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倭五王は行方不明

「神籠石(こうごいし)は、消えるのか」と、気になることを書きました。
結論としては、「神籠石は死語になる」と思います。わたしは、次の世代は名称として「神籠石」を使わないと思うのです。
今まで歴史の表舞台に出さなかったものを、文化庁が名前を変えて表に引き出しました。神籠石を持つ自治体としても観光に使うつもりなら「古代山城」として「山城ブーム」に乗るでしょう。耳慣れた言葉を使うのは、当然ですから。
もちろん、神籠石が消えるかどうか、次の世代が歴史をどう捉えるかで決まりましょう。ということで。

今日は、しばらく頓挫していた倭五王に戻ります。

そろそろ、たまった宿題を片付けなければなりません。
行方
不明の倭五王を探すことです。

倭王武は、雄略天皇なのか
宋書によれば、倭王武は倭王興の弟です。倭王武が日本書紀の雄略天皇であれば、確かに、宋書や梁書の倭国伝や倭伝とは系図が合致しません。

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雄略天皇が倭王武だって…ほんとですか?
倭王武が宋に遣使して上表したのが478年雄略天皇が没したのが479年ですから、
倭王武=雄略天皇なら、遣使の翌年には死亡したことになります。

宋書に書かれた倭王武は雄略天皇になっていますが、実は日本書紀でも決定打がなく倭王武も誰だか分かっていない、ホントは見つかっていないそうです。
書紀の中には、雄略天皇が宋の冊封体制に組み込まれることを望んだことなど、一切書かれていません。宋との交流も書かれていないのです。


宋書との接点がない理由は、「倭王が宋に朝貢した」という記事を正史である日本書紀に載せるのは恥だとして、正史に掲載しなかったというのです。
現代の歴史学者としても、他に理由を見つけられないのでしょう。
ホントにそうでしょうか。倭王武は実在の人です。その父、祖父にしても、中国との交流を書紀で辿ることはできません。


ここで考えられるのは、「五人の王の誰も書紀に登場しない理由は、日本書紀の大王・天皇とは無関係の人達ではないか」と云うことです。五王が畿内の人ではないと考えると、かなりの部分が解決します。
しかし、そうなると、倭王は何処に居て、どのような国をつくり、どのように消えて行ったのか、といった問題も出てきます。

先のブログでも既に出しましたが、ここで武の上表文を再読しましょう。
倭王について何か分かるかも知れません。

478年、倭王武が、宋に国書(上表文)


宋の冊封体制にありながら、武は自らの府(役所)を開いて政治を行いたいと申し出たのでしたが、翌年479年に、宋は滅亡しました。


その後の武の行動は? まず、武の上表文を先に読みましょう。
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上表文から分かること

①倭国の王は、遠征時に甲冑を身に着けたので、見栄えのいい甲冑を持っていた。それらは、墓にも副葬されたはず。


➁東の毛人の国を征服、西の衆夷の国を服属、渡海して海北の国を平定し、中国に朝貢を忘れなかったと自慢している。広い範囲を平定したのが、倭五王の時代なら、卑弥呼の時代はそこまで統一されていなかったことになる。(では、邪馬台国畿内説は?)

倭王にとって百済は親しく高句麗は憎い国である。

④倭王武は父親と兄をほぼ同時期に失った。

⑤倭王は、父兄の志を遂げること=高句麗に勝つことだ、と思っている。

⑥宋の後ろ盾で高句麗を破りたい。

⑦このような倭国王だから開府儀同三司を授けてほしいと願った。


①~⑦まで確認しました。
ここで驚かされるのは、軍事力です。そして、戦争をする意味です。理由もなしに「刃を畏れず戦う」ことはできません。彼らは何のために命を懸けて戦ったのか。
先に挙げたように「倭王が畿内の人ではない」とすると、倭王は畿内をスルーして関東へ遠征したことになりますが、其のあたりが上表文では読めません。

半島への派兵も重要です。上表文から「高句麗憎し」が浮かびます。
百済と高句麗が対立していたから、倭国は百済側に着いて高句麗を共通の敵としたのでしょう。

倭国は何処にあったのか。
①~⑦で読めるのは、百済に近くすぐ百済に行ける地域。近畿をスルーして関東に遠征できる地域、です。伝統的に戸籍を持っていて、軍備を早く整えることができる国です。食糧生産に適した地域でもありましょう。
どうも畿内の王権ではないようですが。
然し、これだけでは十分ではありません。

また、武の必死の思いは伝わりますが、開府儀同三司を許されることはなく、宋も滅びたし、武の朝貢も終わりました。以後、朝貢の記録はないのです。この辺りは、既に書きました。



479年以後の倭王武の行動

武は開府儀同三司の理想を捨てたのでしょうか。
次の年表を見てみましょう。474・475・479・は雄略紀の記事です。
471年は江田船山古墳の金石文です。

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上の年表を見ると、いろいろ考えることができます。
その事は、また次に。


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by tizudesiru | 2018-03-27 12:16 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

太陽祭祀から祖先霊祭祀へ、歴史は動いた

太陽祭祀から祖先霊祭祀へ

前日、古墳時代になって祭祀が変わってきたことに触れました。
「太陽」ではなく「祖先霊」が大きく祭祀されるようになったと。「祖先霊」の祭祀は、ラインを引くとよくわかります。重要な山や墓ほどたくさんのラインの起点や終点、通過点となるのです。


では祭祀線で、首長墓と言われる古墳を見ます。

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福岡県糸島市の三雲南少路王墓の祭祀線
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福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳の祭祀線
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福岡県八女市の岩戸山古墳の祭祀線
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福岡県福津市の宮地岳神社古墳の祭祀線

色々な山、延喜式内社、有名神社、古墳、神籠石等と結んだ直線です。これらが祭祀線として全て有効だとは言いませんが、何らかの大きな意味を持っていると思うのです。

ここに上げた古墳は、すべて築造時期が違っている
上記の古墳は墓制も微妙に違っていると思うので、同じ氏族ではないはずです

しかし、当時の人が「神と祀られた権力者には強い霊力がある」と信じていたから、ラインを引くことができた、と思います。
次の権力者は、前時代の権力者の霊力を畏れられたでしょうし、それにあやかりたいとも思ったでしょう。
では、ここで問題が起こります。

