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有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ

有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ
「自傷歌」というキーワードがありますが、共通するものは何でしょう。
有間皇子・自傷歌と共通するのは、「刑死」ではありませんか。

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万葉集によれば「本朝臣人麻呂は石見国で死に臨んだ」という
死因は何か? 行き倒れか? 刑死か? 自然死か?
死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。
「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌を読んでみましょう。

万葉集・巻二の223番歌
  柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に望む時、自ら傷みて作る歌一首
223 鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

  柿本朝臣人麻呂が死にし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首
224 今日今日と吾が待つ君は石水(いしかわ)のかいに交じりて有りと云わずやも 
225 直(ただ)の相は相かつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

 丹比真人、柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報ふる歌一首
226 荒浪により来る玉を枕に置き吾ここに有りと誰か告げなむ

  或本の歌に曰く
227 天離る鄙(ひな)の荒野に君を置きて想いつつあれば生けるとも無し


 上の歌から分かることは、
人麻呂は石見国で死んだ。
その妻の依羅娘子は、夫の死に目には会えず死の知らせを聞いた。直に会えないから魂が雲となって石川に立ち上ってくれれば、それを見て偲びたいと詠んだ。(
不思議なことに、依羅娘子は石見の国に住んでいたはずである。人麻呂の131~139番歌は、石見国の依羅娘子と別れる時の歌である。二人は同じ石見国に在りながら逢うことができず、死後でさえ亡骸にも面会できなかった…その死を知っているにかかわらず、面会できていない。これも、人麻呂の死は尋常ではなく、刑死と考える所以である
。)
人麻呂終焉の地は 石見国の海か、はたまた荒野のどちらかだろう。
 224~7の一連の歌、人麻呂の死に対する三人の挽歌が万葉集に残されたのには、必ず意味がある。(死に臨んで自傷歌を詠んだ人麻呂に対して、少なくとも三者が時期を遅れて場所は違うが挽歌を詠んだ。このような例は、「有間皇子の挽歌」以外にあっただろうか。わたしは、記憶していない。)

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妻の依羅娘子(よさみのをとめ)と丹比真人(名は不明)と或本の歌の三人は、人麻呂の地位と身分と状況を十分に知って歌を詠んだ。*丹比真人の「真人」は、八色の姓の第一位であるから、この人は高貴な家柄で身分の高い人となる。
依羅娘子は、人麻呂が「石見国より妻と別れて上り来る時の歌二首、併せて短歌」(131~9)の歌群の後にある140番歌の女性である。
「柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂に与うる相別るる歌一首」
な念(おも)ひと君は言えども相はむ時何時と知りてか吾が恋ずあらむ
依羅娘子は相聞歌が詠める身分の高い女性であろう。

以上のことは読み取れます。




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死に臨んだ人麻呂。彼の死は「刑死」だった
もちろん、「人麻呂が自然死した」のなら、万葉集の理解が違ってきます。
万葉集を読む中で理解したのは「その編纂の時期と目的」でした。
「持統天皇が文武天皇の皇統を守る為に、その正当性と歴史」を叙事詩にした」と万葉集を理解しましたが、持統天皇と文武天皇の死後、即位した元明天皇にとってそれは毒薬となりました。

草壁皇子の出自が公表されれば、天武系の皇子達に謀反の糸口を与えかねなかったのです。そんな内容の歌集を編纂編集した人物だから、人麻呂は断罪されたのでした。そう読めるように編纂されていた重い歌集だったのですから。

この事は、前回までの「柿本朝臣人麻呂は何故死んだのか」で説明しています。

天武系の皇統を全て滅ぼした平安時代の天皇家にも万葉集は不都合だった。

 天智帝の皇統に戻った平安時代に「今更、蒸し返してほしくない事実が書かれていた」、それは、草壁・文武・聖武の皇統はもともと天智帝の皇統だったと云うことです。草壁皇子・文武天皇・聖武天皇の皇統こそ正統だったと、万葉集は主張していました。この事を理解した 平城天皇は、「平城京こそわが王統が引く継ぐべき京だ」と主張したのでした。
 父の桓武天皇が「極位が天智天皇の皇統に戻ったことは易姓革命だ」としたことは、平城天皇も承知していました。然し、実はそうではなかったと気がついたからこそ、奈良の都(平城宮)に戻ることを望まれたと思います。
平城天皇は万葉集を理解していたのです。然し、公表には躊躇された、今さら公にできない事実だったのです。
皇位継承に関して多くの旧臣を断罪し、多くの皇族の命を奪った後では、はなはだ不都合だったので、内容を分かりにくくするための編集の手を入れて世に出した、という次第です。

 天智天皇に引き上げられた藤原氏にとって、天武帝の皇統に極位を渡すことなどありえなかった、高市皇子や長皇子や新田部皇子に譲ることなど絶対にするはずがなかったのです。



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by tizudesiru | 2018-05-23 17:19 | 346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ | Trackback

万葉集は持統天皇の勅で編纂された史書だった

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:11 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

雄略天皇の御製歌は万葉集の冒頭歌

「すぎにし人の形見とぞ」2

では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。

この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘む娘に敬語を使っている。『菜摘ます子=菜をおつみになっている娘』と『家をおっしゃってください。名を名のってください』 求婚の儀式だろう。 

古代では名前を呼べるのは、特別な間柄か親族で、他人に名を知られるのを嫌った。

此の菜を摘む女性は高貴な家柄の姫で、儀式により婚姻が整おうとしている瞬間である。

これは「雑歌」=儀式歌の冒頭歌にふさわしい歌なのである。」

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万葉集巻一には、「雑歌」という「部立」があります。
「雑歌」とは、「雑なその他の歌」という意味ではないのです。「儀式歌・様々な公の場での歌」と云う内容の歌群をいいます。ですから、雄略天皇の万葉集1番歌も「雑歌」ですから個人的な歌ではなく、公的な場での歌になりますね。


万葉集の冒頭歌は、「こもよ。みこ持ち」この歌ですね。
 最近になって、平和で幸福な感じの婚礼の儀式歌だと、思えるようになりました。
もともと、万葉集は持統天皇が『平和で幸福な皇統の国造り』を願い、文武天皇のための教育書として作られたと、わたしは前回紹介しました。万葉集の性格からして、政変や悲運な出来事の歌が巻一の冒頭に置かれるはずはありません。特に巻一ですから、幸せと希望に満ちた冒頭歌のはずです。
 すると、巻一の最終歌も平安と希望に満ちたものになるでしょうね。そう思って巻一の最終歌を読むと、何だかまとまりのない形になっています。元々万葉集巻一最終歌には、別の「世を寿ぐ歌」があったでしょうに。
(他の巻は、様々な皇統の出来事・歴史に触れますから内容が重く苦しいものにもなるのは必然です。)
雄略帝の歌と対峙する巻一の最終歌は、どの歌だったのでしょうね。

 話は飛びますが、大伴家持が後期万葉集を編纂したと云われていますが、その最終歌「巻二十・4516 新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけよごと」となっています。家持は因幡守として詠んでいますが、この時の家持は失意のどん底にいました。それでも、寿歌を以って新年と国の平安を歌で祈り万葉集の最終歌としたのでした。なぜ、彼はこのように寿歌を持ってきたのでしょうか。

