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宇治天皇の悲劇を詠んだ柿本人麻呂と額田王

人麻呂と額田王が詠んだ宇治天皇
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万葉集巻九は、大変意味深な巻でした。この巻の「挽歌」という部立の冒頭歌が、柿本人麻呂の歌です。既に紹介していると思いますが、再度取り上げました。

    宇治若郎子の宮処の歌一首
1795 
妹等がり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ

「愛しい人のところへ今来た」という意味と同じ「今木」の嶺、そこに茂りたっている「嬬を待つ木」という意味の松の木をいにしえの人(宇治若郎子)は見たのだろうか。
宇治若郎子の宮処の「松の木」は、ここに住んでいたあの悲劇の皇太子が見た松の木なのだ。


人麻呂の歌の題詞にある「宇治若郎子(うじのわきのいらつこ)の宮処の歌」、何とも意味深な題の付け方です。宇治若郎子の宮処で、人麻呂は松の木を見て、古人を偲んだのです。「松」といえば、初期万葉集では「岩代の結松」が読み手の念頭に浮かぶのです。人麻呂も「松」に関しては紀伊国の「岩代の松」と結びつけた歌を多く詠んでいます。ですから、松といえば、悲劇の皇太子・有間皇子が思い出され、それを宇治若郎子の伝承と結びつけて詠んだと思います。
人麻呂の作歌活動は日本書紀の成立以前と考えられますが、彼はどうして書紀のエピソードや神話の中身(自分の歌に詠みこんでいる)を知っていたのでしょう。
(考えられることは、人麻呂は宮廷の中に入ることができる知識人だったと云うこと。更に、正史の編纂に携わる人とも交流があったと云うことでしょう。)

宇治若郎子について、おさらいしましょう
万葉集では、難波高津宮天皇(仁徳天皇とされている)の名が巻二に出ていましたが、宇治若郎子はその弟で皇太子でありながら、兄に皇位を譲るために自殺してしまったという人です。古事記も日本書紀も、皇位継承の争いは親族間でありました。それは一方の死によって決着しています。ですから、宇治若郎子も自殺ではなく、他殺の可能性が大でしょうね。

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更に、巻九の人麻呂の歌についておさらい
巻九は特別な巻でした。その巻九の「挽歌」の冒頭には、人麻呂の歌が五首並びます。1795番歌に続くのは、下の四首でした。
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既に紹介していますが、巻九は紀伊国行幸の十三首のために編集されていたのでしたね。

次に巻一の7番歌、額田王の歌です。

7 秋の野の美草刈り葺き宿れりし 宇治の都の仮廬(かりほ)しおもほゆ


秋の美草を刈り取って屋根を葺いて旅宿リした宇治の都の仮廬が、あの仮廬こそが偲ばれる(そこに宿リなさったあの方のことが)

額田王が「過去の思い出を懐かしんでいる」歌で、それは、旅宿リをした天皇の仮廬です。その天皇は旅の宿の屋根を草を刈り取って葺いたというのです。宮子(都)という以上は、天皇のお住まいです。旅寝の仮の住いでも宮子(都)と呼びました。
さて、この歌について、後世の編者には「いつどこで詠まれたのか、詠み手も額田王か天皇御製歌か、分からなかった」のです。

一書には比良の宮に行幸が大化四年(648)で、書紀には「斉明五年正月(659)
に紀伊温湯から帰り、三月に吉野の宮、その後に比良の浦に行幸した」と長い左脚で説明されています。

ここで、「秋の野の美草刈り葺き宿れりし」がぴったりと収まるのは、「斉明五年の正月に紀伊温湯から帰った」です。
斉明天皇は前年(658)の秋から紀伊温湯に行幸していました。ですから、額田王は前年の秋のことを詠んでいるのでしょう。

将に、斉明四年(658)十一月に起こったのが「有間皇子事件」でした。「わが背子は仮廬作らす草なくは…」、あの歌を思い出してください。草を刈り取って旅の仮廬としたのは、有間皇子だったではありませんか。

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もし、この歌が斉明帝の御製歌であれば、美草は御草となります。
 
秋の野の御草を刈り取って屋根を葺いて旅寝をしたあの皇太子、いえ、あの宇治天皇の都、一夜の都となった仮廬が思い出されてしかたがない。

と、若くして政変により命を落とした皇子を斉明天皇が偲んだことになりましょうか。しかも、是を編集した学者は、額田王が斉明四年(658)の秋の出来事を詠んだ歌だと知っていたと思います。だからこそ「斉明五年(659)正月、紀伊温湯から帰った」と遠まわしに書いたのです。

つまり、後の学者は、7番歌と額田王の9番歌「・・我が背子がい立たせりけむ いつ樫が本」と結びつかないように気を配ったのでしょうね。
すると、8番歌「にぎたづに船乗り背むと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」の歌が、ここ8番目にはめ込まれた理由が分かります。
9番歌は「紀伊温泉に幸す時」の歌で、658年の有間皇子事件を詠んでいます。8番歌が百済救援の時の歌なら660年以降の出来事になりますから、歌の時期が入れ替わっています。                                                                                                                       
本来なら、7番歌、9番歌、8番歌と並ばなければなりません。もともとは、7・9・8・の順だったでしょうね。入れ替えたので読みにくくなり「脚注」がつけられたのです。
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額田王も人麻呂も率直に「有間皇子と宇治若郎子」と結びつけて詠んだと思います。

「にぎたづに船乗りせむと」の歌が、百済救援の時の歌ではない可能性もあるでしょうから、まだ考察する余地を残しておきましょうね。

私といたしましては、万葉集の人麻呂歌集に大変興味を持っています。そのうちご紹介をするつもりです。なかなか面白いし、納得の内容なのですが。その前に、あまたの予備知識がいるので、何度も同じことを確かめている処です。


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by tizudesiru | 2018-01-26 02:01 | 320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌 | Trackback

天武天皇の後宮に召されなかった明日香皇女・持統天皇との深い関係

天武天皇の後宮に召されなかった明日香皇女
人麻呂の挽歌に わが王おほきみの御名忘れせぬ

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特別だった明日香皇女・それは何故?
柿本朝臣人麻呂に歌を献じられた皇子皇女は、天智天皇の皇統につながる子女で、持統天皇の覚えめでたき高貴な人たちだったと書きました、前回までに。
草壁皇子(689没)川嶋皇子(691没)明日香皇女(700没)高市皇子(696没)のための人麻呂が献じた挽歌が万葉集に残されていますが、挽歌を献じられた四人は、それぞれに特別でした。

中でも、明日香皇女と持統天皇の深い関係を書紀には「持統六年八月十七日、明日香皇女の田荘(なりどころ)に幸す」とあります。田荘は「私有地」ですから、天皇が自ら皇女の私有地に出かけたのです。
また、「持統八年八月十七日、皇女明日香のために沙門百四人を得度せしむ」とあります。104人もの出家者を出したのです。皇女の病気平癒のために。
明日香皇女は、文武四年四月に薨去しました。続日本紀に「弔賻(ちょうふ)は天智天皇の皇女なればなり」と書かれています。公の手厚い弔いの使者が出されたのです。続日本紀からも「天智天皇の皇女として大事にされた」ことがわかります。
でも、その理由は天智帝の御娘だったこと、なのです。それだけなのです。
柿本人麻呂の挽歌を読みましょうか。
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挽歌をみますと、川嶋皇子より長いです。

長歌の長さだけ比べると、草壁皇子=皇太子の挽歌と変わらないか、それ以上の量があります。

併せて短歌が二首
「短歌」とは長歌の中身を繰り返さない歌。「短歌」と「反歌」は使われ方が違っています。長歌の後の「反歌」は長歌と同じ内容を繰り返し歌う時に使われ、新しい内容を詠う時は短歌と書かれます。
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人麻呂は皇女の死を嘆き、明日香の地名がのこるように、皇女の名も忘れないと詠みました。
この人麻呂の挽歌は個人的に献じた歌ではなく、「城上の殯宮の時」の儀式歌です。文武四年に公の葬儀の場で献じられた挽歌なのです。文武天皇と持統太上天皇は、明日香皇女の葬儀を「忍坂部(刑部)皇子の妃」ではなく「天智天皇の皇女」として行わせたのでしょう。
考えてみると、持統八年に行われた病気平癒を願っての百四人の得度は不思議です。
草壁皇子の長女・氷高皇女の病気の時は、百四十人が得度しましたから、幼い皇女でも氷高皇女(元明天皇)は特別な存在でした。明日香皇女も同じように特別だったと云うことです。それは、なぜ?(草壁皇子=皇太子には得度の記事はありません。
特別だった理由が「天智帝の皇女だった」だけでは、他の皇子皇女との釣り合いがとれません。)

こんな特別な姫君なのに、なぜか天武天皇の後宮に召されませんでした。

壬申の乱後(672)、天武朝では滅ぼした王朝の女子を一人も他へはやりませんでした。高貴な血統を他に漏らすつもりはなかったのです。
天智天皇の妃には皇族では倭姫皇后一人でしたが、天武天皇は四人の皇女(太田・鵜野・大江・新田部皇女)を後宮に入れ、他の皇女達は息子に与えました。天智朝の姫君を妻に迎えることができたのは、吉野盟約の天武朝の皇子でした。草壁皇子(阿閇皇女)・大津皇子(山部皇女)・高市皇子(御名部皇女)・刑部皇子(明日香皇女)です。他に皇女がいますが、泉皇女は伊勢斎宮となり、水主皇女は不明です。つまり、皇女には自由に相手を選ぶことなどできなかったのです。
(近江朝の総大将・大友皇子の妃であった十市皇女は天武帝の皇女でしたが、子連れで高市皇子の妃となりました。十市皇女にとって高市皇子は敵将であり異母兄であったので、その悩み苦しみが突然の皇女の薨去(自死)につながったことは既に書きました。)

明日香皇女は、天武朝の皇子の中で身分的には最も下位だった刑部皇子の妃になりました。
当時の女性は、其の嫁ぎ先で地位も生活も左右されたのです。妹の新田部皇女は天武天皇の妃となり、姉の明日香皇女は天武帝の御子の忍壁皇子に嫁いでいる、どういう判断でこのような嫁ぎ先になったのでしょう。
母方の出自を見ても明日香皇女は申し分ない氏の出身でしたのに。
明日香皇女の母の橘姫は孝徳天皇の左大臣・阿倍倉梯麿の娘で、父は天智天皇です。
同じ阿倍倉梯麿の娘に小足媛がいました。小足媛は孝徳帝に嫁ぎ有間皇子を生んでいます。橘娘と小足姫は姉妹なのです。明日香皇女は有間皇子の従妹になります。

持統天皇が明日香皇女を特別にした理由は、ここにあるのかも知れません。持統天皇が霊魂を鎮め続ける有間皇子との繋がりです。
だから、明日香皇女を持統帝は特別待遇にしたのです。

持統天皇が有間皇子(孝徳帝の皇子)につながる人であれば、小足媛や橘姫とも深い縁があるのです。明日香皇女が有間皇子の従妹だったから、持統帝は皇女に特別の思いを懐いたのではないでしょうか。

では、天武天皇の後宮に召されなかった理由は何でしょう。
それは、明日香皇女の父は天智帝ではなく有間皇子、または孝徳帝だった、という可能性です。
孝徳朝後宮から有間皇子後宮へ、有間皇子後宮から天智天皇後宮へ、天智天皇後宮から天武天皇後宮へ、女性たちの移動があったと万葉集では読めました。すると、明日香皇女は天智天皇の御娘ではなかったかも知れません。それを知っていた天武天皇は、自分の後宮に明日香皇女を召し入れなかった、のかも知れません。

