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江田船山古墳の石棺がひび割れた・熊本県和水町

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なごみ町の皆様にこの度の地震のお見舞いを申し上げます。

写真は、2014年夏の熊本県和水(なごみ)町に在る江田船山古墳です。ここが2019年1月3日に地震にみまわれました。熊本地震による「ひずみ」の影響で震度6弱の地震がおこったらしいです。
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江田船山古墳は豪華な副葬品とともに妻入横口式の石棺が有名です。
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新年早々に残念なニュースでしたが、被害が少なくて本当によかったです。然し、江田船山古墳の石棺にはひびが入りました。

江田船山古墳は熊本県菊池川流域に在りますが、不思議なことに菊池川流域の古墳は、バラエティに富んでいます。いろいろありの地域なのです。
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家形石棺だけではなく舟形石棺もありますし、石館の装飾古墳もあります。
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菊池川中流域の山鹿市のチブサン古墳(石館の装飾古墳)が有名ですね。
江田船山古墳の近隣には塚坊主古墳もあります。同じく装飾古墳です。
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家形石棺から舟形石棺まで、菊池川流域にはいろいろあるんです。
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この流域の石棺が瀬戸内海を通って遠く関西にまで運ばれているのです。なぜ遠くまで運ばれたのでしょう。相当な人手と日数と船の技術が必要だったではずですね。運ぶ理由も。
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もちろん江田船山古墳の周囲には石人石馬も置かれていました。ここの公園に熊本各地の石製装飾品が置かれていますから、必見です。それにしても、石製古墳装飾品が置かれているということは、江田船山の被葬者も筑紫君磐井の関係者だったということになりますね。北熊本ばかりではなく中熊本も磐井の勢力範囲ということですが。

それにしても、気になることがあります。過去の自然災害です。
貞観6年(864)7月17日、富士山爆発(「日本三代実録」)
貞観11年(869)陸奥国で大地震と津波発生。
貞観13年(871)出羽国の鳥海山が噴火。
貞観16年(874)薩摩国の開聞岳が噴火。
「三代実録」は最近よく取り上げられますからご存知かもしれませんが、休火山の噴火は見逃せません。最近の火山の活動は活発だと思うのです。どのような対応を取ったらいいのか迷いますが、慌てずに行動しようとは思っています。

今年が良い年でありますように。


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by tizudesiru | 2019-01-05 16:30 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback

辛亥の変とは、倭五王家の滅亡だった!

稲荷山古墳鉄剣と江田船山古墳鉄刀の銘文から
「辛亥の変」を読み取れるのでしょうか

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(さきたま古墳群の中で、最初に作られたのは「稲荷山古墳」)
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熊本県の鉄刀と埼玉県の鉄剣の銘文には多くの共通点、対応点が見られると、「百済の王統と日本の古代」(兼川晋著)指摘されていました。
①金象眼と銀象眼
➁杖刀人と典曹人
③百練(錬)と八十錬
④奉事と奉事
⑤獲加多支鹵大王と獲■■■鹵大王
⑥七月中と八月中
⑦吉祥句の有無

両者が大きく違っているのは⑦の吉祥句の有無です。
縁起のいい詞があるか無いかで、両者が造られた目的が違って来ます。兼川さんは、稲荷山の鉄剣銘文を次のように読まれました。ここだけ書き写しますと、前後が分かりにくいのですが、敢て写しましょう。