 それは、「初期万葉集」がそのような編集の仕方になっていたからです。彼は、人麻呂が編集したその形式を踏襲したと思うのです。後期万葉集の編纂・編集の仕方を見ると、初期万葉集の編纂編集の方向が見えると思います。
 わたしは、巻一は堂々と王統の歴史を語っていたと思いますから、雄略・舒明・皇極・(孝徳)・天智・天武・持統・文武の御代の歌が並んでいたと、思います。

巻一の冒頭歌をはじめて読んだ時、雄略天皇という存在がか細く思えたのでした。万葉集釋注(伊藤博著)では次のように解されています。
「おお、籠(かご)、立派な籠を持って、おお掘串(ふくし)、立派な掘串を持って、ここわたしの岡で名を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。幸(さき)わうこの大和の国は、くまなくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。」

泊瀬朝倉宮天皇は、自分こそが大和を平らげていると娘さんに告げていますから、大和を統治していたのでしょう。でも、飛鳥にはまだ入っていなかったと云うことですかね。次の舒明天皇の歌を読むかぎり、そう云うことになりますね。
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日本書紀で雄略天皇の系譜をおさらいしてみよう
スタートは応神天皇でした。



応神 九州より攻め上る。忍熊、香坂皇子と戦って王位を奪う。
仁徳 大鷦鷯(おほさざき)天皇。菟道稚郎子の自殺により即位。
履中 去来穂別(いざほわけ)天皇。母、葛城襲津彦の娘・磐之媛。住江仲皇子の謀反。磐余の若桜宮に即位。平群・蘇我・物部が仕える。筑紫の三女神「どうして我が民を奪ったのか。わたしは今、お前をはじいらせよう」車持君が筑紫で罪を犯す(何故か、九州の神の話
反正 瑞歯別(みずはわけ)天皇。履中帝の同母弟。河内の丹比(たじひ)を都とする。柴籬宮(柴垣の宮)
允恭 雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)天皇。反正天皇の同母弟。太子木梨軽皇子の逸話(同母妹との姦通罪により追い詰められ自殺)
安康 穴穂天皇。木梨軽皇子の事件により即位。叔父の大草香皇子を殺し、その妻の中蒂姫(なかしひめ)を皇后に据え、その連れ子の眉輪王に殺される。
雄略 大泊瀬幼武天皇。吉備上道臣田狭を任那にやり、その妻を奪う。皇位継承者を次々に殺害。
清寧 白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの)天皇。母は、葛城韓媛。雄略帝の妃であった吉備の稚媛(もと吉備上道臣田狭の妻)が子(星川皇子)をそそのかし謀反を企てたが、共に焼き殺される。
顕宗 弘計(をけ)天皇 父親を殺され兄(仁賢)と与謝郡に逃げる。

仁賢 憶計(おけ)天皇。諱は大脚(おほし)、またの名は大爲(おほす)*旧本による。字名は島郎子(しまのいらつこ)、穴穂天皇(安康天皇)が崩御した時、丹波の余社郡(よさのこほり)に避難した。
武烈 無道の限りを尽くした (断絶) 


ふむふむ、なかなか大変な顔ぶれですね。ただ、此の天皇の宮は、橿原・桜井・大阪・天理・奈良に京を作り、允恭天皇(明日香村所在不明)顕宗天皇は(明日香村八釣)明日香に宮があったとされていますが、所在地は不明です。陵墓は羽曳野市・堺市・藤井寺・北葛城郡・奈良市などになっています。此の王朝は、香具山の王朝とは直接には結びつかないようですね。
 しかしながら、万葉集の冒頭には雄略天皇の名があります。此処に、どんな意味があるのでしょうね。
明日は、舒明天皇の国見歌(万葉集巻一・2番歌)を読みます。

では、明日。
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by tizudesiru | 2018-05-22 00:10 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の二番歌は舒明天皇の国見歌

「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。
 此の話の主題は「万葉集は、持統天皇が孫の文武天皇のために皇統の正当性とその苦難の歴史を伝えるために、柿本人麻呂に編集させた皇統の歴史書であり、教育書である。」でした。
 では、万葉集巻一には、何が書かれているのか。その事で何が分かるのか、ですね。少しずつ紹介しています。

前回は、雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)の万葉集冒頭歌の紹介をしました。
この歌が本来の「初期万葉集の冒頭歌」であったのなら、泊瀬朝倉宮御宇天皇は持統天皇にとって意味があったのですね。
今日は、万葉集の2番歌・舒明天皇の国見歌です。

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今日は「すぎにしひとの形見とぞ」の⑦~⑮まで紹介します。

三人の天皇は、なぜ小さな香具山を詠んだのか
統治者として舒明天皇は天香具山から国見をした

⑦では万葉集の2番歌、舒明天皇の歌を読もう。舒明天皇は天智帝・天武帝・間人皇后の父であった。

舒明天皇の2番歌『国見歌』、天香具山に登って国見をしたという歌である。

香具山は、藤原宮の東の御門を守ると詠まれた山で、耳成・畝傍と並ぶヤマト三山と呼ばれる山の一つ。香具山を詠んだ天皇は、三人。舒明天皇・天智天皇・持統天皇、三人は香具山でつながるようだ。

 香具山の中腹には、舒明天皇の万葉歌碑がある。本格的に明日香に入った最初の男性天皇であるから、別に不思議ではない。つまり、歴代天皇の宮は明日香にはいなかったのである。舒明天皇の祖父の敏達帝は河内長野や桜井に宮があり、陵墓は河内磯長中尾陵である。敏達帝の皇后だった推古帝が蘇我氏との関係で明日香と橿原を宮とし、明日香に女帝の宮が造営されたと書かれている。

推古帝の遺言で大王となった舒明王家にとって、香具山は天降りの山・舒明皇統の始まりの聖地となったので、神聖な氏山として天の香具山と呼んだと思われる。

すると、舒明天皇が「香具山からの国見歌を読んだのは何故か」の答えは簡単に分かってしまった。秘密でも何でもない。もちろん、これは謎でも秘密でもない。ただ、舒明天皇は何処の出身だろうか。

簡単にいうと、舒明天皇はよそ者である。飛鳥の地に侵入して来たから「国見」をしたと、なる。

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舒明天皇の皇統は香具山を神山とした

⑧ 「天皇、香具山に登り国を望む時の御製歌」

2 ()はむら山あれど とりよろふ天の香具山のぼり立ち 国見をすれば国原は 煙立つたつ海原はかまめ立つたつ うまし国ぞ(あきづ)(しま)八間(やま)()の国は

「大和には群がるように山々があるけれど、鳥もよろけるという神の山・天の香具山に登り立ち、国見をすれば国原から煙が盛んに立ち上がっている。海原からはカモメが盛んに飛び立っている。豊かな素晴らしい国であるぞ。あきつしま大和の国は」

 足元に広がる国原を見渡す大王の国見歌である。 舒明天皇が詠まれた香具山は神山であるので、この天皇家は香具山を氏の守りの山としたといえる。今でも香具山に登ると山頂に)(とこ)(たち)命が祭られていて、中腹の説明板『名称大和三山・香久山』には、『(略)天香具山、畝傍山と耳成山、この三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖化され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきました。
天香具山は天から降ってきた(伊予国風土記逸文)
(略)香具山は伊予国風土記逸文に「天から降ってきた」という伝承が残っており、「天の香具山」とも呼ばれています。万葉集において「天」という美称がつけられた山は香久山だけで、このことから多くの山の中でも特別な位置付けを持っていたと考えられます』と案内板に書かれている。

