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持統天皇の紀伊国行幸・紀伊路を歩けば見えてくる謎

玉津嶋磯の浦見の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
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と、紀ノ国で四首を詠んだ人麻呂。こ歌の女性は人麻呂の妻とされています。しかし、私には妻とは思えません。確かめてみましょう。人麻呂は紀伊国で生活したのではないのです。此の歌の人麻呂は、旅の途中です。
紀伊国は、黄葉(もみじば)のようにはかなく逝ったその人の思いでの地です
その人と過ごした(遊んだ)磯を再び訪れるのは、人麻呂にとって悲しく寂しい…そこは形見の地なのです。
形見の地だからこそ、すぎにし人の霊魂が漂っている地だからこそ、ここに来たのです。
その人の霊魂に再会するために、その人が幾たびも来た海辺、思いで深い磯を求めて。
そこは、いにしえに、あの人と一緒に見た「黒牛方」という有名な岩場が見える所。
帰りには「玉津嶋の磯の真砂の臭いを染みこませていこう。あの人も触れた砂なのだから」と
玉津嶋の磯はその人には特別なところだったから、人麻呂はその真砂に触れたいと思ったのでした。


誰の霊魂に触れるために、玉津嶋の磯まで人麻呂は出かけたのでしょうか。わたしは持統天皇の霊魂だと書きました。
。(過去に人麻呂が紀伊国に来たのは、持統天皇の行幸に従駕してのことでした。)

この「紀伊国に作る歌四首」の旅は、ゆったりした観光旅行ではありません。
深い思索と決意のもとに、人麻呂が紀伊国を再訪問した時の歌です。四首には甘い感傷もありません。有るのは亡き人への深い恋慕と敬慕の思いです。
万葉集を読むかぎり、この歌の女性は、普通の人と考えられてはいません。人麻呂がその霊魂に触れに来た女性、霊力のある高貴な女性ということです。霊力は高貴な人に備わったのです。(この時代の人は、そのように考えていたと、古事記などを読むかぎり思います。わたしがこう考えているのではありません。)

この時代の男女は、対等ではありません。女性の性は、すべて族長のものでした。何処に輿入れするかだけでなく、姫君でさえ宴会の引き出物として、お土産のようにやり取りされていたのです。古事記や日本書紀を読んでみてください。少しも対等ではありませんよ。その運命に従うことが、女性の美徳でした。主人の男性が死を賜ったら、女性は共に死んだのです。選択肢は有りません。女性が生き残れるかどうか、すべて男性側の社会が決めたのです。(現代から見ると非常に残念なことですが)

しかし、人麻呂のこの歌の女性は普通の人とは違います。すぎにし人は、霊力を持った人です。「黄葉のすぎにし人」という言葉を、人麻呂はそのように使っています。

この事を確かめに、紀ノ國に出かけてみませんか?
人麻呂が如何なる女性を敬慕したのか、その足で紀伊国を訪ねて確かめてほしいのです。

玉津嶋から始めませんか。持統天皇の紀伊国行幸の跡を訪ねる旅を。スリリングでミステリアスな万葉集の謎を解くために、ぜひ。
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玉津嶋神社
山部赤人の万葉歌碑
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玉津嶋神社の裏山の奠供山には5分で登れます。そこから片男波公園を眺めましょう。古代の紀ノ川の河口は、ここでした。吉野から紀ノ川を下って、玉津島まで来れたのです。奠供山には孝謙天皇の望海楼がありました。聖武天皇も持統天皇も文武天皇も見た風景を偲んでみるのもいいですね。
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名草山
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片男波公園の砂嘴が見えます。
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何処を見ても桜、山桜が素晴らしい。
柿本人麻呂の「紀伊國に作る歌四首」については、既に紹介しています。カテゴリ157「持統天皇の霊魂に再会した人麻呂」その他でも。
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玉津島神社は不思議な伝承の神社です。鏡山に竈門神社もあります。
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そして、牟婁の湯まで行きましょう。
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春は和歌山へ・紀伊国の旅をおすすめ
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紀伊国国分寺の春も最高に美しいですね。

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by tizudesiru | 2018-01-21 01:12 | 701年紀伊国行幸・持統天皇が触れた砂 | Trackback

難波天皇と持統天皇の運命の人・間人皇后

持統天皇の難波宮行幸

持統天皇と難波宮とは深い因縁があるということでしょう。

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朱鳥元年に前期難波宮は全焼したと書かれていますし、発掘の結果でも掘立柱の焼け跡が確認されています。その後に建てかえられたのでしょう。持統天皇即位以後も、節目ごとに各天皇の難波宮行幸がありました。各天皇と難波宮のかかわりを見ましょう。
白雉三年~五年(652~654)孝徳天皇の皇居(五年に崩御)
斉明六年十二月(660) 斉明天皇行幸(百済救援の武器をそろえるため) 
天武八年十一月(679) 天武天皇、羅城を築く
天武十二年十二月(683) 天武天皇、難波宮を第一の陪都と定める
朱鳥元年正月(686) 難波宮全焼

持統六年四月(692) 有位の親王以下、少初位下相当に至るまでに、難波大蔵の鋤を賜う
持統□年 (69□)  持統太上天皇行幸(万葉集に行幸時の歌あり)
文武三年ー~二月(699) 文武天皇行幸(大宝令成定の前年)
慶雲三年九月(706) 文武天皇行幸(崩御の前年)
養老元年二月(717) 元正天皇行幸(即位三年目)
神亀二年十月(725) 聖武天皇行幸(即位二年目)
神亀四年二月(727) 聖武天皇、難波宮を造営(後期難波宮)

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難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、白雉三年(652)に完成しました。この都は経済的・政治的な面だけではなく、外交の面からも重要な港を持ち、選び抜かれた本格的な皇都だったのでした。「乙巳の変」後の新しい政治を象徴する都だったのです。
この皇都から、白雉四年に中大兄は母(斉明天皇)と妹(間人皇后)や役人らを率いて倭京に帰っています。東宮という立場でありながら、天皇の皇后まで連れて倭京に帰るとは、異常事態です。(天智天皇は難波宮を捨てたのです。だから、持統天皇が難波宮を重視するのは天智天皇との関わりからではありません。他に理由があるのです)
中大兄皇子の倭京への引き上げは、孝徳天皇にも信じられない状況でした。
孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が書紀にありましたね。
金木つけ 吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか
後宮の皇后を連れ出せる人とは、それは誰なのか、様々に取りざたされました。間人皇后と中大兄皇子が恋仲だったという説もあります。翌年の白雉五年に孝徳天皇が病に倒れたので、間人皇后は中大兄と難波宮に天皇を見舞いました。皇后はそのまま難波宮に残ったのでしょう。玉璽を預かり中宮天皇となったのですから。

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中宮天皇の存在については、これまでも紹介してきました。
難波宮天皇(孝徳天皇)は病が重篤となった時、間人皇后(はしひとのこうごう)=中宮天皇に玉璽を渡したので、「玉璽を持たない天智天皇は、中宮天皇が薨去するまで極位につけなかった」といいました。
また、中宮天皇の実在は、野中寺の小さな仏像の「野中寺弥勒菩薩半跏像銘(やちゅうじみろくぼさつはんかぞうめい」文の干支で確認されています
。この銘文の中宮天皇として斉明天皇と間人皇后が考えられていますが、さて銘文は、母の斉明帝(661年没)、娘の間人皇后(665年没)のどちらを指すのでしょうか。「丙寅年四月大旧癸卯」の丙寅癸卯が重なるのは、天智五年(666)だけです。
しかし、二人の没年を見ると、天智五年(666)に病気平癒をねがったのなら、どちらも没しているので該当しません。では、銘文を読みましょう。

丙寅(ひのえとら)四月大旧(だいきゅう)八日 癸卯開に記す。栢寺(かしわてら)の知識等、中宮天皇の大御身、労(いたづ)き坐(ま)しし時にいたり、誓願し奉る弥勒像也。友等人数一百十八、是に依りて六道の四生の人等、此の数に相(あ)うべき也。

「栢寺」について*何処にあったのか不明です。
「大旧」について*持統四年に採用された新暦では四月は29日で、旧暦(元嘉暦)では30日となり、29日を「小の月」30日を「大の月」ということで、「大旧」とは「四月が旧暦では大の月だった」という意味だそうです。(では、旧暦と新暦が同時に使われている時期に銘文が彫られた弥勒像だとなりますね。すると、銘文は持統四年より後の時代のものです。)
癸卯開の「開」について*「開」は暦用語で、造営・治病に良いとされる日だそうです。

