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倭王の交替・邪馬台国以後の倭王の出自は中九州

わたしは、倭王が何処に住んだのかを祭祀線で探してきました。
すこしずつ、その場所を紹介してきました。

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まず、弥生時代の終焉
上の写真は、ベンガラを塗った祭祀具です。特別の形を特別に製作焼成し、特別の色を塗って特別の場所で神祭りをしたのです。その祭祀具が福岡のあちこちで一か所にまとまって出土しますが、なぜでしょう?
もしや、わけあって一度に破棄されたのではないか、わたしはそう思いました。。壊れたから、一つずつ作りなおしたのではありません。一斉に、強制的に、または集団が進んで破棄したのです。なぜ?
 
北部九州のの国が滅び、信仰が失われたからでしょう。
支配者が変わり、今までの神祭りができなくなったからだ、と思いませんか。
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もう用が無くなった、もう使うことが許されない、祀り手が逃げていなくなった、等々。
とにかく、異常な状況です。その後、組み合わせ式箱式石棺の時代になり、鉄の素環頭大刀が副葬されるようになります。価値観が変わったのです。昔からの支配者がいなくなったか、殺されたか、逃げ出したか、追われたか、社会が変わったのでしょう。


それは、弥生文化の終焉でした

大型甕棺の突然の消滅であり、青銅器の祭祀用武器の埋納でした。

その後、何処の地域の人が権力を握ったのか。とにかく、別の地域の人達です。それは何処か?
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(一度に環濠に投げ込まれた土器だと思われる)
甕棺文化圏を破壊したのは、何処の人か?
それは、鉄を持っていた肥(火)の国の勢力
つまり、倭五王の祖は狗奴国の人

火の国とは、阿蘇山のある国というより、高温の火で道具を作りだす工業国という意味でしょうか。古事記などの逸話からもそう読めます。
さて、その後、火ノ国はなぜ北部九州に侵攻したのか。当然、利権が絡んでいます。
卑弥呼の死後40年ほどで、半島への侵攻が始まっていますから、それを見ると、目的は半島への侵攻です。
狗奴国は北部九州の海を狙っていたのではないでしょうか。

北部九州に侵攻した最初の世代は、生産力の向上に励んだのですね。その後、徐々に力を持ち始めて、ついに半島に侵攻しました、その事を「新羅本紀」は語ります。倭国に関する年表で見ましょう。
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確かに、
三国史記の「新羅本紀」には、倭の侵攻が書かれています。
2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉がありました。


上の年表に、大きな矛盾が見つかりました。邪馬台国を考える上で大きなヒントです。

・173倭女王卑弥呼が新羅に遣使(友好目的でしょうか
・193倭国大飢饉で難民が新羅に入る(友好国に食料を求めたようです
・208倭人が国境を侵す(友好から方針がかわったのでしょうか?)


2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉!!

(飢饉の時、助けを求めて移動できた1000人=半島とつながりの深い北部九州の人、他からの移動は無理でしょう。近畿で飢饉があったとして、人は半島に頼るでしょうか。簡単に渡る航海技術も必要です。それに、何処を通って渡るでしょうか。)
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卑弥呼の国と新羅は友好国でした(173)から、大飢饉の時1000人もの難民が助けを求めたのです。その後、10年で侵略が始まります。なぜでしょうか、友好国としては有りえないことです。

年表をどのように読むか
大飢饉後に人口が回復したのか、
208、232、233年に、倭人は新羅に出兵した。
(この倭人は、北部九州の人でしょうか。恩のある国に侵攻するでしょうか。)
しかし、続いて邪馬台国・狗奴国の戦争が起こり、半島には出兵できなくなった。
そして、
248年の「卑弥呼、以って死す」卑弥呼の死後の40年の空白は、倭国が疲弊したからです。その後、287年、新羅に侵攻するまでに回復した。と読むことができます。

狗奴国邪馬台国戦争の後は、出兵どころではなかった、全てを失った状態が『尽くしの国=筑紫國」になったほど、人々は飢え、新天地を求めて人口は東に流失した(倭人の侵攻で信頼関係をなくしていたので、人々は半島へ渡ることができなかった)。それで、人口回復に40年ほどかかった。


飢饉―人口回復―出兵
狗奴国との戦争―卑弥呼の死ー人口流失―生産力の回復出兵

渡海しての侵攻は、生産力の向上と人口の回復がなければできません。でも、半島出兵の国は、北部九州にあったのでしょうか。

もう一つの年表の読み

➁大飢饉で頼りにした新羅に侵攻した「倭人」は、倭国(邪馬台国)ではない。

173年、卑弥呼が遣使した新羅は、倭国と友好関係であった、のです。
だから、邪馬台国が大飢饉(193年)になった時、新羅を頼りにして大量の人が避難民として渡海しました。
邪馬台国は、近隣の狗奴国を頼るより新羅を頼った、ということです。
倭国は周旋五千余里の狭い範囲でした。その中に、女王国もあったのです。日照りに河川の反乱、倭国の飢饉は広範囲にわたっていたのでしょう。
その小さな倭国連合が、208年に新羅に侵攻できるでしょうか。
ここでの結論は、一つ
208年、新羅に侵攻したのは狗奴国である
狗奴国には鉄の道具があり、生産力が向上していた
狗奴国は、有明海を引き潮と共に南下し五島列島まで渡って、海流にのって一気に半島に向かって北上していたのです。だから、三世紀の始めは、狗奴国は有明海から半島に渡ったはずです。
倭王の宮殿は、有明海に流れ込む河川の中下流にあったと思います。菊池川・白河・緑川流域、いずれも弥生時代からの大きな稲作地帯です。

しかし、狗奴国王は半島や大陸とのつながりを求めて、北の博多湾を使いたかったのです。が、まだ伊都国の存在が大きかったので、結果として狗奴国と倭国連合は対立したはずです。
そこへ、友好国への狗奴国の侵攻。こうなれば、狗奴国と邪馬台国連合は対立するでしょう。
遂に、戦争になり、卑弥呼は楽浪郡に使いを出して解決を模索したのです。しかし、老女だった卑弥呼は戦争の指揮をとることもできず、「以って死す」となりました。