案内板にあった伊予国風土記逸文にある「天から降ってきた」という文は気になる。(舒明天皇の出身地は伊予国だというのだろうか
また、萬葉集の巻一の6番歌の脚に「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはないが、天皇の十一年に伊予の湯に行幸されたことはある」とあり、8番歌「熟田津に」の額田王の歌の左脚に、「御船、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊られた。(斉明)天皇、昔日の物が猶ものこれるのを御覧になり、その時たちまちに感愛の情を起され、その故に歌を作り哀傷された」とある。斉明天皇が亡き夫を想い出して歌を詠んだというのである。舒明天皇と伊予の結びつきは深いのではなかろうか。(正史には出て来ないが、舒明天皇と伊予の縁は深いようである

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舒明天皇の百済大寺も天香具山の南に移された

 香具山の南に造営された寺だが、香具山の南に大官大寺跡がある。舒明天皇が建立したという百済大寺を、神聖なる香具山の南に移したと考えることができる。やはり、舒明天皇の皇統の寺として、移す必然性があったのだろう。

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「日本書紀」や「大安寺伽藍縁起」などによると、「だいかんだいじ」または「おおつかさのおおでら」と記されている。百済大寺から高市大寺から大官大寺に移り、平城京の大安寺へと変遷している。南から北へ中門・金堂・講堂が並び、中門と金堂をつなぐ回廊の中の東部に塔を配する伽藍配置であった。
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藤原宮御宇天皇の時代の官寺として活躍した

古代は、何処に墓を造るか、宮を建てるか、どの山を神山として祖先祭祀をするか、大事なことだったのです。
舒明天皇が国見をした天香具山を神山として、大官大寺は移されたと云うことですね。藤原宮御宇天皇の持統天皇と文武天皇にとって天香具山は神山でした。

伊予国風土記逸文に「香具山が天から降ってきた」と書かれたのですね。天香具山が伊予から来たのなら、舒明天皇の出身が伊予国だというのでしょうか。

万葉集に書かれていることと、日本書紀に書かれていることが食い違うので、脚注が入るのです。しかし、書かれてから数十年しかたっていないのに、もう分からないことだらけだったのですね。


では、中大兄の「三山歌」を読みます。

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「すぎにし人の形見とぞ」の⑪に戻ります。

⑪ さて、香具山が神の山であることはわかったが、他の畝傍と耳成はどう読まれているだろうか。

畝傍山は男性と解釈されたり、女性と解釈されたり、説が分かれる

原文では、「畝傍を惜し」を万葉仮名で「雲根火雄男志」と表記されている。故に、解釈が二通りある。

長歌の大意を日本古典文学大系の万葉集では、『香具山は畝火山(男性)を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったから、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい』となっている。

万葉集釋注では『香具山は、畝傍(女性)を失うには惜しい山だとして、耳成山と争った。神代からこんなふうであるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取り合って争うのであるらしい』と解釈し、両者は男女が入れ替わる読み取りになっている。読みの都合上(男性)と(女性)の言葉をを挿入してみた。

中大兄のこの歌は本来二人の男性が争ったのか、二人の女性が争ったのか、気になるところであるが、中大兄の歌で見逃せないのは、三山を擬人化していることである。これは、たとえて遊んでいるのではなく、現実を表現しているはずである。

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香具山と耳成山が奪い合った畝傍山の姫は、いったい誰だったのか

⑫ つまり、三山に象徴される氏族があり、中でも香具山を神山とする新興勢力が政権を握っており、同じく耳成山を神山とする新興勢力と対峙している。そして、畝傍を神山する伝統的王族を取り込むことで権力が強固なものになろうという歌の意図なのだ。香久山は、畝部山一族の姫を妻に迎えようと耳成山と争っているのである。古代の権力の組み替えは、伝統的王家の血筋の娘を手に入れることで決まったというのだ。

たしかに、中大兄が額田王を大海人皇子と争ったという説がある。額田王は初め大海人皇子との間に娘をもうけ、後には天智帝のもとに仕え挽歌まで奉っている。すると、畝傍山に象徴される姫は額田王というのだろうか?

(更に、15番歌は反歌として他者が付け加えたとされている。「渡津海の豊旗雲に」の歌は堂々としていて、これほどの歌を詠める歌人は誰なのか様々な説があるが、額田王詠歌という学者もいる。古典文学大系は大意を「大海の豊旗雲に入日の射すのを見た今夜は、月も清かに照ってほしいものだ」と、三山の争いが終わったので、海神がたなびかせた豊旗雲を見た印南国原の神は晴れ晴れとした気持ちになったというのだ。が、三山歌の反歌として「わたつみの豊旗雲」は不釣合な気もする。

また、この歌の題「中大兄、三山の歌」であるが、何故か「皇子」の文字が欠けていて、御製歌とも書かれていない。これは、中大兄皇子がぞんざいな扱いを受けたということか。または、「長子という立場をあらわす大兄(古人大兄皇子)」の次という「二番目の長子」という意味と位置を「中大兄」が表しているだけなのか…)

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畝傍山と本薬師寺の祭祀線と持統天皇

藤原宮の西に畝傍山。この山を神山とする氏の姫を迎えることが重要だと、「三山歌」には詠まれている。
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創建時の伽藍の大きさが想像できる礎石群。本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「 薬師寺」と称されるようになった。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている(ネットでは上記のように紹介されている)

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(東塔址)

⑮耳成と香久山が争った畝傍山。では、畝傍姫とは持統天皇なのか?

本薬師寺は、薬師寺が平城京に移動した後、11世紀まで残った。この寺が、持統皇后の病気平癒の為に建てられたのなら、持統その人は畝傍山系氏の所縁の姫であることになる。

なぜなら、現在は基壇しか残されてはいないが、その基壇は畝傍山と直線で結ばれるからである。本薬師寺の東西の塔は畝傍山の山頂と並ぶ。将に、畝傍の姫を争ったのは誰と誰なのか。(想像がつきますね。更に、畝傍の関係氏族は、東西の太陽を祀る人々だったと考えられる。)
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(西塔址と畝傍山

持統天皇は香久山を詠んで、文武天皇の皇統を示した

⑯ では、巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇が畝傍姫だとしたら、何故香久山を詠んだのか、不思議である。考えられるのは、畝傍姫である持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」でいるということだ。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 

誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。

この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。
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耳成山は藤原宮の北を守る守護神の山であり、高市皇子の神山である


⑰ 更に、耳成山である。

そもそも、持統帝の藤原の宮の北を守るのは、耳成山である。耳成山は何処からも見える神山である。
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⑱ 耳成山の真南に、二つの墳墓が造営された。耳成山の真南に在るには、中尾山古墳と高松塚古墳だが、中尾山古墳が、真の文武天皇陵なのであれば、高松塚を遮るように作られたといえるのではないだろうか。
このように、寺社や陵墓の位置から読めるのは、皇統の人間関係である地位なのである。
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⑲ では、天武持統陵はどのような位置に在るのか藤原宮大極殿の南に在るのは野口王墓。