「百済の王統と日本の古代」155ページ『鉄剣銘を読み直す』


「辛亥の年七月中に記す。(五三一年の七月に記す。)この年は三月に、筑紫の武王家を嗣いだ葛子天皇が物部麁鹿(あらかい)に討たれて光栄ある倭の五王家の一族は滅ぼされてしまった。だから、わたし=乎獲居臣は、ここに自分の一族のことと倭の五王家との所縁について記すのであるが)乎獲居臣の上祖の名は意冨比垝、其の児の名は多加利足尼、其の児の名は弖已加利獲居、其の児の名は多加披次獲居、其の児の名は多沙鬼獲居、其の児の名は半弖比、其の児の名は加差披余、其の児の名は乎獲居臣。世々、杖刀人の首と為り、(筑後の五王家)に奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺(武王が関東に巡狩に見えた時、こちらでは倭武天皇とお呼びしたものだが、その寺が)斯鬼宮(現栃木県藤岡町大崎。現在の大前神社)に在りし時、吾、(獲加多支鹵大王の)天下を佐治せり。(思えば、この地にあって、武王が討たれたときは何のお力にもなれず、この度はまた物部麁鹿のために滅亡したと云うことである。遥かに冥福を祈り)此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」
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江田船山の鉄刀の方は、
「天下を治められていた獲多支鹵大王の治世に典曹仁としてお仕えした私、名は无利弖が、八月のさなかに大鋳釜を用いて四尺の廷刀せた八十錬、九十振、三寸上好の刊刀である。此の刀を服する者、長寿にして子孫洋々、■恩を得ることができ、其の統べる所を失うことはない。作刀者の名は伊太和、書者は張安である。」
と、刀の力によってますます幸運に恵まれるというのです。



この銘文の違いとその意味を、兼川さんの読みが言い当てていると思いました。
稲荷山鉄剣に込められたのは、深い悲しみと、倭王武への追慕の気持ちです。
兼川さんは、武が討たれただけではなく、其の王家の滅びたと読み取ったのです。

圧巻の解説でした。


ではまた次回


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by tizudesiru | 2018-04-08 12:00 | 334辛亥年に滅びた倭五王家 | Trackback

倭五王は行方不明

「神籠石(こうごいし)は、消えるのか」と、気になることを書きました。
結論としては、「神籠石は死語になる」と思います。わたしは、次の世代は名称として「神籠石」を使わないと思うのです。
今まで歴史の表舞台に出さなかったものを、文化庁が名前を変えて表に引き出しました。神籠石を持つ自治体としても観光に使うつもりなら「古代山城」として「山城ブーム」に乗るでしょう。耳慣れた言葉を使うのは、当然ですから。
もちろん、神籠石が消えるかどうか、次の世代が歴史をどう捉えるかで決まりましょう。ということで。

今日は、しばらく頓挫していた倭五王に戻ります。

そろそろ、たまった宿題を片付けなければなりません。
行方
不明の倭五王を探すことです。

倭王武は、雄略天皇なのか
宋書によれば、倭王武は倭王興の弟です。倭王武が日本書紀の雄略天皇であれば、確かに、宋書や梁書の倭国伝や倭伝とは系図が合致しません。

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雄略天皇が倭王武だって…ほんとですか?
倭王武が宋に遣使して上表したのが478年雄略天皇が没したのが479年ですから、
倭王武=雄略天皇なら、遣使の翌年には死亡したことになります。

宋書に書かれた倭王武は雄略天皇になっていますが、実は日本書紀でも決定打がなく倭王武も誰だか分かっていない、ホントは見つかっていないそうです。
書紀の中には、雄略天皇が宋の冊封体制に組み込まれることを望んだことなど、一切書かれていません。宋との交流も書かれていないのです。


宋書との接点がない理由は、「倭王が宋に朝貢した」という記事を正史である日本書紀に載せるのは恥だとして、正史に掲載しなかったというのです。
現代の歴史学者としても、他に理由を見つけられないのでしょう。
ホントにそうでしょうか。倭王武は実在の人です。その父、祖父にしても、中国との交流を書紀で辿ることはできません。


ここで考えられるのは、「五人の王の誰も書紀に登場しない理由は、日本書紀の大王・天皇とは無関係の人達ではないか」と云うことです。五王が畿内の人ではないと考えると、かなりの部分が解決します。
しかし、そうなると、倭王は何処に居て、どのような国をつくり、どのように消えて行ったのか、といった問題も出てきます。

先のブログでも既に出しましたが、ここで武の上表文を再読しましょう。
倭王について何か分かるかも知れません。

478年、倭王武が、宋に国書(上表文)


宋の冊封体制にありながら、武は自らの府(役所)を開いて政治を行いたいと申し出たのでしたが、翌年479年に、宋は滅亡しました。


その後の武の行動は? まず、武の上表文を先に読みましょう。
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上表文から分かること

①倭国の王は、遠征時に甲冑を身に着けたので、見栄えのいい甲冑を持っていた。それらは、墓にも副葬されたはず。


➁東の毛人の国を征服、西の衆夷の国を服属、渡海して海北の国を平定し、中国に朝貢を忘れなかったと自慢している。広い範囲を平定したのが、倭五王の時代なら、卑弥呼の時代はそこまで統一されていなかったことになる。(では、邪馬台国畿内説は?)