「大旧」が「旧暦の大の月」であれば、銘文が持統四年より後に彫られたとなり、中宮天皇の病が重篤になった時に像が作られ、銘文はその後に由来を知る人により彫り込まれたとなりますね。では、誰が彫ったのか。そもそもどなたの病気平癒を願って、誰が造らせたものなのでしょう。
仏像が間人皇后のために造られたのであれば、天智天皇の時代の誰か、中宮天皇の身近な人が造ったとなりましょう。さて、間人皇后の没年ですが、野中寺の銘文が正しいとすると、書紀の没年とは一年ずれることになりますが、そのずれの原因は書紀の記述の混乱かも知れません。その例を書紀から探してみましょう。

日本書紀の斉明紀・天智紀には一年ずれる重出記事がある
一つ例を挙げてみました。
斉明六年(660)の十二月に、斉明天皇は難波宮に行幸しますが、それは百済救援のための武器を調達するためでした。660年に百済の王たちは唐に連行されていますから、事実上百済は滅びました。王家の血族でもあった鬼室福伸が救援軍を要請したので、斉明帝が難波行幸したとなっています。そして、七年(661)の正月に出航して三月に筑紫の娜大津(なのおおつ)に到着するのです。(斉明帝の行動が早すぎます。)
高句麗の僧・道顕の「日本世記」によれば、七年(661)四月に鬼室福伸より「王子・豊璋を迎えることを乞う」と使いが来ています。斉明天皇は朝倉宮に遷り、七月には崩御となるのです。中大兄皇子が称制し、九月に豊璋に五千の護衛の兵をつけて百済に送りました。そして、明日香に戻り、天皇の殯宮は川原宮で行われました。一旦、明日香に引き揚げたということです。(この後、中大兄皇子は筑紫に行かなかったのでしょうか)
天智一年(662)五月に安曇比羅夫が軍船百七十艘を率い、
豊璋を百済に送りました。
百済の王子・豊璋は百済に二度も帰国したことになります。
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(福岡の恵蘇八幡神社・木の丸殿の址といわれています)

書紀の記述に重出があることはよく知られています。記録が二重にあって、どちらが正しいか分からないのでしょうか。そうであれば時期の整合性も無くなります。わたしは「間人皇后の没年記事も、一年早いのではないか」と思うのです。
斉明天皇の筑紫への征西(661正月)は早すぎます。難波宮で調達した武器はあっても、船も兵もないのです。書紀では、百済救援の武器を修繕し、船舶を準備し、軍兵の食料を蓄えるのは、天智一年(662)になっています。二万七千人の出兵は天智二年(663)のことです。


間人皇后の没年は正確ではない可能性があると思うのです。
野中寺の仏像は、中宮天皇の関係者が病気平癒を弥勒像に祈ったか、平癒を願って仏像を造らせたか、です。白村江敗戦後に手に入れた仏像に、中宮天皇の病気平癒を祈っただけかも知れません。その事を後の時代になって、「この仏像には高貴な方との特別な関わりがあることを忘れてはならない」として彫らせたものかも知れません。仏像と銘文の製作は一致しないと思うのです。ただ、中宮天皇という女性の実在は動かせないのです。

中宮天皇は誰だったのか、それが問題です。万葉集には「中宮天皇」という言葉はありません。中皇命とはありますが、それは、間人皇后を置いてほかにはないのです。玉璽を預かる立場の后と考えるならば。

他に、中皇命と同じ立場の女性を表す詞として、次のような資料があります。
「仲天皇」・天平九年『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』天智后倭大后
「中都天皇」・『続紀』巻三〇、神護景雲三年十月詔  草壁皇子妃、のち元明天皇
「中宮天皇」・河内野中寺弥勒菩薩像台座銘 (斉明天皇・間人皇后)


「中・仲・中都・中宮」天皇という言葉には、中継ぎとして玉璽を受け継ぐべき立場の女性という意味があります。しかも、間人皇后=中皇命=中宮天皇 を指すという、理由がまだ野中寺にあります。
この寺は「中の太子」と呼ばれ、「聖徳太子の命によって蘇我馬子が建立した」と伝えられています。叡福寺が「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺が「下の太子」と呼ばれています。この辺りを本拠地としていた船史(ふなのふひと)氏の氏寺として創建されたそうです。創建当時は、東西に金堂と塔が並ぶ伽藍であったそうです。
百済系渡来人の船史氏の寺が、何ゆえ「聖徳太子と結びついた」のでしょう。ここで、叡福寺古墳の三骨一廟が思い出されます。穴穂部間人皇后が共に埋葬されているという伝承です。この事は以前にも書きました。(穴穂部間人皇后は、義理の息子と再婚しているのです。聖徳太子の母として同じ墓に入る理由はうすいのです。既に、大后ではありません。玉璽を預かる立場ではないのです。)
最近のブログで、叡福寺古墳は孝徳天皇と間人皇后と斉明天皇の墓であると紹介しました。そうです、同じ間人皇后に関わるのです。野中寺は間人皇后の病気平癒を願い、薨去の後は菩提を弔ったのかも知れません。聖徳太子信仰の高まりにより、同じ名を持つ間人皇后の関係で「中の太子」と呼ばれるようになったのでしょう。
伝承には深い意味があると思います。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸した

行幸の目的は、亡き難波天皇への報告ではないでしょうか。いよいよ律令が完成し、元号も建てることになりましたと、それまでの天皇ができなかった建元をしたのです。画期的な事だったはずです。だからこそ、文武天皇も行幸したのです。
前回に万葉集巻二の冒頭歌の題詞に出てくる「難波高津宮天皇」について紹介しました。
この難波天皇は、大方の解説者のいうように「仁徳天皇、または孝徳天皇」とは考えられないと書きました。難波天皇は「ある日出かけたまま帰って来ない天皇」で、その帰りを待ち続ける皇后(磐姫)がいて、「白髪になるまでも待ち続けよう」という歌でした。続く軽太郎女皇女の歌は、皇位継承事件を詠んだものでした。「皇太子が行ってしまってから日が経ってしまったが、迎えに行こう、待ち続けることはできない。」と進みだした歌でした。
巻二の冒頭歌六首は、有間皇子事件を知らしめる歌だった。そのように編集されたのが巻二だったのです。と、紹介しています。


難波天皇に所縁の深い乙女(持統天皇)を救ったのは、中皇命(中宮天皇)を置いて、他にはないでしょう。将に、中皇命が持統天皇の命運を握り、守ったと思います。なぜなら、愛する人の忘れ形見だったから、ではありませんか。

持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に残されているのです。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸していますから
難波宮とは深い因縁があったということです。この深い因縁は尋常ではありません。歴史の闇に取り残された事実を、「万葉集・野中寺の仏像・難波宮への行幸」が語り続けていると思います。


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by tizudesiru | 2018-01-16 03:04 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

万葉集巻二の難波天皇・持統天皇の出自を暗示する

皇都の遷都は政変と重なる
欽明・敏達・推古・舒明帝の時代は、大王の館が政治の中心でしたから皇居は次々に変わりました。が、難波宮・近江京・藤原宮・平城京・長岡京・平安京などの遷都は、いずれも政治の転換点であり、政変が絡んでいました。また、最初の皇都である孝徳天皇の難波宮(652年完成)は、先達として後世の都のモデルとなりました。天武十二年(683年)、天武天皇は難波宮を第一の陪都と定めました。難波宮に持統天皇や文武天皇が何度も行幸しましたが、それは何を意味したのでしょうか。藤原宮は難波宮をモデルに作られたのです。朝堂院内の堂の並びや数、敷地の東西の幅など、両者には共通点があります。高市皇子や持統帝の意思で作られた藤原宮には難波宮への特別な思いが窺えますが、それは何ゆえに生まれたのでしょうか。
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難波宮大極殿と天香具山をラインでつなぐと、直線は藤原宮の大極殿を通りました。孝徳天皇が難波宮に暮らしたのは、白雉三年から五年の間(652~654)わずか二年です。藤原宮が難波宮を意識して造営されたとしても、白雉五年での持統天皇は九歳くらいで高市皇子は生まれたばかりですから、関わりがあっても高市皇子ではないでしょう。では、藤原宮御宇天皇である持統天皇にとって、難波宮はどんな意味があったのでしょう。
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難波宮天皇と持統天皇陵のつながりは?

