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「聖武天皇を孤独から救ったのは大仏建立だった」万葉集と古代史

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聖武天皇は東大寺の大仏建立を成し遂げた人で、深く仏教に帰依しました。しかし、その一生は波乱に富み、孤独でもありました。
聖武天皇を不安に陥れた出来事に「藤原広嗣の乱」がありました。この乱をきっかけに、聖武天皇は関の東に行幸することにしたのでした。

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都に残された藤原豊成は、天皇不在をどう思ったでしょう。さぞや悔しかったでしょう。
737年に藤原四兄弟がそろって没した後、それまで藤原四家(南家・北家・式家・京家)から議政官が出ていたものを、元に戻され一氏から一名になっていましたし、橘諸兄が天皇の信頼を得ていたのですから。
藤原氏の後退というその不満ゆえに、740年に藤原広嗣は「乱」を起こしました。
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740年、東国への避難(?)の行幸の途中から、聖武天皇は「大仏建立」という目標に向かって進みだしたのです。難波の知識寺で見たような廬舎那仏を建立するという目標でした。
が、紆余曲折があって、思うようにはことが運びませんでした。
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恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と聖武天皇は彷徨います。そして、ついに平城宮へ戻ったのでした。
そうして戻った平城宮で、聖武天皇を待っていたのは・・・・・・
と、いうお話です。


聖武天皇が孤独になってしまったのは、藤原氏が外戚となったからでした。

「聖武天皇の孤独」の後半のお話しは8月27日(火)で、実は、明日です。福岡市中央区天神の元「光ビル」、『正知ビル』です。8月13日のお話「聖武天皇の孤独」の後半です。
宜しくお願いします。
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by tizudesiru | 2019-08-26 10:44 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

令和元年後期万葉集も読む「聖武天皇の孤独」

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聖武天皇(701~756年)は、寂しい子供時代を過ごした孤独な人でした。
母親の藤原宮子は、首皇子(聖武天皇)出産後、ながくうつ状態にあったようです。そのため、首皇子は母に抱かれることもなく甘えることもできませんでした。親子の体面が36年間かなわなかったのですから。
父の文武天皇は、首皇子が7歳の時に崩御となっています。皇太子は、幼くして孤独の人となったのでした。
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聖武天皇と云えば、奈良の都と深い関わりがあったように社会科で学習します。確かにそうですが、実は首皇子は10歳になるまで明日香に暮らしたのです。はなやかな藤原宮の近くで、宮子の父である藤原不比等の館で育ったのかもしれません。乳母の県犬養道代がしっかり世話をしたのです。道代は不比等との間に安宿媛(あすかべひめ)を生んでいますから、首皇子と安宿媛は一緒に子ども時代を過ごしたことでしょう。
もちろん、二人の将来を見越して藤原不比等は首皇子と安宿媛(光明子)を育てたのです。不比等が道代に近づいたのは、道代が元明天皇(首皇子の祖母)に信頼されていたし、命婦(みょうぶ)として力があったからにほかなりません。道代は文武天皇の乳母(めのと)でしたから。そうして、その子の首皇子の乳母にもなったのです。天皇親子の乳母になるなんて、三千代はスゴスギです。
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元明天皇にすれば、息子ばかりではなく孫まで道代の世話になったのです。
和銅元年(708)、文武天皇没後に母の元明天皇はやむなく中継ぎとして皇位に着きました。(首皇子はまだ7歳で幼かったからです。)その大嘗祭の時、道代は「橘」の姓を与えられ、
「県犬養橘宿祢三千代(あがたのいぬかいのたちばなのすくね みちよ)」
となったのでした。道代も三千代と字を変えました。元明天皇は三千代に感謝を示しました。

そうして、首皇子は十四歳で皇太子となりました。しかし、
藤原不比等と県犬養三千代の努力にもかかわらず15歳になっていたのに首皇子は即位できませんでした。
祖母の元明天皇が譲位したのは首皇子ではなく、娘の氷高内親王(首皇子の伯母)でした。

