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筑紫国造磐井の孫、大石麻呂の建立したという龍光山恵華寺があった大石地区

筑紫国造磐井の乱は、教科書にも書かれています。磐井の子・葛子が父に連座して誅殺されることを恐れて「糟屋屯倉」を献上したと書紀にも書かれています。
磐井の本貫は岩戸山古墳のある八女丘陵を中心とした筑後川より南、南筑後の辺りだとされますが、糟谷の屯倉は北の玄界灘側です。筑紫君は火君と婚姻関係にあり、福岡県北部に葛子の領地があったのであれば、一豪族とは思えない広大な地域を抑えていたことになります。
さて、筑紫君葛子の一族はその後、どうなったのでしょう。
筑紫国造磐井の孫が建立した寺の伝承地を訪ねてみました。須多田(すだた)古墳群と大石古墳群の中に在ります。
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(須多田の天降天神社の御祭神は少彦名命となっています)
福津市津屋崎町須多田の天降天(あもり・あまふり)神社は古墳になっています。
ここ須多田地区は隣の大石地区とは、古代から婚姻はなかったそうです。大石地区の伝承によれば、「筑紫国造磐井の孫である大石麻呂、須多田麻呂、磐津麻呂とは、三兄弟であった為だ」というのです。津屋崎町の民族編「ムラの歴史伝承」に書かれています。
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大石地区には「椎ヶ元観音」という平安時代の仏像が伝わっていますが『その由来によると、この地に龍光山恵華寺という大きな寺があり、筑紫国造磐井の孫、大石麻呂の建立したものであると伝えられている。』
では、椎ヶ元観音を訪ねます。大石地区の公民館の隣のこんもりした杜が観音堂です。
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本尊は檜の一木つくりで、平安時代中期の観音像です。聖(正)観音あるいは十一面観音ともいわれていますが、現在の像容からはいずれとも判断できません。33年ごとの御開帳以外は、秘仏として堂内の厨子に納められています。
言い伝えでは、昔はこの地に龍光山恵華寺という大寺があり、本像はその本尊でした。ところが、永禄年間(1560年ころ)兵火のため焼失。その後、たびたびの災難にあって一時はその所在すらわからなくなっていました。
ある時、境内の椎の木の根元に立っている本像を発見。村人は新に観音堂(円福寺)を建て、椎ヶ元観音と呼んで祀ることにしました。しかし、仏体の破損はすすみ、尊像を維持するため、大石区民は浄財を募って本像の大修復を成就。1994年4月10日の御開帳を期して法要が盛大に挙行されました
。』
このように境内の説明板に書かれてます。
津屋崎町史にも椎ヶ元観音については説明があります。が、大石麻呂が建立した伝承は書かれていません。大石麻呂が実在の人なら6世紀の人であろうし、仏像は平安時代の物というので時代が合わないとの判断でしょうか。
それにしても、筑後でもない、糟谷屯倉ともちがう、津屋崎の小さな谷の集落に「筑紫国造にまつわる伝承がある」ことは、面白いですね。

では、またお会いします。



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by tizudesiru | 2019-07-28 17:48 | 370筑紫国造磐井の乱後の筑紫 | Trackback

侵略者か在地豪族か?18号墳の被葬者(善一田古墳群)

磐井の乱後、列島に画期がもたらされたと、このブログで紹介しました。それは、6世紀後半の中小の墳丘墓にも馬具などの副葬品が入れられ、豊かな小豪族が増えたことで分かるのだそうです。それを証明するような遺跡が福岡県大野城市善一田古墳群でした。
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ここは宅地として開発されていましたが、広範囲に古墳や古代の住居跡が見つかりました。それで、市民から一部を残してほしいという要望があり、山際の一部を市が買い取り公園として整備したのでした。
ほとんどの市町村は金銭的に自前で土地を買い取り公園整備などできません。大野城市はたまたま財源の都合がついたのです。今年から文化財に国からの援助はなくなりましたから、財政難の地方には「文化財」をあきらめるしかないのです。もう地方に文化も歴史もいらないのです。特に、九州にはいりません。
いくら発掘しても、「もう九州の古代遺跡は必要ない。歴史は変えない」の壁が張り巡らされたのです。
戦わずして「不戦敗」となってしまったのです。

