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雄略天皇の御製歌は万葉集の冒頭歌

「すぎにし人の形見とぞ」2

?では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。

この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘む娘に敬語を使っている。『菜摘ます子=菜をおつみになっている娘』と『家をおっしゃってください。名を名のってください』 求婚の儀式だろう。 

古代では名前を呼べるのは、特別な間柄か親族で、他人に名を知られるのを嫌った。

此の菜を摘む女性は高貴な家柄の姫で、儀式により婚姻が整おうとしている瞬間である。

これは「雑歌」=儀式歌の冒頭歌にふさわしい歌なのである。」

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万葉集巻一には、「雑歌」という「部立」があります。
「雑歌」とは、「雑なその他の歌」という意味ではないのです。「儀式歌・様々な公の場での歌」と云う内容の歌群をいいます。ですから、雄略天皇の万葉集1番歌も「雑歌」ですから個人的な歌ではなく、公的な場での歌になりますね。


万葉集の冒頭歌は、「こもよ。みこ持ち」この歌ですね。
 最近になって、平和で幸福な感じの婚礼の儀式歌だと、思えるようになりました。
もともと、万葉集は持統天皇が『平和で幸福な皇統の国造り』を願い、文武天皇のための教育書として作られたと、わたしは前回紹介しました。万葉集の性格からして、政変や悲運な出来事の歌が巻一の冒頭に置かれるはずはありません。特に巻一ですから、幸せと希望に満ちた冒頭歌のはずです。
 すると、巻一の最終歌も平安と希望に満ちたものになるでしょうね。そう思って巻一の最終歌を読むと、何だかまとまりのない形になっています。元々万葉集巻一最終歌には、別の「世を寿ぐ歌」があったでしょうに。
(他の巻は、様々な皇統の出来事・歴史に触れますから内容が重く苦しいものにもなるのは必然です。)
雄略帝の歌と対峙する巻一の最終歌は、どの歌だったのでしょうね。

 話は飛びますが、大伴家持が後期万葉集を編纂したと云われていますが、その最終歌「巻二十・4516 新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけよごと」となっています。家持は因幡守として詠んでいますが、この時の家持は失意のどん底にいました。それでも、寿歌を以って新年と国の平安を歌で祈り万葉集の最終歌としたのでした。なぜ、彼はこのように寿歌を持ってきたのでしょうか。

 それは、「初期万葉集」がそのような編集の仕方になっていたからです。彼は、人麻呂が編集したその形式を踏襲したと思うのです。後期万葉集の編纂・編集の仕方を見ると、初期万葉集の編纂編集の方向が見えると思います。
 わたしは、巻一は堂々と王統の歴史を語っていたと思いますから、雄略・舒明・皇極・(孝徳)・天智・天武・持統・文武の御代の歌が並んでいたと、思います。

巻一の冒頭歌をはじめて読んだ時、雄略天皇という存在がか細く思えたのでした。万葉集釋注(伊藤博著)では次のように解されています。
「おお、籠(かご)、立派な籠を持って、おお掘串(ふくし)、立派な掘串を持って、ここわたしの岡で名を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。幸(さき)わうこの大和の国は、くまなくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。」

泊瀬朝倉宮天皇は、自分こそが大和を平らげていると娘さんに告げていますから、大和を統治していたのでしょう。でも、飛鳥にはまだ入っていなかったと云うことですかね。次の舒明天皇の歌を読むかぎり、そう云うことになりますね。
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日本書紀で雄略天皇の系譜をおさらいしてみよう
スタートは応神天皇でした。



応神 九州より攻め上る。忍熊、香坂皇子と戦って王位を奪う。
仁徳 大鷦鷯(おほさざき)天皇。菟道稚郎子の自殺により即位。
履中 去来穂別(いざほわけ)天皇。母、城襲津彦の娘・磐之媛。住江仲皇子の謀反。磐余の若桜宮に即位。平群・蘇我・物部が仕える。筑紫の三女神「どうして我が民を奪ったのか。わたしは今、お前をはじいらせよう」車持君が筑紫で罪を犯す(何故か、九州の神の話
反正 瑞歯別(みずはわけ)天皇。履中帝の同母弟。河内の丹比(たじひ)を都とする。柴籬宮(柴垣の宮)
允恭 雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)天皇。反正天皇の同母弟。太子木軽皇子の逸話(同母妹との姦通罪により追い詰められ自殺)
安康 穴穂天皇。木軽皇子の事件により即位。叔父の大草香皇子を殺し、その妻の中蒂姫(なかしひめ)を皇后に据え、その連れ子の眉輪王に殺される。
雄略 大泊瀬幼武天皇。吉備上道臣田狭を任那にやり、その妻を奪う。皇位継承者を次々に殺害。
清寧 白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの)天皇。母は、城韓媛。雄略帝の妃であった吉備の稚媛(もと吉備上道臣田狭の妻)が子(星川皇子)をそそのかし謀反を企てたが、共に焼き殺される。
顕宗 弘計(をけ)天皇 父親を殺され兄(仁賢)と与謝郡に逃げる。