これが、明日香皇女が天武天皇の後宮ではなく刑部皇子の妃になった理由、です。
阿倍氏の出身で、母が小足媛の姉妹で、有間皇子の従妹で、天智帝の御娘であれば、当然天皇の後宮に召されたでしょうから。

明日香皇女の謎はまだありますが、長くなるので、ここ辺で。





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by tizudesiru | 2017-12-29 22:36 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

人麻呂の挽歌に詠まれた天智帝の皇統・持統天皇は見捨てなかった

古事記・日本書紀は「飛鳥」、万葉集には「飛鳥の明日香」…今日は、歌に込められた「飛鳥の意味を考えます。万葉集には「飛鳥の明日香」は四例あり、先に紹介した「元明天皇の御製歌」ともいわれる歌一首と、柿本人麻呂の挽歌二首と由縁雑歌(巻十六)の一首です。では、「飛鳥」について人麻呂の歌で考えましょう。

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(飛鳥川・豊浦)

 人麻呂は天武朝の皇子のために挽歌を読んだのではなく

天智帝の皇統のために挽歌を献じた

柿本朝臣人麻呂は、長皇子や舎人皇子に献歌していました。なぜ二人の皇子に献歌したのか、その理由は二人が天智天皇の御娘の大江皇女と新田部皇女の所生だったからだと書きました。天智帝の皇統として皇子達を持統帝が認め、人麻呂に献歌させた。天智帝天武帝の孫にあたる二皇子には皇位継承者として、持統天皇も特別に目をかけていたと、書きました。


持統天皇が寵愛していた皇子皇女だったから人麻呂が歌を献じたのであれば、挽歌でも同じことが言えるのではないでしょうか。人麻呂は、草壁皇子、高市皇子、川嶋皇子、明日香皇女に挽歌を献じています。


草壁皇子は持統帝の一人息子ですし、妃は天智帝の御娘・阿閇皇女です。挽歌は当然献じられたでしょう。しかし、後に作られた高市皇子の挽歌よりはるかに短くなっています。そこには「神々に選ばれた皇太子であったのに、自ら天原の岩戸を開き神上がりされた。」と詠まれていました。挽歌から読めるのは病死でも事故死でもなく、自死であったということです。日並皇子尊の覚悟の死を人麻呂は嘆きました。続いて、皇子の急な薨去で途方に暮れる舎人の歌が二十三首ありますが、彼らも皇子の急死に動揺しているのです。既に紹介しています。

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次に、高市皇子の長い挽歌は太政大臣としての地位を示し、妃の御名部皇女を慰めもしたでしょう。御名部皇女は天智帝の御娘で、阿閇皇女(元明天皇)の姉でした。大津皇子・草壁皇子亡き後、高市皇子の存在がいかに大きかったか、人麻呂は皇子の立つ位置をきちんと周囲に挽歌で示しました。高市皇子の子ども達が悲惨な最後を迎える要因はこの挽歌からも詠めるのです。高市皇子の存在は大きすぎましたからね。既に紹介しました。



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(飛鳥川の夕暮れ)
草壁皇子と高市皇子の挽歌は既に紹介していますから、今日紹介するのは「川嶋皇子」の挽歌です。
川嶋皇子は天智帝の御子で、大江皇女の弟です。吉野盟約の時の六人の皇子の一人でもありました。大津皇子の親友でしたが、その親友の謀反を密告しています。
川嶋皇子は持統四年(690)の紀伊国行幸に従駕しています。そこで、持統天皇に歌を献じました。

巻一「紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌 或書に高市連黒人という」
34 白浪の濱松が枝の手向け草幾代までにか年の減るらむ

白波が打ち寄せる浜の松の枝を手向け草として(結ばれて)神に祈られたという。有間皇子が祈られた時からどれほどの月日がたったのだろうか。松はまだここにあるのに。(わたしは有間皇子に逢ったことはないが、話は十分に聞いている。あの方は謀反の罪で命を落とされたが無実だったのだ。わたしは親友だった大津皇子を思い出す。大津皇子も無実ではなかったかと。)

紀伊国行幸(690)の翌年、河嶋皇子は薨去しています。早すぎる死だったのではありませんか。書紀には「皇子川嶋」と書かれ、名より皇子が先に書かれ「皇子川嶋」は敬称とはなっていません。静かに、罪人扱いをしているのです。本当に彼は罪を犯したのでしょうか。

では、万葉集巻二「柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献づる歌一首併せて短歌」を見ましょう。
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「飛鳥明日香」が長歌の冒頭に来ています。この詞で、この長歌が挽歌であると聞き手に理解させてしまうでしょう。「飛鳥」とは「鳥が飛び交う地・霊魂が漂う地・祖霊が鎮まる地」という意味があるからです。「呼兒鳥」でも紹介したように、万葉集の鳥は霊魂の顕れでもありました。

人麻呂は、川嶋皇子の挽歌では敬語を「嬬の命」以外には使っていません。人麻呂は川嶋皇子の薨去を嘆きながら、妻であったという泊瀬部皇女(天武帝の御娘)の立場で歌を詠み、敬語を避けたのです。

人麻呂が心のどこかで皇子川嶋を責めていた、のであれば、持統天皇も同じように皇子川嶋を責めていたのでしょうか。川嶋皇子は天武帝崩御年(686)の八月に封戸を加増されています。九月崩御、十月大津謀反密告の前に封戸の加増だったのです。やがて来る天皇の死「その時は、よろしくな」と、頼んだ人物がいるのです。
そして、紀伊国行幸(690)で「結松」の歌を詠んだ翌年の一月にも封戸の加増があり、同じ年の九月に没しています。この流れを見ると、川嶋皇子は高貴な人に利用されたようにも見えます。

