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天武朝の悲劇は天武天皇から始まった

6月11日(火)の筑紫古代文化研究会でのお話は「天武天皇」です。
壬申の乱で勝利した天武天皇は、『万葉集ではどのように位置づけられているか』を考えます。
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写真の大きな礎石は、本薬師寺(もとやくしじ)の金堂の礎石出す。ここは、天武天皇が皇后の病気平癒を祈念して建立を発願した寺です。天武九年(680年)のことでした。
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伽藍が完成したのは十数年後になります。寺は金堂から造営をはじめますが、開眼会(かいげんえ)が開かれたのは持統十一年(697)ですから、完成まで十七年ほどかかったということです。
当然、完成させたのは持統天皇ということになります。
当時は大きな寺でした。遷都の時に平城宮の西に移され、現在まで薬師寺として存続しています。
薬師寺跡のここには伽藍が残っていましたので、本(もと)薬師寺と呼ばれたのでした。
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さて、11日(火)の話の中心は、薬師寺のことではありません。
持統天皇の病気平癒を願った天武天皇の話です。万葉集における「天武朝の歌の編集はかなり厳しくシビア」です。
天武天皇は優雅で強い男性とは読めないのです。そして、心許した女性からも本当は愛されていなかったのではないか、と憶測を誘うように歌が掲載されています。
それは何故でしょう。
持統天皇と天武天皇は夫唱婦随のおしどり夫婦だったと、今日、世間では信じられています。万葉集は本来そのように編集していたのでしょうか。
天智天皇の葬送儀礼の挽歌は九首ありますが、天武天皇の場合は崩の時に持統天皇が詠んだ一首と或本の二首です。八年後に、持統天皇が夢で詠んだものがありますが、臣下の歌や女官の歌はありません。
持統天皇にとって天武帝が大事な夫であったなら、天武朝の歌の編集も丁寧な作業が行われたでしょうに。しかし、そうはなってない。
そして、天武天皇の皇統はついに滅んでしまうのです。
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6月11日(火)13時半~ (福岡市天神・光ビル)
明日のことですが、お知らせいたします。

では、又。


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by tizudesiru | 2019-06-10 00:04 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

690年の紀伊国行幸で持統天皇は有間皇子の霊魂に対面した

元号が令和に代わって早くも11日が経ちました。今日に続く元号が初めて建てられた(建元という)のは、文武天皇五年・701年3月です。大宝」から慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀・天平…と元号は改められて(改元という)きました。建元と改元は違うのです。

文武天皇は十五歳で即位していましたから、文武天皇五年=大宝元年(701年)には二十歳になっています。この年に、藤原宮子との間に首(おびと)皇子も生まれました。
大宝元年、都ではお祝いの連続だったでしょうね。更に、

大宝元年は、3月に大宝令が施行された記念すべき年でした。
律」が加わり「大宝律令」が成るのは、8月のことです。

大宝元年とは、大きな節目の年だったのです。
太上天皇に支えられて政治を行ってきた文武天皇も青年期を迎え、「大宝」と建元し、律令による政治を始動させました。太上天皇(持統天皇)としてはどんなにか喜ばしい年だったでしょう。
しかし、ほっとしている暇はありません。祖母として太上天皇として、孫の帝に伝えなければならないことがまだまだありました。そこで
大宝元年9月から10月にかけて、紀伊國行幸が敢行されました。
紀伊国行幸は持統太上天皇の望みで「敢行=あえて行われた」と思います。

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それにしても、紀伊国とは。そこは持統天皇にとって如何なる意味のある場所なのか。

紀伊国の白浜海岸は古代でも有名な観光地で、そこに牟婁温泉がありますが、有間皇子が牟婁温泉に護送された事件は紀伊国で起こりました。
天智天皇が孝徳天皇の長子である有間皇子を陥れ、命を奪った土地でありましたから、その卑怯な手口は長く難波宮の官人の口に上ったことでしょう。
そのため、天智天皇は間人皇后(孝徳天皇の皇后)に渡っていた「皇位継承の玉璽」を奪えず、難波宮にも近づけず、斉明帝が崩御しても長く即位できませんでした。

間人皇后が薨去して初めて天智帝が即位できた」という事実を、難波宮の官人も持統天皇も藤原氏も忘れてはいません。ですから、有間皇子事件は多くの官人にとっても触れたくない事件だったでしょう。
しかし、持統天皇は紀伊国行幸を敢行します。それはなぜか。
実は、大宝元年の紀伊国行幸の意味を解くカギは、690年の紀伊国行幸にあるのです。
701年、文武天皇と持統太上天皇はなぜ紀伊国に御幸したのかを解くカギです。

万葉集には「紀伊国行幸」は、690年と701年の二回敢行され、歌が残されています。
690年は、持統天皇にとって正念場、大変な年でした。
持統三年(689年)三月、草壁皇子が薨去
しました。
持統天皇の一人息子が亡くなったのです。
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡(おくりな)されたとおり、草壁皇子こそ極位に上ってほしいと持統天皇が望んだ人でした。
その皇子が薨去したのですから、持統四年一月に持統帝即位となり、七月に高市皇子を太政大臣、多治比嶋を右大臣に任命しました。
その後、9月に紀伊国行幸の敢行なのです。何を思っての旅だったのでしょうか。
そこで詠まれたのは、なんと有間皇子をしのぶ歌でした。
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川嶋皇子・長忌寸意吉麻呂が歌を献上しています。
持統四年(690年)、持統天皇は紀伊国に行幸し、有間皇子の所縁の地を訪ねているのです。そこで、従駕の者に歌を詠ませたのでした。
その中に川嶋皇子の歌があります。
「紀伊国に幸す時の御作歌」ですから公の場での詠歌です。
公の場で、有間皇子ゆかりの結松を詠みました。川嶋皇子は有間皇子事件の時はまだ生まれていません。彼は事件を知らないのです。
しかし、敢えて歌を詠んだのには、それなりの理由と意味があるはずです。


持統四年(690)の持統天皇には、強い決意がありました。
如何なることがあっても孫の軽皇子(草壁皇子の長子)を大王に育てなければならない。
今を乗り切るために、行政のトップは高市皇子に任せる以外ない。
そんな時に、有間皇子をしのぶ歌を詠んだのです。有間皇子の霊魂を鎮めて、何を願ったのでしょうか。
この行幸が、次の701年の紀伊国行幸の下地となるのです。


今度の火曜日、下記のようなことをお話ししたいと思います。
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有間皇子はなぜ殺されたのか。
有間皇子の自傷歌はなぜ『挽歌』に編集されたのか。

5月14日(火)の「筑紫古代文化研究会」(福岡市天神・光ビル)では、有間皇子の話と「690年の紀伊行幸」の話をする予定です。(「701年の紀伊国行幸」は、次にまわします。5月の4週(火)の予定です。)

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写真は和歌山県の11月の白崎。
その名の通り石灰岩の岬です。ここで詠まれた万葉集・巻九の歌。

1668 白崎者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧 (原文)
1668 白崎は幸く在り待て 大船に真梶しじぬき 又かへりみむ (読み)
この歌が詠まれたのは、「大宝二年辛丑冬十月」でした。
この歌については、四週の「紀伊国行幸十三首」で話したいと思います。

