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690年の紀伊国行幸で持統天皇は有間皇子の霊魂に対面した

元号が令和に代わって早くも11日が経ちました。今日に続く元号が初めて建てられた(建元という)のは、文武天皇五年・701年3月です。大宝」から慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀・天平…と元号は改められて(改元という)きました。建元と改元は違うのです。

文武天皇は十五歳で即位していましたから、文武天皇五年=大宝元年(701年)には二十歳になっています。この年に、藤原宮子との間に首(おびと)皇子も生まれました。
大宝元年、都ではお祝いの連続だったでしょうね。更に、

大宝元年は、3月に大宝令が施行された記念すべき年でした。
律」が加わり「大宝律令」が成るのは、8月のことです。

大宝元年とは、大きな節目の年だったのです。
太上天皇に支えられて政治を行ってきた文武天皇も青年期を迎え、「大宝」と建元し、律令による政治を始動させました。太上天皇(持統天皇)としてはどんなにか喜ばしい年だったでしょう。
しかし、ほっとしている暇はありません。祖母として太上天皇として、孫の帝に伝えなければならないことがまだまだありました。そこで
大宝元年9月から10月にかけて、紀伊國行幸が敢行されました。
紀伊国行幸は持統太上天皇の望みで「敢行=あえて行われた」と思います。

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それにしても、紀伊国とは。そこは持統天皇にとって如何なる意味のある場所なのか。

紀伊国の白浜海岸は古代でも有名な観光地で、そこに牟婁温泉がありますが、有間皇子が牟婁温泉に護送された事件は紀伊国で起こりました。
天智天皇が孝徳天皇の長子である有間皇子を陥れ、命を奪った土地でありましたから、その卑怯な手口は長く難波宮の官人の口に上ったことでしょう。
そのため、天智天皇は間人皇后(孝徳天皇の皇后)に渡っていた「皇位継承の玉璽」を奪えず、難波宮にも近づけず、斉明帝が崩御しても長く即位できませんでした。

間人皇后が薨去して初めて天智帝が即位できた」という事実を、難波宮の官人も持統天皇も藤原氏も忘れてはいません。ですから、有間皇子事件は多くの官人にとっても触れたくない事件だったでしょう。
しかし、持統天皇は紀伊国行幸を敢行します。それはなぜか。
実は、大宝元年の紀伊国行幸の意味を解くカギは、690年の紀伊国行幸にあるのです。
701年、文武天皇と持統太上天皇はなぜ紀伊国に御幸したのかを解くカギです。

万葉集には「紀伊国行幸」は、690年と701年の二回敢行され、歌が残されています。
690年は、持統天皇にとって正念場、大変な年でした。
持統三年(689年)三月、草壁皇子が薨去
しました。
持統天皇の一人息子が亡くなったのです。
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡(おくりな)されたとおり、草壁皇子こそ極位に上ってほしいと持統天皇が望んだ人でした。
その皇子が薨去したのですから、持統四年一月に持統帝即位となり、七月に高市皇子を太政大臣、多治比嶋を右大臣に任命しました。
その後、9月に紀伊国行幸の敢行なのです。何を思っての旅だったのでしょうか。
そこで詠まれたのは、なんと有間皇子をしのぶ歌でした。
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川嶋皇子・長忌寸意吉麻呂が歌を献上しています。
持統四年(690年)、持統天皇は紀伊国に行幸し、有間皇子の所縁の地を訪ねているのです。そこで、従駕の者に歌を詠ませたのでした。
その中に川嶋皇子の歌があります。
「紀伊国に幸す時の御作歌」ですから公の場での詠歌です。
公の場で、有間皇子ゆかりの結松を詠みました。川嶋皇子は有間皇子事件の時はまだ生まれていません。彼は事件を知らないのです。
しかし、敢えて歌を詠んだのには、それなりの理由と意味があるはずです。


持統四年(690)の持統天皇には、強い決意がありました。
如何なることがあっても孫の軽皇子(草壁皇子の長子)を大王に育てなければならない。
今を乗り切るために、行政のトップは高市皇子に任せる以外ない。
そんな時に、有間皇子をしのぶ歌を詠んだのです。有間皇子の霊魂を鎮めて、何を願ったのでしょうか。
この行幸が、次の701年の紀伊国行幸の下地となるのです。