新羅本紀の倭人の侵攻は、「狗奴国の野望」の証し

248年の卑弥呼死後、倭女王国は困窮を極め「尽くしの国=筑紫国」と呼ばれました。当然、出兵は不可能。

40年後、新羅への侵攻が再度始まりました。287,289、292、294、295年ですが、実は、この後の4世紀にも新羅への侵攻が続きます。北部九州の人口は回復していたのでしょうか。
この侵攻を指揮したのは、もちろん倭国連合の王ではありません。新たに「倭王」となった狗奴国の王でしょう。


倭王は、狗奴国王に交代していた

この249~287年の40年の空白ですが、卑弥呼の後を引き継いだ壱与の時代になっています。この空白は何を意味するのでしょう。筑紫国で人々を導いたのは壱与でしょうか。しかし、彼女の国は疲弊しています。
では、彼女は、やはり次の支配者(狗奴国王)に追われたのでしょうか。

壱与は人口流失を止めきれなかった
その為に、倭国を追われた? かもしれません。
何処へ逃げますかね? 中国・四国・近畿でしょうか。
四国には銅剣の密集地があります。銅戈の密集地、銅鉾の出土地と、地域が分かれます。逃げた集団の祭祀具(青銅器)が微妙に違っていると云うことです。それは、一族揃っての移動だったからでしょう。
もちろん、中広形・広形・平形という後期の形態をした青銅製武器です。細形の青銅製武器を持つ九州の弥生より後の時代の青銅器になります。

壱与がいなくなった(死亡・逃亡)ことで、次の男性の権力者が北部九州から半島に進出したと思うのです。自国の繁栄を他国の犠牲によって構築する……権力者の危険な選択でした。

今日は、[狗奴国が女王国と対立したのは、大陸との交渉権をえるためだった]ということ。倭王の祖は、狗奴国の王だったかも知れないと云うこと。倭女王国が半島に侵攻してのではない。これが結論です。
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by tizudesiru | 2018-03-07 11:08 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

邪馬台国フォーラム・高島忠平先生、質問してもいいですか?

重要な意味があった高島氏の発言
飯塚の古代史のフォーラム(2018・2・18)は、たいへん興味深いものでした。計画推進された飯塚市に感謝したいと思います。わたしの住居のある地域では、市の教育文化振興事業団の主催で「古代史講座」などやっていないのです。むしろ、予算を減らそうと頑張っているようです。歴史より経済の方が大切なようですね。
さて
今回、久しぶりに参加して高島氏の発言に大変納得いたしました。
討論会の中で「九州が畿内と関わりを持つのは、5世紀の終わりからだと思われる」という内容の発言がありました。

考古学者の目から見ても、やはりそうだったのだ。
高島氏の「新羅・伽耶系の土器や遠賀川流域の古墳の様相から、畿内と関わりを持つのは、5世紀から6世紀で、早くても5世紀後半以降と思われる」の一言で、今日は来てよかったと思いました。その事は、後で触れます。
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(福岡県飯塚市・遠賀川)
では、あらためて
高島忠平先生、質問してもいいですか?

質問1
遠賀川沿いの集落の人口について、です。桂川の古墳見学に行った時、古墳を造営した人々の集落が何処にあったのか分かっていない、周辺にはない、と説明されました。
では、遠賀川流域全体を見て、弥生後期から古墳時代の人口の増減はどのようになっていますか?
弥生後期の卑弥呼の死後のあたりの人口、古墳時代の磐井の乱前後にかけての人口の推移です。特徴があるのでしょうか?


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(冬空の中、筑豊の最奥に英彦山。中央に雪をかぶる)
質問2 
松木さんは討論の中で「近畿には九州系の土器は一つも入っていない」と言われ、すぐ後に「博多遺跡群の第一加工物の中に、近畿の土器がある」と云われました。
纏向遺跡から出土した鞴(ふいご)の羽口(はぐち)は、特長があり博多遺跡の鞴の羽口と同型です。近畿の学者も九州からの技術の提供を否定していませんが、遠賀川流域の鉄生産の状況と、鞴の羽口の形態について、教えてください。博多遺跡とのかかわりはあるのでしょうか?


質問3
村上さんが『銅戈は異常な武器』だと云われました。「特別なものとして扱われ、鉄戈となっていく。剣や矛とは違うよほどの意味があった。用途は祭祀用で、装着部分はそれなりに作られている。」と、なかなか意味深な発言でした。
(福岡平野では鉄戈を副葬する甕棺は周辺部ですが、飯塚の立岩遺跡では、鉄戈は首長墓に副葬されています。)
銅戈を重要視するのは、宗像・阿蘇などの地域だったと思うのですが、装飾古墳で有名な王塚古墳(遠賀川流域最大)もある飯塚市としては、北部熊本との関係をどのように分析されているのでしょうか?


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(遠賀川には数多くの支流が流れ込む。平坦な筑豊平野のの運河となっていた。)

質問4
高島さんの発言の中に「近畿で発掘していた頃」の体験についての一言がありました。「私は大阪(?でしたかね。メモしていません)で発掘していましたが、一つの遺跡から出るその遺物の多さに圧倒されました」とのことでした。
この言葉から近畿の人口爆発が考えられるのですが、発掘された集落は、どの辺りで、時期はいつ頃(土器編年でもいいのですが)のことでしょうか。
河内湖が陸化する時期だとしたら、大量の人口を養えると思いますが。それは、おおよそ邪馬台国時代より下がるのか、上るのか、微妙ですが教えて下さい。
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(飯塚市の東側の山が見えます)
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聞きたいことはまだあるのですが、ここまでにします。

ところで、高島忠平さんは「古代国家と邪馬台国」について、次のように書かれていました。
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邪馬台国が「近畿であれば、日本列島の大部分を三世紀には統一した政権があった」ことになり、「九州であれば、倭国は列島の一部であり、国家形成の道筋が、まったく異なってくる。」と云われます。
ですから、「近畿との接触は5世紀後半」という発言が心に残ったのです。


