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羅城説のある大野城・古代瓦は倉庫に葺かれた!

朝鮮式山城という大野城(福岡県太宰府市・大野城市・宇美町のまたがる山城)を訪ねました。なぜ山城に瓦が出土するのかという疑問があったからです。
前回訪ねた主城原には、礎石群がありました。朝鮮式山城は「神籠石系山城」と違って、削平された土地があり、建物群(倉庫という)が並び、それも三期にわたって建て替えが行われたということです。
神籠石系山城は、削平された土地はなく、古代の建物群もありません。なぜか生活用品も出土していないのです。朝鮮式山城とは違いすぎるのです。
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さて、大城山の山頂と毘沙門堂を目指しました。目的は「大野城の古代瓦はどんなところで出土したのか」、確かめたかったからです。その瓦は、いつどのような理由で山城に使われたのか、知りたいです。
歩きながら思ったことですが、尾根に倉庫群を造る意味は何でしょう。それも版築で造った土塁を歩いてたどり着くような所に造られていました。白村江敗戦後に造られたとなっていますが、敗戦後なら二万にも及ぶ男たちは戦に出ていましたから、残された女たちは必至で食糧生産をしていたでしょう。
そんな状況の所に、版築土塁の山城を築いて米を集めるなんて、無謀ではないでしょうか。同時に水城も築いていたとなると二重の土木工事とは狂気の沙汰、ではありませんか。

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四王寺川に沿って少し歩き、それから山道を毘沙門堂まで登ります。そこは、大城山の山頂近くです。つまり、「四王寺山」とも呼ばれる「大野城」は、いくつもの小さな山の連なった皿のような山塊で、中心部が谷底になって四王寺川が流れているのです。その中で標高が一番高い場所が「大城山」になります。
万葉集にも「大野山」と歌われたり、「大城山」と呼ばれたりしています。山としても、城としても認識されていたのです。

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地図で確認しますが、毘沙門堂のある大城山山頂辺りの「礎石群」は地図上に掲載されていません。発掘しにくい状況なのでしょうか。
ここは早くから人の手が入り、戦前は観光名所だったそうです。

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毘沙門堂への山道を歩いていると、道に須恵器の欠片や土師器の欠片が落ちていました。やっぱり、と思って写真を撮りました。
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更に歩いていると、何と瓦の欠片が土手に在りました。
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布目の後が見えますね。古代の平瓦ですかね。それで、辺りを見てみると、やはり土器片や丸瓦片などが落ちていました。証拠の写真を撮りました。
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そのまま目立つところに置いておきましたから、気になる人は見に行ってください。(遺物はその場にあってこそ意味がありますから、持って帰らないでね)
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何と、毘沙門堂の近くにも瓦片が落ちていました。
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瓦片には布目の後が見られます。ここには、礎石群は確認されていないのでしょうが、創建当時の古代瓦の欠片がバラバラ落ちています・・・ここには、瓦葺きの建物があったのです。7世紀の仏堂だったかもしれません。または、その後の8世紀の瓦でしょうか。
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毘沙門堂にお参りして、山頂に行きます。大城山の山頂は毘沙門堂の西隣りです。
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山頂は削平されたようには見えませんでした。では、瓦葺き建物は隣の毘沙門堂のあたりにあったのでしょうね。
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調査報告書によると、大野城で古代瓦が出土するのは、一期の掘っ建て柱の時期だそうです。つまり、建物に礎石が使われる前に、既に瓦を葺いていたということです。大野城も大宰府政庁と同じように現在「建て替えが三度(三期)あった」ことになっています。その一番古い時期に古代瓦が出るのです。
常識では、「瓦が重いので柱が土に沈まないように礎石を置いた」とされて、瓦と礎石と仏教文化はセットです。

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山頂の斜面にも瓦片が落ちていました。近くに古代の建物があったということです。瓦くずを麓から運ぶとは考えられません。仏教関係の御堂があったのでしょうか。
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(県民の森に採集された古代瓦が展示されていました)
倉庫の瓦葺きが「防火が目的(学芸員の説明では)」であれば、軒先瓦に蓮弁文様の装飾は必要ありません。屋根を飾るのは、その主人が高貴な人であるか、仏像が安置されていたか、等ではありませんか。そうでないなら…何でしょうか。
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(大城山山頂から、博多湾・糸島市・脊振山・九千部山が見える)
私は、弥生時代からここ大城山は神祭りをする聖地だった、と考えています。
白村江敗戦後にも「新羅を呪詛するため」に寺が造られたと、大野城の1350年記念誌に書かれていました。各峰に四天王を祀ったから、四王寺山なのです。それは、新羅からの呪詛を跳ね返すために必死だったそうです。昔からずっと聖地だったので、白村江敗戦後に大野城が築かれ、その後も四天王が各峰に祭られた、と思うのです。