支配者の墓制をどう考えるか、支配氏族の継承や断絶を、ラインで読めるのかです。この事は、次の機会に取り上げましょう。


祭祀線の起点・終点・通過点となった信仰の山々

宝満山・脊振山・九千部山・飯盛山・井原山・雷山など

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直線は点と点の二点を結ぶとできるものです。しかし、わたしは三点以上が直線上に並ぶものだけをラインと呼びました。その中には、神祭りに使われた祭祀線が含まれていると思うのです。わたしは地図上にポイントを置きましたが、山のポイントは山頂に、神社は本殿に、墓は墳丘の中心に置きました。それでもラインが引けるのか、大事な点です。

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福岡県飯塚市桂川の「筑前王塚古墳」です。黄色のラインは、王塚~宝満山~脊振山をむすびます。
この被葬者は遠賀川上流に葬られましたが、福岡平野、佐賀平野・遠賀川流域(肥前・筑前・豊前)を支配する王だったとなるのでしょう。ちなみに、この王墓は遠賀川流域では最大で、五色の顔料を用いた
最高の装飾古墳で、各地から集めた石材で石屋形が造られ、そこににダブルの死床があります。

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熊本県菊水町の江田船山古墳です。この古墳の副葬品には有名な銀象嵌の鉄の大刀がありました。他の副葬品も、この時代では舶来品が最も多い古墳です。水色のラインは、岩戸山古墳~江田船山古墳~熊ノ岳となります。

今日は以上です。明日は、「一貴山銚子塚古墳の築造時期に異議あり」の予定です。外出しますから、アップは夜中になるかも知れません


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by tizudesiru | 2018-03-16 12:05 | 331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化 | Trackback

狗奴国から糸島、そして津屋崎に進出したのは、倭王だった

平原王墓の巫女王が、卑弥呼宗女壱与(臺与)なら、その霊力は封じられた
福岡県糸島市の平原王墓の主は、霊力を象徴する鏡を全て割られていた

壱与の次の時代、
 
王位を奪った一族(一貴山銚子塚古墳を築造)の霊力
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次の王は、平原王墓の巫女の霊力を象徴する鏡を全て割り、霊力を封じた
東西祭祀線上に築造された一貴山銚子塚古墳は、糸島では最大の古墳

一貴山銚子塚の主は成功しましたが、一族は支配を確立できたのでしょうか。
彼らの狙いは、伊都国の統括だけではなかったようです。もっと広く世界を見ていたと思います、大陸や半島を、倭王として。

(倭女王から倭王の地位を奪った一族は、伊都国から監視役のような「一大率」や「大倭」という役職を奪ったかも知れません。
*一大率とは魏志倭人伝に書かれた検察権力を持った役職で、伊都国に置かれていました。大倭も魏志倭人伝に出てくる役職で、交易や税を監視していました。

では、一貴山銚子塚古墳の次の世代の端山古墳を祭祀線でみます

端山古墳は柄鏡形の前方後円墳で、一貴山銚子塚と同じ南北の主軸線ですから、同じ一族の墳墓でしょうね。端山の後の世代、帆立貝型の築山古墳が近くに造られましたが、築山古墳は墳丘が小さくなりますから、首長との関わりが薄くなったのでしょう。一族の間で優劣はあったでしょう。

大型古墳が太陽祭祀線上から外れていくのは、太陽祭祀から祖先霊の祭祀へ変わったからではないでしょうか。
古墳の並びや形態を見ると、一貴山銚子塚の一族の中で様々な権力争いもあったと思われるし、権力者が糸島から離れたかも知れません。

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端山古墳からの直線がつながるのは、福岡県福津市の勝浦高原古墳でした。何で、そんなところに?

それは、倭王が海北を目指したからでしょう。
伊都国からではなく、倭王として半島に進出するには、広い船泊と船出の浜が必要でした。最適な場所、そこは、福津市の勝浦海岸でした。勝浦は、津屋崎湾が深く入り込み、天然の良港です。更に船団を組んだ船が一斉に出航するのに最適の勝浦海岸が外海に開いていました。
 端山古墳の一族が津屋崎の広い内海に目を付けたのは、新羅への出兵の為でした。
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(右から勝浦港・草崎(岬)・奥に勝島・更に奥に大島)
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(ひろい田園が広がります。奈良時代には津屋崎湾の一部、ここは海でした。)
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祭祀線は勝浦高原古墳に結び付きます。
三雲南小路王墓~端山古墳~今宿大塚古墳~勝浦高原古墳が直線でつながりました。(今宿大塚は6世紀で、後に造られた)
勝浦古墳群は、北部九州ではこの時期に最も勢いがあったようです。

沖ノ島祭祀をしたのは、勝浦峯ノ畑古墳の被葬者

糸島の大型古墳が衰退した後の世代では、勝浦峯ノ畑古墳が最大規模であり、勝浦地域では勝浦高原古墳が最も古い時期となります。
わたしは、沖の島の岩上祭祀をしたのは、この津屋崎古墳群の人達だったと思います。勝浦峯ノ畑古墳に副葬されていた三角縁神獣鏡は、沖ノ島のものと同范鏡でした。同范鏡とは、同じ鋳型で造られた鏡と云うことです。
岩の上に置かれた奉献品は、同時代の古墳の副葬品と同じだというので「王権祭祀」とされ、その王権がヤマト(近畿)にあったというのが定説です。
近畿の王権祭祀? ホントでしょうか。
確かに、武器や武具を奉献した理由は、単なる航海の安全祈願だけではないでしょう。半島に出兵する際の戦勝祈願も大きかったと思います。だからこそ、船出の地も「勝浦」と呼んだのです。背後の山は「勝浦岳=桂岳」です。


倭五王の時代、草崎(いくさざき=戦﨑)を見て、勝島に見送られながら、若い兵士が半島に渡ったと思います。万感の思いを込めて「名兒山」を見つめたことでしょう。愛しい子(娘)の名を胸に刻みながら。沖ノ島を過ぎると、もう引き返すことはできません。

