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邪馬台国の滅亡を再検討する・弥生遺跡消息一覧表

此処で、早まってはなりません。日本史の根幹にかかわる「邪馬台国の滅亡」です。それが起きたのは、弥生中期でしたか?
「卑弥呼以って死す」は、248年でした。弥生の後期ですから、あの一覧表を見直してみましょう。
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確かに、弥生中期で一斉に集落の衰退が起きています。そして、徐々に回復したのに、弥生後期に再び衰退期が来ています。
では、祭祀具の破棄を故意におこなったという栗田遺跡と七板遺跡を見ましょう。一覧表には七坂となっていますが、筑前町の文化財課に問い合わせたら「七板」の誤りでした。この七板遺跡は後期後葉で集落が途切れています。
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では、重要文化財を出土した栗田遺跡です。この祭祀具一式はほぼ完形で同じ場所で発掘されました。意図的な廃棄・埋納と考えられています。では、その時期は①➁③の何処でしょう。➁か③のどちらでしょうね。①では祭祀具の出現はまだないそうです。
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同じような祭祀具の意図的な破棄・埋納があった七板遺跡と同じような状況です。「足の踏み場もないような多数の甕棺墓とともに、調査参加者の眼瞳に焼き付くような鮮明に丹を塗られた精製胎土の磨研土器群の発見により他に比類なきものであることが確認された。」と、栗田遺跡の報告書(1974年)に在る通りです。
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ほぼ完形で見つかった!! 偶然ではありません。七板遺跡でも同じ状況なのですから。ほぼ同じ時期に意図的に埋納破棄された、としか思えません。すると、弥生後期にそれが起こったことになりましょう。
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実は、筑前町の柏木宮ノ元遺跡・宮ノ前遺跡は、弥生後期の遺跡です。つまり、土器の大量廃棄は弥生中期ではなく後期の出来事です。阪井田遺跡も弥生後期の遺跡で、溝に大量の土器が捨てられていました。
何か大きな事件があったのは弥生後期となり、邪馬台国の滅亡はこの時期と思われます。
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そして、「邪馬台国の滅亡は弥生中期だった」説は、消滅します。邪馬台国の滅亡は、発掘の状況からして弥生後期でした。
では、弥生中期の集落の衰退消滅は何だったのでしょうか。なぜ集落は消滅したのか、災害でもなく飢饉でもなく国を左右する大事件・・・考えられるのは、ひとつ。
倭国大乱です。
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明らかに、黄色ラインの弥生中期後葉に集落が一斉に消滅衰退しています。
此処で国を揺るがす大事件が起こりました。そして、卑弥呼の登場で乱はおさまります。回復の兆しが見えた時、狗奴国との争いが起きたのでした。祭祀具が捨てられたのは、文化や思想の違う社会になったからで、邪馬台国時代の祭祀は破棄され、人々はそれまでの祭祀を捨てて他所に去ったか、祭祀を変えて集落に残ったか、となるのです。
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ところで、これらの出土物の中で、他を圧しているものに丹塗磨研の筒型土器がある。器高80cm内外で、口径約15cm、上方に鍔(つば)を有するもので、北部九州独特の器制をなすものである。現在までの出土例は20例ぐらいであるが、当遺跡では、以前4個体分出土しており、今回を加えると10個体以上の出土をみたことになる。この筒形土器はSO1・SO5・SO6号の各祭祀遺構から検出された。その中で、SO6号祭祀遺構は、当遺跡の中で最大の祭祀遺構で、完形品およびこれに近いものだけで(基本個体)20個体を数えるほどである。」(栗田遺跡報告書・1974年)

更に驚いたことに、「最大の祭祀遺構であるSO6号を中心に、他の祭祀遺構が南北に連なり、ひとつの流れのようになっている。そして、この祭祀遺構集合線を境として、それぞれの甕棺墓群が対峙している。」と書かれています。
この筑前町の弥生遺跡は葬送文化を持ち、その文化圏には強い結びつきがあったのです。
此の丹塗磨研土器が卑弥呼の時代の祭祀だとしたら、この土器の最大の出土地は、女王国と深い関係にあったことになりましょう。卑弥呼、その人の出身地かもしれません。
この祭祀具は、伊都国でも春日の奴国でも出土しています。卑弥呼の時代の祭祀具には違いありませんからね。
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では、また明日。


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by tizudesiru | 2018-11-19 23:33 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