藤原宮は15年(足かけ17年)で捨てられましたが、難波宮は百年以上使われました。この違いはなんでしよう。難波宮は持統天皇にとってどんな意味があったのか、ラインでも見ます。
難波宮から天武持統陵(野口王墓)にラインを引きました。すると、ラインは真の欽明陵といわれている見瀬丸山古墳(五条野丸山)を通り野口王墓に届きました。
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このラインが王墓造営の時に意識されたと、断定はできません。しかし、持統天皇と難波宮には何かしらつながりがあると、思いました。宮殿にしても陵墓にしても、造営する時に何の意味もない土地が選ばれることはないと思うのです。
そこには、陵墓を造った人の意思、宮殿を造った人の思いが絡んでいるはずです。
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天智陵を天武持統陵と結ぶ(ピンクのライン)と、藤原宮の大極殿を通ることは、何度も紹介しました。王墓はその位置に意味がある、都も然りです。

では、難波宮と持統天皇とを結びつけるものは、何なのか。
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ここで、万葉集の巻二に気になる天皇の存在があります。
万葉集巻二の冒頭歌に「難波高津宮天皇」が登場するのですが、(その皇后の歌・四首は既にブログでも紹介しています。)難波天皇は仁徳天皇とされ、その皇后・磐姫が「帰って来ない天皇を待ちのぞむ」歌でした。しかし、古事記や日本書紀では逆で「出て行って帰って来なかったのは磐姫皇后」の方で、皇后に「帰って来てほしい」と歌を詠み続けるのは仁徳天皇の方なのです。二人の状況が記紀と万葉集では逆転しているのです。
万葉集の歌は叙事詩と云われていますから、物語を創作してお話の世界を詠んだ歌とは考えられません。それも、巻二の冒頭歌ですから、ただ偶然に掲載されたのではないでしょう。(万葉集の各巻の冒頭歌には深い意味があります)
すると、難波天皇は何かの事情で長い間不在と云うことになります。しかも、仁徳天皇ではない可能性が大きいと思います。(仁徳天皇の難波高津宮はまだ不明です、長い間探し続けられていますが。)

いったい、万葉集の難波天皇は何処へ行かれたのでしょう。

当時、万葉集を読んだ人たちには、巻二の冒頭歌の意味も、難波天皇の不在の理由も分かったのでしょうか。分からなかったなら、脚注などが付けられたでしょうから。

 難波の高津宮に天の下知らしめす天皇の代(大鷦鷯天皇、諡して仁徳天皇という)
 磐姫皇后(いわのひめのおほきさき)、天皇を思(しいの)ひて作らす歌四首

85 君が行き けながくなりぬ 山たづね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ

磐姫皇后の四首(85・86・87・88)に続けて、「或本の歌一首」が古歌集より載せられています。「89 居明して君をば待たむ ぬばたまの吾黒髪に霜はふるとも」、白髪になっても待ち続けますというのです。そこまで長い不在なんて、状況として考えにくいです。

難波天皇の長い不在の理由は何でしょうか。実は、その理由が暗示されていると思うのです、次の歌を使って。ある事件が暗示されていると…

そこに、政権に巻き込まれた高貴な人の運命が
次にあるのは、軽太郎女(かるのおおいらつめ)=衣通姫(そとほりひめ)の歌です。

90番の歌の前後に長い題詞と長い左脚があり、この歌について説明されています。
古事記に曰く
軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女に姧(たは)く。その故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおおきみ)恋慕(しのひ)に堪(あ)へずして追い往く時に、歌ひて曰く


90 君が行き けながくなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つには待たじ


まるで磐姫皇后の歌に似ています。
古事記によると、軽太郎女皇女は木梨軽皇子の妹で、その美しさのために同母兄の木梨軽皇子に愛されてしまった人でした。木梨軽皇子は皇位継承者でしたが、禁断の愛の為にその権利を奪われ、遂には軽太郎女と共に自殺してしまうのです。

不思議な運命の糸が絡む歌・巻二の冒頭歌に続く「木梨軽皇子の事件」の歌
木梨軽皇子は允恭天皇の皇太子で、允恭天皇は仁徳天皇の御子ですから、軽皇子は仁徳天皇(難波天皇)の孫になります。つまり難波高津宮天皇の孫の皇位継承者の悲劇的な事件の歌なのです。その事件の歌が、磐姫皇后の歌に並べられているのです。よく似た歌として。
木梨軽太子は皇太子ですから、めったなことでは皇位継承権を奪われることはありません。そこへ「禁断の愛」です、書紀では「汁物が凝ったので占ったら、事が明らかになった」というのです。古事記では、「皇子が二人の関係を歌にした」から人々が知ったことになっています。
占いと歌でしたから証拠は曖昧なもので、弟の穴穂皇子側の陰謀の臭いもしてきます。


万葉集巻二の冒頭歌(85~90)は、難波天皇の事件にかかわる歌ではないか

万葉集が持統天皇の意思を汲んで編纂されたものであるなら、そこに女帝の願いや思いがあるでしょう。難波天皇と呼ばれる人は決して架空の天皇ではない、とわたしは思います。
その人は、皇位継承者であり、近親者によりおとしめられ、陰謀により皇位継承権を奪われ、そして命も奪われた。更に、彼を愛した女性は皇女であり(皇后でもあった)、更に、帰らぬ天皇を追って迎えに行った人、となるのです。
すると、難波天皇は仁徳天皇ではない。難波天皇は実在した人であるが、孝徳天皇でもない。

では、誰なのですか? 答は既に何度も何度も書いてきました。

難波天皇と呼ばれる人物は、有間皇子事件の当時者=有間皇子以外にいないのです
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その人は、持統天皇の所縁の人です。持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に「太上天皇、難波行幸の時の歌」掲載されているのです。持統天皇は難波宮を特別に思っていたのです。しかも、
万葉集巻二の冒頭は、「有間皇子事件」に関わる歌となっています。そして、同じ巻二の「挽歌」の冒頭も「有間皇子の自傷歌」です。
万葉集の巻二の編集の目的、それは「有間皇子事件」の告発なのかも知れません。誰もが知っている「事件」だったのでしょう。事件は歌の形を借りて、文武帝に伝達されようとしたのです。が、文武帝は奏上の前に崩御されました。
難波天皇が有間皇子を想定しているのなら、皇子は即位していたか、即位してもいい状態だったか、皇太子として準備をしていたか、いずれでしょうか。その皇子が突然あらぬ疑いをかけられて、連行された。誰もが心配したでしょう。
孝徳天皇の後宮は有間皇子の後宮に移動していたでしょうから、間人皇后は当然『次の天皇の後宮に遷る』ことを承知していたはずです。

だから、間人皇后は有間皇子の後を追いかけて行ったのでした。「君が行き日(け)ながくなりぬ」だったからです。
しかし、事件は悲惨な結果となり、間人皇后は、しばらく日本海側の間人(たいざ)という港に隠れたのです。一人ではなかったでしょう。後宮の女性たちが一緒だったでしょうし、その中に有間皇子の子女もいたと思います。
そして、皇后は玉璽を守っていたのです。
やがて、皇后は摂津に返ります(難波宮かもしれません)が、そこで病に倒れたのでした。
人々は勇気のある、しかも賢く美しい皇后=中宮天皇の病気平癒を願ったことでしょう。
皇后が摂津に戻った時、鵜野皇女が間人皇后から引き離されていたかも知れません。
高貴な乙女であれば、後宮に召される他に選択肢はありませんでした。だから、当然、天智帝の後宮に入れられたのです。


藤原宮は捨てたのに難波宮は大事にされるとは
更に、727年に聖武天皇は難波宮を瓦葺の宮殿に建てかえました。その理由は、簡単です、所縁の宮殿だったからです。聖武天皇と難波宮との深い因縁無くして、考えられないことです。

その難波宮を捨てるのは桓武天皇で、延暦のころ、平安京遷都(延暦十三年・794年)の二年ほど前です。桓武天皇はどんなに立派でも難波宮はいらなかったのです。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸しています。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸しています。行幸の目的は古を偲ぶことでしょうか。
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難波宮と持統天皇は深い因縁があったということです。
ここで、これまでに書いて来たことを確認しました。次は、持統天皇の難波行幸の歌を詠みましょう。
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では、また後で。




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by tizudesiru | 2018-01-12 17:32 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

草壁皇子と天智天皇の関係は秘密ではなかった

天智天皇は草壁皇子と義淵を共に岡宮で育てた
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竜蓋寺(岡寺)は吉野の竜門寺と共に義淵僧正が国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈って建立したものであると、「竜門寺縁起」に書かれています。
岡寺(竜蓋寺)には草壁皇子の宮跡を賜って、義淵が寺にしたと伝わります。が、寺の建立の目的が国家と藤原氏のためだったと「竜門寺縁起」はいうのです。ここで分かるのは、義淵と藤原氏を結びつける何かがあった、草壁皇子の宮跡を賜る縁もあった、と云うことです。
また、「竜蓋寺伝記」は、『高市郡に住む津守氏と阿刀氏の夫婦が多年子どもがないので観音に祈ったところ、夜に柴垣の上に白帖に包まれた小児を得、養育していたが、その事を聞いた天智天皇が引き取って日並皇子(草壁皇子)とともに岡宮で育て、やがて長じて義淵になった、その義淵が岡宮を賜って寺とした』と書かれています。
義淵が僧正に任ぜられたのは、大宝三年(703)でした。その数年前の文武三年(699)に義淵はその学行を賞され稲一万束を賜っています。それは、持統太上天皇の目に留まり、「天智天皇の元で草壁と共に育ったあの義淵がここまで成長したのか」という思いの結果だったのでしょうか。