今度の火曜日、下記のようなことをお話ししたいと思います。
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有間皇子はなぜ殺されたのか。
有間皇子の自傷歌はなぜ『挽歌』に編集されたのか。

5月14日(火)の「筑紫古代文化研究会」(福岡市天神・光ビル)では、有間皇子の話と「690年の紀伊行幸」の話をする予定です。(「701年の紀伊国行幸」は、次にまわします。5月の4週(火)の予定です。)

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写真は和歌山県の11月の白崎。
その名の通り石灰岩の岬です。ここで詠まれた万葉集・巻九の歌。

1668 白崎者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧 (原文)
1668 白崎は幸く在り待て 大船に真梶しじぬき 又かへりみむ (読み)
この歌が詠まれたのは、「大宝二年辛丑冬十月」でした。
この歌については、四週の「紀伊国行幸十三首」で話したいと思います。

上の写真は、白崎で11月に取ったものです。旧暦の冬十月は、今日では11月終わりから12月初めのころです。
1300年昔の白崎も、この写真のように海も空も青く晴れ挙げったいたのでしょうか。


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では、又、お会いしましょう。


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by tizudesiru | 2019-05-12 11:24 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ

有間皇子と本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ
「自傷歌」というキーワードがありますが、共通するものは何でしょう。
有間皇子・自傷歌と共通するのは、「刑死」ではありませんか。

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万葉集によれば「本朝臣人麻呂は石見国で死に臨んだ」という
死因は何か? 行き倒れか? 刑死か? 自然死か?
死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。
「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌を読んでみましょう。

万葉集・巻二の223番歌
  本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に望む時、自ら傷みて作る歌一首
223 鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

  本朝臣人麻呂が死にし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首
224 今日今日と吾が待つ君は石水(いしかわ)のかいに交じりて有りと云わずやも 
225 直(ただ)の相は相かつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

 丹比真人、本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報ふる歌一首
226 荒浪により来る玉を枕に置き吾ここに有りと誰か告げなむ

  或本の歌に曰く
227 天離る鄙(ひな)の荒野に君を置きて想いつつあれば生けるとも無し


 上の歌から分かることは、
人麻呂は石見国で死んだ。
その妻の依羅娘子は、夫の死に目には会えず死の知らせを聞いた。直に会えないから魂が雲となって石川に立ち上ってくれれば、それを見て偲びたいと詠んだ。(
不思議なことに、依羅娘子は石見の国に住んでいたはずである。人麻呂の131〜139番歌は、石見国の依羅娘子と別れる時の歌である。二人は同じ石見国に在りながら逢うことができず、死後でさえ亡骸にも面会できなかった…その死を知っているにかかわらず、面会できていない。これも、人麻呂の死は尋常ではなく、刑死と考える所以である
。)
人麻呂終焉の地は 石見国の海か、はたまた荒野のどちらかだろう。
 224〜7の一連の歌、人麻呂の死に対する三人の挽歌が万葉集に残されたのには、必ず意味がある。(死に臨んで自傷歌を詠んだ人麻呂に対して、少なくとも三者が時期を遅れて場所は違うが挽歌を詠んだ。このような例は、「有間皇子の挽歌」以外にあっただろうか。わたしは、記憶していない。)

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妻の依羅娘子(よさみのをとめ)と丹比真人(名は不明)と或本の歌の三人は、人麻呂の地位と身分と状況を十分に知って歌を詠んだ。*丹比真人の「真人」は、八色の姓の第一位であるから、この人は高貴な家柄で身分の高い人となる。
依羅娘子は、人麻呂が「石見国より妻と別れて上り来る時の歌二首、併せて短歌」(131〜9)の歌群の後にある140番歌の女性である。
本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂に与うる相別るる歌一首」
な念(おも)ひと君は言えども相はむ時何時と知りてか吾が恋ずあらむ
依羅娘子は相聞歌が詠める身分の高い女性であろう。

