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白村江敗戦後の北部九州の混乱と疲弊を象徴する善一田

福岡県大野城市乙金の善一田古墳群の一部が公園として残されることになりました。
パンフレットもできています。

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報告を兼ねた講演会もありました。
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(画像は講演会のスライドをデジカメで許可を得て撮ったものです)
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善一田18号墳の被葬者は、副葬品に鉄滓が供献されていることから鉄器製作に携わった人であろうということでした。また、鉄器生産集団の古墳群であろうということでした。
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古墳群の特徴として、出土した三累環頭大刀の柄頭から新羅との交流がうかがえるということでした。
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また、新羅との交流をうかがわせる新羅系土器の出土は全国的にも突出しているそうです。それらは、瓶や壺と蓋という取り合わせなので、容器の中にあったものが大事だったらしく、それを運ぶために瓶や壺が使われたということでした。コンテナとして使われたものだということです。
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乙金古墳群(善一田古墳群・王城山古墳群・古野古墳群・原口古墳群)を造った人々の集落が薬師の森遺跡らしいのですが。そこにさりげなく「7世紀中頃~8世紀前半は断絶」という説明がありました。
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薬師の森遺跡に住んだ人々は、最新の技術を持って鉄の生産をしていたのでしょう。引き手数多の技術者集団だったかもしれません。そんな技術者集団の集落が7世紀の半ばに断絶するなんて…
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そこで、質問しました。「善一田に住んだ人々の断絶は、なぜ起きたのか。白村江戦とかかわりがあるのか」ということを。
次のような答えだったと思います。
かかわった可能性は否定できない。白村江戦には西日本各地から国造郡として動員されたと思われる。善一田の生産集団は那津の官家(みやけ)に管轄されていたと思われるから、白村江戦に動員されたかどうかわからない。白村江戦には地方のまつろわぬ人々を動員したという説があるので。
白村江戦後には大野城や水城の築造があったのでそれらの土木工事に駆り出されたと思われる。そのために集落が移動したのではないか。敗戦後には、大野城や水城をこの地域の人々が動員されて造ったと思われる』

そういえば、NHKで「白村江戦には九州のまつろわぬ豪族を派遣した」という展開の番組がありました。
そうじゃないだろう、と思いました。
「戦争に行け」と言われて、まつろわぬ人々が行きますか? 「いや、行きません」と答えるはずです。いうこと聞かない人たちなのですから。
わたしは畿内王権は「百済救援はしたいけど、戸籍がなかったので兵が集められなかった」と思います。
当時、戸籍を持っていた地域が兵を送れたのです。そこは九州と、遅れて吉備でした。


天智天皇は即位してすぐ「庚午年籍」を作りました。

それまで、戸籍をもたなかったに違いありません。戸籍がなくては、税も集められないし兵も出せません。当然、戸籍を持っていた豪族が兵を出せたと思います。
むずかしい話ではありません。戸籍を持っていたところが兵を組織し渡海したのです。


私の意見ですが。誰も海外派遣を喜ばないはずです。
国とか王権とかの権力と組織がなかったら二万もの出兵は無理です。
白村江敗戦後、東国から防人を出しました。九州の守りを東国の人にさせたのです。
つまり、東国にも戸籍があったことになりましょう。
誰が東国の戸籍を造ったのか。もちろん、九州の倭王権が造ったのです。歴史をしずかに眺めながら正史を読めば、自明のことでありましょう。
(畿内で戸籍を造ったのは、天智天皇と持統天皇です。二人は律令の基本は、まず戸籍だと思ったのです。)

ですから、善一田古墳を造った人々は薬師の森古墳に住み、白村江戦に動員され帰って来なかったかもしれません。新羅系の人々であれば、敵国の民となりますから、とても地域には住みづらかったでしょう。そうであれば、逃げるか移住するか、でしょうね。もちろん、引受先は東にちゃんとありました。
白村江敗戦後の混乱と北部九州の敗戦後の疲弊を彼らが免れたとは思えません。