高島さんの発言は当然です。

3世紀に列島が統一されていれば、ヤマトタケルの東国遠征もないでしょう。

南九州の熊襲征伐も伝承としてないはずです。

もちろん、神武の東征もいりません。


何より宋書の倭王武の上表文が出鱈目になってしまいます。

倭王武は、西夷や毛人の国、海北の地を平らげたとしています。
なにより列島統一がなされていなかった証拠ではありませんか。
統一していなかったからこそ、「治天下大王」を目指して、遠征したのです。


倭王武の遠征が始まったのは、5世紀末です。
478年、武は宋に朝貢し「開府儀同三司」を望みますがかないませんでした。その後、宋の天子は臣下に禅譲し、宋は滅びます。
そこで、武は冊封体制から離れ「治天下大王」になることを決心したのです。

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武は東国に遠征します。稲荷山古墳の被葬者は、その時「左治」したのです。治天下大王の政治を助けた(左=たすける)のでした。

では、武の出発地は何処か、もちろん九州です。日本海側から、若狭湾に入り(そこは弥生から九州と関係の深い場所でした)、名古屋を抜け、東海・東国と進んだのです。
そのころ、瀬戸内と近畿には新たな勢力が出現していましたから、いずれ衝突することは必至でした。
衝突は起こりました。それが、磐井の乱として歴史に残された政変だと思います。墳墓の石人石馬を叩き壊す行為は、相手の王権への冒涜でしかありません。

筑紫君葛子は糟谷の屯倉を献上して、命乞いをします。
しかし、531年(辛亥年)、武の王朝は滅びました。その時、稲荷山古墳の被葬者は、倭王武が活躍したころを偲んで辛亥年(531年)の銘文を刻んだとわたしは思います。


この事には、後で触れるつもりです。

要するに、三世紀での統一はありえません。統一していれば、方々へ遠征する必要もないのですから。このように考えるのが、自然だと思うのです。
高島忠平さんの発言に納得したのは、わたしだけでしょうか。
そもそも、大和朝廷はどのようにして成立したのでしょうか。邪馬台国とは直接にはつながらないとしたら。

では、また。

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by tizudesiru | 2018-02-23 16:22 | 327古代史の危機!? | Trackback

百年の嘘を ホケノ山古墳に粉飾

伊都国の平原王墓と、山城の椿井大塚古墳が同時代?

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「飯塚発 古代史情報最前線・イイヅカから未来のトビラを拓く」というフォーラムでした。2月18日のテーマは『卑弥呼の戦争と武器』でした。

松木先生ほんとですか? 邪馬台国が戦争をした相手は何処ですか?
確か、狗奴国です。
狗奴国は邪馬台国の南に在ったのです。魏書に書いてあります。卑弥呼が死んだとき、帯方郡より張政が倭国に来ています。その後、卑弥呼宗女壱与が女王位に着いたあと、張政を帯方郡に送ります。倭国の使者は、そのまま魏の都に朝貢しました。つまり、魏の使いは倭国の場所もわかり、風俗も調べ、倭国の要人にも会い、卑弥呼の墓も確かめているはずです。狗奴国の位置も状況も知りえたでしょう。
そのことごとくを天子に報告したはずです。嘘や出鱈目や間違いが在ってはなりません。邪馬台国までの距離は正しいのです。
女王国まで、萬二千余里

きちんと魏書に書いてあります。
魏書を読まれているから、松木先生は「文献では邪馬台国は九州だ」と言われたのですね。では、考古学的には畿内ということですか。でも、鉄も、絹も、クスノキも無い、楽浪郡の土器も出ない畿内ですか? もちろん帯方郡の韓式の土器も出土していません。
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それに、先生の資料は大丈夫ですか?
弥生王墓の平原と、椿井大塚古墳を同時代の鏡としておられました。

漢鏡とありますが、三角縁神獣鏡が漢鏡ではないことは、周知の事実ではないのですか?
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福岡の平原王墓は、弥生時代のの女性王の墓と云われています。確かに大量の鏡が出土した方形周溝墓です。
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しかし、椿井大塚古墳は、いわゆる初期古墳ではありません。
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(椿井大塚古墳)
ここは、弥生の墓ではありません。出土鏡も三角縁神獣鏡です。松木先生は、漢鏡5期とまとめている資料を使われています。十分に確かめてのことでしょうか。全く違う時期の副葬品を並べて論じていいのでしょうか。
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さらに、ホケノ山古墳まで持ち出されていました。そのことは、また。
長くなるので、また明日。


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by tizudesiru | 2018-02-21 02:02 | 327古代史の危機!? | Trackback

えっ?鉄がありすぎる九州に邪馬台国はない?

倭の五王の話をしていますが、古代史学会大丈夫かな? と思う事があったので、その事をお知らせします。書いていいかを少し考えましたが、書かせていただきました。
飯塚市発 古代史情報最前線、今回のテーマ「卑弥呼の武器と戦争」
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このフォーラムに参加して、下のような気分になりました。
ゆうれいの正体見たり枯れ尾花


それは、後援会のあとの討論会での発言を聞いてのことです。資料と突き合わせた話し合いの、最後の最後に出た学者の発言を。
わたしは、今日は何をしにここへ来たのでしょうと、思いました。
なぜなら、邪馬台国論争で「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされていたからです。

弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。それも工具や武器の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ました。わたしは邪馬台国と戦争をしていた狗奴国は熊本だと思っています、そして、鉄の武器の差で狗奴国が勝ったと思っているのです。
ところが、

弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
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鉄で邪馬台国を論じるなら、九州で決まりだね、と思っていました。
然し、そう問屋は下ろさなかった、のです。

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鉄戈が取り上げられていました。弥生の青銅武器の威信財として、剣・矛・戈があります。中でも鉄戈は福岡の飯塚市や那珂川町などで、大型の鉄戈と変化して甕棺に副葬されているのです。更に、大型鉄戈は倭国にしか出ません。半島には大型は出土しないのです。
倭国には、大型鉄戈をつくる鉄文化があったのです。