仁賢 憶計(おけ)天皇。諱は大脚(おほし)、またの名は大爲(おほす)*旧本による。字名は島郎子(しまのいらつこ)、穴穂天皇(安康天皇)が崩御した時、丹波の余社郡(よさのこほり)に避難した。
武烈 無道の限りを尽くした (断絶) 


ふむふむ、なかなか大変な顔ぶれですね。ただ、此の天皇の宮は、橿原・桜井・大阪・天理・奈良に京を作り、允恭天皇(明日香村所在不明)顕宗天皇は(明日香村八釣)明日香に宮があったとされていますが、所在地は不明です。陵墓は羽曳野市・堺市・藤井寺・北城郡・奈良市などになっています。此の王朝は、香具山の王朝とは直接には結びつかないようですね。
 しかしながら、万葉集の冒頭には雄略天皇の名があります。此処に、どんな意味があるのでしょうね。
明日は、舒明天皇の国見歌(万葉集巻一・2番歌)を読みます。

では、明日。
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by tizudesiru | 2018-05-22 00:10 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

倭王武は雄略天皇ではないが、応神・仁徳王朝は滅亡した

倭王武は雄略天皇ではない
前回のブログで、「倭王武は雄略天皇ではない」と書きました。更に、辛亥年は471年ではなく531年だとも書きました。最近の定説を否定しましたから、大方の人は「嘘だろう!」と思われたでしょう。ですが、

普通に「宋書」を読むと、倭王興が活躍した時期に471年は入ります。ですから、辛亥年が471年なら、稲荷山鉄剣にかかれた大王は「興」だとなるのです。(前回のブログ)
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「稲荷山古墳」鉄剣が秘めた古代の謎
ホントに、謎でしょうか。謎としたのは、歴史学者ではありませんか?
「宋書」に倭五王の記述があるので、日本書紀の編纂をする学者は参考にしたでしょう。でも、なぜか倭五王と対応する天皇は存在しません。なぜでしょうか? 「新羅本紀」にも侵攻したのは、倭人・倭兵と書かれていました。「三国史記」の中の『新羅本紀』は14世紀に編纂されたものです。歴史の流れを承知した上で、倭について「倭国・倭兵・倭人」と書き分けていて、すべてが倭国ではないのです。
つまり、「過去において新羅にたびたび侵攻した倭は、倭人であって倭国ではない」と発言してくれたのでした。

すると、「歴史上の某天皇が新羅に侵攻したのは事実であるが、ひとまず友好国として言及を避けた」というのでしょうか。
そうであれば、倭五王をいずれかの天皇に比定することはできるでしょう。その中で、倭王が大泊瀬稚武(オオハツセノワカタケル)天皇となります。

倭王興が活躍していたのは460~478年であり、辛亥年が定説どおり471年であるなら稲荷山鉄剣の「ワカタケル大王」は倭王興となる、自明のことです。倭王興=雄略天皇=ワカタケル大王

しかし、埼玉新聞社発刊の『稲荷山古墳』では、辛亥年=531年としています。
稲荷山鉄剣が発掘された当初は、ほとんどの学者が「辛亥年は531年」を支持していたのです。
531年なら、倭王興とワカタケル大王は時代がずれるので別人です。
倭王(478~)がワカタケル大王の可能性があるなら、定説の471年ではなく531年しかありません。

しかし、いつの間にか「辛亥年は471年で、倭王武は雄略天皇である」が定説になってしまいました。これが謎ですね。

金石文である埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文「辛亥年七月中」という干支は、歴史上の事実です。そこに「ワカタケル大王」という人名があるのなら、この大王も実在の人です。
この人が書紀の天皇の誰かと一致するのか、しないのか。王権の支配地域を考えるうえにも重要です。
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(稲荷山古墳)

