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大伴旅人、大宰府の水城にて別れの儀式

天平二年十二月、大伴旅人は大宰府を発ちました。都に大納言として呼び戻されたのです。妻を亡くした上に弟を亡くし、肉体的にも限界だった旅人が、天平二年の正月に催した「梅花の宴」の噂は都にも届き、大評判となりました。そして、
長屋王の変の後、武人の氏族である大伴旅人に二心がないことが都にも伝わったのでした

生きているうちに都へ帰りたい、大伴氏の将来を確保しておきたい、都の事件(長屋王家の謀反)には関心はなく藤原氏に対して不信感は持っていないと都に知らせ、一日も早く都へ呼び戻してほしい、という思いが叶ったのでした。
梅花の宴は、旅人の願い通りの成果をあげたのです。


都の藤原氏も大伴旅人が従順であれば、ひとまず安心したのです。
帰京の時、旅人は水城で大宰府の官人の見送りを受けたのでした。
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水城の城門阯には、大友卿と児島の歌の歌碑があります。既に紹介しています。
大伴旅人が大宰府を離れたのは冬十二月ですが、今年、令和の春の写真で水城を紹介します。

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水城の土塁の上から見ますと。長い森が直線で伸びています。
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土塁は右の博多湾側が急斜面になり、左の大宰府側が緩やかな斜面になっています。そして、まっすぐ背振山頂に向かって続いています。
工事はどのように行われたのでしょうね。

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水城の森をまっすぐにのばすと、背振山頂にラインが届きます。なぜ、背振山なのでしょう。背振山の神に土塁を守ってもらうためでしょうか。
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山当で直線を引くと、かなりまっすぐな線が引けます。
緻密な設計図がなくとも、正確な直線は引けたのです。
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水城は背振山頂につながり、大宰府政庁の朱雀大路のラインは、基肄城の門・北御門(きたみかど)に届きます。基山も神山です。神山に守られていたいうことでしょうか。政庁の東には高尾山があったのです。
面白いですね。

(梅花の宴の三十二首の序文を旅人が書いたというのですが、2019年4月1日以来『令和』という元号が示されたことで様々に取り上げられています。序文には「帥老」という言葉が使われ「老」は敬語として使われるものなので、旅人の文ではないとの説もあるというのですが、大方は旅人が書いたとされています。序文を旅人以外の誰が書くでしょう。彼以外に考えられません。)
では、また。


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by tizudesiru | 2019-06-08 22:19 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

「平成」最後の日に「令和」の弥栄を願う

今日は平成最後の日になりました。
歴代の天皇の中でも国民に寄り添うことを願われたのは今上天皇でした。多くの国民に直接声をかけられた今上天皇が退位されました。平和な時代がこれからも続きますように。
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それにしても、次が「令和」という元号であると発表されたことには驚きました。
「令和」が万葉集・巻五の「梅花歌卅二首幷序」から採用されたと聞いて、更にびっくりしました。

確かに、大宰府の大伴旅人の館で催された正月儀式「梅花の宴」は華やかな宴会で、三十二首の梅を詠んだ歌会です。天平二年正月十三日無官の者から高官の大弐紀卿までが一同に会して「梅花の歌を詠む」という前代未聞の催し事でした。
遥かに離れた都にもその事は伝わり、噂を聞いて宮中はおどろきました。
それまでの都の正月儀式は一月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、十七日頃の「射礼(じゃらい)」などで優雅な歌を詠むなどという正月儀式はなかったのです。

同じ年三月に、聖武天皇は宴を開きました。『天皇松林宮に宴を催す。文章生「曲水の詩」を賦す』とあります。旅人が行ったような優雅な儀式をやりたかったのです。
しかし、前年の長屋王事件の後遺症はまだまだ残っていて、皇后に立った光明子は苦しみ続けていました。宴どころではなかったでしょう。