弥生時代には、すでに銅だけではなく鉄を熔かす技術を北部九州は持っていました。


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甕棺の中の副葬ですから、伝世品ではありません。共伴する土器や木製品などで、編年もできているのです。
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弥生遺跡の鉄出土の比較を見ると、一つの遺跡だけでも熊本の鉄製品は圧倒的です。鳥取の青谷上寺地遺跡と比べると、熊本が自前ですべて作っているのですが、鳥取は他の地方からの移入品がありました。日本海側は、九州との交易が盛んだったので、技術の流失があったでしょうし、人の移動もあったはずです

弥生の鍛冶工房の様相・炉の形式が四種類
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Ⅰは、穴を掘り、穴の底に木炭や土を交互に敷き、熱効率を上げています。羽口からの空気が回るからです。ⅠとⅡ型は九州型で、ⅢとⅣ型は吉備辺りになるそうです。つまり、近畿の近くの鍛冶工房では大きな製品は造れなかったのです。
大きな鉄製品は、九州から仕入れたと云うことでした。近畿は流通で一大拠点だったというのです。

 
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倭女王卑弥呼は、魏から五尺刀を下賜されました。弥生の大刀は、素環頭大刀です。素環頭大刀は、弥生の後期組み合わせ式石棺の中から多く出土するそうです。それも、弥生の大刀も九州が圧倒的に多いのです。

しかし、鉄が多く出土する北部九州と邪馬台国は、イメージが合わないのだそうです。
でも、鉄も絹も出ない、クスノキも無い近畿にこそ、邪馬台国はないのではありませんか。文献でも、邪馬台国は九州ですけど。
でも、大事なのは、邪馬台国のその後ですよね。

講演会の中休みに、知り合いの有名ブロガー女子が「ね、どうなの? おかしくない?」と言ってきました。
そんな気分になった人も多かったようですね。

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by tizudesiru | 2018-02-20 17:57 | 327古代史の危機!? | Trackback

女王国は北部九州にあったなら、卑弥呼の墓は何処?

魏志倭人伝の終わりに卑弥呼の墓の記述
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卑弥呼が巻き込まれた重大事が④にあります。①から読んでみましょう。

①正始元年(240)、(帯方郡)太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を倭国に持って行かせ、倭王に任命した。詔と共に金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡・采物を賜った。倭王は使者に上表文を奉り詔に感謝した。
➁その四年(243)、倭王はまた、大夫の伊声耆・掖邪狗ら八人を遣使し、生口・倭の錦・赤と青の絹布・綿衣・白絹・丹木・木の小太鼓・短弓と矢を献上した。
掖邪狗らは八人ともに率善中郎将の印綬をもらった。
③その六年(245)、詔で倭の難升米に黄幢(黄色の垂れ幡)を假綬した(帯方郡の太守より与えられた)。

④正始八年(247)、(帯方郡の)太守・王頎が着任した。倭女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から不和だったので、倭の載斯と烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻撃し合っている状況を説明させた。郡は塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らを遣わし、彼に詔書と黄幢(黄色い旗)を持って行かせ、難升米に与え、檄(おふれ)を書いて卑弥呼を諭した。

 
諭されて、卑弥呼は死を選んだ
それで、卑弥呼は死んだのです。「以って死す」という「以死」とうい文字は、中国の史書では尋常な死には使われていないそうです。事件・刑死などの不慮の死の場合に使われているそうです。
⑤を読みましょうか。


⑤それで、卑弥呼は死んだので、おおいに経百余歩の墓を造った。殉葬した奴婢は百余人であった。あらためて男王を立てたが、国中が従わず、更に互いに誅殺しあい、当時千余人が死んだ。
それでまた、卑弥呼の宗女壱与(いちよ・とよ?)、十三歳の女性を王とすると、国中が治まった。それで、張政らは檄を書いて壱与を諭した。


⑥壱与は、倭の大夫・率善中郎将(宮中の宿衛の武官の長)の掖邪狗ら二十人で張政を郡まで送った。(倭の使者は)魏の都まで行って、男女の生口(奴隷)三十人を献上し、白珠五千、青い大珠玉二個、珍しい雑錦二十匹を貢いだ。
*ここで「倭人」伝は終わりです。


④に卑弥呼の墓は経百歩で大変大きい墓だったと書かれています。
では、箸墓が「女性の墓」という伝承があるので卑弥呼の墓なのでしょうか。箸墓が初めての前方後円墳なのでしょうか。しかし、ホケノ山古墳を始め、箸墓に先行する墓が発掘されました。そこで、ホケノ山古墳は築造年代を引き上げられる事態となったようです。ホケノ山古墳の副葬品は卑弥呼の時代と会わないのですが、築造年代は引き上げられています。それは、何度も書きましたから繰り返しませんが。

女王国が九州なら、卑弥呼の墓は何処なのでしょうね。
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(吉武高木遺跡から見る飯盛山、飯盛山・飯盛神社中宮から見る宝満山)

倭女王の墓、それを祭祀線が教えてくれるはずですが。
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何度もブログで繰り返し紹介した「宝満・飯盛を結ぶ祭祀線」です。このラインはどうでしょう。
弥生王墓
と認められている三か所の王墓が、みんなこのラインに乗ります。このラインを見つけた時から、「卑弥呼が九州の女王ならこのラインに眠っているはずだ」と書いて来たし、方々でしゃべってきました。
須玖岡本・吉武高木・三雲南小路の弥生王墓に加えて、一貴山銚子塚古墳(三世紀末~四世紀初め)が、この飯盛山・宝満山の二山を結ぶ祭祀ラインに乗るのです。それも、春分秋分の東西祭祀線の上に、です。一貴山銚子塚古墳には、三角縁神獣鏡は館外の足元に、後漢鏡は管内の被葬者の頭の近くに置かれていたそうです。それも、一枚は金メッキがされた漢鏡です。金メッキの漢鏡は日本に三面しか出土していません。三世紀末とされるこの古墳も、卑弥呼と深くかかわるかも知れません。
では、此のラインのどこに墓はあるのか……