福岡平野の周りも筑後平野の周りも丘陵はほとんど古墳群になっています。宅地開発するには、そこしか残っていないのです。そこが新興住宅地になり、交通の便がなければ三十年後には売れない住宅地となるのでしょうか。
いえいえ、善一田古墳の報告でした。大野城市は遺跡の一部を何とか残したのでした。
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19号墳の周りには木棺墓群がありました。
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馬具が副葬されていたのは、18号墳です。
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18号墳は善一田古墳群の中で最初に造られた古墳だそうです。すると、この人は相当な財力と統率力を持って、他から此処へ来たのでしょうか?
集落が徐々に大きくなっていくとか、先祖の住んだところで拡大していくとか、そんなことではないのです。この人が此処に来て、辺りが急に活気づいたということです。どこからきたのですかね?
新羅系土器が出ていますから、半島と交流もあったようですし、馬具や武器が副葬されていますから首長でもあったのです。他所からきて首長になったのですか? では、侵略したのか、首長の交代か・・・・
何かがあったということです。

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18号墳の高さから「三郡山地と背振山地の谷部=交通の要衝」を見渡すことができます。なんだか意味のある位置に在るのです。
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善一田古墳群を形成した人を支えた財源は何だったのでしょうね。
では、また。




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by tizudesiru | 2019-06-23 14:16 | Trackback

継体天皇御一家の悲劇は起きたのか

後、二週間しないうちに元号が令和に変わります。今日まで使われている元号は、701年・文武天皇5年の「大宝」からで、以来切れ間なく続いてきました。
巷では「では、大宝までは元号がなかったのか」という問題が議論されてきました。
法隆寺の釈迦三尊像の光背には「法興」という元号が彫られています。飛鳥時代の金文ですから、その意味は大きいのです。
元号を決めることができるのは天子のみですから、元号があったとしたら「天子」という最高権力者が居たということにもなりましょう。自称「天子」だとしても、その人物は一定の領土を治め、人民の戸籍を握り税を取り、役人を任命し、律と令で政治を行っていたことになります。当然、歴史書を作ろうとしたでしょうし、文化や経済の振興にも力を入れたでしょう。
そういう人物でなければ、天子とは言えません。

隋書に見える『日いずる処の天子』は存在したのです。中国の史書が日本のためにでたらめを書く意味・必要は有りません。
隋書に書かれていることは、事実です。しかし、日本書紀と食い違います。

日本書紀は推古天皇ですから、アメノタリシホコは出て来ないのです。では、彼は何処にいたのか?

阿蘇山のある地域に居たに違いありません。彼は、6世紀末から7世紀初頭の人です。
600年(髄の開皇二十年)に、タリシホコは遣隋使船を出しました。
その頃は、天である兄・タリシホコが夜の明けないうちに政治を行い、夜が明けると政務を取りやめ、あとは弟の太陽に任せるという、道理のない状況でした。
隋の煬帝がその理不尽な状況を変えさせました。隋書には「俀国を諭してこれを改めさせた」とあります。
ますます、日本書紀の王権とは食い違います。

更に、俀国の場所は九州の熊本を含んだ地域でありました。
「阿蘇山あり。その石ゆえなくして火起こり、天に接する者(こと)あり、俗、以って異となし、因って禱祭(とうさい)を行う。」
この文面からも俀国の位置が想定できます。
阿蘇山が突然噴火するので、人々が異変だとして祈り祀っているというのですから。
まさか、関係ない地域のことは書きません。

隋の使者は阿蘇山を見たのでしょう。七世紀初めの俀国には使者が来たのですから。
では、俀国は何時生まれ、その後どうなったのでしょう。六世紀半ば以降には俀国は確実にあったのです。

行政区(軍尼・稲置・八十戸)を持っていた隋書の俀国。王宮も後宮もあったし、皇太子も居た。天子は男性。
内官(中央の役人)には十二等あった。大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信 の十二等。
俀国には、
戸籍・行政区があり、役人もいて、タリシホコは仏教によって国政を運営したいと思っていたのです。
(ちなみに、聖徳太子の官位十二階は、徳・仁・礼・信・義・智の順に大小が付きます。)
近畿の王権にここまで行政組織が整っていたのなら、『大化改新』の必要はありません。
大化改新が必要だったのは、国の行政組織が不十分で、権力が各豪族に拡散していたからでしょう。やはり、タリシホコの国は近畿ではありません。