しかし、人麻呂は川嶋皇子の挽歌を読みました。そこに持統天皇の気持ちがなかったはずはありません。持統天皇は知っていたでしょう。皇子川嶋が皇位継承に関して「草壁皇子か、大津皇子か、どちらの皇統を選ぶか」と迫られた時、深く苦しみ悩んだことを。
天武帝の病が重篤になるにつれて、周囲が暗躍したのは間違いありません。川嶋皇子も「吉野盟約の六人の皇子」として、判断を迫られたでしょう。
その時、川嶋皇子が判断の拠所としたのは何だったのか。それが問題です。


彼はなぜ親友の大津を選ばなかったのか。
そこには、皇統の秘密が絡んでくると思うのです。川嶋皇子は天智天皇の御子なのです。大津皇子は天武天皇の御子でした。二人の皇統は違っていました。
天智と天武のどちらの皇統を選ぶのか、河嶋皇子は迫られたのです。

草壁皇子が天智天皇の御子だったからこそ、皇子川嶋は親友を捨てることができたと思うのです。それは断腸の決断だったことでしょう。

結果として、大津皇子を指示した勢力を納得させる理由が謀反だった・・・そして、結果として川嶋皇子の決断が利用されてしまったのです。

皇子川嶋は苦しんだでしょうし、それを知った草壁皇子も苦しんだでしょう。その皇位継承のごたごたは、草壁皇子の死を招きました。その翌年、持統天皇は川嶋皇子を見捨てず紀伊国にも連れて行った、そう思いませんか?

持統天皇は天智天皇の皇統の皇子を決して見捨てなかったのです。だから、人麻呂は挽歌を読みましたが、そこには敬語はなく「高光る」という皇統を示す言葉もありません。皇子川嶋は「飛ぶ鳥の明日香」の霊魂となったと詠んだのです。

人麻呂の歌には、持統天皇の川嶋皇子への哀惜の情がせつせつと漂うのです。
挽歌を読むかぎり、持統天皇は決して天智天皇の皇統の川嶋皇子を見捨てなかったと、わたしは思います。 


飛鳥」が「アスカ」となったのは、人麻呂の歌より後の時代です。
明日香が霊魂の地として定着したから、平城遷都の時に元明天皇に「飛ぶ鳥 明日香の里を…」と詠まれたのです。飛鳥は決して明日香の美称ではないし、とても政治的な言葉でもあります。

過ぎ去った人々の霊魂が漂う地であり、都ではない、という意味です。
「飛鳥の明日香」という言葉を造り出したのは、人麻呂なのかも知れませんね。

次は、明日香皇女に献じられた挽歌です。



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by tizudesiru | 2017-12-26 12:27 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

倭姫命と伊勢・度会の神

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

柿本人麻呂は宇治川に天智朝のはかなさを詠んだ

近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌
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人麻呂は近江の国を過ぎる時、十分に近江朝を偲びました。その帰り道、宇治川の川辺に到りました。当然、見て来たばかりの淡海の風景がよみがえり、あの都があった近江から流れてきた川なのだと思ったのです。しばし川面を眺めて、近江朝の為に戦い死んでいった武人のことを偲んだのでしょうか。
264
 もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

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「近江の国より上り来る時に宇治の川辺に至りて作る歌一首」と書かれていますから、264の「もののふの」歌のみを指しているのは確かです。しかし、266番歌も人麻呂が近江朝を詠んだ歌です。なぜ、二首は離れているのでしょう。
264と266の二首は内容的にもつながっているように思うのですが、間に長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌が挟まれています。
なぜ、奥麻呂の歌がここに置かれたのか、今でこそ編集の意図が分かりませんが、平安時代までは特別の地位の人はわかっていたのかも知れません。

『新古今集』藤原定家の「駒止めて袖うち払うかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の有名な歌は、奥麻呂の歌を「本歌」として『本歌取り』したものです。定家はこの歌に心惹かれたのです。
その隣に人麻呂の秀歌があるのに、敢て奥麻呂の歌を本歌取りして「名句」にして見せたのでしょうか… 
わたしは「古今伝授」の当事者であった藤原定家は『奥麻呂の歌が人麻呂歌の間に置かれた意味を知っていた』のだと思います。奥麻呂は歌人として持統天皇のお気に入りでした。
持統四年の紀伊国行幸で「有間皇子の鎮魂の為に結松の歌」を見事に詠んだことで奥麻呂は持統帝に認められたのでした。大宝元年の紀伊国行幸では天皇の詔に応えて「見る人なしに」と還らぬ人を詠みました。だからこそ、持統天皇の最後の行幸にも従駕しています。誰もが奥麻呂を羨んだと思います。人麻呂の歌の間に奥麻呂の歌を置いたのは、その辺の暗示があるのかも知れません。
佐野の渡り・みわの崎は和歌山県新宮市とされていますから「紀伊国」行幸を引き出しますね。

万葉集の編者は、何を伝えたかったのでしょう。
平安時代になって、万葉集を編集させた高貴な人の意思がそこにはあるはずです。その人は「古今伝授」により人麻呂と持統天皇の秘められた愛を知っていたでしょう。その愛に奥麻呂が入ってきたのだと、それは紀伊国行幸の時からはじまったのだと、藤原定家は読み解いたのでしょうか。それで、本歌取りの「佐野のわたりの雪の夕暮れ」を読んだのでしょうね。「雪の野原のような現実の中で心やすめる処すら持たなかった」人麻呂の心情をせつせつと。

初期万葉集を編纂・編集したのは人麻呂だと、わたしは幾度も言いました。人麻呂が持統天皇の遺勅に応えて、文武天皇のために力を尽くしたのだと…。そして、万葉集は文武天皇亡き後、元明天皇に献上されたのですが、それは元明天皇を激怒させ人麻呂は断罪されました。その後、大伴氏に預けられた万葉集は、晩年罪を得た大伴家持の遺体と共に彷徨っていましたが、平城天皇によって召し上げられ編集の手が加えられて世に出たと、紹介してきたのでした。
その決定的な平安時代の編集「あることを分かりにくくするための編集」が、数多くの万葉集の謎を造り出したのだと思います。手が入れられたのは、ほとんどが人麻呂編纂の部分に対してでしょう。後期の家持関係の歌にはほとんど編集の手は入っていないと思います。
ですから、初期万葉集と後期万葉集では、内容も編集意図も微妙に違うのです。
そういう目で、人麻呂の歌を詠むと長忌寸奥麻呂の歌が置かれた意味も想像できると思うのです。