中国の史書である「宋書」には、倭国王が五人登場しました。
ところが、五人そろって何処の誰だか分からないのです。この五人も書紀の天皇と一致するのかしないのか、重要です。
書紀の記述の年代は虚実ないまぜで、明らかに時代がずれていたりしますが、倭五王と対応するのなら中国の干支により実際の年代が導き出される可能性が高いからです。
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日本書紀の編纂には40年ほどかかったそうです。学者たちは、漢書・後漢書・三国志(魏志倭人伝)も宋書・隋書も読んだ上で編纂したでしょう。漢文を読める学者が、外国の史書を参考資料としながら日本書紀を編纂したと考えます。それらを参考にしなかったと考える方が無理でしょう。書紀の引用文には「〇書に曰」と出典が示され、百済本記や個人の日誌など実際に参考にされています。

それなのに、卑弥呼も倭五王もタリシホコも記紀には登場しません。これは変です。
四世紀には畿内の王権が列島を支配していたのなら、五,六世紀の倭五王が史書の中で行方不明になるわけはありません。
また、王権が列島に少なくとも二ヵ所以上あったにしても、倭王が史書から漏れることはないでしょう。敵対するなり、無視するなり、何らかの影響があるはずで、全く消えることはないと思います。

今回は倭王武の行方を捜していますが…
倭王興の弟で、478年に宋に上表した倭王武の行方

倭王武の前後には、日本史を揺るがしかねない大きな歴史の転換点がある、のです。
だからこそ、ここを素通りはできません。


雄略天皇の弟は、天皇になっていないのです。書紀編纂者が歴史を知っているなら、「興の弟の武が即位した」と天皇位の継承で臭わせるでしょう。しかし、「宋書」を読んでいても、「宋書」に合わせることはなかった。倭五王の皇統の存在を残さなかった…故意に残さなかったのかも知れません。
ここは大事なところです。

日本書紀の編纂者は、「宋書の五王と畿内王権は無関係という事実」と「もう一つの真実」を知っていた。だから、畿内の王権と直接の関係を造作しなかった、と思うのです。
其の真実とは、「倭五王の系譜は断絶した」こと、と思います。
倭五王の皇統は、倭王武の後、いくらも経たないうちに滅びた、と思うのです。
自然に滅びたのではなく、何らかの政変があったと。
では、五世紀末~六世紀初めに、政変があった?
 
それは、ありました。九州の「磐井の乱」です。

もう一つ、日本書紀の中で滅びたと思われる皇統は、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の皇統です。この皇統が、継体天皇にとって代わられるという事件が、六世紀の前半に起こりました。

さて、ここでまた問題です。わたしは、倭五王は畿内の天皇には見当たらないと書いてきました。倭王武の上表文から、倭王達は九州にいたのではないかと書きました。倭王が九州にいて、「磐井の乱」が九州で起こったのなら、「うちわもめ」のようなものだったのでしょうか。

すると、九州の事件「磐井の乱」と滅びた応神朝はどのようにかかわるのでしょうか。遠く離れて、連動するのでしょうか。

その辺りは、解決しなければなりません。

以前「宋書」倭国伝の武の上表文を読みました。
倭王が九州にいて、上表文の通りだとすると、478年まで畿内への東遷はなかったことになると、書きました。武が「治天下」を目指したのは、478年以降だとも書きました。

日本書紀は自ら「雄略天皇は倭王興である」として、武だとは書いていません。一方では「列島は近畿の王に九州から関東までに支配されていた」ように書かれています。

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では、滅びた応神天皇の皇統について見直しましょうね。
また、次回。

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by tizudesiru | 2018-04-03 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王武は雄略天皇ではない

倭王興の選択も、やはり宋の冊封体制だった
倭王讃・珍・済まで見てきました。
彼らが望んだのは、宋の臣下となることではありません。友好国・百済の為に、半島で優位な位置を占めることでした。
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今回は、倭王興(460~478在位)についてです。
興は、済の世子でした。
倭王興も、即位した同年に宋に貢献しました。二年後、「安東将軍倭国王」を授与されますが、対立する高句麗は「車騎大将軍開府儀同三司」を授かりました。
開府儀同三司とは、独自に「府」を開き役職を作り自国を経営することができる地位でした。
倭王興としては、高句麗に先を越されて非常に残念だったでしょうね。