筑前町・弥生時代の遺跡消息一覧表から読めること=邪馬台国の滅亡

筑前町の弥生遺跡の光芒は、邪馬台国の運命を示唆する
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福岡県朝倉郡筑前町(旧 三輪町と夜須町)の東小田峯遺跡を訪ねましたので、大事なことをお知らせしています。前回「筑前町の弥生遺跡が消滅したのは、邪馬台国滅亡という大事件に関係する」と書きましたので、その事を重ねて紹介します。
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この写真は「東小田峯遺跡の発掘報告書」の大溝の写真です。この遺跡では大溝を全て発掘したのではなく、たまたまトレンチしたところに大溝がかかった、ということです。その写真ですが、各層のところどころに割れた土器片が見られます。つまり長い間かかって溝が徐々に浅くなり捨てられた土器が年月とともに各層に残っている状況です。
この大溝は、平和な日常が営まれていた証拠にもなりましょう。
然し、ここにも集落の消滅は起こっています。では、たまたま土器を大溝に廃棄した場所が掘られていないだけでしょうか。
筑前町の他の遺跡では、大溝のある地点に土器が固まって捨てられていました。
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柏木宮ノ本遺跡も、阪井田遺跡も大溝に捨てられた土器でした。それも、同じ面(層)にかたまっていますから、ほぼ同じ時期に一斉に捨てられたということです。各層に点在するのではなく、土器は積み重なって出土しましたから。
柏木宮ノ元遺跡も、下の写真のように集落が同じ場所に続けて営まれ繁栄していましたが、大溝に土器を一斉に捨てるという状況になったのでした。
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様々な生活用品が出土しています。この豊かな生活が、突然断ち切られたということです。次の表を見てください。驚くべき事実が判明します。筑前町の弥生集落に何が起きたのでしょうか。
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筑前町の「弥生時代遺跡の消息一覧表」です。驚くべきことが読み取れます。つまり、どの集落もある時期に「消えた」消滅した、または衰退したということです。存続したように見える遺跡が若干ありますが、ほとんどいったん途切れています。
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私の理解では、Ⅰa・Ⅰbの時期に甕棺墓が作られますが、Ⅱaになると急に作られなくなる、ということです。しかし、住居はⅡaⅡbまでは、たくさん作られています。
すると、事件は、ⅡaⅡbの時期に突然起こったということです。人がこの地を去ったので、家が残されたが墓はない、人々は他所の土地に行って最後を迎えた、ということになります。

さらに、時間をおいて人が住み始めたが、その人々はかなり違った文化の人になっていた、ということでしょうか。
此処でおきた事は、何だったのか、です。そして、その時期は弥生の何時なのか。天変地異が起きた? 大飢饉があった? でしょうか。生活道具ばかりではなく、祭祀道具も捨てたのです。この時、起こったのは人々を恐怖に陥れた国家的な混乱だったでしょう。
それは邪馬台国が滅亡したこと。
その余波で周辺地域や関係の深い国は大混乱した、と思います。人がいなくなった証拠が筑前町の「弥生時代遺跡の消息一覧表」から分かるのです。
それでなくては、人々は豊かな災害の少ない一等地を捨てていくでしょうか。
では、又明日。


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by tizudesiru | 2018-11-19 00:48 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

弥生集落を去る時、人々は祭祀具も土器も捨てた

福岡県朝倉郡筑前町に出かけました。何度出かけても東小田峯遺跡の場所を探せませんでしたが、今回は筑前町役場の方にお世話になって、地図を用意していただきました。
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筑前町の北には神山がずらりと並んでいます。全て信仰の山です。東小田峯遺跡はすべてが見渡せる平野に在ります。
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遺跡は大根地山を背景に田んぼの中にポツンとあります。
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遠く地平線の向こうは福岡平野・博多湾です。この幅が数キロの地溝帯を、鹿児島本線・国道・県道・高速道路が南北に通っています。古代にも、ここを攻めあがった兵(いくさ)がいました。地溝帯が危険だと思った武士軍団は背振山地を越えましたが。
中世、後醍醐天皇が挙兵した時、肥後の菊池武時入道は背振越えして早良(福岡市)に入りましたが、幼子たちは此の平地を通って博多に入ろうとしましたから、横隈の辺りで見つかり武時の孫たちは討たれました。此処を通るたびに、わたしは肥後菊池家の幼子を思い出しました。筑前町にはあまたの物語がうずもれています。
大昔から此処は人と文化の通り道でしたから、天下人も庶民も通りました。
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此処からは、基山や九千部山も見えます。背振は九千部に重なります。
古代から博多湾に上陸した人は、ここを通って筑紫平野に入ったのでした。反対に有明海に上陸した人も此処を通って博多湾側へ入ったのです。
此処には文物があふれ、文化の華が開いたのです。それは、弥生時代も同じでした。その弥生時代の全盛期にこの辺りの弥生集落は急速に消滅したのでした。なぜでしょう?
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それは、ここ東小田峯遺跡だけの個別の出来事・偶然の事件ではありません。筑前町全体で起こったのです。ほとんど同時に。
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これらの大事件は、偶然ではなく必然でした。それは、邪馬台国の滅亡にかかわる北部九州の悲劇の証明なのです。
今日はここまで、また、明日。



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by tizudesiru | 2018-11-17 23:15 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡(三輪町と夜須町)

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福岡県朝倉郡筑前町の東小田峰遺跡を訪ねました。
福岡平野と筑紫平野を結ぶこの辺りは、1800年前・弥生(中期)の集落が密集した豊かな大地でした。北側には三郡山地が、南側には耳納山地が見えます。筑紫平野はここからゆったりと末広がりに大きく広がり、すそには筑後川が流れています。
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 ここは、旧三輪町です。40年前ほど前になりますが「三輪町史」を借りたことがありました。そこには、近畿の地名と地形と位置関係が言及されていて、地名の移動について書かれていました。奈良の三輪山はこの地の「三輪山」の山名の移動と云うものでした。面白かったので、コピーして地図を知り合いに見せたのでした。その「三輪町」の地名を「筑前町」という近代の地名に変えてしまったのですね。夜須町にしても、古代の伝承に因む名前だったのに、もったいない気がしました。それでも、筑前町は魅力的な処です。
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ほんとに、見える範囲の小さな町ですが、一面弥生遺跡が広がる地域なのです。わたしも歩いていて「石包丁」を拾ったことがあります。畦におちていたのです。教材として学校の関係者にあげたので手元にはありませんが、道端で拾ったものは埋蔵文化財にはならないのでただの拾い物だそうです。が、驚くべきことです。
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ここ筑前町には、発掘されただけでも100カ所をはるかに超える遺跡があります。
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黒点の一つ一つが発掘された遺跡です。そこに住居跡や墓群があります。
その中で、Eグループには20~27の8カ所の遺跡が発掘されていますが、東小田峯遺跡は、23の番号の点になります。拡大すると下の画像(東小田峯遺跡)のようになります。
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23、この小さな点の中には、おびただしい住居跡が重なり、甕棺墓群があるのです。
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甕棺墓群は、次のようになっています。
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甕棺が列になっているように見えます。ここには一定の決まりを以って墓域が作られているのです。そして、「K10」と番号を打たれた甕棺が、王墓ではないかと云われる10号甕棺です。(Kの記号は、甕棺・カメカン(KAMEKANN)の意味で、Kです。)
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筑前町史に掲載されている写真です。ここ10号甕棺にはガラス壁が再加工されて副葬されていました。
こんなに、たくさんの人が住んだ東小田峯遺跡ですが、なぜか突然、最盛期に消滅するのです。何故だと思いますか。
そこには、弥生中期の大事件が絡んでいるのです。邪馬台国の滅亡と云う・・・
ではまた、明日。