野口王墓は京都府山城の天智天皇陵の真南に位置する。何も意識しないで、測量もしないで、離れた二つの墓を造営することはできない。これを実行したのは、文武天皇である。文武天皇も持統天皇も、天智天皇を大事にした。これは、ゆるぎない事実である。

「天の香具山を詠んだ三人の天皇」の結論として言えること

持統天皇・舒明帝・天智帝は同じ皇統を主張している。

確かに、この三人の天皇は八角墳に埋葬されているし、陵墓の形式も共通する。

壬申の乱を経て成立した天武朝は明日香に宮を造営したし、持統帝は藤原宮御宇天皇なのである。確かに畝傍を西に香具山を東に置いて藤原宮が造営されていると、万葉集にも長歌が残されている。だが、天武朝の氏山は耳成山のはずである。野口王墓(天武持統合葬陵)、高松塚古墳(高市皇子説)、キトラ古墳(舎人皇子説)などは、耳成山・藤原宮の真南を意識して造営されている。畝傍でも香久山でもないのである。

それなのに、持統天皇はなぜか政権を握った後に耳成山ではなく香具山を詠んだ。なぜ耳梨山を読まないのだ? そして即位の決意はどうなったのだ? なにゆえ持統帝は天智帝を大事にするのだ? と疑問が出てくるだろう。

香具山を「氏族の神祭りの山」とした舒明天皇(国見歌)、中大兄皇子(三山歌)持統天皇(香具山の歌)を紹介した後、香具山を氏のトーテムとする三人は同じ氏族とし、その結びつきは陵墓でもわかるとした。

しかし、持統天皇の漢風諡「持統」は、「天武天皇の皇統を草壁皇子から文武天皇につないだ」という意味とされている。だが、持統天皇自身は、天武朝ではなく舒明・天智の皇統であると「香具山の歌で」主張しているのである。すると、持統」という諡号は天武帝の皇統をつないだ意味ではなく、ほんとうは天智天皇の皇統をつないだ意味になってしまう。万葉集は、そのように解いてくれている。

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今日は。ここまでにします。

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畝傍山が象徴する姫が持統天皇だった?! そうすると、姫を争ったのは天香具山(天智)と耳成山(天武)だと云うことになりますね。
また、明日。


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by tizudesiru | 2018-05-22 00:09 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集3・4番歌は、もともと難波天皇の儀式歌だったのではないか

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:08 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

天智天皇御代には優雅な歌、天武天皇御代には壬申の乱の後遺症

万葉集は、文武天皇のために編纂された「皇統の正当性と歴史」を伝える教育書であり、歌物語であるという立場で「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。
今日は、㉙から始めます。
16~21番歌が天智天皇の御代の歌であり、22~27番歌が天武天皇の御代の歌である。そこには、詩歌はどのように詠まれているのだろうか。


万葉集巻一・天智帝御代と天武帝御代では、詩歌の編集意図が異なる


16~21番歌は、額田王4首)大海人皇子(1首)井戸王(1首)が詠んだ天智天皇の御代の詩歌で、宮廷の文化行事と近江遷都が詠まれている

*ここには百済救援「白村江敗戦」は詠まれていない。

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㉙ 巻一の「近江大津宮御宇天皇代・天命開別天皇・諡して天智天皇という」という標でまとめられ、此処に置かれている詩歌は、16~21の額田王四首と大海人皇子一首と井戸王一首である。

16番歌 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して春山の万花の艶(にほ日)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)い憐れびしめたまふ時に、額田王が、歌をもちて判(ことわ)る歌 」

17番歌「額田王、近江国に下る時に作る歌」、18番歌 反歌 

19番歌「井戸王が即ち和(こた)ふる歌」

20番歌 「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌」 21番歌「皇太子の答えたまう御歌」

額田王は天智天皇の御代で大きな活躍をしていたということである。娘の十市皇女は、大友皇子の妃となって御子をもうけていた。親子ともに近江朝では幸せだったのである。

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㉚ 17・18番歌。おや、近江遷都の時、額田王が別れを惜しんだのは、天香具山ではなく、三輪山である。では、王家の本貫の山は三輪山だったと云うことになろうか。

饒速日の山だったことに。

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㉛ 天智天皇代に、額田王と大海人皇子の有名な蒲生野の歌もここに掲載されている。

20 茜さす 紫野ゆき 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

21 紫の にほへる妹を にくくあらば 人嬬ゆへに 吾れ恋めやも 

この歌は、天智天皇の遊猟(御猟)の時の歌である。

天智天皇の御代には、宮廷の文化的な行事の歌が掲載されている。

次の天武天皇代に詩歌はどのように詠まれているか


㉜ 天武天皇御代。次の王朝の明日香清御原宮天皇代の歌は、22~27の六首で、十市皇女が伊勢神宮に参赴する時に吹芡刀自が作った歌、麻續王が流される時の人の哀傷歌、それに和する歌、天皇御製歌、或本の御製歌、更に天皇御製歌となっている。 

22番歌 「十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まゐで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹芡刀自(ふぶきのとじ)が作る歌」で始まる。これを当時の読み手は、どう受け止めただろう。


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㉝ 十市皇女が伊勢に参赴する時の歌

22 河の上の ゆつ磐むらに 草むさず 常にもがもな 常(とこ)処女(おとめ)にて

天武四年、大伯皇女が伊勢の斎宮となったので、阿閇皇女と共に十市皇女も伊勢を訪れた。この時、吹芡刀自が作って奉った歌である。壬申の乱後、近江朝の総大将の妃であった十市皇女が、夫を失い子の葛野王を連れて天武帝に引き取られた後に行われた伊勢神宮への参赴であった。「水量の多い河の中にある聖なる岩々には草も生えていない。その岩のように常に変わらずありたいものだ。ずっと乙女であるように」

十市皇女は常処女でいることはできなかった。それゆえ、天武7年に宮中で突然命を絶ったのだろう。天武天皇は、十市皇女の薨去に対し、嘆き悲しんだ。本来なら、近江朝の皇后となったかも知れない人の、はかない人生を嘆いたのかもしれない。天智朝を倒した天武帝は「敵将の妃だったとはいえ、娘に再び幸せになってほしい、やり直してほしい。」と願ったのか。十市皇女の運命を知る当時の人は、壬申の乱の悲劇を思い出し、胸を痛めたに違いない。


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㉞ 天武天皇の御製歌25・26番歌は、吉野からの逃亡の歌である。壬申の乱は、天武天皇にとって、人生最大の難局だったのである。

27番歌の『芳野よく見よ』の歌は、十市皇女の薨去の翌年の天武八年「吉野行幸」の時の歌である。皇太子決めをするための「吉野盟約」が行われたとされる時の歌である。然し、この後の歴史の展開を見ると「皇太子決め」だったとは読めない。ただ、天武天皇の大喜び・歓喜の歌から、吉野行幸は特別だったに違いない。それは、暗黙の裡に皇太子となっていた草壁皇子のみならず、天武と天智の双方の皇子が兄弟の契を交わして対等になった「喜びの会合」だったからではないだろうか。永年の重荷を下ろしたという…更に、大津皇子も極位を望むことができると、天武天皇は考えたとわたしは思う

