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間人皇后伝承の拡散・安珍と清姫

間人皇后伝承は衣通姫伝承と合体した
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今日も、間人皇后について、もう少し捕捉説明をさせてください。前回の衣通姫に関わることです。
和歌山県の玉津嶋神社の御祭神
のことは、カテゴリ242「紀伊国・玉津嶋神社」のところで紹介しました。(『玉津島神社の春・衣通姫の歌』など)

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不思議なことに、玉津嶋神社のご祭神は「海の神様」ではありません、玉津嶋は古代には海に浮かぶ島だったのに、です。最初に祭られたのは「稚日女尊(わかひるめのみこと)=丹生都比女神」で「丹生=水銀朱の神」であったのでしょうか。そこに「息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」が加わり、聖武天皇が「明光浦靈(あかのうらのみたま)」を祀らせ、第58代光孝天皇が「衣通姫尊(そとおりひめのみこと)」を祀らせたとなっています。衣通姫は新しい祭神なのです。


光孝天皇は皇位継承の争いを回避するために「衣通姫」を祀る

第58代光孝天皇(830~887)は、父は仁明天皇、母は藤原沢子。甥の陽成天皇が叔父の藤原基経により若くして廃位となり、光孝天皇は55歳での即位となりました。在位は4年(884~887)

光孝天皇は即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を継承させないことを決めていました。
然しながら、皇太子が確定しない内に光孝天皇は病に倒れ、臣籍降下していた源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌日には立太子。即日、光孝天皇の崩御となりました。御子の立太子は光孝天皇の意思だったかどうかわかりません。
むしろ、藤原基経が仲の悪かった妹(藤原高子)の子に即位させないための策だったのでしょう。

光孝天皇は自分の家族が皇位に着くことを望んでいなかった!
そんな光孝帝の夢枕に立った衣通姫、その歌は

立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波

一度は去ってしまったこの世に、またも戻って来て、生き直してみたい。和歌の浦とうれしい名前になった、そのなつかしい浦に寄せ来る波のように。

この衣通姫は書紀の允恭天皇の妃となった弟姫(皇后の妹)ではありません。古事記允恭記「軽太子と衣通王」の軽大郎女皇女のことです。軽太子は妹との姦通罪よりに皇位継承権を弟の穴穂皇子に奪われ自殺しました。

衣通姫の物語は書紀・古事記・万葉集で知られていましたから、聡明な光孝天皇は当然学んでいました。親族で殺し合うような愚かなことはしたくないと思っていたのです。
だから、極位に昇ることになった時、子女を臣籍に落としたのです。光孝天皇は皇位継承の殺し合いなど、自分の家族にはさせたくなかったのです。


だからこそ、
光孝天皇は紀伊国の玉津島神社を選び、衣通姫を祀りました。
なぜなら、そこは天武朝の聖地でした。天武朝のように政変で滅んではならないので、敢て政変で滅んだ衣通姫を選んだのです。
玉津嶋は持統天皇も立ちより、文武天皇も元正天皇も聖武天皇も立ち寄りました。聖武天皇と孝謙天皇は行宮として使いました。
山部赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさして鶴鳴き渡る」は、神亀元年の聖武天皇行幸の時の歌です。
有間皇子事件にもかかわる藤白坂は、目の前の名草山の奥の山にありました。

天武朝の天皇が玉津嶋を聖地にしていた理由は持統天皇の遺言
持統天皇が最後の紀伊国行幸で詠ませた十三首があるからです。「紀伊國に止まず往来(かよは)む 妻の杜 妻よし来せね 妻と言いながら」これは、遺言のような歌でした。
妻の杜の神様、紀伊国にはずっと通い続けるつもりです。あなたが妻の杜という名の通りなら、わたしの大事なあの人を連れて来て下さい。紀伊国に止まず通いますから、お願いです。

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約束通り、天武朝の人々は紀伊国に通いました。
だから、光孝天皇は玉津嶋神社で滅びた天武朝の霊魂を鎮めさせ、滅亡の危機にさらされている天智朝の繁栄を願ったのです。

もちろん、「万葉集」巻二の衣通姫が誰を指すのか、「間人皇后=中宮天皇」だと光孝天皇は承知していました。だから衣通姫は「和歌の神」となり、宮中では玉津嶋の衣通姫に歌を捧げたのです。

衣通姫が合祀された後、玉津島神社は「和歌三神」の一つとなり、後西帝、霊元帝、桜町帝、桃園帝、後桜町帝、後桃園帝、光格帝、仁孝帝の御代に、「法楽和歌会」と称し、玉津島の神に和歌を奉納する歌会が宮中で催されました。

女の執念が蛇となった・安珍と清姫

紀伊国・道成寺は、大宝元年(701年)に文武天皇が建立したといわれます。皇后の藤原宮子の願いを受け建立されたそうです。そうでしょうか? 
大宝元年(701)、文武天皇は持統太上天皇と紀伊国行幸をしました。それは、「紀伊國十三首」でも分かるように、有間皇子事件の所縁の地を訪ねる旅でした。
その後、道成寺の建立ですから、藤原宮子の為というより有間皇子の為だったのではないでしょうか。
道成寺の観音像の瞳は、まっすぐ有間皇子の墓とされる「岩内一号墳」を向いていると云うことです。文武天皇が持統天皇の案内でその墓を知ったとしたら、菩提を弔う寺を発願したでしょうね。

(宮子は聖武天皇を生むと産後の回復が進まず、この後三〇年以上吾子も抱けない状態だったのです。道成寺の「髪長姫伝説」はその辺のところを伝えるのでしょうか。)

さて、紀ノ國で起こった有間皇子事件は、人々の耳目を集めたことでしょう。しかし、人々は事の真相も顛末も十分に知っていたわけではありません。様々な噂話が拡散していたでしょうね。そこへ、道成寺の建立ですから、その噂話に火が付いたのではないでしょうか。それが、

紀伊国・道成寺の伝承・安珍と清姫の物語となった


と思います。安珍が有間皇子で、清姫が間人皇后です。約束を交わした男が逃げるので、女が執念で追いかけ、遂には愛する男を殺してしまうという…物語に変化していったと、思うのです。

有間皇子事件は、大きな政変でした。王家の人々が有間皇子事件を繰り返し思い出し戒めとしても、藤原氏の抗争に巻き込まれました。その中で、和歌に親しむことは慰めだったでしょうね。
では、また。

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by tizudesiru | 2018-01-19 02:26 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

間人皇后の華麗なる生涯・光と影

間人皇女は十代で孝徳帝の皇后に立つ
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間人皇女は、舒明天皇と斉明天皇の間に生まれました。
乙巳の変(645)で蘇我氏本家が滅んだ時、中大兄皇子は十九歳の青年でした。間人皇女は中大兄の妹ですから、立后された時はうら若い乙女だったのです。孝徳天皇は推古五年(597)の生まれですから、間人皇女との結婚はかなりの年の差婚でした。高貴な姫君が恋をすることもなく、老人のもとへ輿入れしたと云うことです。
ですから、大人になるにつれて姫君の心は空しくなっていったでしょう。