此処で、善一田古墳群で明らかになった重大なことを考えなければなりません。
そこに住んだ人々は何者だったのかということです。
彼らはに渡来人だったのか、渡来系の人なのか、在地の人なのか、です。



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by tizudesiru | 2019-03-23 09:05 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

川原寺に残る万葉歌は、白村江敗戦を伝えるのではないか

倭琴の面に書かれた二首
川原寺の仏堂の内にある倭琴に書かれた歌は何を語るのか
 
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万葉集巻十六「世間の無常を厭ふ歌二首」
3849 生き死にの二つの海を厭(いと)はしみ 潮干(しほひ)の山をしのひつるかも

3850
 世の中の繁き借廬(かりほ)に住み住みて 至らむ国のたづき知らずも

右の歌二首は、川原寺の佛堂の裏(うち)に、倭琴の面にあるのなり

「生死の二つの海」とは、現世の生と死の苦しみであり、その苦しみを渡り仏智の世界(山)に入るという仏典で譬えられる世界を詠んだのだそうです。

3849 
この世で生死の苦しみに振り回されるのが煩わしいので、潮が干いたように苦しみのない極楽浄土のような山を恋しく思うのだ。

3850 様々な事がある煩わしい仮の住処のような現世に住みつづけているが、これから行くべき国(極楽浄土)がどんな様子なのか、何も知らないのだ。 

右の歌二首は、明日香の川原寺の仏堂にある倭琴(やまとごと)の面に書かれたものである

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世間之 繁借廬尓 住々而 将至國之 多附不知聞

この歌に惹かれ何度も読むうちに或る思いが突き上げて来て、どうしても頭の中から消えませんでした。それは、仏教思想が受け入れられるには時間がかかっただろうと云うことです。まして、その思想が一般化するには相当に時間がかかりましょう。

しかし、ある地方の民は早くから広く仏教に帰依していました。そこは、阿毎タリシホコの俀国(倭国)です。隋書にはそう書かれています。そこには「世間」を極楽浄土と対立する世界として捉える思想が浸透していた、と思ったのです。
古代の琴・倭琴は女子の持ち物ではありません。古代では教養のある男性の持ち物でした。男性が琴で音楽を奏で詩歌を読んだのです。では、上記の二首も男性の歌ですね。それも世間を「よのなか」と読む文化圏の男性です。

そこで、この歌は仏教が浸透していた俀国で詠まれた歌ではないか、百済救援に遠征した男性が自分の体験を詠んだのではないか、戦火に倒れた高貴な人の愛用の琴が川原寺に奉献されたのではないか、と様々に考えました。

白村江敗戦を伝えるのではないか
(このことは、数年前に或る公開講座でお話をしました。)

万葉歌は事実を詠んだ叙事詩だと何度も聞かされました。仮想して物語や思想を詠んだのではなく、事実や実体験・実感を詠んだ歌集でしたよね。二首も思想ではなく事実が詠まれているのです。

事実として読み取ってみました。微妙に解釈が変わります。

3849 この世の生と死の二つの海(苦しみ)を、同じように倭国の海と隣国の二つの海を渡り戦う、その苦しみを避けたいと、潮が干いたような苦しみのない世界をどんなに恋しく思ったことか(だが、世間の無常を避けることは出来なくて、琴の持ち主=主人は、先の敗戦で亡くなられた。)

3850 大変なことが多いこの世を仮の住処として主人と長く住んできたが、無情にも主人を亡くした我が身=琴は、これから知らない国に行くことになった。その国の様子を何一つ知らないのだ。(まるであの世のことを何一つ知らないように、遠い知らない国に行くのだなあ。)

ある高貴な方の持ち物だった倭琴の嘆きとして、亡き主人を偲ぶ歌として、二首が残されたと思ったのです。二つの海を渡った(白村江敗戦に翻弄された)高貴な人、その人は還らなかったが、琴は帰ってきた、そして、川原寺に奉納された。

二首は琴の由来を詠んでいるに違いありません。遠く仏教の浸透した地方から来た楽器であること、無情な運命に翻弄された人の持ち物であったこと(川原寺では、その人物が誰なのか分かっていたでしょう。…寺に所縁の人の奉献か、寺になった時に琴の持ち主を供養したとか)。