卑弥呼の霊魂は彷徨っているかも知れない。還るべき山を見失って。
わたしは、弥生文化の断絶を考えました。大型甕棺の時代の断絶です。甕棺が大型となった弥生文化の絶頂期に、その中心地から先に大型甕棺は消滅しました。
大型銅矛を祭祀していた集団の、その祭祀具の埋納(断絶)とほぼ同時期にです。神祭りのための祭祀具を土中に埋めるとは。それは、なぜ起きたのか。政治的経済的な大変革が弥生時代の後期に起きたのです。ただ事ではありません。そこに在るのは、女王国の変革と関わるのではないでしょうか。卑弥呼の館を守っていた兵の武具は、矛です。矛を持つ文化圏に卑弥呼の館はありました。その祭祀具である大型銅矛が埋められる状況を説明するには、女王国の消滅以外に考えられないのです。何かが起こった。
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もちろん、大量の銅矛の鋳型が出土した春日丘陵に、卑弥呼の墓があった可能性は大です。しかし、わたしは続く政変の結果、女王墓は改葬されたと思います。
改葬後の墓の候補地は都が置かれたという伝承がある廟という伝承の場所でしょうか。
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そこは
北の香椎廟の辺りになるでしょうか。そこにあるのは男王の伝承ですが。
ここから九千部山頂が真南に見えます。その視線は春日丘陵を通るのです。この祭祀線の上に乗る神社も怪しいと思いますが、わたしは香椎廟の辺に改葬墓があったと思います。なぜなら、福岡平野の北の地を、霊力の強い神に守ってもらうのが一番だからです。後の世の改葬であれば、そう考えたでしょうね。
今は、まだ、祭祀線を紹介しませんが。


ヒジリ王のラインをおさらいします
ピンクのラインが、弥生の基本的な祭祀線です。この線上で、日の出・日の入りを見守ったのです。赤ラインは、ヒジリ王が観察した山々のラインです。


日知り王のラインは既に紹介しています。ヒジリ王は東西ライン上で祭祀をしていたと。
最終的に春日丘陵になったと思います。ここには、夏至・冬至・春分秋分の各日の出・日の入りの山、その山頂が揃っているのです。
東西祭祀線上の祭祀場で、山と太陽を見て暦代わりにしていたのです。
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(赤の南北ラインの上に、ヒジリ王の暦の山々が南北に連なります。このラインは、まっすぐ高良大社まで届きます。聖なる山の伝統は残ったということですね。)
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では、「親魏倭王」の印綬はどうなったのでしょう。誰かが持って行ったでしょうか。わたしは、後の世の権力者が持ち去ったと思っています。それは…それを持つものは「倭王」だからです。白村江敗戦の上表文は「倭王に問う」と書かれていたではありませんか。倭王としての地位は継続していたのです。



気になるのは、張政が帰国した後の壱与の行動です。

倭王となって、宗女壱与は何をしたのでしょうか。

張政が帰った後、列島は大変革を迎えました。皆さんご存じのように、鉄が全国に拡散します。三角縁神獣鏡が大量生産されます。工業生産地が全国に出現するのです。
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一体、何が起こったのでしょう。人と物の大拡散とは。

生産力が上がっても、人口は急には増えません。子どもが育ち、子孫が増えるスピードより速く、人口が増えるのはなぜか? 答は一つです。人間の移動です。それは、征服や侵略でしょうか。そうとは考えられません。技術を持っての移動ですから、各地ですぐに受け入れられたのではないでしょうか。邪馬台国が負けたからこそ、文化の拡散がおこり列島は変わったのだと思うのです。
技術を持って移動した豪族、彼らのルーツは九州にあると思います。


わたしは、大量の人口移動が倭国の内乱の後に何度も起こったと思います。それは、内乱の度に、繰り返されたと思うのです。二世紀、三世紀も、四世紀・五世紀・六世紀まで、特に、倭国の乱の三世紀と、磐井の乱の六世紀は大きかったと思うのです。
技術を持った豪族のルーツは、面白いです。そして、祖先神の共通性もなかなか面白いです。
それは、また、今度

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by tizudesiru | 2018-02-03 23:17 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback

卑弥呼が魏の明帝から下賜された豪華な賜物

魏から倭女王卑弥呼への贈り物
もちろん、銅鏡百枚だけではありませんし、魏はもっと良い物を下賜したと自負しているのです。
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景初二年六月、使者が帯方郡へ詣でて
魏の明帝から貰った豪華な下賜品とは
読んでみましょうか。
①景初二年(魏の明帝・238年)六月、倭女王は大夫難升米らを遣わし帯方郡に詣で、魏の天子に朝献することを申し出た。郡の太守の劉夏は役人を遣わして魏の都まで送らせた。
➁その年十二月、倭女王に返事の詔書が出された。そこには、曰。親魏倭王卑弥呼に詔す。
③帯方郡の太守劉夏が送ってきた汝の大夫難升米、次使の都市牛利らが、汝の献じた男の奴隷四人と女奴隷六人、斑布(マダラ織の布)二匹二丈を持って到着した。
④汝の住むところははるかに遠いのに、遣使して貢献して来た。これは、汝の忠孝である。余は汝を非常にけなげであると思う。そこで、汝を親魏倭王となし、金印紫綬を与えよう。封をして帯方郡太守にことづけて授けよう。土地の者をなつかせ、余に孝順をつくせ。
⑤汝の使者の難升米と牛利は遠い所から来たので、その苦労をねぎらい、難升米を率善中郎将に、牛利を率善校尉になし、銀印・青綬を与え、余が引見し労をねぎらい贈り物を与えて還す。
⑥それから、深紅の交竜の模様の錦五匹、また深紅の毛織物十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十匹をもって汝の献じた貢物に応えよう。
⑦特に、汝に紺地の錦三匹と、細かい花模様の毛織物五枚、白絹五十匹、金八両、五尺刀二振り、銅鏡百枚、真珠、鉛丹を各五十斤、みな封をして難升米と牛利に付けるので帰還したら受け取るようにせよ。
⑧そのものを悉く汝の国の人に示し、吾大国が汝を健気に思うが故に、丁重に汝に良い物を賜ったことを知らしめよ。


素晴らしい絹・絹織物・錦・金・五尺刀の次が銅鏡百枚ですね。銅鏡十枚くらいでは他と釣り合わないから百枚も下賜したのですね。この鏡は出来のいいものだったでしょうから、銅の厚みが足りない三角縁神獣鏡ではないでしょうね。貧相な贈り物ではなかったでしょうから。
倭国の人はこの贈り物に度肝を抜かれたでしょうから、様々に伝承が残ったはずです。忘れてはならないことだったはずです。