以上のことは読み取れます。




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死に臨んだ人麻呂。彼の死は「刑死」だった
もちろん、「人麻呂が自然死した」のなら、万葉集の理解が違ってきます。
万葉集を読む中で理解したのは「その編纂の時期と目的」でした。
「持統天皇が文武天皇の皇統を守る為に、その正当性と歴史」を叙事詩にした」と万葉集を理解しましたが、持統天皇と文武天皇の死後、即位した元明天皇にとってそれは毒薬となりました。

草壁皇子の出自が公表されれば、天武系の皇子達に謀反の糸口を与えかねなかったのです。そんな内容の歌集を編纂編集した人物だから、人麻呂は断罪されたのでした。そう読めるように編纂されていた重い歌集だったのですから。

この事は、前回までの「本朝臣人麻呂は何故死んだのか」で説明しています。

天武系の皇統を全て滅ぼした平安時代の天皇家にも万葉集は不都合だった。

 天智帝の皇統に戻った平安時代に「今更、蒸し返してほしくない事実が書かれていた」、それは、草壁・文武・聖武の皇統はもともと天智帝の皇統だったと云うことです。草壁皇子・文武天皇・聖武天皇の皇統こそ正統だったと、万葉集は主張していました。この事を理解した 平城天皇は、「平城京こそわが王統が引く継ぐべき京だ」と主張したのでした。
 父の桓武天皇が「極位が天智天皇の皇統に戻ったことは易姓革命だ」としたことは、平城天皇も承知していました。然し、実はそうではなかったと気がついたからこそ、奈良の都(平城宮)に戻ることを望まれたと思います。
平城天皇は万葉集を理解していたのです。然し、公表には躊躇された、今さら公にできない事実だったのです。
皇位継承に関して多くの旧臣を断罪し、多くの皇族の命を奪った後では、はなはだ不都合だったので、内容を分かりにくくするための編集の手を入れて世に出した、という次第です。

 天智天皇に引き上げられた藤原氏にとって、天武帝の皇統に極位を渡すことなどありえなかった、高市皇子や長皇子や新田部皇子に譲ることなど絶対にするはずがなかったのです。



by tizudesiru | 2018-05-23 17:19 | 346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ | Trackback(15)

193人麻呂編集の万葉集

193人麻呂編集の万葉集

初期万葉集は有間(ありま)皇子事件を意識していると、既に書きました。

それは、巻一と巻二の冒頭を見ればわかってきます。


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1 雄略帝(
大泊瀬稚(おおはつせわか)(たけ)天皇)の歌

2 舒明帝((おき)長足(ながたらし)()(ひろ)(ぬか)天皇)の歌 *間人(はしひと)皇后の父

3 中皇(なかつすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)に献じさせた歌 *中皇命は間人皇后

4 反歌

(5 軍王の歌・6 反歌)この歌については別の機会に触れます

前記のように並んだ後に、一気に「有間皇子謀反事件」関係の歌に突入するという並びだったと思います。

つまり、1、2、3、4、(5、6)7、9、1011128、と並んでいたと思うのです。あくまで、そう思うだけです。時間軸で考えれば。ただ、熟田津が四国の港ではなく、難波のにぎやかしい港であったなら、この順番は変わるでしょう。

というのは、8番歌の左脚に類聚歌(るいじゅうか)(りん)からの長々とした説明が引用してあるからです。

内容は「舒明天皇がその元年(639)に大后と共に伊予の湯に行幸された。その後、斉明天皇七年(661)に熟田津の(いは)()の仮宮に泊まり、昔日の想い出のものを見て、(かん)(あい)(こころ)を起こされた。この故によりて天皇が御歌をつくり哀傷(かな)しまれた。

その哀傷の歌が「熟田津に船乗りせむと」という堂々とした歌だというのです。本当に、この歌なのでしょうか。

色々考えるべき点はあるのですが……



巻二は、仁徳天皇の皇后・磐之姫で始まりますが、その歌が仁徳天皇(難波高津宮御宇天皇)代ではなく孝徳天皇(難波長柄豊崎宮御宇天皇)代であったなら…と、両天皇が入れ替えられていたのなら、間人皇后が磐之姫皇后に、すり換えられていたら…やはり、有間皇子事件に行き着きます。