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壬申の乱による後遺症の歌以外には、麻績王の流罪の時の哀傷歌がある。
麻績王がどんな罪だったのか分からないが、世の人は彼に同情したのである。
当時の人には、説明がなくとも事件の顛末は分かったであろう。このように、天武天皇代の歌に宮廷の華やかさはない。
むしろ、悲劇の歌が掲載されている。



天智帝と天武帝の御代では、編集意図が違いすぎる
天智帝と天武帝の御代で取り上げた歌の扱いは、真逆である。
短い天智朝では王家の行事が歌われ、長い天武帝の御代では「皇女の悲劇」など壬申の乱の後遺症が詠まれている。この編集の違い、これはどうしたことか。此処に、持統天皇の本音が見えてくる。


そして、これが文武天皇に伝えようとした皇統の歴史なのである。


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また、明日。

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:07 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

持統天皇の御代に人麻呂は登場し、天皇の傍近くで活躍した

 初期万葉集は、柿本人麻呂が編纂した。持統天皇の勅を受けて文武天皇のために「分かりやすい皇統の歴史書」として完成させたが、文武天皇の崩御により元明天皇に献上する他なかった。然し、元明天皇は激怒し、人麻呂は刑死することになった… という立場で、「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。

今回は㉟からで、持統天皇の御代の歌になります。

持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか

 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎

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 持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。

巻一の28番歌の題詞には「藤原宮御宇天皇代、高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年 軽皇子に譲位  尊号太上天皇と曰」と書かれている。そして御製歌。

28 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香久山

万葉集の秀歌であるが、叙事詩とすると『耐え忍んだ冬が終わりやっと春が来て、その春も過ぎいよいよ夏が来たらしい。氏神の香具山に神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の皇統の時代になったのだ。』と読んだ。持統帝が実権を握ったのは晩年だったが、これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのだ。だが、一体、いつ詠まれたのだろうか。歌の意味と即位後の持統帝の行動とがかなり結びつかないのである。


律令政治に切り替えた持統天皇は、吉野行幸を繰り返した
 持統四年(690)即位、持統帝はそれまでの天武天皇の皇親政治を止め律令による政治を目指したらしく、太政大臣(高市皇子)と右大臣(多治比嶋)の儀政官の任命をしている。自分の時代には天武天皇の政治は引き継がないと、やりたいように政(まつりごと)をするという決意の表れでもあろう。

だが、それにしては天皇が都に居ないのは何故だろうか。持統帝は常にお出かけしているのである。吉野行幸だけでも三十数回ある。他にも親しい明日香皇女の田荘に行幸、紀伊行幸や伊勢行幸と在位中に留守が多いのである。天皇が不在でも行政は役人が行うであろうが、宮廷の祭事や神事はどうだろうか。天皇の吉野行幸は多すぎて、即位後に持統帝による神事が定期的に行われたかどうか疑わしいのだ。即位は持統四年で称制期間の三年を経た後であるが、行幸の回数を見てみよう。

持統三年の三月から吉野行幸が記録されている。三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)、  年に三回から多い時には五回と、回数の多さに驚かされる。
持統天皇は、何を考えていたのだろう。


持統天皇が作ろうとした教育書は、軽皇子の為だった

草壁皇子が薨去した年、持統天皇は皇子達の教育のために「撰善言司」を置き教科書造りを始めた。何より軽皇子(文武天皇)の為であったと思われる。

持統天皇は皇子達に良い教科書を与えようとした⇒万葉集に発展したのではないか

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㊱ 
持統天皇が即位したのか、しなかったのか、様々な説がある。年表を見ると天武天皇崩御の後、三年間空位であった。そこで持統帝は何を考えたのか。持統三年「撰善言司」を置くとあるが、目的は何だろうか。

草壁皇子の死後、皇統のための歴史書・文武帝や他の皇族の為の教科書が必要だと持統帝は思った。完成しなかったのは、他の方法を考えたからではないか。持統帝は真剣に教育書が必要だと思っていたのである。万葉集は、この「教育書としての役割を担って編纂された」と私は思う。

年表から、高市皇子太政大臣に任じすべてを委ね、紀伊国へ行幸したと読むことができる。

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人麻呂は持統三年には登場し、持統天皇の傍近くで詩歌を献じ続けた

㊲ 持統天皇の御代は圧倒的に歌の数が多い。柿本人麻呂の活躍も大きい。
 柿本氏の出自は、天足彦国押人命の後、敏達天皇の御世家門に柿樹があったので氏名とした。(姓)祖は孝昭天皇皇子、天押帯日子命(記)。天武十年(681)十二月と、和銅元年(708)四月の柿本猿(佐留)との関係も論じられている。

万葉集で年次の明らかなものは、持統三年(689)の日並皇子殯宮挽歌、同十年、高市皇子殯宮挽歌、文武四年(700)明日香皇女殯宮挽歌が挙げられる。ただ、天皇に対する挽歌はない。また、人麻呂は、和銅三年以前に没したというのが定説である。

人麻呂作歌(長歌19、短歌69)人麻呂歌集(長歌2、短歌332、旋頭歌35)人麻呂の歌中(短歌3)此の数の多さから、万葉集の編纂者は人麻呂以外に考えられない。

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持統天皇の御製歌の次の歌は、近江朝を偲ぶ歌

持統天皇代、圧倒的にこの御代の歌が多いので、「持統万葉」などと「初期万葉」は呼ばれている。持統天皇代の歌を見てみよう。

「藤原宮御宇天皇代・高天原廣野姫天皇・元年丁亥十一年 軽皇子に譲位す・尊号を太上天皇と曰」とあり、「春過ぎて」の有名な歌に始まる持統天皇代の歌が並ぶ。持統帝代の詩歌の題詞をあげてみよう。{☆は、人麻呂の作歌 △は、慶雲三年(706)持統天皇崩御後の歌となる}

28番歌 天皇御製歌、

☆29番歌 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(長歌)と反歌二首(30,31番歌)

 32・33番歌 高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或る本には高市連黒人といふ

 34番歌 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或は、山上臣憶良作るといふ

 35番歌 勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌   ◎阿閇皇女は元明天皇

☆36・37番歌 吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(長歌)と反歌 

◎持統三,四,五年のいずれかの従駕

☆38・39番歌(吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)長歌と反歌 

☆40・41・42番歌 伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・三首

43番歌 当麻真人が妻の作る歌

44番歌 石上大臣従駕にして作る歌

☆45・46・47・48・49番歌 軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・長歌と短歌四首

50番歌 藤原の宮の役民の作る歌

51番歌 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌

52・53番歌 藤原の宮の御井の歌(長歌)と短歌

54・55・56番歌 大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌・三首

57・58番歌  二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌・二首(長忌寸意吉麻呂、高市連黒人)

59番歌  誉謝女王が作る歌

60番歌  長皇子の御歌

61番歌  舎人娘子、従駕にして作る歌

62番歌  三野連、入唐する時に、春日蔵首老が作る歌 ・大宝二年六月

63番歌  山上臣憶良、大唐に在る時に、 本郷を憶いて作る歌 ・大宝二年

64・65番歌 *慶雲三年丙午に、難波宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌 長皇子の御歌 △  

66・67・68・69番歌 太上天皇、難波宮に幸す時の歌 ・四首(置始東人 高安大島、身人部王、清江娘子)・

70番歌  太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌    ・大寶元年か?

