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岩戸山古墳の祭祀線

岩戸山古墳の祭祀線から分かること
岩戸山古墳に届く直線を引くと、面白いほど神祭りの山と結びつくし、古墳とも関係がありそうです。つまりラインが引けるのです。
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岩戸山古墳は九州では大きな古墳になりますが、大型古墳と比べると小さいですね。
一昨年、近畿の大型古墳を見に行きました。メスリ山古墳を見に行った時、橿原考研の博物館にも行きました。そこには大型の埴輪がありましたが、何だか見たことある形だな、と思ったのです。岩戸山古墳の石の石製表飾品と。
祭祀線の前に、ちょっと埴輪や石の表飾品を見ましょう。


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いずれも古墳の表飾製品で大型です。この時代は大きいことに意味があったのでしょう。
そういえば、岩戸山古墳の横の歴史資料館に勾金を付けた大刀の石表飾品がありました。そこに、「今城塚古墳にも勾金の大刀を持つ武人の埴輪がある」との説明文がありました。
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すると、大きさは違いますが、岩戸山古墳・今城塚古墳・メスリ山古墳の被葬者は同じようなものを、重要視していたのですね。同じ時代の古墳だと云うことでしょう。
では、祭祀線に戻りましょうか。
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面白そうなものを挙げてみました。
⓵は岩戸山古墳の真東、そこには熊渡山(クマトヤマ)の山頂があります。このラインの上には古墳はありません。「熊が渡って来た」という意味深な山の名前です。被葬者の出身地を暗示するのでしょうか。
➁耳納山地の最高峰の鷹取山と直線を結ぶと、山向うの楠名古墳に当たりそうです。楠名古墳は6世紀の装飾古墳(円墳)です。この被葬者は、岩戸山とつながりを持ちたかったのかも知れません。
③では、日ノ岡古墳と屋形古墳に当たりそうです。
④は、西館古墳を通って麻氐良山(山頂に式内社がある信仰の山)を通り、釈迦ヶ岳に届きます。

⑤⑥⑦⑪⑬⑭のラインはいずれも、神籠石とつながります。

⑤岩戸山古墳ー馬見山ー御所ヶ谷神籠石
⑥岩戸山古墳―高良山神籠石ー大根地山(信仰の山・日拝塚古墳の真東の山)
⑦岩戸山古墳ー宮地岳神籠石ー宝満山(福岡平野の神山)
⑪岩戸山古墳ー井原山ー雷山神籠石ー一貴山銚子塚古墳
⑬岩戸山古墳ー風浪宮ー山ーおつぼ山神籠石
⑭岩戸山古墳ー女山神籠石ー雲仙普賢岳
いずれも山頂を使う「山当て」という方法で位置を探したと思われます。

帯隈山神籠石と杷木神籠石もつながりがあると思うのですが、どの山を使ったのか判断できなかったのでラインを引いてはいません。

また、神の山や信仰の山を結ぶと岩戸山古墳に届くのは、不思議ですが当然ですね。
⑩岩戸山古墳―脊振山ー高祖山(糸島市)
⑫岩戸山古墳ー舩塚古墳ー天山
⑮岩戸山古墳―江田船山古墳―熊ノ岳
⑰岩戸山古墳ー雄岳ー八方ヶ岳
他にも、⑯は、阿蘇中岳、⑧は、日拝塚古墳 ⑨は、九千部山とつなぎました。
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岩戸山古墳の祭祀線から何が言えるのか
まず、北部九州の神山とつながるのは、地域間に支配被支配の関係が生まれていた証拠でしょう。他の八女丘陵の古墳では、これほど信仰の山と結びつく古墳はありません。岩戸山古墳の被葬者が権力を持っていた証でしょう。
福岡平野を支配した信仰の山は宝満山・九千部山であり、糸島地方では井原山・雷山です。福岡平野から筑紫平野に入ると、馬見山です。更に筑後平野を南下すると天山であり、脊振山・九千部であり、普賢岳です。普賢岳は有明海にくっきりと浮かび、阿蘇と並ぶ神山です。

これらの氏族の象徴的な信仰の山と岩戸山古墳結ぶと、何故か神籠石が現れました。


此の事実から「岩戸山古墳の被葬者の霊力を信じて、神籠石は造られた。その時、岩戸山古墳は既に完成していた」となります。岩戸山古墳と神籠石は前後して造られたのです。
神籠石と信仰の山と結べる岩戸山古墳の主は、倭王だった。
それは、6世紀前半の倭国の状況です。