(だから、正史「日本書紀」や古事記に何も書かれていないとは、不思議です。では、正史には「卑弥呼の遣隋使より後の時代のことが書かれている」と云うことでしょうか。神武天皇が近畿に移動したのは、三世紀より後だということです。それも、遣隋使の事実を知らない人たちか、遣使を無視した集団が書いた、のかも知れません。)

魏の下賜品を確実に見たのは伊都国の役人だった!?
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さて、北部九州の伊都国には帯方郡・楽浪郡系の土器が出土します。この時代に確実に交流があった証拠です。(近畿には楽浪系の土器は出土していません。これは、畿内の学者のご指摘の通りです)
「世王あり」代々王がいた、という伊都国の王の墓がどんな位置に在るか、以前にも紹介していますが、少し確かめてみましょう。

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緑のポイントは山頂、青は古墳・墓、ピンクの太祖は神社です。
伊都国の周囲の山と山の山頂を直線で結んでみます。すると、祭祀ラインが数多く交差する王墓があります。三雲南小路王墓です。上の紹介画像のように前漢境が57枚も出土した遺跡です。方形周溝墓で、周囲とは区別された区画に甕棺が並んでいました。

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他にも王墓があるでしょうが、井原鑓溝などまだ位置が確認されていないので紹介できません。
それでも王墓が特別な位置に造営されたこと、三雲南の王が特別の位置に埋葬されたことは理解できます。古代の人は、山の上に霊魂が集まると思ったのでしょうね。山頂は魂が故郷を確認する時の目印だったかも知れません。
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ちなみに、平原王墓もたくさんの国宝銅鏡を出土しています。被葬者が女性とされる平原王墓は、三雲南少路王墓と加也山の祭祀線上にあります。少し拡大してみましょう。
後の世の王は、祖先の王墓と所縁の山を祭祀線で結んで自分の墓を造った、と云うことが分かりますね。同時に、どの墓が古く、どの墓と関係が深いのか、それも祭祀線が教えてくれるのです。

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女王国の北には一大率がおかれて、諸国を検察していたのです。「諸国もこれを畏れていた。その統率者は、常に伊都国に居て、それは中国の刺史のようなものである。」と書かれています。彼らは代々中国から諸侯なみの扱いを受けていたのでしょうね。甕棺から下賜品のガラス璧が出ていますから。

今日は、伊都国の役人が見た魏の下賜品の確認でした。伊都国の役人は、封泥のことも分かっていたし、目録の文字も読めたと云うことですね。

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by tizudesiru | 2018-02-02 12:04 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback

女王国は、武器の矛、宮室・楼観・城柵、絹織物、クスがある地域

倭人伝・倭人は古代九州地方の人だった

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倭人伝の、その倭人の風俗を読んでみましょうね。
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①倭人の風俗は節度がある。男子は被り物がなく木綿のはちまき。着物はひと幅の布を巻き付け紐で結んで縫うことはない。婦人は髪を曲げて束ね、単衣の真ん中に穴をあけてきている。
➁稲やカラム氏を植え、桑で蚕を育て繭を集めて織り、細い麻糸、絹織物、綿織物を造っている。そこには、牛、馬、虎、豹、かささぎはいない。
③兵(武器)にはを用い、楯、木弓を使う。木弓は下を短く上を長くする。竹矢には鉄鏃や骨鏃を使う。
そこに有るのは、儋耳や朱崖と同じである。
倭の地は温暖で、冬夏も生野菜を食べ、皆はだしである。家には部屋があり、父母兄弟は寝起きを別にしている。その体に朱丹を塗っていて、中国のおしろいのようなものである。飲食には高坏を使い、手で食べる。
④葬式について、棺はあるが槨はない。土で塚を作る。死んですぐから十数日間は喪にふくし、その間は肉食をしない。喪主は声をあげて泣き、他の者は歌い舞い飲食する。埋葬後は、家をあげて水浴し、中国の禊ぎのようなものである。
⑤倭国から使いが海を渡る時,持哀(じさい)を選んでいる。<その紹介は略 >
⑥倭国から真珠・青玉が取れる。山では丹砂・朱砂があり、樹木には、くす・とち・(くすのき)・ぼけ・クヌギ・スギ・かし・ヤマグワ・カエデがある。<略>
⑦には、骨を焼く占いのことが書かれている。<略>
⑧倭人の集会では父子・男女の差別はない。酒好きで、偉い人に会うと拍手をする。寿命は長い。
⑨身分のあるものは四、五人の妻を持つ、下戸でも二、三人の妻がいる。<略>

さて、どんな地域が想像されますか?
そこでは絹織物が造られ、武器は矛で、クスノキがあり、骨で占いをしているのです。
そこは、九州ですね。棺は甕棺ですね、直葬ですから槨はないのです。

租税・物々交換の市・諸国を検察 国の組織ができていた
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皆さんがよくご存じのことがかかれています。
①税があった
➁伊都国に一大率がいて、諸国を検察していた。
③女王が中国・帯方郡に使いを出す時と迎える時、全て港であらためていた。誤りは許されなかった。<略>
④倭国では、もとは七・八十年間も男王であったが、乱がおこり長年互いに攻伐しあったので、一人の女性を共立して王と為し、卑弥呼と名付けた。
⑤卑弥呼は鬼道(神霊に通じた)で衆を引き付け、年は取っているが夫もいず、弟が国政を助けている。
⑥王となってより直接会う者は少なく、千人の奴婢が仕え、ただ一人の男子が飲食の世話をし、伝言を取り次ぐために出入りしている。
⑦卑弥呼の宮室は、楼観や城柵を厳かに設営し、常に警備兵が武器を以って守備している。
女王国の東に海を渡って千里のところに、また国がある。倭の種族である。また、侏儒国がある。この国の背丈は、三、四尺で女王国からの距離は四千里。<略>
⑨倭地について問うと、絶海の中の島の上で、国々は離島だったり陸続きだったりして、周囲は五千里ほどである


地理的にも状況的にも、倭地は九州中心の地域
中国や帯方郡からの荷物を検めて、女王国に届けるのです。何日も離れた場所に女王国があるわけはありません。途中で紛失しては大変ですから。更に、倭地の周囲が五千里とは、狭くありませんか。

でも、倭人伝に書かれているのですから、周囲五千里でも仕方ないですね。
邪馬台国の時代に九州から近畿まで倭国が広がっていたのではないのです。

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by tizudesiru | 2018-02-01 14:46 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback

卑弥呼の宮室は吉野ケ里ではない?