71・72番歌  大行天皇、難波の宮に幸す時の歌・二首(忍坂部乙麻呂、式部卿藤原宇合)・文武三年

73番歌  長皇子の御歌

74・75番歌  大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌 ・二首(或は天皇御製歌、長屋王)・大寶二年か?

  

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即位の年、持統天皇は紀伊国の有間皇子の所縁の地を訪ね、歌を詠ませた・人麻呂も紀伊国行幸に従駕していた?

 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしている。

持統四年(690)1月即位、2月吉野行幸、5月吉野行幸、6月泊瀬行幸、7月高市皇子太政大臣、多治比島真人を右大臣、八省百寮を選任。8月吉野行幸。9月戸籍を作らせ、紀伊国行幸。10月吉野行幸。11月元嘉暦と儀鳳暦を施行。12月吉野行幸。

 吉野行幸も不思議なのだが、持統四年(690)の紀伊国行幸も不思議である。持統帝の即位は四年一月、前年の四月に日並(ひなみしの)皇子(草壁皇子)を亡くした後、残された阿閇皇女を連れての行幸だった。

孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。が、その即位後の吉野行幸、紀伊國行幸とは、持統帝は即位後に何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。
(阿閇皇女にも有間皇子事件を知らせ、皇子の霊魂を共に鎮魂をするためだったのか)
では、朱鳥四年の紀伊国行幸を読んでみよう。
(紀伊国行幸の歌は、明日取り上げます)

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持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしているので、ほとんど都にはいなかったことになろうか。これでは天皇としての仕事も滞ると思われ、「持統帝は即位していなかった説」も生まれようというものである。すべてが高市皇子にゆだねられ、太政大臣高市皇子が政権の中枢に座りほぼ天皇と同じ立場となっていたことになるのだろうか。そうなると、軽皇子(文武天皇)が成長した暁には高市皇子の存在がネックになるではないか。高市皇子はその権力の象徴として、耳成山を北にして藤原宮を造営している。絶大な財力も彼の手にあったのである。それが為に軽皇子の元服の半年前に薨去となったのだろうか。しかも、万葉集の高市皇子の扱いは微妙である。其の力を認めながらもどこかでおとしめているように思われるが、これは気のせいだろうか。
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また、明日。


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by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の不思議・持統天皇は近江朝と有間皇子を偲び続けた

今日の辺りは、すでに何度か書いたことと70%ほど重なります。
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初期万葉集は、端的にいうと「持統天皇が編纂させた史書である」としてブログを進めています。長いので少しずつ紹介しています。今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の㉟からです。
持統4年の紀伊国行幸は、草壁皇子の薨去の翌年ですから、妻の阿閇皇女は夫の草壁皇子を当然偲ぶでしょうね。

草壁皇子の妃・阿閇皇女・前年に薨去した夫を偲ぶ歌

㊵ 
持統四年の紀伊国行幸で有間皇子事件を詠んだ川嶋皇子と草壁皇子を偲んだ阿閇皇女

朱鳥四年(690)四月、持統天皇は草壁皇子妃の阿閇皇女を連れて紀伊國に行幸した。阿閇皇女は天智天皇と石川夫人(姪娘)の娘であり、後の元明天皇である。皇女は前年4月に夫・草壁皇子と死別していた。残された三人の子どもたちはまだ幼かったので、軽皇子が七歳、氷高皇女が十歳で末っ子の吉備皇女は五歳くらいだが、都に残しての行幸だったのだろうか。

 勢能山を越える時、阿閇皇女の御作歌

35 此れやこの倭にしては我()が恋ふる 木路()にありとふ 名に負ふ勢の山

 
 阿閇皇女は、背ノ山を越える時、草壁皇子を偲んだ。背ノ山を越えると紀伊国である。船で紀ノ川を下れば、背ノ山と妹山の間を抜けるとやがて川幅が広がり紀伊國の風景が広がる。

「紀伊国への路に有るという背ノ山のことは倭でも聞いていました。川を挟んで妹山と向き合っている背ノ山をぜひとも見たいと日頃から思っていたのです。これがその名のとおりの背ノ山、そうなのですね。(背ノ山をやっと見たのだが、我が身は背の君を失っているので、背ノ山と聞くと草壁皇子を思い出して切ない。紀伊國の背ノ山が川を挟んで妹山と向き合ってはいるのは、まるで川を渡れない私と夫のようではないか)」夫を失って一年、まだ皇女の歌には喪失感が漂っている。女帝と皇女は草壁皇子を偲んで紀伊国でともに泣いたのであろう。持統天皇が異母妹で息子の妻の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸したのは、皇女を励ますためでもあったろう。そして、もう一つ目的があった。

持統帝は未だ悲しみの癒えない嫁に、この行幸で伝えたいことがあったのだ。同じ持統四年の紀伊国行幸の時の川嶋皇子の歌が、その事を示している。川嶋皇子の歌は巻一の34首目で、阿閇皇女の歌の一首手前にある。そこには何と有間皇子事件が詠まれている。

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㊶ 
 紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌 或は山上臣憶良の作という

34 白波の濱松が枝()手向け草 幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ

川嶋皇子の父は天智天皇、母は色夫古(しこぶこの)(いらつめ)姉は大江皇女である。大江皇女は天武天皇の妃となり、長皇子・弓削皇子を生んでいる。

「懐風藻」伝によると川嶋皇子は大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契を結んでいたが、天武天皇崩御の後の十月、大津謀反を朝廷に密告した。その事で大津皇子は死を賜っていた。この密告の年・朱鳥元年八月には、川嶋皇子は「封百戸」を与えられている。持統天皇の信任厚かったということだ。持統五年(691)にも「封百戸」を与えられているが、同年九月に薨去した。それは、上記の紀伊国行幸の翌年のことである。

皇子川嶋のこの歌は、明らかに有間皇子事件の悲劇性を詠み、御霊を慰めている。「白波が寄せる浜辺の松の枝を神に手向けるように結んで祈ったという有間皇子。あの事件からいったい何年たったことだろうか。皇子のことを思うと心が痛む。幾年過ぎても皇子を忘れることはない」という大意になる。然し…

川嶋皇子は三十年前の有間皇子事件を生まれていないので知らないはずである。が、「幾代までにか年の経ぬらむ」と有間皇子を偲んだ歌を詠み、「紀伊国に幸す時」だから公的な場で持統天皇に献じたのであろう。すると、はたまた違和感が漂う。川嶋皇子の御作歌が詠まれた持統四年(690)は、前年に皇太子である草壁皇子を失った後の行幸であるのに、草壁皇子ではなく有間皇子を偲ぶとはどういうことだろうか。

有間皇子事件を知らない川嶋皇子が、なぜ「結び松」を詠んだのか

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㊷ 川嶋皇子の歌は、天皇の行幸に従駕して献じたものであるなら、行幸先の土地を誉め旅の無事を祈る歌になるはずだが、持統四年の行幸では有間皇子の霊魂を鎮めているのだ。