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266 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば こころもしのに古おもほゆ
この歌は、直接的に近江朝を偲んでいます。鳥は霊魂を運ぶ、または亡き人の霊魂そのものと思われていた時代です。いにしえの都の址にたたずんで淡海を眺めている時、夕暮れの中に飛び交う鳥は大宮人のあまたの霊魂と思われたことでしょう。
鳥と化した数多の霊魂が飛び交う岸辺、そこで鳴く鳥は滅びた王朝の物語を語るのでしょうか。それを聞くと心はしおれてしまい、王朝のはかなさと天智天皇を思って人麻呂は立ち尽くしたのでした。
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何故に、ここまで人麻呂は近江朝を思うのか、不思議ですよね。
人麻呂が近江朝を詠む時、天智天皇の傍にそっと立っているのは持統天皇の思いだったのではないでしょうか。わたしにはそう思えます。

では、また。



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by tizudesiru | 2017-11-08 00:14 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback

柿本朝臣人麻呂・近江朝を偲ぶ

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
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(電車で宇治川を渡る時の一枚)
宇治川を渡る時に思い出すのが、万葉集巻三の264番歌・柿本朝臣人麻呂の歌です。しかし、考えてみると、ちょっと違和感というか、変ですよね。
宇治川を見て、天武朝に仕える人麻呂が偲ぶのは滅ぼした近江朝だったとは…ちょっと、不思議ではありませんか。
確かに、宇治川の上流には琵琶湖があり、広い淡海が少し狭くなる辺りに天智天皇の近江朝の都がありました。大津京が京だったのはほんの数年ですが、万葉集では深い哀悼の思いを込めて繰り返し詠まれました。
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万葉集巻一に、人麻呂は「天智天皇こそ日知王の皇統を継いだ大王だ」として歌に詠みました。そして、「その大王が石走る淡海国の楽浪の大津宮で天の下を統治したのに、その王朝は滅び、都は荒れ果てた」と嘆いたのでした。この歌は人麻呂の個人的な哀悼の歌ではなく、公的な場での歌です。
この歌が詠まれた時、持統帝も天武朝の皇族も、壬申の乱で天武側に加担した氏族も、その場にいたでしょう。人麻呂だけでなく誰もが近江朝を偲んだというのでしょうか。壬申の乱の功労者の高市皇子も…傍にいたのなら微妙ですね。

そして、反歌二首では「ささなみの志賀」と詠んでいます。使われたのは「楽浪」と「左散難弥乃」の漢字でしたが、「ささなみの」という枕詞は、近江朝を引き出す言葉として人々の胸に残りました。それまでは「天さかる夷(ひな)=遠い田舎」であった淡海の国でしたが、「ささなみ」の志賀といえば、滅びた王朝と深く結びつくようになったのでしょう。
「ささなみの」が一句目にある歌は、万葉集には11首あります。その中で「神」がつくささなみのが四首あります。154番の石川夫人の歌は「天智天皇の葬送儀礼に詠われた挽歌」です。206番の置始東人の歌は、弓削皇子の挽歌として詠んだ歌です。
「神楽浪」は、高貴な人の霊魂漂う地として「楽浪」に特別な場所と意味を与えているのでしょう。
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弓削皇子は大津京で薨去されたのではありません。しかし、ささなみの志賀のさざれ波に例えて「いつまでも生きながらえていたかった」という皇子の思いを詠んだのでした。母が天智帝の娘の大江皇女だったから、天智帝の皇統を継ぐ皇子だと、神楽浪の志賀の浪に例えているのでしょうか。
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そして、宇治川の歌です。人麻呂は宇治川を見ても近江朝を思い出したのでした。

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この人麻呂の秀歌については、また明日、語り合いましょう。




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by tizudesiru | 2017-11-07 00:43 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!何ゆえ?
それは何故なのか、詠まなかったのか、詠めなかったのか、詠もうとしなかったのか?
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(香具山と藤原宮)

弓削皇子の挽歌を詠んだのは、置始東人(おきそめのあづまひと)でした。

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東人は「皇子はいつまでも生きていたいと願っていた」と詠みました。その通りだったのでしょう。弓削皇子は日頃から「我が命は長くはない」と話すことがあったようです。そんな不安を持って生きていたことが万葉集からも読み取れます。いつからそんな漠然とした不安を持つようになったのでしょう。
だいたんに想像するなら、軽皇子立太子の後ではないでしょうか。当時は二十歳ほどの若者でした。多少青臭い言動もあったでしょうが、賢い青年でした。その言動には藤原氏が鋭い視線を向けていたと思われます。
多感な青年は滅びた近江朝にも関心があったようです。天智天皇の葬儀に最後まで仕えた額田王に弓削皇子は親しく歌を贈っています。
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いにしへに恋ふる鳥かもゆづりはの御井の上より鳴き渡りゆく
吉野のゆづりはの繁る御井の上を鳴きながら飛び去って行ったあの鳥は、あの古を恋う鳥なのでしょうか。あんなに鳴いて飛んでいくから、わたしも古に思いをはせました。あなたは古を思う事はありますか。
弓削皇子は近江朝に最後まで仕えた額田王を信頼していたのです。あなたも昔(近江朝)が恋しいのではありませんか? と。
そのころの弓削皇子には、持統天皇の吉野行幸について行っても心に不安があったのです。額田王は若い皇子に歌を返しました。

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額田王は若い皇子に応えました。
まあ、殿下、古を恋うる鳥ですか、それは霍公鳥だったのではありませんか。その鳥はきっと昔を偲ぶように鳴いたのでしょうね、まるでわたくしの思いのような懐かしそうな鳴き方をして。


額田王は人生の辛苦をなめ尽くしていました。娘の夫(弘文天皇)は壬申の乱で殺され、娘は突然死(自死)し、孫(葛野王ら)を抱えて苦労したでしょうね。だからこそ、優しかったのかも知れません。

弓削皇子を取り巻く状況はどんどん変化していきました。軽皇子立太子の半年後、文武天皇の即位です。夫人となったのは、藤原宮子で不比等の娘でした。不比等は文武天皇の乳母だった犬養美千代を妻とします。文武天皇の周囲は藤原色に染まっていきました。

そして、弓削皇子の不安は現実となり、文武三年(699)薨去となりました。
この後ですが、不比等は美千代に女子を生ませ、その女子を文武天皇の皇子の夫人としていくのです。文武天皇の皇子の乳母はなんと犬養美千代でした!文武天皇と聖武天皇の双方の乳母は美千代だったのでした!)