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私は、神山の信仰は弥生時代から始まっていた、と思っています。
宝満山と飯盛山(福岡市早良区)を直線で結ぶと、この大城山山頂と須玖岡本遺跡の高所を直線が通ります。その直線上に、須玖岡本遺跡の王墓、吉竹高木遺跡の王墓、飯盛山を越えて、糸島の三雲南小路王墓の三カ所の弥生王墓と、最後に一貴山銚子塚古墳の後円部が乗るのです。
これは偶然ではない、と何度も紹介しました。
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弥生の信仰が古墳時代に引き継がれ、さらに仏教が入ってきた時も聖地として仏堂が建てられたと思います。
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四王寺山=大野城の「瓦葺き建物」はどんな場所にあったのか、興味は尽きません。
発掘で瓦が採集されていたことは承知しています。では、瓦はどこで焼いたのでしょう。古代寺院では、寺の近くで鍛冶もするし瓦も焼くし、柱も組み立てます。ここもそうだったのか、瓦窯があるとしたら何処の斜面だろう、などなど思っていたのです。
そんなに簡単に窯跡見つかるわけはありませんが、近くに窯があってもいいはずです。

では、また。


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by tizudesiru | 2019-01-13 10:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大野城の主城原に王権の宮があったのか?

天智天皇が築城させたという「大野城」は、福岡県の大野城市・太宰府市・宇美町の三つの自治体にまたがる古代山城です。
この大野城から古代瓦が出土していますが、その時代トップの文化的な建物に使われたはずの瓦が、なぜ山中の倉庫に使われているのでしょうか。はなはだ疑問です。
最近、「ヤマト王権による最初の大宰府は、大野城に置かれたのではないか」という考えも出て来たそうですが、他地方の官衙は平地に置かれていますから「大宰府」だけが山中に置かれたとは考えにくいです。
そして、大野城は百済の亡命貴族が指揮して作った「朝鮮式山城」であるというのが、歴史の定説でした。ですから、正史に記述がない「神籠石系山城」とは本質的に違うものだとされてきました。然し、ここ数年間に大きな修正がありました。「神籠石系山城」という用語が消滅したのです。

「朝鮮式山城・神籠石系山城」という古代史で使われていた言葉が「使われなくなって」数年経ちました。神籠石系山城は正史(日本書紀)に登場しません。謎の山城として、九州の王権が造ったものではないかという研究がなされていましたが。

九州の王権・・・これでは具合が悪かったのでしょうか。「すべて古代山城として国防のために造られた」という見解が出されました。
文化庁の発表以来、NHKも「古代山城」というひとくくりで、神籠石系山城を扱うようになりました。両者は同じものだというのです。更に、神籠石系山城は天武・持統朝に整えられたとなっています。
本当に朝鮮式山城と神籠石系山城は、ほぼ同じ時期に造られたのでしょうか。それに、文化庁の見解の通り「神籠石系山城の方が、朝鮮式山城より新しい」とは、本当でしょうか。
疑問符をつけたままの「大野城(朝鮮式山城・日本書紀に記載あり)」を歩いてみました。

