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「光明皇后の権力の影に不運と不幸と孤独」6月25日のテーマ

万葉集を読むかぎり、光明皇后は孤独でした。夫の聖武天皇も、娘の孝謙天皇も孤独で不運でした。
最悪の状況の中で強く生きた女性のお話を予定しています。
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前々会の「玄昉の墓」の紹介の時、光明皇后について少し触れました。今回は光明子が詠んだ三首とその歌が詠まれた背景に迫ります。

4240 大船に真梶(まかじ)しじぬき この吾子を 韓国に遣る いはえ神たち
752年、甥の藤原朝臣清河が遣唐大使となったので、春日の宮で神事を行った時に、光明皇后が詠んだ歌です。
 この時代の遣唐使は命がけでした。遣唐使として海に消えた学問僧や留学生が数多いましたから。
清河もその事は承知していました。しかし、嫌とは言えません。藤原豊成(南家・武智麻呂の長子)と藤原仲麻呂(南家・武智麻呂の二子)が任命したのですから。清河は北家・房前の四男でしたが、南家の勢いに押されていました。この時、豊成は右大臣、仲麻呂は大納言でした。そして、仲麻呂は光明皇后のお気に入りでした。
 清河には大使として唐に行く他の道はなかったのでした。
 
  遣唐大使となった清河が詠んだ歌です。
4241 春日野に いつく三諸の 梅の花 栄えて在り待て 還り来るまで

 清河は還って来たいと思っていました。しかし、彼は還れませんでした。唐で客死しています。向こうで子を造ったみたいです。
北家が台頭するのは、藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こした後の方でした。
藤原四兄弟は、南家・北家・式家・京家と四家に分かれていますが、その権力争いはし烈でした。このころ、藤原宇合の式家は、長子だった広嗣がおこした「広嗣の乱」以来低迷していました。

光明皇后は、藤三女として出身の氏に尽くしました。ですから、身内の失敗や混乱をつぶさに見ていたことでしょう。つらいことも悲しいこともあったはずです。
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東大寺の正倉院は、大仏殿の裏にあります。夏の東大寺の裏には鹿たちがゆったりと遊んでいます。その裏道の林の奥に正倉院があります。ここには光明皇后により「聖武天皇の遺愛の品」が奉納されています。

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木立の向こうに、正倉院の校倉(あぜくら)造りの壁が見えています。

6月25日には「光明皇后の不運と不幸と孤独」のお話をする予定です。
福岡市天神・ 13持30分~16時 

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では、また、お会いできますように。


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by tizudesiru | 2019-06-20 00:26 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

藤原宏嗣に光明皇后との仲を疑がわれた僧正玄昉

藤原広嗣は、光明皇后と僧正玄昉のよからぬがあることを知って激怒しました。それも「藤原宏嗣の乱」の動機でありました。
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福岡県太宰府市の戒壇院行きました。此のお寺の裏に僧玄昉の墓があるからです。以前撮った写真が冬場だったので、夏の戒壇院の写真を撮りに行ったのです。
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(「戒壇は 奈良時代に国家が正式に各宗派僧侶の資格を認める受戒の儀式の為と 戒律のために設けられた」と、門前に説明板があります。
古代には僧に成るための資格を与える儀式を行う場所がありませんでした。そのために鑑真和上を招いたのです。和上が渡海の危険を承知して失敗を重ねながらやっと日本にたどり着いた時には、日本には戒壇を受ける場ができていたのですが、和上の決意とご苦労には誰もが感服したと思います。)

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夏の戒壇院も静かで美しいです。本堂の右手から門を出て裏に回ると、玄昉の墓があります。
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僧正玄昉の墓
「玄昉は奈良時代の僧。阿倍仲麻呂・吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准ぜられ、紫袈裟を許された。帰国後、奈良の宮廷で権力をふるったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられる。」と説明板に在ります。
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観世音寺造立供養の日に死去、ですか。
何というひどい仕打ちでしょうか。造立供養の大事な儀式の日に殺されたとは! もちろん、殺害されたと思います。玄昉には自殺する理由も何もありません。

藤原宇合の息子だった藤原広嗣は朝廷に対して兵を挙げましたから、謀反人です。中央では橘諸兄や吉備真備が活躍し、藤原氏の影が薄くなりそうだったのです。そして、光明皇后と僧玄昉のよからぬ噂がありました。広嗣は伯母の光明皇后と玄昉の噂に憤り抗議文を朝廷に送り付けました。
聖武天皇は召喚命令を出しましたが、広嗣は従わず兵を挙げました。

そもそも光明皇后が僧玄昉を頼りにしたのには理由があります。
光明皇后は729年の「長屋王事件」の後、精神的にも疲れていたでしょう。
そこで、母の県犬養美千代と同じように仏教を頼り、730年に興福寺の五重塔を一年で完成させました。(普通の豪族には1年で五重塔を建てる財力も権力もありません。しかし、聞くところによると、光明皇后には国家予算の6分の1ほどの財力が集中していたのです。)
あの興福寺五重塔は、長屋王事件の苦しみから逃れるために光明皇后が建立したと思います。

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長屋王事件(729年)は藤原氏が仕組んだ事件だったと賢い皇后が気が付かないはずはありません。心穏やかにはなれないはずです。伯母の一家を断絶したのですから。

十代で安倍内親王を生んだあと、十年も子どもに恵まれていなかった光明子がさずかった基王は、生後三か月で皇太子になりました。しかし、一年足らずで夭折。吾子を亡くした母として落胆はいかばかりだったでしょうか。