持統天皇は自ら太上天皇となり、必死で文武天皇を支えていました。若い天皇が政治をするのは大変なことでしたから。文武天皇も必死で祖母に答えました。そして、大宝二年(702)持統天皇の崩御となったのです。

こんな状況では人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠めなかったでしょうね。だけど、人麻呂が密かに挽歌を詠んだとすれば、万葉集のどこかに置かれているでしょうね。

(太上天皇亡き後(702年以降)、文武天皇も無理がこうじて倒れ長く臥せることになったのでしょう。
夫人の宮子も首皇子(701生)を生むと我が子を抱くこともできないほど精神的に追い詰められ、閉じこもって(閉じ込められて)いったのでした。)


人麻呂は世の移ろいを見ていたでしょう。持統天皇の遺勅を受けて、万葉集を完成させるために日を過ごしていたはずです。才能に恵まれながら若くして世を去った天武帝の男子を人麻呂は惜しんだのだと思います。
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万葉集編集者は弓削皇子の歌を多く残していますから、この若者の死を惜しんだに違いありません。編集者は誰ですか。
わたしは「初期万葉集を編纂させたのは持統天皇、実行したのは人麻呂だった」と思っています。その後いろいろあって万葉集は大伴氏から平城天皇に渡り、勅撰集のごとく編集されたと思っているのです。何度もしゃべりましたが。
なぜ、平城天皇は万葉集に興味を持ち、都を平城京に戻すように望みかつ実行したのか。それは、万葉集を読んで王朝の本当の姿が見えたから、桓武天皇が捨てた平城京こそ王朝のルーツであり意味があると理解したからと、わたしは思っているのです。

ところで、何故こんなに話が飛ぶのか
(古墳・神社・万葉集・近畿から大阪・熊本・福岡と話が飛ぶのは、何故なのか) 
是についての私の言い訳を書いて見ますと、わたしの中では全てつながっているのです。そんなこと当然のことですが、一つのことを書いていると関係ない事象が結びつくのです。そして、謎が解けていく…
例えば、万葉集の歌を和歌(倭歌)というなら、倭国の歌ではないか。倭国で生まれた歌なら、倭国は何処にあったのだ? 万葉集に倭国の地を探る手がかりがあるだろうか。万葉集の編纂者はどのような認識を持って編纂したのだろうか。となるのです。そして、倭国に徐々に近づいていくのです。まだ答は書いてはいませんが。
さらに、古墳ですが畿内の古墳は箸墓を基準に考えられています。明らかに三世紀の古墳ではありません。しかし、編年がぐちゃぐちゃで副葬品や墳丘の形が納得できるようになっていないのです。たとえば、有名なメスリ山古墳には鏡の副葬はありません。すると、鏡副葬の後の時代に造られた古墳となり、多くの副葬品はどこかからか運ばれたことになるでしょう。では、何処から?
一つ一つの事実は独立しているのではなく、必ずつながっています。
わたしは古代史のパーツを拾い集めています。ジグソーパズルのようにそれらはある結論を導き出すと信じて、ひたすらはめ込んでいるのです。


というわけで、次は黒塚古墳に飛びますね。
ミステリーは、人を引き付けてしまうものですね。


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by tizudesiru | 2017-10-16 20:58 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback

柿本人麻呂は舎人皇子に警告した!危機が迫っている!

柿本人麻呂は舎人皇子に警鐘の歌を献上

ご用心召され、皇子は狙われておいでです!
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天武帝にとって草壁皇子と大津皇子と、壬申の乱後に生まれた天武帝の皇子の中で天智帝の皇女を母に持つ男子が特別でした。
天武帝は近江朝の後宮の女性を外に出しませんでした。全部自分の後宮か家族の妃としたのでした。高貴な血をほかに伝えるのを避けたのです。次の火種となりますから。

それが、天武帝が天智帝の皇女を何人も妃にした理由なのです。大江皇女は長皇子(674?生)と弓削皇子を生み、新田部皇女は舎人皇子(676生)を生みました、壬申の乱後に。天智帝が弟との結びつきを深めるために娘を出したのではないのです。皇女が後宮に入れられたのは壬申の乱後で、天智帝は既に崩御していたのですから。皇女の運命を決めたのは天武帝、高貴な血統を守るために天武帝が判断したことです。
それは、孝徳朝から難波朝に移るときも、天智朝に移る時も実行されました。天武朝でも同じだったのです。


特別だった長皇子のことは、前回紹介しました。今日は舎人皇子のことを紹介します。
皇子、ご用心なさいませ!と人麻呂は詠む 
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天武帝に愛され朝政を聴くまで成長していた大津皇子(663~686)が謀反の罪で死を賜り、草壁皇子(662~689) が薨去した後、残された若い皇子の成長が待たれていました。人心は長皇子と舎人皇子に集まっていたでしょう。

ふさ手おり多武の山霧しげみかも細川の瀬に波の騒げる
この歌が詠まれたのはいつでしょう。多武の峰といえば藤原不比等と兄の定恵が父・鎌足の遺体を移し祀ったという寺のあった所です。藤原氏を象徴する山に霧が立ち込めている…霧や雲は霊魂や人の思いや下心の現れたものというのが古代人の認識でした。
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(別格官幣社 談山神社)


