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法隆寺釈迦三尊像の台座の落書きが教えてくれること

あまたのなぞに包まれた法隆寺は、ミステリーワールドですね。
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さて、法隆寺金堂のご本尊と、東の間に安置された薬師如来像の台座のお話です。こちらの二つの台座はたいへん有名です。それで、1994年の法隆寺展でも展示されました。
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薬師如来像の台座は二段になっていて、上段と下段では製作時期が違うそうです。下段が古いのですが、それは台座の請花(うけばな)反花(かえりばな)の花びらが単弁と複弁で違うから判断されたのです。単弁(下座)の方が古い様式です。そして、この請花反花の部分だけがクスノキで造られています。
それは、ご本尊の釈迦三尊像台座でも同じなのです。二つの台座はほぼ同じ時に同じ方法で造られたのです。
つまり、下の古い台座の上に上座を造り、ご本尊を安置したのです。
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然も、下座の框(かまち)の大きな檜は建築物の扉の再利用となっています。もともとは扉だったとは・・・いったいどこの建築物だったのでしょう。其の下座の裏側に墨書が見つかりました。落書きと書きましたが、らくがきと云うにはあまりに貴重な絵と文字があったのです。
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①は「相見る可陵の面、未だ識らず可陵の心」美しい女性の心のうちはわからないという意味らしいです。
➁には、辛巳年八月九日作 と書かれていますから、この台座は、辛巳年(621年)に作られたのでしょうか。
すると、聖徳太子の没年より早くなりますから、当然、釈迦三尊像はまだできていません。
まだ見ぬ仏像の為に台座を造るのは可能でしょうか。計画通りにといえば、それまでですが。
③には、何かの分量のことが書かれています。つまり、倉庫に使われていた部材で、その品物の量が板に書かれていたとのことです。ふううむ・・・なんの量か見当がつかなかったということは、書紀にも他の文献にもない分量の言葉だったのですね。
それは、違う文化圏から運ばれてきた部材だったということでしょうか。
法隆寺の木造飛鳥仏のすべてがクスノキで造られていました。
クスは古代には九州にしかありませんでした。福岡市の立花山が北限なのです。もちろん、韓国にもありません。
何度も書きましたが、百済観音も樟材ですから、百済から来たとは言えないのです。
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法隆寺のあまたのなぞ、それは、九州とのつながりを考えれば解けるとおもうのです。あの夢殿の救世観音もクスノキなのですから。あれほどの仏像を造れたのは、何処の工人たちなのか。聖徳太子に似せて作られたという救世観音は、いったいどこで造られ、何処から運ばれてきて、夢殿の秘仏となったのでしょう。
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こんな不思議な話、何処にもありませんよね。
歴史カフェ・阿蘇で「聖徳太子のなぞ」を考えています。


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by tizudesiru | 2018-09-03 13:12 | 353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」 | Trackback

天智九年法隆寺炎上、そして法隆寺は残った

天智九年夏四月法隆寺炎上
なぜこの事件が大きく取り上げられているのだろうか
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天智九年(670)夏四月三十日の夜明け、法隆寺は焼失しました。
書紀によると、「法隆寺に災(ひつ)けり。一屋ものこること無し。大雨ふり雷鳴る」全焼だったのです。五月に童謡(わざうた)がその意味を語りました。
内橋の つめの遊びに 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自 出ましの 悔いはあらじぞ 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自

板を渡した仮橋のたもとの 歌垣の遊びに 出ておいでなさい。立派な玉手の家の貴人よ、八重子の奥様よ、出ておいでなさい。後悔することはないはずです。出ておいでなさい。玉手の家の 八重子の奥様。(立派なお霊屋(たまや)の素晴らしい仏たちよ。早く出てお出でなさい。そこは火事になりますから、出てきて後悔することはありません。さ、出ていらっしゃい。お霊屋のたくさんの仏たちよ

童謡は世相を表し、人の本音や事件の真相を謡ったのです。それも影口のような、云いにくいことを謡ったのです。立派な玉手の家の女主人を歌垣に誘うなんて、とんでもないことですが、後悔することはないと教えました。
どうやら、「火つけ・つけ火」だったようです。では、若草伽藍に誰が火をつけたのでしょう?!

決断したのは、天智天皇でしょうか。
西院伽藍の金堂は天智九年の再建だと紹介してきましたし、施主は天智天皇だと書きましたし、みなさん認める所です。
その人がなぜ? 
それは… 
白村江敗戦後に俀国(倭国)から運ばれたのは、一流の仏像ばかりではなく、仏具、荘厳具、侠侍・台座など様々あったと思います。高貴な人の貴重品などは川原寺に、個人の念持仏は橘寺に運ばれたとして、残りの諸々があったでしょうから。運び込まれた斑鳩寺も困っていたでしょうね。
だから、いっきに焼いて処理した…大事な仏は再建法隆寺に運び終わった後に、です。吟味してえり分けていたと思うのです。
ですから、冷静に判断した後に焼いたと思います。

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そうでなくては、天智九年(670)以前の釈迦三尊像(623年造)の仏像は残りません。
そして、釈迦三尊像より古い金銅仏があります。仏の御姿もよく似ていますから同じ工房・時期に造られたものでしょう。
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池邊大宮治天下大王天皇とは、用明天皇のことです。小治田大宮治天下大王天皇とは、推古天皇を指し、東宮聖王とは聖徳太子のことと読まれます。