都では、長屋王事件の後にあらぬ噂が流れ、人々は混乱していました。
それなのに、大宰府では優雅な儀式をしていた…違和感があります。
なぜ、大伴旅人は「梅花の宴」をしたのでしょう。そこが重要です。その旅人の意図を解く鍵は、「梅花の宴」の序文にあるのです。

初春の令月にして、気淑く風和ぐ

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令月の「令」は、漢字本来は「おきて・法律」などのように『神の言葉を以って命ずる』という意味だったのです。後に、それが敬称として用いられるようになりました。今日、ご令息・ご令嬢などと使います。同じように「令月」=よい月 となりましょう。
しかし、もう一つの令月「陰暦二月の別名を忘れてはなりません。
旅人は正月(初春)の十三日に『令月』を使いました。「正月はよい月」という意味ではなく、「陰暦二月」として旅人は使ったのです。正月に「二月を意味する」のはおかしな話です。
二月…長屋王事件は前年の神亀六年の二月に起こりました。
旅人は神亀六年二月に薨去した長屋王を偲んだのです…「天平」に改元されたのは半年後の八月でした。神亀から天平(天が反逆者を倒し平らげたの意味)に改元されました。
つまり、天平二年は「天平に改元されて初めての正月』です。
旅人は大宰府で長屋王を偲び続けていたのです、おくびにも出さずに。

梅花の宴

そこにあるのは、前年二月に謀反のかどで死に追い込まれた長屋王への追悼の思いでした。九州の古代王権が行っていた正月儀式を、高市皇子の長子である長屋王の霊魂を鎮めるために再現したのです。そうして、九州に所縁のある長屋王を偲んだと、そうとしか思えません。


そもそも、「梅花歌卅二首」は万葉集・巻五置かれているのです。
巻五の冒頭歌は、旅人の名歌「絶望と怒りの歌」、『大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首』からはじまるります。その793番歌、

よのなかは 空しきものと しるときし いよよますます かなしかりけり


この歌の強さ「悲しかりけり」と感情を率直に述べながら、深く「世の中は空しきもの」と述懐する歌、このような歌はこれまでに有りませんでした。その歌の表現の新しさに、編者が感動したかもしれません。それで、冒頭に持って来た・・・
いえいえ、そうではなく、巻五には編者の思いがあふれています。
次に794番歌として、続くのは山上憶良の歌。旅人の妻への挽歌『日本挽歌』なのです。巻五はほとんど、挽歌と雑歌がないまぜ状態ですね。
憶良の「貧窮問答歌」も巻五です。巻五は、冒頭から最後まで重く悲しい歌が連続しています。(巻五の最後は、憶良の「死亡した我が子・古日を恋うる歌」なのですよ)

これで、巻五がどのような意図で編集されたか想像に難くないでしょう。「梅花歌三十二首」は、巻五に掲載されています。それが、重く沈む歌群の中に異彩を放っているのです。


少し長くなりました。
長屋王事件について、少しスライドで補足しました。
旅人については、このブログ「大伴旅人、水城にて乙女と別れの歌をかわす
に詳しく書いています。読んでみてください。

令和の弥栄を祈らずにはおれません。
大伴旅人も柿本人麻呂も、自分がどんなに苦しい立場に追い込まれても、人生が終わろうとしていても、世を寿ぎ世の弥栄を願う歌を詠みました。それは歌人として、言霊を信じる歌人として、当然のことだったのでしょうか。

敷島の倭の国は言霊のたすくる国ぞ真福(まさきく)在りこそ  (人麻呂)
新しき年の始めのはつはるの きょうふる雪の いやしけよごと (家持)

では、令和の佳き日にお会いしましょう。
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by tizudesiru | 2019-04-30 12:47 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

新年号・令和、平城天皇の思いが叶った瞬間

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新年号が令和と決まり、万葉集の梅花の宴の序文から「令」と「和」がとられたと聞いて、一瞬「その時が来た」と思いました。平城天皇の深い思いが叶ったと。

