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孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年
藤原宮は15年で捨てられたが、難波宮は生き延びた
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(大阪城南・難波宮址)
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(歴史博物館画像・難波宮)
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難波宮は交通の要衝にあり、外交・経済活動の要の地にありました
何処と深くつながっていたか、ラインで見ましょう

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東西に意味があるなら、藤原氏が難波宮の真東に社殿を建てた理由はひとつ
藤原宮は捨てられましたが、難波宮は長く使われ続けています。平城京遷都を計画した時、為政者にとって難波宮はどのような意味があったのでしょう。春日大社の位置を考えれば、その答えは自明のことでありましょう。

難波宮から見ると平城京はほとんど真東に当たりますが、難波宮大極殿に対応するのは平城京の大極殿ではないのです。難波宮大極殿からの東へラインを引くと、東西の関係に収まるのは藤原氏の氏神・春日大社です。春日大社は難波宮の位置を意識して造られたのです。藤原氏の氏神と孝徳天皇霊の霊的な一体化です。
聖武天皇は難波宮を副都としましたから、難波宮はずっと重要な位置に在りました。

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新しい体制(律令政治)への転換を目指して「大化の改新」の詔をだした孝徳天皇の難波宮。そこは、律令政治の出発の地であり、理想の地でありました。
律令政治を藤原鎌足も孝徳天皇と共に目指しました。豪族の合議ではなく、律令によって国を動かす。富の分配を豪族以外で行うためには、律令が必要でした。
春日大社の社殿の位置は、鎌足と孝徳天皇(軽皇子)は深く結びついていたと強調したかったから選ばれたのでしょう。

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孝徳天皇の難波宮は人々を驚かせた
第一次難波宮は掘立柱の宮殿でしたが、「表現できないほど素晴らしい」と人々を驚嘆させました。この難波宮を詠んだ歌が「難波津の歌」であると、去年このブログでも書いています。仁徳天皇の代を寿ぐ歌ではなく、孝徳天皇の宮を寿ぐ歌に他ならないと。
発掘された難波宮の壮大な宮殿跡を見ると、「大化改新はなかった」などとは思えません。大化改新の詔は、孝徳天皇の理想が具現化したものに違いないでしょう。藤原鎌足は孝徳天皇(軽皇子)と理想を語り合っていました。
(鎌足は軽皇子を尊敬していたし、皇子も鎌足を気に入っていたのです。)
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その後、難波宮は火災にあいながらも存続し続けました。天武天皇も持統天皇も難波宮を使いました。文武天皇も行幸しています。
瓦葺の第二次難波宮の宮殿は、第一次難波宮とほぼ同じ位置に同じ配置で造営されました。奈良時代には、藤原氏は鎌足と軽皇子を結びつけ、春日大社の地を大極殿の真東としたのです。東西ラインは難波宮の重要性を肯定していますが……他のラインはどうでしょうか。

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不思議なことに、難波宮は平安時代の「延喜式式内社」に挟まれているのです。
延喜の帝(醍醐天皇)の代に奏上された延喜式、その中の式内社の中でも官より奉幣されるべき名神大社がありますが、その名神大社に難波宮が挟まれるという、由々しき事態になっているのです。

醍醐天皇は、皇統が切れそうになった時、皇籍に復帰された宇多天皇の御子で、宇多天皇の在位十年に譲位を受けた天皇でした。そして、どうしても果たさなければならない使命が、皇統の継続と維持でした。だからこそ、全国の神祭りを見直し、皇統の弥栄と継承を祈るための神社が選ばれました。
皇統への祟り神は封じ込められ、退座させられ、古代の氏族が祭祀する神々の霊力は断ち切られました。そのために式内名神大社は配置されました。(このことを紹介することが、このブログを始めた理由でもありました)
古代には霊力は信じられていたし、それは日常生活も政治も経済も左右したのでした。