この時の行幸に従駕して献じられた歌は巻二「挽歌」にも残されているが、やはり有間皇子を偲ぶ歌である。行幸の目的は、有間皇子の霊魂を鎮めるためだったことになる。題詞に『紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌。或は山上臣憶良作ると云う』とあり、歌の左下にも『日本紀には、朱鳥四年庚寅の秋九月に、天皇紀伊国に幸すという』という脚がある。『紀伊国行幸』が題詞と左脚の両方に書かれているのは、これが事実であることを強調しているのだろう。此処の朱鳥四年の紀伊国行幸に関しては、巻一には阿閇皇女の歌と二首だけしか見当たらないが、あとは巻二の「挽歌」に掲載されていて、この紀伊国行幸が有間皇子を偲ぶ旅だったのは揺るがないのである。

 また、川嶋皇子の一首(三四)とよく似た歌は、巻九の「山上の歌一首」である。

1716 白波の 浜松の木の 手むけ草 幾世までにか 年は経にけむ(巻九)

左下の脚に「或は川嶋皇子の御作歌という」とある。山上とは、山上臣憶良のことである。この年、憶良も持統天皇に従駕して紀伊国に旅をしているので、その時のものであろう。なぜ、二人の人物の名が必要だったのだろうか。元歌は山上の方だが、川嶋皇子の御作歌なら更に無実の有間皇子の悲劇性を強調する、と万葉集編者は考えたということか。川嶋皇子が有間皇子を思うという姿が必要だったということだろうか。

有間皇子の事件からは三〇年以上のかなりの時を経過しているが、大津皇子事件からはわずか四年である。その記憶は誰にも新しいはず、まして川嶋皇子には生々しい記憶のはずである。

万葉集の編集意図としては、有間皇子の無実を際立たせるために大津皇子謀反事件の密告者である川嶋皇子の歌が必要だと判断したから、巻一の「雑歌」34に川嶋皇子の歌が置かれたのだろう。それも、持統天皇の前で公的に詠んだというのである。

つまり、朱鳥四年の紀伊国行幸に従駕した川嶋皇子の歌には、『わたしは大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子の謀反は無実であると知ったので、このようにあの結松を見て、何年たったのだろうかと古に思いをはせたのだ』と持統天皇に献じ、更に、『親友を裏切ったあの皇子川島でさえも有間皇子を偲んでいる。有間皇子事件は誰にも痛ましく思われるのだ』と周囲にも伝えているのだ。

それにしても、万葉集で「持統天皇の紀伊国行幸時」の詠歌となると従駕者が「有間皇子を悼む歌」となるのは、皇子の魂鎮めだけでなく、持統天皇との並々ならぬ因縁もありそうである。

わたしは度々持統天皇と有間皇子の関係を取り上げている。如何なる縁があるのかを。

持統天皇は天智天皇の近江朝を偲び、その霊魂を鎮め続けた


㊸ 
漂う霊魂を鎮めたのは持統天皇

 阿閇皇女と川嶋皇子の歌は重いが、これだけが重たいのではない。川嶋皇子の歌の前には、高市古人の二首があり近江朝を偲ぶ歌となっていて、その前には「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」の長歌と反歌が置かれている。持統天皇の御製歌「春過ぎて」の後には、何と近江朝を偲ぶ歌が続くのである。そして、阿閇皇女の歌に至る。勢能山(背の山)の歌まで「失った人=すぎにし人」を偲ぶ歌が続くのである。

  高市古人(黒人)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌

32 古(いにしえ)の人にわれあるや 楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)見れば悲しき

33 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

34 白浪の 濱松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ

35 これやこの倭(やまと)にしては我が恋ふる 木路(きぢ)に有りとふ名に負ふ勢の山

高市古人は「私は昔の人なのであろうか、まるで昔の人のように昔のものを見ると様々に思い出されて悲しい気持ちになる」と近江朝を追慕した。

32~35までの歌は、古の人を思うという意味で並べられたものだろう。ここに云う古とは、「近江朝の天智天皇」と「紀伊国に護送された有間皇子」と「阿閇皇女の夫である草壁皇子」の時代で、持統天皇が繰り返し懐かしんだのはこの三人であり、近江国と紀伊国だったということ、それは万葉集の中で一貫している。持統天皇はひたすら近江朝を懐かしむのである。

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㊹ 
人麻呂は、公的な場で近江朝を偲んだ。そして、個人的にも近江朝を偲び続けた。本来なら、現王朝の臣下として前王朝を偲び続けるなんてありえない。然し、誰にも遠慮する必要がなかった。持統天皇が望んでいたのだから。


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㊺ 
巻三の人麻呂の歌の隣にある歌。264,265,266番歌を見よう。

真ん中に挟まれるのは、長忌寸意吉麻呂の歌になる。歌の中身も、場所も前後の人麻呂の歌とずれている。編集の仕方がイビツで、何らかの編集意図が働いていると思われる。人麻呂の歌は、何故か、万葉集中にバラバラになっているのである。

持統天皇の絶大な信頼を得ていた柿本朝臣人麻呂。だが、集中の人麻呂の歌はバラバラにされている。人麻呂の歌がバラバラにされた理由は、後世に再編集した為に他ならない。


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人麻呂は近江朝と難波朝の歌物語を万葉集に展開していたと、わたしは思うのです。それが分からないように、歌はバラバラにされていると思うのです。
明日は、初期万葉集のクライマックスです。そこに掲載された歌は、万葉集を考えるうえで大切なポイントなのです。
では。また明日。


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by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

柿本朝臣人麻呂が詠んだ「安騎野の冬猟」すぎにし人の形見とぞ

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:05 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

万葉集を編纂した柿本人麻呂は何故死んだのか

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柿本朝臣人麻呂こそが持統天皇の詔を受けて万葉集を編纂した。と、いう立場で、万葉集巻一に何が書かれていたのか、紹介してきました。「すぎにし人の形見とぞ」の最終回です。今日は50~57までです。

宜しくお願いします。


万葉集の編纂の意図を、万葉集そのものが語る

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。皇統の歴史として、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。


歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである

書かれているのは、草壁皇子の後継者は軽の皇子より他にはいない。軽皇子こそ統治者であり、日の皇子・大王である。その皇統は正統である。
 
編纂の勅を出した持統天皇、勅に従った柿本人麻呂
初期万葉集は、持統天皇・文武天皇の時代にまとめられたものである。巻一には長歌・短歌あわせて84首あるが、うちわけは、
雄略(1)舒明(5)皇極(1)斉明(8)天智(6)天武(6)持統(34)文武・持統太上(14) 元明(8)奈良宮(1)となっている。

巻一には、「挽歌」の部立はない。だから、どの天皇の御代の歌が多いのか、挽歌を含んだ巻二の数も必要であろうか。巻二の全150首のうちわけ、

仁徳天皇代(6)斉明(2)天智(21)天武(9)持統(105)奈良宮(7)

やはり、圧倒的に持統天皇代の歌が多い。

では、持統天皇代に活躍した歌人といえば、柿本朝臣人麻呂である。やはり、編集をした人物は人麻呂以外に考えられない。

持統天皇の崩御(702)後、人麻呂は初期万葉集の編集に励んだが、数年後に文武天皇の崩御(707)となった。人麻呂は「万葉集」を献上すべき帝までうしなったのである。