倭王興の時代は、書紀の雄略天皇の時代と重なるのです。では、興は雄略天皇でしょうか。
年表の続きを見ましょう。『稲荷山鉄剣』には、後で触れます。

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474・475・479年は、日本書紀の雄略紀の記事です。
481・487・490・492・493・498・501・504
は、清寧紀、顕宗紀、仁賢紀、武烈紀の記事です。雄略天皇が没した後、20年間に四人の天皇が即位しています。
ここで、皇位継承の問題が生じたということでしょう。
他の472・477・478・502年は、中国の史書の記事です。


では、倭王興は何天皇でしょう
460年、倭王済没し、倭王興立つ。
462年、宋が倭王興に「安東将軍倭国王」を授ける
同 年、倭人が活開城を襲い、一千名を連れ去る
463年、倭人が歃良城を攻めるが、勝てずに去る
(471年、稲荷山古墳の鉄剣銘文・辛亥年)
476年、倭人が東辺を攻める
477年、倭人が五道に侵入し、功なく帰る

同 年、倭国、宋に遣使、方物を献ずる
478年、倭王興没し、倭王武立つ
(479年、雄略天皇没す・日本書紀)

これまでの倭王と同じことを繰り返し、興は力尽きたようです。

日本書紀では、雄略天皇は479年に没したことになっています。雄略天皇の没年記事は、倭王興と一年ずれていますがほぼ合致した記述なのでしょう。
日本書紀の記述「雄略天皇」と、宗書「倭王興」とは同一人物ということです。つまり、雄略天皇は倭王武ではないのです。

すると、ややこしくなるので、確認します
「ワカタケル大王」とかかれた稲荷山鉄剣「辛亥年=471年?」の大王は、倭王興だとなります。稲荷山鉄剣の銘文は、歴史の事実を伝えていますから辛亥年が471年なら、宋書の「倭王興」以外に該当者はありません。
これは、ごく自然な宋書の読み方です。

更に、「ワカタケル大王」という号から「武」という中国風名称が導き出されたという、これも、倭王「興」では、成立しません。

では、宋書に書かれた「倭王武(478~)」は、誰でしょうか。雄略天皇の次の天皇は次々に交代しますが、清寧天皇でしょうか。ですが、清寧天皇は雄略天皇の第三子で、弟ではありません。

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稲荷山鉄剣を副葬した被葬者が心から仕えたワカタケル大王は、「治天下大王」でした。天子となった大王なのです。だから、倭王興ではないでしょう。では、倭王武が治天下大王なのでしょうか。

宋書「倭王武」と、稲荷山鉄剣が指し示す「ワカタケル大王」は、ともに実在しています。同一人物かどうかは分かりませんが。

稲荷山鉄剣の「辛亥年」が
辛亥年=531年となると、事態は大きく変わります

わたしは、531年であると、以前からこのブログで書いてきました。


稲荷山鉄剣のワカタケル大王は、531年には既に没しています。多くの学者がそのように銘文を「過去形」で読んでいますから。その亡き大王を偲んでいるのが、稲荷山古墳の被葬者なのです。

その物語を再度確認しなければなりませんね。

それは、次回。
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参考までに、新羅本紀の記事の年表を載せました。

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by tizudesiru | 2018-04-02 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇

「ワカタケル」は雄略天皇か

稲荷山古墳の被葬者は、獲加多支鹵大王に仕え助けたと書かれていました。獲加多支鹵大王とは雄略天皇の事でしょうか。
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(「稲荷山古墳・鉄剣が秘めた古代の謎」より写真と文章を抜き書きしました)

原島礼二
(埼玉大教授・古代史)わたしは「ワカタケル」は雄略でいいと思います。471年か、531年かはわからないけれども、皆さんのご意見を聞いていると471年の方がスムーズだなあという感じは受けていますけれども、最終的には古墳の問題もあるし(略)この「ワカタケル」をどうしても雄略であってはならないという問題が、逆に積極的に出されてくればどうなんでしょう。


柳田敏司
(埼玉県史編纂室・考古学)早稲田大学の水野祐先生は、これは雄略と解釈しなくていいんだ。大王というのは、地方の豪族でも名乗ったんだと。だから武蔵方面の豪族がこういうふうに名乗っても一向に差し支えないじゃないか、という説をとっていますよ。

 

斎藤忠(大正大学教授・考古学)全体を見ますと、これは雄略天皇と解釈するのが一番自然ではないか、これは一つの歴史の常識だとおもっているのですが。ただその場合、「寺」を最初は「やかた」というようなことで読んで、それが今まで続いているようですけれども、この「寺」とう言葉をなぜここに使ったかという疑問も出てきます。(略)(人偏をつけて)「侍る」とどうして読めないのか。