画像を見てください。
下鴨神社・御所・酒解神社・難波宮・生国魂神社のラインは、難波宮大極殿を見事に挟みます。下鴨神社など三社は、みな式内名神大社になります。式内社の三社に挟まれることは、めったにありません。しかもラインは天皇のお住まいそのものを通ります。すると、御所と難波宮は三か所の式内社の霊力で守られたことになりますね。

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舒明天皇・天智天皇・持統天皇が詠んだ天香具山にもラインが届く
また、明日香の天香具山と結ぶと、越智神社(若干ずれている)を通り、藤原宮の大極殿をラインが通ります。平安京・平城京・藤原宮がこんなラインで結ばれるとしたら、どんな意味があるかわかります。藤原宮の大極殿(白ポイント)を通るのですからね。

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不思議なことに、天香具山と結ぶと藤原宮が、下鴨神社と結ぶと御所が取り込まれるのです。こうして、十世紀には三都は新しい物語に組み込まれていくのです。
ラインは自然にできたものではありません。その時代を生きた為政者の切なる願いや、暗躍する野望を背景に作られたものなのです。
孝徳天皇崩御の654年から聖武天皇崩御の756年の約百年間、その後も難波宮は激動の時代をずっと見まもりました。藤原宮や平城宮より長く存続した宮処なのです。
それは、万葉集のほとんどの歌が詠まれた時期ともだいたい重なります。

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あらためて、難波津の歌を読みかえしましょうか。孝徳天皇を偲びながら。


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by tizudesiru | 2018-01-07 12:30 | 316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮 | Trackback

225 鞠智城の八角形鼓楼

225 鞠智八角形鼓楼
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八角形の鼓楼と言われています。構造上からも人が住むところではありません。ここは熊本県の鞠智城です。
八角形建物と言えば、難波の宮がすぐ浮かびます。

大阪の博物館から大阪城と難波宮が見えます。
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難波宮の朝堂院と内裏の境目に東西に八角形の建物が置かれています。使用目的は何だったのでしょうね。
前期難波宮で孝徳天皇は崩御されましたね。
その後、内裏には誰が住んでいたのでしょうね。わたしは孝徳天皇から玉璽を預かった中皇命(間人皇后)が住んでいたと思います。
その宮殿の内裏への入口の八角形の建物は見事だったでしょうね。
難波の人々はその素晴らしさをほめたたえたことでしょう。
それにしても、鞠智城は山城です。山の中の山城です。(私は菊池で育ったので、そう思うのです)そこに太鼓をたたく八角形の建物が必要だったのでしょうか。誰が見てくれるのでしょうか。そこに住んでる少数の人が見て満足したのでしょうか。
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山城を装飾する理由は何だろうと思うのです。高貴な方がおられたのでしょうか?
難波宮のような宮殿なら私も納得するのですが。
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木が茂っている所が建物跡。異様なほど大きな八角形の建物だったそうです。
また明日。









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by tizudesiru | 2017-02-23 01:04 | 225 九州の古代山城の不思議 | Trackback

190間人皇后の愛と悲劇(2)

190間人皇后の恋

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なぜ、間人(はしひと)皇后(こう)(とく)ったしょう

書紀によると、孝徳帝は皇后に歌を送って言われました。

金木(かなき)()(こま)()()吾が人見(ひとみ)

あれほど大事に後宮の奥深くに置いて人目に触れないようにしていたのに、貴女を人が見たというのか(誰かがあなたに手を出したというのか、その事で貴女は後宮を去ったのか)

「見る」という行為は、万葉集の時代「眺める」ではないのです。皇后が誰かを愛したのではないかと、後宮であってはならないことを問いかけている歌です。世間では、間人皇后が愛したのは中大兄皇子だと云われています。

そうでしょうか。

であれば、大スキャンダルで中大兄皇子は極位には着けません。

わたしは、皇后の愛した相手は兄ではないと思います。

中大兄はそんな危ない橋は渡らない、用意周到な計算高い人で、あの藤原鎌足が見込んだ男です。鎌足は孝徳帝から中大兄皇子に乗り換えたのですから。

間人皇后の相手は中大兄皇子ではありえません。

大后(おほきさき)は、後宮中宮トップ地位にあ

その大后が仕えていた者を引き連れて、(さい)明皇太后(めいこうたいごう)難波宮内裏(だいり)ガランしょう。のお引越ん。孝徳帝絶望し、国位たい山崎(やまさき)山城(やましろ)乙訓(おとくに)山崎(やまさき)郷)す.