上の写真は、白崎で11月に取ったものです。旧暦の冬十月は、今日では11月終わりから12月初めのころです。
1300年昔の白崎も、この写真のように海も空も青く晴れ挙げったいたのでしょうか。


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では、又、お会いしましょう。


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by tizudesiru | 2019-05-12 11:24 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

歴史カフェ阿蘇「令和元年・万葉集を読む」

今年も、「歴史カフェ」を熊本県西原村でします。
今年は、5回計画しています。昨年はつめて4回やりましたが、今年は4月・5月・7月・8月・9月に予定しています。

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昨年の最終回に「次の歴史カフェは、万葉集です」とお知らせはしていましたが、みなさんあまり興味のある様子ではありませんでした。

元号が「令和」に変わりますので、万葉集に興味を持っていただいたかもしれません。今は、万葉集にしていてよかったと思ってます。

1回目のテーマは、「万葉集とはそもそも何のために誰が編纂編集したのか」、ということです。
もちろん、万葉集は柿本人麻呂の編集です。その為に、彼は刑死したのです。

その辺りをお話ししたいと思っています。

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内容を少し紹介します。

持統天皇は香久山を詠んで、文武天皇の皇統を示した

 巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇は即位した後、何故香久山を詠んだのか、不思議である。持統天皇が高市皇子に造営させた藤原宮は、明らかに北に耳成山を取り込み、守りの山・象徴の山としている。28番歌は、持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」ということになる。耳成山ではなく、香久山なのである。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 
誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。
この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。
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よかったらおいでください。熊本県西原村は、まだ熊本地震からの復興の途上にありますが、西原村で歴史カフェをしたいと思っています。

それから、個人的に4月は万葉集のお話が三回重なりました。

福岡市の百道パレスでは、九州古代史の会主催で「万葉集に見る倭国の痕跡」のお話をしました。もう、4月7日に済んでいます。忙しくて、お知らせしておりませんでした。

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次は、
4月23日(火)13時半~16時まで。筑紫古代史の会(天神・光ビル)で「万葉集と古代史・難波宮と間人皇后」のお話をする予定です。

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孝徳天皇の皇后だった間人皇后の波乱の半生を万葉集からと丹後半島の伝承から読み解きます。4月23日です。

ご興味のある方は、どうぞおいでください。
では、また、後日、お会いしましょう。



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by tizudesiru | 2019-04-17 20:33 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ

有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ
「自傷歌」というキーワードがありますが、共通するものは何でしょう。
有間皇子・自傷歌と共通するのは、「刑死」ではありませんか。

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万葉集によれば「本朝臣人麻呂は石見国で死に臨んだ」という
死因は何か? 行き倒れか? 刑死か? 自然死か?
死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。
「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌を読んでみましょう。

万葉集・巻二の223番歌
  柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に望む時、自ら傷みて作る歌一首
223 鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

  柿本朝臣人麻呂が死にし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首
224 今日今日と吾が待つ君は石水(いしかわ)のかいに交じりて有りと云わずやも 
225 直(ただ)の相は相かつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

 丹比真人、柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報ふる歌一首
226 荒浪により来る玉を枕に置き吾ここに有りと誰か告げなむ

  或本の歌に曰く
227 天離る鄙(ひな)の荒野に君を置きて想いつつあれば生けるとも無し


 上の歌から分かることは、
人麻呂は石見国で死んだ。
その妻の依羅娘子は、夫の死に目には会えず死の知らせを聞いた。直に会えないから魂が雲となって石川に立ち上ってくれれば、それを見て偲びたいと詠んだ。(
不思議なことに、依羅娘子は石見の国に住んでいたはずである。人麻呂の131~139番歌は、石見国の依羅娘子と別れる時の歌である。二人は同じ石見国に在りながら逢うことができず、死後でさえ亡骸にも面会できなかった…その死を知っているにかかわらず、面会できていない。これも、人麻呂の死は尋常ではなく、刑死と考える所以である
。)
人麻呂終焉の地は 石見国の海か、はたまた荒野のどちらかだろう。
 224~7の一連の歌、人麻呂の死に対する三人の挽歌が万葉集に残されたのには、必ず意味がある。(死に臨んで自傷歌を詠んだ人麻呂に対して、少なくとも三者が時期を遅れて場所は違うが挽歌を詠んだ。このような例は、「有間皇子の挽歌」以外にあっただろうか。わたしは、記憶していない。)

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妻の依羅娘子(よさみのをとめ)と丹比真人(名は不明)と或本の歌の三人は、人麻呂の地位と身分と状況を十分に知って歌を詠んだ。*丹比真人の「真人」は、八色の姓の第一位であるから、この人は高貴な家柄で身分の高い人となる。
依羅娘子は、人麻呂が「石見国より妻と別れて上り来る時の歌二首、併せて短歌」(131~9)の歌群の後にある140番歌の女性である。
「柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂に与うる相別るる歌一首」
な念(おも)ひと君は言えども相はむ時何時と知りてか吾が恋ずあらむ
依羅娘子は相聞歌が詠める身分の高い女性であろう。

以上のことは読み取れます。




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死に臨んだ人麻呂。彼の死は「刑死」だった
もちろん、「人麻呂が自然死した」のなら、万葉集の理解が違ってきます。
万葉集を読む中で理解したのは「その編纂の時期と目的」でした。
「持統天皇が文武天皇の皇統を守る為に、その正当性と歴史」を叙事詩にした」と万葉集を理解しましたが、持統天皇と文武天皇の死後、即位した元明天皇にとってそれは毒薬となりました。

草壁皇子の出自が公表されれば、天武系の皇子達に謀反の糸口を与えかねなかったのです。そんな内容の歌集を編纂編集した人物だから、人麻呂は断罪されたのでした。そう読めるように編纂されていた重い歌集だったのですから。

この事は、前回までの「柿本朝臣人麻呂は何故死んだのか」で説明しています。

天武系の皇統を全て滅ぼした平安時代の天皇家にも万葉集は不都合だった。

 天智帝の皇統に戻った平安時代に「今更、蒸し返してほしくない事実が書かれていた」、それは、草壁・文武・聖武の皇統はもともと天智帝の皇統だったと云うことです。草壁皇子・文武天皇・聖武天皇の皇統こそ正統だったと、万葉集は主張していました。この事を理解した 平城天皇は、「平城京こそわが王統が引く継ぐべき京だ」と主張したのでした。
 父の桓武天皇が「極位が天智天皇の皇統に戻ったことは易姓革命だ」としたことは、平城天皇も承知していました。然し、実はそうではなかったと気がついたからこそ、奈良の都(平城宮)に戻ることを望まれたと思います。
平城天皇は万葉集を理解していたのです。然し、公表には躊躇された、今さら公にできない事実だったのです。
皇位継承に関して多くの旧臣を断罪し、多くの皇族の命を奪った後では、はなはだ不都合だったので、内容を分かりにくくするための編集の手を入れて世に出した、という次第です。

 天智天皇に引き上げられた藤原氏にとって、天武帝の皇統に極位を渡すことなどありえなかった、高市皇子や長皇子や新田部皇子に譲ることなど絶対にするはずがなかったのです。



by tizudesiru | 2018-05-23 17:19 | 346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ | Trackback(15)

