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令和元年後期万葉集も読む「聖武天皇の孤独」

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聖武天皇(701~756年)は、寂しい子供時代を過ごした孤独な人でした。
母親の藤原宮子は、首皇子(聖武天皇)出産後、ながくうつ状態にあったようです。そのため、首皇子は母に抱かれることもなく甘えることもできませんでした。親子の体面が36年間かなわなかったのですから。
父の文武天皇は、首皇子が7歳の時に崩御となっています。皇太子は、幼くして孤独の人となったのでした。
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聖武天皇と云えば、奈良の都と深い関わりがあったように社会科で学習します。確かにそうですが、実は首皇子は10歳になるまで明日香に暮らしたのです。はなやかな藤原宮の近くで、宮子の父である藤原不比等の館で育ったのかもしれません。乳母の県犬養道代がしっかり世話をしたのです。道代は不比等との間に安宿媛(あすかべひめ)を生んでいますから、首皇子と安宿媛は一緒に子ども時代を過ごしたことでしょう。
もちろん、二人の将来を見越して藤原不比等は首皇子と安宿媛(光明子)を育てたのです。不比等が道代に近づいたのは、道代が元明天皇(首皇子の祖母)に信頼されていたし、命婦(みょうぶ)として力があったからにほかなりません。道代は文武天皇の乳母(めのと)でしたから。そうして、その子の首皇子の乳母にもなったのです。天皇親子の乳母になるなんて、三千代はスゴスギです。
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元明天皇にすれば、息子ばかりではなく孫まで道代の世話になったのです。
和銅元年(708)、文武天皇没後に母の元明天皇はやむなく中継ぎとして皇位に着きました。(首皇子はまだ7歳で幼かったからです。)その大嘗祭の時、道代は「橘」の姓を与えられ、
「県犬養橘宿祢三千代(あがたのいぬかいのたちばなのすくね みちよ)」
となったのでした。道代も三千代と字を変えました。元明天皇は三千代に感謝を示しました。

そうして、首皇子は十四歳で皇太子となりました。しかし、
藤原不比等と県犬養三千代の努力にもかかわらず15歳になっていたのに首皇子は即位できませんでした。
祖母の元明天皇が譲位したのは首皇子ではなく、娘の氷高内親王(首皇子の伯母)でした。

「*略* この神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯(よはい)幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符(しょうふ=天の授けるよいしるし)に叶ひ、つとに徳音(よい評判)をあらはせり。天のゆるせる寛仁、沈静婉孌(ちんせいえんれん=もの静かで若く美しい)にして、*略* 今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が心にかなふべし」
不比等と三千代の皇太子養育を信頼していたはずですが、元明天皇は首皇子について「年歯幼く稚くして深宮を離れず」と詔の中でふれています。譲位できなかったのは、首皇子が幼かったからでした。
首皇子の父・文武天皇は15歳で皇位に着いています。祖母の持統太上天皇は傍にいて、ことごとく補佐をしていました。
ですから、今回も元明天皇の補佐があって首皇子の即位も可能だったかもしれません。しかし、元明天皇はそうしなかった。
それは、何故か。

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文武天皇は在位10年間(697~707)に様々な大仕事に取り組みました。優秀な官僚がいたとしても、十代の若い天皇には大変な重圧だったと思います。そして、持統天皇と藤原氏のための施策もこなさなければなりませんでした。
おまけに、夫人の藤原宮子はうつ状態で監禁されていました。若い文武天皇もやはり孤独でした。
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万葉集の文武天皇の御製歌を読んでみましょう。
 吉野宮に幸す時の歌
74 み吉野の山の嵐の寒けくに はたや今夜(こよひ)も我がひとりねむ
吉野に行幸の時でさえ、羽を伸ばすこともなく独り寝をしています。しかも「今夜も」ですから、いつものことなのです。
文武天皇は疲れ切ったのだと思います。それで、若くして崩御となった…
元明天皇はその事を分かっていて、孫のために「十五歳即位」を避けたのでしょうか。そう思いたいですね。
孫には息子のような苦労はさせたくない、体に無理をさせてはいけない、そう思ったのでしょうか。
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さて、首皇子(聖武天皇)は、二十四歳で即位します。
伯母の元正天皇は、草壁皇子の皇統をつないだのだと詔しました。天皇となった聖武天皇は悩み続けます。自分は何をするために極位に着いたのか。そんな聖武天皇がたどり着いたのが大仏建立でした。
8月13日のテーマは「聖武天皇の孤独」です。