文献をやっている人は「ワカタケル大王に はべりて」では順序がおかしいと云うことです。

私は「ワカタケル大王にはべりて斯鬼宮に在りし時、吾天下を佐治しぬ」と読むと、いろんな点ですっきりすることがあるのではないか。


柳田
 「寺」という字は「ジ」とか「シ」とか読んで朝廷のことだという人と、人偏をつけて「はべる」と解すべきだと、二通りあります。


斎藤
 要するに、「ワカタケル大王の館」と「はべる」との場合は、「ヲワケオミ」が主人公になるんです。「ヲワケオミ」が「ワカタケル大王」に侍って斯鬼宮に在ったときに、私は天下を
(たす)け…ということです。


原島
 大王と当人の関係が少し変わってきますね。

柳田 「斯鬼宮に在った時」というんですが、この「斯鬼宮」をめぐってまた問題になっています。

 

黛弘道(学習院大学教授・古代史) それこそ埼玉県の「志木」だという古田説(古田武彦氏・古代史家)もありましたね。


金井塚良一
(埼玉県立歴史資料館・考古学) それは、遺跡の分布からいっても不可能でしょうね。


 (古田説は)東国に結び付けようとしているんですね。これは、(雄略天皇の)朝倉宮のことを「斯鬼宮」といったという方がオーソドックスですね。


柳田
 刀を向う(畿内)で作ったとなると、向こうでは(朝倉宮を)斯鬼宮と云っていたということになりますね。しかし、そういう遺跡もないと云うことになると…


斎藤
 岸氏辺りは、「斯鬼宮」を雄略天皇の時に考えてもいいと云うことでしょう。それと、その剣を一体どこで作ったかということです。象嵌の技術なり、剣を作る技術なり、剣を作る技術は東国でも十分あったと。しかし、あの百十五の銘文を作らせて、あそこに彫らせた技術はやはり畿内でなければできない。そこに当然渡来人というか、帰化人というか、そういう人が文章を作った。そうしか考えられないと思うんです。


柳田
 すると、「斯鬼宮」は大体、畿内にあった。そして、「天下を佐治した」と。また、「百錬利刀」というのは、一種の決まり文句ですよね。


斎藤
 最後のところですが、「吾奉事の根記す也」と、これが一つの疑問を持たれたのは、江田船山古墳の場合は、書く者は、作る者は、と帰化人の名前が出ているんです。これと同じではないかということで「根」は名前ではないかというのですが、江田船山の銘文の内容とこの剣の内容は違うと思うのです。


斎藤
 あれを持っている人がおめでたいという吉祥的なことで、今度(稲荷山)の場合は自分の系譜、それから歴代の身分、地位、それから「天下を佐治する」ということ。よくよくのことだと思うのです、この銘文を書いたということは。

(略)

金井塚 李進熙氏(明治大学講師)が盛んに言われていますけれど、おそらく百済系の渡来人達がこの字を最初に伝えたのだろうと。その場合、呉音でどう読むかということも検討する必要があるといわれている。

呉音

古代の漢字が伝わった初期の字音を平安時代に「呉音」と呼び、8世紀初頭に遣唐使が持ち帰った漢字の音を「漢音」と呼んでいる。要するに、呉音の方が古い音で、漢和辞典には呉音・漢音の両方の読みが書かれている。対馬音は呉音のことで、唐音は漢音のことである。


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ちょっと待ってください
刀剣を作る技術は畿内にしかなかった、なんてどうしていえるのでしょうか?!
地方には技術がなかったからと断定して、だから畿内で作った刀だとなって、そうであれば斯鬼宮も畿内にあったのだろう。じゃあ、朝倉宮を実は斯鬼宮と呼んでいたんだ、と想像でいいのですか、歴史ではなく空想の世界の話になっているではありませんか!!
是では、学者の皆さんが事実に基づいて論議しているとは…言いにくいと思うのですが。
是でいいのですかねえ?

明日は、稲荷山古墳の築造時期についてのご意見を紹介しましょう。

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またまた、遅くなりましたが、明日のことです。
熊本の和水町で少しお話することになりました。
稲荷山古墳について少し触れられたらいいと思うのですが、場所が江田船山古墳のすぐそばの公民館ですから。
遅ればせながら、紹介させていただきました。


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by tizudesiru | 2017-08-19 13:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」

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