わたしは、後の世の人が、「難波天皇には違いないが、長柄を高津に入れ替えた。間人皇后とは書かず中皇命と書いた」と思うのです。

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更に巻二の挽歌の冒頭の扱いです。

もともと万葉集には、事件と人が分かるように歌が掲載されていたと思います。しかし、高貴な人の手により、主役が消された。

そこに、大きなスキャンダルが隠れていると、私は考えたのです。

中皇命の実名が一度も出てこないのは、高貴な女性だったからです。

天皇・皇太子・皇太后・帥・大臣・〇夫人などの表現も人名を裂けています。が、当時の人には人物が特定できたのでした。万葉集が分かりにくいのは、「いつ誰が何の(誰の)ために編纂したのか」見えにくいからです。これは、万葉集を読む時、常に大きな問題でした。

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持統天皇が人麻呂に詔して鎮魂の歌集を編纂させた」ようだと、ここまでは述べてきました。

誰のための歌集なのかも述べたつもりですが、まだしっかり伝え切れていないようですね。

万葉集の「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌を読むと、持統天皇の物語が万葉集の中に展開します。

しかし、万葉集には他にもあまたの物語が組み込まれ埋め込まれ、隠されています。古代史の政変も王朝の光芒もスキャンダルも、勝者ばかりでなく敗者の物語も。


むしろ、敗者のための歌集であったのかも知れません、万葉集は。

しかも、万葉集を受け継いだ大伴家持は万葉集を男性の物語歌集に変えたのです。

そして、時代に翻弄された惜しむべき人々の運命と宿命を言霊として万葉集に託したのでした。





by tizudesiru | 2017-01-07 13:54 | 193人麻呂編集の万葉集 | Trackback

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

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by tizudesiru | 2017-01-06 23:55 | 193人麻呂編集の万葉集

191 消された物語・有間と間人

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by tizudesiru | 2017-01-05 22:04 | 191有間皇子と間人皇后の物語

191間人皇后の難波宮脱出

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by tizudesiru | 2017-01-05 10:35 | 190間人皇后の難波宮脱出

154有間皇子は無実だった

有間皇子は無実だった

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大宝元年は西暦七〇一年、持統帝は大宝二年十二月の崩御であるから、最後の一年に力を振り絞って紀伊国の旅に出たということです。そこで献じられた十三首に何が読み込まれていましたか。

 まず、紀伊国海岸の白玉が詠まれ、黒牛潟、白崎、由良の埼、南部の浦、出立と有間皇子の護送の道を辿り、皇子の終焉の地・藤白坂に到達しました。そこで、有間皇子の無実と無念とが語られ、持統太上天皇と文武天皇は都へと還幸されました。行幸の行程は有間皇子の死出の旅路を辿るという、鎮魂の思いが凝縮された十三首なのです。

持統天皇の有間皇子への深い思いを陳べた万葉集・巻九の「紀伊國行幸の十三首」、その十三首の内、十一首まで紹介しました。


次は、十二首目です。

万葉集・巻九の冒頭歌の仕掛け

十二首目の歌に入る前に、巻九の冒頭歌の話をしなければなりません。

そこには、寓意が込められているのです。


巻九の冒頭歌は、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の御製歌です。


1664 ゆうされば小掠の山に臥す鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも


 左脚に、「或本に岡本天皇の御製というが分からないので再度のせた」


 これは、舒明天皇(岡本天皇)御製歌として、巻八に「ゆうされば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」という歌と重複していることの説明です。どちらも天皇御製歌とされています。


さて、「今宵は鳴かず」の鹿はどうなったのか、ですが、万葉集では殺されたことを暗示しているのです。

当時の人なら誰もが思い出した鹿の物語は、日本書紀の仁徳紀の「菟餓野の鹿」と続日本紀の「摂津国風土記」逸文の「夢野の鹿」の物語でしょう。これらの物語が何時成立したのか定かではありませんが、少なくとも7世紀末か8世紀初めには物語があったのです。そして、どちらも狩人に殺された話です。


巻九の冒頭の二首目・三首目は、岡本宮御宇天皇の紀伊國行幸の時の歌です。


1665 妹がため吾玉拾う沖辺なる玉寄せもちこ沖津白波


1666 朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山路越ゆらむ


と、このように三首が並んだ後に、「大宝元年の紀伊國行幸の十三首」が置かれているのです。巻九は、

雄略天皇・舒明天皇・天皇に従駕した者の歌(十三首の冒頭は白玉の歌)