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by tizudesiru | 2018-11-17 01:27 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

纏向遺跡のフイゴの羽口は九州から伝わった

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最近の考古学研究の片寄りに驚いています。
ヨーロッパだって、中国大陸だって、韓半島だって、始まりは小さな国でした。ヨーロッパは都市国家が強大国家となったし、中国は夏や殷の文明国家も滅び周や秦も滅び広大な大地で大小乱れて戦い続けましたし、韓半島の小さな国々は中国の進出に悩み、倭人と手を結びました。
でも、四世紀の列島はいつの間にか、近畿が支配していた?
そんな! ありえません。
そもそも倭人伝によると、三世紀の倭人の国は中国と通じる国は三十か国ほど(九州の国々)だったのが、次の四世紀の始めには近畿が九州を支配していたなんて、不思議です。三世紀半ばまで半島系土器も楽浪系土器も出土しないのですから、近畿には半島との外交はなかったのです。
それが、急に鉄を持ち、武器を持ち、王権が生まれたのです。
なぜですか?
九州からの大移動があったからにほかなりません。
今までは、鉄の技術が九州から伝わったとして、「福岡博多遺跡の鞴(ふいご)の羽口(はぐち)が蒲鉾型(かまぼこがた)になっているものが纏向遺跡から出土していたので、鉄製産の技術は福岡から伝わり、それが吉備地方に伝播した」というのが、近畿の学者の見解でした。
然し、彼らは「九州からの技術は困る」のです。鉄製産技術も鉄も出ない畿内の弥生時代を何とかしたいのですが、九州を除く手段が見つからなかった。
そこで、最近は「鞴の羽口がかまぼこ型になっているのは、粘土がゆがんだからだ」というのです。
 なんですか? 其の根拠は?
わたしの卒論は「焼もの」でしたからわかりますが、粘土の羽口がゆがんでかまぼこ型になることは有りえません。
生乾きの粘土が形を変える場合は、土の重みに耐えかねた時ですから、小さな羽口くらいでは起こりません。高熱で立てておいた土器が曲がることはありますが、横に置いているものがかまぼこ型にゆがむことは、ありません。生乾きの粘土を高熱で熱したら空気が膨らみ爆発するか、ひびが入り、羽口としての役目を果たしません。よく乾かしてから焼くので、小さなものが割れることはほとんどなく、かまぼこ型にゆがむなんてこと、起こりません。
更に、博多遺跡と纏向遺跡、遠く離れた地域で、一斉にしかも同じ形にゆがんだ、というのですか?

冷静に考えてください。有りえません。そこにあるのは、九州の影響を断ち切らんがための意図にあふれた説です。そうではなくて、日本の歴史を日本人の手で解きたいと思いませんか。わたしが大阪に生まれても北海道に生れても、同じことを考えると思います。
なぜ、九州ではいけないのですか?
それは、その後につづく「邪馬台国」近畿説がかかわるのですね。
卑弥呼の宮殿を近畿にせんが為に、考古学が奔走していることは十分に承知しています。然し、嘘はいけません。


だから、発掘もしていない箸中山古墳(箸墓)の溝の木片を分析して、箸墓の築造年代を上げました。弥生時代に箸墓ができたとして、近畿の古墳の年代をことごとく挙げたのです。ついに、古墳時代は四世紀からだと社会科で習ったのに、三世紀からにしてしまったのです。
「奈良大好き女子」の私でさえ、納得できません。
わたしは考古学が子供の頃から好きでしたが、最近、驚き呆れることばかりです。驚いたことに、近畿の考古遺物の考古学的時期が、約100年早くなった、のです。
こんなこと続けていいのですか?
こんなことをしなければならない、若い考古学者が気の毒になったりしますが。
本当のことを求めない人に、同情・同調は、しません。
人生は短いですから、大事に使いましょう。自分の国の歴史ですから、生きているうちに本当のことが知りたいです。
以上

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by tizudesiru | 2018-07-30 10:35 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback

倭王の交替・邪馬台国以後の倭王の出自は中九州

わたしは、倭王が何処に住んだのかを祭祀線で探してきました。
すこしずつ、その場所を紹介してきました。

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まず、弥生時代の終焉
上の写真は、ベンガラを塗った祭祀具です。特別の形を特別に製作焼成し、特別の色を塗って特別の場所で神祭りをしたのです。その祭祀具が福岡のあちこちで一か所にまとまって出土しますが、なぜでしょう?
もしや、わけあって一度に破棄されたのではないか、わたしはそう思いました。。壊れたから、一つずつ作りなおしたのではありません。一斉に、強制的に、または集団が進んで破棄したのです。なぜ?
 