倭王にとって百済は親しく高句麗は憎い国である。

④倭王武は父親と兄をほぼ同時期に失った。

⑤倭王は、父兄の志を遂げること=高句麗に勝つことだ、と思っている。

⑥宋の後ろ盾で高句麗を破りたい。

⑦このような倭国王だから開府儀同三司を授けてほしいと願った。


①~⑦まで確認しました。
ここで驚かされるのは、軍事力です。そして、戦争をする意味です。理由もなしに「刃を畏れず戦う」ことはできません。彼らは何のために命を懸けて戦ったのか。
先に挙げたように「倭王が畿内の人ではない」とすると、倭王は畿内をスルーして関東へ遠征したことになりますが、其のあたりが上表文では読めません。

半島への派兵も重要です。上表文から「高句麗憎し」が浮かびます。
百済と高句麗が対立していたから、倭国は百済側に着いて高句麗を共通の敵としたのでしょう。

倭国は何処にあったのか。
①~⑦で読めるのは、百済に近くすぐ百済に行ける地域。近畿をスルーして関東に遠征できる地域、です。伝統的に戸籍を持っていて、軍備を早く整えることができる国です。食糧生産に適した地域でもありましょう。
どうも畿内の王権ではないようですが。
然し、これだけでは十分ではありません。

また、武の必死の思いは伝わりますが、開府儀同三司を許されることはなく、宋も滅びたし、武の朝貢も終わりました。以後、朝貢の記録はないのです。この辺りは、既に書きました。



479年以後の倭王武の行動

武は開府儀同三司の理想を捨てたのでしょうか。
次の年表を見てみましょう。474・475・479・は雄略紀の記事です。
471年は江田船山古墳の金石文です。

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上の年表を見ると、いろいろ考えることができます。
その事は、また次に。


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by tizudesiru | 2018-03-27 12:16 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

稲荷山古墳の築造は六世紀(1)

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関東地方の前方後円墳の特色
=古い形式の主体部=稲荷山古墳

「さきたま古墳群の全体、それと将軍塚古墳(明治26年発掘)など終末期の古墳(横穴式石室が含まれる)ので、最初は横穴式の石室を探した。ただ、前方後円墳の場合、特に関東地方では古い形式の主体部が新しい古墳にも残されていることがある。」そうです。

いわば棺・あるいは槨的なものが墳丘の上に営まれることもあるので、(墳丘の)上も調べたそうです。


『稲荷山古墳』(埼玉新聞社)より座談会の抜き書き」

柳田 あの近所(さきたま古墳群)にある古墳を見ますとほとんど横穴なのですね。そこで横穴を想定して準備をしたのですが、斎藤先生から、上方の竪穴も想定しなきゃと注意されて、それが当たったのです。

  (略)

柳田 出土品の話にいきますと、特に多いなと思ったのは武器、武具の類と馬具ですね。それから、三種の神器(鏡・勾玉・剣)。武器では鉾から太刀(直刀)、剣、挂甲、鉄鏃が束になったのがあるのです。馬具も作りのいい鈴杏葉(すずぎょうよう)、環鈴、これは埼玉県では初めてです。

斎藤 あのような鈴杏葉は若干例がありますが、関東地方では面白い例だと思うのです。群馬県の宝塔山(ほうとさん)古墳ですが、江戸時代かにいい鈴杏葉が出ています。ここの場合は、あれより下るのじゃないかと思います。
この古墳の副葬品で特色のある物は、(象嵌のある)剣は別としても、馬具ともう一つは帯金具。長方形の板でバンドに直接取り付ける、龍のような文様があるのです。
熊本の江田船山古墳と装身具を比べてみますと、江田船山の方には冠が出ているのです。純金のたれ飾りのついている耳飾も出ています。