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卑弥呼の宮殿の候補地は何処なのか

吉野ケ里と纏向でいいの?


邪馬台国論争では、いつもこの二ヵ所が取り上げられて比較されていますが、二か所でいいのでしょうか。

そもそもの出発点、三国志の「倭人伝」に見える女王国の様子を見ましょうね。検討できるところを抜き書きしました。

男子は大人も子供も鯨面文身(顔にまで入れ墨をしている)
道理を図ると、まさに会稽(かいけい)・東冶(とうや)の東にある
禾稻(イネ)苧麻(からむし)蚕桑・絹績(蚕と桑を植え絹織物を織る)細紵・縑緜(細い麻糸と絹織物)がある
兵は、、楯、木弓を用いる。竹矢には鉄鏃、骨鏃を用いる
文物は中国の儋耳(たんじ)朱崖(しゅがい)と似ている。*南海島の郡名
倭の地は温暖・冬も夏も生菜を食し、みな裸足
父母と寝起きするところはちがっている
朱丹をその体に塗る
墓は棺はあるけれど槨(外側の箱)はない。土で冢をつくる。もがりを十日ほどする。
倭は、真珠・青玉をいだす。山には丹がある。
木は、クス・トチ・クスの木・ボケ・クヌギ・スギ(?)・カシ・ヤマグワ・カエデ・
竹には、シノダケ・ヤダケ・?
しょうが・さんしょう・みょうが等あるが、滋味とはしていない
骨を焼いて吉凶を卜う
大人は皆、四、五人の婦(よめ)。下戸は、二、三人の婦。
租賦を収む(税をおさめていた)
邸閣(ていかく)あり。(大きな館があった)
国国に市があり、物々交換をしていた。大倭がこれを監視していた。
女王国より北に一大率を置いて、諸国を検察し、諸国はこれを畏れていた。
一大率は常に伊都国に置かれていた。


ここまでは、
九州説を裏づけする事項だらけですね。
倭王の使いが京都・帯方郡などに詣でる時、及び群からの使いが倭国に来る時、港で文書・賜遣のものなどの荷物を開けて、不足や食い違いがないか調べている。*字が読めたし、書けたのです
(略)倭国大乱などの記事があります。
卑弥呼は王となってより人に会うことが少ない。婢が千人仕えていて、男子一人が出入りする

居処には、宮室・楼観・城柵、おごそかに設け、常に兵が守衛している。
まだまだ、続きますが省略します。

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一方の纏向遺跡
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この大型建物の柱穴は方形です。方形の柱穴が現れるのは、ほぼ七世紀から八世紀だそうです。更に、ここから古い土器に混じって四世紀の土器が出土しているので、時期は卑弥呼の時代ではないと訂正されたそうですが……館に城柵は有りませんね。
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では、この模型はなんなのでしょう。辺りは川の小さな支流がいくつもあり、大型建物を建てるには難しい所だと聞きましたが。
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各地方の土器が沢山出土したことが取り上げられていましたが、韓半島の楽浪系土器は出土していません。(九州には出土していますが)

番組の纏向遺跡の切り札は「ベニバナの花粉」でした。確かに、倭錦・絳青縑(こうせいけん)などを倭国から贈っています。絳青縑は赤と青の絹織物だそうです。でも、ベニバナの花粉がみつかったから絹織物があったとは飛躍がありませんか。(絹織物が弥生の甕棺から出土するので、絹も九州にはありました)


わたしは、近畿に王権が出現する事実を精査して、王権発祥の地を見つけてほしいと思います。このまま纏向に決めて突き進むのは、無理だと思うのです。


大型古墳の築造順序も精査して、埴輪や副葬品の時期をすり合わせて、納得のいく王権誕生のドラマを市民に見せてほしいのです。
私利私欲、我田引水は、もういいですから。
わたしたちは日本誕生の真実を、倭国とは何だったのかの真実を知りたいのです。人間は知ることが好きなのです。


邪馬台国九州説の老人たちが生きている間に、

なんとかなりませんか。

そうそう、わたしは邪馬台国は「吉野ケ里」ではないかも、と思っています。あそこは重要な弥生の集落のモデルですが。
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もし女王国が北部九州にあったのなら、鏡が副葬されたでしょうし、五尺刀も副葬されているでしょう。卑弥呼は女王国から実家の墓地に運ばれて埋葬されたかも知れません。後の時代の古墳の改葬のように、幾度も改葬されたかも知れません。改葬の途中で金印は権威ある者の手に渡った可能性もあるでしょう。
次の王権が卑弥呼を倒した勢力であれば、必ずそうすると思います。二度と蘇らないように墓を改葬するのです。
卑弥呼の霊力が信じられていたのなら、必ず実行したはずです。

卑弥呼の墓は、北部九州にあると云うことですかね。でも、
卑弥呼の宮殿は吉野ケ里ではない
これは、今の時点でのわたしの結論です。


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by tizudesiru | 2017-07-24 14:44 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback

邪馬台国論争・TBSの着地も纏向ですか

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卑弥呼が没したのは、正始八年(247年)でしたね。三世紀の半ばですね。

ちょっと、テレビに気になることがあったので寄り道です。

またまた不思議な
邪馬台国論争
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「邪馬台国の候補地は全国にある」と笑って