ここで、「天智天皇が育てた」という文言が気になります。以前、わたしは持統天皇と天武天皇が草壁皇子と義淵を共に育てたと思っていました。しかし、「竜蓋寺伝記」では、天武帝ではなく天智帝なのです。
この時代の結婚の形として、娘の生んだ子供は実家が面倒をみたという意味で「天智天皇が岡宮で育てた」と書かれたのでしょうか。では、天智天皇は岡宮に住み、鵜野皇女の実家は岡宮だった? となるのでしょうか。
それとも、「竜蓋寺(岡寺)伝記」は、草壁皇子の父親は天智天皇だったと伝えているのでしょうか。
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義淵は草壁皇子と共に育ち、後に賜った岡宮を寺として「国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈った」と云うことは、藤原氏の後ろ盾があって僧正になったのでしょう。では、藤原氏が「僧正」に義淵を押した理由です、どんなつながりがあったのでしょうか。

藤原氏と義淵を結びつけたのは、やはり天智天皇でしょう。藤原氏は鎌足以来、「藤原」の姓を賜った天智天皇を如何なる時も主上と仰いできました。「天智天皇が育てた義淵」として、僧正に押したと思います。
義淵は神亀四年(727)に俗姓「市往(いちき)」氏を改めて「岡連」の氏姓を賜りました。新撰姓氏録によると、市往(いちき)公は百済国明王の出自で、岡連と共に百済系の人です。
すると、義淵はいつ百済から大和に来たのでしょうか。白村江敗戦後でしょうかね。白村江敗戦後、天智天皇は百済人を多く起用しています。大友皇子に百済人を仕えさせたように、草壁皇子の傍にも百済の少年を置いたのかも知れませんね。


今日の結論として、義淵と草壁皇子の関係から、育てた天智天皇とのつながりはまだはっきりしません。しかし、万葉集を読むかぎり、持統天皇(鵜野皇女)の父親は天智帝とは考えられません。しかし、鵜野皇女の天智天皇に対する思慕は尋常ではありません。それで、父親ではないなら夫だった、草壁皇子の父だったと読んだのです。

万葉集は、その事を隠してはいませんでした。見えなくしたのは、平城天皇です。この事は何度も書きましたね。
今年も、万葉集を読みます。一つの読みで万葉集のほとんどが変わる。その事を紹介したいと思っています。


万葉集は文武天皇の為に編纂された
編纂を命じたのは持統天皇、実働したのは柿本人麻呂
草壁皇子の皇統の正しさを文武天皇に伝えるために、万葉集は編纂された
文武天皇は十五歳で即位しましたから、周囲の政治的状況も十分にはつかんでいなかったでしょう。その困難な政治的状況を生き抜いていくには、ゆるぎない皇統であるという確信が必要だったのです。皇統や血統やどの氏に属するかが何より大切で、それによって地位が決定されるという、血統が財産と同じであった時代ですから。
故に、孫に譲位した持統天皇には伝えたいことがあり、「人麻呂に「遺言としての万葉集を編纂」させたと思います。

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持統→草壁→文武の皇統がどのような運命をたどり、誰の皇統を引き継いだのか、これから誰に受け継がれていかなければならないのか、持統天皇は「近江県の物語」を人麻呂に託したのです。愛する者の為に「皇統の真幸」を願って、歌集を編纂させたのでした。
万葉集で、すぎにし人を意味する「葉(もみじば)」、それはただ一人「草壁皇子」を象徴する詞でした。万葉集で人麻呂は黄葉を「すぎにし人=死者・故人」として使いました。集中に「もみじば」として黄葉・紅葉はあっても「葉」だけで「もみじば」と読むのは、一か所だけです。それは、草壁皇子を意味しました。皇位継承の霊魂に触れる儀式の時に使われた詞でした。
万葉集は、文武天皇に「父・草壁皇子の皇統の真実」を伝えるために編纂されたのです。
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(去年の一月に訪れた岡寺)
岡宮で草壁皇子と一緒に義淵をそだてたのは、天智天皇だった
それは、草壁皇子に教養を身に着けた子どもと共に育ってほしかったからです。父親としての教育の一貫だったと考えられませんか。

そして、天武朝でも、吉野盟約の時も、秘密にしていなかったと思います。少なくとも、持統天皇が生きている間は。
しかし、文武天皇崩御の後、元明天皇が即位する時、大問題になったと思うのです。天武帝の皇統の皇子達が存命中なのに、天智帝の娘の阿閇皇女(元明天皇)が即位するのですから。天武朝の皇統ではない女帝が即位するなんて、壬申の乱で勝利した氏族には我慢ならなかったでしょう。軽皇子(文武天皇)即位の場合は持統天皇の孫としてまだ筋が通りましたが、阿閇皇女(元明天皇)の場合は、誰の目にもにも異例だったでしょう。そこを乗り越えて、なんとか元明天皇が即位しようという時に、万葉集が献じられたとしたら…大混乱になったはずです。
だから、人麻呂は処断されたと思うのです。言霊をつかって世を混乱させようとした、として。
それが、柿本人麻呂の刑死の理由でした。では、また。



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by tizudesiru | 2018-01-03 02:11 | 314草壁皇子と天智天皇の関係 | Trackback

天武天皇の後宮に召されなかった明日香皇女・持統天皇との深い関係

天武天皇の後宮に召されなかった明日香皇女
人麻呂の挽歌に わが王おほきみの御名忘れせぬ

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特別だった明日香皇女・それは何故?
柿本朝臣人麻呂に歌を献じられた皇子皇女は、天智天皇の皇統につながる子女で、持統天皇の覚えめでたき高貴な人たちだったと書きました、前回までに。
草壁皇子(689没)川嶋皇子(691没)明日香皇女(700没)高市皇子(696没)のための人麻呂が献じた挽歌が万葉集に残されていますが、挽歌を献じられた四人は、それぞれに特別でした。

中でも、明日香皇女と持統天皇の深い関係を書紀には「持統六年八月十七日、明日香皇女の田荘(なりどころ)に幸す」とあります。田荘は「私有地」ですから、天皇が自ら皇女の私有地に出かけたのです。
また、「持統八年八月十七日、皇女明日香のために沙門百四人を得度せしむ」とあります。104人もの出家者を出したのです。皇女の病気平癒のために。
明日香皇女は、文武四年四月に薨去しました。続日本紀に「弔賻(ちょうふ)は天智天皇の皇女なればなり」と書かれています。公の手厚い弔いの使者が出されたのです。続日本紀からも「天智天皇の皇女として大事にされた」ことがわかります。
でも、その理由は天智帝の御娘だったこと、なのです。それだけなのです。
柿本人麻呂の挽歌を読みましょうか。
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挽歌をみますと、川嶋皇子より長いです。

長歌の長さだけ比べると、草壁皇子=皇太子の挽歌と変わらないか、それ以上の量があります。

併せて短歌が二首
「短歌」とは長歌の中身を繰り返さない歌。「短歌」と「反歌」は使われ方が違っています。長歌の後の「反歌」は長歌と同じ内容を繰り返し歌う時に使われ、新しい内容を詠う時は短歌と書かれます。
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人麻呂は皇女の死を嘆き、明日香の地名がのこるように、皇女の名も忘れないと詠みました。
この人麻呂の挽歌は個人的に献じた歌ではなく、「城上の殯宮の時」の儀式歌です。文武四年に公の葬儀の場で献じられた挽歌なのです。文武天皇と持統太上天皇は、明日香皇女の葬儀を「忍坂部(刑部)皇子の妃」ではなく「天智天皇の皇女」として行わせたのでしょう。
考えてみると、持統八年に行われた病気平癒を願っての百四人の得度は不思議です。
草壁皇子の長女・氷高皇女の病気の時は、百四十人が得度しましたから、幼い皇女でも氷高皇女(元明天皇)は特別な存在でした。明日香皇女も同じように特別だったと云うことです。それは、なぜ?(草壁皇子=皇太子には得度の記事はありません。
特別だった理由が「天智帝の皇女だった」だけでは、他の皇子皇女との釣り合いがとれません。)