華麗なる宮廷生活、しかし、皇女の心の空白は埋められなかった
白雉四年(653)、突然、兄の中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて倭京に帰る事態となりました。そこには孝徳天皇と中大兄皇子との確執もあったでしょう。それは、東宮=皇太子に関わる問題だったかも知れません。であれば、中大兄皇子は自分だけ倭京に帰ればいいのです。しかし、皇后まで連れ出したとは…これは犯罪です。
この状況を古代の視点ではなく現代の視点で見れば、皇后は孝徳朝での宮廷生活に苦しみ精神的な限界に来ていたということではないでしょうか。見かねた兄が救いの手を出した、それに母も賛同した、ということです。しかし、同時に、


皇后の家出は、政治の改革に努力していた孝徳天皇にはダメージだった
若い皇后を気遣う時間が少なかったとしても、孝徳天皇は皇后を大事にはしていたのです。ですが、基本的には対等の夫婦というより「金木つけ吾がかう駒は引き出せず」ですから、皇后は後宮の飾りの一つのようなものだったのでしょう。それが故に、皇后が家出したのです。前代未聞のことでしたから、孝徳天皇は激怒し極位を下りるとまで言い出しました。

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孝徳天皇の最後をみとった間人皇后の決断
白雉五年(654)、心労がたたり孝徳天皇は病に倒れました。中大兄皇子は皇后と共に見舞いに訪れます。そこで間人皇后の目に映ったのは、弱り果てた老いた天皇の姿だったでしょう。そこで、孝徳天皇は毅然として言ったはずです。

「□よ、あなたには大変つらい思いをさせた。しかしながら、あなたは皇后(大后)である。皇后である以上天皇(大王)亡き後は玉璽を守らなければならない。それを、次の天皇に継承するという役目がある。全てあなたの肩にかかる大事だが、あなたはやり通さなければならない。」*□は間人皇后の実名
間人皇后は改めて自分の置かれた立場を理解し、皇后として自覚したでしょう。そこで、「後宮」が次の天皇に引き継がれることも確認したと思います。大勢の役人も後宮の女官もお払い箱にはなりません。
皇后が明日香に戻ったという記事はありませんから、間人皇后は改めて「皇后」になる決心をしたと思います。次の天皇がすべてを引き継ぐまで。
この時、東宮=皇太子は誰だったのでしょう。中大兄皇子が難波宮を去った時に東宮がどうなったのか、書紀には書かれていません。が、有間皇子が皇太子になっていたと思われます。


「後宮」の間人皇后を支えたのは有間皇子だった
皇后が帰ってきても、天皇崩御ともなれば役人も女官も複雑な思いだったでしょうね。そこで、中宮天皇となった間人皇后を支えたのは皇太子=有間皇子だったと思います。万葉集で中皇命は有間皇子を「吾が背子」と詠んだのですから、かなり近しい間柄だったと思います。

しかし、中大兄皇子から見れば由々しき事態です。妹が中宮天皇となったことには異存はなかったでしょうが、孝徳帝の息子にすべてが移譲されることは納得できなかったでしょう。
そこで、皇后=中宮天皇への不敬罪・不謹慎な行為が取り上げられたと考えます。連行された有間皇子に対して中皇命=中宮天皇は、何とか助けたいと「孝徳天皇の遺詔」を以って追いかけたから「紀伊国に往す」となったのです。

万葉集巻二の冒頭歌・磐姫皇后の「難波天皇を待ち続ける歌」は、この事件を暗示しているのです。難波天皇が連行された理由は、前歌に続く
軽太郎皇女の歌が示すように「禁断の愛」だったでしょう。磐姫皇后と軽太郎皇女の歌は、偶然並んだのではありません。難波高津宮天皇とは、後に贈られた有間皇子の諡号かも知れませんね。
(また、有間皇子の父・孝徳天皇は、皇子とよばれました。木梨皇子や太郎女皇女とも「」という名で有間皇子事件を引き出そうとしていると思います。)
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(丹後半島・間人の祭り)
有間皇子事件後、間人皇后は間人(たいざ)に身を隠した
丹後半島の間人(たいざ)には、聖徳太子の母・穴穂部間人皇后が身を隠したという伝承があると紹介しました。それも、聖徳太子の母ではなく、孝徳朝の間人皇后の伝承ではないかと書きました。聖徳太子信仰の高まりの中で、間人皇后に「穴穂部」が付いたと云うことです。「御所・中宮」と付く場所が伝承地として残されていることもありますから、ここに高貴な女性が来られたのは事実でしょう。
さて、どちらの皇后でしょう。まず、穴穂部間人皇后ですが、弟の穴穂部皇子が物部守屋に三輪君親子を殺させたり(586)、守屋と組んでいた中臣勝美が殺されたり(587)と、物部蘇我の争いが続きました。穴穂部皇子が馬子に殺され(587)、遂に物部守屋も蘇我氏との戦いに敗死(587)しました。この間、用明天皇が崩御(587)し、崇峻天皇が即位(587)しました。穴穂部皇子も泊瀬部皇子(崇峻天皇)も穴穂部間人皇后の弟です。夫が病気・弟が皇位継承の時期に、一人丹後半島に避難したと云うことですかね。
孝徳朝の間人皇后は、有間皇子が殺害された(658)後、中宮天皇として玉璽を持って逃げたとしたら、その住まいは「御所」と呼ばれ、「中宮」と崇められたことでしょう。こちらが、より伝承に近づくと思います。そして、伝承は拡散し膨らんでいったのです。

物語や伝承は、どんどん膨らんんでいく
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万葉集巻十三に木梨軽皇子の歌が掲載されています。3263番歌ですが、「古事記」の允恭記の「軽太子と衣通姫」の歌謡にそっくりです。少し違っているのは「国にも 家にもゆかめ 誰がゆえか行かむ」のところで、古事記では「家にも行かめ 国をも偲はめ」となっています。古事記には、「反歌」「或本の反歌」は有りません。後期万葉集の巻十三が編集された時、古事記(712年完成)は既に出来上がっていますから、古事記の歌謡をもとに造られた物語歌ですね。。古事記では上の長歌の後に「かく歌ひて、すなはち共に自ら死にたまひき」となっています。軽太子の悲劇をなぞりながら、人々は少しずつお話を付け加えていくのですね。後期万葉集になると、叙事詩にかなり脚色がなされるようです。

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by tizudesiru | 2018-01-17 21:08 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

間人皇后の愛・君が代も吾が代も知るや磐代の

中皇命は有間皇子を愛した中宮天皇
前回の「難波天皇の運命の人・間人皇后」が長くて分かりにくかったようなので、少し説明を捕捉しますので、過去のブログを思い出していただきたいと思います。

10 君之齒母 吾代毛所知 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名(君がよも 吾代もしるや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな)

