその大極殿と朱雀大路の南の直線上に眠るべくして永眠したと思うからです。
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画像はNHKテレビをデジカメで撮りました。
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藤原宮(新益京)は耳成山の南に作られた最初の条坊を持つ都とされ、藤原宮は初めて瓦が葺かれた宮殿とされています。その藤原宮の大極殿の南に野口王墓(持統・天武陵)があり、その南に中尾山古墳と高松塚古墳があることは、今までに繰り返しお知らせしてきました。
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高松塚古墳は石室(石槨)の壁に人物像や四神の玄武と青龍がえがかれ、被葬者が権力者であることは間違いありません。
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更に、さしかけられた笠が深緑であることから、被葬者が一位であることが分かりました。やはり最高権力者です。そこで,被葬者の候補が忍壁(刑部)皇子と高市皇子にしぼられたのです。また、「海獣葡萄鏡」が副葬されていたことから、遣唐使が持ち帰った鏡ではないかということで、705年没の刑部皇子と決まったという展開でした。
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それでは、四神が描かれたキトラ古墳が高市皇子の陵墓というのでしょうか。しかし、キトラ古墳は藤原宮より伸びたラインからずれています。大極殿を通るラインのみが、中尾山古墳と高松塚古墳を通るのです
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天智陵から南下したピンクのラインに乗るのは、菖蒲池古墳・天武持統合葬墓です。藤原宮から熊野大社に引いたラインにはキトラは乗るかもしれませんが、他の陵墓はラインからずれます。
耳成山から南下した緑ラインには、中尾山古墳と高松塚古墳が乗ります。赤いラインを藤原宮から高松塚古墳までひきました。すると、ラインは大極殿から朝堂院南門を通りました。高松塚古墳は正確に測量して作られたということがわかるのです。

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ここまで藤原宮にこだわった被葬者です。高市皇子以外に考えられないのです。それに、被葬者は頭蓋骨がなく抜き取られた可能性がある(首を斬られたのではない。下あごの骨はのこっていたので40歳~60歳の男性の骨とわかった)、大刀の刀身が抜かれ、玄武の顔が削られていたと、調査報告がありました。そんな仕打ちを受けた可能性のある一位の人物は、高市皇子以外に考えられません。長屋王事件の後、謀反の罪が埋葬されていた父親の高市皇子まで及んだとも考えられるし、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して何らかの咎を受けたかも知れません。軽皇子は高市皇子薨去後半年で立太子、その後半年で即位してるのですから。
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ヒストリアで最後にラインを熊野大社に持っていくという不思議な画面の挿入がありました。藤原宮と熊野大社を結びつけるなんて、何か意図があったのでしょうか。平安時代から確かに熊野は聖地となり、あまたの皇族貴族が詣でました。テレビでは意味が分からないまま終わったのですが、わたしは日頃から三本の棒があれば測量し直線を引けると言っているので、ラストの熊野ラインはちょっとおもしろかったです。しかし、正確に言うと、藤原ぐうから熊野まで直線を引くと、天武持統陵や高松塚はラインに乗りません。大雑把なことでいいなら別ですが…
古代は建築や墳丘造営や旅行や意味づけをする時、方角を大事にしました。命や運勢に関係すると思っていたからです。ですから、いい加減な測量はしなかったと思います。
だからこそ、高松塚古墳の位置は大事で、なぜその地が選ばれたか考えなければならないと思います。


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by tizudesiru | 2017-05-22 21:32 | 249再び高松塚古墳の被葬者 | Trackback

214 天智天皇が建てた寺・崇福寺

天智天皇も寺を建てていた

扶桑略記によると崇福寺は668年建立です
写真は崇福寺です。下の写真は、大津市歴史博物館の売店で買った「かわら」から撮りました。
天智天皇はこんな山の中に寺を建てたのですね。持統天皇の御代に、山寺として万葉集にも出ています。崇福寺は尾根の上に寺院があり、深い谷が間にあります。
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万葉集巻二の115は、但馬皇女の歌です。
但馬皇女は天武天皇と藤原鎌足の娘(氷上娘)との間に生れました。穂積皇子は、天武天皇と蘇我赤兄の娘(太蕤娘おおぬいらつめ)との間に生れています。どちらも、祖父は天智天皇の腹心の部下でした。
それで、二人は近づいたのでしょうか。高市皇子は 当代きっての権力者であったはずなのに、です。高市皇子はどう思ったでしょうね。どうでもよかったのかな?

但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思いて作らす歌一首
114 
秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも
  穂積皇子に勅して、近江の志賀に山寺に遣わす時に、但馬皇女の作らす歌一首
115 
後れいて 恋つつあらずは追いしかむ道の隈みに標結へわが背
  
但馬皇女、高市皇子の宮にいます時に、ひそかに穂積皇子に接い、事すでにあらわれて作らす歌一首
116 
人言を繁み言痛(こちた)み おのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

但馬皇女は、高市皇子の妃となっていたのです。それなのに、穂積皇子に恋してしまった。皇女の恋歌は、高校でも学習するし、よく知られていますよね。
さて、滋賀の瓦ですが、天智天皇の崇福寺より古い寺があるんですが、実はその穴太廃寺を訪ねて行ったのですが、大雪だったしとうとうたどり着けませんでした。それで、大津市歴史博物館で本を買ったのです。では、穴太廃寺の瓦を見てみましょう。