「*略* この神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯(よはい)幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符(しょうふ=天の授けるよいしるし)に叶ひ、つとに徳音(よい評判)をあらはせり。天のゆるせる寛仁、沈静婉孌(ちんせいえんれん=もの静かで若く美しい)にして、*略* 今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が心にかなふべし」
不比等と三千代の皇太子養育を信頼していたはずですが、元明天皇は首皇子について「年歯幼く稚くして深宮を離れず」と詔の中でふれています。譲位できなかったのは、首皇子が幼かったからでした。
首皇子の父・文武天皇は15歳で皇位に着いています。祖母の持統太上天皇は傍にいて、ことごとく補佐をしていました。
ですから、今回も元明天皇の補佐があって首皇子の即位も可能だったかもしれません。しかし、元明天皇はそうしなかった。
それは、何故か。

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文武天皇は在位10年間(697~707)に様々な大仕事に取り組みました。優秀な官僚がいたとしても、十代の若い天皇には大変な重圧だったと思います。そして、持統天皇と藤原氏のための施策もこなさなければなりませんでした。
おまけに、夫人の藤原宮子はうつ状態で監禁されていました。若い文武天皇もやはり孤独でした。
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万葉集の文武天皇の御製歌を読んでみましょう。
 吉野宮に幸す時の歌
74 み吉野の山の嵐の寒けくに はたや今夜(こよひ)も我がひとりねむ
吉野に行幸の時でさえ、羽を伸ばすこともなく独り寝をしています。しかも「今夜も」ですから、いつものことなのです。
文武天皇は疲れ切ったのだと思います。それで、若くして崩御となった…
元明天皇はその事を分かっていて、孫のために「十五歳即位」を避けたのでしょうか。そう思いたいですね。
孫には息子のような苦労はさせたくない、体に無理をさせてはいけない、そう思ったのでしょうか。
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さて、首皇子(聖武天皇)は、二十四歳で即位します。
伯母の元正天皇は、草壁皇子の皇統をつないだのだと詔しました。天皇となった聖武天皇は悩み続けます。自分は何をするために極位に着いたのか。そんな聖武天皇がたどり着いたのが大仏建立でした。
8月13日のテーマは「聖武天皇の孤独」です。


8月13日はお盆に入っています。しかし、「筑紫古代史の会」は例年どおりお盆も講座をするそうです。
ですから、私もお話しさせていただくことにしました。
場所は、福岡市天神 正知ビル(光ビル、ではなく名称が変わっていました)です。
時間は13持30分~16時です。  宜しくお願いします。

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場所は今までと同じですが、ビルの名前が変わっていました。ごめんなさい。

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by tizudesiru | 2019-07-24 21:42 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

「光明皇后の権力の影に不運と不幸と孤独」6月25日のテーマ

万葉集を読むかぎり、光明皇后は孤独でした。夫の聖武天皇も、娘の孝謙天皇も孤独で不運でした。
最悪の状況の中で強く生きた女性のお話を予定しています。
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前々会の「玄昉の墓」の紹介の時、光明皇后について少し触れました。今回は光明子が詠んだ三首とその歌が詠まれた背景に迫ります。

4240 大船に真梶(まかじ)しじぬき この吾子を 韓国に遣る いはえ神たち
752年、甥の藤原朝臣清河が遣唐大使となったので、春日の宮で神事を行った時に、光明皇后が詠んだ歌です。
 この時代の遣唐使は命がけでした。遣唐使として海に消えた学問僧や留学生が数多いましたから。
清河もその事は承知していました。しかし、嫌とは言えません。藤原豊成(南家・武智麻呂の長子)と藤原仲麻呂(南家・武智麻呂の二子)が任命したのですから。清河は北家・房前の四男でしたが、南家の勢いに押されていました。この時、豊成は右大臣、仲麻呂は大納言でした。そして、仲麻呂は光明皇后のお気に入りでした。
 清河には大使として唐に行く他の道はなかったのでした。
 
  遣唐大使となった清河が詠んだ歌です。
4241 春日野に いつく三諸の 梅の花 栄えて在り待て 還り来るまで

 清河は還って来たいと思っていました。しかし、彼は還れませんでした。唐で客死しています。向こうで子を造ったみたいです。
北家が台頭するのは、藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こした後の方でした。
藤原四兄弟は、南家・北家・式家・京家と四家に分かれていますが、その権力争いはし烈でした。このころ、藤原宇合の式家は、長子だった広嗣がおこした「広嗣の乱」以来低迷していました。