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白雉年(651)、難波宮はその異様なまでの大きさで人々の前に顕れていました。この年、孝徳天皇は新宮に遷り、難波(なにわの)長柄(ながらの)豊崎宮(とよさきのみや)(なづ)けました。難波は、大変ったしょうね。

大化改新(645)(みことのり)により新体制の政治が始まり、人々は期待っていしょう大スキャンダルってた。

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(この大極殿の北に内裏がありました)


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by tizudesiru | 2017-01-04 12:24 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Trackback

188孝徳天皇の難波宮を寿ぐ

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188孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌

わたしには、大化の改新の中心的存在であった孝徳天皇の御代の歌が万葉集中に一つもないことに疑問を持っていました。それは、何故か?

①孝徳天皇に歌の素養が無く、残されるべき歌がなかった。

しかし、書紀には孝徳天皇自身の歌が残されている。

➁万葉集編集者は、孝徳天皇の御代の歌を取り上げたくなかった。

孝徳帝の息子の有間皇子は繰り返し追慕され、後の世まで偲ばれている。

③孝徳天皇の御代の歌がないのは、単なる偶然である。

4500首の中に一首も無いのは偶然だろうか。

④元は孝徳天皇の御代の歌はあったが、後の世に意図的に削られた。

意図的に削ったのは誰か。その人物の削りたい理由は何か。

①②③④のいずれも問題あり、ですね。

しかし、わたしは④だと思っているのです。平城(なら)(みかど)万葉集と、文献てい万葉集編集の手を入れることができた人は、平城天皇です。家持死して二十年後のことでした。


そこで、平城天皇は確認されたでしょう、万葉集編纂の意図を。

元明天皇が激怒した理由も十分に承知されたでしょう。

そこに書かれていたのは、「天武から天智の皇統に皇位が戻ったことを易姓革命」と認識している桓武天皇の皇統にも、触れたくなかった何かということでしょうか。


そこで、桓武帝の皇子である
平城天皇が、万葉集に詔により大きな編集のメスを入れさせた、と思います。結果として、孝徳天皇の御代の歌が消えた。


しかし、です。

そのゴースト(影)は残ったのです。

孝徳天皇の名前が、仁徳天皇にすり替えられた。

何と畏れ多い、しかもゾッとするスリリングな話、と思われたでしょうか?


ですが、仁徳天皇を孝徳天皇に変えて読むと、万葉集の歌が生き生きとある歴史的な事件を伝えていることに気が付くのです。

それは、興味本意な面白さを追求した読み方になるのでしょうか。

この万葉集に込められた鎮魂の思いとドラマに、わたしは何度も泣きました。

万葉集は高貴な女性のために編まれた歌集です。

持統天皇の思いが溢れています。そして、額田王や鏡女王や元明天皇の切なる思いが、愛するものを奪われた悲しみが、読み手の胸を打つのです。


大伴家持は初期万葉集の意図と意義を十分に分かったうえで、藤原氏の陰謀を告発したのです。

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ということで、以前紹介した大阪城の前に広がる難波宮を思い出してください。難波宮は何度も皇居となりました。孝徳天皇・天武天皇・聖武天皇の御代に。


特に、
孝徳天皇の時代には、掘立柱の巨大な宮殿が造られました。

藤原宮や平城宮のような形式の宮殿なのです。

「形容のしようがないほどすばらしい」と云われた孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌こそ、難波津の歌なのです。

文化の起点は難波宮に在ったからこそ、難波津の歌が古今集に取り上げられ、かるた競技の始めに詠まれるようになったのです.