沖ノ島の岩上祭祀は4世紀半
ちょうど、倭五王の半島出兵とリンクしています。ですが、倭五王は近畿の人ではありません。
兵を集めるには、権力者が集団を支配し、税や戸籍を掌握しておかなければなりません。そして、半島に渡るための舟や港を持たねばなりません。
北部九州や海北の航路を熟知した者にしか、半島進出はできないと思います。

半島進出に倭王がこだわり続けた理由
それは、半島侵攻が目的で北部九州に進出した人々だからです。
そうとしか、考えられません。弥生時代、女王国と戦った狗奴国の人たち。飢饉のために困窮する女王国を見ながら支援せずに、半島への進出を押し通した氏族だと思います。

再度、確認してみましょう

北部九州が早くから大陸や半島と交流があったことは、狗奴国の人も早くから知っていました。狗奴国は有明海から引き潮に乗って五島列島まで渡り、半島を目指したと思います。古くから鉄を求めて、半島へ渡っていたはずです。
倭女王卑弥呼は新羅と友好国となりましたが、狗奴国はどうでしょう。
有明海ルートの他に、更に、海北の航路が欲しかったのです。そこで新羅との軋轢が生じ、それを解消するために半島に出兵することになったので、どうしても北部九州を支配したかったと思います。
そして、新羅を討つつもりだったと。

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193年の大飢饉で、邪馬台国と友好国だったから新羅は難民を引き受けたのです。交流も深かったはずです。だから、突然の侵攻(208)は有りえません。
わたしは、新羅本紀には狗奴国と倭国のことがかき分けられていると思うのです。
大きな権力がなくては出兵はできませんから、侵攻したのは倭人の国に違いありません。
新羅本紀では「倭人」「倭国」「倭女王」と使い分けています。倭国と倭人は別の集団なのでしょうか。新羅本紀の編纂者は意図的にかきわけているのでしょう。
年表を見る限り、「倭国」は663年に百済救援をした国です。「倭人」はずっと新羅に侵攻し続ける国なのです。

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倭王は「倭人」と書かれた国の王だった

北部九州に進出した狗奴国出身の支配者は、半島進出に心を奪われていました。そのために、狗奴国の進出を嫌って東へ逃げた人々が経済を握り、徐々に力をつけて行くことなど考えもしなかったでしょう。

(以上何度も何度も書いて来たことです)
今回付け加えたのは、半島進出を願ったのは倭五王達であり、かれらの出自は狗奴国である。半島進出の目的を達するために勝浦海岸に進出し、沖ノ島祭祀を始めたと云うことでした。
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(ためしに、平原王墓と勝浦峯ノ畑古墳を結んでみましょう。すると、糸島地域の兜塚古墳をラインが通りました。このラインが有効なら、兜塚古墳の被葬者は弥生女王と勝浦峯 ノ畑古墳の霊力にあやかりたいと思ったのでしょうね。)

ではまた、明日。
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by tizudesiru | 2018-03-15 01:02 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

伊勢神宮の八咫鏡、天皇家の祭祀は伊都国から始まった

伊勢神宮の八咫鏡、
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天皇家の祭祀は伊都国から
古墳への鏡の大量副葬の風習は、北部九州から始まりました。
伊勢神宮のご神体=八咫鏡も北部九州が発祥の地です。
伊勢神宮のご神体
八咫鏡
直接見ることはできません。
原田大六は「八咫鏡と同型だ」と言った
福岡県糸島市の
平原王墓(1号墳)を発掘した原田大六は「1号墳から出土した大型内向花文鏡(内向花文八葉鏡)を其の文様と大きさから八咫鏡と同型ではないか」という説を示しました。


伊勢神宮
に関する『御鎮座伝記』
「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉也」とあります。そのまま、八つの頭花・八枚の葉の形 の文様の鏡なのです。
将に、弥生遺跡の平原王墓の大型銅鏡の文様です。


八咫鏡=八頭花碕八葉の文様の鏡
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古墳時代の大型内向花文鏡と比べてみましょう。
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伊都国歴史博物館の図録の紹介写真を見ると、大型鏡の中で、内向花文鏡は三面です。
平原王墓(糸島市)柳本大塚古墳(奈良県)下池山古墳(奈良県)

平原王墓
の銅鏡は鈕の周りに八葉の文様がありますが、柳本大塚も下池山も四枚の葉しかありません。では、八咫鏡は、柳本大塚・下池山古墳の鏡ではありません。


伊勢神宮の八咫の鏡と同型は、平原王墓の銅鏡のみです。すると、
平原王墓の被葬者は、伊勢神宮に祀られている天照大神のモデルだった。だから、伊勢神宮は大型内向花文鏡をご神体とした。

すると、倭国の武人が各地に天下ったのですね。
ここで、疑問符。なぜ、平原王墓の女性は首長が眠る祭祀線上に埋葬されなかったのでしょうか。


それは、政変により倭王の地位を奪われたからです。では、誰に? それは、首長が眠るべき位置を奪った人物、一貴山銚子塚古墳の被葬者だと思います。では、次に

一貴山銚子塚古墳の被葬者に大接近
しましょう。

今日のまとめ
伊勢神宮の御神体は、八頭花碕八葉の八咫鏡(大型鏡)である。
 その鏡は、福岡県の糸島市(伊都国)の平原王墓の鏡と同型である。
➁平原王墓の女性王は、東西祭祀ラインから外されている。それは、首長の交替があったからである。
③平原王墓の被葬者の地位を奪ったのは一貴山銚子塚の被葬者である
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by tizudesiru | 2018-03-10 15:30 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

祭祀線から外された平原王墓の巫女王は壱与(臺与)か

すべて割られていた平原王墓の銅鏡
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平原王墓は弥生の周溝墓です。そこには割竹形木棺があり、40面の銅鏡が副葬されていました。一つの墳丘墓で40面の銅鏡の副葬は、平原王墓が一位です。
内向花文鏡の5面は大型で、銅鏡の中では最大です。(鏡もすべて国宝です)


40面の銅鏡は全て割られていました。
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(福岡県糸島市の平原王墓の内向花文鏡・伊都国歴史博物館)
 