7世紀前半の寺を近江京に合わせて造り変えた」? なんじゃ??意味不明の説明ですね。
これはですね、もともと古寺が穴太にあったのですが、天智天皇が近江に遷都した時、その古寺を造り変えて、方向を近江京に向けた伽藍にしたというのです。私は、向きを変える前の伽藍と瓦のことが知りたかったのです。
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百済系というより新羅系の古瓦です。多くのことが分かりました。もともとの伽藍は、東に塔、西に金堂でした。創建寺院を取り壊して、再建寺院を造らねければならなかった理由って何でしょう。東西に塔と金堂が並ぶ古代寺院の伽藍は、まるで九州ですよね。

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by tizudesiru | 2017-02-11 00:06 | 214天智天皇が建てた寺 | Trackback

175高市皇子の薨去と謀反事件

175・高市皇子の薨去と謀反事件


高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。


しかし、石室は狭いのですが、壁画があり、
それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいました。

当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。

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わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。


頭蓋骨がなかった…首の骨は有ったので斬首ではない
と。この話題はいつの間にか消えたようですが、問題が解決されたのではありません。

埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた(小さな骨、甲状軟骨・舌骨などは残る)? 筋骨の発育のいい壮年男性。7世紀末に死亡。

梅原氏は「人骨に頭蓋骨がない・鞘のみで、大刀の刀身が抜かれている・日月像と玄武の顔が削られていた」これは、呪いの封印で、被葬者のヨミガエリを阻止したのだという。

ですから、軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子が被葬者と、梅原氏は主張されました。高市皇子だと言ったのは原田大六氏だけです。


わたしは、ずっと草壁皇子だと思っていました。それは、治田神社(岡宮跡・草壁皇子が育った)と、高松塚石室と、岡宮天皇陵が直線で結ばれるからでした。

所縁の宮と改葬前の墓とを結び、尚かつ耳成山の真南に位置するのは、草壁皇子の墓以外には考えられない
と思っていました。数年前に、ブログにもそう書きました。

しかし、出土した歯の鑑定が壮年男性となったので考え直したのです。

では、「後皇子尊」と尊称で呼ばれた高市皇子以外にないと結論しました。

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高市皇子ならヨミガエリを阻止された(天武朝の皇統が続くことを阻止した)ことは十分考えられます。

だからこそ、耳成山と高松塚古墳の間に文武陵を築造(改葬)したのです。そして、岡宮天皇陵(草壁皇子の陵)も束明神古墳に改葬した、と考えます。


本当に、高市皇子のヨミガエリは阻止されたのか?
それは何故か?
だからこそ、高市皇子の死は再検証しなければなりません。


謀反事件の共通点

①有間皇子の場合

658年 中大兄皇子の息子、建王没(5月)

半年後に、有間子に謀反の疑い(11月)有間皇子没


わたしが幾度も紹介したのは、有間皇子が有力な皇位継承者であったことです。有間皇子の存在が邪魔だったのは、鎌足や中大兄皇子側でした。
蘇我系女子(造子媛)が生んだ建王の死は、中大兄皇子サイドには、後継者を亡くしたことになった。大友皇子は後継者とはなれなかったから、中大兄は「不改常典」の法を考え、皇位継承の決め事を造ったと、展開していきます。

➁高市皇子の場合

太政大臣という最高位についていた。文武天皇の元服が近くなった。高市皇子にも王子がいて、有力な後継者だった。

696年 高市皇子没(7月)

半年後に、697年 軽皇子立太子(2月)、

半年後に、軽皇子即位(8月)


軽皇子の立太子と即位が滞りなく行われるには、高市皇子の存在が障害になっていた。次の段階に進むには、喪が終わる半年の時間が最低必要だった。文武天皇の15歳即位に合わせて、高市皇子の死は、すごく計画的に練られた事件だった、と言えるでしょう。

③氷高内親王の即位の場合? なぜ首皇子は即位できなかったか?

714年 首皇太子元服(14歳)*次の年の即位を考えていた

715年 長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)没

 氷高内親王即位(9月)*元明天皇の配慮か


独身だった氷高皇女(元正天皇)には、身分が高すぎて嫁ぎ先がなかった。藤原氏としては、皇位継承者を拡散するつもりはなかったので、氷高皇女を結婚させなかったのでは…。
藤原氏としては、首皇子(文武天皇の子・聖武天皇)を元服させ、即位準備は十分に整っていたが元明天皇は娘の氷高皇女を即位させた。それは何故か?
元明天皇は、草壁皇子の妃です。夫の決意(自死)を十分に承知していたとしか思えません。皇統は長屋王に受け継がれてもいいと……

④長屋王の場合
妃は吉備内親王(文武天皇・元正天皇の妹)で後継の男子あり

727年 基王(母・光明子)生まれてひと月で立太子

728年 基皇太子一歳で没(9月)

半年後に、729年 長屋王、謀反の密告で自刃(2月)

聖武天皇と光明子の間に生まれた基王は、生後すぐに立太子されたが、一歳ほどで死亡。すると、皇位継承者として一番近かった長屋王一家を全滅させる謀略を、藤原氏は取ったのだった。


謀反事件の共通点

謀反事件は、有力な皇位継承者が死亡した時に起こる。
次の継承者とおぼしき人物が抹殺される

と考えられるのですが、

更に、「藤原氏がここまでのことがやれたのは何故か

なぜ、高市皇子は封じ込められなければならなっかったのか
をはっきりさせねばなりません。


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by tizudesiru | 2016-12-02 10:25 | 174高市皇子の死の真相 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
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11羽白熊鷲と脊振山
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13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
701年紀伊国行幸・持統天皇が触れた砂
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
326倭王武と雄略天皇は同一人物なのか
327古代史の危機!?

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