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(江田船山古墳の冠や耳飾・馬具は大伽耶系とされる。同じ大伽耶系の馬具が出土するのが、稲荷山・江田船山・和歌山大谷古墳)

斎藤 帯金具となると、同じようなものですね。
東国の古墳の被葬者というのは江田船山古墳に比べると帯金具は別として、やや質素というか、東国らしいと思うんです(略)

柳田 埼玉県内には前方後円墳が百十いくつかあると思うのですが。金井塚さん、あのような副葬品について、その辺りは。
金井塚 今度の辛亥鉄剣ではいろんな方のご意見が出されました。斎藤先生が『重要なのは考古学的な研究の事実の上に立って、問題を考えていかなければならない』といわれましたが、わたしも同感です。(略)現状では銘文が独り歩きしているような現象と思います。あくまでも考古学の成果が基礎になるのではないかと。(略)
最初に問題にしたいのは、稲荷山古墳がいつ造られたのかということなのです。築造年代は二転三転しました。最初の発掘の段階では六世紀の半ばないしそれ以前。次に埼玉県教育委員会の「稲荷山古墳発掘概報」では六世紀前半ということになった訳です。理由は(書紀の)安閑紀の国造の争乱に結び付けて、その頃の築造だろうとなったのです。三回目が「考古学ジャーナル」に発表された(栗原文蔵氏)五世紀の終末から六世紀の初頭というふうに、二転三転したのです。
いま文献の方のご意見を見ていますと、どうも五世紀の終末から六世紀の初頭の上に立って考えられているようです。
(略)私は六世紀初頭の築造だと考えざるを得ないような気がするんです。確かに出土遺物の大部分は五世紀代に持って行っていいだろうと思うのですが、その全てが年代比定がなされていないのです。鏡にしても、同じものが八幡観音塚古墳(群馬県高崎)出ていますから、五世紀というわけにもいかない。須恵器や馬具、埴輪、墳丘構造も考えてみる必要があるでしょう。
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金井塚 「須恵器」は出土状態がはっきりしないが、関西では五世紀のものとされる。が、北武蔵では竪穴住居から出ている(大西遺跡)三窓一段透の脚台付坏と坩(つぼ)は、「稲荷山古墳の須恵器とほとんど同じ時期と考えて間違いない」(さきたま資料館・金子真土斯)ということでした。大西遺跡は鬼高式土器を出す竪穴住居なので、六世紀初頭の竪穴住と考えていいだろうと思います。
稲荷山古墳から土師器も出ていますが、鬼高式土器だったと思います。六世紀初頭…かなり築造時期の決め手になると思います。
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金井塚 もう一つ鈴杏葉(すずぎょうよう)ですが、立派なもので、これに類似する鈴杏葉は群馬のもの、茨城県の国松古墳のものによく似ています。埼玉県では目沼九号墳から出た鈴杏葉もそっくりです。
問題は、ここからも鬼高式土器が出ているのです。一緒に副葬されていますから、時期は六世紀ということになります。

(国松古墳の鈴杏葉 と目沼九号墳の鈴杏葉)
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なるほど、鈴が三つついてるのですね。そういえば、
鈴杏葉って埴輪の馬を飾っていたような  

どこかで見たことがあると思ったら、江田船山古墳に出土していたと思います、鈴杏葉が。

稲荷山古墳の築造時期の決め手は何でしょう

古墳の副葬品には古いものもあるけれど、新しい時期の物もあるから、築造時期を考える時には一番新しいものを決め手にするということですね。
稲荷山古墳の墳頂部には二つの亡骸を納める施設(攪乱された粘土槨・礫槨)があったそうですから、そちらも見ましょう。
埴輪も築造時期の決め手になるかも知れませんね。
しばらく、出かけていたのでブログを休んでいました。
また、よろしくお願いします。

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by tizudesiru | 2017-08-24 00:34 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback

稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇

「ワカタケル」は雄略天皇か

稲荷山古墳の被葬者は、獲加多支鹵大王に仕え助けたと書かれていました。獲加多支鹵大王とは雄略天皇の事でしょうか。
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(「稲荷山古墳・鉄剣が秘めた古代の謎」より写真と文章を抜き書きしました)