こんな特別な姫君なのに、なぜか天武天皇の後宮に召されませんでした。

壬申の乱後(672)、天武朝では滅ぼした王朝の女子を一人も他へはやりませんでした。高貴な血統を他に漏らすつもりはなかったのです。
天智天皇の妃には皇族では倭姫皇后一人でしたが、天武天皇は四人の皇女(太田・鵜野・大江・新田部皇女)を後宮に入れ、他の皇女達は息子に与えました。天智朝の姫君を妻に迎えることができたのは、吉野盟約の天武朝の皇子でした。草壁皇子(阿閇皇女)・大津皇子(山部皇女)・高市皇子(御名部皇女)・刑部皇子(明日香皇女)です。他に皇女がいますが、泉皇女は伊勢斎宮となり、水主皇女は不明です。つまり、皇女には自由に相手を選ぶことなどできなかったのです。
(近江朝の総大将・大友皇子の妃であった十市皇女は天武帝の皇女でしたが、子連れで高市皇子の妃となりました。十市皇女にとって高市皇子は敵将であり異母兄であったので、その悩み苦しみが突然の皇女の薨去(自死)につながったことは既に書きました。)

明日香皇女は、天武朝の皇子の中で身分的には最も下位だった刑部皇子の妃になりました。
当時の女性は、其の嫁ぎ先で地位も生活も左右されたのです。妹の新田部皇女は天武天皇の妃となり、姉の明日香皇女は天武帝の御子の忍壁皇子に嫁いでいる、どういう判断でこのような嫁ぎ先になったのでしょう。
母方の出自を見ても明日香皇女は申し分ない氏の出身でしたのに。
明日香皇女の母の橘姫は孝徳天皇の左大臣・阿倍倉梯麿の娘で、父は天智天皇です。
同じ阿倍倉梯麿の娘に小足媛がいました。小足媛は孝徳帝に嫁ぎ有間皇子を生んでいます。橘娘と小足姫は姉妹なのです。明日香皇女は有間皇子の従妹になります。

持統天皇が明日香皇女を特別にした理由は、ここにあるのかも知れません。持統天皇が霊魂を鎮め続ける有間皇子との繋がりです。
だから、明日香皇女を持統帝は特別待遇にしたのです。

持統天皇が有間皇子(孝徳帝の皇子)につながる人であれば、小足媛や橘姫とも深い縁があるのです。明日香皇女が有間皇子の従妹だったから、持統帝は皇女に特別の思いを懐いたのではないでしょうか。

では、天武天皇の後宮に召されなかった理由は何でしょう。
それは、明日香皇女の父は天智帝ではなく有間皇子、または孝徳帝だった、という可能性です。
孝徳朝後宮から有間皇子後宮へ、有間皇子後宮から天智天皇後宮へ、天智天皇後宮から天武天皇後宮へ、女性たちの移動があったと万葉集では読めました。すると、明日香皇女は天智天皇の御娘ではなかったかも知れません。それを知っていた天武天皇は、自分の後宮に明日香皇女を召し入れなかった、のかも知れません。

これが、明日香皇女が天武天皇の後宮ではなく刑部皇子の妃になった理由、です。
阿倍氏の出身で、母が小足媛の姉妹で、有間皇子の従妹で、天智帝の御娘であれば、当然天皇の後宮に召されたでしょうから。

明日香皇女の謎はまだありますが、長くなるので、ここ辺で。





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by tizudesiru | 2017-12-29 22:36 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

人麻呂の挽歌に詠まれた天智帝の皇統・持統天皇は見捨てなかった

古事記・日本書紀は「飛鳥」、万葉集には「飛鳥の明日香」…今日は、歌に込められた「飛鳥の意味を考えます。万葉集には「飛鳥の明日香」は四例あり、先に紹介した「元明天皇の御製歌」ともいわれる歌一首と、柿本人麻呂の挽歌二首と由縁雑歌(巻十六)の一首です。では、「飛鳥」について人麻呂の歌で考えましょう。

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(飛鳥川・豊浦)

 人麻呂は天武朝の皇子のために挽歌を読んだのではなく

天智帝の皇統のために挽歌を献じた

柿本朝臣人麻呂は、長皇子や舎人皇子に献歌していました。なぜ二人の皇子に献歌したのか、その理由は二人が天智天皇の御娘の大江皇女と新田部皇女の所生だったからだと書きました。天智帝の皇統として皇子達を持統帝が認め、人麻呂に献歌させた。天智帝天武帝の孫にあたる二皇子には皇位継承者として、持統天皇も特別に目をかけていたと、書きました。


持統天皇が寵愛していた皇子皇女だったから人麻呂が歌を献じたのであれば、挽歌でも同じことが言えるのではないでしょうか。人麻呂は、草壁皇子、高市皇子、川嶋皇子、明日香皇女に挽歌を献じています。


草壁皇子は持統帝の一人息子ですし、妃は天智帝の御娘・阿閇皇女です。挽歌は当然献じられたでしょう。しかし、後に作られた高市皇子の挽歌よりはるかに短くなっています。そこには「神々に選ばれた皇太子であったのに、自ら天原の岩戸を開き神上がりされた。」と詠まれていました。挽歌から読めるのは病死でも事故死でもなく、自死であったということです。日並皇子尊の覚悟の死を人麻呂は嘆きました。続いて、皇子の急な薨去で途方に暮れる舎人の歌が二十三首ありますが、彼らも皇子の急死に動揺しているのです。既に紹介しています。

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次に、高市皇子の長い挽歌は太政大臣としての地位を示し、妃の御名部皇女を慰めもしたでしょう。御名部皇女は天智帝の御娘で、阿閇皇女(元明天皇)の姉でした。大津皇子・草壁皇子亡き後、高市皇子の存在がいかに大きかったか、人麻呂は皇子の立つ位置をきちんと周囲に挽歌で示しました。高市皇子の子ども達が悲惨な最後を迎える要因はこの挽歌からも詠めるのです。高市皇子の存在は大きすぎましたからね。既に紹介しました。



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(飛鳥川の夕暮れ)
草壁皇子と高市皇子の挽歌は既に紹介していますから、今日紹介するのは「川嶋皇子」の挽歌です。
川嶋皇子は天智帝の御子で、大江皇女の弟です。吉野盟約の時の六人の皇子の一人でもありました。大津皇子の親友でしたが、その親友の謀反を密告しています。
川嶋皇子は持統四年(690)の紀伊国行幸に従駕しています。そこで、持統天皇に歌を献じました。

巻一「紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌 或書に高市連黒人という」
34 白浪の濱松が枝の手向け草幾代までにか年の減るらむ

白波が打ち寄せる浜の松の枝を手向け草として(結ばれて)神に祈られたという。有間皇子が祈られた時からどれほどの月日がたったのだろうか。松はまだここにあるのに。(わたしは有間皇子に逢ったことはないが、話は十分に聞いている。あの方は謀反の罪で命を落とされたが無実だったのだ。わたしは親友だった大津皇子を思い出す。大津皇子も無実ではなかったかと。)

紀伊国行幸(690)の翌年、河嶋皇子は薨去しています。早すぎる死だったのではありませんか。書紀には「皇子川嶋」と書かれ、名より皇子が先に書かれ「皇子川嶋」は敬称とはなっていません。静かに、罪人扱いをしているのです。本当に彼は罪を犯したのでしょうか。

では、万葉集巻二「柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献づる歌一首併せて短歌」を見ましょう。
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「飛鳥明日香」が長歌の冒頭に来ています。この詞で、この長歌が挽歌であると聞き手に理解させてしまうでしょう。「飛鳥」とは「鳥が飛び交う地・霊魂が漂う地・祖霊が鎮まる地」という意味があるからです。「呼兒鳥」でも紹介したように、万葉集の鳥は霊魂の顕れでもありました。

人麻呂は、川嶋皇子の挽歌では敬語を「嬬の命」以外には使っていません。人麻呂は川嶋皇子の薨去を嘆きながら、妻であったという泊瀬部皇女(天武帝の御娘)の立場で歌を詠み、敬語を避けたのです。

人麻呂が心のどこかで皇子川嶋を責めていた、のであれば、持統天皇も同じように皇子川嶋を責めていたのでしょうか。川嶋皇子は天武帝崩御年(686)の八月に封戸を加増されています。九月崩御、十月大津謀反密告の前に封戸の加増だったのです。やがて来る天皇の死「その時は、よろしくな」と、頼んだ人物がいるのです。
そして、紀伊国行幸(690)で「結松」の歌を詠んだ翌年の一月にも封戸の加増があり、同じ年の九月に没しています。この流れを見ると、川嶋皇子は高貴な人に利用されたようにも見えます。