どこかで見た並びです。

そう、万葉集・巻一が、

雄略天皇御製歌・舒明天皇御製歌・天皇に従駕した者の歌

雄略・舒明の御製歌に続くのは、「中皇命が間人連老に献じさせた歌」なのです。この並び……巻一と同じだ、冒頭歌には意味があると、ふっと思います。


巻九を読んでいた人は、この並びは偶然ではないと気が付くのです。

巻九の白玉と、巻一の中皇命の歌が共鳴します。


ここで中皇命が登場することで、斉明天皇の紀伊國行幸の時の「君が代もわが代も」の歌、「わが瀬子は仮廬作らす」の歌、「吾ほりし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾りはぬ」の歌がすっと顕れて、この玉の歌が、巻九の白玉につながってしてしまう。そういう仕掛けになっているのです。

巻九は、巻一と同じように大事なのだと。
九は「ここのへ」宮廷の話を象徴しているのかも知れません。

中皇命の必死の嘆願にもかかわらず、有間皇子は絞殺されました。本当に謀反であったなら、絞殺ではなく最高刑の斬刑でしょう。しかし、斬刑ではなかった。そこに、皇子は無罪だった匂いがします。

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紀伊國行幸の時の十三首に戻ります


1678 
紀伊国の昔弓雄の鳴り矢持ち鹿猪取り靡べし坂の上にぞある


その昔、紀伊國のあの剛の者弓雄が、鳴り矢をうならせて鹿猪を退治し一帯を平定した、その坂の上であるぞ、此処は。


上記のように、これまでも岩波や集英社に紹介されている現代語訳を紹介してきました。しかし、ここで現代語訳を紹介すると、意味が取りにくくなるので、原文を紹介します。

1678木國尓  昔弓雄之  響矢用  鹿取靡  坂上尓曽安留

きのくにに むかしさつおの なりやもち しかとりなべし さかのうえにぞある


むかしむかし、紀伊國にいた猟師が鳴り矢で鹿を取り抑え、辺りを平らげたという、まるで鹿のように皇子はここで取り押さえられ命を奪われた。そうして、皇子の勢力を平らげ政変は成し遂げられた。ここは、その政変により皇子が最期を遂げられた坂の上であるぞ。(一同そろって、心から皇子のご冥福を祈ろう)

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十二首目のこの歌は、有間皇子事件を象徴する歌です。

その悲しみも、皇子の無念も、事件の残酷さも、持統帝の内に秘めた思いも、すべてを象徴した歌なのです。

万葉集には、罠にかかって命を奪われた皇子の歌が、寓意を以って編集されています、他にも。

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次は十三首目、紀伊國行幸の最後の歌です。
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また後で


by tizudesiru | 2016-11-11 12:44 | 154 有間皇子は無実だった | Trackback

153有間皇子の終焉の地を訪ねた持統太上天皇

有間皇子の終焉の地を訪ねた

持統太上天皇

大宝元年辛丑冬十月・大行天皇を伴っての紀伊國行幸のクライマックス

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1675 藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも

 藤白の御坂は有間皇子の終焉の地であれば、その坂を越える時に皇子の姿を思い出し、四十年経っていても私の衣手は流れる涙に濡れてしまう。私には忘れることのできない出来事なのである。私がこの坂を訪れるのも、これが最後かも知れない


牟婁の温泉まで連れていかれて尋問を受けた有間皇子は、藤白坂で追っ手により絞殺されてしまいました。伴の者や同行した家族が泣き叫び、無実を訴える中から皇子は引き離され、斎橿の下へ連れていかれたのでしょう。

その理不尽、不条理、家族の嘆きを一身に受けて皇子は橿の樹の本に立たれたのでしょう。その姿は凛としていた……その最後の姿を伝え聴いた額田王が「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 我が背子がい立たせりけむ厳橿が本」と読んだのだと、すでに紹介しました。