ドラマチックなこの歌は、将に政変の歌であり、悲恋の歌でもありました。それも、万葉集の巻一の10番歌なのです。万葉集の重要な位置にあり、人麻呂が十分に配慮と校正を重ねた痕が残る部分なのです。万葉集の巻一が巻九と響き合うように構成されていることは、「紀伊國行幸の十三首」のところで既に書きました。
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中皇命は、紀伊温泉(きのゆ)に、斉明帝の行幸について行ったのではありません。目的があって自ら往(いでま)したのです。そこで詠まれた三首から一人の男性が浮かび上がりました。その人は「神に祈らねばおれない局面に立たされている人・それも命の危険にさらされていて、仮廬に夜を明かす旅寝の状況にある人」であり、「仮廬をお造りになるなら小松の下の草をお刈りくださいませ」と、中皇命が敬語を以って対する高貴な人であると読むことができました。

「吾が背子」が誰を意味するのか。有間皇子以外に選択肢はありません。間人皇后が中大兄の恋人という説で、兄に対して「貴方や私がいつまで生きるか分からないから」とか、「仮廬をお造りくださいませ」とか、詠んだとして、これらの歌の緊迫感と悲壮感は理解できません。中皇命がわざわざ紀伊国に出向いて歌を詠む意味も必要もありません。まして、草を結んで神に祈ろうなど、今を時めく中大兄皇子には不要です。
このように、中皇命の歌が有間皇子事件の時に詠まれたものであることは、何度も紹介したのです。それも、有間皇子を思って追いかけて来た間人皇后が詠んだ歌だと。
更に、今回、もう少し踏み込んだ紹介をしたいと思います。

更に、「岡の草根をいざ結びてな」という誘いに応じたのは、万葉集中にただ一首「磐代の濱松が枝を引き結び」と応えた有間皇子の歌以外にありません。中皇命の歌と有間皇子の歌は、本来は「相聞歌」ではなかったでしょうか。お互いの消息や愛を確かめる相聞歌です。しかし、「相聞」に掲載されなくて「雑歌」と「挽歌」に引き裂かれています。が、本来は並べられていたと思われます。人麻呂は並べていたと。
しかし、平城天皇に編纂を任された学者達がおもんばかって(忖度して)入れ替え差し替えたと思うのです。
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試しに有間皇子の自傷歌と、巻九の冒頭から二首目に置かれていた不思議な歌(1665歌)を並べてみました。1665番かは「岡本宮御宇天皇(斉明天皇)紀伊国に幸す時の歌」と題詞に有りますから、「妹が為吾玉拾う奥辺なる玉よせもち来奥津白浪」は、有間皇子事件の時、斉明帝と中大兄皇子が紀伊国にいた時の歌なのです。作者は未詳となっています。
そして、40年以上も経った大宝元年の持統太上天皇の「紀伊国行幸の時の十三首」の冒頭の歌に酷似しています。それが、次の歌です。
1667番歌「妹が為我玉もとむ おき辺なる白玉寄せ来 おきつ白浪
1667番歌は、1665番歌を意識して四十年以上も経った大宝元年に詠まれたのです。
紀伊国行幸の十三首の冒頭歌には、大きな意味があったでしょう。有間皇子の歌をそのまま「本歌取り」したと思うのです。
もちろん、紀伊国十三首の冒頭歌は、柿本人麻呂作だと思います。人麻呂でなくて、誰が冒頭歌に「有間皇子事件当時の歌」に似せた歌を掲載するでしょうか。
紀伊國行幸十三首は、有間皇子の歌を思い出すところから始まったのです。もともとは、見事な編集になっていたのでしょう。
しかし、現在の万葉集ではわかりにくくなっている…

ここに、のちの世の編集の作為や意図が見えませんか?


万葉集はあまりによくできた「魂鎮めの歌集」でした。非業の最後を遂げた有間皇子(難波天皇)の霊魂を慰め、皇子を追いかけた間人皇后の愛と献身に応えた歌集です。その歌集の編纂を望んだ人は、有間皇子・間人皇后に所縁の人、そう結論する以外にないのです。
明日も、もう少し捕捉する予定です。


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by tizudesiru | 2018-01-16 22:17 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

難波天皇と持統天皇の運命の人・間人皇后

持統天皇の難波宮行幸

持統天皇と難波宮とは深い因縁があるということでしょう。

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朱鳥元年に前期難波宮は全焼したと書かれていますし、発掘の結果でも掘立柱の焼け跡が確認されています。その後に建てかえられたのでしょう。持統天皇即位以後も、節目ごとに各天皇の難波宮行幸がありました。各天皇と難波宮のかかわりを見ましょう。
白雉三年~五年(652~654)孝徳天皇の皇居(五年に崩御)
斉明六年十二月(660) 斉明天皇行幸(百済救援の武器をそろえるため) 
天武八年十一月(679) 天武天皇、羅城を築く
天武十二年十二月(683) 天武天皇、難波宮を第一の陪都と定める
朱鳥元年正月(686) 難波宮全焼

持統六年四月(692) 有位の親王以下、少初位下相当に至るまでに、難波大蔵の鋤を賜う
持統□年 (69□)  持統太上天皇行幸(万葉集に行幸時の歌あり)
文武三年ー~二月(699) 文武天皇行幸(大宝令成定の前年)
慶雲三年九月(706) 文武天皇行幸(崩御の前年)
養老元年二月(717) 元正天皇行幸(即位三年目)
神亀二年十月(725) 聖武天皇行幸(即位二年目)
神亀四年二月(727) 聖武天皇、難波宮を造営(後期難波宮)

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難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、白雉三年(652)に完成しました。この都は経済的・政治的な面だけではなく、外交の面からも重要な港を持ち、選び抜かれた本格的な皇都だったのでした。「乙巳の変」後の新しい政治を象徴する都だったのです。
この皇都から、白雉四年に中大兄は母(斉明天皇)と妹(間人皇后)や役人らを率いて倭京に帰っています。東宮という立場でありながら、天皇の皇后まで連れて倭京に帰るとは、異常事態です。(天智天皇は難波宮を捨てたのです。だから、持統天皇が難波宮を重視するのは天智天皇との関わりからではありません。他に理由があるのです)
中大兄皇子の倭京への引き上げは、孝徳天皇にも信じられない状況でした。
孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が書紀にありましたね。
金木つけ 吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか
後宮の皇后を連れ出せる人とは、それは誰なのか、様々に取りざたされました。間人皇后と中大兄皇子が恋仲だったという説もあります。翌年の白雉五年に孝徳天皇が病に倒れたので、間人皇后は中大兄と難波宮に天皇を見舞いました。皇后はそのまま難波宮に残ったのでしょう。玉璽を預かり中宮天皇となったのですから。