出土状況を見ると、明らかに割られています。ここに、何か理由があるはずです。
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近隣の王墓も割られていたのでしょうか。伊都国の井原鑓溝遺跡・中原遺跡・三雲南小路遺跡を見ましょう。

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江戸時代に発見されたという井原鑓溝(いわらやりみぞ)の鏡は、記録によると割れていますね。三雲南少路王墓も、中原遺跡の鏡も割れていました。
後の世に撹拌されて割れたのでしょうか。初めから割られて副葬されたのでしょうか。
割れたのか、割られたのか、判断しにくいです。
割られたと断定できるのは、平原王墓だけです。

では、福岡平野の須玖岡本王墓はどうでしょう。
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須玖岡本遺跡の銅鏡も細かく割れています。
須玖岡本の大石の下にあった甕棺の銅鏡ですが、細かく割れています。大石に押しつぶされたのでしょうか。それとも、割った銅鏡を副葬したのでしょうか…

同じく甕棺の銅鏡が副葬されていた福岡県飯塚市の立岩遺跡。こちらの鏡はきちんと残っていましたね。

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?立岩遺跡の銅鏡は割られていません。キチンと元形をとどめています。後の世に撹拌されなかったからでしょうか。それとも、割らずに副葬したのでしょうか。

割られていた平原王墓の銅鏡の意味は

伊都国と須玖岡本の王墓も割られていたとなると、そこに、弥生の王の悲劇が見えるのではないか


では、祭祀の上でも敗北した平原王墓の女性は、誰なのか。
わたしは、壱与(臺与)だと思います。

祭祀具である鏡が割られたのは、政治や祭祀に関する事件があったからです。それは、「世々、王あり」と書かれた伊都国で起こった事件ですから、「倭人伝」とつながる出来事です。卑弥呼の後を継いだ壱与の運命を物語る墓だと思います。

須玖岡本の大石の下にあった甕棺の銅鏡は細かく割れていたのに、同じような甕棺の立岩遺跡の鏡はきちんと残っていましたね。甕棺という条件は同じです。
理にかないません。どちらも残っていいはずです。
飯塚と福岡・糸島では、葬送儀礼に違いがあった、のです。

確認しますが、須玖岡本の甕棺は大石の下にあったのだから、後の世の人が壊して埋め戻したりはしていないでしょう。初めから割れていたと思うのが自然です。

思い出してみると、吉武高木の銅鏡は割られていなかったと思います。

平原王墓(須玖岡本王墓、三雲南少路王墓)の銅鏡は、割られていた。その理由は政変!


由々しき事態です。そこには、政権の交替が見えるからです。
弥生時代の政変に巻き込まれた女性王となると、限られます。

最大の銅鏡(経46・5cm)を5面も副葬し、数も最高だという平原王墓
 
そこは、ただの巫女、単なる巫女王の墓ではない
此の女性は特別の人、倭の女王以外には考えられません。

割られなかった古墳時代の銅鏡

次の古墳時代の鏡は割れていないのです。
伊都国の初期古墳の鏡の写真を見ましょう。3世紀末から4世紀初めの遺跡から出土したものです。
最近、古墳の年代がちぐはぐですか、九州では余り年代は動きません。

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どの古墳の銅鏡にも、故意に割られた痕跡は見当たりません。

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平原王墓は、宝満山からの弥生王墓の聖なるラインの上には乗りません。

外されたのか、外れたのかですが、わたしは外されたと思います。

交代して東西ラインに葬られたのが、一貴山銚子塚古墳の主でした。祭祀線上に乗る古墳には大きな意味があるのです。
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卑弥呼と壱与の墓は何処に造られたか

倭女王・倭王について考えている途中です。「王」の称号は中国の冊封体制に入った証でした。
卑弥呼は「倭女王」でした。倭の国王と名乗ったのです。倭の女王として、彼女が何処に住んでいたか、何処に墓があるか、中国の使者が知らないはずはありません。
その事を解くチャンスがありました。
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卑弥呼の墓を追及するチャンスに遭遇したのは、原田大六でした。
1965年、平原遺跡の発掘が始まりました。
1号墓(平原王墓)は2世紀後半とし、銅鏡・鉄の素環頭大刀・勾玉という「三種の神器」を思わせる副葬品、「八咫鏡」と平原王墓出土の大型鏡との類似性から古墳との共通性を推測しました。更に、被葬者を太陽に関わる神事を行っていた巫女とし、被葬者を

玉依姫=大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神

と推量したのでした。彼は、記紀神話の記述を北部九州で起きた史実を記録したものだと考えたのです。

確かに、神武が東の日向峠から侵入したというのでしょうか。クシフルダケも東の連山にありますし、細石(さざれいし)神社もあります。
原田大六は、「発掘報告書」より価値のあることを発見したと思ったのでしょう。


平原王墓は、考古学の研究対象になれなかったのです。
原田大六著「実在した神話」は、既に忘れられたのでしょうか。

伊都国歴史博物館の西に原田氏の銅像があります。

しかし、
平原王墓が弥生の方形周溝墓として、弥生の墳丘墓として検討されることはほとんどありませんでした。

平原王墓の築造は、いつでしょうか。2世紀後半か、3世紀半ばか、3世紀後半か?

ここは重要です。被葬者が特定されるからです。大型銅鏡が八咫鏡であるなら、3世紀後半になります。

弥生時代の八咫鏡の副葬は、平原王墓だけです。後はみんな古墳時代の大型鏡です。

その意味は、ひとつ。
八咫鏡の文化の発祥は、伊都国となります。天照大神の祭祀は、ここから始まったとなります。古墳時代に引き継がれたのは、鏡の大量副葬でした。
では、では、古墳文化は、まさに伊都国の弥生の巫女王の伝統を継承したことになるのです。


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もしかして、日本のふるさと?

そうなりますね。それが、他の地域に伝播したのです。
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今、倭王について考えている途中です。
中でも、倭女王は避けて通れませんから平原王墓について書きました。倭王、彼らが何処から来て、何処へ消えたのか、それが問題です。

また、明日。




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by tizudesiru | 2018-03-09 11:53 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

平原王墓の祭祀線! 巫女が最高数の鏡を副葬した!