藤白坂で、最後に皇子の瞳に焼き付いた人物は誰だったのか。それはわかりませんが、皇子の最後の言葉を親族は聞き、心の裡に深く残したことでしょう。この藤白坂で四十年後も涙を流す人こそ、有間皇子に所縁の人ではないでしょうか。

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藤白の御坂を越ゆと白栲にわが衣手は濡れにけるかも……の歌碑
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藤白坂で鎮魂の儀式をすませた行幸の人々は、都を目指して進み始めます。

暖かい紀伊国に秋が深まり、平地も紅葉し始めていました。


1676 背の山に黄葉常敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ


 紀ノ川の北岸にある背の山の黄葉は今散っている。これから帰る都の神岳(かむおか)の黄葉は今日あたりに散ってしまうであろうか。思えば、皇子がお亡くなりになったのは、黄葉が散り敷くちょうど今頃であった。背の山の黄葉を皇子はご覧になれなかったであろう。


1677 大和には聞こえも行くか大我野の竹葉刈り敷き廬せりとは


 明日辺りは都も見えて来よう。行幸の一行が大我野まで帰ったことは都にも伝わったことだろう。大我野には家もあろうに、わざわざ竹の葉を刈りとって旅の宿りとしたこと。有間皇子が草を刈って仮廬となさった最後の夜を偲んで、竹葉の廬で一夜を過ごしたことを知ったら都の人には分かるだろう。この旅は、文武天皇にとっても大事だったということが。


いよいよ紀伊国行幸も終盤、最後まで皇子を偲んだというのです。

ここまで、紀伊国行幸の十三首の内、十一首まで紹介してきました。

持統太上天皇は紀伊國を訪ね、有間皇子を偲びながらその霊魂を鎮魂し、藤白坂に至って号泣されたのでしょう。「我が衣手は濡れにけるかも」と書かれています。持統帝に成り代わって従駕の者が詠んだのでしょう。では、誰が?


長忌寸意吉麻呂は詔に応えて「風なしの浜の白波いたずらにここに寄せ来る見る人なしに」と詠みました。

巻二では、柿本人麻呂が「大宝元年辛丑紀伊国に幸す時」に

「後見むと君が結べる岩代の子松がうれを又も見むかも」

後に見ようとあの方が結ばれた岩代の子松の枝、その松のうれを私は今日見た…だが、この後、私は結松を再び見ることができるのだろうか。(私も年を重ねた…この後、再び松を見ることはできないかもしれない。)

と詠みました。

紀伊国に人麻呂も従駕していたのです。「我が衣手」の歌は、人麻呂が太上天皇に寄り添って読んだのかも知れません。人麻呂は女帝の心緒を述べた歌を万葉集に残しています。

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次が、皇子の無実を陳べる紀伊国行幸の総括の歌です。

 

また後で


by tizudesiru | 2016-11-10 11:06 | 153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇 | Trackback

152有間皇子の霊魂に別れの儀式

有間皇子の霊魂への別れの儀式


大宝元年辛丑冬十月の紀伊國行幸の真実

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大宝(大寶)元年は「大宝律令」が完成した年で、律令の施行は大宝二年になります。

「大宝」と年号を建てた記念すべき年の行幸です。

それも、時の最高権力者が二人も揃っての行幸。

持統帝の崩御は大宝二年ですから、女帝は思いでの地への最後の旅と意識して、有間皇子の霊魂に別れの儀式をするために行幸したのです。


「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇・大行天皇、紀伊国に幸す時の歌十三首
 


実は、この十三首の前に、巻九の冒頭には三首置かれています。この巻九の編集にはおおいなる編者の意図があるのですが、その話は別の機会にまわします。

太上天皇(持統帝)と大行天皇(文武帝)の冬の行幸は、単なる物見遊山ではないのです。

では、十三首を率直に読み、そこに込められた意味を考えてみましょう。

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1667 妹が為 我が玉求む 沖辺なる白玉よせ来 沖つ白波