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中宮天皇の存在については、これまでも紹介してきました。
難波宮天皇(孝徳天皇)は病が重篤となった時、間人皇后(はしひとのこうごう)=中宮天皇に玉璽を渡したので、「玉璽を持たない天智天皇は、中宮天皇が薨去するまで極位につけなかった」といいました。
また、中宮天皇の実在は、野中寺の小さな仏像の「野中寺弥勒菩薩半跏像銘(やちゅうじみろくぼさつはんかぞうめい」文の干支で確認されています
。この銘文の中宮天皇として斉明天皇と間人皇后が考えられていますが、さて銘文は、母の斉明帝(661年没)、娘の間人皇后(665年没)のどちらを指すのでしょうか。「丙寅年四月大旧癸卯」の丙寅癸卯が重なるのは、天智五年(666)だけです。
しかし、二人の没年を見ると、天智五年(666)に病気平癒をねがったのなら、どちらも没しているので該当しません。では、銘文を読みましょう。

丙寅(ひのえとら)四月大旧(だいきゅう)八日 癸卯開に記す。栢寺(かしわてら)の知識等、中宮天皇の大御身、労(いたづ)き坐(ま)しし時にいたり、誓願し奉る弥勒像也。友等人数一百十八、是に依りて六道の四生の人等、此の数に相(あ)うべき也。

「栢寺」について*何処にあったのか不明です。
「大旧」について*持統四年に採用された新暦では四月は29日で、旧暦(元嘉暦)では30日となり、29日を「小の月」30日を「大の月」ということで、「大旧」とは「四月が旧暦では大の月だった」という意味だそうです。(では、旧暦と新暦が同時に使われている時期に銘文が彫られた弥勒像だとなりますね。すると、銘文は持統四年より後の時代のものです。)
癸卯開の「開」について*「開」は暦用語で、造営・治病に良いとされる日だそうです。

「大旧」が「旧暦の大の月」であれば、銘文が持統四年より後に彫られたとなり、中宮天皇の病が重篤になった時に像が作られ、銘文はその後に由来を知る人により彫り込まれたとなりますね。では、誰が彫ったのか。そもそもどなたの病気平癒を願って、誰が造らせたものなのでしょう。
仏像が間人皇后のために造られたのであれば、天智天皇の時代の誰か、中宮天皇の身近な人が造ったとなりましょう。さて、間人皇后の没年ですが、野中寺の銘文が正しいとすると、書紀の没年とは一年ずれることになりますが、そのずれの原因は書紀の記述の混乱かも知れません。その例を書紀から探してみましょう。

日本書紀の斉明紀・天智紀には一年ずれる重出記事がある
一つ例を挙げてみました。
斉明六年(660)の十二月に、斉明天皇は難波宮に行幸しますが、それは百済救援のための武器を調達するためでした。660年に百済の王たちは唐に連行されていますから、事実上百済は滅びました。王家の血族でもあった鬼室福伸が救援軍を要請したので、斉明帝が難波行幸したとなっています。そして、七年(661)の正月に出航して三月に筑紫の娜大津(なのおおつ)に到着するのです。(斉明帝の行動が早すぎます。)
高句麗の僧・道顕の「日本世記」によれば、七年(661)四月に鬼室福伸より「王子・豊璋を迎えることを乞う」と使いが来ています。斉明天皇は朝倉宮に遷り、七月には崩御となるのです。中大兄皇子が称制し、九月に豊璋に五千の護衛の兵をつけて百済に送りました。そして、明日香に戻り、天皇の殯宮は川原宮で行われました。一旦、明日香に引き揚げたということです。(この後、中大兄皇子は筑紫に行かなかったのでしょうか)
天智一年(662)五月に安曇比羅夫が軍船百七十艘を率い、
豊璋を百済に送りました。
百済の王子・豊璋は百済に二度も帰国したことになります。
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(福岡の恵蘇八幡神社・木の丸殿の址といわれています)

書紀の記述に重出があることはよく知られています。記録が二重にあって、どちらが正しいか分からないのでしょうか。そうであれば時期の整合性も無くなります。わたしは「間人皇后の没年記事も、一年早いのではないか」と思うのです。
斉明天皇の筑紫への征西(661正月)は早すぎます。難波宮で調達した武器はあっても、船も兵もないのです。書紀では、百済救援の武器を修繕し、船舶を準備し、軍兵の食料を蓄えるのは、天智一年(662)になっています。二万七千人の出兵は天智二年(663)のことです。


間人皇后の没年は正確ではない可能性があると思うのです。
野中寺の仏像は、中宮天皇の関係者が病気平癒を弥勒像に祈ったか、平癒を願って仏像を造らせたか、です。白村江敗戦後に手に入れた仏像に、中宮天皇の病気平癒を祈っただけかも知れません。その事を後の時代になって、「この仏像には高貴な方との特別な関わりがあることを忘れてはならない」として彫らせたものかも知れません。仏像と銘文の製作は一致しないと思うのです。ただ、中宮天皇という女性の実在は動かせないのです。

中宮天皇は誰だったのか、それが問題です。万葉集には「中宮天皇」という言葉はありません。中皇命とはありますが、それは、間人皇后を置いてほかにはないのです。玉璽を預かる立場の后と考えるならば。

他に、中皇命と同じ立場の女性を表す詞として、次のような資料があります。
「仲天皇」・天平九年『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』天智后倭大后
「中都天皇」・『続紀』巻三〇、神護景雲三年十月詔  草壁皇子妃、のち元明天皇
「中宮天皇」・河内野中寺弥勒菩薩像台座銘 (斉明天皇・間人皇后)


「中・仲・中都・中宮」天皇という言葉には、中継ぎとして玉璽を受け継ぐべき立場の女性という意味があります。しかも、間人皇后=中皇命=中宮天皇 を指すという、理由がまだ野中寺にあります。
この寺は「中の太子」と呼ばれ、「聖徳太子の命によって蘇我馬子が建立した」と伝えられています。叡福寺が「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺が「下の太子」と呼ばれています。この辺りを本拠地としていた船史(ふなのふひと)氏の氏寺として創建されたそうです。創建当時は、東西に金堂と塔が並ぶ伽藍であったそうです。
百済系渡来人の船史氏の寺が、何ゆえ「聖徳太子と結びついた」のでしょう。ここで、叡福寺古墳の三骨一廟が思い出されます。穴穂部間人皇后が共に埋葬されているという伝承です。この事は以前にも書きました。(穴穂部間人皇后は、義理の息子と再婚しているのです。聖徳太子の母として同じ墓に入る理由はうすいのです。既に、大后ではありません。玉璽を預かる立場ではないのです。)
最近のブログで、叡福寺古墳は孝徳天皇と間人皇后と斉明天皇の墓であると紹介しました。そうです、同じ間人皇后に関わるのです。野中寺は間人皇后の病気平癒を願い、薨去の後は菩提を弔ったのかも知れません。聖徳太子信仰の高まりにより、同じ名を持つ間人皇后の関係で「中の太子」と呼ばれるようになったのでしょう。
伝承には深い意味があると思います。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸した