おや? ここでは東宮聖王と書かれていますから歴史とは矛盾しません。
聖徳太子は法王でも大王でもなく、東宮=皇太子でした。書紀とは人間関係では矛盾しませんが、釈迦三尊像の銘文とは大きく違います。さらに、大王天皇と彫られていて、天皇という称号が使われています。用明天皇の時代にはまだ「天皇」号はなかったはずです。ですから、この銘文は明らかに後世の彫り物です。漢文の日本語化も釈迦三尊の漢文より進んでいるそうですから、あきらかに釈迦三尊像より新しい銘文であることは定説です。では、誰が、いつ何のために彫った、彫らねばならなかったのでしょう。法隆寺の仏像に銘文を彫らせた人物は、権力者・高貴な人と考えられます。

すると、銘文が作られ彫られたわけは?
もちろん、彫らせたのは天智天皇でしょう。彼は聖徳太子と同じく長く皇太子のままでしたから、深く共感していた。そこに、銘文を彫る理由があったと思います。
銘文にある、聖徳太子が薬師如来を造ったという六〇七年(丁卯)は隋の裴世清が倭国を訪れた年です。そして、六〇年後の六六七年(丁卯)は近江大津に遷都した年です。そして、翌年六六八年一月に天智天皇は即位しました。丁卯に意味があったのです。

天智帝が即位できなかったのは、中宮天皇(間人皇后)の存在があったからでした。孝徳天皇の皇后だった間人皇后(中宮天皇)は玉璽を持っていました。その間人皇后が六六五年に薨去し、殯宮の儀式が終わり母の斉明帝と同じ陵墓に埋葬した後の近江遷都でした。


近江遷都の年、天智天皇の万感の思いを込めて銘文は彫られたと思いました。東宮聖王(聖徳太子)と同じく困難な政治を補佐し続けた二十数年、やっと即位の時が巡ってきた、そういう意味で彫られたのです。東宮としての最後の年(丁卯)に、推古女帝と同じように中継ぎの女帝がいて、皇太子としての自分がいる、そこに、改めて意味を見つけたのです。
そこで、法隆寺の仏に銘文を彫らせた、釈迦三尊像の銘文に合わせて。しかし、誰が像を造ったのか書かれていません。それは、不明だったからでしょう。何しろ、運んできた仏像だったのですから。

天智天皇とは何者だったのか。これから、まだまだ書くことはあるのですが…

ですから、鬼前太后・上宮法皇・干食王后は実在したのです
光背銘文と日本書紀は、なぜ矛盾するのか。それは、もともと安置されていた場所から移動したからでしょう。

止利仏師は、上宮王家の三人を知っている…
仏師といえば、鎌倉時代の仏師の運慶・快慶のような慶派が有名ですが、古代の司馬鞍首止利の時代には「仏師」という職名は使われていないそうです。それで、この銘文に仏師があることから、銘文は後世のものという説もあるのです。銘文が後の世のものとしたら、なぜ「正史とは矛盾する人物」のことを彫り込まねばならなかったのでしょうか。おかしなことです。
前回も再建法隆寺に残された623年造の釈迦三尊像のことを考えましたが、この金銅仏の光背には、鞍首止利仏師が造ったと彫られていました。
止利仏師は何処に住んでいたのか。飛鳥なのか、九州なのか、興味の湧くところです。日本書紀に「鞍作・鞍部・鞍・鞍部司馬」が出てくるのは推古朝です。斉明朝の「鞍作臣」は、全て蘇我臣入鹿のことです。つまり、鞍作の活躍は推古朝にしか書かれていません。活躍の場は或所で切れるのです。飛鳥仏の作風が途切れるのもそのためかもしれません。古事記も先代旧事本記も推古朝で終わりますから、ここが一つの変わり目だったのでしょうね。

止利仏師は、上宮王家の三人を知っていた…

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此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。
若し是れ定業にして以って世に背かば、往きて浄土に登り、すみやかに妙果に昇らんことを」と。二月二十一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。
癸未年三月中、願いの如くつつしみて釈迦尊像併せて侠侍、及び荘厳具を造りおわる。その微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安穏にして、生を出て死に入り、三主(太后・王后・法皇)に随い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提におもむかんことを。司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。
それにしても、書紀には法隆寺の建立の記事はありません。法隆寺がいつ建てられたのか、記録としては分からないのです。炎上の記事はあるのに、です。


天智九年(670)というのは、「金堂の本尊の天井に張られた板の年輪年代で導きだした」年代なのです。樹木が切られた年を年輪で探る方法です。
金堂建立時期は670年でも、本尊は古い(623年)と云うことでした。
釈迦三尊像より古いとされる金銅仏(607年)がありました。が、それは、技術的にも漢文としても釈迦三尊像より新しいというのです。


参考までに釈迦三尊の銘文(漢文)
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天智天皇にとって、法隆寺は自分の王朝の弥栄を願う為の寺でした。そして、過去の王朝の菩提を弔う寺でもありました。本尊に彫られた銘文の意味を天智天皇は熟知していたでしょう。しかし、それを消し去ることはなく、むしろ大王になれなかった皇太子霊を供養したのです。
その天智天皇の思いをヤマトヒメである持統天皇は承知していました。だから、法隆寺を大事にしたのです。

司馬鞍首止利仏師は、過去の王朝を証明する人である、それが今日の結論です



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by tizudesiru | 2017-12-21 16:41 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback

法隆寺・釈迦三尊に残る日出処天子の実像

日出処天子・其の姿が残る!
1400年前の御姿が残されているんです!!
法隆寺のご本尊・釈迦三尊像の光背に銘文

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釈迦三尊像は、法隆寺の御本尊
釈迦三尊像は尺寸王身に造られた上宮法皇の御姿
西暦621年12月鬼、前太后が死去し、翌年(622年)正月22日に上宮法皇が病に倒れました。干食王后は看病に疲れ、並んで床につかれたので、これを憂いた王后王子と諸臣たちは、法皇の等身大の釈迦像を作ることを発願しました。

上宮法皇!? ちょっと待ってください。

では、この方は聖徳太子ではありません。法皇とは、大王になった人が出家した後に号するものではありませんか。厩戸皇子は太子でしたから、大王にはなっていないのです。
622年あたりで大王だったのは推古帝です。
それに、この大王は「法興」という年号も持っています。この年号は「私年号」とされています。自分勝手に作った年号という意味です。


上宮法皇は自分勝手に年号を作っていた、のでしょうか
自分の年号を建てることができるのは、天子のみです。それまでは干支を使って、中国の天子の年号を使うことで臣下の態度をとっていたのです。日出処天子と称した以上は、日没処天子と対等の立場で年号を持っていた、のではないでしょうか。

私年号」について
年号として、書紀に「大化・白雉(孝徳帝)、朱鳥(天武・持統帝)」など、時々記録されていることはありますが、今日まで続く年号が始まるのは、大宝(文武天皇・701年)からです。それも「続日本紀」には、「はじめて年号を建てた」と書かれています。それまでの王朝は、年号を持たなかったということです。ですから、「法興」はなかったとされるのです。(しかし、九州でも大宝より古い時代の年号が、寺社の由緒書きなどに伝わっていますし、最近も「九州年号」と呼ばれる年号の一覧が旧家の蔵から見つかっています。)
書紀に記載がない年号は、すべて私年号なのです。
聖徳太子は大王にもならなかったけれど法皇と号し、天子にもならなかったけれど年号を持っていた、天子のつもりになっていた、なんてありえません。
隋書によれば、タリシホコは裴世清に会っています。隋国の使者をごまかせるはずはありません。
天智天皇が立てた金堂のご本尊の光背に、「法興」はあるのです。
ですから、法隆寺の釈迦三尊光背の銘文が、なかった年号を自作自演しているとは思えません。
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年号を建てた王朝があったのです!それは何処に?
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開皇20年、タリシホコは隋に遣使を出しました。百済から仏経を得て文字を使い始めていたのですね。阿蘇山が紹介されていました。

良好な関係で始まった外交だったでしょうに、煬帝が即位して三年、大業三年(607)タリシホコは対等な「天子」としての国書を出してしまったのでした。
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「蛮夷の書、無礼なる者(こと)あり。復た以って聞するなかれ」
次の年、煬帝は文林朗裴世清(裴清)を俀(倭)国に派遣しました。裴清に相見したタリシホコは大いに悦んだのでした。
が、その後、国交は絶えました。


日本書紀には国交が絶えたとは書かれていません。
すると、やはり聖徳太子とタリシホコは別人です

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尺寸王身・王の肉体と同じ大きさの仏を作る!
そんな文化圏は何処にあったのでしょう? 
それは、阿蘇山のある九州の文化だった。すると、永い間秘仏とされた「救世観音」も聖徳太子の御姿を写したという伝承も理解できますし、クスで造られているのですから、九州で造られた仏像に違いないでしょう。俀国(倭国)は九州にあった、これが此処で辿りつける結論です。

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釈迦三尊像の銘文は、まだ残りがあります。それによると、止利仏師が出てくるのです。飛鳥大仏を造ったという止利仏師でしょうか。

次は、明日香と法隆寺の関係も考えなければなりませんね。



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by tizudesiru | 2017-12-19 01:03 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback

聖徳太子所縁の法隆寺・法起寺が語るまぼろしの寺院

聖徳太子所縁の法隆寺の不思議
前回、法隆寺の7世紀の木彫仏像が、クスで造られていることを紹介しました。

樟材で造られていたのは仏像だけではなく、薬師如来像と釈迦三尊像の台座の彫刻部分もクスでした。
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聖徳太子所縁の寺の釈迦三尊は金堂の御本尊(623年造)

また、同じ金堂の薬師如来は、銘文によると607年造となっています。同じ飛鳥時代の金銅仏です。この二つ仏像の台座(前回、紹介)にクスが用いられていました。(樟は九州北限の樹木で、ご神木として古代には船にも用いられました。命を賭して海原を渡り外国に行く船の材としたのでした。)
七世紀の九州と法隆寺の間にはただならぬ御縁が…、これが前回のお話でした。
今日は、クスではなく寺院の伽藍のお話です。
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塔と金堂が東西に並ぶ法隆寺と法起寺
法隆寺の金堂は天智天皇の時に建てられたことが、年代年輪に依っても証明されました。では、天智九年以後、五重塔を金堂の西に置いたのは、誰でしょう。天智天皇が塔を何処に建てるか決めていなかったとして、ですが。
持統七年(693)には仁王会(にんのうえ)が行われ、天皇が天蓋を施入していますから、金堂が完成したということでしょうか。法起寺の三重塔より法隆寺の五重塔が古いので、法起寺三重塔の竣工の慶雲三年(706)までには五重塔は完成していたでしょう。