しかし、歴史書では近畿に聖徳太子が居たことになっています。
八世紀の日本国には、「聖徳太子は九州ではなく近畿にいた」という歴史が必要だったのです。新しい国でしたから、古い長い歴史が必要だった。
または、倭国の一部が近畿で王権を樹立し、祖先の歴史を九州から移動させた…

もともと列島は一つの国だったと、書紀は真実を曲げる必要があったのです。
しかし、それは無理です。新唐書は「日本」ですが、旧唐書には「倭国」があるではありませんか。両者はもともと別国だったと書かれているのです。
それでも、日本書紀が事実を曲げたので、あちこちにヒズミが出ているのです。

「倭国と日本は元々一つの国だった」を主張した日本書紀は、罪深い史書ではありますが、倭国の歴史も取り込んでいるので、あちこちに齟齬は有りますが、重要な語り部でもあるのです。過去を探査するための資料でもあるのです。


そうなると、磐井の乱は「磐井の反乱」ではありません。反乱を起こしたのは、オホド王(継体天皇)側ではありませんか。

磐井が滅びて、六世紀は大事な変わり目となりました。
六世紀のはじめ、書紀によると北部九州で「磐井の乱」という内乱が起りました。その後、屯倉が置かれ始め、そうして、列島各地が活気づいたというが定説です。


また、各地に屯倉が置かれたのは、近畿の王権の進出を意味すると歴史家がいわれますが。
それにしても、
日本書紀の継体紀をそのまま読めば「長門より西は、汝が統治せよ」と、継体天皇が言ったことになっていますから、磐井の乱後に長門より西を支配したのは物部麁鹿火となります。
磐井の乱後、物部政権が北部九州を支配した、それが近畿の王権だというのです。
では、磐井の乱後の九州の屯倉の位置を見ましょう。
安閑紀ですから、継体天皇の息子の時代になります。磐井の乱の後で6世紀前半~半ばです。

6世紀・安閑紀につくられた九州の屯倉の位置を①➁③④⑤⑥⑦⑧とおさえて見ました。「糟谷」という文字のポイントは、磐井の息子・葛子が献上したという「糟谷屯倉」です。こうしてみると、①~⑦までの屯倉はなぜか北九州に偏っています。⑧は熊本県の熊本市辺りです。ここは、いきなり離れています。

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(黄色のポイントは、神籠石系山城の位置です)

①~⑧は、滅びた豪族の領地だったので没収したということでしょう。
つまり、そこは筑紫君磐井の領地だった…しかし、岩戸山古墳のある辺りは無傷だから、その本拠地は手放していない、となります。
屯倉が豊前と筑前のに一部に集中しているのは、逆にそこまで磐井が入り込んでいた証拠…風土記によれば、「磐井は豊前の山中に入り込んで行方不明になった」ですから、豊前との関係が深かった証拠にもなります。

磐井の乱とは何だったのか、歴史的にまだはっきりしていません。
しかし、筑紫君磐井の子・葛子が父に連座することを畏れて糟屋屯倉を献上したと、書紀に有ります。葛子の領地が削られたのは事実でしょう。
発掘された糟屋の屯倉は、新宮町の辺りで遺構も発掘されている、というのです。
こうして、継体天皇の王朝は確立したかに見えますが、そうでもなかった…

此処で、日本書紀の不思議な記述に出くわします。継体天皇の崩御の記述です。
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辛亥年(531年)、磐井を倒したという継体天皇とその一家に何が起こったようです。
『日本の天皇と太子・皇子、倶に崩薨りますと聞けり』という百済本記の記述は事実でしょう。一家そろって死亡するのは異常事態です。

筑紫君磐井を滅ぼしたという継体天皇、その王朝も滅びたかも知れない、ということです。これは…どうなっているのでしょう。安閑天皇は、継体天皇の子どもですが、書紀では父と共にに崩御されてはいません…が、天皇と皇后と天皇の妹を合葬したと記述が有ります。
次の宣化天皇紀でも、天皇と皇后とその児を合葬したと書かれています。

継体天皇の長子・安閑天皇と弟・宣化天皇は、どちらも家族と合葬になっているのです。
やはり、継体天皇の家族に何事かあったのでしょう。
これには、「宣化天皇は欽明天皇によって殺された説」も想定される、おかしな状況です。次の欽明天皇には合葬記事は有りません。次の敏達天皇も、馬子に殺された崇峻天皇にも。推古天皇は早くに薨去した児の竹田皇子との合葬を望みましたが。