北部九州のの国が滅び、信仰が失われたからでしょう。
支配者が変わり、今までの神祭りができなくなったからだ、と思いませんか。
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もう用が無くなった、もう使うことが許されない、祀り手が逃げていなくなった、等々。
とにかく、異常な状況です。その後、組み合わせ式箱式石棺の時代になり、鉄の素環頭大刀が副葬されるようになります。価値観が変わったのです。昔からの支配者がいなくなったか、殺されたか、逃げ出したか、追われたか、社会が変わったのでしょう。


それは、弥生文化の終焉でした

大型甕棺の突然の消滅であり、青銅器の祭祀用武器の埋納でした。

その後、何処の地域の人が権力を握ったのか。とにかく、別の地域の人達です。それは何処か?
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(一度に環濠に投げ込まれた土器だと思われる)
甕棺文化圏を破壊したのは、何処の人か?
それは、鉄を持っていた肥(火)の国の勢力
つまり、倭五王の祖は狗奴国の人

火の国とは、阿蘇山のある国というより、高温の火で道具を作りだす工業国という意味でしょうか。古事記などの逸話からもそう読めます。
さて、その後、火ノ国はなぜ北部九州に侵攻したのか。当然、利権が絡んでいます。
卑弥呼の死後40年ほどで、半島への侵攻が始まっていますから、それを見ると、目的は半島への侵攻です。
狗奴国は北部九州の海を狙っていたのではないでしょうか。

北部九州に侵攻した最初の世代は、生産力の向上に励んだのですね。その後、徐々に力を持ち始めて、ついに半島に侵攻しました、その事を「新羅本紀」は語ります。倭国に関する年表で見ましょう。
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確かに、
三国史記の「新羅本紀」には、倭の侵攻が書かれています。
2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉がありました。


上の年表に、大きな矛盾が見つかりました。邪馬台国を考える上で大きなヒントです。

・173倭女王卑弥呼が新羅に遣使(友好目的でしょうか
・193倭国大飢饉で難民が新羅に入る(友好国に食料を求めたようです
・208倭人が国境を侵す(友好から方針がかわったのでしょうか?)


2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉!!

(飢饉の時、助けを求めて移動できた1000人=半島とつながりの深い北部九州の人、他からの移動は無理でしょう。近畿で飢饉があったとして、人は半島に頼るでしょうか。簡単に渡る航海技術も必要です。それに、何処を通って渡るでしょうか。)
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卑弥呼の国と新羅は友好国でした(173)から、大飢饉の時1000人もの難民が助けを求めたのです。その後、10年で侵略が始まります。なぜでしょうか、友好国としては有りえないことです。

年表をどのように読むか
大飢饉後に人口が回復したのか、
208、232、233年に、倭人は新羅に出兵した。
(この倭人は、北部九州の人でしょうか。恩のある国に侵攻するでしょうか。)
しかし、続いて邪馬台国・狗奴国の戦争が起こり、半島には出兵できなくなった。
そして、
248年の「卑弥呼、以って死す」卑弥呼の死後の40年の空白は、倭国が疲弊したからです。その後、287年、新羅に侵攻するまでに回復した。と読むことができます。

狗奴国邪馬台国戦争の後は、出兵どころではなかった、全てを失った状態が『尽くしの国=筑紫國」になったほど、人々は飢え、新天地を求めて人口は東に流失した(倭人の侵攻で信頼関係をなくしていたので、人々は半島へ渡ることができなかった)。それで、人口回復に40年ほどかかった。


飢饉―人口回復―出兵
狗奴国との戦争―卑弥呼の死ー人口流失―生産力の回復出兵

渡海しての侵攻は、生産力の向上と人口の回復がなければできません。でも、半島出兵の国は、北部九州にあったのでしょうか。

もう一つの年表の読み

➁大飢饉で頼りにした新羅に侵攻した「倭人」は、倭国(邪馬台国)ではない。

173年、卑弥呼が遣使した新羅は、倭国と友好関係であった、のです。
だから、邪馬台国が大飢饉(193年)になった時、新羅を頼りにして大量の人が避難民として渡海しました。
邪馬台国は、近隣の狗奴国を頼るより新羅を頼った、ということです。
倭国は周旋五千余里の狭い範囲でした。その中に、女王国もあったのです。日照りに河川の反乱、倭国の飢饉は広範囲にわたっていたのでしょう。
その小さな倭国連合が、208年に新羅に侵攻できるでしょうか。
ここでの結論は、一つ
208年、新羅に侵攻したのは狗奴国である
狗奴国には鉄の道具があり、生産力が向上していた
狗奴国は、有明海を引き潮と共に南下し五島列島まで渡って、海流にのって一気に半島に向かって北上していたのです。だから、三世紀の始めは、狗奴国は有明海から半島に渡ったはずです。
倭王の宮殿は、有明海に流れ込む河川の中下流にあったと思います。菊池川・白河・緑川流域、いずれも弥生時代からの大きな稲作地帯です。

しかし、狗奴国王は半島や大陸とのつながりを求めて、北の博多湾を使いたかったのです。が、まだ伊都国の存在が大きかったので、結果として狗奴国と倭国連合は対立したはずです。
そこへ、友好国への狗奴国の侵攻。こうなれば、狗奴国と邪馬台国連合は対立するでしょう。
遂に、戦争になり、卑弥呼は楽浪郡に使いを出して解決を模索したのです。しかし、老女だった卑弥呼は戦争の指揮をとることもできず、「以って死す」となりました。