多武峰に厚く立ち込めた山霧だけではなく、細川の瀬も音が激しくなっていると、人麻呂は詠みます。山の上ではすでに嵐になっているのです。藤原氏が暗躍し不穏な空気が流れています。なぜでしょう?
もちろん、舎人皇子が人心を集めるほどに成長しているからです。だから、時間がないと軽皇子(草壁皇子の忘れ形見)を擁立しようとする藤原不比等が策を練っている、亡き父・鎌足の元で。だから、ご用心なさいませと、人麻呂は歌に託して危機を知らせたのです。

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おや?と、思いますよね。持統天皇の忠臣がなぜ長皇子を称えたり、舎人皇子に危機を知らせたりするのでしょうか。幼い軽皇子にとってはライバルではありませんか。
持統帝は軽皇子を後継者とするために即位したのではありませんでしたか?
そうなんです。これらの歌から読めるのは、持統天皇は長皇子に期待し舎人皇子も愛していたことになるのです。なぜ? それは、天智帝の血統の皇子だったからでしょう。
持統帝は常に天智帝につながる人を大事にしています。


冬こもり春部を恋ひて植し木の実のなる時を片待つ吾等ぞ
皇子の成長を待っていたのは人麻呂だけでなく、大勢いたようです。だからこそ、危険が迫った。その警鐘の歌を読んで、舎人皇子も歌を返します。

黒玉の夜霧はたちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに
人麻呂の意図は皇子にも伝わり、皇子もこたえました。真黒な夜霧がとうとう高屋(高貴な方がお住まい)の高殿の上にまでたなびいてしまった、わたしは心して日を過ごそう…これは、持統天皇も取り込まれたと舎人皇子が理解したということでしょうか。


人麻呂が二人の皇子に献じた歌を読む限り、持統天皇がはじめから軽皇子のみを後継者としていたとは思えないのです。女帝は天智帝の血統の子供たちを十分に愛していたと思うのです。


それにしても、「冬こもり春部を恋ひて」の歌、難波津の歌にイメージがにていませんか? 以前にも書きましたが、王朝の始まりを寿ぐ歌でしたね。人麻呂は同じような思いを舎人皇子に抱いていたのでしょうね。
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では、今日はここまで。




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by tizudesiru | 2017-10-15 11:59 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback

柿本人麻呂は長皇子を皇太子のごとく歌に詠んだ!何故?

人麻呂が称えた長皇子
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持統天皇の即位は、将来的に孫の軽皇子(文武天皇)に譲位するためだったと、史家は語ります。事実、歴史はそのように動きました。

万葉集も確かに歴史書の通りに読めますが、ところどころに「おや? なぜ?」と歴史の流れと反すると思う箇所があります。
天武朝の皇子に対する柿本朝臣人麻呂の歌もしかり、それは何か所もありますが、今日は人麻呂が長皇子に献じた歌を詠んでみましょう。
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やすみししわご吾大王高光る日の皇子
とたたえる言葉が続きます。まるで皇太子のようです。

更に、「あめゆく月を網に刺し、キヌガサにした」大王だと反歌に詠みました。長歌に重ねて、反歌でも「大王」と飾りたてたのでした。この御猟は天皇の儀式のように馬を並べて行われ、狩場の鹿も鶉もはいつくばって大王を敬ったと詠んだのですから、驚きます。
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「或本の反歌」として、
おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海を成すかも
の歌が付けたされています。「おほきみは神にしませば」の修飾詞は「天武朝の皇子達と天武朝にしか使われていない」と、万葉学者の指摘です。
天武朝の皇族は「神である」という思想を強く打ち出したのです。だから祖先の時代を神代として正史に残したのでしょう。

皇子の高貴な血統
長皇子は天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)に生れた男子です。弟に弓削皇子がいて、母の弟・叔父は川嶋皇子(天智帝の男子)です。天智帝と天武帝の血統だから長皇子に人麻呂が歌を献じたのでしょう。もちろん、この歌が詠まれた時点では持統帝も認める皇子だったので、公の場で称えられたのです。ほとんど次の皇太子的存在だったのでしょうか。
大津・草壁皇子が没したあと、周囲の目は天智帝と天武帝の二人の血統の男子に向いていたと思います。
長皇子、弓削皇子、舎人皇子は特別な存在だったでしょう。


持統十一年(697)軽皇子立太子(14歳)
人麻呂の歌が献じられた皇子や皇女は特別な存在だったとなると、では何故、長皇子は皇太子にならず軽皇子(文武天皇)が立太子したのでしょう。

軽皇子は14歳でしたが、長皇子は8歳年上ですから凛々しい青年になっていたはずです。持統天皇が孫を愛していても、周囲の豪族や高官を納得させることは難しい状況だったかもしれません。

弓削皇子は「軽皇子の立太子」に異議を申し立てました。
それは、当時の状況を反映してのことでしょう。彼は「兄の長皇子がより皇太子にふさわしい」と思っていたかもしれません。しかし、弓削皇子の異議申し立ては葛野王(大友皇子の子)に一喝されました。


長皇子の立太子を望んでいた勢力は、権力が何処に動いたのか思い知らされたでしょうね。

この後、高貴な皇子たちがどうなるか想像できますね。
弓削皇子は三年後寂しく薨去し、長皇子は文武天皇崩御後に再度脚光を浴びるのですが……舎人皇子は自分の立場を理解し一歩下がり臣下のように振る舞うという……

その歌の紹介は、また。


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by tizudesiru | 2017-10-15 01:10 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback

人麻呂の妻は火葬された

人麻呂の妻は火葬された!
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「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀働して作る歌二首併せて短歌」