また、日本書紀の安閑紀には、屯倉を置いた理由も書かれてています。
伊甚(いじみ)屯倉は、伊甚国造が皇后を驚かせたことの購いに献上されました。
このように罪の購いに献上させたものと、単に置かれたものです。他人の土地を勝手に屯倉にすることは出来ませんから、「置いた」と書かれた屯倉は磐井の乱後に没収された土地である可能性が大きいと思います。
政変があったからこそ、屯倉が置かれたなら尚更のことです。安閑二年の屯倉を書紀から拾ってみました。
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北部九州以外で「置かれた屯倉」の中で、阿波・紀・丹波・近江・尾張・上野・駿河は、大変意味深な地域です。6世紀の九州の倭国と関係深い地域だったからです。
これらの屯倉は、磐井の乱後に没収された土地に置かれた可能性があるでしょう。
安閑紀の屯倉設置状況を見ると、王権側からの要求で設置されているものがあり、豪族が渋ると「反抗だ」として処罰されています。つまり、屯倉は、他者の土地に置かれているのです。

やはり、没収した土地に屯倉が置かれたと思います。

安閑(広国押武金日)天皇には四人の妃がいますが、世継ぎがいませんでした。(子の無い天皇は何人か書紀に登場しますが、安閑天皇もその一人です)
そこで、天皇は世継ぎがいないので死後に名が忘れられることを嘆いて大臣に相談し、名を残すために屯倉が置かれるようになったというのです。
皇后・春日山田皇女(山田赤見皇女)を別にすれば、許勢男人の娘・狭手媛、その妹・香香有媛、物部木蓮子の娘・宅媛の名に関わる屯倉はないようです。


書紀は屯倉の設置理由をあいまいにしていますが、政変も何もないのに土地の所有者が急に変わることは考えられません。

安閑天皇には、まだまだ不思議な話がありますが、又、後日。


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by tizudesiru | 2019-04-20 16:38 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

磐井の乱後の倭国の変貌

磐井の乱後の倭国の変貌(その1)
6世紀後半には人々の暮らしが急激に変わり、列島各地で群集墓が造られました。
人々は横穴式石室を持つ墳墓を丘陵に大量に造ったのです。

なぜ人々の生活が変わったのか。それは「屯倉(みやけ)」が日本中に置かれたため物流のネットワークができて経済が活性化したためだというのです。

では、列島に「屯倉」が急速に置かれた時期は何時かというと、

それは、磐井の乱の後です。
磐井の乱後に、列島に画期が訪れました。
磐井が殺されると、息子の葛子は糟谷屯倉を献上しました。

(その糟谷屯倉に置かれたらしい役所建物・倉庫群が、福岡県古賀市の鹿部田淵(ししぶたぶち)遺跡として紹介もされ、一部が公園として残されています。)
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磐井の乱後に、世の中が変わったのです。

それにしても、磐井の乱についての書紀の記述は不思議が多いのです。
まず、磐井の乱が起こった理由。
近江の毛野臣(建内宿禰の子・波多八代宿祢は、淡海臣らの祖)が六万の兵を率いて任那に往き、新羅に敗れていた南加羅などを復興して任那に合併しようとしました。これを知った新羅は、もともと反逆を考えていた磐井をそそのかしたのです。
そこで、磐井は毛野臣の軍を遮りました。継体天皇二十一年のことです。


その時、磐井が毛野臣に対して乱暴に事挙げした言葉が意味深です。
「昔は、同じ仲間として肩を並べ肘を触れ合わせて一つ器でともに食べたものだ。(おまえが)使者になった途端に私をお前に従わせるなどどうしてできようか」
近江の毛野臣と磐井は知り合いでした。
(不思議ではありません。倭王権は近江を抑えていたし、三野・尾張と九州は深い関係にありました。毛野臣が途中で磐井に阻止されたのは、もともと磐井の知り合いだったので磐井の言い分を理解し、任那行きを止めたのかも知れません。しかし、継体天皇二十三年、毛野臣は再び使者として渡海します。二年滞在しさんざん悪評を立てられ召喚され、帰りに病没しました)