 大事な人のために私は白玉を求める。わたしは白玉にどうしても託したい願いがある。遠くの沖にある白玉をここに寄せて来てくれ、沖の白波よ。


沖には白波が立っていて波が荒いのです。その強い波の力で白玉を寄せて来てくれと願う歌から、十三首が始まります。

ここには、左脚があって「右の一首は先に載せているが、ただ、歌意が少し違い、年代も違っているので、重ねて載せた」と書かれています。

つまり、巻九の冒頭の三首の中に、「妹が為 吾玉拾ふ 沖辺なる 玉寄せ持ち来 沖つ白波」があって、すぐ後に同じような歌が掲載されているので、理由を説明したのです。

それにしても、紀伊國行幸の冒頭歌が「白玉」の歌なのです。


紀伊國の白玉と言えば、誰もが「我が欲りし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾はぬ」中皇命の歌を思い出すから、紀伊國行幸の冒頭にこの歌が置かれたのです。


四十年前、中皇命は有間皇子を追って紀伊國まで来ました。

冒頭歌は、四十年前のあの哀しい別れ、有間皇子事件にタイムスリップする歌なのです。

有間皇子事件には中皇命は欠かせない。

ただの悲しいドラマではないのです。

持統帝は孫の文武帝にどうしても紀伊國行幸で伝えたいことがあったのです。


「帰り見む・帰り来む」は、生きて還り、大切な人に再び会うこと

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1668 白崎は幸く在り待て大船に真梶しじ貫き又帰り見む


 紀伊國の美しい白崎の岬よ、そこでそのまま待っていてくれ。大船はたくさんの梶を取り付けているから、きっと無事に帰って来る。そうしたら、白崎よ、再びお前を見たい。

「帰り見む」とは、強い意志を表した言葉です

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白崎と白崎海岸の万葉歌碑

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由良の埼

1669 みなへの浦 潮な満ちそね鹿島在る 釣する海人を見て帰り来む


 みなへの浦の潮よ、そんなに満ちて来ないでくれ。鹿島で釣する海人を見て帰って来たいから。


1670 朝開き漕ぎ出て我は由良の埼釣する海人を見て帰り来む


 
朝早く漕ぎ出して、由良の埼で釣をしている海人を見て、帰って来たいのだ。

真梶をたくさん取り付けて、大船で何処へ行くというのでしょう。
みなへの海で釣する海人を見るだけで、帰って来るのです。
朝早く、由良の埼の海人を見て帰って来るのです。
そう遠くはない所に行くのに、まるで帰って来れないかのような歌になっています。


紀伊國行幸で、従駕の者が歌を詠みました。有間皇子が見た風景を、「再び帰って来て逢いたい人がいる。どうしても帰って来るのだ」という強い意志を、行幸に従った者が詠みました。「帰り見む」と望んでも果たせなかった皇子の霊魂を、歌で鎮めたのでした。
持統太上天皇も文武天皇も、じっと耳を傾けたことでしょう。

5首~7首目・潮が引いた浜辺に寄せ来る波・あの日のことが波が寄せるように繰り返し思い出される

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1671 由良の埼潮干にけらし白神の磯の浦みをあへて漕ぐなり

 
由良の埼は潮が引いたようで船が進みにくいのに、それでも白神の磯の辺りを船が漕いで行くようだ。(なぜに、そんなにまでして舟は離れて行かなければならなかったのだ。皇子を船に乗せて)


1672 黒牛潟(方)潮干の浦を紅の玉裳裾引き行は誰が妻


 潮はますます引いて黒牛方が見えている。その広い浜辺を紅の美しい裙を引きずりながら歩いて行くのは、誰の妻だというのだ。(あの美しい高貴な夫人は皇子の所縁の人。連れていかれた皇子の姿を最後まで見送り、一人残されて放心したように歩いていたあの方の姿が今も目に焼き付いている。)


1673 風なしの浜の白波いたづらにここに寄せ来る見る人なしに


 風が止まったように静かな浜辺に、白波だけは繰り返し寄せて来る。この美しい浜辺を一緒に見たかったあの方はいないのに、波だけが空しく寄せて来る。


この歌には左脚がついています。「右の一首、山上臣憶良の類聚歌林には「長忌寸意吉麻呂が詔に応えてこの歌を作る」といふ」と。この歌は、持統天皇が望んで意吉麻呂に詠ませたと書かれているのです。「見る人なしに」の見る人とは、当然、有間皇子のことになりましょう。皇子は帰って来なかった、この浜辺を共に見るべき人はいないのに波は空しく寄せて来る、という歌意になります。