雄略天皇の御製歌は万葉集の冒頭歌

「すぎにし人の形見とぞ」2

では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。

この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘む娘に敬語を使っている。『菜摘ます子=菜をおつみになっている娘』と『家をおっしゃってください。名を名のってください』 求婚の儀式だろう。 

古代では名前を呼べるのは、特別な間柄か親族で、他人に名を知られるのを嫌った。

此の菜を摘む女性は高貴な家柄の姫で、儀式により婚姻が整おうとしている瞬間である。

これは「雑歌」=儀式歌の冒頭歌にふさわしい歌なのである。」

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万葉集巻一には、「雑歌」という「部立」があります。
「雑歌」とは、「雑なその他の歌」という意味ではないのです。「儀式歌・様々な公の場での歌」と云う内容の歌群をいいます。ですから、雄略天皇の万葉集1番歌も「雑歌」ですから個人的な歌ではなく、公的な場での歌になりますね。


万葉集の冒頭歌は、「こもよ。みこ持ち」この歌ですね。
 最近になって、平和で幸福な感じの婚礼の儀式歌だと、思えるようになりました。
もともと、万葉集は持統天皇が『平和で幸福な皇統の国造り』を願い、文武天皇のための教育書として作られたと、わたしは前回紹介しました。万葉集の性格からして、政変や悲運な出来事の歌が巻一の冒頭に置かれるはずはありません。特に巻一ですから、幸せと希望に満ちた冒頭歌のはずです。
 すると、巻一の最終歌も平安と希望に満ちたものになるでしょうね。そう思って巻一の最終歌を読むと、何だかまとまりのない形になっています。元々万葉集巻一最終歌には、別の「世を寿ぐ歌」があったでしょうに。
(他の巻は、様々な皇統の出来事・歴史に触れますから内容が重く苦しいものにもなるのは必然です。)
雄略帝の歌と対峙する巻一の最終歌は、どの歌だったのでしょうね。

 話は飛びますが、大伴家持が後期万葉集を編纂したと云われていますが、その最終歌「巻二十・4516 新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけよごと」となっています。家持は因幡守として詠んでいますが、この時の家持は失意のどん底にいました。それでも、寿歌を以って新年と国の平安を歌で祈り万葉集の最終歌としたのでした。なぜ、彼はこのように寿歌を持ってきたのでしょうか。

 それは、「初期万葉集」がそのような編集の仕方になっていたからです。彼は、人麻呂が編集したその形式を踏襲したと思うのです。後期万葉集の編纂・編集の仕方を見ると、初期万葉集の編纂編集の方向が見えると思います。
 わたしは、巻一は堂々と王統の歴史を語っていたと思いますから、雄略・舒明・皇極・(孝徳)・天智・天武・持統・文武の御代の歌が並んでいたと、思います。

巻一の冒頭歌をはじめて読んだ時、雄略天皇という存在がか細く思えたのでした。万葉集釋注(伊藤博著)では次のように解されています。
「おお、籠(かご)、立派な籠を持って、おお掘串(ふくし)、立派な掘串を持って、ここわたしの岡で名を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。幸(さき)わうこの大和の国は、くまなくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。」

泊瀬朝倉宮天皇は、自分こそが大和を平らげていると娘さんに告げていますから、大和を統治していたのでしょう。でも、飛鳥にはまだ入っていなかったと云うことですかね。次の舒明天皇の歌を読むかぎり、そう云うことになりますね。
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日本書紀で雄略天皇の系譜をおさらいしてみよう
スタートは応神天皇でした。



応神 九州より攻め上る。忍熊、香坂皇子と戦って王位を奪う。
仁徳 大鷦鷯(おほさざき)天皇。菟道稚郎子の自殺により即位。
履中 去来穂別(いざほわけ)天皇。母、葛城襲津彦の娘・磐之媛。住江仲皇子の謀反。磐余の若桜宮に即位。平群・蘇我・物部が仕える。筑紫の三女神「どうして我が民を奪ったのか。わたしは今、お前をはじいらせよう」車持君が筑紫で罪を犯す(何故か、九州の神の話
反正 瑞歯別(みずはわけ)天皇。履中帝の同母弟。河内の丹比(たじひ)を都とする。柴籬宮(柴垣の宮)
允恭 雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)天皇。反正天皇の同母弟。太子木梨軽皇子の逸話(同母妹との姦通罪により追い詰められ自殺)
安康 穴穂天皇。木梨軽皇子の事件により即位。叔父の大草香皇子を殺し、その妻の中蒂姫(なかしひめ)を皇后に据え、その連れ子の眉輪王に殺される。
雄略 大泊瀬幼武天皇。吉備上道臣田狭を任那にやり、その妻を奪う。皇位継承者を次々に殺害。
清寧 白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの)天皇。母は、葛城韓媛。雄略帝の妃であった吉備の稚媛(もと吉備上道臣田狭の妻)が子(星川皇子)をそそのかし謀反を企てたが、共に焼き殺される。
顕宗 弘計(をけ)天皇 父親を殺され兄(仁賢)と与謝郡に逃げる。

仁賢 憶計(おけ)天皇。諱は大脚(おほし)、またの名は大爲(おほす)*旧本による。字名は島郎子(しまのいらつこ)、穴穂天皇(安康天皇)が崩御した時、丹波の余社郡(よさのこほり)に避難した。
武烈 無道の限りを尽くした (断絶) 


ふむふむ、なかなか大変な顔ぶれですね。ただ、此の天皇の宮は、橿原・桜井・大阪・天理・奈良に京を作り、允恭天皇(明日香村所在不明)顕宗天皇は(明日香村八釣)明日香に宮があったとされていますが、所在地は不明です。陵墓は羽曳野市・堺市・藤井寺・北葛城郡・奈良市などになっています。此の王朝は、香具山の王朝とは直接には結びつかないようですね。
 しかしながら、万葉集の冒頭には雄略天皇の名があります。此処に、どんな意味があるのでしょうね。
明日は、舒明天皇の国見歌(万葉集巻一・2番歌)を読みます。

では、明日。
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by tizudesiru | 2018-05-22 00:10 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

天智天皇御代には優雅な歌、天武天皇御代には壬申の乱の後遺症

万葉集は、文武天皇のために編纂された「皇統の正当性と歴史」を伝える教育書であり、歌物語であるという立場で「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。
今日は、㉙から始めます。
16~21番歌が天智天皇の御代の歌であり、22~27番歌が天武天皇の御代の歌である。そこには、詩歌はどのように詠まれているのだろうか。


万葉集巻一・天智帝御代と天武帝御代では、詩歌の編集意図が異なる


16~21番歌は、額田王4首)大海人皇子(1首)井戸王(1首)が詠んだ天智天皇の御代の詩歌で、宮廷の文化行事と近江遷都が詠まれている

*ここには百済救援「白村江敗戦」は詠まれていない。

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㉙ 巻一の「近江大津宮御宇天皇代・天命開別天皇・諡して天智天皇という」という標でまとめられ、此処に置かれている詩歌は、16~21の額田王四首と大海人皇子一首と井戸王一首である。

16番歌 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して春山の万花の艶(にほ日)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)い憐れびしめたまふ時に、額田王が、歌をもちて判(ことわ)る歌 」