原島礼二
(埼玉大教授・古代史)わたしは「ワカタケル」は雄略でいいと思います。471年か、531年かはわからないけれども、皆さんのご意見を聞いていると471年の方がスムーズだなあという感じは受けていますけれども、最終的には古墳の問題もあるし(略)この「ワカタケル」をどうしても雄略であってはならないという問題が、逆に積極的に出されてくればどうなんでしょう。


柳田敏司
(埼玉県史編纂室・考古学)早稲田大学の水野祐先生は、これは雄略と解釈しなくていいんだ。大王というのは、地方の豪族でも名乗ったんだと。だから武蔵方面の豪族がこういうふうに名乗っても一向に差し支えないじゃないか、という説をとっていますよ。

 

斎藤忠(大正大学教授・考古学)全体を見ますと、これは雄略天皇と解釈するのが一番自然ではないか、これは一つの歴史の常識だとおもっているのですが。ただその場合、「寺」を最初は「やかた」というようなことで読んで、それが今まで続いているようですけれども、この「寺」とう言葉をなぜここに使ったかという疑問も出てきます。(略)(人偏をつけて)「侍る」とどうして読めないのか。

文献をやっている人は「ワカタケル大王に はべりて」では順序がおかしいと云うことです。

私は「ワカタケル大王にはべりて斯鬼宮に在りし時、吾天下を佐治しぬ」と読むと、いろんな点ですっきりすることがあるのではないか。


柳田
 「寺」という字は「ジ」とか「シ」とか読んで朝廷のことだという人と、人偏をつけて「はべる」と解すべきだと、二通りあります。


斎藤
 要するに、「ワカタケル大王の館」と「はべる」との場合は、「ヲワケオミ」が主人公になるんです。「ヲワケオミ」が「ワカタケル大王」に侍って斯鬼宮に在ったときに、私は天下を
(たす)け…ということです。


原島
 大王と当人の関係が少し変わってきますね。

柳田 「斯鬼宮に在った時」というんですが、この「斯鬼宮」をめぐってまた問題になっています。

 

黛弘道(学習院大学教授・古代史) それこそ埼玉県の「志木」だという古田説(古田武彦氏・古代史家)もありましたね。


金井塚良一
(埼玉県立歴史資料館・考古学) それは、遺跡の分布からいっても不可能でしょうね。


 (古田説は)東国に結び付けようとしているんですね。これは、(雄略天皇の)朝倉宮のことを「斯鬼宮」といったという方がオーソドックスですね。


柳田
 刀を向う(畿内)で作ったとなると、向こうでは(朝倉宮を)斯鬼宮と云っていたということになりますね。しかし、そういう遺跡もないと云うことになると…


斎藤
 岸氏辺りは、「斯鬼宮」を雄略天皇の時に考えてもいいと云うことでしょう。それと、その剣を一体どこで作ったかということです。象嵌の技術なり、剣を作る技術なり、剣を作る技術は東国でも十分あったと。しかし、あの百十五の銘文を作らせて、あそこに彫らせた技術はやはり畿内でなければできない。そこに当然渡来人というか、帰化人というか、そういう人が文章を作った。そうしか考えられないと思うんです。


柳田
 すると、「斯鬼宮」は大体、畿内にあった。そして、「天下を佐治した」と。また、「百錬利刀」というのは、一種の決まり文句ですよね。


斎藤
 最後のところですが、「吾奉事の根記す也」と、これが一つの疑問を持たれたのは、江田船山古墳の場合は、書く者は、作る者は、と帰化人の名前が出ているんです。これと同じではないかということで「根」は名前ではないかというのですが、江田船山の銘文の内容とこの剣の内容は違うと思うのです。


斎藤
 あれを持っている人がおめでたいという吉祥的なことで、今度(稲荷山)の場合は自分の系譜、それから歴代の身分、地位、それから「天下を佐治する」ということ。よくよくのことだと思うのです、この銘文を書いたということは。

(略)

金井塚 李進熙氏(明治大学講師)が盛んに言われていますけれど、おそらく百済系の渡来人達がこの字を最初に伝えたのだろうと。その場合、呉音でどう読むかということも検討する必要があるといわれている。