物部蘇我戦争(仏教をめぐる戦い)の時、聖徳太子が戦勝祈願して四天王寺が建てられました。その伽藍は東西ではなく、南北に一直線です。若草伽藍も発掘の結果、塔と金堂が南北に並んでいたそうです。
山田寺大官大寺(塔は東にずれる)も伽藍は南北に並んでいます。南北が主流だったのです。
しかし、法隆寺西院伽藍は東西に塔と金堂が並ぶ配置となりました。それは、東西に意味があったからでしょう。

まぼろしの古代寺院は何処に

九州の古代寺院は、ほとんど塔と金堂が東西に並びます。法起寺式と呼ばれています。塔が東、金堂が西(法隆寺は金堂が東、塔が西)です。


声はすれども姿は見えずという状態ですね。
古瓦は出土していますが、寺院が見つかっていません。
日本で一番古い丸瓦は福岡で出土しましたが、役所の屋根に葺かれていたとされています。日本中が掘立柱で寺院すらもできていない時、九州では瓦が葺かれていた… 普通の屋根に?
役所とされたのは、寺院の跡がないからだそうです。しかし、律令がしかれても九州の役所のほとんどは掘立柱の草ぶきだったと思います。


不思議なことに、古代山城に瓦が葺かれていた…
不思議なことに、白村江敗戦後に造られたという大野城や菊池城に素弁の古瓦が葺かれていました。それも、一次、二次、三次と建てなおされた山城の一番古い段階で古瓦が使われているのです。その後は太宰府政庁に伴った複弁の瓦に変わりますが。
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(鞠智城出土の瓦です)
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もしかして古代寺院があった?
しかし、仏教が伝わってすぐに、塔・金堂・講堂が揃ったのではないでしょう。まず、個人的な仏堂ができて、官が仏教を使って民を教化する政策がとられて、寺院が造られていくのではないでしょうか。その痕跡は九州に在ると思います、上岩田遺跡のような役所を含む敷地の中に仏堂が取り込まれているかたち…です。
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(筑紫観世音寺・塔と金堂が東西に並び、講堂と回廊が囲む)
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(法起寺の三重塔・天武十四年に計画され、慶雲三年に竣工)

法起寺式の伽藍配置とは

このような伽藍配置(東西に塔と金堂)の寺院ですが、その意味は何でしょう。
同じ文化・思想を共有する集団は、同じ形式の寺院を建てるのではないでしょうか。すると、東西に塔と金堂が並ぶ伽藍配置を選んだ天皇は、どのような文化圏の人なのでしょうか。
わたしは天智天皇と持統天皇の深い結び付を考えますから、東西の伽藍配置は天智天皇の意思だったと思います。持統天皇は、最後まで倭姫としての立場を貫いたと思うのです。
または、太政大臣だった高市皇子が伽藍配置を決定したのでしょうか。気になるところです。決定した人物は、九州との結びつきが深いことになるでしょうね。
確かに、高市皇子の母は九州の宗像氏の娘でしたからね。
このことは、まだ金石文を通して考えなければなりませんが。ここまでにします。
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参考までに明日香の資料館の日本の伽藍配置のパネル
資料館のパネルを見ると、近畿の寺院の伽藍はバラエティに富んでいます。
一塔三金堂の飛鳥寺が瓦葺きの寺院の始まりとなっています。飛鳥寺の創建瓦と思われる丸瓦が、四天王寺(難波宮の遺構の下層)若草伽藍から出土しています。

同じ時期の建物なのです。
それにしても、短い間に目まぐるしく伽藍配置は変わったのですね。権力の交替が激しかったのでしょうか。


では、このへんで



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by tizudesiru | 2017-12-16 01:05 | 311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺 | Trackback

法隆寺は怨霊の寺なのか・隠された十字架再び!

法隆寺・救世観音は聖徳太子なのか
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聖徳太子は実在したのか? その実在をを疑う説があります。推古天皇(女帝)の太子だった厩戸皇子は、日本書紀で活躍しています。しかし、同時代の隋書に残る俀国(倭国)の首長タリシホコは女性ではなく男性であり、しかも「天子」と自称しているのです。俀国から使者も沙門も隋に到達していますし、隋から文林朗裴世清が俀国に来ています。裴世清はタリシホコに謁見したのです。隋書では阿蘇山の詳しい記述もあるし、風俗も詳しく紹介されています。
「日出処天子」から「日没処天子」に国書を出したのですが、隋の煬帝は「無礼だ」と怒り国交は結局絶えたとまで書かれています。さて、日出処天子は、何処に住んでいたのでしょうね。隋書には「竹斯国より以東、皆な倭に附庸たり」ですからね。筑紫より東は、倭国に附属していたのです。

倭王、隋都大興(長安)に使を派遣(600年)

隋書に名前が残る阿毎タリシホコと聖徳太子は同一人物? 別人?
もし、タリシホコが聖徳太子なら救世観音(聖徳太子の姿を写したとされる)を秘仏にした理由は何でしょうね。

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聖徳太子建立とされる法隆寺は670年に焼失した
「日本書紀」によると、天智九年(670)に法隆寺は焼失しました。しかし、西院伽藍には焼失を立証する址はなく、仏像も残っていたので、火災後の再建説と火災はなかったとする説が長く対立していました。しかし、今日では焼失したのは若草伽藍とされ、金堂は天智九年頃の再建で、塔は和銅四年(711)頃に竣工とされています。
不思議なことに、法隆寺(若草伽藍)は一宇も残さず焼失しましたが、飛鳥仏は残りました。