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まず、神籠石系山城には、こんな大きな出入口はありません。古代ここには城門があったということです。百閒石垣と呼ばれています。
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北側の宇美町から大野城へ入ると、百閒(ひゃっけん)石垣が目に飛び込んできます。ここは昔から重要な出入り口とされていました。この横を流れる四王寺川の川底から城門の礎石が見つかり、県民の森に展示されています。
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大きな城門があったのです。
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百閒石垣にある案内板です。
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小さな四王寺川から三個もの礎石が見つかっているのです。では
県民の森公園の駐車場から主城原地区の礎石群をみに行きましょうか。駐車場から出てすぐに主城原地区の集落を通り抜けます。分かれ道を左に二度曲がると案内標識があります。
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神籠石系山城には、削平された平地はありません。もちろん礎石も建物跡もありません。しかし、大野城の主城原には、発掘されているだけでもかなりの礎石群があります。
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山道を下り始めると、礎石群が見えてきます。更に先に進むと、三間×五間の同じ規格の倉庫という礎石が見えます。大きな石ですから、重い物が上に乗ったということです。
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礎石群を越えて先に進みます。陸橋のような狭い土塁の上を歩いて次の礎石群に進みます。主城原地区には広い範囲に礎石があるのです。
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大野城はせりあがるような高い土塁が取り巻いています。
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ここはずいぶん荒れた感じでした。が・・・先に進みます。
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視野が少し大きくなって二段に礎石群がありました。
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削平されていることがよくわかります。
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更に進んでいきました。
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この礎石群は視界が大きくなり大城山の山頂も見えました。
木がなければ互いの倉庫群(?)が見えたことでしょう。であれば、倉庫群を確認できる高所に設置したのは何故でしょう。米蔵を高い場所に置けば出し入れに多大な労力が必要です。それも、白村江敗戦後にたくさんの男たちを亡くした女子供が百済の指揮官の下に築城した…とは、とても考えにくいです。同じころ、水城も造られたとなれば…疑問しか残りません。ここには、「もともと山城があった」という王城神社の伝承が、心をよぎります。

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ここには、元々山城(?)があった、はずです。其処では、神祭りが行われていたそうです。
次は毘沙門堂のある大城山の山頂まで歩きましょう。そこに何があるのか、重要ですから。
それで、このまま西に進んで四王寺山の中心の谷部に降ります。遊歩道が分かりにくくなって、藪のようなところを降りました。
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ちなみに大野城で見つかった古代瓦は「県民の森の資料館」に展示されています。
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では、また明日。


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by tizudesiru | 2019-01-11 20:37 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

文化庁は、「神籠石は天武朝に造られた」という

神籠石の築造を命じたのは誰か?

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律令国家の誕生と鞠智城
文化庁文化財部記念物課文化財調査官である近江さんの論考が、3月18日に頂いた『特別研究』論文集の最後に載せられていました。
はじめに
(一)古代山城築造の背景
(二)古代山城から見える防御網
問題の所在
(一)古代山城全般に対する理解について
(二)今回、問題として取り上げる点
古代山城築造の契機
(一)築城に関わる資料
(二)気になる両槻宮(ふたつきのみや)
(三)天智朝以前に築造が開始された可能性
古代山城は交通の要衝に位置しているのか
(一)情報伝達速度から駅路敷設時期を考える
(二)古代山城と駅路との関係
(三)古代山城の編年
(四)古代山城と交通路
(五)交通路から見た古代山城の築城時期
古代山城の築城目的は何か
(一)第一・二段階の山城
(二)第三段階の古代山城 天武朝の緊張
(三)古代山城の築城
律令国家と鞠智城
(一)鞠智城の謎
(二)鞠智城の評価をめぐって
(三)第二段階の古代山城として、今後、視野に入れておくべきこと


という「見出し」が付けられていますが、何が書かれているか想像できますか。
ほとんど「神籠石の意味・築造・あつかいかた」について書かれています。
鞠智城について取り上げられているのは、最後の20行で「(三)第二段階の古代山城として、今後、視野に入れておくべきこと」だけです。
驚きました。


裏を返せば、「神籠石の取り扱いが大変微妙「だと云うことです。なぜ?

如何にでも解釈できるからです。

文化庁は神籠石の意味も謎も、みんな承知しているのです。

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そこで、みんなひっくるめて「神籠石」を使わず「古代山城」としたのです。そうする必要があるからです。

然し、資料はありません。

まず、「持統4年、唐で捕虜となっていた大伴部博麻(おおともべのはかま)の帰国」を持ちだしています。
博麻は白村江戦で唐軍の捕虜となりました。「唐人の謀を本国に知らせよう」と我が身を売り旅費をつくり、仲間を日本に帰しました。30年後に帰って来た博麻を持統天皇は誉め労ったという記事です。

つまり、「博麻が身売りしてまで、本国に危機を知らせたかった」ほど、天智四年には唐・新羅連合軍 来襲の危機があったとして、古代山城の第一段階が造られたとしています。長門城・金田城・大野城・基肄城・高安城などです。

然し、これ以降は、山城の築造記事はありません。

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(何故、このような大工事の記事が正史にないのでしょうか。)

それでも、神籠石は存在します。

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それで、神籠石も含む山城として、三段階に分けられました。二段階と三段階が神籠石になっています。

山城に入れられた理由は交通の要衝にあるからです。

国家的な事業と言わざるを得ないのです。


神籠石は、白村江敗戦後の大野城の石垣と比べると、格段に計画的だし丁寧に作られています。
然し、人が住んだ痕跡が見つかっていないそうです。なぜ?