8月13日はお盆に入っています。しかし、「筑紫古代史の会」は例年どおりお盆も講座をするそうです。
ですから、私もお話しさせていただくことにしました。
場所は、福岡市天神 正知ビル(光ビル、ではなく名称が変わっていました)です。
時間は13持30分~16時です。  宜しくお願いします。

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場所は今までと同じですが、ビルの名前が変わっていました。ごめんなさい。

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by tizudesiru | 2019-07-24 21:42 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

日田の総社・大原神社の1300年の歴史

大分県・日田市の大原神社に行きました
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何度か参拝した神社でしたが、宮司さんのお話を聞いたのは初めてでした。

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此の神社は、郷社や村社などのように氏子を持たない神社です。日田盆地の山際に鎮座するのに、所在地は日田市田島一丁目となっています。
祭神はホムタワケ命、大帯姫(オオタラシヒメ)命、比売大神
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『大原神社の起源は、天武天皇白鳳9年(680)、靫負郷岩松峰(日田市天ケ瀬町金場の北)に、宇佐の鷹の居にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍尾形の宮)を立てて祀ったのがはじめである。

慶雲元年(704)、杉原の杉下に髪が降りて神がかり、「岩松のの嶺の神」を名のって、杉原が便宜よいので此処に来たと告げたとして、社を立てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観13年(871)もしくは仁珠念(852)に、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原から現在の元宮に遷座され、宇佐神宮より橋本公則を迎えて社司としている。

建久4年(1193)、九州探題大友能直が、東の総社を柞原八幡宮、西の総社を大原八幡宮として鎌倉鶴岡八幡宮の参拝礼式に改めさせたといわっる。

更に、元和10年(1624)日田永山城主石川主殿守忠総により、元宮から現在の位置に遷座された。その際社殿形式に八幡造を用いている。』
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記録に在るだけでも、五度の遷座遷宮が行われたというのですね。
大きな神社は何処も所在地をどんどん変えますから、古代の祭祀線はひけません。

筑後川流域には、久留米市にしても、創建に天武天皇や高市皇子がかかわる神社がありますね。特に天武朝と筑後川流域は関わりが深いのでしょうか。

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大原(大波羅)神社は、広い境内に摂社末社が沢山ありました。
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本殿の真後ろには、大山祇神社がありました。本殿のご祭神にお詣りすると、この神様も一緒に拝むことになるのですね。

珍しい所では、昭和10年(1935)に就役した大日本帝国海軍の最上型重巡洋艦「三隅」の船の上に祀っていた神社は、此の大原神社から分祀されていたと云うことでした。艦名「三隅」が、日田盆地を流れる三隅川に因むと云うことから大原神社が艦上で祭祀する神社に選ばれたのだそうです。

その記念碑がありました。大きな神社は、政治と時代の変化をもろに受けているのです。

では、
天武天皇白鳳9(680)年に何があったのでしょう。特に天武天皇が神力を頼むことがあるとしたら。
 678年(十市皇女急死・筑紫大地震)680年(橘寺火災・金光明経をはじめて宮中で講ずる・皇后の病回復のために薬師寺建立を発願)こうしてみると、皇后の回復を願って、神社建立の発願となったのですかね。それに、筑紫大地震も大きな衝撃だったことでしょう。護国神祭祀も当然です。

文武天皇慶雲元年(704)年、この年はどうでしょう。702年12月に持統太上天皇崩御。翌年は喪に服したでしょうから、年が明けて五月に改元し、文武天皇は心新たに祭祀を始めたかったのでしょうか。

貞観13(871)年、には何があったでしょう。
 869年(陸奥貞観大地震)・870年(大宰少弐藤原元利万呂ら反乱を企てる・上総国で俘囚が反乱)871年(貞観式を頒布)未曾有の大地震・貞観大地震で日本中が震撼としたのかも知れません。民の不安も高まっていました。やはり、天変地異は大きく祭祀に関わるのですね。