平原王墓と日向峠の光の道
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福岡市から伊都国へ入る峠は何カ所かあります。早良国(福岡市早良)から伊都国に入る時、日向(ひなた)峠を越えます。この峠は伊都国からよく見えます。
ここ日向峠から伊都国に射す朝日が、まっすぐに平原王墓に届くというのです。
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原田大六氏の著書の中に、「日向峠に朝日が昇った時、陽光が平原王墓に射す。それは、被葬者の女性と太陽神の結婚を意味する」ということが書かれていました。

20年以上も前、わたしは夏至の日の出を見ようと平原王墓に行きました。しかし、朝日は日向峠からは登りませんでした。非常にがっかりしたことを覚えています。そういえば、朝日を見に来ていたのはわたし独りでしたね。


然し、数年前、友人Nさんが一枚の写真を見せてくれました。(その時、その写真をもらったと思うのですが。)
それは、日向峠から登る朝日を平原王墓で撮ったものでした。
「この日は、何月何日だとおもいます?」
と彼は言いました。
「宮地嶽神社の光の道、同じあの日なんです。あちらは夕日。こちらは朝日ですが」
わたしは、「ああ、そうなんだ。やはり関係があったんだ」と思いました。
(画像は、伊都国歴史博物館の常設展示図録」をデジカメで撮ったもの)
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それにしても、平原王墓は弥生時代で、宮地岳神社には古墳がありますが6世紀とされ、時代が離れています
それでも、朝日が木棺に射す(大柱の影が当たる)日と、沈む夕日で参道が輝く日が同じとは、意味深です。遠く離れていて、時代も違うのに、です。



このブログでも宮地嶽神社の光の道を紹介しました。「夕日が宮地嶽神社の海まで延びる長い参道の先に沈む」と云うことを。10月と2月の二回、参道の先に夕日が沈み、参道が金色に輝くのです。日光で参道や墳丘墓を浄化し祭祀するという思想は、弥生時代からあったのでしょうか。
伊都国の太陽祭祀文化が、筑紫国の古墳時代の首長に伝播したのでしょうか。


あらためて、宮地嶽神社と平原王墓の接点を見ましょうか。
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三雲南小路王墓は、弥生の三王墓(吉武高木・須玖岡本・三雲南少路)の一つです。ここから芥屋の大門(大祖神社)までの直線(三雲南少路王墓から加也山)は夏至の日没のラインです。王墓から見ると、夏至の太陽は可也山に沈むのです。
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(可也山)王墓から大祖神社は見えません。ラインは山頂を通ります。
大祖神社は小さな社で、岬にポツンと鎮座しています。以前にも紹介しました。

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大祖神社からの夏至の日の出のラインは、ほぼ宮地岳神社への直線に重なるようです。大祖神社から灘山を通り、志賀海神社の元宮を通りますから、もしかしたら古い時代の祭祀線かも知れません。

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一番大きな鏡を副葬したのは、弥生時代の平原王墓

一番大量の鏡を副葬したのも、弥生時代の平原王墓
鏡の直径46.5㎝は、日本で出土した中で最大の大きさで、40面という鏡の数も最大です。この弥生王墓は、誰の墓でしょうか。この被葬者は女子で、巫女だそうです。
この時代、最大の巫女王は卑弥呼でした。ですから、ここが卑弥呼の墓だという説もあったのです。
他の大型鏡はすべて古墳時代の出土物です。大型鏡出土の平原遺跡は、弥生王墓なのです。


しかし、昨今の古代史の状況では、卑弥呼は近畿の人となっています。平原王墓が卑弥呼墓では困るでしょうね。この墓が近畿にあったら、文句なしの卑弥呼の墓でしょうに。
それに、発掘者の原田大六氏が報告書を書いていないと云うことで、この王墓は歴史の参考慕にはなりませんでした、40年もの間。(数年前に、報告書が出されました。)今は、纏向遺跡の発掘を卑弥呼と結びつけようとしていますから、平原王墓を何と云ってもいいのでしょうね。

此の弥生の巫女王の墓は伊都国にありますから、伊都国王の系譜でしょうか。
次は、平原王墓について少し紹介します。
原田大六氏はなぜ、報告書を書かなかったのか。これも考えたいですね。


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by tizudesiru | 2018-03-08 17:10 | 148光の道は弥生時代から | Trackback

倭王の交替・邪馬台国以後の倭王の出自は中九州

わたしは、倭王が何処に住んだのかを祭祀線で探してきました。
すこしずつ、その場所を紹介してきました。

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まず、弥生時代の終焉
上の写真は、ベンガラを塗った祭祀具です。特別の形を特別に製作焼成し、特別の色を塗って特別の場所で神祭りをしたのです。その祭祀具が福岡のあちこちで一か所にまとまって出土しますが、なぜでしょう?
もしや、わけあって一度に破棄されたのではないか、わたしはそう思いました。。壊れたから、一つずつ作りなおしたのではありません。一斉に、強制的に、または集団が進んで破棄したのです。なぜ?
 
北部九州のの国が滅び、信仰が失われたからでしょう。
支配者が変わり、今までの神祭りができなくなったからだ、と思いませんか。
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もう用が無くなった、もう使うことが許されない、祀り手が逃げていなくなった、等々。
とにかく、異常な状況です。その後、組み合わせ式箱式石棺の時代になり、鉄の素環頭大刀が副葬されるようになります。価値観が変わったのです。昔からの支配者がいなくなったか、殺されたか、逃げ出したか、追われたか、社会が変わったのでしょう。


それは、弥生文化の終焉でした

大型甕棺の突然の消滅であり、青銅器の祭祀用武器の埋納でした。

その後、何処の地域の人が権力を握ったのか。とにかく、別の地域の人達です。それは何処か?
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(一度に環濠に投げ込まれた土器だと思われる)
甕棺文化圏を破壊したのは、何処の人か?
それは、鉄を持っていた肥(火)の国の勢力
つまり、倭五王の祖は狗奴国の人