新羅本紀の倭人の侵攻は、「狗奴国の野望」の証し

248年の卑弥呼死後、倭女王国は困窮を極め「尽くしの国=筑紫国」と呼ばれました。当然、出兵は不可能。

40年後、新羅への侵攻が再度始まりました。287,289、292、294、295年ですが、実は、この後の4世紀にも新羅への侵攻が続きます。北部九州の人口は回復していたのでしょうか。
この侵攻を指揮したのは、もちろん倭国連合の王ではありません。新たに「倭王」となった狗奴国の王でしょう。


倭王は、狗奴国王に交代していた

この249~287年の40年の空白ですが、卑弥呼の後を引き継いだ壱与の時代になっています。この空白は何を意味するのでしょう。筑紫国で人々を導いたのは壱与でしょうか。しかし、彼女の国は疲弊しています。
では、彼女は、やはり次の支配者(狗奴国王)に追われたのでしょうか。

壱与は人口流失を止めきれなかった
その為に、倭国を追われた? かもしれません。
何処へ逃げますかね? 中国・四国・近畿でしょうか。
四国には銅剣の密集地があります。銅戈の密集地、銅鉾の出土地と、地域が分かれます。逃げた集団の祭祀具(青銅器)が微妙に違っていると云うことです。それは、一族揃っての移動だったからでしょう。
もちろん、中広形・広形・平形という後期の形態をした青銅製武器です。細形の青銅製武器を持つ九州の弥生より後の時代の青銅器になります。

壱与がいなくなった(死亡・逃亡)ことで、次の男性の権力者が北部九州から半島に進出したと思うのです。自国の繁栄を他国の犠牲によって構築する……権力者の危険な選択でした。

今日は、[狗奴国が女王国と対立したのは、大陸との交渉権をえるためだった]ということ。倭王の祖は、狗奴国の王だったかも知れないと云うこと。倭女王国が半島に侵攻してのではない。これが結論です。
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by tizudesiru | 2018-03-07 11:08 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

邪馬台国フォーラム・高島忠平先生、質問してもいいですか?

重要な意味があった高島氏の発言
飯塚の古代史のフォーラム(2018・2・18)は、たいへん興味深いものでした。計画推進された飯塚市に感謝したいと思います。わたしの住居のある地域では、市の教育文化振興事業団の主催で「古代史講座」などやっていないのです。むしろ、予算を減らそうと頑張っているようです。歴史より経済の方が大切なようですね。
さて
今回、久しぶりに参加して高島氏の発言に大変納得いたしました。
討論会の中で「九州が畿内と関わりを持つのは、5世紀の終わりからだと思われる」という内容の発言がありました。

考古学者の目から見ても、やはりそうだったのだ。
高島氏の「新羅・伽耶系の土器や遠賀川流域の古墳の様相から、畿内と関わりを持つのは、5世紀から6世紀で、早くても5世紀後半以降と思われる」の一言で、今日は来てよかったと思いました。その事は、後で触れます。
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(福岡県飯塚市・遠賀川)
では、あらためて
高島忠平先生、質問してもいいですか?

質問1
遠賀川沿いの集落の人口について、です。桂川の古墳見学に行った時、古墳を造営した人々の集落が何処にあったのか分かっていない、周辺にはない、と説明されました。
では、遠賀川流域全体を見て、弥生後期から古墳時代の人口の増減はどのようになっていますか?
弥生後期の卑弥呼の死後のあたりの人口、古墳時代の磐井の乱前後にかけての人口の推移です。特徴があるのでしょうか?




(冬空の中、筑豊の最奥に英彦山。中央に雪をかぶる)
質問2 
松木さんは討論の中で「近畿には九州系の土器は一つも入っていない」と言われ、すぐ後に「博多遺跡群の第一加工物の中に、近畿の土器がある」と云われました。
纏向遺跡から出土した鞴(ふいご)の羽口(はぐち)は、特長があり博多遺跡の鞴の羽口と同型です。近畿の学者も九州からの技術の提供を否定していませんが、遠賀川流域の鉄生産の状況と、鞴の羽口の形態について、教えてください。博多遺跡とのかかわりはあるのでしょうか?


質問3
村上さんが『銅戈は異常な武器』だと云われました。「特別なものとして扱われ、鉄戈となっていく。剣や矛とは違うよほどの意味があった。用途は祭祀用で、装着部分はそれなりに作られている。」と、なかなか意味深な発言でした。
(福岡平野では鉄戈を副葬する甕棺は周辺部ですが、飯塚の立岩遺跡では、鉄戈は首長墓に副葬されています。)
銅戈を重要視するのは、宗像・阿蘇などの地域だったと思うのですが、装飾古墳で有名な王塚古墳(遠賀川流域最大)もある飯塚市としては、北部熊本との関係をどのように分析されているのでしょうか?


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(遠賀川には数多くの支流が流れ込む。平坦な筑豊平野のの運河となっていた。)

質問4
高島さんの発言の中に「近畿で発掘していた頃」の体験についての一言がありました。「私は大阪(?でしたかね。メモしていません)で発掘していましたが、一つの遺跡から出るその遺物の多さに圧倒されました」とのことでした。
この言葉から近畿の人口爆発が考えられるのですが、発掘された集落は、どの辺りで、時期はいつ頃(土器編年でもいいのですが)のことでしょうか。
河内湖が陸化する時期だとしたら、大量の人口を養えると思いますが。それは、おおよそ邪馬台国時代より下がるのか、上るのか、微妙ですが教えて下さい。
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(飯塚市の東側の山が見えます)
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聞きたいことはまだあるのですが、ここまでにします。