神籠石が大野城より後に造られたという証拠は有りません。

しかし、誰の指示もなしに造られたのではありません。

築造を命令した人がいるはずです。財力も統率力も設計図も必要です。
同じ文化圏の技術でなければなりません。得手勝手に造ったものではないからです。

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(さて、古代官道はいつ整備されたのか、元々交通網はどのようになっていたのか。)
解決しなければなりませんね。

近藤氏(文化庁)の論考では、第三段階の古代山城(神籠石系山城)は、天武朝後半の築造と断定されていました。


by tizudesiru | 2018-03-22 12:51 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

神籠石の水門の切り欠き加工の技術が失われた理由は何か

前回も長すぎました。ですから、神籠石と切り欠き加工についてのみ紹介します。
神籠石はいつ造られたのか

神籠石という名称は、高良山神籠石から使われ始めたそうです。神の神域と列石で囲まれた土地が重なったので、神籠石と列石が結びついたようです。高良山神籠石が知られるようになると、あちこちから「同じような列石がある」と報告があり、いつの間にか「神籠石」という名称が共通語になり、論文でも「神籠石」「神籠石系山城」と使われてきたのです。

その神籠石が急に「古代山城」となり、大野城などより後に造られたことになっているのです。
いつの間にか。


大野城より後に築造という、驚きの急展開!!!?

これまでは、6世紀後半から7世紀初頭に神籠石は築造されたというのが定説でした。大野城より先に築造。


神籠石という名称は、地域に深く根付いています。


幾つか紹介します。

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(女山神籠石の石柱と列石)
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(鹿毛馬神籠石の案内板と列石)
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(雷山神籠石の石柱と列石と水門)

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確かに高度な技術です。
だから、山の上に切り石をきちんと並べるなんて、6世紀後半の九州の技術ではできないというのでしょうか。
これが、統一新羅の技術だとでもいうのでしょうか。そんなことはありません。
5・6世紀の九州の古墳造に既に使われていた技術でした。
なぜか、この技術は後世に伝わりませんでした。この技術が忽然と消えたのはなぜでしょうか。
中央政権が造らせたのなら、古代の技術は失われなかったはずです。


忽然と消えた理由は一つ。後ろ盾の権力が潰れた(無くなった・消えた)からです。
白村江敗戦で九州は大打撃を受け、技術も技術者もバラバラになってしまったのです。それで、古代の石組み技術が消えたのです。


神籠石は白村江敗戦前の権力者の所在地を探る手がかりだと、多くの人が考えたようです。
だから、いけなかったそうです。九州に別の権力があるのは許されないそうです。
研究者が神籠石を無視し続けた理由は、民間の声だったと云うことです。
ホントに、そうですか? たしかに神籠石の論争はほとんどなかったようですが。


誰が神籠石を消したのか? 知りたいです。

知ってどうする? 分かりませんが、「文化庁」らしいです。
神籠石という名称を許さないのは、文化庁だと云うことです。
ホントでしょうか? 次は「文化庁文化財部記念物課文化財調査官」の近藤氏の論考を紹介します。

では、明日。

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by tizudesiru | 2018-03-21 14:03 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

神籠石から古代山城へ、名前を変える必要はあるのか

朝鮮式古代山城は、当然、百済の築造技術ですか?!
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2018年3月18日の麹智城跡「特別研究の報告会」の紹介をしています。

山田隆文「古代山城の立地環境ー百済・新羅との比較を通して」
山田さん(橿原考古学研究所研究員)は、「初めに」で次のように述べています。

⓵「日本における古代山城の築造は、『日本書紀』の記述によって、百済の滅亡とその後の復興軍の敗戦に起因する」

➁「その際に我が国に渡来した百済の亡命官人達が古代山城の築造に深く関わっていたことが知られる。」


③「しかし、日本の古代山城の全てが百済の様式で築造されたのかというと、必ずしもそうではなく、例えば大野城の門跡で出土した門扉軸摺金具(もんぴじくすりかなぐ)や、屋島城の懸門構造(けんもんこうぞう)など明らかに新羅山城で特徴的な要素も見られることは、周知のとおりである。」