行幸の目的は、亡き難波天皇への報告ではないでしょうか。いよいよ律令が完成し、元号も建てることになりましたと、それまでの天皇ができなかった建元をしたのです。画期的な事だったはずです。だからこそ、文武天皇も行幸したのです。
前回に万葉集巻二の冒頭歌の題詞に出てくる「難波高津宮天皇」について紹介しました。
この難波天皇は、大方の解説者のいうように「仁徳天皇、または孝徳天皇」とは考えられないと書きました。難波天皇は「ある日出かけたまま帰って来ない天皇」で、その帰りを待ち続ける皇后(磐姫)がいて、「白髪になるまでも待ち続けよう」という歌でした。続く軽太郎女皇女の歌は、皇位継承事件を詠んだものでした。「皇太子が行ってしまってから日が経ってしまったが、迎えに行こう、待ち続けることはできない。」と進みだした歌でした。
巻二の冒頭歌六首は、有間皇子事件を知らしめる歌だった。そのように編集されたのが巻二だったのです。と、紹介しています。


難波天皇に所縁の深い乙女(持統天皇)を救ったのは、中皇命(中宮天皇)を置いて、他にはないでしょう。将に、中皇命が持統天皇の命運を握り、守ったと思います。なぜなら、愛する人の忘れ形見だったから、ではありませんか。

持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に残されているのです。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸していますから
難波宮とは深い因縁があったということです。この深い因縁は尋常ではありません。歴史の闇に取り残された事実を、「万葉集・野中寺の仏像・難波宮への行幸」が語り続けていると思います。


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by tizudesiru | 2018-01-16 03:04 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

万葉集巻二の難波天皇・持統天皇の出自を暗示する

皇都の遷都は政変と重なる
欽明・敏達・推古・舒明帝の時代は、大王の館が政治の中心でしたから皇居は次々に変わりました。が、難波宮・近江京・藤原宮・平城京・長岡京・平安京などの遷都は、いずれも政治の転換点であり、政変が絡んでいました。また、最初の皇都である孝徳天皇の難波宮(652年完成)は、先達として後世の都のモデルとなりました。天武十二年(683年)、天武天皇は難波宮を第一の陪都と定めました。難波宮に持統天皇や文武天皇が何度も行幸しましたが、それは何を意味したのでしょうか。藤原宮は難波宮をモデルに作られたのです。朝堂院内の堂の並びや数、敷地の東西の幅など、両者には共通点があります。高市皇子や持統帝の意思で作られた藤原宮には難波宮への特別な思いが窺えますが、それは何ゆえに生まれたのでしょうか。
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難波宮大極殿と天香具山をラインでつなぐと、直線は藤原宮の大極殿を通りました。孝徳天皇が難波宮に暮らしたのは、白雉三年から五年の間(652~654)わずか二年です。藤原宮が難波宮を意識して造営されたとしても、白雉五年での持統天皇は九歳くらいで高市皇子は生まれたばかりですから、関わりがあっても高市皇子ではないでしょう。では、藤原宮御宇天皇である持統天皇にとって、難波宮はどんな意味があったのでしょう。
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難波宮天皇と持統天皇陵のつながりは?

藤原宮は15年(足かけ17年)で捨てられましたが、難波宮は百年以上使われました。この違いはなんでしよう。難波宮は持統天皇にとってどんな意味があったのか、ラインでも見ます。
難波宮から天武持統陵(野口王墓)にラインを引きました。すると、ラインは真の欽明陵といわれている見瀬丸山古墳(五条野丸山)を通り野口王墓に届きました。
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このラインが王墓造営の時に意識されたと、断定はできません。しかし、持統天皇と難波宮には何かしらつながりがあると、思いました。宮殿にしても陵墓にしても、造営する時に何の意味もない土地が選ばれることはないと思うのです。
そこには、陵墓を造った人の意思、宮殿を造った人の思いが絡んでいるはずです。
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天智陵を天武持統陵と結ぶ(ピンクのライン)と、藤原宮の大極殿を通ることは、何度も紹介しました。王墓はその位置に意味がある、都も然りです。

では、難波宮と持統天皇とを結びつけるものは、何なのか。
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ここで、万葉集の巻二に気になる天皇の存在があります。
万葉集巻二の冒頭歌に「難波高津宮天皇」が登場するのですが、(その皇后の歌・四首は既にブログでも紹介しています。)難波天皇は仁徳天皇とされ、その皇后・磐姫が「帰って来ない天皇を待ちのぞむ」歌でした。しかし、古事記や日本書紀では逆で「出て行って帰って来なかったのは磐姫皇后」の方で、皇后に「帰って来てほしい」と歌を詠み続けるのは仁徳天皇の方なのです。二人の状況が記紀と万葉集では逆転しているのです。
万葉集の歌は叙事詩と云われていますから、物語を創作してお話の世界を詠んだ歌とは考えられません。それも、巻二の冒頭歌ですから、ただ偶然に掲載されたのではないでしょう。(万葉集の各巻の冒頭歌には深い意味があります)
すると、難波天皇は何かの事情で長い間不在と云うことになります。しかも、仁徳天皇ではない可能性が大きいと思います。(仁徳天皇の難波高津宮はまだ不明です、長い間探し続けられていますが。)

いったい、万葉集の難波天皇は何処へ行かれたのでしょう。

当時、万葉集を読んだ人たちには、巻二の冒頭歌の意味も、難波天皇の不在の理由も分かったのでしょうか。分からなかったなら、脚注などが付けられたでしょうから。

 難波の高津宮に天の下知らしめす天皇の代(大鷦鷯天皇、諡して仁徳天皇という)
 磐姫皇后(いわのひめのおほきさき)、天皇を思(しいの)ひて作らす歌四首

85 君が行き けながくなりぬ 山たづね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ

磐姫皇后の四首(85・86・87・88)に続けて、「或本の歌一首」が古歌集より載せられています。「89 居明して君をば待たむ ぬばたまの吾黒髪に霜はふるとも」、白髪になっても待ち続けますというのです。そこまで長い不在なんて、状況として考えにくいです。

難波天皇の長い不在の理由は何でしょうか。実は、その理由が暗示されていると思うのです、次の歌を使って。ある事件が暗示されていると…

そこに、政権に巻き込まれた高貴な人の運命が
次にあるのは、軽太郎女(かるのおおいらつめ)=衣通姫(そとほりひめ)の歌です。

90番の歌の前後に長い題詞と長い左脚があり、この歌について説明されています。
古事記に曰く
軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女に姧(たは)く。その故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおおきみ)恋慕(しのひ)に堪(あ)へずして追い往く時に、歌ひて曰く


90 君が行き けながくなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つには待たじ


まるで磐姫皇后の歌に似ています。
古事記によると、軽太郎女皇女は木梨軽皇子の妹で、その美しさのために同母兄の木梨軽皇子に愛されてしまった人でした。木梨軽皇子は皇位継承者でしたが、禁断の愛の為にその権利を奪われ、遂には軽太郎女と共に自殺してしまうのです。