17番歌「額田王、近江国に下る時に作る歌」、18番歌 反歌 

19番歌「井戸王が即ち和(こた)ふる歌」

20番歌 「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌」 21番歌「皇太子の答えたまう御歌」

額田王は天智天皇の御代で大きな活躍をしていたということである。娘の十市皇女は、大友皇子の妃となって御子をもうけていた。親子ともに近江朝では幸せだったのである。

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㉚ 17・18番歌。おや、近江遷都の時、額田王が別れを惜しんだのは、天香具山ではなく、三輪山である。では、王家の本貫の山は三輪山だったと云うことになろうか。

饒速日の山だったことに。

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㉛ 天智天皇代に、額田王と大海人皇子の有名な蒲生野の歌もここに掲載されている。

20 茜さす 紫野ゆき 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

21 紫の にほへる妹を にくくあらば 人嬬ゆへに 吾れ恋めやも 

この歌は、天智天皇の遊猟(御猟)の時の歌である。

天智天皇の御代には、宮廷の文化的な行事の歌が掲載されている。

次の天武天皇代に詩歌はどのように詠まれているか


㉜ 天武天皇御代。次の王朝の明日香清御原宮天皇代の歌は、22~27の六首で、十市皇女が伊勢神宮に参赴する時に吹芡刀自が作った歌、麻續王が流される時の人の哀傷歌、それに和する歌、天皇御製歌、或本の御製歌、更に天皇御製歌となっている。 

22番歌 「十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まゐで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹芡刀自(ふぶきのとじ)が作る歌」で始まる。これを当時の読み手は、どう受け止めただろう。


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㉝ 十市皇女が伊勢に参赴する時の歌

22 河の上の ゆつ磐むらに 草むさず 常にもがもな 常(とこ)処女(おとめ)にて

天武四年、大伯皇女が伊勢の斎宮となったので、阿閇皇女と共に十市皇女も伊勢を訪れた。この時、吹芡刀自が作って奉った歌である。壬申の乱後、近江朝の総大将の妃であった十市皇女が、夫を失い子の葛野王を連れて天武帝に引き取られた後に行われた伊勢神宮への参赴であった。「水量の多い河の中にある聖なる岩々には草も生えていない。その岩のように常に変わらずありたいものだ。ずっと乙女であるように」

十市皇女は常処女でいることはできなかった。それゆえ、天武7年に宮中で突然命を絶ったのだろう。天武天皇は、十市皇女の薨去に対し、嘆き悲しんだ。本来なら、近江朝の皇后となったかも知れない人の、はかない人生を嘆いたのかもしれない。天智朝を倒した天武帝は「敵将の妃だったとはいえ、娘に再び幸せになってほしい、やり直してほしい。」と願ったのか。十市皇女の運命を知る当時の人は、壬申の乱の悲劇を思い出し、胸を痛めたに違いない。


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㉞ 天武天皇の御製歌25・26番歌は、吉野からの逃亡の歌である。壬申の乱は、天武天皇にとって、人生最大の難局だったのである。

27番歌の『芳野よく見よ』の歌は、十市皇女の薨去の翌年の天武八年「吉野行幸」の時の歌である。皇太子決めをするための「吉野盟約」が行われたとされる時の歌である。然し、この後の歴史の展開を見ると「皇太子決め」だったとは読めない。ただ、天武天皇の大喜び・歓喜の歌から、吉野行幸は特別だったに違いない。それは、暗黙の裡に皇太子となっていた草壁皇子のみならず、天武と天智の双方の皇子が兄弟の契を交わして対等になった「喜びの会合」だったからではないだろうか。永年の重荷を下ろしたという…更に、大津皇子も極位を望むことができると、天武天皇は考えたとわたしは思う

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壬申の乱による後遺症の歌以外には、麻績王の流罪の時の哀傷歌がある。
麻績王がどんな罪だったのか分からないが、世の人は彼に同情したのである。
当時の人には、説明がなくとも事件の顛末は分かったであろう。このように、天武天皇代の歌に宮廷の華やかさはない。
むしろ、悲劇の歌が掲載されている。



天智帝と天武帝の御代では、編集意図が違いすぎる
天智帝と天武帝の御代で取り上げた歌の扱いは、真逆である。
短い天智朝では王家の行事が歌われ、長い天武帝の御代では「皇女の悲劇」など壬申の乱の後遺症が詠まれている。この編集の違い、これはどうしたことか。此処に、持統天皇の本音が見えてくる。


そして、これが文武天皇に伝えようとした皇統の歴史なのである。


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また、明日。

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:07 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

持統天皇の御代に人麻呂は登場し、天皇の傍近くで活躍した

 初期万葉集は、柿本人麻呂が編纂した。持統天皇の勅を受けて文武天皇のために「分かりやすい皇統の歴史書」として完成させたが、文武天皇の崩御により元明天皇に献上する他なかった。然し、元明天皇は激怒し、人麻呂は刑死することになった… という立場で、「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。

今回は㉟からで、持統天皇の御代の歌になります。

持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか

 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎

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 持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。

巻一の28番歌の題詞には「藤原宮御宇天皇代、高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年 軽皇子に譲位  尊号太上天皇と曰」と書かれている。そして御製歌。

28 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香久山

万葉集の秀歌であるが、叙事詩とすると『耐え忍んだ冬が終わりやっと春が来て、その春も過ぎいよいよ夏が来たらしい。氏神の香具山に神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の皇統の時代になったのだ。』と読んだ。持統帝が実権を握ったのは晩年だったが、これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのだ。だが、一体、いつ詠まれたのだろうか。歌の意味と即位後の持統帝の行動とがかなり結びつかないのである。


律令政治に切り替えた持統天皇は、吉野行幸を繰り返した
 持統四年(690)即位、持統帝はそれまでの天武天皇の皇親政治を止め律令による政治を目指したらしく、太政大臣(高市皇子)と右大臣(多治比嶋)の儀政官の任命をしている。自分の時代には天武天皇の政治は引き継がないと、やりたいように政(まつりごと)をするという決意の表れでもあろう。

だが、それにしては天皇が都に居ないのは何故だろうか。持統帝は常にお出かけしているのである。吉野行幸だけでも三十数回ある。他にも親しい明日香皇女の田荘に行幸、紀伊行幸や伊勢行幸と在位中に留守が多いのである。天皇が不在でも行政は役人が行うであろうが、宮廷の祭事や神事はどうだろうか。天皇の吉野行幸は多すぎて、即位後に持統帝による神事が定期的に行われたかどうか疑わしいのだ。即位は持統四年で称制期間の三年を経た後であるが、行幸の回数を見てみよう。

持統三年の三月から吉野行幸が記録されている。三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)、  年に三回から多い時には五回と、回数の多さに驚かされる。
持統天皇は、何を考えていたのだろう。


持統天皇が作ろうとした教育書は、軽皇子の為だった

草壁皇子が薨去した年、持統天皇は皇子達の教育のために「撰善言司」を置き教科書造りを始めた。何より軽皇子(文武天皇)の為であったと思われる。

持統天皇は皇子達に良い教科書を与えようとした⇒万葉集に発展したのではないか

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㊱ 
持統天皇が即位したのか、しなかったのか、様々な説がある。年表を見ると天武天皇崩御の後、三年間空位であった。そこで持統帝は何を考えたのか。持統三年「撰善言司」を置くとあるが、目的は何だろうか。