しかし、人麻呂は川嶋皇子の挽歌を読みました。そこに持統天皇の気持ちがなかったはずはありません。持統天皇は知っていたでしょう。皇子川嶋が皇位継承に関して「草壁皇子か、大津皇子か、どちらの皇統を選ぶか」と迫られた時、深く苦しみ悩んだことを。
天武帝の病が重篤になるにつれて、周囲が暗躍したのは間違いありません。川嶋皇子も「吉野盟約の六人の皇子」として、判断を迫られたでしょう。
その時、川嶋皇子が判断の拠所としたのは何だったのか。それが問題です。


彼はなぜ親友の大津を選ばなかったのか。
そこには、皇統の秘密が絡んでくると思うのです。川嶋皇子は天智天皇の御子なのです。大津皇子は天武天皇の御子でした。二人の皇統は違っていました。
天智と天武のどちらの皇統を選ぶのか、河嶋皇子は迫られたのです。

草壁皇子が天智天皇の御子だったからこそ、皇子川嶋は親友を捨てることができたと思うのです。それは断腸の決断だったことでしょう。

結果として、大津皇子を指示した勢力を納得させる理由が謀反だった・・・そして、結果として川嶋皇子の決断が利用されてしまったのです。

皇子川嶋は苦しんだでしょうし、それを知った草壁皇子も苦しんだでしょう。その皇位継承のごたごたは、草壁皇子の死を招きました。その翌年、持統天皇は川嶋皇子を見捨てず紀伊国にも連れて行った、そう思いませんか?

持統天皇は天智天皇の皇統の皇子を決して見捨てなかったのです。だから、人麻呂は挽歌を読みましたが、そこには敬語はなく「高光る」という皇統を示す言葉もありません。皇子川嶋は「飛ぶ鳥の明日香」の霊魂となったと詠んだのです。

人麻呂の歌には、持統天皇の川嶋皇子への哀惜の情がせつせつと漂うのです。
挽歌を読むかぎり、持統天皇は決して天智天皇の皇統の川嶋皇子を見捨てなかったと、わたしは思います。 


飛鳥」が「アスカ」となったのは、人麻呂の歌より後の時代です。
明日香が霊魂の地として定着したから、平城遷都の時に元明天皇に「飛ぶ鳥 明日香の里を…」と詠まれたのです。飛鳥は決して明日香の美称ではないし、とても政治的な言葉でもあります。

過ぎ去った人々の霊魂が漂う地であり、都ではない、という意味です。
「飛鳥の明日香」という言葉を造り出したのは、人麻呂なのかも知れませんね。

次は、明日香皇女に献じられた挽歌です。



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by tizudesiru | 2017-12-26 12:27 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

明日香と泣いて別れた元明帝と不比等の演出


飛鳥明日香と藤原宮を捨てて平城京へ

それは、不比等の演出だった
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和銅三年(710)、藤原不比等は五十歳を越えていました。
これまで、娘の宮子を文武天皇の夫人として深く後宮に入り込み、持統天皇崩御(701)後から平城宮遷都をもくろんでいました。
和銅三年、平城宮遷都がついに実現し、元明天皇は藤原宮を去りました。

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万葉集巻一78に、元明天皇の明日香への別れ歌があります。
和銅三年、平城宮遷都の時の歌です。わずか16年で藤原宮は捨てられました。あの瓦葺の条坊を持った周易の風水にかなったという藤原宮が捨てられた、のです。いかなる理由があったのでしょう。

和銅三年庚戌の春の二月、藤原の宮より寧樂の宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め、古郷をを廻望(かえりみ)て作らす歌 
 一書には「太上天皇の御製」といふ

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
  一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ

飛ぶ鳥の明日香の里、この里を置いて行ってしまったならば、あの方の眠っていらっしゃる辺りは見えなくなってしまうのだろうか。

 一書 がいらっしゃる辺りを見ないですごすのであろうか、これから。

平城宮の辺りの新城への遷都の話は、天武五年(678)から始まりました。しかし、天武十二年(683)に方針が変わり、藤原の地が選ばれ持統天皇八年(694)に藤原宮に遷りました。藤原宮での16年間に、高市皇子・弓削皇子・新田部皇女・大江皇女・明日香皇女・大伯皇女・持統天皇刑部皇子文武天皇但馬皇女が世を去りました。持統天皇崩御(702)から遷都話は起こり文武天皇崩御(707)の翌年、和銅元年(708)平城京地鎮祭が行われました。
そして、和銅三年の遷都、遂にその時が来て詠まれた歌です。
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それは、不比等の演出だった
藤原宮を去る時、宮殿跡はさら地になっていました。宮殿の移築で瓦も柱も平城宮に持って行ったからです。それを見た時の元明天皇の心のうちは如何ばかりだったでしょう。
行列が長屋の原にさしかかると、御輿は停まりました。平城宮と藤原宮の中間点(長屋の原)で…そこで古京を振り返ります。耳成山が見え、畝傍が見え、天香具山が見える、そんな処で御輿を停めて歌が詠まれました。

飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
ここで、元明天皇は涙されたでしょう。

夫であった草壁皇子、愛しい吾子の文武天皇、心の支えであった持統天皇と共に過ごした飛鳥の明日香をすてるのです。
元明天皇の心情がそのままに詠まれ、女帝は涙されたはずです。「一書に、太上天皇の御製という」のは、女帝の心裡をそのまま詠んでいたからだと思います。女帝を泣かせる演出をしたのは、藤原不比等でした。
彼は明日香と藤原宮への未練を断ち切る儀式を中ッ道の中間点で行ったのです。
この時の左大臣は石川麻呂、右大臣は藤原不比等です。左大臣石川麿は藤原宮の留守司に任命されていました。藤原宮で天皇の御輿を見送ったでしょう。

別れの儀式を演出できたのは、藤原不比等を置いて他にはおりません。彼は文武天皇の外戚として元明天皇に寄り添い、その心裡までおもんばかっていたでしょう。
左大臣石川麿は、上手に廃除されていたのでしょうか。

よく考えてみると、彼がこれから元明天皇を誘う平城京は、藤原氏のための都となっていました。藤原氏の興福寺が帝のお住まいを見下ろす位置に造営されていますからね。


なぜ飛ぶ鳥の明日香は捨てられたのか

其の答は、単純です。そこは、藤原宮は高市皇子が造営した都だったからです。大津皇子の意見を取り入れて選ばれた都だったからです。天武帝の純血統の都だったからです。
持統天皇はそれでもよかったのですが、藤原氏は嫌だった、のです。

天智系の草壁皇子系の都が欲しかったのです。真の王朝として、北に天子の宮殿を戴く都が欲しかった、そして、その京を我が藤原氏が守ると、密か計画し堂々とやってのけた、のでした。
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78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
この歌は、元明天皇の涙と不比等の野心と暗躍を伝えてくれるのです。

また、ブログの内容が万葉集に飛びました。
目まぐるしいかも知れませんが、万葉集こそ歴史の真実を語ってくれると、「言霊」として世に残されたと、思っているのです。
日本書紀と矛盾する箇所もありますし、補間する箇所もあります。
万葉集は地図と共に、歴史の扉を開く鍵だと思います。

その鍵を探しに旅をしている…
次は、「飛ぶ鳥の明日香」と詠んだ人麻呂の「挽歌」を読みましょう。




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by tizudesiru | 2017-12-23 11:35 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

明日香・天智天皇が戻った倭京は何処にあったのか

天智天皇の倭京は何処にあったのか
大化改新後に、難波に都が遷りましたが、孝徳天皇を難波に置いて中大兄は倭京に戻りました。その倭京は何処にあったのでしょう。ヤマトヒメと同じく、倭京の場所も大きさも組織も分からないことが多いのです。が、天香具山と蘇我氏の寺や墓や神社は、その位置を探すカギになるはずです。
倭姫皇后は持統天皇か

さて、天智天皇の皇后の倭姫は、古人皇子の娘であると書紀に書かれています。古人皇子は中大兄皇子(天智天皇)によって誅殺されました。吉野太子とも呼ばれ、吉野に逃れた皇太子でした。その次期天皇の娘だというので、倭姫は皇后になれたのでしょうか。素直に書紀を読むとそうなります。記述を疑わなければですが、そうすると倭姫皇后がなぜ正史から消えてしまったのか(墓すら不明)、持統天皇はなぜ深く天智天皇を慕い、有間皇子を追悼するのか、最後の東国行幸や天皇の忌日の詔の意味が分からなくなります。
元明天皇(天智帝の皇女)は「天智天皇の不改常典」をもって皇位継承の根拠としました。天武天皇の王朝代に滅ぼした前王朝の法を持ちだすのは、異常です。それも皇位継承に関して、です。もろもろの事実は、一つの答えを指し示しているのです。
倭姫皇后が持統天皇だった可能性です。そうすると、もろもろの疑問が解けて、額田王が中臣大嶋と立てた粟原寺の意味もはっきりするではありませんか。
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古人大兄皇子について、おさらい

舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)、娘は倭姫。蘇我入鹿は次期天皇に古人大兄皇子を望み、古人大兄は太子となっていたと思われる。


古人大兄皇子と並んで皇位継承者とされたのは、厩戸皇子の子・山背大兄王で、その母も蘇我馬子の娘・刀自子郎女でした。古人と同じ蘇我系の母を持つ男子でした。

その山背大兄王は蘇我入鹿に襲撃されて、一族もろともに自害してしまいました。

やがて、乙巳の変。この時、古人太子は皇極天皇の傍に侍していたのですから、重要な立場で儀式に参加していたことになります。自分の支持者であった蘇我入鹿が暗殺された後、古人大兄は自宅へ逃げ帰り門を閉ざし「韓人が入鹿を殺した。わたしは心が痛い」といいました。その意味は何だったのでしょう。

殺したのは「韓人」、それは古人大兄を苦しめたのですが、この時、事件の黒幕(孝徳天皇とされる)を知っていたわけではないでしょう。太子が見た通りの無残な光景に対する気持ちを吐露したのなら、渡来系の人物が入鹿を殺したが、その原因は自分とは無関係ではないと思ったということです。

入鹿が殺されれば皇位継承権は遠のき、自分の身が危ないという意味でしょうか。書紀によればその後、倭姫は父を殺した男の妃となったのでした。

蘇我倉山田石川麻呂右大臣の娘たちも、父を死に追い込んだ中大兄の夫人となりました。越智郎女と姪郎女がそうでした。その皇女達(太田・鵜野・大江・新田部)も父の王権を倒した叔父(天武天皇)の妃となったと書紀に書かれています。これは大事な記述です。当時、この女子たちを他の豪族に分け与えるわけにはいかなかった、その血統を他に分けることはできなかった、のでしょう。「皇后となれる倭姫」となるべき女子だったから。古代では高貴な血統こそが財産でした。それは、中世まで、いえ近世まで続いた伝統的な考え方でした。落ちぶれても血統には威力がありました。だから、倭姫は望まれて天智帝の皇后となったのでした。皇位継承者となるには、高貴な女性を皇后に立てなければならなかった、まるでエジプトの王のように王家の血を引く女性を皇后にすることが必須だったと思います。


中大兄が戻りたかった倭京は何処にあったのか
飛鳥に倭京はあったのでしょうか。それとも三輪山の麓にあったのでしょうか。
其の天智天皇の権力を見るために、石神遺跡や川原宮をラインで見ましょう。石神遺跡からは木棺が出ていますし、河原宮は斉明天皇の葬儀を行ったところですし、後に寺院となりました。天智天皇の所縁の場所です。
天武・持統天皇も四大寺の一つとして大事に扱ったようですね。

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まず、右斜め上から左に下りるのラインを見ましょう。山田寺・川原寺・定林寺とラインが引けます。左上から斜め右下に下りるラインは、本薬師寺・蘇我氏の邸宅跡・川原寺・坂田寺とつながります。
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山田寺・川原寺・定林寺・坂田寺・本薬師寺、この寺院は既に紹介しています。

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(山田寺)

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(川原寺)
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(坂田寺)
坂田寺は鞍作氏の寺でした。石舞台や都塚古墳の近くの寺ですから、蘇我氏の同族でしょう。
では中央のラインです。本薬師寺から川原寺・橘寺に届きます。

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要するに、川原寺は斉明天皇・天智天皇所縁の重要な宮であり、寺院であったことがわかります。天武朝では、大官大寺・飛鳥寺・川原寺・薬師寺は四大寺とよばれ、官寺の代表の役目を果たしていました。国家的な仏教行事や僧尼の取り締まりを行っていたのでした。ただ、薬師寺は皇后の病気平癒のために造られて寺ですが、造営の途中で天武天皇の崩御となりました。在位中にはでき上がっていなかったのです。持統天皇二年に天武天皇追善の無遮大会が、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の五寺で行われたのですから、薬師寺は間に合っていないのです。

四大寺は朝廷が重視した寺です。
では、朝廷が重視した神社は何処で、どの神々でしょう。
それは、時代の浪にもまれて分からなくなっているかも知れません。しかし、位置情報は残されているかも知れません。遷座された可能性もありますが。国常立神社のある天香具山からラインを引いてみました。

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国常立神社のある天香具山からのラインを飛鳥坐神社(水色ポイント)に引くと、そのまま延びて石舞台に直線が届きます。では、天香具山から定林寺にラインを引くと、雷丘と蘇我氏邸宅跡がラインに乗ります。蘇我氏を抜きにしては何もできませんね。
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蘇我氏の飛鳥寺は真神原に建てられましたから、辺りは聖なる地だったのです。すると、斉明天皇に関わる板蓋宮・川原宮、草壁皇子が育ったという岡宮(治田神社)辺りも聖地だったことでしょう。

では、天智天皇が間人皇后や斉明皇太后やもろもろの役人を引き連れて、難波から戻って来たという倭京はどの辺りでしょうね。やはり天香久山を取り込んで考えましょうか。後の藤原宮が造られた辺り橿原市辺りかも知れませんが、わたしは北上する飛鳥川の東岸辺りに倭京はあったと思うのです。

倭京には、天照太神が祀られているでしょう。「天照太神を度会(わたらい)の五十鈴河上に遷し奉る」と倭姫命世記に書かれていましたから、倭京の頃は祭祀がなかったとしても、持統天皇の時代には天照太神を祀る社も置かれたでしょう。神祭りが入り乱れてはいるでしょうが、痕跡はのこっているはずです。



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by tizudesiru | 2017-12-05 21:06 | 306倭京は何処にあったのか | Trackback

倭姫を探せ

倭姫は何処に?倭姫を探せ!
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「倭姫命世記」の倭姫命モデルは持統天皇ではないか、と書きました。そして、持統天皇は「倭姫」という皇位継承者の妃になるべき立場に生れた女性だったとも書きました。推古帝も持統帝も元明帝も蘇我系の女性でした。日本書紀の執筆者たちは、その辺を知って書いたと思います。倭姫皇后も父は古人大兄(吉野太子)で舒明天皇の第一子、母は蘇我馬子の娘・法提郎女でしたから、蘇我系の女子です。その辺りを祭祀線でみてみましょう。蘇我氏が絶大な力を持っていたことが分かります。
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蘇我馬子の墓と云われている島荘の石舞台古墳は、藤原宮と直線でつなぐと石神遺跡や紀寺廃寺がラインに乗ります。もちろん、飛鳥寺もラインに乗ります。
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藤原宮から南に直線を伸ばすと、Ⓐ 菖蒲池古墳(蘇我入鹿の墓と云われる)を通り、天武持統陵にラインが届きます。
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壁画で有名なキトラ古墳を藤原宮(水色)や耳成山(黄緑)と直線でつないでみましたが、微妙に天武・持統陵のラインには乗りません。天皇のピンクラインに乗るのは、Ⓐ の菖蒲池古墳ですね。ここピンクラインは、天智天皇陵から南に延びたラインでした。
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石舞台と小山田遺跡(蝦夷の墓という)菖蒲池古墳(入鹿の墓と云う)を結ぶと、真の欽明天皇陵と云われる見瀬丸山古墳にラインが届きます。石舞台古墳はとても重要な位置にあるのです。
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石舞台古墳と甘樫丘の蘇我氏の邸宅跡を結ぶと、現在、神武天皇陵と呼ばれる陵の中心部に当たります。これはどうしたことでしょうか。畝傍山と結ぶと川原寺を通り、天武・持統陵と結ぶと鬼まな板や岩船古墳に届きます。

蘇我系女子が「倭姫」という特別の立場に立つのであれば、このような強いラインの中にその聖体は埋葬されたでしょうね。

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では、天武・持統陵と難波宮(大極殿址)を直線で結んでみましょう。すると、見瀬丸山古墳の墳丘部を通ります。遠く離れた難波宮とどのようにして直線を引いたのでしょうね。(白いポイントは、わたしが勝手に置きました。何かあるとしたら、白のポイントです。懿徳天皇と安寧天皇陵の間ですから、何かありそうだなと思いました。)
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天武・持統陵を横切るピンクの直線は何処につながるでしょうね。これは、天香具山と中尾山古墳(文武陵が有力)を結んだラインです。
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天香具山・天武持統陵・中尾山古墳とつながると、中尾山古墳はやはり文武天皇陵でしょうかね・・・でも、文武天皇陵も次のようになります。
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帝・文武天皇陵(中尾山古墳ではない)と見瀬丸山(五条野丸山)古墳と結ぶと、高松塚古墳が間に入ります。(文武陵とされる古墳は十分な調査が行われていないのですが、切り石の横穴式石室の図が残されています。)大王の古墳は所縁の宮処や、所縁の寺とラインがつながりますから、文武陵ではないとしても高貴な方の墓ですね。