光明皇后は、藤三女として出身の氏に尽くしました。ですから、身内の失敗や混乱をつぶさに見ていたことでしょう。つらいことも悲しいこともあったはずです。
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東大寺の正倉院は、大仏殿の裏にあります。夏の東大寺の裏には鹿たちがゆったりと遊んでいます。その裏道の林の奥に正倉院があります。ここには光明皇后により「聖武天皇の遺愛の品」が奉納されています。

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木立の向こうに、正倉院の校倉(あぜくら)造りの壁が見えています。

6月25日には「光明皇后の不運と不幸と孤独」のお話をする予定です。
福岡市天神・ 13持30分~16時 

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では、また、お会いできますように。


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by tizudesiru | 2019-06-20 00:26 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年
藤原宮は15年で捨てられたが、難波宮は生き延びた
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(大阪城南・難波宮址)
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(歴史博物館画像・難波宮)
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難波宮は交通の要衝にあり、外交・経済活動の要の地にありました
何処と深くつながっていたか、ラインで見ましょう

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東西に意味があるなら、藤原氏が難波宮の真東に社殿を建てた理由はひとつ
藤原宮は捨てられましたが、難波宮は長く使われ続けています。平城京遷都を計画した時、為政者にとって難波宮はどのような意味があったのでしょう。春日大社の位置を考えれば、その答えは自明のことでありましょう。

難波宮から見ると平城京はほとんど真東に当たりますが、難波宮大極殿に対応するのは平城京の大極殿ではないのです。難波宮大極殿からの東へラインを引くと、東西の関係に収まるのは藤原氏の氏神・春日大社です。春日大社は難波宮の位置を意識して造られたのです。藤原氏の氏神と孝徳天皇霊の霊的な一体化です。
聖武天皇は難波宮を副都としましたから、難波宮はずっと重要な位置に在りました。

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新しい体制(律令政治)への転換を目指して「大化の改新」の詔をだした孝徳天皇の難波宮。そこは、律令政治の出発の地であり、理想の地でありました。
律令政治を藤原鎌足も孝徳天皇と共に目指しました。豪族の合議ではなく、律令によって国を動かす。富の分配を豪族以外で行うためには、律令が必要でした。
春日大社の社殿の位置は、鎌足と孝徳天皇(軽皇子)は深く結びついていたと強調したかったから選ばれたのでしょう。

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孝徳天皇の難波宮は人々を驚かせた
第一次難波宮は掘立柱の宮殿でしたが、「表現できないほど素晴らしい」と人々を驚嘆させました。この難波宮を詠んだ歌が「難波津の歌」であると、去年このブログでも書いています。仁徳天皇の代を寿ぐ歌ではなく、孝徳天皇の宮を寿ぐ歌に他ならないと。
発掘された難波宮の壮大な宮殿跡を見ると、「大化改新はなかった」などとは思えません。大化改新の詔は、孝徳天皇の理想が具現化したものに違いないでしょう。藤原鎌足は孝徳天皇(軽皇子)と理想を語り合っていました。
(鎌足は軽皇子を尊敬していたし、皇子も鎌足を気に入っていたのです。)
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その後、難波宮は火災にあいながらも存続し続けました。天武天皇も持統天皇も難波宮を使いました。文武天皇も行幸しています。
瓦葺の第二次難波宮の宮殿は、第一次難波宮とほぼ同じ位置に同じ配置で造営されました。奈良時代には、藤原氏は鎌足と軽皇子を結びつけ、春日大社の地を大極殿の真東としたのです。東西ラインは難波宮の重要性を肯定していますが……他のラインはどうでしょうか。

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不思議なことに、難波宮は平安時代の「延喜式式内社」に挟まれているのです。
延喜の帝(醍醐天皇)の代に奏上された延喜式、その中の式内社の中でも官より奉幣されるべき名神大社がありますが、その名神大社に難波宮が挟まれるという、由々しき事態になっているのです。

醍醐天皇は、皇統が切れそうになった時、皇籍に復帰された宇多天皇の御子で、宇多天皇の在位十年に譲位を受けた天皇でした。そして、どうしても果たさなければならない使命が、皇統の継続と維持でした。だからこそ、全国の神祭りを見直し、皇統の弥栄と継承を祈るための神社が選ばれました。
皇統への祟り神は封じ込められ、退座させられ、古代の氏族が祭祀する神々の霊力は断ち切られました。そのために式内名神大社は配置されました。(このことを紹介することが、このブログを始めた理由でもありました)
古代には霊力は信じられていたし、それは日常生活も政治も経済も左右したのでした。