それらは何故作られたか? その理由は何か?
大きな時代の浪が近づいていた、つまり、何か起こりそうだったのです。だから、いち早く協力体制を確認する必要があったのでした。
神籠石は地域間の連合の証であり、協力体制に組み込まれた国々の範囲を示している、其の中心地も示している、のです。工法の共通性(土塁の高さ・版築・切り石・切り欠き溝・切り欠き加工)を見ると、勝手に作ったのではありません。共通性こそ神籠石を解く鍵です。
(更に、設置場所からして神籠石が対峙したのは、外国ではなく、国内の敵です。その敵は、瀬戸内の神籠石系山城の先に控える集団でした。)

然し、神籠石系山城には生活の痕跡は見られない。

一斉に作り始めて、一斉に作り終わった。または、途中で工事ができなくなった…
上の写真は、岩戸山古墳の別区です。別区は古墳の「造り出し」のようなものでしょう。そこに置かれた石の表飾品は、被葬者の業績を誇示するもの、記念するもの、後世に伝えようとしたもの、でしょう。風土記によると石人石馬で表されたのは、「裁判官」が罪人を裁く様子だそうです。

この被葬者・筑紫国造(君)磐井一族は、どうなったのか。

磐井の乱、その後、彼の一族は滅んだのでしょうか、生き延びたのでしょうか。
さて、地域の神山と結びつき、神籠石ともつながる岩戸山古墳の被葬者に、更に迫らなければなりません。筑紫君、磐井とは何だったのか、です。
それは、また、明日。

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by tizudesiru | 2018-03-04 02:09 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

岩戸山古墳と江田船山古墳の祭祀線から倭王を解く

岩戸山古墳と江田船山古墳の

祭祀線から倭王を解く

倭王は畿内の人ではありません。
それは、祭祀線を引けば分かります。



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では、皆さんがご存じの岩戸山古墳(福岡県八女市)を見ましょうか。
上の画像は岩戸山古墳で、右上(東北)に別区と呼ばれる空間があります。黄色のラインは、石人山古墳とつないだラインです。石人山古墳の墳丘と結ぶと、なぜか装飾古墳の弘化谷古墳(円墳・六世紀)が入り込みます。(下の画像)弘化谷古墳には、石棺ではなく石屋形の死床があります。

両者は並んでいるようですが、谷を挟んで小高い丘の上に弘化谷古墳があります。
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石人山古墳の資料館にある石棺のレプリカです。古墳の実物の石室を覗くことができますが、暗いので懐中電灯が必要です。
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これは、石人山古墳の石棺の文様です。この石棺には直弧文という文様が彫られています。僻邪の意味でしょうか。これは、コンパスを使って文様を書き、鏨(たがね)を駆使して彫られたのです。
石人山古墳から分かることは、この被葬者が岩戸山古墳の主の祖先(祖父らしい)であれば「岩戸山古墳も家形石棺が置かれている」となるでしょう。
この二つの古墳の主軸線は、ほぼ重なるようです。岩戸山古墳は石室内など発掘されていませんが、周囲は発掘調査が行われています。


家形石棺を持つ古墳は、何処にあるのか
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有名なのは、浦山古墳と江田船山古墳ですね。浦山古墳の石棺の内側には直弧文が彫られているそうです。江田船山古墳の副葬品は有名ですね。この時期の古墳では、外来品・舶載品を大量に副葬品しているのは、ここです。江田船山古墳の被葬者は、半島と深くつながっていたのです。

では、岩戸山古墳と結んでみましょう。遠いので目印の山として、熊本の熊ノ岳を使います。当時の人もそうしたでしょう。岩戸山古墳から緑のラインを南下させました。
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すると、ラインは江田船山古墳の墳丘部を通りました。
同じように、家形石棺を持つ浦山古墳から江田船山古墳(福岡県久留米市)を通過しましょう。
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すると、船山古墳は通過しますが、熊ノ岳山頂を外しました。

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今日、紹介したのは、家形石棺の前方後円墳の被葬者はつながりがある、と云うことです。

特に、岩戸山古墳と江田船山古墳の被葬者は深い関係になります。
これは、日本書紀の「筑紫君と火君の姻戚関係」を物語るのでしょうか。または、それ以上の事実を物語るのでしょうか。

祭祀線は残されました。わたしは、ここに「倭王が九州にいた」という事実のゴースト(影)を感じるのです。長くなるので、この辺で。
明日も倭王は何処にいたのか、考えます。



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by tizudesiru | 2018-03-02 13:45 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

