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藤原鎌足の不思議な25年間? 内臣として何をしていた?

鎌足は25年間、内臣(うちつおみだった!!
中臣(藤原)鎌足(鎌子)は不思議な人です。書紀大化改新での謀(はかりごと)以外に何をしたのでしょう。中大兄皇子の腹心の部下だったと何度も書きましたが、どんな仕事をしていたのでしょう。記録では、25年間ずっと内(うちつおみ)でした。
大臣(うちつおほおみ)になったのは、薨去の前です。

天智八年(669)十月 藤原内大臣の家に行幸した天皇は、「積善の者には余慶がもたらされる。何かあるならすぐに申し出なさい」と鎌足に言葉をかけました。
これに対して鎌足は、
「葬儀は簡単なものにしてください。生きては軍国(おおやけ)に務めを果たしておりません。死去してまで煩わすことはできません」と、応えました。その言葉を取りあげ、続けて「時の賢人が『この一言は先哲の善言にも並ぶのもだ』と言った」と、日本書紀はその死を惜しみました。


議政官を記録の中から見ると、任命が明らかなのは、下記のとおりです。
よく見ると各帝に仕えてずっと「内大臣」となっているのは、鎌足だけです。
中大兄が孝徳朝の難波宮を去った時、腹心の部下の鎌足は難波宮に残ったのでしょうか? 
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(近江神宮)
議政官任命を「公卿補任」で見る


大化元年~五年(645~649)孝徳
      左大臣 安倍倉梯麻呂  (五年三月没)巨勢徳陀(五年4月~)
      右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(五年三月自殺)大伴長徳(五年4月~)
      内臣  中臣鎌子


白雉元年~五年(650~654)孝徳
      左大臣 巨勢徳陀
      右大臣 大伴長徳(~三年7月没)
      内臣  中臣鎌子 *紫冠を授け、封をます

斉明元年~七年(655~661)斉明
      左大臣 巨勢徳陀(~四年正月没)その後なし
      内臣  中臣鎌子

天智元年~六年(662~667)天智称制
      大臣  蘇我連子(~三年五月没)その後なし
      内臣  中臣鎌子

天智七年~八年(668~669)天智即位
      内臣  中臣鎌子(~八年没)八年に内大臣

天智九年(670) 天智 *議政官の任命なし
      
天智十年(天智十二月没)~壬申の乱(671~672)
      太政大臣 大友皇子(~7月自殺)
      左大臣  蘇我赤兄(~8月流罪)
      右大臣  中臣金(~8月没)
      御史大夫 蘇我果安(~7月自殺) 巨勢比等(~8月流罪) 紀大人(?)

      
分かりやすく分けてみました。
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これらの「公卿補任」の記録から分かるのは、孝徳朝の白雉五年(654)から天智十年(671)までの間、十数年も議政官が任命されていなかった(❓)ことです。そんなことはないでしょうが、記録がほとんどないのです。この時期に、誰が行政のトップだったのでしょうか。誰が政治を動かしていたのでしょうか。
「評」の行政区が書かれた木棺は出土しています。税の取り扱いはおこなわれていたのです。行政が滞ることはなかったようです。問題は、誰がそれを執り行っていたのか、です。

議政官の任命がない時期に誰が行政のトップだったのか
654~671年の間、藤原鎌足は誰に仕えていたのでしょうか。
もしかしたら
難波天皇が実在したことを示す、資料でしょうか

孝徳天皇崩御の後、行政のトップには有間皇子(難波天皇)が座っていた、その後を間人皇后(中宮天皇)が引き継いだ、中宮天皇の薨去(667)の後、葬儀・埋葬・遷都・即位が終わり、やっと、天智天皇が議政官を任命することができたと、考えることはできませんか。(次の天武朝では、皇親政治を目指していたので議政官の任命はありません。)

ここで再び、「天皇、宇智野に遊猟したまふ時に、中皇命の間人連老に奉らしめたまふ歌」の問題です。
万葉集辞典によれば、間人連老は「白雉五年(654)二条、遣唐使判官、小乙下中臣間人連老」とあります。同一人物なのです。西海使(遣唐使)として唐に行き、いつ帰ったのでしょう。
そして、書紀によれば「白雉五年二月に渡唐して7月に帰り、唐から多くの文書・宝物を持ちかえったので、大使吉士長丹などは位を上げられ、封二百戸を賜り、呉氏という姓まで賜って」います。
しかし、中国の史書「旧唐書」によれば、高宗本記・永徽五年十二月条に『倭国、琥珀・瑪瑙を献ず』と書かれています。永徽五年=白雉五年(654)ですから、遣使が十二月に皇帝に謁見したのなら、同年七月に帰ることはできません。ならば、翌年に帰国したということです。公の使いですから、朝廷で報告をするはずです。では、書紀の記述が間違っているのでしょうか。
遣使に褒美を与えた大王が孝徳帝でないならば、何処の誰だったのでしょう。