呉音

古代の漢字が伝わった初期の字音を平安時代に「呉音」と呼び、8世紀初頭に遣唐使が持ち帰った漢字の音を「漢音」と呼んでいる。要するに、呉音の方が古い音で、漢和辞典には呉音・漢音の両方の読みが書かれている。対馬音は呉音のことで、唐音は漢音のことである。


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ちょっと待ってください
刀剣を作る技術は畿内にしかなかった、なんてどうしていえるのでしょうか?!
地方には技術がなかったからと断定して、だから畿内で作った刀だとなって、そうであれば斯鬼宮も畿内にあったのだろう。じゃあ、朝倉宮を実は斯鬼宮と呼んでいたんだ、と想像でいいのですか、歴史ではなく空想の世界の話になっているではありませんか!!
是では、学者の皆さんが事実に基づいて論議しているとは…言いにくいと思うのですが。
是でいいのですかねえ?

明日は、稲荷山古墳の築造時期についてのご意見を紹介しましょう。

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またまた、遅くなりましたが、明日のことです。
熊本の和水町で少しお話することになりました。
稲荷山古墳について少し触れられたらいいと思うのですが、場所が江田船山古墳のすぐそばの公民館ですから。
遅ればせながら、紹介させていただきました。


by tizudesiru | 2017-08-19 13:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback

知っていそうで知らない江田船山古墳

江田船山古墳、急に熊本の古墳に話が飛んだ感じですね。
実は、家形石棺を見ていて、今回も疑問が生まれたのです。
艸墓古墳や蘇我系の墓制は、横穴式の石室に家形石棺を置いていました。そのルーツは何処だろうと再度思いました。
まず、家形石棺と云えば北部九州が発祥地ではないでしょうか。
ですが、「九州の墓制は石屋形に亡骸を納め、棺は密閉されていないから、他の地域と特に畿内とは墓制が違う。畿内の石棺は密閉型である」と、墓制の違いが強調されて来ました。しかし、九州には、石屋形だけでなく、密閉型の家形石棺も、舟形石棺も、長持ち型石棺も、組合せ式箱式石棺もみんな揃っています。そこに、装飾が施されているものがあり、大変複雑ですよね。このことには、皆さんがよくご存じだと思いますが。
畿内の石棺には、阿蘇溶結凝灰岩を用いて造られていたものがあり、後期になると畿内の二上山産の凝灰岩が用いられています。
是だけでも、素人は「石棺に凝灰岩を用いる」ことは九州から伝わったと思いますね。というわけで、畿内を飛び越えて、関東と九州の墓制をちょっとだけ見たいなと思ったのです。

知っていそうで知らない江田船山古墳


江田船山古墳は熊本県北部に在ります 
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この時も、きれいに草が刈られていました。いつ出かけてもきれいです。
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横穴式石室に家形石棺が納められています。
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九州の家形石棺には出入り口が穿たれているものがいくつもあります。もちろん密閉型もありますが。こんなに口がぽっかり空いているのは何故でしょう。
当時は盗掘者はいなかったのでしょうか。
墓泥棒には都合のいい造りですね。
この古墳から100mほど離れた古墳も横穴式古墳があり、石室内を見学できます。
塚坊主古墳といいます。
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石屋形と呼ばれるものでしょうか。
わたしには家形石棺のように見えます。

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石室の右横をよく見ると、家形石棺の屋根が見えて縄掛突起らしいものがあるのですが…。激しく破壊されていますね。
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どうですかねえ。
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菊池川流域には多くの装飾古墳があります。
塚坊主古墳も装飾古墳のお仲間だったのですね。


同じ古墳群の中に在りますから、江田船山古墳の被葬者とは所縁のある人なのですね。

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江田船山古墳には造り出(つくりだし)部があり、後円部の付け根に出っ張りがついています。この古墳がつくられた時期は何時なのでしょうね。
築造時期を考えるために、「治天下」と「杖刀人」という金石文が発見された埼玉県の稲荷山古墳の築造時期とも比べてみましょうね。江田船山古墳の鉄刀の銘文にも「典曹人」という役職が出てきます。離れた古墳には何等かのつながりがあることでしょうから。

また明日

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by tizudesiru | 2017-08-13 17:43 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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