平城天皇は桓武天皇の皇太子で、延暦二十五年(806年)に即位されました。
その平城(へいぜい)天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。
万葉集、そこに書かれていることを、すでに十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣に編集させ「万葉集」を世に出されました。その後、「奈良の都に戻ること」を強く提唱し、譲位した弟の嵯峨天皇と対立されました。

(それにしても、譲位していたにも関わらず、なぜ奈良遷都を強行しようとされたのでしょうと、万葉集を知らない人には不思議な上皇の判断です。平城上皇のその思いは、ついに「薬子の変」となり、破れた上皇は出家されました。その影響で、息子の阿保親王は大宰府で14年間も過ごされることになりました。)

平城天皇の奈良の都への深い思いは、万葉集と無縁ではありません。万葉集の内容を読み解いたからこそ「奈良遷都」を固執されたのです。万葉集には、皇統の正統性とその歴史が歌物語として編集されていました。
編集を命じたのは持統天皇、編纂者は柿本人麻呂を中心とした歌人学者でしょう。
しかし、そこに書かれた史的な内容はインパクトが大きく、元明天皇の逆鱗に触れ人麻呂の刑死となりました。

事の顛末の全てを承知して、大伴氏が元「万葉集」を引き受け、保麿・旅人・家持と受け継がれました。
平城天皇はその「曰く付きの歌集」を召し上げたのです。そこに、どんな天皇の思いがあったのでしょう。それは、平城天皇の元号で想像することができましょう。それは、「大同」です。

大同…意味深な元号です。前王朝も現王朝も本当は変わりはないのだと、根は同じなのだという意味です。
父の桓武天皇は、天武朝から天智朝の皇統に皇位が戻ったことを「易姓革命」だとされました。
しかし、その長子である平城天皇は、「大いに同じ」だとされたのです。
それは、万葉集を既に知っていたための元号の選択だったと思います。しかし、失意のうちに出家した上皇に従うものは有りません。万葉集もほとんど日の目を見ずに細々と受け継がれました。

「万葉集は残したい」という平城天皇の無念が、今日晴れたと思います。
なぜなら、万葉集「梅花の宴」の序文から元号の言葉が選ばれたからです。是から万葉集の姿が明らかにされていくことでしょう。万葉集に掲載されていたのは、王朝の歴史歌であり、その正当性と弥栄を願う詩歌です。
平城天皇は承知されていました。天智朝も天武朝も違って見えているが同じなのだ、それが皇統の歴史だったのだと。(さて、何処が同じだったのか、これからは書こうとは思っていますが。)

 
大伴旅人も「万葉集」を理解し、晩年に歌に目覚めました。息子の家持は、父と柿本人麻呂と山上憶良を敬愛し、初期「万葉集を」守りました。後に付け加えたのは、万葉集の編集方針に倣った後期『万葉集」です。

さて。
梅花の宴は、天平二年の正月に、大伴旅人の館で行われた宴ですが、「古王朝の正月儀式」だったとこのブログにも書いたと思います。旅人は大宰府に来て、古王朝の正月儀式を知り、再現したと思います。
前年の神亀六年、長屋王の変(二月)があり、長屋王家に悲劇が訪れ、半年後に改元(八月)されて『天平』となったのです。天平二年は、改元後の初めての正月です。そこで、行われた梅花の宴。

梅花の宴はただの遊びではありません。尊敬していた天武朝の高市皇子の跡継ぎである長屋王の悲劇を胸にしながら、九州にあった古王朝の正月儀式を大伴旅人が再現したのです。
そこには、長屋王へ深い追悼の思いがあったはずです。


梅花の宴は、正月に、役人のトップから無官の者までが集まって「王朝を寿ぐ歌を詠む」という前代未聞の正月儀式でした。その頃の都にはない儀式だったのです。人々は驚き、その宴を称賛し、息子の家持(やかもち)も書持(ふみもち)も長く誇りにしていました。