そこで、継体天皇は誰が磐井を討つのか相談して、選ばれたのが物部大連麁鹿火でした。
麁鹿火は詔を受け、はりきって応えますが、祖先の名を間違えます。

「確かに磐井は狡猾で地の利を利用して反乱し、驕慢でうぬぼれです。昔から道臣より室屋に至るまで、帝を助けて戦い、民を苦しみから守ってきました・・・」

「道臣から室屋まで・・」とは、大伴氏の業績のことです。
大伴氏の遠祖が「神武天皇東征に従い、道案内をした功績により『道臣』の名を賜わった」し、室屋は大伴金村の祖父です。

(物部大連麁鹿火が大伴氏の名を持ち出すはずがありません。書紀を編纂する時使った資料に書いてあった通りに写したのでしょう)

「国家の存亡は此処にある。力を尽くせ。」
と、麁鹿火を励ました継体天皇は、斧鉞(ふえつ)を授けておかしなことを言いました。
長門より以東は朕制らむ(私が統御しよう)筑紫より以西は汝制れ(お前が統御せよ)」

磐井を討てば筑紫以西が麁鹿火の手に入るというのです。継体天皇は「長門以東」だけでいいと云うのです。
そして、大将軍物部麁鹿火と賊帥磐井が筑紫の御井郡で戦いました。
両軍は必死に戦い、ついに磐井が斬られて、果たして疆埸(きょうえき)が定まりました。疆埸とは、境界のことです。
(磐井が斬られて「境が定まる」とは、ひとつの国が奪われたということでしょう。)


十一月に磐井が斬られた後、十二月に筑紫君葛子が父に連座して誅殺されることを恐れ、糟谷屯倉を献上して死罪を免除されるように願いました。

磐井の乱(528年)について諸説ありますが、日本書紀の「磐井の子・葛子が連座して殺されることを恐れて糟屋屯倉を献上した」ことは事実だとされています。

(筑紫君葛子が屯倉を献上したということは、『筑紫より以西』は物部麁鹿火のものになっていなかったのでしょうか。筑紫より以西とは、何処を指すのでしょう)

この後、屯倉が全国に置かれました。

屯倉が急速に置かれるのは、継体天皇の長子・安閑天皇の時代です。
つまり、継体天皇は磐井の乱の三年後に崩御となりましたので、屯倉の設置は息子の安閑天皇の時代になったということです。

継体天皇二十五年に、天皇崩御です。
継体天皇はその出自も、行動も、崩御も、すべて不思議な人です。さらにその家族もなにやら変です。
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一体、何があったというのでしょうね。
継体天皇の一家に…


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by tizudesiru | 2019-03-27 15:03 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

相島トレッキング・積石塚古墳群

相島・積石塚古墳群の散策
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6月の最終日曜日に相島に行きました。20人以上の人が集まったので、用意した資料が間に合うか心配でしたが、ひとまず大丈夫でした。相島は、20年ほど前に亡き父と散策した思い出の地です。父と散策した頃は、まだ遺跡も古墳群も整備されていなくて、どこを歩いたらいいかわかりませんでした。しかし、どこを歩いても墓しかなく、大小の墓を飛び石のように渡り歩いたという印象が残っています。
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相島には江戸時代に朝鮮通信使の客館が置かれました。
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積石の墓群は島の東側の海岸にしかありません。古墳群のある海岸から対岸の福津市宮地嶽神社を見ることができます。
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4世紀の前方後方墳と6世紀の円墳(横穴式石室)です。ピークは5世紀になります。
ここ相島の積石塚の変遷は、沖ノ島・津屋崎古墳群と連動しています。つまり、5世紀の終わり・6世紀の初めに、何か大きな変化があったのです。それは、九州における一大事件でしょう。
 まさに磐井の乱のような事件です。
積石塚の被葬者
なぜ相島の東の海岸に埋葬されたのか。それも、4世紀から6世紀であり、7世紀は追葬がほそぼそと行われた。さらに、5世紀の終わりと6世紀の初め辺りに大きな変化があったらしい。そうなると、答えは絞られる。
 倭王権が大きな事件に巻き込まれた「磐井の乱」は527年で、6世紀の前半。
 積石塚の被葬者が筑後の磐井と結びついていたなら「糟谷屯倉を献上し死罪を免れようとしたという筑紫君葛子」は、相島まで勢力を持っていたことになる。

と、云うことです。
では、また。


by tizudesiru | 2014-07-13 23:58 | 117太宰府・宝満・沖ノ島 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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