画像を見てください。
下鴨神社・御所・酒解神社・難波宮・生国魂神社のラインは、難波宮大極殿を見事に挟みます。下鴨神社など三社は、みな式内名神大社になります。式内社の三社に挟まれることは、めったにありません。しかもラインは天皇のお住まいそのものを通ります。すると、御所と難波宮は三か所の式内社の霊力で守られたことになりますね。

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舒明天皇・天智天皇・持統天皇が詠んだ天香具山にもラインが届く
また、明日香の天香具山と結ぶと、越智神社(若干ずれている)を通り、藤原宮の大極殿をラインが通ります。平安京・平城京・藤原宮がこんなラインで結ばれるとしたら、どんな意味があるかわかります。藤原宮の大極殿(白ポイント)を通るのですからね。

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不思議なことに、天香具山と結ぶと藤原宮が、下鴨神社と結ぶと御所が取り込まれるのです。こうして、十世紀には三都は新しい物語に組み込まれていくのです。
ラインは自然にできたものではありません。その時代を生きた為政者の切なる願いや、暗躍する野望を背景に作られたものなのです。
孝徳天皇崩御の654年から聖武天皇崩御の756年の約百年間、その後も難波宮は激動の時代をずっと見まもりました。藤原宮や平城宮より長く存続した宮処なのです。
それは、万葉集のほとんどの歌が詠まれた時期ともだいたい重なります。

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あらためて、難波津の歌を読みかえしましょうか。孝徳天皇を偲びながら。


by tizudesiru | 2018-01-07 12:30 | 316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮 | Trackback

橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ

橘諸兄左大臣、黄泉国に遊ぶ
井出の玉川は歌枕の地として有名ですが、橘諸兄左大臣の邸宅もありました。左大臣はこの地に山吹の花を植えました。なぜだと思いますか? 山吹は黄色で、あの世を意味するのです、黄泉を。
高市皇子の「十市皇女が薨去した時の歌」がありましたね。
158 やまぶきの立ちよそいたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく (山吹が咲き乱れているという黄泉の国の山清水を酌んで貴女に差し上げたいのだけど、そこへ行く道が分からない)
山吹が「黄泉の国」を意味していると、当時の教養人は誰もが知っていました。
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(井出の玉川)
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この地に屋敷を構えた橘諸兄は、聖武天皇の皇后・光明子の実兄でした。県犬養美千代が美努王との間に産んだ子どもです。県犬養三代は藤原不比等との間に光明子を生みました。聖武天皇の乳母でもあった美千代は、光明子と共に首皇子(聖武天皇)にも授乳したのです。首(おびと)皇子の母の藤原宮子は、心の病になっていましたから、吾子を抱くこともできませんでした。首皇子にとって県犬養美千代は本当に母替わりだったのです。
そんな美千代の子どもが葛城王(橘諸兄)と佐為王でしたから、藤原四兄弟が流行り病で没した後は自然に諸兄が権力の座に登りました。諸兄は、参議、大納言、右大臣、左大臣と出世していきました。参議の時、『橘』姓を承けています。孤独な聖武天皇は諸兄を信頼し、諸兄も聖武帝を守りました。
聖武帝に後継者問題が出てきたとき、諸兄は阿倍内親王(孝謙天皇)ではなく、長屋王の残された子ども「黄文王」がふさわしいと考えたようです。阿倍内親王に独身を強要するより、天武朝の弥栄の為に高市皇子の系統の黄文王がふさわしいと考えたのでしょう。黄文王は藤原不比等の娘が生んだ子供だったので、藤原氏にとっても、そう悪くない話だと思ったのでしょうが…
結果として、阿倍内親王が立太子されました。宴席での諸兄の愚痴が告げ口されますが、聖武天皇は笑って相手にされません。しかし、それを知った諸兄は己を恥じて左大臣を辞職しました。