ところで、高島忠平さんは「古代国家と邪馬台国」について、次のように書かれていました。
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邪馬台国が「近畿であれば、日本列島の大部分を三世紀には統一した政権があった」ことになり、「九州であれば、倭国は列島の一部であり、国家形成の道筋が、まったく異なってくる。」と云われます。
ですから、「近畿との接触は5世紀後半」という発言が心に残ったのです。


高島さんの発言は当然です。

3世紀に列島が統一されていれば、ヤマトタケルの東国遠征もないでしょう。

南九州の熊襲征伐も伝承としてないはずです。

もちろん、神武の東征もいりません。


何より宋書の倭王武の上表文が出鱈目になってしまいます。

倭王武は、西夷や毛人の国、海北の地を平らげたとしています。
なにより列島統一がなされていなかった証拠ではありませんか。
統一していなかったからこそ、「治天下大王」を目指して、遠征したのです。


倭王武の遠征が始まったのは、5世紀末です。
478年、武は宋に朝貢し「開府儀同三司」を望みますがかないませんでした。その後、宋の天子は臣下に禅譲し、宋は滅びます。
そこで、武は冊封体制から離れ「治天下大王」になることを決心したのです。

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武は東国に遠征します。稲荷山古墳の被葬者は、その時「左治」したのです。治天下大王の政治を助けた(左=たすける)のでした。

では、武の出発地は何処か、もちろん九州です。日本海側から、若狭湾に入り(そこは弥生から九州と関係の深い場所でした)、名古屋を抜け、東海・東国と進んだのです。
そのころ、瀬戸内と近畿には新たな勢力が出現していましたから、いずれ衝突することは必至でした。
衝突は起こりました。それが、磐井の乱として歴史に残された政変だと思います。墳墓の石人石馬を叩き壊す行為は、相手の王権への冒涜でしかありません。

筑紫君葛子は糟谷の屯倉を献上して、命乞いをします。
しかし、531年(辛亥年)、武の王朝は滅びました。その時、稲荷山古墳の被葬者は、倭王武が活躍したころを偲んで辛亥年(531年)の銘文を刻んだとわたしは思います。


この事には、後で触れるつもりです。

要するに、三世紀での統一はありえません。統一していれば、方々へ遠征する必要もないのですから。このように考えるのが、自然だと思うのです。
高島忠平さんの発言に納得したのは、わたしだけでしょうか。
そもそも、大和朝廷はどのようにして成立したのでしょうか。邪馬台国とは直接にはつながらないとしたら。

では、また。

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by tizudesiru | 2018-02-23 16:22 | 327古代史の危機!? | Trackback

百年の嘘を ホケノ山古墳に粉飾

伊都国の平原王墓と、山城の椿井大塚古墳が同時代?

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「飯塚発 古代史情報最前線・イイヅカから未来のトビラを拓く」というフォーラムでした。2月18日のテーマは『卑弥呼の戦争と武器』でした。

松木先生ほんとですか? 邪馬台国が戦争をした相手は何処ですか?
確か、狗奴国です。
狗奴国は邪馬台国の南に在ったのです。魏書に書いてあります。卑弥呼が死んだとき、帯方郡より張政が倭国に来ています。その後、卑弥呼宗女壱与が女王位に着いたあと、張政を帯方郡に送ります。倭国の使者は、そのまま魏の都に朝貢しました。つまり、魏の使いは倭国の場所もわかり、風俗も調べ、倭国の要人にも会い、卑弥呼の墓も確かめているはずです。狗奴国の位置も状況も知りえたでしょう。
そのことごとくを天子に報告したはずです。嘘や出鱈目や間違いが在ってはなりません。邪馬台国までの距離は正しいのです。
女王国まで、萬二千余里

きちんと魏書に書いてあります。
魏書を読まれているから、松木先生は「文献では邪馬台国は九州だ」と言われたのですね。では、考古学的には畿内ということですか。でも、鉄も、絹も、クスノキも無い、楽浪郡の土器も出ない畿内ですか? もちろん帯方郡の韓式の土器も出土していません。
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それに、先生の資料は大丈夫ですか?
弥生王墓の平原と、椿井大塚古墳を同時代の鏡としておられました。

漢鏡とありますが、三角縁神獣鏡が漢鏡ではないことは、周知の事実ではないのですか?
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福岡の平原王墓は、弥生時代のの女性王の墓と云われています。確かに大量の鏡が出土した方形周溝墓です。
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しかし、椿井大塚古墳は、いわゆる初期古墳ではありません。
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(椿井大塚古墳)
ここは、弥生の墓ではありません。出土鏡も三角縁神獣鏡です。松木先生は、漢鏡5期とまとめている資料を使われています。十分に確かめてのことでしょうか。全く違う時期の副葬品を並べて論じていいのでしょうか。
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さらに、ホケノ山古墳まで持ち出されていました。そのことは、また。
長くなるので、また明日。


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by tizudesiru | 2018-02-21 02:02 | 327古代史の危機!? | Trackback

えっ?鉄がありすぎる九州に邪馬台国はない?