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魏志・倭人伝の一文「水行十日陸行一月」を取り上げて、

邪馬台国論争が始まりました…

女王の都する所が、水行十日陸行一月だというので、明治以来の九州説と奈良説の二ヵ所にしぼって邪馬台国の場所を探る番組でした。吉野ヶ里と纏向が比較されていました。

そもそも、魏志の「倭人」伝は、帯方郡から女王国までの里程を「水行十日陸行一月」のみで説明してるのではありません。里程を抜き書きしてみましょう。

従郡至倭(郡より倭に至る)には、海岸に沿って行き、
到其北岸句邪韓国(その北岸、句邪韓国にる)*その北岸は、何処の北岸?
七千余里、始度一海、千余里至対馬国(七千余里にして、初めて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る)
又南渡一海。(また南し一海を渡る) 名を瀚海という、
千余里、至一大国(千余里にして一大国に至る)
又渡一海、千余里至末盧国また一海を渡り、千余里にして末盧国に至る)
東南陸行五百里、到伊都国東南に陸行し五百里にして伊都国る)

伊都国だけ「到」が使われています。このあとで、伊都国の説明が入ります。これまでの国々にも官や国土や風俗の説明は有りましたが、省きました。

それでは、伊都国のせつめい。

官を爾支(ねぎ)といい、副を泄謨觚(えもこ)柄溧觚(へごこ)という。千余戸あり。世(よよ)王あり。皆、女王国に統属す(皆統属女王国)。(帯方郡の)軍使往来するとき、常に駐まる所なり。*(代々の王は皆、女王国を統属していたとよめませんか?)

再び、里程に戻ります。
東南至奴国、百里(東南して奴国に至る。百里なり)
東行至不彌国、百里東に行きて不弥国に至る。百里なり)
南至投馬国、水行二十日(南にして投馬国に至る。水行すること二十日なり)
南至邪馬壱国、女王之所都、水行十日陸行一月(南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月なり)

次に他の国について「女王国の北にある国」は、その個数とか距離のおおよそを書くことができるが、その他の方角の国々は、遠く離れていて詳しく知ることができない」と書かれています。

すると、

対馬国も、一大国も、末盧国も、伊都国も、奴国も不彌国も、投馬国も、みんな

女王国より北にあると云うことです。

戸数や距離や官や副官が述べられていますからね。


女王の都に至るには、水行十日陸行一月かかるのですが、出発地は何処でしょう。帯方郡ではありませんか?

更に、よく見ると「距離・至・国名」の順番で、対馬国も一大国も末盧国も伊都国も紹介されていました。距離が先で、帯方郡から連なって来た意味でしょうか。
が、
奴国・投馬国・不彌国・女王国は、「至・国名
距離
で書かれていました。距離が国名の後に有りました。
これには意味があると思います。出発地は、郡ではなく伊都国ですかね…

更にさらに、
詳しく知ることができない国々を二十ヶ国あまり名前だけ書いた後に、

其の南に狗奴国あり。男を王とし、その官には狗古智卑狗があり、女王には属していない」と書かれているのです。
狗奴国は女王国の南です。

次に里程のまとめとして自郡至女王国萬二千余里

帯方郡より女王国に至る距離は一万二千里余り

7000+1000+1000+1000+500=10500
あと1500里で伊都国から女王国に届くのです。

普通に、邪馬台国は近畿では有りえません。
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邪馬台国が手に入れていた鉄の問題がありました

「倭人」伝に書かれているのですから、これは決定的な物証でしょうね。

鉄が出土する遺跡とその量の画像を見ると、圧倒的に中部九州が多いですね。

そこには狗奴国があったのではないでしょうか。

狗奴国は鉄を以て武器や工具を作り、生産力を上げ、女王国と対抗したのです。

熊本の遺跡は、近畿の遺跡ほど掘られてはいません。調査もせず土木工事が行われているのも現実です。

見つかっても掘るのは一部です。(吉野ケ里遺跡は特別中の特別なのです)


鉄の工具や鏃などの武器は、出土数で福岡より熊本が勝っています。
自著にも書きましたが、この違いが狗奴国が邪馬壱国を追い詰めたと思います。
そして、女王国は狗奴国に破れたと。

たまらず女王国に隷属していた人々は、東へ移動したのです。

もちろん、鉄の生産技術・大型甕棺の焼成技術・銅製品の生産技術など、みんな持って逃げたと思います。


久留米地方も、福岡平野も、繁栄していた遺跡がある時期一度に放棄されました。

生活用具も祭祀具もみんな周濠に捨てて(完品も捨てられている事実がある)、一斉に逃げ出すことが起こりました。


持ち物を破棄する理由は沢山ないでしょう。
豊かな土地を捨てなければならない理由なんて。

その後に入って来たのは、もちろん肥後の勢力でした。
それが、古墳の様相から読み取れるのです。

わたしがこのように書くまでもなく、いろいろな方が様々に指摘されていることでしたね。

明らかに、畿内説は無理なのに。それでも取り上げるTBS。
NHKも同じでした。なぜでしょうか。

由々しくもゲストが言っていました。

「邪馬台国が九州なら、邪馬台国は一地方の国となる」

「畿内ならば、ヤマト王権につながる国ということになる」

そうでしょうか。王権はどのように生まれたのか、まだ定説は有りません。
ゲストとしては、邪馬台国が一地方(田舎)にあったという結論が嫌だというのですね。

でも、田舎でいいではありませんか、事実であれば。(本人は畿内説だそうですから)

それに、王権と九州は深いつながりがありますよね。

東京だって、五百年前は都から離れた田舎だったのですからね。政治が変われば、経済・文化の中心地も変わるのですよ。

更に司会者が「九州説の人には、年よりが多い
」といいました。
驚きました、九州説の研究者にも老人にも若者にも失礼でしょう。
番組として恥ずかしくありませんか。


当然ですが、二千年前は大陸や半島に近い所が文化の中心地だったと思います。

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(福岡市博物館・新奴国展のカタログより)

さて、里程以外でもたくさんのことが取り上げられ、比較がされていました。
それもなかなか見逃せなかったので、また明日紹介しましょう。
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明後日には、また古代の神祭りと萬葉集の時代に戻るつもりです。
邪馬台国九州説の老女としては、ちょっと、ネ。気になりました。


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by tizudesiru | 2017-07-23 14:29 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
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22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
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31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
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40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
332モノ申す副葬品たち
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う

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