④「そのため、日本の古代山城を研究する場合、その比較検討対象は、百済地域だけではなく、新羅、高句麗、伽耶を含めた韓半島全体としなければならない。」
という理由で、韓国に研究旅行となったのだそうです。

簡単に研究の立ち位置が書かれています。
これは、大野城・基肄城などの朝鮮式山城のことですね。白村江敗戦後に造られたという。倭国へ亡命百済人が来ていますからね。


➁大野城を造ったという百済の憶礼福留・四比福夫。あまりに石積が雑だったので、新羅軍の攻撃を畏れて慌てて造ったからだと、社会科でも教えられたのですが。雑な石積技術だったのですね。


③確かに、白村江戦後に統一新羅ができますが、統一新羅の技術が入るのは掘立柱の一期ではありません。敗戦後に造られた大野城は百済系の朝鮮式の山城でした。この時は、まだ新羅の技術は入っていないのではありませんか。
軸摺金具とは扉を開閉する時に回りやすくするために使われた金具です。懸門とは入り口が高い所に在る門で、梯子で出入りしますが、非常時には梯子を外せます。
大野城は三期の建て替えがあっていて、軸摺金具が使われるのは、後の時代になります。一緒に扱ってはいけないと思います。

④統一新羅の技術なら、完全に白村江敗戦後になります。古代山城は、天智天皇が築造した山城と決めて調査しているのですね。

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山田さんが調査している時期は、古代山城が造られた時期より、新しいと思います。修理や建て替えの時期に新羅の技術が入ったのではないでしょうか。

統一新羅の地方都市、九つの州と五カ所の小京を「九州五小京」といいます。上の地図でも分かるように、黄色の九州、青色の五小京が、半島全体にあります。紫は新羅の都です。
要するに、日本の山城は統一新羅の影響を受けたから上記の山城と共通する、と、主張されているのです。


「古代山城の立地環境について国内の事例と比較研究は進んでいる」そうです。
⓵古代山城の導入期の戦略上の重要拠点に山城が単独で立地する段階
➁駅路や官衙に接近した場所に築造される段階
と、①から➁に変化しているというのです。



えっ、ちょっと待ってください。②はなんですか?


①の金田城(対馬)大野城(福岡)・基肄城(佐賀)などが造られた後には、駅路や官衙の近くに山城が造られたという正史の記述も文献もありません。
もしかして、神籠石系山城のことを云ってるのですか?
それなら、あまりに唐突かつ横暴です。

神籠石系山城について、切り石の状況や版築や構造を取り上げないまま、調べないまま「古代山城の第二段階」という論説は、唐突で異常です。
古代の政治史の上でも科学的にも神籠石が公共の施設だと論証したうえで、説を展開しなければなりませんね。突然、奈良県の都合により福岡県や瀬戸内の神籠石を
「ヤマト政権側の古代山城」
にすり替えてしまうのは、おかしくないですか。



奈良県立橿原考古学研究所は、それでいいのですか。長い間、神籠石について研究してきたのは在野の研究家でした。それをいきなり「古代朝鮮式山城の次の段階」と、奈良県の人が決めてしまうなんて、それでいいのですか。


講演の中でも、山田さんは高良山神籠石のことを「高良山城」と呼んでいました。高良山城と呼びたかったでしょうが、「高良山神籠石」という明治以来の名称はどうなりますか。九州の人や瀬戸内の神籠石系山城のある地域の人は、ほとんど百年以上も「神籠石」と呼んできたのです。
然し、「神籠石」と呼ぶのは時代遅れというのでしょうね。


橿原考古学研究所は、奈良県の研究所の一つです。全国の名所や土地の呼び名を勝手に変える権利はありません。それとも、国の指示があったのでしょうか。

そう云えば…

こういうことが始まったのは、「阿志岐古代山城」という名称が使われた時からです。宮地岳神籠石と呼ばれていたのに、史跡の名称に「神籠石」ではダメだったそうで、「阿志岐古代山城」とされたのです。

古代山城となって、地元としては、中央に近づいた感じがしたのですかね?
然し、九州の地元の声や研究が、ここで切れた感じになりました。「神籠石」はお上に召し上げられたと云うことですね。