不思議な運命の糸が絡む歌・巻二の冒頭歌に続く「木梨軽皇子の事件」の歌
木梨軽皇子は允恭天皇の皇太子で、允恭天皇は仁徳天皇の御子ですから、軽皇子は仁徳天皇(難波天皇)の孫になります。つまり難波高津宮天皇の孫の皇位継承者の悲劇的な事件の歌なのです。その事件の歌が、磐姫皇后の歌に並べられているのです。よく似た歌として。
木梨軽太子は皇太子ですから、めったなことでは皇位継承権を奪われることはありません。そこへ「禁断の愛」です、書紀では「汁物が凝ったので占ったら、事が明らかになった」というのです。古事記では、「皇子が二人の関係を歌にした」から人々が知ったことになっています。
占いと歌でしたから証拠は曖昧なもので、弟の穴穂皇子側の陰謀の臭いもしてきます。


万葉集巻二の冒頭歌(85~90)は、難波天皇の事件にかかわる歌ではないか

万葉集が持統天皇の意思を汲んで編纂されたものであるなら、そこに女帝の願いや思いがあるでしょう。難波天皇と呼ばれる人は決して架空の天皇ではない、とわたしは思います。
その人は、皇位継承者であり、近親者によりおとしめられ、陰謀により皇位継承権を奪われ、そして命も奪われた。更に、彼を愛した女性は皇女であり(皇后でもあった)、更に、帰らぬ天皇を追って迎えに行った人、となるのです。
すると、難波天皇は仁徳天皇ではない。難波天皇は実在した人であるが、孝徳天皇でもない。

では、誰なのですか? 答は既に何度も何度も書いてきました。

難波天皇と呼ばれる人物は、有間皇子事件の当時者=有間皇子以外にいないのです
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その人は、持統天皇の所縁の人です。持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に「太上天皇、難波行幸の時の歌」掲載されているのです。持統天皇は難波宮を特別に思っていたのです。しかも、
万葉集巻二の冒頭は、「有間皇子事件」に関わる歌となっています。そして、同じ巻二の「挽歌」の冒頭も「有間皇子の自傷歌」です。
万葉集の巻二の編集の目的、それは「有間皇子事件」の告発なのかも知れません。誰もが知っている「事件」だったのでしょう。事件は歌の形を借りて、文武帝に伝達されようとしたのです。が、文武帝は奏上の前に崩御されました。
難波天皇が有間皇子を想定しているのなら、皇子は即位していたか、即位してもいい状態だったか、皇太子として準備をしていたか、いずれでしょうか。その皇子が突然あらぬ疑いをかけられて、連行された。誰もが心配したでしょう。
孝徳天皇の後宮は有間皇子の後宮に移動していたでしょうから、間人皇后は当然『次の天皇の後宮に遷る』ことを承知していたはずです。

だから、間人皇后は有間皇子の後を追いかけて行ったのでした。「君が行き日(け)ながくなりぬ」だったからです。
しかし、事件は悲惨な結果となり、間人皇后は、しばらく日本海側の間人(たいざ)という港に隠れたのです。一人ではなかったでしょう。後宮の女性たちが一緒だったでしょうし、その中に有間皇子の子女もいたと思います。
そして、皇后は玉璽を守っていたのです。
やがて、皇后は摂津に返ります(難波宮かもしれません)が、そこで病に倒れたのでした。
人々は勇気のある、しかも賢く美しい皇后=中宮天皇の病気平癒を願ったことでしょう。
皇后が摂津に戻った時、鵜野皇女が間人皇后から引き離されていたかも知れません。
高貴な乙女であれば、後宮に召される他に選択肢はありませんでした。だから、当然、天智帝の後宮に入れられたのです。


藤原宮は捨てたのに難波宮は大事にされるとは
更に、727年に聖武天皇は難波宮を瓦葺の宮殿に建てかえました。その理由は、簡単です、所縁の宮殿だったからです。聖武天皇と難波宮との深い因縁無くして、考えられないことです。

その難波宮を捨てるのは桓武天皇で、延暦のころ、平安京遷都(延暦十三年・794年)の二年ほど前です。桓武天皇はどんなに立派でも難波宮はいらなかったのです。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸しています。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸しています。行幸の目的は古を偲ぶことでしょうか。
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難波宮と持統天皇は深い因縁があったということです。
ここで、これまでに書いて来たことを確認しました。次は、持統天皇の難波行幸の歌を詠みましょう。
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では、また後で。




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by tizudesiru | 2018-01-12 17:32 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

191 消された物語・有間と間人

191消された物語・有間皇子と間人皇后

有間皇子と間人皇太后の歌は、万葉集の扉を開ける鍵の一つです。

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中皇(なかつすめら)(みこと)は、有間皇子と自分とを同等に並べて歌を詠みました。

以前に紹介した時は、訳文に「陛下」とは書かず「殿下」を使い、皇太子として間人皇太后が有間皇子に接したように書きました。

しかし、今回は有間皇子を「難波長柄豊崎宮御宇天皇」の跡継ぎとして、ほとんど玉璽を渡された状態であるとして訳文を書きました。

つまり、有間皇子を追って来たのは中皇(なかつすめら)(みこと)(玉璽を預かっている人)なのです。これには重大な意味があります。

書紀では、斉明帝に玉璽(ぎょくじ)ったようてい中皇命存在以上大王(おおきみ)御璽(みしるし)孝徳帝ってい間人(はしひと)皇太后以外

10「陛下、お気持ちをお察しいたします。陛下がこの先どれほど命を永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのように命をしっかりとつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの命の永からんことを祈りましょう。」

皇子も応えました。

「貴女の云う通り、この岩代に生える松は根を深く下ろし、これからも長く命をつないでいくのだろう。わたしもその永からん命を願って松の枝を引き寄せて結んでおこう。わたしに神の御加護があれば、再びここに還って来る。そして、この松を見たい。貴女も見たいのだ。」

皇后の歌は、他にも二首あります。若い有間皇子を間人皇太后は何故追いかけて来たのか。

皇子の紀伊国への護送(旅)がどんな意味を持っているのか、間人は十分に承知して追いかけて来たのです。


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11「陛下、白浜が見えております。明日、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜も遠くは有りません。太后はわたくしの母ではありますが、母の意にそわず難波宮に残ったわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。…陛下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。草が足りなければ、陛下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず陛下のお体をお包みしてお慰めすることでしょう。」

間人皇太后は、有間皇子を「わが背子」と呼びました。

背子は特別な親しい間柄に使われる表現です。

有間皇子は間人皇太后にとって特に親しい男性だったことになります。

そして、次の日になりました。

12「陛下、今一度お声を聴きとうございます。わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海人が潜水して白玉を得ているのですね。願いを懸ける白玉を。でも、陛下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに。」