今日は本当に、万葉集を残してくださった平城天皇に感謝を申し上げ、悪逆の氏族とまで言われた大伴氏にお祝いの言葉を述べたいと思います。本当に宜しゅうございました。
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筑紫古代史の会の例会にて「万葉集と古代史:大宰府と梅花の宴」という題目で、上記のことは取り上げました。その他のこともいろいろお話しました。
よかったら、筑紫古代史の会にもおいでになりませんか。



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by tizudesiru | 2019-04-01 14:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(2)

「天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった」の続きです。

天平二年正月、大宰府の帥の館に大弐・少弐から無位の役人まで集い宴が執り行われました。その宴では老いも若きも官位の高低もなく、ひとしく梅を詠んだのです。通常では考えられないことでした。身分を分けること、出自を明らかにすることなど、政治が目指していたことでした。律令も整えられ官位も細かく分けられて、秩序を重んじ身につけるものまで決められていましたから。
そんな風潮の中で席をほぼ同じくして歌を詠み合うなど、考えられないことだったでしょう。

もちろん、都では宮廷の正月儀式として宴(とよのあかり)が設けられ、身分・位に応じて各々に賜物がありました。しかし、身分の上下にかかわらずともに歌を詠んだりはしていません。

平安時代には宮廷で歌会があったでしょうが、「梅花の宴」は奈良時代の初めです。

旅人は思い付きで宴を開いたのでしょうか。 そんなことは有りません。
彼は、大宰帥として九州の正月儀式を再現したのです。

まず、そこで読まれた歌を詠んでみましょうか。

815 正月(むつき)たち春の来たらばかくしこそ梅を招()きつつ楽しき終へめ 

              大弐紀卿 だいにきのまえつきみ(従四位下)

816 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも   

           少弐小野大夫 しょうにおののまえつきみ(従五位上)

817 梅の花咲きたる園の青柳は縵(かずら)にすべくなりにけらずや     

          少弐粟田大夫 しょうにあはたのまえつきみ(従五位上)

818 春さればまず咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日くらさむ   

 筑前守山上大夫 つくしみちのくちのかみやまのうえのまえつきみ(従五位下)

819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを 
 豊後守大伴大夫  とよのみちのしりのかみおほとものまえつきみ(従五位下)

*大夫(だいぶ)とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地をもった貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。日本でも律令制度に用いられ、太政官に於いては三位以上、寮に於いては四位以上、国司に於いては五位以上の官吏の称とされた。単に五位を意味する場合「たいふ」と詠み分ける。

820 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり     
筑後守藤井大夫 つくしのみちのしりのかみふじいのまえつきみ(外従五位下)

821 青柳梅と花とを折りかざし飲みての後は散りぬともよし

                    笠沙弥 かさのさみ(無位 僧)

822 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも   

                  主人 あるじ(旅人)(正三位)

823 梅の花散らくはいずくしかすがにこの城()の山に雪は降りつつ 

          大監伴氏百代 だいげんばんじのももよ(正六位下)

824 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐいす鳴くも    

          少監阿氏奥島 しょうげんあじのおきしま(従六位上)

825 梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな     

          少監土氏百村 しょうげんとじのももむら(従六位上)

826 うちなびく春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか別かむ  

           大典史氏大原 だいてんしじのおほはら(正七位上)

827 春されば木末(こぬれ)隠りてうぐいすそ鳴きて去()ぬなる梅が下枝(しづえ)

        少典山氏若麻呂 しょうてんさんじのわかまろ(正八位上)

828 人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめずらしき梅の花かも

         大判事丹氏麻呂 だいはんじたんじのまろ(従六位下)

829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

       薬師張氏福子 くすりしちょうじのふくこ(正八位上)

830 万代に年は来()()とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし

    筑前介佐氏子首 つくしみちのくちのすけさじのおびと(従六位上)