わたしも、このブログで、宮地岳神籠石(阿志岐山城)のことは数回取り上げています。朝鮮式山城とは違う目的の異なる工法の山城でした。

それも、同じ工法・同じような技術で作られていると思われる共通点の多い遺構です。それは、大きな権力によって指示され築造されたと考えるのが妥当でしょう。
すると、福岡を中心にした神籠石を作らせたのは、どこの誰? ですか。

旧唐書には、倭国の存在があります。白村江までは倭国が存在したのです。神籠石を造らせたのは、倭国であると考えるのは、ごく自然なことでしょう。
神籠石の集中しているところは福岡県ですから、そこに倭国の中心があったと考えるのも自然です。


倭国の中心が福岡にあったらいけない? それはなぜですか?
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(宮地岳神籠石の水門と列石)
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(高良山神籠石の列石と版築土塁)
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(女山神籠石の水門と列石*ぞやまこうごいし)

これらの神籠石をすっかり「新羅の影響で作られた」とするには、道理にかないません。
神籠石で使われた技法「持ち送り」や「切り欠き加工」は、明らかに古墳の築造時術に使われているからです。それも、5・6世紀とされる古墳です。特に、熊本の大野窟古墳や井寺古墳に顕著です。7世紀後半にその技術が使われた? いえいえ、
わたしは、6世紀後半から7世紀初頭に神籠石は造られたと思います。


九歴の小澤さんも「古墳の技術者が神籠石築造に関与した」と言われたと思います。九州の人で考古学をしている人は、古墳の技術はご存知です。


どうぞ地元の人の研究に学び、市民の声を聞き、科学的な調査をやり、地元に広報し、歴史の真実を市民のものにする方向で研究してください。若い才能は、真実を求めることに使ってほしいです。

大和に卑弥呼がいて、倭五王もいたのが事実なら、それでもかまいません。

ですが、素人も文献を見ることができるし、考古学報告書も読むことができます。そこで、さまざまに考えるのは、当然です。事実、様々な説が入り乱れています。

ですが、本当のことを知りたい、それが市民としての本音でしょうね。

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熊本城も覆い屋がかけられ、修理に入っています。このお城が親しまれるのは、加藤清正の築城だからです。市民の心の中に彼は生きていますから。歴史はその地域の人の心を癒し育むものですね。
神籠石も勝手に名称変更などせずに、それが存在する地域に長く残してほしいと思います。

では、また。

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by tizudesiru | 2018-03-20 12:31 | 327古代史の危機!? | Trackback(1325)

いつの間にか消えた神籠石という名称。消したのは誰?

今年も「鞠智城跡『特別研究』の報告会に行きました。3月18日(日)
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熊本県知事も挨拶に来るという若手の研究者の発表の場です。
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九州歴史資料館の小澤さん(文化財専門職)の発表「石垣構築技術からみた菊池城石垣の位置づけ」は、大変面白いものでした。
福岡県太宰府市・宇美町・大野城市にまたがる朝鮮式山城の「大野城」の石垣と、鞠智城の石垣を比べてみようというものでした。

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大野城の石垣には、崩れやすいとされる「重箱積」という石組み技術が使われています(赤〇部分)が、崩れてはいない。それは、重箱積を斜めにして、力のかかり方を変えているからだそうです。
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更に、逆三角の石組を入れることで、崩れるのを防いでいるというのです。更に、石垣に一本の線を引くように「横めじ」が走るそうです。これは、版築のように一定の高さに石を積み終えて、次の段を積むという工法だったのではないかと云うことでした。
a0237545_10172898.jpg
この技術が麹池城とも共通するかを調べたというのです。

ここで、若干の疑問

白村江敗戦後に、亡命百済人が指揮して造ったという「大野城の百閒石垣」と共通する? そうであれば、同じ百済人の指揮で造ったのですかね。肥後国には石垣の技術はなかった? のですかね。
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「馬こかし」の石垣と「三枝」の石垣、両者は工法・石積・技術などほとんどの点で共通性がなく、全く別の集団が造ったと考えられる。三枝の方は近世以降に見られる石積みと思われるが、表面観察では結論は出しにくい。

朝鮮式山城の「大野城」について、工法を知ることができて面白かったです。
質問させていただきました。

a0237545_10384379.jpg

上の百済の山城の石垣の紹介の時、写真に「切り欠き加工」と思われる箇所が見受けられたので。その事への質問でした。
「百済の石垣の切り欠き加工と思われ里箇所が見られるが、この技法は朝鮮式山城に採用されているのか。神籠石系山城や熊本の大野窟古墳や井寺古墳にはこの技法が使われているが、百済の山城にはこの技術は使われているのか。」