八首目・出立の松原を過ぎて行く人

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1674 我が背子が使ひ来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ

 この出立の松原は、あの日大事なあの方が使いを待っておられた松原なのだ。四十年たった今日、その松原を私は通り過ぎて行く。あの方を偲んで通り過ぎて行くだけなのだ。(この後、この松原に来てあの方を偲ぶことはないのだろう)

現在は、出立の松原の痕跡を辿ることはできません。しかし、熊野九十九王子社の一つとして、出立王子(田部王子)という社と名が残されています。
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出立で、四十年前の有間皇子との別れを十分に偲んだ後、白浜にも牟婁の湯にも行幸されたことでしょう。
持統太上天皇と文武天皇の旅は、いよいよ帰路になります。

それにしても
これほどまでに、有間皇子の悲劇の跡を訪ねる人、持統天皇とはどのような宿命を持った人なのでしょう。

如何なる宿命の人なのでしょう。
では次回へ。



by tizudesiru | 2016-11-08 11:19 | 152有間皇子の霊魂に別れの儀式 | Trackback

151・有間皇子を偲ぶ歌

有間皇子を偲ぶ歌

皇子を偲んだのは持統天皇
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結松の記念碑のある岩代からみなべの海と白浜方面を望みます。


持統帝は有間皇子を偲んだ

朱鳥四年(690)紀伊國行幸の一行は、岩代の海岸に至ります。そこで、川嶋皇子の御歌が詠まれました。他にもこの時詠まれた歌が、巻二の挽歌にあります。行幸に従駕した長忌寸意吉麻呂の歌です。


143 岩代の岸の松が枝結びけむ人は返りてまたも見むかも(長忌寸意吉麻呂)

 
 岩代の結松を見ると、松が枝を結んで再び帰って来ることを祈られた皇子が思い出される。皇子は帰りにこの結松を再びご覧になったのであろうか。


144 岩代の野中に立てる結松 心も解けずいにしえ思ほゆ
(同上)


 岩代の野中に立っている有間皇子が結ばれたという結松、この松のように私の心も結ばれたようになって、昔の出来事がしきりに思い出される。


意吉麻呂の歌に山上臣憶良が追和しています。追和ですから、別の機会の歌でしょうか。



145 天翔りあり通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るとも
(山上臣憶良)

「鳥翔成」は「天翔り」と読んでありますが、この読みには定説がありません。


鳥となった皇子の魂は、何度も何度も通って松をご覧になったことでしょう。その事を人は気が付かず知らないでしょうが、松は皇子が来られることを知っているのです。

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上記の三首の後に左脚があり「これは、柩を挽く時の歌(挽歌)ではないけれど、歌意が挽歌の類に入るのでここに掲載した」と書かれています。
三首に続いて柿本朝臣人麻呂の歌が載せられています。「大宝元年辛丑に紀伊國に幸す時、結松を見ての歌一首」と題があります。

146 後見むと君が結べる磐代の子松がうれを又も見むかも(人麻呂)

 無事に帰って来て再び見よう、後に見ようと、皇子が結ばれた子松の枝。その松が枝を私も後も見たいが、再び見ることができるのだろうか。*大宝元年(701)は、持統帝崩御の前年です。

人麻呂は、持統帝に成り代わってこの歌を読んだのでしょう。大宝元年に文武帝を連れての紀伊國行幸です。将に、「またも見むかも」の心情をくみ取っての歌と言えます。

名だたる歌人が詠んだ、結松の歌。これらは、紀伊国に旅をして気ままに詠んだ歌ではありません。従駕したお供の者が献上した歌の類です。

有間皇子を偲んだのは、もちろん持統帝です。なぜに、ここまで? 当然の疑問が生まれますね。

 

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by tizudesiru | 2016-11-07 15:51 | 151有間皇子を偲ぶ歌 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
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166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
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195聖武天皇と元正天皇の約束
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197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
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209石舞台・都塚・坂田寺
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211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
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218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
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223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
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232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
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237パルメットの謎
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257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
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263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
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289聖徳太子の実在は証明されたのか?
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