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やはり、この歌は、幼い皇女が献らせた歌ではなく、新大王の為に、中皇命(中宮天皇)として間人連老に奉らせた歌と考えたが違和感がないのです。間人連老は遣唐使判官として帰国(655)後、中宮天皇に仕えていたと云うことです。

梓弓の中筈の音で浄められた大野に、臣下が馬を並べて整列し、いよいよ儀式が始まるのです。それは、大王の霊魂に触れるための儀式でしょうね。清浄な大野に初めて踏み込む、大王位に着く人の儀式です。

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ではでは、内臣として鎌足は難波天皇にも仕えていたのでしょうか。それとも、斉明天皇について明日香に帰っていたのでしょうか。

それから、もう一つ、内臣の仕事はどんなことでしょう
中臣(藤原)鎌足のことについては、既にこれまでのブログで紹介しています。ここでは、25年間の内臣のという役職が何を意味するのかを考えてみたかったのです。
鎌足が薨去した後、内臣(うちつおみ)の任命は長くありません。と、云うことは、この役職が無ければ行政が滞ると云うことでは無いのです。内の臣ですから、王家の仕事・宮内省のような仕事をしていたのでしょうか。王家の神事とか、王家の生活のための人事や調度を整えたりなどの身の回りの世話です。天智朝では中臣祝詞が儀式でつかわれたようですから、中臣祝詞が完成していく過程に、鎌足の活躍があったのでしょうか。すると、皇居では常に神事に従事していたのでしょうか。
中臣鎌足は、「中臣」という氏の本流ではありません。本流の中臣が消えた後に現れたのでした。ですから中臣鎌足は「内臣」として、人と神の中をつなぐ祭祀をしていたのではないでしょうか。

それにしても
25年間も内臣の仕事をしたとしても、大王位が変わり、都が変わり、政変・内乱・国外出兵と混乱が続く中で「内臣は変わらない」とは、鎌足は不思議すぎます。


by tizudesiru | 2018-01-26 23:21 | 321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年 | Trackback(52)

宇治天皇の悲劇を詠んだ柿本人麻呂と額田王

人麻呂と額田王が詠んだ宇治天皇
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万葉集巻九は、大変意味深な巻でした。この巻の「挽歌」という部立の冒頭歌が、柿本人麻呂の歌です。既に紹介していると思いますが、再度取り上げました。

    宇治若郎子の宮処の歌一首
1795 
妹等がり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ

「愛しい人のところへ今来た」という意味と同じ「今木」の嶺、そこに茂りたっている「嬬を待つ木」という意味の松の木をいにしえの人(宇治若郎子)は見たのだろうか。
宇治若郎子の宮処の「松の木」は、ここに住んでいたあの悲劇の皇太子が見た松の木なのだ。


人麻呂の歌の題詞にある「宇治若郎子(うじのわきのいらつこ)の宮処の歌」、何とも意味深な題の付け方です。宇治若郎子の宮処で、人麻呂は松の木を見て、古人を偲んだのです。「松」といえば、初期万葉集では「岩代の結松」が読み手の念頭に浮かぶのです。人麻呂も「松」に関しては紀伊国の「岩代の松」と結びつけた歌を多く詠んでいます。ですから、松といえば、悲劇の皇太子・有間皇子が思い出され、それを宇治若郎子の伝承と結びつけて詠んだと思います。
人麻呂の作歌活動は日本書紀の成立以前と考えられますが、彼はどうして書紀のエピソードや神話の中身(自分の歌に詠みこんでいる)を知っていたのでしょう。
(考えられることは、人麻呂は宮廷の中に入ることができる知識人だったと云うこと。更に、正史の編纂に携わる人とも交流があったと云うことでしょう。)