831 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝なくに 

         壱岐守板氏安麻呂 いきのかみはんじのやすまろ(従六位下)

832 梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし

         神司荒氏稲布 かみつかさくわうじのいなしき(正七位下)

833 年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ

     大令史野氏宿奈麻呂 だいりょうしやじのすくなまろ(大初位上)

834 梅の花今盛りなり百(もも)(とり)の声の恋しき春来たるらし

      少令史田氏肥人 しょうりょうしでんじのこまひと(大初位下)

835 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも 

       薬師高氏義通 くすりしかうじのよしみち(正八位上)

836 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり

          陰陽師磯氏法麻呂 おんやうしきじののりまろ(正八位上)

837 春の野に鳴くやうぐいす馴付けむと我が家の園に梅が花咲く

             算師志氏大道 さんししじのおほみち(正八位上)

838 梅の花散り粉(まが)ひたる岡びにはうぐいす鳴くも春かたまけて 

      大隅目榎氏鉢麻呂 おほすみのさくわんかじのはちまろ(大初位下)

839 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る  

   筑前目田氏真上 ちくしみちのくちのさくわんでんじのまかみ(従八位下)

840 春柳縵に折りし梅の花誰か浮かべし酒坏(さかづき)の上()に 

      壱岐目村氏彼方 いきのさくわんそんじのおちかた(少初位上)

841 うぐいすの音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ  

      対馬目高氏老 つしまのさくわんかうじのおゆ(少初位上)

842 我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐいす鳴くも散らまく惜しみ 

         薩摩目高氏海人 さつまのさくわんかうじのあま(大初位下)

843 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ

             土師氏御通 はにしうぢのみみち(無位)

844 妹が家に雪かも振ると見るまでにここだも粉ふ梅の花かも

             小野氏国堅 をのうぢのくにかた(無位)

845 うぐいすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ児がため

  筑前掾門氏石足 つくしのみちのくちのじょうもんじのいそたり(従七位上) 

846 霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも

           小野氏淡理 をのうぢのたもり (無位)

 

この正月儀式はたいへん文化的で華やかで、参加した人々や噂を聞いた都の人など多くの人に感銘を与えました。正月早々から上下を問わず歌を詠み合う儀式、それも梅の花を詠む宴、そこにある意味は何でしょう。

上下を重んじて身分や官位を細分化し「姓」を与えたりして氏の間に差別を持ち込み続けた当時の常識に反し、「王権を象徴する梅花の下に上下を問わず集い王朝の弥栄を寿ぐ正月儀式が九州にはありました」ということです。
当時の王朝の儀式ではないとすると、別の王家の儀式だったことになりましょう。

ちなみに日本書紀・持統紀などに見られる正月儀式は、「白馬節会(あおうまのせちえ))の原形や「射礼(じゃらい)」などが挙げられます。が、詩歌を詠む会ではありません。
正月七日の宴は「白馬節会・あおうまのせちえ」という行事に整えられていきましたが、これは天皇が白馬を見る儀式で「白馬を見ると縁起がいい」というのです。また、正月十七日に「射礼・じゃらい」という儀式は弓の音を立てて邪鬼を払うというものです。

平城天皇(在位806~9)の時代、正月儀式として詩文を作らせ御前で読み上げさせる儀式は「内宴」と云って正月二十日か二十一日に行われたのですが、その儀式が取り入れられたのはずっと後の時代です。

平城天皇とはこれまでも紹介した「大伴氏から万葉集を召し上げ、侍臣に編集させた天皇」で、万葉集に深い理解があった人です。ですから、正月儀式に詩文を詠む宴の意味を理解し、その意義を踏まえ儀式を再現したと思われます。
(平城天皇が罪人として官位も剥奪されていた家持の官位を戻した理由は何かですが、万葉集を召し上げるために他なりません。平城天皇は、万葉集の本質と意義を理解していました。だから、平安京から平城京に都を戻そうと言い出したのです。そのために嵯峨天皇と激しく対立したのです。)