ということは火事の最中に(六七〇年)、に大量の仏像を金堂に運んだのでしょうね。
火災の業火が堂宇に及んでいる時、台座から仏まで持ち出せるほどの怪力を持った僧が数百人かいたとしても、火事場で運び出す人数は足りたと思えないのですが。

再建法隆寺に数多くの仏像が残されたのは何故か
木彫仏の用材は楠なのです。
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観音菩薩立像・勢至(せいし)菩薩立像・伝日光菩薩立像・伝月光菩薩立像(飛鳥時代・七世紀)いずれも樟から彫り出されています
(六観音のうちの四体。観音・勢至の二像は、金堂西の間の阿弥陀如来像の下にあった、そうです。日光・月光の二像は、食堂の本尊薬師如来の両脇に安置されていた、そうです。金堂の本尊は釈迦三尊像です。)

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持国天・多聞天もクス材で造られていますが、肩先・腰の天衣・両沓などは檜材での補修となっています。なぜ、このようになったのでしょうか。台座から全てクス材だった四天王(前日紹介)とは、違いますね。面相も掘りなおしてありますし。
補修の時、近くに樟がなかったか、手に入らなかったのでしょうね。

樟が使われたのは、仏像だけではありません
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薬師如来の台座ですが、請花と反花のみが、クス材です。それも、上座と下座では様式が違っているそうです。
釈迦三尊像の台座も、同じように上座・下座の様式が違う
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請花・反花のみがクス材で、あとは檜材です。下座(したざ)の下框(したがまち)を形成する巨大な檜板は、本来は建物の扉であったものが仏像台座として再利用されたものだそうです。
「樟は日本に現存する七世紀の木彫仏のほとんどの作例に共通する用材である」と、国宝法隆寺展の図録には書かれています。なぜ七世紀だけに? 

七世紀にはわざわざ九州から樟を手に入れることができたが、八世紀になるとできなくなった、のでしょうか。


用材に樟が使われていた理由

わたしは、白村江敗戦後に俀国(倭国)から仏像を運んできたと思います。仏像の用材は産地を示すだけでなく、その製作地も示しているのです。

救世観音も百済観音も、そのほかの法隆寺の飛鳥時代の木彫仏はクス材で造られています。これは、九州で造られたことを示していると思います。クスの北限は福岡市ですから、古代に自然木としての樟は九州にしかないのです。
8世紀になって、近畿では楠材が簡単には手に入らなくなって檜を使用した、檜が思いのほか適した用材だったので、以後仏像に多用されるようになった、のではないでしょうか。

それにしても、明日香から遠い斑鳩の法隆寺に仏像が運ばれたのは何故でしょう、飛鳥でもよかったでしょうに。当時は明日香が京だったのですから、最高の宝物は都(明日香)に置かれるべきです。が、天智帝はそうはしなかった。
天智天皇は斑鳩の地を選んだ、そこに法隆寺を造営して、大量の飛鳥仏を運び入れた、のです。案外、交通の便(大和川の舟利用)が作用したのかも知れません。

それに、すべて死者の持ち物だったから、怨霊の持ち物だったから、封じるために斑鳩を選んだ、その祟りを思うと厚く供養せざるを得なかった、鎮魂の為に一か所に集めた、のでしょうか。
それとも、多くの霊魂を供養するためには多くの仏像が必要だったのでしょうか。
そして、安置されていた元の寺院の伽藍(塔と金堂が東西にならぶ)に倣って西院伽藍を建立したと思います。


霊魂を鎮める寺が法隆寺
東西に塔と金堂が並んだ寺院、金堂と塔が入れ替わる場合もありますが、法隆寺・橘寺・川原寺は伽藍配置が東西だし、同じ目的の寺院でしょうね。
三寺院には、白村江敗戦で怨霊となった高貴な人の霊魂を鎮める務めがあった

今日の結論です

仏像の写真は1994年「国宝法隆寺展」の図録をデジカメで写したものです。
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また、あした。


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by tizudesiru | 2017-12-13 16:15 | 310法隆寺は怨霊の寺なのか | Trackback

白村江敗戦後、橘寺は彷徨える仏たちを供養した

飛鳥仏四十九体の悲運を受け止めた橘寺
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昨日から注目している橘寺は、川原寺の南に位置し千数百年の歴史を刻んできた古刹です。元は尼寺で、聖徳太子誕生の地とされ、聖徳太子建立の七大寺に上げられています。(上宮法王帝説)

今日は、昔ここ橘寺に集められていた仏像の話です。その金銅仏は、現在国宝になっています。飛鳥仏と呼ばれる四十九体の金銅仏がなぜ、橘寺に集められていたのか、その理由は不明です。

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これらの仏像は今では国宝ですが、これまで過酷な運命を乗り越えて来ました。それは、日本中の仏像が遭遇した困難と混乱でもありました。
明治になって、廃仏毀釈のあおりを受けて日本中の寺院が困窮しました。有名寺院の仏像も襖絵も、どんどん外国に売られました。法隆寺すら困窮し、困り果てた住職が皇室に仏像を献上して、その見返りに金銭を得る道を選んだのです。苦渋の選択だったでしょう。

明治十一年に法隆寺から皇室に献納されたいわゆる「御物金銅像四十九体」はもとは
橘寺に在ったものと云われ、法隆寺金堂の仏像などの目録を記した「金堂日記」には、「橘寺の常住僧が少なくなったので、安全を期するため仏像を承暦二年(1078)十月に法隆寺に移し、金堂の大厨子内に安置した」と、次第が記されています。