川原寺に奉納された時期を考えると、平城宮遷都(710)以前だろうと思うのです。それは、平城遷都後は、高貴な方はほとんど新京に引っ越したと思うからです。遷都後なら川原寺よりも都に近い寺に奉納するでしょうから。

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明日香川原寺跡の万葉歌碑
この万葉歌があるのは、川原寺跡の道路横です。
橘寺の前に道を挟んで川原寺跡がありますが、橘寺の石柱から川原寺を見ると、筋向いに歌碑が見えます。

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現在の弘福寺(もと川原寺)の前は、広い公園になっています。川原宮は、板蓋宮が焼失した後、一年余り斉明天皇の仮宮となりました。

中大兄皇子(天智天皇)称制の時に、母の斉明天皇の葬儀を川原宮で執り行いましたし、川原寺が飛鳥では重要な位置にあることは前回のブログでも紹介しました。(山田寺からのラインは、高松塚にも届く。)

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平城京遷都の時、明日香に残った川原寺
四大寺のひとつであった川原寺は、創建の時期も事情もはっきりせず謎の大寺と云われています。また、平城京遷都の時に、ほかの三大寺(飛鳥寺・薬師寺・大官大寺)は都に移りましたが、川原寺は明日香に残りました。


川原寺式と呼ばれる「複弁蓮華文」軒先瓦の文様は、この後の軒先丸瓦の主流文様となりました。後の瓦に多大な影響をもたらしたのですから、川原寺の立つ位置は大きかったのです。それなのに、遷都の時に、明日香に残されたのでした。

川原寺が特別な寺であり、歴史の事実を伝える寺だと、わたしは日頃から思っているのです。そして、巻十六の上記の二首は心を揺さぶられる名歌だと思います。

鹿児島と宮崎にお出かけしていました。また、明日。



by tizudesiru | 2017-12-09 15:30 | 307倭琴に残された万葉歌 | Trackback

NHKは日本の歴史を変えるつもり?

はたまた驚きの展開神籠石式山城を

築造したのは天智天皇?!

NHKの番組「英雄たちの選択」を見ました。驚きました、いつの間に古代史が変わったの??
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今年、九州国博で開かれた「山城シンポジウム」でのことですが、大変驚きの展開だったのでブログでもお知らせしました。それは、『神籠石系山城』とか『神籠石』とか一切使われず言葉そのものが消滅し、朝鮮式山城と呼ばれていた正史に残る基肄城・大野城なども全て含めて「古代山城」という言葉でくくられて、すべてヤマト王権側の築造だとされていた、そういうシンポジウムだったということでした。
今まで、歴史書にも古代史にも取り上げられて来なかった神籠石系山城が、急に王権側が白村江敗戦後に築造したというのですから驚きました。
全くどうなったんでしょう? まるで寝耳に水で、なぜそうなったのか分からないままシンポジウムが終わりました。

今度は、NHKの番組「英雄たちの選択」で同じく白村江敗戦後に王権側が造ったとしていました。いつ歴史が変わったのでしょうか?
(下は、難波宮跡・孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮遺構はほぼ重なる)
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大化改新で律令による中央集権国家を目指していた中大兄と鎌足は、まだ改新の道半ばであったとという所から、番組を見ました。中央集権化はまだ不十分だった証拠として、難波宮跡出土の木棺が示されていました。そこに「戊申年(大化4年)」の墨書がありました。大化とうい年号があったのに使われていないと云うことは、各地の豪族に改新の詔が浸透していなかった、中央集権化はまだ途中であったというのでした。改新に反発する豪族がいたというのです。