井出の地で山吹を植え続けて、諸兄は黄泉の国を作りました。こんな父を見ていた息子の橘奈良麻呂です。彼が父の死後、謀反するなど考えられないことです。不満はあったでしょうが、父の姿を見ていたはずですから、孝謙天皇を守ろうとはしたでしょう…
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藤原広嗣の乱(740)の時、動揺した聖武天皇を諸兄は支えました。井手の玉川を取り込んだ恭仁京の建設もその一つだったのでしょう。頼りにしていた元正天皇崩御(748)の後も、しかし、諸兄は左大臣を辞任(756)しました。翌年(757)一月橘諸兄薨去。その七月、奈良麻呂謀反という思いもよらぬ展開になるのです
井出の玉川、ここが黄泉の国に遊んだ橘諸兄左大臣の住んだところだったからこそ、たくさんの文人、西行や芭蕉などを引き付けたのでしょう。彼らも黄泉の国を見たでしょう。今は、桜の名所ですが。
井出の玉川、清々しさと哀しさと、そんな思いが交錯するところです。


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では、橘諸兄が信仰した玉津岡神社に出かけてみましょうか。



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by tizudesiru | 2017-06-10 21:30 | 253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ | Trackback

195聖武天皇と元正天皇の約束

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by tizudesiru | 2017-01-09 11:30 | 195聖武天皇と元正天皇の約束

186聖武帝の不運と不幸(3)

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by tizudesiru | 2016-12-31 14:32 | 186 聖武天皇の不運と不幸

186聖武帝の不運と不幸(2)

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by tizudesiru | 2016-12-31 01:22 | 186 聖武天皇の不運と不幸

186・聖武天皇の不運と不幸

186聖武天皇の不運と不幸

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聖武天皇の不運と不幸

その遠因は、帝(首親王=聖武天皇)の母があの藤原宮子で、皇后に昇る妻が藤原光明子だったことです。

マタニティブルーだったのか、宮子は三十数年も息子に会いませんでした。

光明子(安宿(あすかべ)媛)の母は犬養三千代で、文武帝と聖武帝の乳人(めのと)です。犬養三千代が安宿媛(光明子)と首皇子(聖武帝)を育てたのです。


その成長を元明天皇は危惧していました。

それでも、藤原氏の手により首親王の十五歳即位の準備は、前回書いたように着々と勧められていました。

しかし

祖母の元明天皇は、皇太子ではなく()(たか)内親王(ひめみこ)元正天皇に譲位しました。首皇子が元服立太子していたにもかかわらず、です。

藤原氏は元明天皇にしてやられたのです。

元明天皇の詔には(けん)(どう)は天を()べ、文明ここに(こよみ)(ぎょ)す。大きなる(たから)(くらい)といい(略)()りてこの神器を皇太子に譲らむとすれども、()(はい)幼く(わか)くして未だ深宮(しんきゅう)を離れず。(略)一品氷高内親王は、早く(しょう)()(天の授けるよいしるし)にかない、つとに徳音(とくいん)(よい評判)をあらわせり。(略)今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が(こころ)にかなふべし』


詔には首皇子が「若く幼く即位するには不十分」と言うのです。皇太子側には厳しい評価でした。育てた藤原氏側は恥をかかされた状態でしょう。


藤原氏は首親王に猛勉強させます。

715年 長親王(6月没)穂積親王(7月没)志貴親王(8月没)

9月・氷高内親王即位

716年 遣唐使任命有力者を国外へ出す

717年 難波行幸 藤原房前参議 

718年 藤原不比等ら養老律令撰進

719年 首親王始めて朝政に参画 新田部親王・舎人親王が皇太子の補翼を務める

720年 不比等没 日本書紀などを撰進

721年 元明天皇没 井上女王(首親王の娘)を伊勢宮の斎内親王とする

     *県犬養広刀自の生んだ女王の結婚のチャンスを断つ目的か
     実際に「伊勢の大神宮に侍らしむ」のは727年のこと。

724年 首親王即位


日本書紀の編纂に取り組んでいた舎人親王など、天武朝の有力者を皇太子の補翼を務めさせたのでした。
元明天皇が没すると、県犬養広刀自の生んだ皇女を斎内親王と決めます。彼女に有力者に嫁がれては困るので、伊勢神宮の斎宮とするのです。藤原氏側が先手を打ったのでした。

*後に、井上内親王は光仁天皇の皇后になるのですが、最後は皇太子と共に殺されました。広刀自に生まれた三人の子どもたちは全て消されました。

聖武天皇は自分の御子を残すことができませんでした。

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安積親王の突然死

聖武天皇の期待の皇太子(母・光明子)の(もとい)(おう)は生後一歳で死亡し、安積(あさかの)親王(みこ)(母・(あがた)犬養(いぬかいの)(ひろ)()())も若くして薨去し男子跡継