草壁皇子の死後、皇統のための歴史書・文武帝や他の皇族の為の教科書が必要だと持統帝は思った。完成しなかったのは、他の方法を考えたからではないか。持統帝は真剣に教育書が必要だと思っていたのである。万葉集は、この「教育書としての役割を担って編纂された」と私は思う。

年表から、高市皇子太政大臣に任じすべてを委ね、紀伊国へ行幸したと読むことができる。

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人麻呂は持統三年には登場し、持統天皇の傍近くで詩歌を献じ続けた

㊲ 持統天皇の御代は圧倒的に歌の数が多い。柿本人麻呂の活躍も大きい。
 柿本氏の出自は、天足彦国押人命の後、敏達天皇の御世家門に柿樹があったので氏名とした。(姓)祖は孝昭天皇皇子、天押帯日子命(記)。天武十年(681)十二月と、和銅元年(708)四月の柿本猿(佐留)との関係も論じられている。

万葉集で年次の明らかなものは、持統三年(689)の日並皇子殯宮挽歌、同十年、高市皇子殯宮挽歌、文武四年(700)明日香皇女殯宮挽歌が挙げられる。ただ、天皇に対する挽歌はない。また、人麻呂は、和銅三年以前に没したというのが定説である。

人麻呂作歌(長歌19、短歌69)人麻呂歌集(長歌2、短歌332、旋頭歌35)人麻呂の歌中(短歌3)此の数の多さから、万葉集の編纂者は人麻呂以外に考えられない。

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持統天皇の御製歌の次の歌は、近江朝を偲ぶ歌

持統天皇代、圧倒的にこの御代の歌が多いので、「持統万葉」などと「初期万葉」は呼ばれている。持統天皇代の歌を見てみよう。

「藤原宮御宇天皇代・高天原廣野姫天皇・元年丁亥十一年 軽皇子に譲位す・尊号を太上天皇と曰」とあり、「春過ぎて」の有名な歌に始まる持統天皇代の歌が並ぶ。持統帝代の詩歌の題詞をあげてみよう。{☆は、人麻呂の作歌 △は、慶雲三年(706)持統天皇崩御後の歌となる}

28番歌 天皇御製歌、

☆29番歌 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(長歌)と反歌二首(30,31番歌)

 32・33番歌 高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或る本には高市連黒人といふ

 34番歌 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或は、山上臣憶良作るといふ

 35番歌 勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌   ◎阿閇皇女は元明天皇

☆36・37番歌 吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(長歌)と反歌 

◎持統三,四,五年のいずれかの従駕

☆38・39番歌(吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)長歌と反歌 

☆40・41・42番歌 伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・三首

43番歌 当麻真人が妻の作る歌

44番歌 石上大臣従駕にして作る歌

☆45・46・47・48・49番歌 軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・長歌と短歌四首

50番歌 藤原の宮の役民の作る歌

51番歌 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌

52・53番歌 藤原の宮の御井の歌(長歌)と短歌

54・55・56番歌 大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌・三首

57・58番歌  二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌・二首(長忌寸意吉麻呂、高市連黒人)

59番歌  誉謝女王が作る歌

60番歌  長皇子の御歌

61番歌  舎人娘子、従駕にして作る歌

62番歌  三野連、入唐する時に、春日蔵首老が作る歌 ・大宝二年六月

63番歌  山上臣憶良、大唐に在る時に、 本郷を憶いて作る歌 ・大宝二年

64・65番歌 *慶雲三年丙午に、難波宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌 長皇子の御歌 △  

66・67・68・69番歌 太上天皇、難波宮に幸す時の歌 ・四首(置始東人 高安大島、身人部王、清江娘子)・

70番歌  太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌    ・大寶元年か?

71・72番歌  大行天皇、難波の宮に幸す時の歌・二首(忍坂部乙麻呂、式部卿藤原宇合)・文武三年

73番歌  長皇子の御歌

74・75番歌  大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌 ・二首(或は天皇御製歌、長屋王)・大寶二年か?

  

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即位の年、持統天皇は紀伊国の有間皇子の所縁の地を訪ね、歌を詠ませた・人麻呂も紀伊国行幸に従駕していた?

 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしている。

持統四年(690)1月即位、2月吉野行幸、5月吉野行幸、6月泊瀬行幸、7月高市皇子太政大臣、多治比島真人を右大臣、八省百寮を選任。8月吉野行幸。9月戸籍を作らせ、紀伊国行幸。10月吉野行幸。11月元嘉暦と儀鳳暦を施行。12月吉野行幸。

 吉野行幸も不思議なのだが、持統四年(690)の紀伊国行幸も不思議である。持統帝の即位は四年一月、前年の四月に日並(ひなみしの)皇子(草壁皇子)を亡くした後、残された阿閇皇女を連れての行幸だった。

孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。が、その即位後の吉野行幸、紀伊國行幸とは、持統帝は即位後に何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。
(阿閇皇女にも有間皇子事件を知らせ、皇子の霊魂を共に鎮魂をするためだったのか)
では、朱鳥四年の紀伊国行幸を読んでみよう。
(紀伊国行幸の歌は、明日取り上げます)

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持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしているので、ほとんど都にはいなかったことになろうか。これでは天皇としての仕事も滞ると思われ、「持統帝は即位していなかった説」も生まれようというものである。すべてが高市皇子にゆだねられ、太政大臣高市皇子が政権の中枢に座りほぼ天皇と同じ立場となっていたことになるのだろうか。そうなると、軽皇子(文武天皇)が成長した暁には高市皇子の存在がネックになるではないか。高市皇子はその権力の象徴として、耳成山を北にして藤原宮を造営している。絶大な財力も彼の手にあったのである。それが為に軽皇子の元服の半年前に薨去となったのだろうか。しかも、万葉集の高市皇子の扱いは微妙である。其の力を認めながらもどこかでおとしめているように思われるが、これは気のせいだろうか。
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また、明日。


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by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の不思議・持統天皇は近江朝と有間皇子を偲び続けた

今日の辺りは、すでに何度か書いたことと70%ほど重なります。
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初期万葉集は、端的にいうと「持統天皇が編纂させた史書である」としてブログを進めています。長いので少しずつ紹介しています。今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の㉟からです。
持統4年の紀伊国行幸は、草壁皇子の薨去の翌年ですから、妻の阿閇皇女は夫の草壁皇子を当然偲ぶでしょうね。

草壁皇子の妃・阿閇皇女・前年に薨去した夫を偲ぶ歌

㊵ 
持統四年の紀伊国行幸で有間皇子事件を詠んだ川嶋皇子と草壁皇子を偲んだ阿閇皇女

朱鳥四年(690)四月、持統天皇は草壁皇子妃の阿閇皇女を連れて紀伊國に行幸した。阿閇皇女は天智天皇と石川夫人(姪娘)の娘であり、後の元明天皇である。皇女は前年4月に夫・草壁皇子と死別していた。残された三人の子どもたちはまだ幼かったので、軽皇子が七歳、氷高皇女が十歳で末っ子の吉備皇女は五歳くらいだが、都に残しての行幸だったのだろうか。