火の国とは、阿蘇山のある国というより、高温の火で道具を作りだす工業国という意味でしょうか。古事記などの逸話からもそう読めます。
さて、その後、火ノ国はなぜ北部九州に侵攻したのか。当然、利権が絡んでいます。
卑弥呼の死後40年ほどで、半島への侵攻が始まっていますから、それを見ると、目的は半島への侵攻です。
狗奴国は北部九州の海を狙っていたのではないでしょうか。

北部九州に侵攻した最初の世代は、生産力の向上に励んだのですね。その後、徐々に力を持ち始めて、ついに半島に侵攻しました、その事を「新羅本紀」は語ります。倭国に関する年表で見ましょう。
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確かに、
三国史記の「新羅本紀」には、倭の侵攻が書かれています。
2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉がありました。


上の年表に、大きな矛盾が見つかりました。邪馬台国を考える上で大きなヒントです。

・173倭女王卑弥呼が新羅に遣使(友好目的でしょうか
・193倭国大飢饉で難民が新羅に入る(友好国に食料を求めたようです
・208倭人が国境を侵す(友好から方針がかわったのでしょうか?)


2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉!!

(飢饉の時、助けを求めて移動できた1000人=半島とつながりの深い北部九州の人、他からの移動は無理でしょう。近畿で飢饉があったとして、人は半島に頼るでしょうか。簡単に渡る航海技術も必要です。それに、何処を通って渡るでしょうか。)
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卑弥呼の国と新羅は友好国でした(173)から、大飢饉の時1000人もの難民が助けを求めたのです。その後、10年で侵略が始まります。なぜでしょうか、友好国としては有りえないことです。

年表をどのように読むか
大飢饉後に人口が回復したのか、
208、232、233年に、倭人は新羅に出兵した。
(この倭人は、北部九州の人でしょうか。恩のある国に侵攻するでしょうか。)
しかし、続いて邪馬台国・狗奴国の戦争が起こり、半島には出兵できなくなった。
そして、
248年の「卑弥呼、以って死す」卑弥呼の死後の40年の空白は、倭国が疲弊したからです。その後、287年、新羅に侵攻するまでに回復した。と読むことができます。

狗奴国邪馬台国戦争の後は、出兵どころではなかった、全てを失った状態が『尽くしの国=筑紫國」になったほど、人々は飢え、新天地を求めて人口は東に流失した(倭人の侵攻で信頼関係をなくしていたので、人々は半島へ渡ることができなかった)。それで、人口回復に40年ほどかかった。


飢饉―人口回復―出兵
狗奴国との戦争―卑弥呼の死ー人口流失―生産力の回復出兵

渡海しての侵攻は、生産力の向上と人口の回復がなければできません。でも、半島出兵の国は、北部九州にあったのでしょうか。

もう一つの年表の読み

➁大飢饉で頼りにした新羅に侵攻した「倭人」は、倭国(邪馬台国)ではない。

173年、卑弥呼が遣使した新羅は、倭国と友好関係であった、のです。
だから、邪馬台国が大飢饉(193年)になった時、新羅を頼りにして大量の人が避難民として渡海しました。
邪馬台国は、近隣の狗奴国を頼るより新羅を頼った、ということです。
倭国は周旋五千余里の狭い範囲でした。その中に、女王国もあったのです。日照りに河川の反乱、倭国の飢饉は広範囲にわたっていたのでしょう。
その小さな倭国連合が、208年に新羅に侵攻できるでしょうか。
ここでの結論は、一つ
208年、新羅に侵攻したのは狗奴国である
狗奴国には鉄の道具があり、生産力が向上していた
狗奴国は、有明海を引き潮と共に南下し五島列島まで渡って、海流にのって一気に半島に向かって北上していたのです。だから、三世紀の始めは、狗奴国は有明海から半島に渡ったはずです。
倭王の宮殿は、有明海に流れ込む河川の中下流にあったと思います。菊池川・白河・緑川流域、いずれも弥生時代からの大きな稲作地帯です。

しかし、狗奴国王は半島や大陸とのつながりを求めて、北の博多湾を使いたかったのです。が、まだ伊都国の存在が大きかったので、結果として狗奴国と倭国連合は対立したはずです。
そこへ、友好国への狗奴国の侵攻。こうなれば、狗奴国と邪馬台国連合は対立するでしょう。
遂に、戦争になり、卑弥呼は楽浪郡に使いを出して解決を模索したのです。しかし、老女だった卑弥呼は戦争の指揮をとることもできず、「以って死す」となりました。

新羅本紀の倭人の侵攻は、「狗奴国の野望」の証し

248年の卑弥呼死後、倭女王国は困窮を極め「尽くしの国=筑紫国」と呼ばれました。当然、出兵は不可能。

40年後、新羅への侵攻が再度始まりました。287,289、292、294、295年ですが、実は、この後の4世紀にも新羅への侵攻が続きます。北部九州の人口は回復していたのでしょうか。
この侵攻を指揮したのは、もちろん倭国連合の王ではありません。新たに「倭王」となった狗奴国の王でしょう。


倭王は、狗奴国王に交代していた

この249~287年の40年の空白ですが、卑弥呼の後を引き継いだ壱与の時代になっています。この空白は何を意味するのでしょう。筑紫国で人々を導いたのは壱与でしょうか。しかし、彼女の国は疲弊しています。
では、彼女は、やはり次の支配者(狗奴国王)に追われたのでしょうか。

壱与は人口流失を止めきれなかった
その為に、倭国を追われた? かもしれません。
何処へ逃げますかね? 中国・四国・近畿でしょうか。
四国には銅剣の密集地があります。銅戈の密集地、銅鉾の出土地と、地域が分かれます。逃げた集団の祭祀具(青銅器)が微妙に違っていると云うことです。それは、一族揃っての移動だったからでしょう。
もちろん、中広形・広形・平形という後期の形態をした青銅製武器です。細形の青銅製武器を持つ九州の弥生より後の時代の青銅器になります。

壱与がいなくなった(死亡・逃亡)ことで、次の男性の権力者が北部九州から半島に進出したと思うのです。自国の繁栄を他国の犠牲によって構築する……権力者の危険な選択でした。