続々・岩戸山古墳と八女丘陵

続々・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山歴史資料館から東に向かって八女丘陵の古墳を訪ねました。これまで、乗場古墳・善蔵塚古墳・茶臼塚古墳・鶴見山古墳・釘崎2号墳・立山山古墳をみました。更に東に向かいます。やがて見えてくるのが丸山古墳です。
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未調査だということですが、墳丘には円筒埴輪の破片が落ちています。
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この破片について質問がありました。「持って帰ったのか?」ということです。残念ながらお墓の祭祀用土器ですから、怖くて持って帰れません。欲しくもありませんから。でも、丸山古墳を円筒埴輪が取り囲んでいた証拠ですよね。それに、以前から遺跡の上に置かれていたと思います、誰もが持ち帰りを敬遠したのでしょうね。
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丸山古墳を過ぎると、古墳群の東端の童男山古墳群です。ここまでくると、これまでの古墳とは異なる様式の墓だと感じます。
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上の写真は童男山11号墳の馬具です。この古墳群は円墳に巨石の横穴式石室を持つのです。この石屋形を持つ墳丘墓こそ磐井の乱後の古墳の様式ではないでしょうか。つまり、童男山古墳の氏族は、侵入者か次の権力者なのでしょう。まず、一号墳。
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1号墳と同じ斜面にあるのが、2号墳と3号墳です。
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この辺り一帯が古墳群ですが、いずれも巨石で石室が組まれています
八女丘陵には他にも様々な古墳群があります。
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資料館では「八女丘陵の首長墓の系列」を上の図のようにまとめられていました。首長の墓はどんどん東に築かれていったということでしょうか。こうしてみると石人石馬という石製品は、九州の特色というより磐井一族の限られた人々が使用したものと云えるのではないでしょうか。八女丘陵の古墳には埴輪も多く使用されていますから。石人山古墳などの古墳は、当然磐井の一族だということになりますね。
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立山山8号墳の形象埴輪には、どんな意味があり氏族のどんな主張があるのでしょうね。石ではなく埴にこだわり固執したのですから。彼らが磐井を裏切ったのかも知れませんし、または、古来の伝統を守り磐井亡き後の北部九州を守ろうとしたのかも知れません。八女丘陵の墓の変遷が、わたしたちに歴史上の何かを知らせているのです。
では、ひとまずこれにて。

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by tizudesiru | 2017-05-21 10:57 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback

続・岩戸山古墳と八女丘陵

続・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山古墳資料館から八女丘陵を歩いてみましょう。まず乗場古墳、善蔵塚古墳、茶臼塚古墳と見ました。次は、数年前に発掘された石人で有名な鶴見山古墳(前方後円墳)です。その石人は博物館に展示されています。発見された時は、たくさんの石の下敷きになっていて、発掘している方は下から何が出て来るのかドキドキしながら石を除いていったそうです。出土品は、円筒・朝顔形・形象埴輪、須恵器、馬具、銅鏡破片、石製品などがあります。特に、玄室内から出土した銅鏡破片には、表面にヒメクロバエの蛹と毛髪痕が残っていました。それが殯(もがリ)が行われた根拠となったのです。ヒメクロバエは日光の下でしか成長しないからです。

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鶴見山古墳は岩戸山古墳の後の築造とされ、筑紫君葛子の墓ではないかと言われています。

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鶴見山古墳から更に東に進むと、下り坂の途中の釘崎2号墳に当たります。近くには1号墳がみえています。ここは前方後円墳4基を中心にした12基の古墳群です。
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釘崎2号墳から更に下り、集落の中に入ると目の前に石垣が現れ、立山山20号墳にぶつかります。
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あの有名な金製耳飾を出土した立山山8号墳ではありません。これは、立山山20墳です。立山山地区にも多くの古墳がありましたが、8号墳など既に壊されて今はありません。8号墳の副葬品は次の通りです。装飾品の他に馬具などがあります。
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立山山13号墳からは須恵器の祭祀土器がたくさん出土したのですね。
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こうして、古墳を見ると不思議な気分になります。どの古墳も労力と時間と財力を使っているからです。
日本列島の6世紀とは、いったいどんな時代だったのでしょうね。こんなに葬送儀礼に財力を投じるなんて。どの古墳も馬具や武具でいっぱいです。そして、須恵器も溢れています。豪族を支えた経済力は何によって生み出されたのでしょう。更に、墓造りという技術を持った庶民の生活はどうだったのでしょうね。
明日も八女丘陵を歩きます。