の続きです。
巻二「挽歌」

210 うつせみと思いし時に 取り持ちて 吾がふたり見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白妙の 天ひれ隠り 鳥じもの 朝だちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若兒(みどりご)の 乞い泣くごとに 取り与ふ ものしなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寐し 枕付く 嬬屋のうちに 昼はも うらざび暮し 夜はも いきづきあかし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に 吾戀ふる 妹はいますと 人のいへば 石根さくみて なづみこし よけくもぞなく うつせみと 思いし妹が たまかぎる ほのかげだにも 見へなく思へば 

211 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる

212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を往けば 生けるともなし

210 あの人は現世の人だと思っていた時に、手を取りあって二人で見た 突き出した土手の槻の木の枝のあちこちに春の葉が茂っているように 深く思っていたあの人であるが、頼りにしていたあの人なのに、常ならぬ世の中の掟に背くことはできないので、かげろうが燃える荒野に、真っ白な天女のヒレに隠れて 鳥でもないのに朝早くから家を出て、入日のように隠れてしまったので、あの人が形見に残して行った幼な兒がものほしさに泣いても与えられる物もなく、男だけれど小脇に幼兒を抱いて、あの人とふたり寝た 嬬屋の中で、昼はうらさび暮し、夜はため息をついて夜を明し、どんなに嘆いてもどうしょうもなく、どんなに恋しく思っても もう会うこともできない。羽がいの山に恋しいあの人がいますと人が言うので、岩根を押し分けてやって来たのに、その甲斐もなかった。この世の人だと思っていたあの人が死んでしまって、ほんの少しほのかな影すら見えないと思うと…


211 去年見ていた秋の月は今も照らしているけれど、一緒にこの月をみたあの人は年と共に遠ざかっていく

212 衾道の引手の山にあの人を置いて山道を帰って来る時、とても生きている心地がしない。

前回の挽歌の妻とは別の女性でしょうか。この女性と人麻呂は一緒に暮らしていたのでしょう。死亡した女性は朝から白栲の布につつまれて家を出て行ったのだが、もう帰ることはないと嘆いています。そして、一人の幼兒を残していたので、その子が泣いても何もしてやれない男であることを人麻呂は嘆いています。女性は引手の山に葬られたのでしょうか。妻を置いて山から帰るのですから、葬儀を済ませたと云うことです。「使いが来て妻の死を知った」というなかなか会えない207番歌の「天飛ぶや軽の道」の妻とはかなり身分の違う女性のようです。


この挽歌には、異伝があるのです。
表現も大変良く似ています。が、見逃せない言葉があります。

210の最後に「うつせみ(打蝉)と おもひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

213の最後に「うつそみ(宇都曽臣)と おもひし妹が 灰にて坐せば

これは、大変な違いです。213の女性は、「灰にてませば」と火葬されているからです。

この時代、火葬は一般的ではありませんでした。

火葬された人の名は、書紀にも取り上げられています。火葬の初出は、700年の道照で「粟原にて火葬」とあります。702年没の持統天皇も火葬でした。

では、213番歌を読みましょう。
或本の歌に曰

213 うつそみと おもいし時に 携はり 吾ふたり見し 出立の ももへ槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂れるがごと 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎる火の 燃ゆる荒野に 白栲の 天ひれがくり 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見における 緑子の 乞いなくごとに 取りあたふ 物しなければ 男じもの 脇挟み持ち 吾妹子と 二人わがねし 枕つく つまやの内に ひるはも うらさびくらし 夜はも 息づきあかし 嘆けども せむすべしらに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に なが恋ふる 妹はいますと 人の云へば 岩根さくみて な積みこし よけくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば

短歌三首

214 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は わたれども あいみし妹は いや年離(さか)る

215 衾路(ふすまぢ)を 引出の山に 妹を置きて 山路おもふに 生けるともなし

216 家に来て 吾がやを見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕(こまくら)

さて、人麻呂は210と213の挽歌のどちらを先に詠んだのでしょう。

わたしは、213が先だと思います。「灰にて坐せば」が先だと思うのです。

火葬とは、由々しきことです。こんな行為を受け入れた女性として、読み手は誰を思い出すでしょう。

平城天皇に万葉集が召し上げられて(806年)、編集を担当した学者は、ここを詠んで愕然としたでしょう。「これは、高貴なあの方を導き出す言葉だ」と。
だから、210を挿入し、213を「或本の歌」としたと、大胆にもわたしは思うのです。
そうでなければ、210と213はあまりにも似ています。手直しをする必要はないほど似ているのです。なのに、敢て手直しをしたのは何処か、「灰にて坐せば」以外にありません。

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「灰」になってヨミガエリを拒否した持統天皇の思いを感じずにはおれません。
では、ここに出て来る「幼兒」とは…あの古今伝授に残された人なのでしょうか。
わたしにはわかりません。
古今伝授と207番歌(人麻呂の妻の挽歌)については、このブログの「264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が」を読んでくだされば、少しは説明不足を補えると思います。

それから、前回は「飛鳥と明日香」の紀行文的だったのに、今回は「万葉集」の人麻呂の挽歌について書いているという……ブログの内容があちこちに飛びますね。
ごめんなさい。読みにくいブログになっていることでしょう。
わたしは古代史の謎に興味があるのですが、謎を解く鍵として地図があると考えています。それに、書紀や古事記、先代旧事本記や古語拾遺などの文献、寺社の由緒なども面白いと思うのです。それらのバラバラなパーツを一つずつ拾ってジグソーパズルのようにはめ込んでいるつもりです。だんだんバラバラだったものが、一定の方向に導いてくれるのではないかと、発見したことを書いているのですが。
パーツが多すぎて分かりにくいですよね。
これからも「丁寧に説明していく」つもりです。105.png112.png119.pngよろしくおねがいします。



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by tizudesiru | 2017-07-19 01:35 | 268人麻呂の妻は火葬された | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
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58石上神宮の視線
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60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
701年紀伊国行幸・持統天皇が触れた砂
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
326倭王武と雄略天皇は同一人物なのか
327古代史の危機!?

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