今日は、[狗奴国が女王国と対立したのは、大陸との交渉権をえるためだった]ということ。倭王の祖は、狗奴国の王だったかも知れないと云うこと。倭女王国が半島に侵攻してのではない。これが結論です。
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by tizudesiru | 2018-03-07 11:08 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

岩戸山古墳の祭祀線

岩戸山古墳の祭祀線から分かること
岩戸山古墳に届く直線を引くと、面白いほど神祭りの山と結びつくし、古墳とも関係がありそうです。つまりラインが引けるのです。
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岩戸山古墳は九州では大きな古墳になりますが、大型古墳と比べると小さいですね。
一昨年、近畿の大型古墳を見に行きました。メスリ山古墳を見に行った時、橿原考研の博物館にも行きました。そこには大型の埴輪がありましたが、何だか見たことある形だな、と思ったのです。岩戸山古墳の石の石製表飾品と。
祭祀線の前に、ちょっと埴輪や石の表飾品を見ましょう。


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いずれも古墳の表飾製品で大型です。この時代は大きいことに意味があったのでしょう。
そういえば、岩戸山古墳の横の歴史資料館に勾金を付けた大刀の石表飾品がありました。そこに、「今城塚古墳にも勾金の大刀を持つ武人の埴輪がある」との説明文がありました。
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すると、大きさは違いますが、岩戸山古墳・今城塚古墳・メスリ山古墳の被葬者は同じようなものを、重要視していたのですね。同じ時代の古墳だと云うことでしょう。
では、祭祀線に戻りましょうか。
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面白そうなものを挙げてみました。
⓵は岩戸山古墳の真東、そこには熊渡山(クマトヤマ)の山頂があります。このラインの上には古墳はありません。「熊が渡って来た」という意味深な山の名前です。被葬者の出身地を暗示するのでしょうか。
➁耳納山地の最高峰の鷹取山と直線を結ぶと、山向うの楠名古墳に当たりそうです。楠名古墳は6世紀の装飾古墳(円墳)です。この被葬者は、岩戸山とつながりを持ちたかったのかも知れません。
③では、日ノ岡古墳と屋形古墳に当たりそうです。
④は、西館古墳を通って麻氐良山(山頂に式内社がある信仰の山)を通り、釈迦ヶ岳に届きます。

⑤⑥⑦⑪⑬⑭のラインはいずれも、神籠石とつながります。

⑤岩戸山古墳ー馬見山ー御所ヶ谷神籠石
⑥岩戸山古墳―高良山神籠石ー大根地山(信仰の山・日拝塚古墳の真東の山)
⑦岩戸山古墳ー宮地岳神籠石ー宝満山(福岡平野の神山)
⑪岩戸山古墳ー井原山ー雷山神籠石ー一貴山銚子塚古墳
⑬岩戸山古墳ー風浪宮ー山ーおつぼ山神籠石
⑭岩戸山古墳ー女山神籠石ー雲仙普賢岳
いずれも山頂を使う「山当て」という方法で位置を探したと思われます。

帯隈山神籠石と杷木神籠石もつながりがあると思うのですが、どの山を使ったのか判断できなかったのでラインを引いてはいません。

また、神の山や信仰の山を結ぶと岩戸山古墳に届くのは、不思議ですが当然ですね。
⑩岩戸山古墳―脊振山ー高祖山(糸島市)
⑫岩戸山古墳ー舩塚古墳ー天山
⑮岩戸山古墳―江田船山古墳―熊ノ岳
⑰岩戸山古墳ー雄岳ー八方ヶ岳
他にも、⑯は、阿蘇中岳、⑧は、日拝塚古墳 ⑨は、九千部山とつなぎました。
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岩戸山古墳の祭祀線から何が言えるのか
まず、北部九州の神山とつながるのは、地域間に支配被支配の関係が生まれていた証拠でしょう。他の八女丘陵の古墳では、これほど信仰の山と結びつく古墳はありません。岩戸山古墳の被葬者が権力を持っていた証でしょう。
福岡平野を支配した信仰の山は宝満山・九千部山であり、糸島地方では井原山・雷山です。福岡平野から筑紫平野に入ると、馬見山です。更に筑後平野を南下すると天山であり、脊振山・九千部であり、普賢岳です。普賢岳は有明海にくっきりと浮かび、阿蘇と並ぶ神山です。

これらの氏族の象徴的な信仰の山と岩戸山古墳結ぶと、何故か神籠石が現れました。


此の事実から「岩戸山古墳の被葬者の霊力を信じて、神籠石は造られた。その時、岩戸山古墳は既に完成していた」となります。岩戸山古墳と神籠石は前後して造られたのです。
神籠石と信仰の山と結べる岩戸山古墳の主は、倭王だった。
それは、6世紀前半の倭国の状況です。

それらは何故作られたか? その理由は何か?
大きな時代の浪が近づいていた、つまり、何か起こりそうだったのです。だから、いち早く協力体制を確認する必要があったのでした。
神籠石は地域間の連合の証であり、協力体制に組み込まれた国々の範囲を示している、其の中心地も示している、のです。工法の共通性(土塁の高さ・版築・切り石・切り欠き溝・切り欠き加工)を見ると、勝手に作ったのではありません。共通性こそ神籠石を解く鍵です。
(更に、設置場所からして神籠石が対峙したのは、外国ではなく、国内の敵です。その敵は、瀬戸内の神籠石系山城の先に控える集団でした。)

然し、神籠石系山城には生活の痕跡は見られない。

一斉に作り始めて、一斉に作り終わった。または、途中で工事ができなくなった…
上の写真は、岩戸山古墳の別区です。別区は古墳の「造り出し」のようなものでしょう。そこに置かれた石の表飾品は、被葬者の業績を誇示するもの、記念するもの、後世に伝えようとしたもの、でしょう。風土記によると石人石馬で表されたのは、「裁判官」が罪人を裁く様子だそうです。

この被葬者・筑紫国造(君)磐井一族は、どうなったのか。

磐井の乱、その後、彼の一族は滅んだのでしょうか、生き延びたのでしょうか。
さて、地域の神山と結びつき、神籠石ともつながる岩戸山古墳の被葬者に、更に迫らなければなりません。筑紫君、磐井とは何だったのか、です。
それは、また、明日。