文武天皇崩御後、初期万葉集は行き場を失った

52 初期万葉集の終焉

文武天皇の崩御(707年6月)の後、元明天皇即位(707年7月)。この時、天武朝は皇位継承問題で揺らいだことだろう。そこで、元明天皇が極位に着くには、相当の政治的困難があったと思われる。天武帝の皇子は多く健在であり、高市皇子の王子達もいるからである。頼みの持統天皇も既になく、元明天皇を支えた御名部皇女(高市皇子の妃)の力は大きかったことだろう。

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78(元明天皇)79(御名部皇女)の歌

和銅元年(708)戊申(つちのえさる)に天皇としての儀式をするにあたって、元明天皇は不安に襲われたようだ(78番歌)。それを支えたのは姉の御名部皇女で、大王を支えた歌(79番歌)を詠んだのである。

この年、和銅元年4月、柿本朝臣佐留が没している。

柿本佐留が人麻呂であるのなら、和銅元年に人麻呂を罰したのは元明天皇であろう。

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元明天皇は奏上された万葉集を見て動揺したと思われる。

そこに書かれていたのは、草壁皇子につながる皇統の正当性であり皇統の歴史だった。天武帝の皇子達にはゆゆしき歌集であったはずである。この時、元明天皇を支えた御名部皇女は、高市皇子の妃であった。どんなに元明天皇は支えられたか。姉の御名部皇女は「ご心配なさいますな」と妹を励まし、諸臣を抑えたことだろう。
そして、人麻呂には厳罰が下され、人麻呂は受け止めたのである。

人麻呂刑死後、初期万葉集は彷徨った

53 
万葉集の巻一の終わり方は不自然である。元明天皇の御代の歌は、即位と「平城宮遷都」関係の歌である。

巻一の最終歌は「寧樂の宮」となっていて、歌は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮にしてともに宴する歌」の一首のみである。

 長皇子と志貴皇子の歌が並んでいたというが、志貴皇子の歌が欠けている。突然の終焉ではなく、ここにもこれ以外にも歌があったのかもしれない。巻一は最後まで第三の編集が行われているようだ。他の巻の歌の総数を見ると、

巻一(84首)、巻2(150首)、巻三(252首)、巻四(309首)、巻五(116首)、巻六(160首)、巻七(350首)、巻八(246首) 、巻九(148首)、巻十(539首)、巻十一(490首)などなど、数だけを見ると、巻一は少なすぎる。

このことから何らかの編集の手が入った結果と考えられる。それは、単なる歌の並べ替えではなく、大きな権力を持った人の意思と思考による改造であったと思う。歌を変えることはできないので並べ変えと、若干の題詞の改竄だと思われる。では、誰が手を入れたのか?


54
 
初期万葉集の編纂者は誰か、一次は人麻呂だが

二次、旅人・家持の手を経て、三次、806年平城天皇の元へ召し上げられ編集しなおされたと、考えている。

平城天皇は、万葉集の意義と歌の意味を深く知り、世に出す為に「編集して人麻呂の編纂の意味を隠した」となる。その時点では世に明らかにできないことが多く含まれていたからである。この再編集によって「人麻呂があえて編集し(事上げし)、文武天皇に歌で皇統の歴史の真実を知らしめようとしていた」肝心の皇統の正当性と歴史が読めなくなったのである。

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55 人麻呂が万葉集を編集した
その時期を元明天皇即位後と決めた理由は、文武天皇が「大行天皇」と書かれているからである。

サキノスメラミコト(大行天皇)、天皇位を下りた天子のことをそう呼ぶ。文武天皇崩御後、正式の諡が定まらない時期の奏上であったと思われる。しかし、元明天皇は拒否し、人麻呂を罰した。人麻呂はその事を受け入れた。


56
 
多くの事実が書き残され奏上された初期万葉集を、元明天皇は大伴安麻呂に託したのではないか。蘇我系の石川郎女を妻にしていた大伴安麻呂に。参議大伴安麿が薨去(和銅7年)した後、子の大伴旅人の手に渡った(旅人は父から万葉集の意図を聞き、晩年に歌に目覚める)。旅人の薨去(731)後、家持が受け取る(家持も、大伴坂上郎女と父の手ほどきで歌の道を知り、まい進する)。

家持は自家歌集を編纂し、初期万葉集のように年代順に歌を並べ、同じように歴史書として鎮魂歌集としての体裁とする。政変の為(藤原種継暗殺事件)、家持は冠位を剥奪され、死後に息子と共に島流しになる(万葉集は大伴氏の手により守られる)。

806年、平城天皇が家持の官位を復し、噂の『万葉集』を召し上げる。侍臣に命じて「万葉集」の編纂をするが、この時、家持編集の「後期万葉集」にはほとんど興味をしめさなかったので、そのまま年代順に編集されている。平城天皇の譲位により、万葉集は宙に浮いたが、長くその存在は語り継がれ、多くの文人・学者の耳目を集め、細々と書写され続けた。そうして、「古今伝授」により多くの噂と混然一体となって、「謎の歌集・万葉集」は平安時代を生き延びた。

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巻一の話のまとめ

万葉集巻一は、皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に教え諭すために編纂編集された教育書である。編纂を命じたのは持統天皇であり、作り上げたのは人麻呂である。ここで、人麻呂個人だったかどうか問題であるが、彼のみが刑死していると思われるので、その罪を一身に受けたと考えている。

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終わりに

57 人麻呂の詠んだ「阿騎野の冬猟歌」が初期万葉集のクライマックスである。そして、巻一の最終歌には何が置かれていたのだろうか。

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現在残されている「万葉集」で巻一の最後を飾るにふさわしい歌は、78番歌ではないだろうか。

この歌をここに置いたのは、大伴家持か平城天皇か、それは分からないが。


「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春二月藤原宮より寧樂宮に遷る時、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望みて作らす歌」

一書に云う 太上天皇御製(編集した時点で元明天皇は既に譲位していたことになる)と

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば 君があたりは見えずかもあらむ

    一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ    

 長屋の原は、中津道の平城京と藤原京の中間点である。そこで、御輿を停めて明日香に別れの儀式をする。でき過ぎの演出であった。

この時、左大臣石川麻呂は藤原宮に残されていた。元明天皇に従ったのは、藤原不比等右大臣である。「此処で元明天皇に泣いてもらって、藤原宮への未練を断とう」という……その演出をしたのは、藤原不比等を置いて他にはない。


 元明天皇は夫草壁皇子と吾子文武天皇の墓のある明日香を捨て平城宮へ遷都(710)した。藤原宮と平城宮の中間点の長屋の原で、元明天皇は十分に涙を流されたはずである。大きな時代の流れを元明天皇は感じられたことだろう。
 こうして、明日香は「霊魂の漂う京」となった。

時代はこのように変わっていったのである。


a0237545_21072556.png
と云うことで、「すぎにし人の形見ぞと」を終わります。
万葉集巻一について、何が書かれているか、十分ではありませんが紹介したつもりです。

後程、詠みやすいように「人麻呂は何故死んだのか」の掲載順を入れ替えます。

また、明日。
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by tizudesiru | 2018-05-20 21:16 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback


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202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
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295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
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297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか

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