安積親王(728~744)は、十七歳で毒殺されたと言われます。

大伴家持は安積親王の内舎人(うちとねり)だったので、そのショックは大変なものでした。

聖武天皇はまことにお気の毒な帝でした。


by tizudesiru | 2016-12-29 17:37 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Trackback

奈良の都に咲いた花

天平勝宝元年・聖武天皇出家 仏教により救われることを求めた聖武天皇。光明皇后のほうが強かったとか、心の負担が大きくて気の弱い天皇だったとか、色々噂もあるようですが、とても人間的な方だったのではないでしょうか。寺院に行幸される事も多く、749年1月天皇皇后そろって、行基を戒師として出家されました。行基は2月には亡くなっていますから、ギリギリまで唐からの戒師を待っておられたのでしょうか。唐僧鑑真が大宰府にたどり着くのは、753年のことです。754年、鑑真を戒師として、親子そろって菩薩戒を受けられました。
 聖武天皇をこれほどひきつけた仏教。奈良の仏像に迫力があるのもうなずける気がします。
 平城京で朝廷の保護を受けたのは、興福寺(669年創建)・東大寺・西大寺(765年創建)・薬師寺(680年創建)・元興寺(593年創建)・大安寺(飛鳥の大官大寺の後)・法隆寺(607年?創建)の七寺です。この中で、平城京の始まりとともにあった寺は、薬師寺・元興寺・興福寺・大安寺・法隆寺でしょう。東大寺は、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇そろっての大仏開眼で知られる寺です。若草山麓の金鐘寺が前身と聞きます。ですから、平城京造営のとき都の守りにどれだけ貢献したか不明です。
 奈良の都は、多くの寺社により守られています。それも政変の度に強化されたようです。それらのラインが錯綜しているのです。たとえば、興福寺は藤原氏の氏寺です。光明皇后は自らの署名に「藤三女」と書かれています。それほど、藤原家系を誇りにされていたのです。また、藤原の後ろ盾により莫大な財力を手にしておられたのです。ですから、多くの寺社を建立されたことでしょう。
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崇道天皇神社の北に興福寺が在るとか、こんなものを地図上に見つけると心の中に重いものがひろがります。崇道天皇とは、藤原種継暗殺事件に連座して幽閉され、無実を訴え流刑途中に断食し憤死された早良親王の事です。桓武天皇の実弟にあたります。「崇道」と聞くと祟り神の代名詞のように言われるし、胸が詰まります。興福寺は、そういう様々な祟りや怨念も鎮めようとしているのでしょうか。

 奈良の都にもたくさんの悲劇惨劇があるようです。
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2012年1月に佐賀県の武雄市で道祖王(ふなどおう)の墓を見ました。聖武天皇の遺詔で皇太子にされた人です。天武系の新田部皇子の王子です。聖武太上天皇崩御の翌年(757年)3月、孝謙天皇により皇太子を廃されました。光明皇太后の指示だったとか…。
 757年7月橘奈良麻呂の乱。奈良麻呂が擁立しようとした天皇候補の中に、道祖王の名前がありました。わずか9歳で杖打ちの刑(死刑)となった廃太子・道祖王。。この乱では、400人ほどが死刑や流刑になったのです。無実の人もいたでしょう。
 「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今さかりなり」教科書でも習うこの和歌は、大宰府にて小野老(おののおゆ)が呼んだものです。あおによしは、奈良の枕ことばにもなっています。遠く大宰府から思う奈良には、どんな花が咲き、散っていったのでしょう。


 近畿の複雑な皇位継承・主導権争い・氏族の存亡をかけた戦い等々絡んで、祭祀線が複雑です。更に千年の都の怨霊と祟り封じが重なっています。様々な祭祀線を整理して、また後で紹介します。奈良京都は終わりそうにありませんので。
  

旅行で少し家を空けるので一週間ほどお休みです。また、いずれ


by tizudesiru | 2012-04-10 16:17 | 64続・あおによし奈良の都の祭祀線 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
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78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
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83悲劇の好字
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94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
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119基山とは何か
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121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
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125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
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129?国の墓制・巨石横穴墓
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131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
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147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
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153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
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157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
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163持統天皇の最後の願い
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169額田王の恋歌と素顔
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171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
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179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
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181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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