お答えをいただきました。
「まず、写真の切り欠き加工は、実は切り欠き加工ではなくそのように見えるが、小石が入っている。また、百済の石垣には切り欠き加工は見られない。神籠石の石組は、古墳の技術者が造ったと考えられるが、朝鮮式山城より後の時期に造られたと考えている。」
 
そうなのですか!
九州歴博は「神籠石が朝鮮式山城より後の時期に造られた」という見解を持っているのです。それを造ったのは古墳の技術者だと。百済の石組には 切り欠き加工はないそうです。(では、なぜ、何のために、いつ誰が造らせたのか?疑問が膨らみます。)

分かったことです
最近の山城の研究の方向は、古代国家の事業として山城が造られたのは間違いない。従って、神籠石系山城も国家の事業であろう。その築造時期は、白村江敗戦後の朝鮮式山城築造の後であろう、となっています。

神籠石系がヤマト王権の築造とされつつあることは、昨年から顕著になりました。
考えてみると、十数か所もの離れた場所で、同じような工法により一斉に工事を始めるには、命令系統が一つでなければ動けません。しかし、それはヤマト王権でしょうか。
今日は、ここまでにします。

他の発表者は、金田明大(独立行政法人国立文化財機構独法職員)、堀内和広(長崎県教育庁新幹線文化財調査事務所)、
山田隆文(奈良県立橿原考古学研究所研究員)でした。


山田さんの「古代山城の立地環境・百済と新羅の比較」は、次にまわします。
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では、また後で。

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by tizudesiru | 2018-03-19 20:15 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

石城山神籠石からの祭祀ライン

石城山神籠石ラインの起点と終点石城山神籠石は、愛媛の永納山神籠石と東西に向かい合っていると、すでに紹介しています。石城山(山口県光市)から大廻小廻神籠石(岡山県岡山市)にラインを引くと、そのまま播磨城神籠石(兵庫県たつの市)につながります。三か所の神籠石系山城がつながるのも不思議です。
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石城山と向かい合っている永納山神籠石の方も、同じようにつながるのでしょうか。残念ながら、讃岐城山城神籠石(坂出市)と結んでみましたが、永納山と二か所なので結論は出せません。ただ、石城山ラインと永納山ラインは並行して伸びているように見えます。ただし、このライン(ピンク)を何処までも伸ばしていくと、滋賀県大津市にとどきます。大津には、天智天皇の都がありましたね。ここまでライン(ピンク)が伸びるものかどうか、気になるところですね。
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桃太郎伝説と古代山城
ところで、岡山には桃太郎伝説があり、吉備津彦が桃太郎のモデルと聞きます。吉備津彦が退治した鬼が、宇羅だそうです。宇羅が住んでいた鬼ノ城が、古代山城(神籠石系)として知られています。同じ岡山県にある神籠石系山城の大廻小廻城とは、つながりはないのでしょうか。
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岡山県鬼ノ城から香川県坂出市の讃岐城山城にラインを引くと、間に備中国分寺が入ります。
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神籠石系山城が築造された場所として、国府や国分寺の近くが多いと指摘されています。まさにここもそうです。
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瀬戸内海をわたると、赤ラインは讃岐城に届きます。吉備津彦・宇羅伝説は、古代山城が築かれた時期と重なるのでしょう。
 鬼ノ城も讃岐城も 決して山奥にあるのではなく、むしろ国府の近くです。それに、鬼ノ城の作りは無視できないほど壮大です。時の人は、相当の財力と技術をそそぎこんだ事でしょう。その痕跡が史書に残っていないのは、不思議すぎます。残らなかった理由があるはずです。
 このことは、7月14日をすぎてからブログで紹介するつもりです。






4月は旅行で家を空けていたし、五月は原稿書きで時間がなかったので、ブログを更新できませんでした。少し暇を見つけようと思っています。
by tizudesiru | 2012-05-26 00:38 | 67石城山神籠石の祭祀ライン | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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181藤原不比等とは何者か(2)
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188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
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199光明皇后の深い憂鬱
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204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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212中大兄の遅すぎる即位
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218熊本の古代寺院・浄水寺
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220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
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229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
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234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
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237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
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247岩戸山古墳と八女丘陵
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249再び高松塚古墳の被葬者
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252瓦に込めた聖武帝の願い
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255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
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263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
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272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
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296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
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