沢山のラインが出てきました。持統天皇のラインはまだまだあるので、また明日にしましょう。



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by tizudesiru | 2017-12-02 01:12 | Trackback

倭姫命と倭姫皇后と持統天皇

倭姫命世記(やまとひめみことせいき)を読んでいます。

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倭姫命ってどんな人でしょうね。

前回の続きです。豊鋤入姫から御杖代を受け継いだ倭姫命は、お伴の神達と共に祭殿の地を求めて放浪して、阿佐加国に着きました。

阿佐加国の阿佐加の峯に荒ぶる神・伊豆速布留(いつはやふる)神があり、行き来する人を取り殺していました。そこで、倭姫命に大若子が「種々の下賜品をその荒ぶる神に奉げてお鎮めください」と進上したので、倭姫命は阿佐加の山の峯に社を作り、その神を祀ると神は「うれし」と鎮まりました。

一書には、同じ話(阿佐加の山の神)について次のように書かれています。

{天照太神が美濃国より廻り阿濃の藤方片樋宮に至り鎮座された。この時、安佐賀の山に荒神がいて道行く人を取り殺していたので、倭姫命は度会郡の宇遅村五十鈴川上の宮に入られず、藤方片樋宮に神を祀られたのだった。

そこで、倭姫命は中臣大鹿嶋命、伊勢大若子命、忌部玉櫛命を遣わして、天皇に相聞された。

すると、天皇が『その国は、大若子の祖先の天日別命が平定した山であるから、大若子命がその神を祀りたいらげて、倭姫命を五十鈴宮に入れ奉らしめよ』と詔を出された。

こうして、大若子は引き返し種々の幣によって荒神を祀り平らげ、社を安佐駕に定め祀った。この後、倭姫命はお入りになることができた。}


上記の文は極めて意味深なのです。

そこは、大若子命の祖神(天日別命)が平定した地だというのです。
その地の「荒神を鎮めるために大若子命の力を借りよ」というのですからね。

その荒神が鎮まらなければ、「倭姫命は五十鈴宮に入ることができない」とは、すごい話です。


大若彦命は、下宮祀官の度会(わたらい)氏の祖神なのです。豊受太神宮禰宜補佐次第にその事績を記されているそうです。つまり、五十鈴川流域は、もともとは度会氏の祖先の地だったと云うことです。度会氏の聖域にヤマトヒメ命が入っていったと書いてあるのです。


さて、倭姫命は、すぐに五十鈴宮に入ったのではありませんでした。阿佐加の藤方片樋宮から更に移動しています。


次に、飯野の高宮に遷る

この時、櫛田神社(櫛を落とした処)を定め、御船に乗って幸行し魚見社(魚が船に飛び込んで来た)を定め、更に幸行して真名胡神社(御饗を奉る神がいた)を定めたのでした。


また、乙若子命が祓いをして、従う人々に弓剣を留め、兵と共に飯野の高宮に入られたので、遂に五十鈴宮に向かうことを得た、と書かれています。ここで、初めて兵という言葉を見ました。どういうことでしょうか。


ここから幸行して佐佐牟江に御船を泊めて、佐佐牟江宮を作り定め、更に幸行して大淀社(風波無く海潮よどむ)を定められたとあり、多くの社を定められました。

この時、天照太神が倭姫命に教えて云われたこと

「この神風の伊勢の国は、すなわち常世の浪の重波よする国なり。傍国(かたくに)のうまし国なり。
この国に居らむとおもふ」故に、太神の教えのままに其の社を伊勢国に立てたまふ。
よりて斎宮を五十鈴川に興し立つ。これを磯宮といふ。天照太神始めて天より降ります処なり。」

次に、飯野の高宮より伊蘇宮に還幸なりて座す

ここも、「百船(ももふね)度会(わたらい)国、玉ひろふ伊蘇国」でした。
南の山の端に良き宮処があるように見えたので、倭姫命は皇太神を戴き奉り船で幸行(みゆき)されました。

そうして、次々に出会いがあり社が立てられます。


倭姫命は幸行しながら、速河狭田社、坂手社、御船神社、御瀬社、久求社、園相社などを定めながら「よき宮処ありや」と尋ね廻りました。
「佐古久志呂宇遅(さこくしろ)の五十鈴の河上によき宮処在り」と聞いて更に御船で幸行しました。御饗神社を定め、二見の浜、堅多(かたた)社、五十鈴河後に江社、神前(かみさき)社を定め、更に幸行して矢田宮に。


次に、家田の田上宮に遷り幸行し座す

ここでいろいろな神々が出てきます。度会の大幡主命、出雲の神の子・吉雲建子(よしくもたけこ)命(伊勢都差神・櫛玉命)、その子、大歳神・桜大刀命・山の神大山罪命・朝熊水〈あさまのみなと〉神)、猿田彦の末裔・宇治土公の祖先大田命などと出会い、倭姫命は「よき宮処ありや」と問いかけました。

大田命は、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上は、これ大日本国の中に、殊に勝りて霊地(あやしきところ)に侍るなり」と、答えました。その地には見たこともない霊物(あやしきもの)があるというのです。

倭姫命がその地に行き御覧になると、なんと昔大神が誓願して「伊勢加佐波夜(かさはや)の国はよき宮処在り」と見込まれて天上より投げ降ろしたもの。

天の逆太刀(さかたち)、逆桙(さかほこ)、金鈴などだったのです。

倭姫命は喜んで事挙げされました。ついにたどり着いたのでした。

 

天照太神を度会の五十鈴河上に遷し奉る

倭姫命は五十鈴川の河上に宮処を見つけて大喜びされたのですが、普通に読んでみると先に祭られていた神があったことは事実のようです。そこへ倭姫命の導きで天照太神が降臨されたのですから、倭姫命は侵入者となりますね。
また、天上では豊受太神と天照太神が幽契(かくれちぎり)していたのですから、二神は同格でした。しかし、ここまでの「倭姫命世記」では、天照太神のことが書かれていて豊受太神のことはほとんど読めませんし、同格とはあつかわれていないようです。
倭姫命は、はじめから二神を同格と扱わなかったし、出発時からはっきりと「天照太神を戴き奉りて行幸す」と書かれています。この「行幸」は、途中から「幸行」と微妙に表現を変えていますが。行幸とは「天皇の外出。上皇、法王、女院の外出」に使われた言葉です。倭姫命とは如何なる人でしょう。
豊鋤入姫と倭姫命は時間軸をずらしてありますが、同じ目的「天照太神を奉り、宮地を求める」を持ち、但馬・倭国・木ノ国・吉備国・倭国(弥和の御室嶺上宮)までさまよいました。豊鋤入姫は架空の存在でしょうが、鏡を護身のために造らせたとありますから、鏡文化が広まった時代の人と設定されています。

倭姫命は大和國・伊賀国・近江国・美濃国・尾張国・伊勢国と移動しました。
この辺りが、持統天皇の最後の行幸と重なるのです。

倭姫命世記は「日本書紀」の記述に基づいて書かれていますから、豊鋤入姫の設定は無視できなかったのでしょう。

倭姫命は実在の女性だと思います。それも、実際に伊勢と関わった権力を持った女性です。すると、持統天皇が浮かび、消えた倭姫皇后と倭姫命が重なるのです。倭姫命がかかわって伊勢の神祭りや催しや他の神々との関係が整って行くからです。その過程が細かに語られ、神々に軽重・主従・役割を決めているようです。
これは、律令により祭祀を統制しようとしたことを意味するのではないでしょうか。
大きな権力でなければ、従来の祭祀や神々にランク付けをすることはできませんし、新しい神祭りを定めることもできないでしょう。権力を持った倭姫命こそ、持統天皇がモデルだったと考えます。そして、「倭姫」という皇位継承者の妃になるべき立場にいた女性だと思うのです。

倭姫世記は此処で終わりではありません。
嶋国の伊雑(いさわ)宮のことや豊受大神のことが語られるのです。
(その事は、また、別の機会に考えましょうね。)



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by tizudesiru | 2017-11-29 01:15 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
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216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
701年紀伊国行幸・持統天皇が触れた砂
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
326倭王武と雄略天皇は同一人物なのか
327古代史の危機!?

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