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「聖徳太子は阿毎多利思比(北)孤ではない」のテーマで歴史カフェ阿蘇

聖徳太子は誰もが知っている歴史上の人物なのに、いつどこでどんなことをしたのか、何処に生れて何処に陵墓があるのか、実際のところ何もわかりません。実在を疑う人もいるそうです。
確かに、「日出処の天子」として隋に国書をだした阿毎多利思北孤と聖徳太子は、立場や記述に大きなズレがあります。しかも、隋書には「有阿蘇山」と書かれていますから、近畿の人ですか? と、疑われますね。
聖徳太子の実在を示すとされる「釈迦三尊像」が法隆寺のご本尊です。この有名なご本尊について考えてみようというのが、8月8日の歴史カフェ・阿蘇でした。
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歴史カフェでは、法隆寺西院伽藍の金堂の本尊、「釈迦三尊像」の光背銘文と、同じく金堂の東の間の「薬師如来像」の光背銘文を読みました。長い間光背銘文の信憑性が問題になってきましたが、最近、三尊像が造仏される時に光背銘文が書かれたという説が、定説となったようです。
此の銘文を「歴史カフェ・阿蘇」で読みました。十数人で読むことができて、よかったです。
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この法皇は誰なのか、それを解く鍵を探したのでした。
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釈迦三尊像は623年(癸巳年)で、薬師如来像は607年(丁卯年)ですから、薬師如来が古いことになります。然し、造仏技術も様式も似てはいるけれど、薬師如来の方が新しいのです。更に、銘文の文言に東宮聖王とか大王天皇とか使用されていますが、それらは後世に使われた称号で、推古朝では使われていないという説がもっぱらです。
すると、なぜそのようなことが起こったのでしょうか。
それは、法隆寺が封戸を止められるという大変な局面に遭遇した時、「太子所縁の寺で用明天皇の為に造られた仏像も安置しているのだ」と、法隆寺が自ら主張したのではないかと言われています。
なるほど、そのような事情があれば、銘文をつくりあげるだろうな・・・

然し
しかも、その銘文が後世の造作であることを示唆するという皮肉にもなるのです。そして、聖徳太子と、アメノタリシホコ(アメノタリシヒコ)は別人であるということも示唆してしまうのです。
銘文が当時の物であれば、銘文の中身は大変な重みのあるものとなりますね。


古いはずの薬師如来に使われた「天皇」「東宮聖王」は、新しい時代の言葉ではありませんか。薬師如来像の造仏技術も様式も新しいそうですから。
ふうむ、すると、やはり後の時代の仏像だと云うことですね。
ブログに「歴史カフェ」の紹介をしていましが、それを読んで大阪から徳永さんが来てくださいました。以前、「歴史カフェ」で紹介した「外道まんだら」(不知火書房)の著者です。大変驚きましたし、はじめてお目にかかりうれしかったです。参加者には初対面の方もいらしたし、懐かしい方もおられました。福岡・菊池・熊本・阿蘇と、様々なところからきてくださいました。

ほんとうにありがとうございました。 

よかったら、8月22日もお出でいただいたら嬉しいです。
熊本県阿蘇郡西原村1805-1です。車は、平田庵というお蕎麦屋さんの駐車場に止めることができます。



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by tizudesiru | 2018-08-11 22:05 | 353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」 | Trackback

法隆寺・釈迦三尊に残る日出処天子の実像

日出処天子・其の姿が残る!
1400年前の御姿が残されているんです!!
法隆寺のご本尊・釈迦三尊像の光背に銘文

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釈迦三尊像は、法隆寺の御本尊
釈迦三尊像は尺寸王身に造られた上宮法皇の御姿
西暦621年12月鬼、前太后が死去し、翌年(622年)正月22日に上宮法皇が病に倒れました。干食王后は看病に疲れ、並んで床につかれたので、これを憂いた王后王子と諸臣たちは、法皇の等身大の釈迦像を作ることを発願しました。

上宮法皇!? ちょっと待ってください。

では、この方は聖徳太子ではありません。法皇とは、大王になった人が出家した後に号するものではありませんか。厩戸皇子は太子でしたから、大王にはなっていないのです。
622年あたりで大王だったのは推古帝です。
それに、この大王は「法興」という年号も持っています。この年号は「私年号」とされています。自分勝手に作った年号という意味です。


上宮法皇は自分勝手に年号を作っていた、のでしょうか
自分の年号を建てることができるのは、天子のみです。それまでは干支を使って、中国の天子の年号を使うことで臣下の態度をとっていたのです。日出処天子と称した以上は、日没処天子と対等の立場で年号を持っていた、のではないでしょうか。

私年号」について
年号として、書紀に「大化・白雉(孝徳帝)、朱鳥(天武・持統帝)」など、時々記録されていることはありますが、今日まで続く年号が始まるのは、大宝(文武天皇・701年)からです。それも「続日本紀」には、「はじめて年号を建てた」と書かれています。それまでの王朝は、年号を持たなかったということです。ですから、「法興」はなかったとされるのです。(しかし、九州でも大宝より古い時代の年号が、寺社の由緒書きなどに伝わっていますし、最近も「九州年号」と呼ばれる年号の一覧が旧家の蔵から見つかっています。)
書紀に記載がない年号は、すべて私年号なのです。
聖徳太子は大王にもならなかったけれど法皇と号し、天子にもならなかったけれど年号を持っていた、天子のつもりになっていた、なんてありえません。
隋書によれば、タリシホコは裴世清に会っています。隋国の使者をごまかせるはずはありません。
天智天皇が立てた金堂のご本尊の光背に、「法興」はあるのです。
ですから、法隆寺の釈迦三尊光背の銘文が、なかった年号を自作自演しているとは思えません。
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年号を建てた王朝があったのです!それは何処に?
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開皇20年、タリシホコは隋に遣使を出しました。百済から仏経を得て文字を使い始めていたのですね。阿蘇山が紹介されていました。

良好な関係で始まった外交だったでしょうに、煬帝が即位して三年、大業三年(607)タリシホコは対等な「天子」としての国書を出してしまったのでした。
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「蛮夷の書、無礼なる者(こと)あり。復た以って聞するなかれ」
次の年、煬帝は文林朗裴世清(裴清)を俀(倭)国に派遣しました。裴清に相見したタリシホコは大いに悦んだのでした。
が、その後、国交は絶えました。


日本書紀には国交が絶えたとは書かれていません。
すると、やはり聖徳太子とタリシホコは別人です

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尺寸王身・王の肉体と同じ大きさの仏を作る!
そんな文化圏は何処にあったのでしょう? 
それは、阿蘇山のある九州の文化だった。すると、永い間秘仏とされた「救世観音」も聖徳太子の御姿を写したという伝承も理解できますし、クスで造られているのですから、九州で造られた仏像に違いないでしょう。俀国(倭国)は九州にあった、これが此処で辿りつける結論です。

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釈迦三尊像の銘文は、まだ残りがあります。それによると、止利仏師が出てくるのです。飛鳥大仏を造ったという止利仏師でしょうか。

次は、明日香と法隆寺の関係も考えなければなりませんね。



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by tizudesiru | 2017-12-19 01:03 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代

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