 勢能山を越える時、阿閇皇女の御作歌

35 此れやこの倭にしては我()が恋ふる 木路()にありとふ 名に負ふ勢の山

 
 阿閇皇女は、背ノ山を越える時、草壁皇子を偲んだ。背ノ山を越えると紀伊国である。船で紀ノ川を下れば、背ノ山と妹山の間を抜けるとやがて川幅が広がり紀伊國の風景が広がる。

「紀伊国への路に有るという背ノ山のことは倭でも聞いていました。川を挟んで妹山と向き合っている背ノ山をぜひとも見たいと日頃から思っていたのです。これがその名のとおりの背ノ山、そうなのですね。(背ノ山をやっと見たのだが、我が身は背の君を失っているので、背ノ山と聞くと草壁皇子を思い出して切ない。紀伊國の背ノ山が川を挟んで妹山と向き合ってはいるのは、まるで川を渡れない私と夫のようではないか)」夫を失って一年、まだ皇女の歌には喪失感が漂っている。女帝と皇女は草壁皇子を偲んで紀伊国でともに泣いたのであろう。持統天皇が異母妹で息子の妻の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸したのは、皇女を励ますためでもあったろう。そして、もう一つ目的があった。

持統帝は未だ悲しみの癒えない嫁に、この行幸で伝えたいことがあったのだ。同じ持統四年の紀伊国行幸の時の川嶋皇子の歌が、その事を示している。川嶋皇子の歌は巻一の34首目で、阿閇皇女の歌の一首手前にある。そこには何と有間皇子事件が詠まれている。

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㊶ 
 紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌 或は山上臣憶良の作という

34 白波の濱松が枝()手向け草 幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ

川嶋皇子の父は天智天皇、母は色夫古(しこぶこの)(いらつめ)姉は大江皇女である。大江皇女は天武天皇の妃となり、長皇子・弓削皇子を生んでいる。

「懐風藻」伝によると川嶋皇子は大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契を結んでいたが、天武天皇崩御の後の十月、大津謀反を朝廷に密告した。その事で大津皇子は死を賜っていた。この密告の年・朱鳥元年八月には、川嶋皇子は「封百戸」を与えられている。持統天皇の信任厚かったということだ。持統五年(691)にも「封百戸」を与えられているが、同年九月に薨去した。それは、上記の紀伊国行幸の翌年のことである。

皇子川嶋のこの歌は、明らかに有間皇子事件の悲劇性を詠み、御霊を慰めている。「白波が寄せる浜辺の松の枝を神に手向けるように結んで祈ったという有間皇子。あの事件からいったい何年たったことだろうか。皇子のことを思うと心が痛む。幾年過ぎても皇子を忘れることはない」という大意になる。然し…

川嶋皇子は三十年前の有間皇子事件を生まれていないので知らないはずである。が、「幾代までにか年の経ぬらむ」と有間皇子を偲んだ歌を詠み、「紀伊国に幸す時」だから公的な場で持統天皇に献じたのであろう。すると、はたまた違和感が漂う。川嶋皇子の御作歌が詠まれた持統四年(690)は、前年に皇太子である草壁皇子を失った後の行幸であるのに、草壁皇子ではなく有間皇子を偲ぶとはどういうことだろうか。

有間皇子事件を知らない川嶋皇子が、なぜ「結び松」を詠んだのか

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㊷ 川嶋皇子の歌は、天皇の行幸に従駕して献じたものであるなら、行幸先の土地を誉め旅の無事を祈る歌になるはずだが、持統四年の行幸では有間皇子の霊魂を鎮めているのだ。

この時の行幸に従駕して献じられた歌は巻二「挽歌」にも残されているが、やはり有間皇子を偲ぶ歌である。行幸の目的は、有間皇子の霊魂を鎮めるためだったことになる。題詞に『紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌。或は山上臣憶良作ると云う』とあり、歌の左下にも『日本紀には、朱鳥四年庚寅の秋九月に、天皇紀伊国に幸すという』という脚がある。『紀伊国行幸』が題詞と左脚の両方に書かれているのは、これが事実であることを強調しているのだろう。此処の朱鳥四年の紀伊国行幸に関しては、巻一には阿閇皇女の歌と二首だけしか見当たらないが、あとは巻二の「挽歌」に掲載されていて、この紀伊国行幸が有間皇子を偲ぶ旅だったのは揺るがないのである。

 また、川嶋皇子の一首(三四)とよく似た歌は、巻九の「山上の歌一首」である。

1716 白波の 浜松の木の 手むけ草 幾世までにか 年は経にけむ(巻九)

左下の脚に「或は川嶋皇子の御作歌という」とある。山上とは、山上臣憶良のことである。この年、憶良も持統天皇に従駕して紀伊国に旅をしているので、その時のものであろう。なぜ、二人の人物の名が必要だったのだろうか。元歌は山上の方だが、川嶋皇子の御作歌なら更に無実の有間皇子の悲劇性を強調する、と万葉集編者は考えたということか。川嶋皇子が有間皇子を思うという姿が必要だったということだろうか。

有間皇子の事件からは三〇年以上のかなりの時を経過しているが、大津皇子事件からはわずか四年である。その記憶は誰にも新しいはず、まして川嶋皇子には生々しい記憶のはずである。

万葉集の編集意図としては、有間皇子の無実を際立たせるために大津皇子謀反事件の密告者である川嶋皇子の歌が必要だと判断したから、巻一の「雑歌」34に川嶋皇子の歌が置かれたのだろう。それも、持統天皇の前で公的に詠んだというのである。

つまり、朱鳥四年の紀伊国行幸に従駕した川嶋皇子の歌には、『わたしは大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子の謀反は無実であると知ったので、このようにあの結松を見て、何年たったのだろうかと古に思いをはせたのだ』と持統天皇に献じ、更に、『親友を裏切ったあの皇子川島でさえも有間皇子を偲んでいる。有間皇子事件は誰にも痛ましく思われるのだ』と周囲にも伝えているのだ。

それにしても、万葉集で「持統天皇の紀伊国行幸時」の詠歌となると従駕者が「有間皇子を悼む歌」となるのは、皇子の魂鎮めだけでなく、持統天皇との並々ならぬ因縁もありそうである。

わたしは度々持統天皇と有間皇子の関係を取り上げている。如何なる縁があるのかを。

持統天皇は天智天皇の近江朝を偲び、その霊魂を鎮め続けた


㊸ 
漂う霊魂を鎮めたのは持統天皇

 阿閇皇女と川嶋皇子の歌は重いが、これだけが重たいのではない。川嶋皇子の歌の前には、高市古人の二首があり近江朝を偲ぶ歌となっていて、その前には「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」の長歌と反歌が置かれている。持統天皇の御製歌「春過ぎて」の後には、何と近江朝を偲ぶ歌が続くのである。そして、阿閇皇女の歌に至る。勢能山(背の山)の歌まで「失った人=すぎにし人」を偲ぶ歌が続くのである。

  高市古人(黒人)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌

32 古(いにしえ)の人にわれあるや 楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)見れば悲しき

33 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

34 白浪の 濱松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ

35 これやこの倭(やまと)にしては我が恋ふる 木路(きぢ)に有りとふ名に負ふ勢の山

高市古人は「私は昔の人なのであろうか、まるで昔の人のように昔のものを見ると様々に思い出されて悲しい気持ちになる」と近江朝を追慕した。

32~35までの歌は、古の人を思うという意味で並べられたものだろう。ここに云う古とは、「近江朝の天智天皇」と「紀伊国に護送された有間皇子」と「阿閇皇女の夫である草壁皇子」の時代で、持統天皇が繰り返し懐かしんだのはこの三人であり、近江国と紀伊国だったということ、それは万葉集の中で一貫している。持統天皇はひたすら近江朝を懐かしむのである。