以前は「陛下」とは書かず「殿下」と書きました。しかし、今は、夫の孝徳天皇が難波宮に倒れた時から「皇后」としての立場に戻った間人皇后は、孝徳天皇崩御の後は「中皇命」として難波宮に玉璽(ぎょくじ)を以って行政の処理をしていたと思います。昔も今もトップの死によって、行政がストップすることはないのです。百官がいましたから。

有間皇子の歌は、挽歌の二首だけです。歌の中では、皇子はへりくだってはいません。額田王が詠んだように「最後の瞬間まで皇子は凛としていた。「い立たせりけむいつ橿が本」凛としてお立ちになっていた厳橿の下に。死に臨んで木の下にお立ちになった時も。

有間と間人の二人の歌は、中皇命(間人皇太后)の歌3首。有間皇子の歌2首です。

僅か5首の歌が、なんと多くのことを教えてくれるのでしょう。

これら5首から読めるのは、二人は深く愛し合っていた、ことです。

理由は一つ、孝徳帝の崩御後、難波宮の後宮は皇太子が受け継いだのです。


それで、間人皇太后は難波長柄豊崎宮に残ったのでした。

有間皇子に玉璽が渡る。

世間はそう思ったでしょう。

その世間を欺くように、有間皇子は連れ去られた。

待つべきか、追いかけるべきか。いや、何があってもわたしが迎えに行く。


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しかし、その愛は有間皇子謀反事件によって断ち切られました。

間人皇太后の怒りと悲しみはいかばかりだったことでしょう。決して、兄・中大兄皇子を許さなかったと思います。

中皇命が玉璽を渡さなかったから、中大兄は皇位につけなかったのです。

中大兄は、皇祖母尊と間人皇太后の葬儀を済ませ陵墓に葬った後に即位しました。

また、有間皇子事件(658)後に、皇子の後宮は天智天皇の後宮へと変更された。

更に、壬申の乱後は、天武帝の後宮に変更されたのです。

それでなくては、宮廷に仕える女性たちは、政変の度に彷徨わねばなりません。

それがどんなに過酷でも、宮廷の女性も生きているのですから。

まず、間人皇太后の愛と、断たれてしまった思いについて書きました。

持統天皇はこの有間皇子を幾度も思い出し、その霊魂を慰め鎮めました。その意味は、まだ十分に書いていません。



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by tizudesiru | 2017-01-05 22:04 | 191有間皇子と間人皇后の物語 | Trackback

191間人皇后の難波宮脱出

191間人皇后の難波宮脱出

間人皇后の愛と悲劇・とりかえばや物語

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間人皇后が難波宮を去ったわけ

間人(はしひと)皇女が孝徳帝の大后(皇后)に立てられたのは、幾つの時でしょうね!

大化改新の時、中大兄皇子は十九歳(十八歳)くらいで、その妹ですから十五歳くらいでしょうか。そんな少女が初老も過ぎた男性に嫁がねばならないとはあまりに過酷な話です。

大后に昇れる女性は皇族に限られましたが、皇女とはいえ間人は子どもみたいなもので無理な話ですよね。


その皇后が、突然皇居を去るのです。皇后に立って九年目の出来事でした。

(はく)()四年(653)、(やまとの)(みやこ)に遷りたい」という中大兄皇子の申し出に対し、孝徳天皇は許しませんでした

しかし、中大兄皇子は母の皇祖母命と間人皇后を奉り、合わせて皇弟達を連れて、飛鳥の河辺(かわべの)行宮(かりみや)に移りました。すると、公卿大夫や百官の人も皆従て移った

中大兄皇子が突然言い出して、母と妹を引き連れて飛鳥に戻ったことになっています。理由は書かれていません。

皇后(きさき)皇祖母(すめみおやの)(みこと)・皇太子が揃って皇居を出て行くのはおかしな話です。何があったのでしょう。


少し大人になった皇女が、「倭京に戻る」と言い出した、皇后となって初めて恋をした、この展開なら納得できる話です。「難波宮を出たい」と言い出したのは皇后だったのではないか。斉明皇太后も中大兄皇子も、この妹に諦めさせる方法を持たなかった…

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万葉集に「中皇(なかのすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)(たてまつ)らしめたまふ歌」が掲載されています。父の(じょ)(めい)天皇に、幼い中皇(なかつすめら)(みこと)(間人皇女)が「自分は儀式歌を詠めない」ので、代わりに間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)献上させた歌だというのです。

(じょ)(めい)天皇(641没)の在位は十三年間ですが、皇女はその間に生まれて歌を献上させるほどに成長したというのでしょうか。納得できない話ですね。

十歳くらいの少女が高貴な血をもってして巫女的な仕事をしていた(?)とは考えられません。巫女的な仕事をするべき皇后(皇極)は、お傍におられるのですから。

はたまた、ここで疑いの心が芽生えてしまうのです。

この歌は、舒明天皇のために献じられたのだろうか、と。

しかも、この歌は「()()の野に遊猟(みかり)したまう時」に献じさせた歌です。

おや!? ()()(奈良県旧宇智郡)ですか?

あの菟道稚郎子(うぢのわきのいらいこ)の宮処の比定地として、京都府宇治と奈良県宇智郡の二か所が候補地に挙げられています。

宇治若郎子(うぢのわきのいらつこ)とも書き仁徳帝と皇位を譲りあった皇太子です。

ここ巻一から、そこはかとなく菟道稚郎子の話「正式の皇太子の悲劇」がにおい立って来ました。

更によく見ると、万葉集・巻一の3番4番歌に続くのは、5讃岐(さぬき)国に(いでま)す時に、(いくさの)(きみ)が山を見て作る歌」6「反歌」ですが、おかしなことに舒明天皇の讃岐国行幸は日本書紀には書かれていないのです。軍王も何処のどんな人か不明です。一体どの天皇の話なのでしょう。

更に、7番歌は、額田王(ぬかたのおほきみ)のあの歌です。

 秋の野の()草刈(くさかり)()き宿れりし()()のみやこのかりほ(仮庵)し(おも)ほゆ

よくよく見ると、3・4・(5・6)・7と菟道稚郎子と共に悲劇の皇太子の事件を読み手に思い出させているようです。

8番歌は、額田王か斉明天皇御製歌とされる九州に向かう船出の歌ですね。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今はこぎでな

その後に、万葉集には、

有間皇子事件の目撃者としての「紀伊国に幸す時、額田王が造る歌」が置かれていましたね。(すでに、紹介しています)

考えてみると、百済救援のための征西は斉明七年(661)で、有間皇子の事件は斉明四年(658)なので、8番歌より9101112番歌が時期的には早く詠まれた歌になります。しかし、時期を無視して、『熟田津』の歌が有間皇子事件の歌の前に挿入されているのです