倭の五王の話をしていますが、古代史学会大丈夫かな? と思う事があったので、その事をお知らせします。書いていいかを少し考えましたが、書かせていただきました。
飯塚市発 古代史情報最前線、今回のテーマ「卑弥呼の武器と戦争」
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このフォーラムに参加して、下のような気分になりました。
ゆうれいの正体見たり枯れ尾花


それは、後援会のあとの討論会での発言を聞いてのことです。資料と突き合わせた話し合いの、最後の最後に出た学者の発言を。
わたしは、今日は何をしにここへ来たのでしょうと、思いました。
なぜなら、邪馬台国論争で「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされていたからです。

弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。それも工具や武器の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ました。わたしは邪馬台国と戦争をしていた狗奴国は熊本だと思っています、そして、鉄の武器の差で狗奴国が勝ったと思っているのです。
ところが、

弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
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鉄で邪馬台国を論じるなら、九州で決まりだね、と思っていました。
然し、そう問屋は下ろさなかった、のです。

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鉄戈が取り上げられていました。弥生の青銅武器の威信財として、剣・矛・戈があります。中でも鉄戈は福岡の飯塚市や那珂川町などで、大型の鉄戈と変化して甕棺に副葬されているのです。更に、大型鉄戈は倭国にしか出ません。半島には大型は出土しないのです。
倭国には、大型鉄戈をつくる鉄文化があったのです。

弥生時代には、すでに銅だけではなく鉄を熔かす技術を北部九州は持っていました。


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甕棺の中の副葬ですから、伝世品ではありません。共伴する土器や木製品などで、編年もできているのです。
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弥生遺跡の鉄出土の比較を見ると、一つの遺跡だけでも熊本の鉄製品は圧倒的です。鳥取の青谷上寺地遺跡と比べると、熊本が自前ですべて作っているのですが、鳥取は他の地方からの移入品がありました。日本海側は、九州との交易が盛んだったので、技術の流失があったでしょうし、人の移動もあったはずです

弥生の鍛冶工房の様相・炉の形式が四種類
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Ⅰは、穴を掘り、穴の底に木炭や土を交互に敷き、熱効率を上げています。羽口からの空気が回るからです。ⅠとⅡ型は九州型で、ⅢとⅣ型は吉備辺りになるそうです。つまり、近畿の近くの鍛冶工房では大きな製品は造れなかったのです。
大きな鉄製品は、九州から仕入れたと云うことでした。近畿は流通で一大拠点だったというのです。

 
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倭女王卑弥呼は、魏から五尺刀を下賜されました。弥生の大刀は、素環頭大刀です。素環頭大刀は、弥生の後期組み合わせ式石棺の中から多く出土するそうです。それも、弥生の大刀も九州が圧倒的に多いのです。

しかし、鉄が多く出土する北部九州と邪馬台国は、イメージが合わないのだそうです。
でも、鉄も絹も出ない、クスノキも無い近畿にこそ、邪馬台国はないのではありませんか。文献でも、邪馬台国は九州ですけど。
でも、大事なのは、邪馬台国のその後ですよね。

講演会の中休みに、知り合いの有名ブロガー女子が「ね、どうなの? おかしくない?」と言ってきました。
そんな気分になった人も多かったようですね。

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by tizudesiru | 2018-02-20 17:57 | 327古代史の危機!? | Trackback(4)

女王国は北部九州にあったなら、卑弥呼の墓は何処?

魏志倭人伝の終わりに卑弥呼の墓の記述
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卑弥呼が巻き込まれた重大事が④にあります。①から読んでみましょう。

①正始元年(240)、(帯方郡)太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を倭国に持って行かせ、倭王に任命した。詔と共に金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡・采物を賜った。倭王は使者に上表文を奉り詔に感謝した。
➁その四年(243)、倭王はまた、大夫の伊声耆・掖邪狗ら八人を遣使し、生口・倭の錦・赤と青の絹布・綿衣・白絹・丹木・木の小太鼓・短弓と矢を献上した。
掖邪狗らは八人ともに率善中郎将の印綬をもらった。
③その六年(245)、詔で倭の難升米に黄幢(黄色の垂れ幡)を假綬した(帯方郡の太守より与えられた)。

④正始八年(247)、(帯方郡の)太守・王頎が着任した。倭女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から不和だったので、倭の載斯と烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻撃し合っている状況を説明させた。郡は塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らを遣わし、彼に詔書と黄幢(黄色い旗)を持って行かせ、難升米に与え、檄(おふれ)を書いて卑弥呼を諭した。

 
諭されて、卑弥呼は死を選んだ
それで、卑弥呼は死んだのです。「以って死す」という「以死」とうい文字は、中国の史書では尋常な死には使われていないそうです。事件・刑死などの不慮の死の場合に使われているそうです。
⑤を読みましょうか。


⑤それで、卑弥呼は死んだので、おおいに経百余歩の墓を造った。殉葬した奴婢は百余人であった。あらためて男王を立てたが、国中が従わず、更に互いに誅殺しあい、当時千余人が死んだ。
それでまた、卑弥呼の宗女壱与(いちよ・とよ?)、十三歳の女性を王とすると、国中が治まった。それで、張政らは檄を書いて壱与を諭した。


⑥壱与は、倭の大夫・率善中郎将(宮中の宿衛の武官の長)の掖邪狗ら二十人で張政を郡まで送った。(倭の使者は)魏の都まで行って、男女の生口(奴隷)三十人を献上し、白珠五千、青い大珠玉二個、珍しい雑錦二十匹を貢いだ。
*ここで「倭人」伝は終わりです。


④に卑弥呼の墓は経百歩で大変大きい墓だったと書かれています。
では、箸墓が「女性の墓」という伝承があるので卑弥呼の墓なのでしょうか。箸墓が初めての前方後円墳なのでしょうか。しかし、ホケノ山古墳を始め、箸墓に先行する墓が発掘されました。そこで、ホケノ山古墳は築造年代を引き上げられる事態となったようです。ホケノ山古墳の副葬品は卑弥呼の時代と会わないのですが、築造年代は引き上げられています。それは、何度も書きましたから繰り返しませんが。