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㊹ 
人麻呂は、公的な場で近江朝を偲んだ。そして、個人的にも近江朝を偲び続けた。本来なら、現王朝の臣下として前王朝を偲び続けるなんてありえない。然し、誰にも遠慮する必要がなかった。持統天皇が望んでいたのだから。


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㊺ 
巻三の人麻呂の歌の隣にある歌。264,265,266番歌を見よう。

真ん中に挟まれるのは、長忌寸意吉麻呂の歌になる。歌の中身も、場所も前後の人麻呂の歌とずれている。編集の仕方がイビツで、何らかの編集意図が働いていると思われる。人麻呂の歌は、何故か、万葉集中にバラバラになっているのである。

持統天皇の絶大な信頼を得ていた柿本朝臣人麻呂。だが、集中の人麻呂の歌はバラバラにされている。人麻呂の歌がバラバラにされた理由は、後世に再編集した為に他ならない。


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人麻呂は近江朝と難波朝の歌物語を万葉集に展開していたと、わたしは思うのです。それが分からないように、歌はバラバラにされていると思うのです。
明日は、初期万葉集のクライマックスです。そこに掲載された歌は、万葉集を考えるうえで大切なポイントなのです。
では。また明日。


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by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集を編纂した柿本人麻呂は何故死んだのか

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柿本朝臣人麻呂こそが持統天皇の詔を受けて万葉集を編纂した。と、いう立場で、万葉集巻一に何が書かれていたのか、紹介してきました。「すぎにし人の形見とぞ」の最終回です。今日は50~57までです。

宜しくお願いします。


万葉集の編纂の意図を、万葉集そのものが語る

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。皇統の歴史として、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。


歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである

書かれているのは、草壁皇子の後継者は軽の皇子より他にはいない。軽皇子こそ統治者であり、日の皇子・大王である。その皇統は正統である。
 
編纂の勅を出した持統天皇、勅に従った柿本人麻呂
初期万葉集は、持統天皇・文武天皇の時代にまとめられたものである。巻一には長歌・短歌あわせて84首あるが、うちわけは、
雄略(1)舒明(5)皇極(1)斉明(8)天智(6)天武(6)持統(34)文武・持統太上(14) 元明(8)奈良宮(1)となっている。

巻一には、「挽歌」の部立はない。だから、どの天皇の御代の歌が多いのか、挽歌を含んだ巻二の数も必要であろうか。巻二の全150首のうちわけ、

仁徳天皇代(6)斉明(2)天智(21)天武(9)持統(105)奈良宮(7)

やはり、圧倒的に持統天皇代の歌が多い。

では、持統天皇代に活躍した歌人といえば、柿本朝臣人麻呂である。やはり、編集をした人物は人麻呂以外に考えられない。

持統天皇の崩御(702)後、人麻呂は初期万葉集の編集に励んだが、数年後に文武天皇の崩御(707)となった。人麻呂は「万葉集」を献上すべき帝までうしなったのである。


文武天皇崩御後、初期万葉集は行き場を失った

52 初期万葉集の終焉

文武天皇の崩御(707年6月)の後、元明天皇即位(707年7月)。この時、天武朝は皇位継承問題で揺らいだことだろう。そこで、元明天皇が極位に着くには、相当の政治的困難があったと思われる。天武帝の皇子は多く健在であり、高市皇子の王子達もいるからである。頼みの持統天皇も既になく、元明天皇を支えた御名部皇女(高市皇子の妃)の力は大きかったことだろう。

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78(元明天皇)79(御名部皇女)の歌

和銅元年(708)戊申(つちのえさる)に天皇としての儀式をするにあたって、元明天皇は不安に襲われたようだ(78番歌)。それを支えたのは姉の御名部皇女で、大王を支えた歌(79番歌)を詠んだのである。

この年、和銅元年4月、柿本朝臣佐留が没している。

柿本佐留が人麻呂であるのなら、和銅元年に人麻呂を罰したのは元明天皇であろう。

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元明天皇は奏上された万葉集を見て動揺したと思われる。

そこに書かれていたのは、草壁皇子につながる皇統の正当性であり皇統の歴史だった。天武帝の皇子達にはゆゆしき歌集であったはずである。この時、元明天皇を支えた御名部皇女は、高市皇子の妃であった。どんなに元明天皇は支えられたか。姉の御名部皇女は「ご心配なさいますな」と妹を励まし、諸臣を抑えたことだろう。
そして、人麻呂には厳罰が下され、人麻呂は受け止めたのである。

人麻呂刑死後、初期万葉集は彷徨った

53 
万葉集の巻一の終わり方は不自然である。元明天皇の御代の歌は、即位と「平城宮遷都」関係の歌である。

巻一の最終歌は「寧樂の宮」となっていて、歌は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮にしてともに宴する歌」の一首のみである。

 長皇子と志貴皇子の歌が並んでいたというが、志貴皇子の歌が欠けている。突然の終焉ではなく、ここにもこれ以外にも歌があったのかもしれない。巻一は最後まで第三の編集が行われているようだ。他の巻の歌の総数を見ると、

巻一(84首)、巻2(150首)、巻三(252首)、巻四(309首)、巻五(116首)、巻六(160首)、巻七(350首)、巻八(246首) 、巻九(148首)、巻十(539首)、巻十一(490首)などなど、数だけを見ると、巻一は少なすぎる。

このことから何らかの編集の手が入った結果と考えられる。それは、単なる歌の並べ替えではなく、大きな権力を持った人の意思と思考による改造であったと思う。歌を変えることはできないので並べ変えと、若干の題詞の改竄だと思われる。では、誰が手を入れたのか?


54
 
初期万葉集の編纂者は誰か、一次は人麻呂だが

二次、旅人・家持の手を経て、三次、806年平城天皇の元へ召し上げられ編集しなおされたと、考えている。

平城天皇は、万葉集の意義と歌の意味を深く知り、世に出す為に「編集して人麻呂の編纂の意味を隠した」となる。その時点では世に明らかにできないことが多く含まれていたからである。この再編集によって「人麻呂があえて編集し(事上げし)、文武天皇に歌で皇統の歴史の真実を知らしめようとしていた」肝心の皇統の正当性と歴史が読めなくなったのである。

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55 人麻呂が万葉集を編集した
その時期を元明天皇即位後と決めた理由は、文武天皇が「大行天皇」と書かれているからである。

サキノスメラミコト(大行天皇)、天皇位を下りた天子のことをそう呼ぶ。文武天皇崩御後、正式の諡が定まらない時期の奏上であったと思われる。しかし、元明天皇は拒否し、人麻呂を罰した。人麻呂はその事を受け入れた。


56
 
多くの事実が書き残され奏上された初期万葉集を、元明天皇は大伴安麻呂に託したのではないか。蘇我系の石川郎女を妻にしていた大伴安麻呂に。参議大伴安麿が薨去(和銅7年)した後、子の大伴旅人の手に渡った(旅人は父から万葉集の意図を聞き、晩年に歌に目覚める)。旅人の薨去(731)後、家持が受け取る(家持も、大伴坂上郎女と父の手ほどきで歌の道を知り、まい進する)。