額田王の歌が、7・9と並んだら、そこに有間皇子と菟道稚郎子があっさりと結びついてしまうでしょう。

7 秋の野の美草刈葺き宿れりし菟道のみやこの仮庵しおもほゆ

9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむいつ橿が本

そして続いて、

10・11・12と中皇命の「紀伊国に往す時の歌」がくれば、有間皇子事件の歌が並ぶことになってしまうのです。

もともと巻一は有間皇子事件に向かって編集されていました。

それが、今日の結論です。

また、明日



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by tizudesiru | 2017-01-05 10:35 | 190間人皇后の難波宮脱出 | Trackback

190間人皇后の愛と悲劇(2)

190間人皇后の恋

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なぜ、間人(はしひと)皇后(こう)(とく)ったしょう

書紀によると、孝徳帝は皇后に歌を送って言われました。

金木(かなき)()(こま)()()吾が人見(ひとみ)

あれほど大事に後宮の奥深くに置いて人目に触れないようにしていたのに、貴女を人が見たというのか(誰かがあなたに手を出したというのか、その事で貴女は後宮を去ったのか)

「見る」という行為は、万葉集の時代「眺める」ではないのです。皇后が誰かを愛したのではないかと、後宮であってはならないことを問いかけている歌です。世間では、間人皇后が愛したのは中大兄皇子だと云われています。

そうでしょうか。

であれば、大スキャンダルで中大兄皇子は極位には着けません。

わたしは、皇后の愛した相手は兄ではないと思います。

中大兄はそんな危ない橋は渡らない、用意周到な計算高い人で、あの藤原鎌足が見込んだ男です。鎌足は孝徳帝から中大兄皇子に乗り換えたのですから。

間人皇后の相手は中大兄皇子ではありえません。

大后(おほきさき)は、後宮中宮トップ地位にあ

その大后が仕えていた者を引き連れて、(さい)明皇太后(めいこうたいごう)難波宮内裏(だいり)ガランしょう。のお引越ん。孝徳帝絶望し、国位たい山崎(やまさき)山城(やましろ)乙訓(おとくに)山崎(やまさき)郷)す.

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白雉年(651)、難波宮はその異様なまでの大きさで人々の前に顕れていました。この年、孝徳天皇は新宮に遷り、難波(なにわの)長柄(ながらの)豊崎宮(とよさきのみや)(なづ)けました。難波は、大変ったしょうね。

大化改新(645)(みことのり)により新体制の政治が始まり、人々は期待っていしょう大スキャンダルってた。

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(この大極殿の北に内裏がありました)


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by tizudesiru | 2017-01-04 12:24 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Trackback

189万葉集に隠された間人皇后の愛と悲劇

189間人皇后の愛と悲劇


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万葉集・とりかえばや物語(1)

万葉集の巻二は不思議な始まり方をしています。

(いわの)(ひめ)皇后(仁徳天皇の皇后)の歌で始まるのですが、これが本当に磐姫皇后の歌だとすると万葉集中で最古の歌になります

万葉集・巻二の冒頭歌は誰の歌なのか

   (いわの)(ひめ)皇后(おほきさき)、天皇を(しの)いて作らす歌四首

85 君が行き()(なが)くなりぬ 山たづね迎えか行かむ 待ちにか待たむ

   右一首は、山上憶良(やまのうへのおくらの)(おみ)類聚歌(るいじゅうか)(りん)()

   磐姫皇后が天皇を想って御作りになった歌四首

あのかたがお出かけになってからずいぶん日が経ちました。山に分け入りあの方をお迎えに行きましょうか。それとも、このまま待って待ち続けましょうか。(山上憶良臣の類聚歌林に掲載あり)


磐姫皇后が思っているのは、仁徳天皇です。仁徳天皇が出かけたまま帰らないというのです。天皇が他の女性のところに出かけているので嫉妬しているというのでしょうか。それにしても長い不在なのです。


86 
かくばかり恋つつあらずは高山の磐根し巻て死なましものを

これほどまでにあの方を恋しがっているよりは、あの方をお迎えに行って高山の岩を枕にいっそ死んでしまったほうがいい


87 
()りつつも君をば待たむ(うち)(なび)くあが黒髪に霜の置くまで

ずっとこのままあの方を待ち続けよう。打ち靡くようなわたしの黒髪に霜が降りたように白髪になってしまう時までも。


88 
秋の田の穂の()()らふ朝霞(あさかすみ)いつ()(かた)()が恋やまむ

秋の田の稲の穂の上に立ち込める朝霧がいつの間にか消えて行くように、わたしの恋も何時かどこかに消えて止むのだろうか。

   或本の歌に曰く


89 
居あかして君をば待たむ ぬばたまの吾が黒髪に霜はふるとも

   右一首、古歌集中に出ず

ずっとこのまま居てあの方を待っていましょうか。ぬばたまのように黒い私の髪に霜が降ったように白髪になるとしても。


85~88は連作になっています。89は別に「古歌集」から付け加えた歌です。

あの方が出かけて長く帰らないので、山に踏み入って迎えに行きたいが。

・いっそ険しく高い山の岩を枕に死にたいくらいあの方が恋しい…

・このままあの方をまちつづけよう。髪が白くなるまで。

・私の恋は朝霧のように消えることがあるのだろうか。

・(いえいえ、このまますっと何年でも白髪になってもあの方を待っていよう)

万葉集では、いっそ死にたいとまで思い詰めている磐姫皇后一体何があったのでしょうか。

いくら待ってもあの方は帰って来ない。こんなに待っているのに。


しかし、書紀の仁徳紀では、磐姫皇后は待ちません
。夫が他の女性を召そうとしても許しません。

むしろ、出かけて長く帰って来なかったのは磐姫皇后の方です。

磐姫は紀伊国に三綱(みつな)(かしわ)を取りに行ったのですが、皇后の留守をいいことに仁徳天皇は八田皇女を召しいれます。


難波まで帰って来てそれを知った皇后は怒って川を上って山背に去り、再び難波に帰ることはありませんでした。
仁徳天皇は磐姫皇后に「帰ってほしい」と歌を送ります。あれほど愛し合ったではないかと歌で呼びかけるのですが、皇后は聞きませんでした。

待ち続けたのは仁徳天皇の方です。

万葉集と日本書紀では、立場が逆転しているのです。


万葉集は鎮魂のための歌集です
言霊(ことだま)により(たま)にふれたり、霊魂を慰めたり鎮めたりする歌を集めた歌集です。そこに嘘を並べても意味がありませんし、むしろ、悪霊を刺激してしまうでしょう。

古代人は言霊を畏れました。死者の名を出さないようにしたし、(いみな)(本名)を口に出すことさえ避けたのですから。


万葉集は言霊が信じられた時代の歌集なのです。そこに嘘を並べても畏れ多いのですから、歌そのものは信頼できるでしょう。
或皇后の歌は存在したでしょう。

もし、それが磐姫皇后でなかったとしたら……

「もし」が可能なら、非常に恐ろしい事件が浮かび上がってくるのです。
また、明日


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by tizudesiru | 2017-01-03 15:44 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
332モノ申す副葬品たち
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う

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