女王国が九州なら、卑弥呼の墓は何処なのでしょうね。
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(吉武高木遺跡から見る飯盛山、飯盛山・飯盛神社中宮から見る宝満山)

倭女王の墓、それを祭祀線が教えてくれるはずですが。
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何度もブログで繰り返し紹介した「宝満・飯盛を結ぶ祭祀線」です。このラインはどうでしょう。
弥生王墓
と認められている三か所の王墓が、みんなこのラインに乗ります。このラインを見つけた時から、「卑弥呼が九州の女王ならこのラインに眠っているはずだ」と書いて来たし、方々でしゃべってきました。
須玖岡本・吉武高木・三雲南小路の弥生王墓に加えて、一貴山銚子塚古墳(三世紀末~四世紀初め)が、この飯盛山・宝満山の二山を結ぶ祭祀ラインに乗るのです。それも、春分秋分の東西祭祀線の上に、です。一貴山銚子塚古墳には、三角縁神獣鏡は館外の足元に、後漢鏡は管内の被葬者の頭の近くに置かれていたそうです。それも、一枚は金メッキがされた漢鏡です。金メッキの漢鏡は日本に三面しか出土していません。三世紀末とされるこの古墳も、卑弥呼と深くかかわるかも知れません。
では、此のラインのどこに墓はあるのか……

卑弥呼の霊魂は彷徨っているかも知れない。還るべき山を見失って。
わたしは、弥生文化の断絶を考えました。大型甕棺の時代の断絶です。甕棺が大型となった弥生文化の絶頂期に、その中心地から先に大型甕棺は消滅しました。
大型銅矛を祭祀していた集団の、その祭祀具の埋納(断絶)とほぼ同時期にです。神祭りのための祭祀具を土中に埋めるとは。それは、なぜ起きたのか。政治的経済的な大変革が弥生時代の後期に起きたのです。ただ事ではありません。そこに在るのは、女王国の変革と関わるのではないでしょうか。卑弥呼の館を守っていた兵の武具は、矛です。矛を持つ文化圏に卑弥呼の館はありました。その祭祀具である大型銅矛が埋められる状況を説明するには、女王国の消滅以外に考えられないのです。何かが起こった。
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もちろん、大量の銅矛の鋳型が出土した春日丘陵に、卑弥呼の墓があった可能性は大です。しかし、わたしは続く政変の結果、女王墓は改葬されたと思います。
改葬後の墓の候補地は都が置かれたという伝承がある廟という伝承の場所でしょうか。
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そこは
北の香椎廟の辺りになるでしょうか。そこにあるのは男王の伝承ですが。
ここから九千部山頂が真南に見えます。その視線は春日丘陵を通るのです。この祭祀線の上に乗る神社も怪しいと思いますが、わたしは香椎廟の辺に改葬墓があったと思います。なぜなら、福岡平野の北の地を、霊力の強い神に守ってもらうのが一番だからです。後の世の改葬であれば、そう考えたでしょうね。
今は、まだ、祭祀線を紹介しませんが。


ヒジリ王のラインをおさらいします
ピンクのラインが、弥生の基本的な祭祀線です。この線上で、日の出・日の入りを見守ったのです。赤ラインは、ヒジリ王が観察した山々のラインです。


日知り王のラインは既に紹介しています。ヒジリ王は東西ライン上で祭祀をしていたと。
最終的に春日丘陵になったと思います。ここには、夏至・冬至・春分秋分の各日の出・日の入りの山、その山頂が揃っているのです。
東西祭祀線上の祭祀場で、山と太陽を見て暦代わりにしていたのです。
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(赤の南北ラインの上に、ヒジリ王の暦の山々が南北に連なります。このラインは、まっすぐ高良大社まで届きます。聖なる山の伝統は残ったということですね。)
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では、「親魏倭王」の印綬はどうなったのでしょう。誰かが持って行ったでしょうか。わたしは、後の世の権力者が持ち去ったと思っています。それは…それを持つものは「倭王」だからです。白村江敗戦の上表文は「倭王に問う」と書かれていたではありませんか。倭王としての地位は継続していたのです。



気になるのは、張政が帰国した後の壱与の行動です。

倭王となって、宗女壱与は何をしたのでしょうか。

張政が帰った後、列島は大変革を迎えました。皆さんご存じのように、鉄が全国に拡散します。三角縁神獣鏡が大量生産されます。工業生産地が全国に出現するのです。
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一体、何が起こったのでしょう。人と物の大拡散とは。

生産力が上がっても、人口は急には増えません。子どもが育ち、子孫が増えるスピードより速く、人口が増えるのはなぜか? 答は一つです。人間の移動です。それは、征服や侵略でしょうか。そうとは考えられません。技術を持っての移動ですから、各地ですぐに受け入れられたのではないでしょうか。邪馬台国が負けたからこそ、文化の拡散がおこり列島は変わったのだと思うのです。
技術を持って移動した豪族、彼らのルーツは九州にあると思います。


わたしは、大量の人口移動が倭国の内乱の後に何度も起こったと思います。それは、内乱の度に、繰り返されたと思うのです。二世紀、三世紀も、四世紀・五世紀・六世紀まで、特に、倭国の乱の三世紀と、磐井の乱の六世紀は大きかったと思うのです。
技術を持った豪族のルーツは、面白いです。そして、祖先神の共通性もなかなか面白いです。
それは、また、今度

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by tizudesiru | 2018-02-03 23:17 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
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10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
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76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
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82再度神籠石へ
83悲劇の好字
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87福岡の長谷観音
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92薦神社の不思議な祭祀線
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94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
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97宇佐神宮と北部九州・2
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101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡

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