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by tizudesiru | 2017-05-21 00:51 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback

岩戸山古墳と八女丘陵

岩戸山古墳と八女丘陵
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江戸時代までは、石人山古墳が筑紫君磐井の墓だとされていました。岩戸山が磐井の墓とされるようになったのは、この百年余のことなのです。岩戸山にはたくさんのラインが引かれます。既に紹介してると思いますが。直線の先にあるのは、有名古墳の墳丘や地域の信仰の対象になった山の山頂です。宝満山・脊振山・高祖山・九千部・阿蘇山・普賢岳、数か所の神籠石、江田船山古墳などの首長墓です。それはさておき、今回は八女丘陵の古墳群の紹介です。
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岩戸山古墳の東300メートル、博物館のすぐ近くにあるのが乗場古墳です。前方後円墳ですが、昭和30年代に周溝は削られて、今はありません
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副葬品は、玉・馬具・土器などは東京国博にあるのですが、人物埴輪・環頭大刀(福島高校に)など、岩戸山歴史博物館に展示されていました。
さて、磐井の乱後は大きい前方後円墳は作られなくなり、装飾のある円墳に代わるそうですから、横穴式石室に装飾を持つ乗場古墳(前方後円墳)は、磐井の一族ではないということでしょうか。または、一族の中の別の家系だったのかも知れませんね。同じく磐井の乱後に築造されたという装飾を持つ弘化谷古墳は、大円墳で石屋形があります。別の氏族の墓なのでしょうね。
更に、岩戸山古墳(磐井の墓)の石製の大刀には勾金(まがりかね)がついています。大刀の束を飾るものですが、環頭大刀は大刀の頭に輪がついているものです。このような飾大刀は、勾金のついた大刀より古い大刀のように思われますが、どうなのでしょう。岩戸山古墳より新しいということですから
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乗場古墳を過ぎ、福島高校の前を通り抜け丘陵の尾根を下ると、途中に善蔵塚古墳(前方後円墳)があります。
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そのまま丘陵を下りて行くと、茶臼塚古墳(円墳)が見えてきます。道からがけ下を覗くと、ため池と丸山古墳があります。
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丸山古墳の祭祀土器です。
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崖下に下りずに進むと、目の前に茶臼塚古墳が見えてきます。
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八女丘陵は歩けば様々な古墳に出会います。
また明日。




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by tizudesiru | 2017-05-19 21:48 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Trackback

232岩戸山歴史資料館の新館三年目

岩戸山古墳資料館の新館

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誰が葬られたか認められている6世紀の唯一の古墳だと聞きました。これはスゴイです。
だって、6世紀の始めの古墳ですから同時代の古墳の様式の指標となるからです。
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この別区と呼ばれる場所に石の古墳表飾物が並べられていました。
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筑後国風土記(逸文)にも岩戸山古墳が取り上げられています。

岩戸山古墳の特色は、別区と呼ばれる首長の功績を称える方形の場があることです。そういえば同じような首長の功績を称える埴輪群がありました。NHKで群馬の保渡田(ほどた)八幡塚古墳の埴輪群です。火砕流にそのまま埋められていたので、在りし日のまま出て来ましたね。

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埴輪で「王の公の場」での装束が分かりました。首長が顔に朱(水銀朱)を塗る習慣は、熊本にもあります。そのため生身の体に異常があったことが分かっています。また、九州の古墳・石棺・石室に朱が用いられています。関東と九州の結びつきは深いのです。
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(NHKのテレビをデジカメで写しました)
さて、岩戸山古墳の資料館に戻りましょう。
立山山古墳13号墳の埴輪がありました。

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立山山13号墳からこの人がこの地域の首長であったことが分かります。
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馬に乗る首長であったことも分かります。当然、馬具も出土していますね。
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わたしが何時も気にかけているのは、立山山8号墳の耳飾です。
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この技術は何処で生まれ、何処を通り、何処に広がったか、ということです。出所は、朝鮮半島南部だとか、では百済地域ですか?
「沖ノ島と大和朝廷展」でも、国宝の指輪が展示されていました。明日は、その事を書きましょうね。
岩戸山歴史資料館に出かけませんか。
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by tizudesiru | 2017-03-03 12:05 | 232岩戸山古墳の歴史資料館 | Trackback

雲仙が守った首長は、誰?