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by tizudesiru | 2018-03-04 02:09 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

岩戸山古墳と江田船山古墳の祭祀線から倭王を解く

岩戸山古墳と江田船山古墳の

祭祀線から倭王を解く

倭王は畿内の人ではありません。
それは、祭祀線を引けば分かります。



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では、皆さんがご存じの岩戸山古墳(福岡県八女市)を見ましょうか。
上の画像は岩戸山古墳で、右上(東北)に別区と呼ばれる空間があります。黄色のラインは、石人山古墳とつないだラインです。石人山古墳の墳丘と結ぶと、なぜか装飾古墳の弘化谷古墳(円墳・六世紀)が入り込みます。(下の画像)弘化谷古墳には、石棺ではなく石屋形の死床があります。

両者は並んでいるようですが、谷を挟んで小高い丘の上に弘化谷古墳があります。
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石人山古墳の資料館にある石棺のレプリカです。古墳の実物の石室を覗くことができますが、暗いので懐中電灯が必要です。
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これは、石人山古墳の石棺の文様です。この石棺には直弧文という文様が彫られています。僻邪の意味でしょうか。これは、コンパスを使って文様を書き、鏨(たがね)を駆使して彫られたのです。
石人山古墳から分かることは、この被葬者が岩戸山古墳の主の祖先(祖父らしい)であれば「岩戸山古墳も家形石棺が置かれている」となるでしょう。
この二つの古墳の主軸線は、ほぼ重なるようです。岩戸山古墳は石室内など発掘されていませんが、周囲は発掘調査が行われています。


家形石棺を持つ古墳は、何処にあるのか
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有名なのは、浦山古墳と江田船山古墳ですね。浦山古墳の石棺の内側には直弧文が彫られているそうです。江田船山古墳の副葬品は有名ですね。この時期の古墳では、外来品・舶載品を大量に副葬品しているのは、ここです。江田船山古墳の被葬者は、半島と深くつながっていたのです。

では、岩戸山古墳と結んでみましょう。遠いので目印の山として、熊本の熊ノ岳を使います。当時の人もそうしたでしょう。岩戸山古墳から緑のラインを南下させました。
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すると、ラインは江田船山古墳の墳丘部を通りました。
同じように、家形石棺を持つ浦山古墳から江田船山古墳(福岡県久留米市)を通過しましょう。
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すると、船山古墳は通過しますが、熊ノ岳山頂を外しました。

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今日、紹介したのは、家形石棺の前方後円墳の被葬者はつながりがある、と云うことです。

特に、岩戸山古墳と江田船山古墳の被葬者は深い関係になります。
これは、日本書紀の「筑紫君と火君の姻戚関係」を物語るのでしょうか。または、それ以上の事実を物語るのでしょうか。

祭祀線は残されました。わたしは、ここに「倭王が九州にいた」という事実のゴースト(影)を感じるのです。長くなるので、この辺で。
明日も倭王は何処にいたのか、考えます。



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by tizudesiru | 2018-03-02 13:45 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

日知り王の国の財力・須玖岡本遺跡の青銅器コンビナート

弥生のコンビナート・須玖岡本の経済力は何処へ移動した!?
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須玖岡本遺跡は、③のところです。
弥生のコンビナートとして栄えた須玖岡本遺跡の王族は、
あらゆる富を手に入れたことでしょう。

ここには、銅矛・銅戈・銅剣・銅鏃・小型銅鐸・銅鏡・ガラス玉の鋳型が出土しています。

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その繁栄は、古墳時代まで続かなかったのでしょうか。
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まことに残念なことですが、
これらの技術は九州にはとどまらなかったようです。
なぜ、そう思うかというと、

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古墳時代の円筒埴輪を見ると、いかにも「手びねり」の雑な造りなのです。弥生土器の美しさは何処へ行ったのでしょう。技術は失われた、としか言いようがありません。弥生後期に、何かが起こったのです。
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こんな疑問を抱かせてくれる「奴国の丘歴史資料館は、春日市岡本3丁目57(TEL 092-501-1144)にあります。いつでも、無料です。
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敷地内に甕棺を残したドームがあります。
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敷地内に王墓の大石が移されています。
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この大石が、あの王墓の甕棺の上に在りました。頭の方に指標石がありました。ここから、歩いて2分のところに熊野神社があります。ここに銅鉾の鋳型が奉納されていたのですかね。
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岡本公園は奴国の丘歴史資料館の隣にあり、その横に熊野神社があります。この公園がラインの交差点になります。選ばれし土地なのです。さぞやパワースポットなのでしょうね。
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今日は、「なべ・カマの歴史展」があっていました。
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甑(こしき)は、蒸し器の役目をします。ですから、底に穴が開いています。
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近畿の博物館で聞いたのですが「甑は半島系の人々が持ち来んだもので、交流があった証拠だ。ほとんど畿内を中心に出土する」と云うことでした。しかし、九州のどの博物館に行っても「甑」を見かけます。案外、九州から伝わったかもしれませんね。
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学芸員さんの話では、「甑が普及するのはカマドが作られるようになってからで、古墳時代です。ミニチュアのカマドが古墳に副葬されていますが、5世紀より後です。」ということです。
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古墳時代になって、青銅器は祭祀用に使われ、鉄が普及します。
鉄が時代を変えたに違いありません。

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甕棺の中に鉄が入りますが、それでも、ここの人々は青銅器にこだわっていたのでしょうか。
そして、彼らはこの土地を去ったのでしょうか。手ぶらで移動はできません。銅製品をタップリ持って、労働力と技術を持って移動したと思います。それは、大量にあった銅戈と銅矛でしょうか。
彼らは、狗奴国の人口の北上に伴って、押し出されるように移動したのかも知れません。移動先が受け入れたわけは、経済力だったでしょうね。
次の権力が、前権力の人・もの・土地を取り尽くしたから、「つくし」の国となったのでしょうか。それまでの文化の中心地が「尽くし」の国になったとは、悲しいことですね。
では、また、明日。

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by tizudesiru | 2018-03-02 00:34 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡

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