宇治若郎子について、おさらいしましょう
万葉集では、難波高津宮天皇(仁徳天皇とされている)の名が巻二に出ていましたが、宇治若郎子はその弟で皇太子でありながら、兄に皇位を譲るために自殺してしまったという人です。古事記も日本書紀も、皇位継承の争いは親族間でありました。それは一方の死によって決着しています。ですから、宇治若郎子も自殺ではなく、他殺の可能性が大でしょうね。

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更に、巻九の人麻呂の歌についておさらい
巻九は特別な巻でした。その巻九の「挽歌」の冒頭には、人麻呂の歌が五首並びます。1795番歌に続くのは、下の四首でした。
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既に紹介していますが、巻九は紀伊国行幸の十三首のために編集されていたのでしたね。

次に巻一の7番歌、額田王の歌です。

7 秋の野の美草刈り葺き宿れりし 宇治の都の仮廬(かりほ)しおもほゆ


秋の美草を刈り取って屋根を葺いて旅宿リした宇治の都の仮廬が、あの仮廬こそが偲ばれる(そこに宿リなさったあの方のことが)

額田王が「過去の思い出を懐かしんでいる」歌で、それは、旅宿リをした天皇の仮廬です。その天皇は旅の宿の屋根を草を刈り取って葺いたというのです。宮子(都)という以上は、天皇のお住まいです。旅寝の仮の住いでも宮子(都)と呼びました。
さて、この歌について、後世の編者には「いつどこで詠まれたのか、詠み手も額田王か天皇御製歌か、分からなかった」のです。

一書には比良の宮に行幸が大化四年(648)で、書紀には「斉明五年正月(659)
に紀伊温湯から帰り、三月に吉野の宮、その後に比良の浦に行幸した」と長い左脚で説明されています。

ここで、「秋の野の美草刈り葺き宿れりし」がぴったりと収まるのは、「斉明五年の正月に紀伊温湯から帰った」です。
斉明天皇は前年(658)の秋から紀伊温湯に行幸していました。ですから、額田王は前年の秋のことを詠んでいるのでしょう。

将に、斉明四年(658)十一月に起こったのが「有間皇子事件」でした。「わが背子は仮廬作らす草なくは…」、あの歌を思い出してください。草を刈り取って旅の仮廬としたのは、有間皇子だったではありませんか。

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もし、この歌が斉明帝の御製歌であれば、美草は御草となります。
 
秋の野の御草を刈り取って屋根を葺いて旅寝をしたあの皇太子、いえ、あの宇治天皇の都、一夜の都となった仮廬が思い出されてしかたがない。

と、若くして政変により命を落とした皇子を斉明天皇が偲んだことになりましょうか。しかも、是を編集した学者は、額田王が斉明四年(658)の秋の出来事を詠んだ歌だと知っていたと思います。だからこそ「斉明五年(659)正月、紀伊温湯から帰った」と遠まわしに書いたのです。

つまり、後の学者は、7番歌と額田王の9番歌「・・我が背子がい立たせりけむ いつ樫が本」と結びつかないように気を配ったのでしょうね。
すると、8番歌「にぎたづに船乗り背むと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」の歌が、ここ8番目にはめ込まれた理由が分かります。
9番歌は「紀伊温泉に幸す時」の歌で、658年の有間皇子事件を詠んでいます。8番歌が百済救援の時の歌なら660年以降の出来事になりますから、歌の時期が入れ替わっています。                                                                                                                       
本来なら、7番歌、9番歌、8番歌と並ばなければなりません。もともとは、7・9・8・の順だったでしょうね。入れ替えたので読みにくくなり「脚注」がつけられたのです。
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額田王も人麻呂も率直に「有間皇子と宇治若郎子」と結びつけて詠んだと思います。

「にぎたづに船乗りせむと」の歌が、百済救援の時の歌ではない可能性もあるでしょうから、まだ考察する余地を残しておきましょうね。

私といたしましては、万葉集の人麻呂歌集に大変興味を持っています。そのうちご紹介をするつもりです。なかなか面白いし、納得の内容なのですが。その前に、あまたの予備知識がいるので、何度も同じことを確かめている処です。


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by tizudesiru | 2018-01-26 02:01 | 320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌 | Trackback

189万葉集に隠された間人皇后の愛と悲劇

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by tizudesiru | 2017-01-03 15:44 | 189間人皇后の愛と悲劇


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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204吉備真備の挫折と王朝の交替
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212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
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236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
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238米原長者伝説の鞠智城
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240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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