雲仙と阿蘇に守られたのは何処?
雲仙からのラインは、次の通り
(1)・雲仙・帯熊山神籠石荒平山
(2)・雲仙・脊振山・宗像大島御嶽山頂
(3)・雲仙・女山神籠石岩戸山古墳
(4)・雲仙・三ノ岳・国造神社
(5)・雲仙・金峰山・小山諏訪神社・高岳
(6)・雲仙・健軍阿蘇神社・木山神宮・清水寺
(7)・雲仙・(真東)・草部吉見神社

赤ラインが3本北上しています。西側は、帯隈神籠石を経て、福岡市の荒平山に届きます。中央ラインは、脊振山を通り、宗像大社の中津宮がある大島の御嶽に届きます。東側の赤ラインは、宗像大社と結んでみましたが、何処にも当たりません。
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紫・白・黄緑・緑・赤の5本のラインがあります。
紫ライン
 このラインは、女山神籠石から岩戸山古墳につながります。既に、紹介しています。
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女山を横切る紫ラインが分かりやすいように、白を添えています。
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岩戸山古墳に南西から届いたのが、雲仙からのラインです。
白ライン
 雲仙から伸びて、三ノ岳に届き、阿蘇の手野の国造神社につながります。
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黄緑ライン
 雲仙から金峰山に届き、小山山と神園山の間の小山諏訪神社を通り、阿蘇の高岳につながります。途中の山頂神社は少しずれます。
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平地に二つの低い峰が並んでいます。その間から阿蘇が見えます。阿蘇へ一直線につながります。雲仙と阿蘇は互いに見えます。
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高岳が阿蘇の五岳では一番高いのです。
緑ラインこのらいんは、雲仙から外輪山の清水寺まで届きます。間に、健軍阿蘇神社と木山神宮を通ります。。
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赤ライン
雲仙の真東に当たるのが、草部吉見神社です。
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陵墓は、高千穂峰からこの地に入ってきた、彦八井耳命(日子八井命)のものだそうです。
 雲仙が守ってきたのは、国造神社関係の人でしょうか。清水寺は、国造神社・高岳山頂と一直線になると、「阿蘇町史」に書かれていました。町史を編纂した人も、高岳と一直線になることに驚かれたのでしょう。清水寺を外輪山中に尋ねた事があります。奈良時代創建の古刹だそうです。樹齢四〇〇年のナシの木があります。菩提樹だと聞きました。遠い昔、国造家の意向による祭祀場が此処にあったのでしょう。阿蘇地方で一番古い寺となる前に。
 雲仙・三ノ岳・国造神社とつながるのも、見逃せません。なぜなら、金峰山から阿蘇高岳につながるからです。阿蘇・雲仙の見える有明海を船で通れば、噴煙を上げる両火山が魔の山に見えるかもしれません。雲仙と阿蘇の噴煙が見える有明海は、まさに「地獄の門」だったに違いありません。隋からの使者が自分の紀行文に書いたとおりの景色。7世紀初頭、隋から来た文林朗裴清が、有明海を通ったとすれば、ですが。しかも、彼は阿蘇山のことも、阿蘇に住む人達の事も隋書に記録しています。6世紀の人々は、「隋書」にも書かれているとおり、理由失くして火を噴きあげる火山を恐れていたのです。では、阿蘇山は隋書にある「俀国」の人々を守っていたのでしょうか。筑紫城に住み、アワキミ(おおきみ)とよばれ、妻も太子もいた「天子」を。

 阿蘇から流れ出す白川流域の人々も、雲仙と阿蘇が東西に見える土地に住んでいる人々も、火の山を恐れたことでしょう。阿蘇神社の広がりを見ると、阿蘇の噴煙が見える範囲では神祀りをしたでしょう。しかし、肥(火)君が阿蘇君と同じように火山を祀っていたとは考えにくいです。江田船山古墳から、神社や古墳、山頂などで、阿蘇山に結びつくものが、今のところありません。「江田船山古墳の主は、女山や岩戸山とはつながっているので、彼は北部九州の方を向いている。金ではなく銀象眼太刀(国宝)を副葬していたことからして、小地域の首長です。彼は大王に仕え、八方ヶ岳・熊ノ岳・多良岳に守られた地域を支配していたのです。彼が典曹人として奉事していた大王は何処に住んでいたのでしょう。遠い畿内の雄略天皇となるのでしょうか。なかなか、そうは思えません。
また後で
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by tizudesiru | 2012-02-19 16:50 | 47祭祀線で分かる雲仙が守った首長 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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伊豆神社の本宮・久我神社の創..
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明神ヶ辻から降りて来た厳神社..
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遠賀川流域の水巻町の伊豆神社..
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大原神社の元宮を訪ねました
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カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡

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