建久4(1193)年、これは言わずと知れた政変の後です。
 1192年、源頼朝が征夷大将軍となっています。世の中が大きく変わった後です。神社も次の政治体制に順応しなければならないでしょうね。

元和10(1624)年、これは江戸時代ですね。
 1623年(徳川秀忠、征夷大将軍を辞職し、家光が任じられる)この数年前からキリシタンの取り締まりが激しくなり、宣教師らが多数処刑されています。江戸幕府が政治基盤の安定に奔走していた時期ですから、神社もそれに倣ったのでしょうか。


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赤ちゃんの産毛を治めて無事に成長することを願った祠です。
人々の願いも受け止めながら、大きな神社は生き残って来たのでしょうね。


大変でしたね。


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by tizudesiru | 2018-07-13 16:19 | 350九州神社の旅 | Trackback(2194)

183元明天皇の愛と苦悩

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by tizudesiru | 2016-12-26 21:46 | 183元明天皇の愛と苦悩

183元明天皇の愛と苦悩

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by tizudesiru | 2016-12-25 22:41 | 183元明天皇の愛と苦悩

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

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by tizudesiru | 2016-11-24 11:34 | 167持統帝の孫・文武天皇の仕事

158草壁皇子の形見の地で霊魂に触れる

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by tizudesiru | 2016-11-15 13:37 | 158草壁皇子の形見の地・阿騎野

112都を守る天皇陵墓

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都を守る天皇陵 
 天智陵からのラインは南に伸びて、藤原宮の大極殿址を通り、天武陵まで届きました。白いポイントが藤原宮、帝とあるのは、文武天皇陵です。天智・天武陵の真南ではありません。
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 しかし、文武帝と見勢丸山(真の欽明陵と言われている)古墳をつなぐと、間に高松塚古墳の石室が来ます。。高松塚古墳の被葬者は、草壁皇子だと、昨年ブログで紹介していますが、此処では訂正したいです。被葬者は40才過ぎのたくましい男性だったそうです。とうなると、高市皇子以外には考えられません。文武天皇が高市皇子の後に極位に昇り、欽明天皇の血統であることを示しているのでしょうか。陵墓の位置は決していい加減ではありません。高市皇子について考え直す必要があるでしょう。
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 では、昨日からの伊勢ラインに話を進めましょう。伊弉諾神社と伊勢神宮(内宮)を結ぶと、間に文武陵が入りました。しかし、ラインから約100mばかり南にずれます。これは、ライン上にあるとは言い難いです。すぐ近くの高松塚からも100mほどずれるので、どちらとも言い難いです。 
 気になるのは、伊弉諾神社と伊勢神宮の間が172km、伊弉諾神社と文武陵が87・7kmで約半分という事です。高松塚古墳または文武陵は、都の守りにとって大事な位置にあるのです。天武陵は藤原宮の朱雀大路の南の端にあります。このような天皇陵墓のあり方は、いつから始まったのでしょう。
 舒明天皇の場合はどうなっているでしょう。
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黄緑ラインの右から、舒明陵→桜井茶臼山古墳→誉田御廟山古墳(応神陵と言われている)が、ライン上にあります。舒明天皇にとって祖先のラインというのでしょうか。
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(桜井茶臼山古墳)
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(誉田御廟山古墳)
 次のピンクラインは、右から舒明天皇陵→推古天皇陵→敏達天皇陵となります。父の敏達天皇とその皇后の陵墓をラインが結んでいます。白の印は、藤原宮です。
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 天智天皇・天武天皇・文武天皇以前、舒明天皇・推古天皇・敏達天皇の時代は、祖先の陵墓とつながることを重視していたのです。つまり、皇統の正しさを示そうとしているのです。天皇陵が都を守るという発想は、7世紀後半に始まったのです。天智帝の陵墓は平安京が造られるときに造営されたと思います。

 それにしても、気になりませんか?
 桜井茶臼山古墳は、柄鏡形の古墳。舒明陵と誉田御廟山古墳は、撥形? 古墳の形が違います。桜井茶臼山古墳の横には、宗像神社があります。一貴山銚子塚古墳や、石塚山古墳と同じ形の柄鏡形古墳。共通する古墳の形は、何を意味するのでしょうね。



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by tizudesiru | 2013-08-24 21:55 | 112都を守る天皇陵 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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179天武帝と持統帝の溝
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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
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183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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