そこへ、長屋王が佐道を学び呪詛していた、そのため基王が死亡したという密告があったのです。聖武天皇は長屋王を深く恨み、兵をむけ館を取り囲ませ自刃に追い込みました。
その後、光明子は立后され、皇后となったのでした。長屋王は光明子の立后にも反対していたのですから、その死によって光明子の立后が実現したのです。
それまでの光明子の位階は夫人(ぶにん)で、その前は嬪(ひん)でした。聖武天皇の即位と共に、夫人となっていたのです。そして、ついに「皇后」に上りつめました。王族ではない氏の女性が皇后になる初例で、これ以降、藤原氏の娘が皇后になる前例となるのです。


皇后となっても光明子の心は晴れなかったでしょうが、気丈にふるまっていたことでしょう。都には長屋王に同情する声が満ちていました。その声も聞いたかもしれません。
光明子の母の県犬養美千代は仏門に入っていましたから、娘のために祈ったことでしょう。(橘夫人念持仏が法隆寺に遺されています。)

しかし、733年、その母も世を去りました。
光明皇后は大きな支えを失いました。皇后の発願で母の一周忌に間に合うように建立されたのが、あの有名な中金堂(西金堂)です。その思いの深さがよくわかります。阿修羅像、あれほどの見事な国宝はありませんからね。
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阿修羅像は美しいだけではない、光明皇后の深い悲しみをあらわしているのです。734年にはこの西の金堂は完成しました。やはり、一年で完成させています。何という財力と権力でしょう
734年に母の葬儀、皇后の心には穴が空き、風が吹いていました。そして、ついに病に伏してしまいました。
この年の暮れ、入唐使多治比広成、下道真備、玄昉ら多禰島に漂着しました。18年間の中国生活を終えて、留学生・学問僧が帰って来たのです。そこに玄昉がいました。
彼らはさっそく文化をもって国家に貢献していきました。仏教に造詣が深かった光明子は、玄昉の経論五千余巻の献上に目を見張ります。それを早速『皇后宮職』に写経させたのです。
それも、長屋王の館跡の役所で。
長屋王の館跡は公に没収され役所になっていたようです。そこは「皇后宮職」という役所があったらしいですが、そこで、写経‥‥どんな思いや願望があっての写経だったのでしょうか。母を失った後も、光明皇后は病に苦しんでいましたから。更に、
737年(天平九年)藤原四兄弟、流行病で全員死亡。
後ろ盾であった兄たちが全員死亡したのでした。

僧正であった玄昉を皇后が頼りにしたのは当然です。
聖武天皇は皇后以外の女性に心動かされていましたので、頼りにできません。皇后は孤独でした。
しかも、皇后は吾子を亡くし、母を亡くし、病に苦しみ続け、兄達を失ったのです。
仏の教えにすがらなければ、わが身すら無くしかねません。
18年間中国で学問し玄宗皇帝に認められた玄昉を尊敬し頼りにするのは、当然でした。

740年(天平十二年)藤原広嗣が乱を起こしました。そして、斬られました。
この後、聖武天皇は五年間も平城宮に帰らず放浪されるのです。
 
はたして、皇后が悪いのでしょうか。そうではありますまい。
玄昉は皇后を助けようとしたかもしれませんが、それ以上の罪をこの僧正におっかぶせることは出来ないと、私は思うのです。戒壇院の隣に観世音寺はあります。基壇と礎石に往時をしのぶことができます。
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玄昉はどのような最期を迎えたのかなと、観世音寺の静寂の中で立ち止まり考えました。
紫の袈裟まで許された僧正玄昉も、観世音寺の鐘(国宝)の音は聞いたのでしょうね。
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此の鐘を打つことができると、寺の掃除をされている方に進められましたが、国宝だからもったいないと、私はお断りしました。
今度、「筑紫古代史の会」で光明皇后の歌を詠みます。よかったらお出かけください。
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6月25日(火)13持30分~16時、福岡市天神、光ビルにて
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宜しくお願いします。
では、またお会いできますように。

by tizudesiru | 2019-06-14 02:39 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

196玄昉の墓は沈黙する(広嗣の乱)

196玄昉の墓は沈黙する

太宰府に行きました。以前に撮った写真を消してしまったからですが、観世音寺と戒壇院に寄りました。
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正式に僧になるためには一定の条件(修行)が必要でした。戒律を受けなければなりませんでした。それを授けるために、そのために、鑑真が招かれました。ここは、西国でただ一つの戒律を受けられる場所でした。
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静かなたたずまいの中に山茶花の花が散っていました。
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戒壇院の裏に、僧玄昉の墓があります。
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右奥のブロックで囲まれた小さな敷地に、それは有ります。
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彼が何をしたというのでしょう。
藤原宮子が閉じこもり、息子の聖武帝にも会えない状態だったのに、玄昉の治療ですぐに治って、聖武帝との親子の対面となったのです。
そして、光明子も玄昉に近づいたとか…玄昉は太宰府の観世音寺に左遷されました。
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戒壇院と観世音寺は並んでいます。観世音寺の裏には、僧房跡の礎石が並んでいます。
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観世音寺も静寂に包まれていました。
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塔の心礎の石が中央に見えます。奥の鐘楼には、国宝の梵鐘が下げられています。妙心寺の鐘と兄弟と云われています。
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観世音寺は塔と金堂が東西に並んでいます。
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観世音寺を見ながら、玄昉は何を考えていたのでしょうね。

また明日




by tizudesiru | 2017-01-10 14:56 | 196玄昉の墓は沈黙する | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
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212中大兄の遅すぎる即位
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245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける

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