橘寺から法隆寺へ、法隆寺から皇室へ、更に現在は東京国博へ
御物金銅像四十九体はもともと何処にあったのか?
現在、東京国博にある飛鳥仏の内四十九体は、橘寺に在ったものであることに異存はありませんが、では、それらの仏像はもともと何処にあったのでしょう。個人の持ち物が集められたとして、その理由は何でしょう。飛鳥仏・白鳳仏ですから同じ時期の仏像です…それが官寺でもない橘寺に集められたのは何故でしょう。
これらの仏像を有力者が自分の館や仏堂に安置し、そこで念仏を唱えていたというのです。それであれば私有物ですから、集める必要はありません。ほとんどが七世紀の仏像ということです。或日、念仏を唱えていた信心深い人が仏像を手放した…

白村江敗戦後に俀国(倭国)で集められた金銅仏ではないか
わたしは白村江敗戦で疲弊した地域から持ち込まれたと考えました。仏教が浸透していたと、隋書にある俀国(倭国)からです。二万人もの戦死者を出した地域は働き手を失った上に、敗戦後は未曾有の経済的混乱に直面したと思います。その時に集められた仏像だと思うのです。四十九体すべてがそうだとは思いません。が、かなりの仏像がそのような過去を持っていると思うのです。

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165号は語る
宝冠を戴き顔を正面に向け、腰を前に出して直立する。左手に宝珠を載せ、右手は宝珠の上に伏せる。このように腹前で宝珠を奉持する菩薩像は、「観無量寿経」が流布する以前の初期観音像を伝えた姿とされます。
このような菩薩立像の日本での作例は、法隆寺夢殿の観音菩薩立像(救世観音)が代表として挙げられます。救世観音は、古式の観音の形式で造られているのです!(わたしは、この救世観音も俀国のものだったのではないかと思っているのです)
さて、165号には銘文が刻まれています。「辛亥年の七月十日に逝去した笠評君(かさのこおりのきみ)のため、遺児と伯父の二人が造像を発願した」と。地方行政単位の「評」を使用しているので、辛亥年は白雉二年(651)に比定されています。では、651年あたりは、まだ「観無量寿経」は流布していなかったのですね。それとも…651年より60年も前に「評」を使っていた地域があったのでしょうか。

他にも銘文のある金銅仏・156号
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156号には銘文が彫られています。
「丙寅の年に高屋大夫が、亡くなった韓(半島)の婦人・阿麻古のために鋳造した」と読めるようです。丙寅年については606年(推古朝)・666年(天智朝)が考えられています。同じ丙寅年の野中寺の仏像は年月日と干支の組み合わせで666年であることが確定しています。が、作風を比べると156号の方が古いそうです。
では、156号の仏像が606年だったすると、仏教が浸透している地域は限られます。韓半島の婦人を妻とした男性が妻の為に仏像を造らせたという、その地域は何処でしょう。そこは半島と近く、深く交流している処です。

法隆寺の7世紀の木彫仏は全てクス材で造られている
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以前にも取り上げました、クスは福岡市の立花山が北限であることを。韓国では寒くてクスは育ちません。仏像のクス材は九州で調達されたのです。(法隆寺の百済観音も救世観音もクス材ですから、九州で造られたのでしょうね。クス材は、飛鳥時代7世紀のすべての木彫仏像の共通点です!)
さて、台座の鬼から付属品まで全てクスで造られた多聞天立像の光背にも、文字が刻まれています。
「薬師徳保(くすしのとくほ)
上而」、「鍛師□古(かぬちしのまらこ)二人作也」、「汗久皮臣(うくはのおみ)」と刻まれています。薬師・鍛師は工人でしょうが、汗久皮臣の「うくは」とは、浮羽のことでしょうか。
「薬師光」の針書もあるそうですが、刻銘とは違いますよね。「薬師光」は運ばれた仏像の傷んだところを修復でもしたのでしょうか?


橘寺の仏像が安全のために法隆寺に移されたことの意味
法隆寺と橘寺の結びつきは深く大きいのです。二つの寺の共通点は何でしょう。
わたしは両寺ともに「白村江敗戦後に俀国の仏像を守ろうとして運んできた」と思うのです。それでなければ、法隆寺の釈迦三尊像の銘文の謎も解けません。法隆寺に何体もの本尊がある理由が分かりません。
川原寺には俀国の王族の愛蔵品が運ばれ、橘寺には有力者の持念仏が運ばれたのではないかと、思うのです。
多聞天像の頭部に打ち込まれた光背を留める釘がありますが、それらの技術の共通する仏像は、製作地が近いのではないでしょうか、、、、、、。

都が平城京に遷る時、川原寺と橘寺は明日香に残り、彷徨える戦死者の霊魂と行き場のない仏を供養した…そう思うのです。
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写真は、国立博物館の「美の国日本」展の図録を使わせていただきました。
また、明日。


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by tizudesiru | 2017-12-12 00:58 | 309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像 | Trackback

221 不思議と謎の寺・法隆寺

221 法隆寺は不思議だらけ

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奥の門前の右手に、若草伽藍址への出入り口があります。いつもは閉ざされていて、のぞき見すらできません。天智九年(670)に焼失した法隆寺
が、
若草伽藍(斑鳩寺)だったとされています。若草伽藍は燃えたのに、仏たちは無傷でした。先に西院伽藍に移されていたのです。まるで焼失が予測されたかのようです。では、誰が仏を遷したのか?
過去のNHKの放送では、天智天皇の時代と年輪年代測定で出たということでした。
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法隆寺の塔と金堂は東西に並んでいます。法起寺とは並びが逆で、塔が西、金堂が東です。塔と金堂を回廊が取り囲み、回廊が講堂に取り付いています。
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講堂の仏たちは、真実を知っているのに違いありません。しかし、仏にくちなし…です。