平城天皇は、旅人が執り行った梅花の宴を「王朝の寿ぎの儀式」の再現だと理解したので、自らの世(70年以上後)に儀式化したのでした。理想の王家の正月儀式を大伴旅人が大宰府で再現していたと理解したからです。


当時の旅人としては、長屋王の父・高市皇子の血縁になる九州の王家の儀式をなぞり、長屋王の霊魂を鎮めたいと願ったと思います。もちろん、その事は決して表には出さなかったでしょうし、気づかれないようにしたでしょう。旅人の内心を理解した人物が居たとしたら、山上憶良をおいて他には居りません。


「後に梅の歌に追和する四首(849~51)」が巻五に掲載されていますが、旅人が追和したのであろうと云われています。が、そうであれば、「梅花の宴を懐かしんで作る」という題詞があってもおかしくありません。が、それはないので何ともいえませんが、旅人も思わぬ反響に驚いたのかもしれません。宴の成功に感動した別人の可能性もありましょう。

他にも「諸人、梅花の歌にこたえ奉る一首(856)」があります。

巻十七には、「大宰の梅花の時に追和する新しき歌六首(3901~6)」と題詞があり、「右、十二年十二月九日、大伴宿祢書持が作る」と左脚が付いています。大伴家持の弟・書持が父を偲んで十年後に追和したとわかります。

梅花の宴は、このように人々の心に残りました。なぜなら、非常に文化的な行事で都にはなかったのです。家持も弟の書持も「大宰府の梅花の宴」を深く心に刻み、誇りに思っていたのでした。




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by tizudesiru | 2019-03-01 22:03 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(1)

大伴旅人が太宰帥として九州に来たのは、神亀四年の暮れか、神亀五年(728)のはじめと云われていますが、彼が九州に来たのはこの時が最初ではありません。
元正天皇の養老四年(720)三月には、「征隼人持節大将軍として九州に来ています。隼人が反乱を起こしたのです。(この時、武人だけでなく神官も宇佐の神も総動員して隼人討伐に動員されますから、当時の戦いに呪詛力は必要だったのです。)
同じ養老四年八月に、右大臣原不比等が没しました。それで旅人は都に呼び戻されます。それは、大伴氏から鎌足の母が出ていますし、大伴坂上郎女が穂積皇子(母は藤原氏)に嫁していましたから氏として姻戚関係にもあった為の召喚なのでしょうが、それより行政のトップ藤原不比等の死亡に対して不穏な動きが起こらないように呼び戻されたと思います。旅人は武人のトップでしたから兵を動かせたし、都の平安の為に必要でした。

ですから、神亀四年の暮に武人のトップである中納言大伴旅人を太宰帥として下向させたとは、どこか不自然でした。(または、神亀五年のはじめに大宰府へ下向)
神亀五年はじめ、大宰府帥となっていた中納言・大伴旅人は妻の大伴郎女(大伴坂上郎女ではない)を亡くしました。たぶん無理な大宰府への旅がこたえたのでしょう。大宰府まで同行した妻の死、遠い都で弟が死亡したという知らせ、旅人は愕然としました。
そんな旅人に異常接近したのが、山上憶良でした。
憶良は、旅人に代わって「大伴郎女の挽歌」を詠み、国司として大宰府の歴史や文化を伝えたり、あまたの長歌や紀行文や詩文を献じたりしました。憶良の教示のおかげで、旅人の知見は広がり歌は急激に変化しています。
それにしても、職を辞した後に皇太子(後の聖武天皇)の教育係でもあった山上憶良が、筑前国国司として大宰府に来ていたのは、大伴旅人の動向を見張るためだったという説がありますが、そうかもしれません。憶良の旅人に対する奉仕の度合はまるでゴマスリ・忖度にしか見えませんから、そこに何らかの下心があったとも考えられます。
(私は、旅人の監視役だったのは小野老、「青丹よし奈良の都は咲く花のにおへるがごと今盛なり」と詠んだ小野老と思っているのですが。)