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では、孝徳天皇の物語も紐解いていかなければなりませんね。そして、家持が告発した藤原氏の悪行にも迫らねばなりません。政変のはざまではかない命を燃やした美しき女性たちの物語を、やはり共有したいと思います。
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誤解を招きそうなので、付け加えます。難波津の歌は、古今集の仮名序に紹介されている歌です。仁徳天皇の御代の始まりの歌とされています。ここにも、仁徳帝の名が使われていますが、(それなら、万葉集に掲載されてもいいでしょう)歌の通りに天皇の御代の始まりの歌なら、孝徳帝の難波の宮こそふさわしいと、わたしが思ったということです。
では、また明日



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by tizudesiru | 2017-01-02 15:32 | 188孝徳帝の難波宮を寿ぐ | Trackback

187難波宮を寿ぐ歌

187孝徳帝の難波津の歌



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「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌は、

孝徳天皇の難波長柄豊崎の宮を寿ぐ歌ですよね!」

というと、こんな返事が帰って来ます。

「嘘! 難波津の歌は、仁徳朝を寿ぐ歌でしょう?!」

さて、どうなのでしょう。


聖帝としておなじみの仁徳帝の都は難波高津宮でした。それは、大阪城の辺りと言われています。確かに、孝徳帝の難波長柄豊崎宮に遺跡が重なるようにも見えます。


仁徳天皇の高津宮は何処だったのか、平安時代にも分からなかったのです。

貞観八年(866)、勅命により難波高津宮跡が探索され、その地に(今の大阪城の辺り)に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったという。しかし、豊臣秀吉が大阪城を築城する際に、現在地(比売古曽神社の境内に遷座し、比売古曽神社を地主神として摂社とした)に遷し難波高津神社とした。

平安時代の発掘調査が現代のような信頼のおけるものでなかったことはわかりますが。それにしても、大阪城の辺りにそれらしい遺構があったということですかねえ。


仁徳天皇の出自・父は応神天皇

仁徳天皇は、応神天皇(誉田(ほんだ)(わけ)天皇)の第四子でした。

仁徳(にんとく)天皇(なかつ)(ひめ)す。

誉田別天皇は、(じん)(ぐう)皇后のおなかの中に長くとどまらせ出産を遅れさせて生まれた天皇として知られています。

誉田別天皇(誉田天皇)宮・明宮(大隅(おおすみ)宮)軽島(かるしまの)豊明宮(とよあきらのみや)(奈良県橿原市大軽町に比定)難波にも大隅宮(東淀川区大隅・または中央区)古事記には軽島之明宮となっている。七一歳で即位百十一歳で崩御。


父の誉田天皇は、末子の
菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)皇子皇太子大山守(おおやまもり)皇子不服謀反大鷦鷯(おおさざき)皇子謀反を知り郎子郎子大山守た。皇子書紀てい


兄を倒したにもかかわらず、三年間も大鷦鷯尊と皇位を譲りあい菟道稚郎子は即位しませんでした。そして、ついに自殺してしまいました。

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このような不可解な事件後に仁徳天皇が即位したのです。


民の
竈門(かまど)ない御覧った仁徳帝三年間ったという聖帝てい


仁徳帝の宮の修理は、仁徳十年からです。

さて、「難波津に」の歌は、仁徳帝のどの時点で詠まれたものでしょうか。

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ボロボロの宮室を見ながら、「さあ春になりました。ここ難波津に咲いている木の花は、長い冬をじっと耐えていましたが、春になったので今こそ良い時期だと咲き香っているのです。この花のように咲きほこってくださいませ」と帝の御代を詠んだというのでしょうか。


これも若干…不可解な話ですね。



今年は難波宮でスタートです。また後で
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by tizudesiru | 2017-01-01 12:46 | 187難波宮を寿ぐ歌 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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106宮地嶽古墳と石塚山古墳
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163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
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166高市皇子と高松塚古墳
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169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う

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