では、若草伽藍の瓦を見ましょう。写真は、森郁夫「一瓦一説」から。デジカメで撮影。
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パルメット文様です。手彫り忍冬紋軒平瓦。飛鳥寺や豊浦寺などでは、軒平瓦は使われてないそうです。百済にはパルメット文様はありません

この時点で、初めて軒平瓦が作られたとされています。それが現在の定説だそうです。わたしは、ある瓦研究者に質問してみました。
「軒平瓦は我が国で考案されたもので、百済には出土しないと書かれたものを詠みましたが、そうなのでしょうか」
その研究者は答えられました。軒平瓦は新羅にも出ると
そうなんですね。百済だけを見ては分かりませんよね。

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これは、金堂の軒丸瓦です。古代寺院では金堂が最初に建てられた
そうですから、塔の瓦より金堂の瓦の方が古いのです。おや、これはどこかで見た文様です。飛鳥寺にもありました。
若草伽藍の星組と同范の軒丸瓦は、瓦当范を使って粘土にスタンプするように作られています。あきらかに軒平瓦とは工法が違いますね。
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塔の瓦は、スタンプを交互に忍ながら作っているそうです。
同様な瓦は、斑鳩宮跡(夢殿がある辺りの東院伽藍)や、中宮寺跡(現在地から法輪寺や法起寺の近くに400mほど離れた場所)からも出土します。
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若草伽藍と飛鳥寺の星組と云われる文様の瓦が同范だそうです。では、同じ時期ですか?
しかし、瓦研究者はおっしゃいました。瓦当の范は長くて40年近く繰り返し使われるものだそうです。だから、「瓦当范の傷を見ながら時期を判断するのだが、時間を特定するのはなかなか難しい」と。瓦の中丸を「中坊」と言いますが、そこの「連子」(小粒の点)は、数が少ないほど古い瓦のようです。

この星組系の軒丸瓦は、福岡の上岩田遺跡でも出土していますが、一点だけの出土なので創建瓦と認めることはできないということでした。では、何故似たものが出土したのでしょう。
工房がつながっていた。同じ文化圏にあった。他にも様々なことを教えてくれますね。
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斑鳩は魅力的な土地です。
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また明日
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by tizudesiru | 2017-02-17 15:55 | 221斑鳩寺は若草伽藍 | Trackback

219 法起寺式の伽藍

219法起寺式伽藍は塔が東
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法起寺に行きました。日本で一番古いという三重塔があります。斑鳩のパンフレットにもそう書かれています。法隆寺から近いので自転車で行きました。
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なかなか美しいロケーションです。

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塔は古を留めていますが、金堂は今は有りません。金堂の跡が石で囲まれたところです。
わたしは今まで法起寺を「ほっきじ」と呼んでいましたが、最近世界遺産に登録される時、「ほっきじ」から「ほうきじ」へと読みを変えたそうです。法隆寺の法にあわせて「ほう」と読むことにしたのだそうです。ほう、そうなんか…です。
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美しい三重の塔です。法隆寺の五重塔の一層目・三層目・五層目と、この塔の三層はほぼ同じだとか。やはり、法隆寺と深い関係にあるのでしょうね。
この寺は、斑鳩町岡本にあるので、岡本寺と呼ばれたり、池尻寺と呼ばれたりしました。
上宮王家ゆかりの寺で山背大兄王が亡くなったので、完成まで工事がはかどらず長期に渡りました。
「法起寺塔露盤銘文」(永保元年・1081年に書き写されたものが「聖徳太子私記」に転写されているのですが、露盤そのものが失われ、銘文そのものも疑われている状況です)
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上の瓦の写真は「一瓦一説」(森郁夫著)からデジカメで写したものです。
軒瓦もきわめて少なく、「重弧文軒平瓦」が見つかっていますが、これは斑鳩ではごく限られた使われ方をしているとのことです。この瓦、山田寺式の重弧文の平瓦から考えると、法起寺は七世紀半ばから七世紀後半の寺院だと考えられるそうです。
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また明日
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by tizudesiru | 2017-02-16 00:39 | 219法起寺式伽藍は九州に多い | Trackback