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中央集権化が進んでいない中に、大陸の政治状況が絡んできました。
大陸では唐が高句麗侵略の足掛かりとして新羅と結び、その為に百済を滅ぼしたという状況で、中大兄は「百済復興を救援するのか、しないのか」どちらを選択したのか、という
なかみでゲストがおしゃべりをするという番組でした。内容的には…
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百済の王族でもあった鬼室福信は、日本にいた王子・扶余豊璋を滅びた百済の王として迎え、百済を復興したいと申し入れました。鬼室福信は唐の捕虜百人を献上していました。福信は今なら唐に勝てる可能性があるというのでしょうか。
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王権は扶余豊璋に五千の兵をつけて半島に返しました。その後、すぐ兵を派遣したのではありません。兵を集めるのに時間がかかったというのです。豪族の納得もなかったし、戸籍もできていなかったからです。その中で「備中国風土記」逸文に、「すぐれた兵二万人を得る」よって、その邑を「二万(にま)の郷と名づける」という記述があるのですが、この兵は救援軍とはならず、百済ではなく新羅へ向かったのでしょう。
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一方、百済の救援に向かった兵は全滅しました。唐の船団の装備と策略を知らなかったのでしょうか。二日で大敗したのです。唐の船は楼舡といって装備した武器も軍船としてもすぐれていました。救援軍は惨敗でしたが、なぜこの結果を招いたのでしょう。
それも、この結果を中大兄側は承知していた・予測していたというのです。

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まつろわぬ豪族の兵力を「外国に遣ってそこで死なせてしまう」という、中国が取って来た政略が使われたと紹介されました。つまり百済救援で打撃を受けた豪族は王権側には邪魔な勢力だったと云うことです。白村江戦を利用したというのです。では、そこで戦死した九州の勢力は、王権とは対立していたのですね。

白村江敗戦後、羅城築造?
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今まで知られていたのは、白村江敗戦後に大野城・基肄城・水城が造られたということでした。それも、亡命百済人の指揮の元、急ピッチで造られたと。
そこに羅城構想が加わりました。筑紫野市の前畑遺跡の土塁です。ここも慌てて作られたのでしょうか。
前畑遺跡は水城や大野城などの土塁と同じ技術で造られたのでしょうか?そこも分からないまま、羅城説が出されていました。
そもそも羅城とは王都の周りに作られる外壁だということですが…大宰府が王都だったと証明したいのでしょうか。
大宰府は百済の泗沘東羅城の敷葉工法が水城土塁の工法に共通することからも、強い関連性が指摘されています。一方、新羅の王都である慶州にも山城の配置など類似点は指摘されているけれど、羅城は設けられてないそうです
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いったいこの羅城は何処を守るのでしょうか?
なにより、百済により近しい関係だった地域は何処でしょうね。そして、ついに

白村江敗戦後に古代山城
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そして、古代山城が築かれ、天智天皇は近江に都を移し即位した、という番組になっていました。そこに、神籠石系山城が入れられていたのです。
神籠石が古代山城となって、消滅するのでしょうか。100年続いた神籠石論争は終了するのでしょうか。
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発見されている九州の神籠石は、きちんと東西ラインと夏至の日の出のラインに並んでいます。工法も切り石技術も共通しています。この計画性を見ると、豪族たちが協力し同じ思想のもとに築造したと思われます。これらの神籠石系山城に付いては、このブログで何度も取り上げてきました。画像もありますから見ていただければ嬉しいです。朝鮮式山城の大野城・基肄城・鞠智城についても、ブログに紹介しています。
わたしは神籠石が天智天皇によって造られたとは思えないのです。
もし、天智天皇であれば、彼は九州の王だったことになります。そうでなければ、まつろわぬ豪族たちの勢力圏で国家的な土木工事はできないでしょうし、百済救援の兵を死なせた状況で土木工事の強要は難しいでしょう。
国家を挙げて取り組んだとしか思えないのが、神籠石なのですから。
国家的土木工事は、人・もの・金がないとできません。人を動かすためには戸籍が必要で、これがないと何もできないでしょう。その事を痛感したからこそ、天智天皇は戸籍を造ったのでした。大宝律令でも、この庚午年籍を基本とし、廃棄しませんでした。
逆に、戸籍がなければ何もできないことを証明したのです。
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さて、天智天皇とは……だったのでしょうね。
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ここまでにします。


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by tizudesiru | 2017-07-01 23:28 | 262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か? | Trackback(1)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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159草壁皇子の薨去の事情
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166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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