家持は自家歌集を編纂し、初期万葉集のように年代順に歌を並べ、同じように歴史書として鎮魂歌集としての体裁とする。政変の為(藤原種継暗殺事件)、家持は冠位を剥奪され、死後に息子と共に島流しになる(万葉集は大伴氏の手により守られる)。

806年、平城天皇が家持の官位を復し、噂の『万葉集』を召し上げる。侍臣に命じて「万葉集」の編纂をするが、この時、家持編集の「後期万葉集」にはほとんど興味をしめさなかったので、そのまま年代順に編集されている。平城天皇の譲位により、万葉集は宙に浮いたが、長くその存在は語り継がれ、多くの文人・学者の耳目を集め、細々と書写され続けた。そうして、「古今伝授」により多くの噂と混然一体となって、「謎の歌集・万葉集」は平安時代を生き延びた。

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巻一の話のまとめ

万葉集巻一は、皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に教え諭すために編纂編集された教育書である。編纂を命じたのは持統天皇であり、作り上げたのは人麻呂である。ここで、人麻呂個人だったかどうか問題であるが、彼のみが刑死していると思われるので、その罪を一身に受けたと考えている。

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終わりに

57 人麻呂の詠んだ「阿騎野の冬猟歌」が初期万葉集のクライマックスである。そして、巻一の最終歌には何が置かれていたのだろうか。

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現在残されている「万葉集」で巻一の最後を飾るにふさわしい歌は、78番歌ではないだろうか。

この歌をここに置いたのは、大伴家持か平城天皇か、それは分からないが。


「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春二月藤原宮より寧樂宮に遷る時、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望みて作らす歌」

一書に云う 太上天皇御製(編集した時点で元明天皇は既に譲位していたことになる)と

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば 君があたりは見えずかもあらむ

    一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ    

 長屋の原は、中津道の平城京と藤原京の中間点である。そこで、御輿を停めて明日香に別れの儀式をする。でき過ぎの演出であった。

この時、左大臣石川麻呂は藤原宮に残されていた。元明天皇に従ったのは、藤原不比等右大臣である。「此処で元明天皇に泣いてもらって、藤原宮への未練を断とう」という……その演出をしたのは、藤原不比等を置いて他にはない。


 元明天皇は夫草壁皇子と吾子文武天皇の墓のある明日香を捨て平城宮へ遷都(710)した。藤原宮と平城宮の中間点の長屋の原で、元明天皇は十分に涙を流されたはずである。大きな時代の流れを元明天皇は感じられたことだろう。
 こうして、明日香は「霊魂の漂う京」となった。

時代はこのように変わっていったのである。


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と云うことで、「すぎにし人の形見ぞと」を終わります。
万葉集巻一について、何が書かれているか、十分ではありませんが紹介したつもりです。

後程、詠みやすいように「人麻呂は何故死んだのか」の掲載順を入れ替えます。

また、明日。
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by tizudesiru | 2018-05-20 21:16 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback(84)

持統天皇の紀伊国行幸・紀伊路を歩けば見えてくる謎

玉津嶋磯の浦見の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
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と、紀ノ国で四首を詠んだ人麻呂。こ歌の女性は人麻呂の妻とされています。しかし、私には妻とは思えません。確かめてみましょう。人麻呂は紀伊国で生活したのではないのです。此の歌の人麻呂は、旅の途中です。
紀伊国は、黄葉(もみじば)のようにはかなく逝ったその人の思いでの地です
その人と過ごした(遊んだ)磯を再び訪れるのは、人麻呂にとって悲しく寂しい…そこは形見の地なのです。
形見の地だからこそ、すぎにし人の霊魂が漂っている地だからこそ、ここに来たのです。
その人の霊魂に再会するために、その人が幾たびも来た海辺、思いで深い磯を求めて。
そこは、いにしえに、あの人と一緒に見た「黒牛方」という有名な岩場が見える所。
帰りには「玉津嶋の磯の真砂の臭いを染みこませていこう。あの人も触れた砂なのだから」と
玉津嶋の磯はその人には特別なところだったから、人麻呂はその真砂に触れたいと思ったのでした。


誰の霊魂に触れるために、玉津嶋の磯まで人麻呂は出かけたのでしょうか。わたしは持統天皇の霊魂だと書きました。
。(過去に人麻呂が紀伊国に来たのは、持統天皇の行幸に従駕してのことでした。)

この「紀伊国に作る歌四首」の旅は、ゆったりした観光旅行ではありません。
深い思索と決意のもとに、人麻呂が紀伊国を再訪問した時の歌です。四首には甘い感傷もありません。有るのは亡き人への深い恋慕と敬慕の思いです。
万葉集を読むかぎり、この歌の女性は、普通の人と考えられてはいません。人麻呂がその霊魂に触れに来た女性、霊力のある高貴な女性ということです。霊力は高貴な人に備わったのです。(この時代の人は、そのように考えていたと、古事記などを読むかぎり思います。わたしがこう考えているのではありません。)

この時代の男女は、対等ではありません。女性の性は、すべて族長のものでした。何処に輿入れするかだけでなく、姫君でさえ宴会の引き出物として、お土産のようにやり取りされていたのです。古事記や日本書紀を読んでみてください。少しも対等ではありませんよ。その運命に従うことが、女性の美徳でした。主人の男性が死を賜ったら、女性は共に死んだのです。選択肢は有りません。女性が生き残れるかどうか、すべて男性側の社会が決めたのです。(現代から見ると非常に残念なことですが)

しかし、人麻呂のこの歌の女性は普通の人とは違います。すぎにし人は、霊力を持った人です。「黄葉のすぎにし人」という言葉を、人麻呂はそのように使っています。

この事を確かめに、紀ノ國に出かけてみませんか?
人麻呂が如何なる女性を敬慕したのか、その足で紀伊国を訪ねて確かめてほしいのです。

玉津嶋から始めませんか。持統天皇の紀伊国行幸の跡を訪ねる旅を。スリリングでミステリアスな万葉集の謎を解くために、ぜひ。
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玉津嶋神社
山部赤人の万葉歌碑
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玉津嶋神社の裏山の奠供山には5分で登れます。そこから片男波公園を眺めましょう。古代の紀ノ川の河口は、ここでした。吉野から紀ノ川を下って、玉津島まで来れたのです。奠供山には孝謙天皇の望海楼がありました。聖武天皇も持統天皇も文武天皇も見た風景を偲んでみるのもいいですね。
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名草山
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片男波公園の砂嘴が見えます。
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何処を見ても桜、山桜が素晴らしい。
柿本人麻呂の「紀伊國に作る歌四首」については、既に紹介しています。カテゴリ157「持統天皇の霊魂に再会した人麻呂」その他でも。
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玉津島神社は不思議な伝承の神社です。鏡山に竈門神社もあります。
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そして、牟婁の湯まで行きましょう。
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春は和歌山へ・紀伊国の旅をおすすめ
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紀伊国国分寺の春も最高に美しいですね。

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by tizudesiru | 2018-01-21 01:12 | 和歌山に旅しよう | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
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166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
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170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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