130素材が語る古代・樟・銅・土器

素材がささやく古代の秘密 クスノキは九州が北限(福岡市立花山・樟の原生林)古代には、楠は九州より北には自生していませんでした。かの有名な百済観音はクスノキの一木造りですから、九州の樟で作られたのでしょう。それとも、百済に樟を運んで造り上げて、再度日本に持ち込んだというのでしょうか。楠では船も作られたそうです。命を懸けて海を渡るとき、地域のご神木で作った楠の船に乗ったのかもしれません。仏像を樟で造るのも、納得できそうです。先に紹介した法隆寺の「多聞天立像」は、樟の一木造りです。これも楠ですから、九州で作られたと考えられます。それを、法隆寺に持ち込んだのは誰でしょう。私も及ばずながら推理をしていますが、以前、紹介した自著にそのことについて少し書きました。
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 古代の遺物は私たちの知らないことを多く語ってくれているのかも知れません。
「美の国日本」に展示されていた鏡が二面ありましたが、どちらも奈良県でした。「新山古墳」の直弧文鏡(上の写真)と、「佐味田宝塚古墳」の家屋文鏡(下の写真)です。いずれも「美の国・日本」の図録をデジカメで撮った写真です。
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この銅鏡の「鉛同位体比」を「Pbデータベース」で調べてみました(これは、ネットにも出ていますから誰でも手に入れられる資料です)。最近、青銅器に熔かされている鉛で産地を探るための資料として、又は青銅器の製作地域を探るため(同一工房を探すため)とかに、鉛同位体比が使われています。でも、鉛は銅の中に鉱物のまま入れて溶かすこともできますが、産地の違う青銅器を混ぜ合わせることも可能なので、産地の特定は難しいようです。
 直弧文鏡の方は探しきれませんでしたが、家屋文鏡は珍しいので見つかりました。データは次の順序で書かれています。①②③④は鉛同位体比で4種類あります。
a鏡種・b分類・c時代・d遺物等の名称・e径・地域遺跡名など・①206pb/204pb・②207pb/206pb・③208pb/206pb・④ 207pb/204pb (文献名など省略)
家屋文鏡のデータ a家屋 b古墳前 c家屋文鏡 d22.7cm e奈良県佐味田宝塚古墳 ①18.223  ②0.8586 ③2.1200 ④15.646
分かりにくいですね。下にプリントアウトしたデータをアップしてみました。
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では、福岡の弥生のデータと比べてみましょう。
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数字は左から①②③④の順で同位体比のデータが並んでいます。古墳時代の奈良と弥生時代の福岡では鏡の成分に違いがみられるようです。ちなみに、平原王墓の破砕銅鏡は国産品と柳田康雄さんが言われていますね。あれは見事な技術で造られた銅鏡でしたので、最近まで舶来品だと信じていましたよね。見事な銅鏡を作る技術が九州にあったのなら、古墳時代になって他所から工人を招いて、技術の劣る鏡を作ったのは何故でしょうね。
 pbデータベースを見ると、確かに製作地域は想像できそうですね。それにしても、銅鐸が九州の銅戈を鋳つぶして造ったという説にゆすぶられますね。

 今日は博物館をはしごしたので疲れて……ここまでにします。
 さて、昨夜の続きです。
纏向遺跡に北部九州産の土器はほとんど無いです。あっても1%くらいです」 
これは、奴国シンポジウムでの奈良文化財研究所パネラーの発言ですが、そりゃあ、そうでしょう。この時代の近畿には半島系土器はまだ多くないし、この時代の対外交流の中心は博多湾沿岸地域にあった(福岡市博物館の図録に解説)のですから福岡市の西新町遺跡からは、半島系の土器や半島の影響を受けた住居跡(室内の隅にオンドル式のカマドがある)、西新式と呼ばれる土器と半島系土器(楽浪系は含まない)、近畿・山陰・瀬戸内などの土器、近くの藤崎1号墳と6号墳からは三角縁神獣鏡がそれぞれ出土しています。ここは方形周溝墓ですが、1号墳の鏡は、滋賀県雪野山古墳鏡と同范で、6号墳鏡のほうは甲斐銚子塚古墳や備前車塚古墳などの鏡と同范です。更に、この西陣町遺跡の人口は突然減少するのです。消滅でしょうか。
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上の写真は、藤崎6号墳の木棺墓と出土品です。この三角縁神獣鏡「二神二車馬鏡」の鉛同位体比を見ましょう。①18.090 ②0.8625 ③2.1321 ④15.603となっています。
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さて、「二神二車馬鏡」に対応する鏡はどれでしょうね。探しかねます。同范鏡ですから、せめてサイズは近似値となるでしょうね。
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この写真は、西新町遺跡の半島系土器です。これらの出土品は、どこが半島大陸との接点であったかを示しているのです。ここで楽浪系土器が見られないということは、楽浪郡が滅びた後の遺跡なのか、それとも交流ルートが違うのか、です。また、西新町遺跡では板状鉄斧(鉄素材)・雛形鉄器・ガラス用の土製鋳型・青銅器の素材の鉛板などが出土していますが、工房などの生産跡が見られないので、物流の窓口だったらしいです。
 鉄器生産跡は西新遺跡より東にある博多遺跡にみられ、大型羽口を使用する大鍛冶が弥生後期には行われていました。この羽口が纏向に伝播するのは、古墳時代になってからですね。だって、纏向には西新式土器は1%しか出ないし、博多遺跡の羽口と同型の羽口が出ているのなら技術の移入は間違いないから、両者を合わせて考えると古墳時代になってからの交流としか言えないのです。いつも、答えは一つの結論に向かいますね。纏向に卑弥呼はいなかったのです。
 桜井市が「卑弥呼と邪馬台国で町おこし」したいと思っておられるという噂を聞きますが、無理をするより古代の交流を現代にも蘇らせるという方向で「福岡市との姉妹都市」などを考えて両者の情報を交流させ、古代を生き生きと現代に結びつける方が、より前向きで楽しいと思います。私は桜井市に何度も旅をして楽しみましたから、両方の都市が結びつくことをすごく期待し希望しているのです。そうなると、いいなあ……ちなみに邪馬台国が●●辺りにあったとか、思っていません。邪馬台国は矛を埋納させられた地域のどこかです。矛で守られた宮殿があった処と思っています。


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by tizudesiru | 2015-11-08 23:52 | 130素材が語る古代Ⅰ・樟 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
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129?国の墓制・巨石横穴墓
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131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
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135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
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138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」

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