そして、神亀六年(729)二月、長屋王の変が起こりました。
長屋王は左大臣、当代随一の権力と経済を握っていたでしょう。当然、藤原四兄弟とは意見の対立がありました。火種があったことを旅人は承知していました。
もともと藤原氏は天智天皇によって引き上げられて氏族でした。壬申の乱で後退したものの、藤原不比等によって文武・元明・元正朝において力をつけていました。養老元年(717)不比等は『議政官」として朝議に参加できる者は各氏族より一名』という原則を破り、息子の房前を参議に加えていました。その批判をかわすためでしょうか、養老二年に長屋王が大納言、大伴旅人が中納言として議政官に加えられました。そのあたりの事情を旅人は十分に知っていました。

長屋王の変は、当時の人々が大いに驚いた大事件でした。都には「長屋王事件」に対する同情と哀悼が混じりあった噂話があふれ、混乱を極めていました。流言飛語を止めようとする勅も出されたほどです。しかし、混乱と人々の同情は収まりませんでした。
都からの親族の便りもあるし、太宰帥として旅人は成り行きを把握していました。

長屋王賜死の理不尽を旅人が憤らなかったはずは有りません。彼は激怒し慟哭し悲嘆にくれたことでしょう。しかし、大宰府に送られた官人の中に都の藤原氏と直結している者がいるのです。義憤や同情など表に出してはなりません。
どうしても都に帰らねばならないから下手なことは出来ないと、旅人は思ったことでしょう。
身動きの取れない圧迫感のある追い詰められた状況で、旅人が詠んだのは「酔っぱらいの歌・十三首』なのです。
武人である丈夫が、酒を飲んで泣くなど普通の状況ではありえません。(その歌を万葉集に残した人物も旅人の置かれた立場と心情を理解していた、となると、息子の大伴家持以外には考えられません。)旅人の「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」を読みましょう。
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大伴旅人がここまで長屋王事件に揺り動かされたのは何故? でしょうか。
大伴氏は古代有力豪族でしたが、孝徳天皇の右大臣大伴長徳(ながとこ)以来、議政官への道は遠のいていました。
a0237545_10162335.png
 大伴氏は「壬申の乱」で活躍し、大伴御行(みゆき)に続いて大伴安麿(やすまろ)が大宝元年(701)から和銅七年(714)まで大納言を務めました。
大伴氏は、天武朝の忠臣となりましたから、天智朝の忠臣だった藤原氏には不快な存在に思えたでしょう。
大伴氏は奈良時代を通じて藤原氏の横暴に釘を刺し続けましたから、謀判事件にかかわることも多くついには「悪逆の氏族」とも評されたのです。然し、その姿勢は「天武朝の繁栄を守る」ということだったと思います。
天武天皇の長子・高市皇子への忠誠心も大きかったでしょうから、その御子の「長屋王の変」は、旅人にとって衝撃となったのです。

ですから、「長屋王の賜死」を知った旅人の無念はいかばかりだったでしょう。
a0237545_10155486.png
作者の分からない「世の中は空しきものとあらむとぞ この照る月は満ちかけしける」の歌を詠んだのは、大伴旅人をおいて他にはないでしょう。
旅人だからこそ、その名はふされたのです。


では、長屋王事件の翌年の正月に行われた「梅花の宴」とは何だったのか、言及しなくてもいいくらいはっきりしていますね。カモフラージュです。本心を隠して、『京都のみなさん、大宰府では「長屋王事件」とは関係なく「宴会」を楽しみました。大伴卿も楽しんでいましたよ』という報告を導くための偽装だった、と思います。
次は、梅花の宴の歌を紹介しましょう。


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by tizudesiru | 2019-02-22 10:42 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback(161)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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