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日田の総社・大原神社の1300年の歴史

大分県・日田市の大原神社に行きました
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何度か参拝した神社でしたが、宮司さんのお話を聞いたのは初めてでした。

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此の神社は、郷社や村社などのように氏子を持たない神社です。日田盆地の山際に鎮座するのに、所在地は日田市田島一丁目となっています。
祭神はホムタワケ命、大帯姫(オオタラシヒメ)命、比売大神
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『大原神社の起源は、天武天皇白鳳9年(680)、靫負郷岩松峰(日田市天ケ瀬町金場の北)に、宇佐の鷹の居にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍尾形の宮)を立てて祀ったのがはじめである。

慶雲元年(704)、杉原の杉下に髪が降りて神がかり、「岩松のの嶺の神」を名のって、杉原が便宜よいので此処に来たと告げたとして、社を立てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観13年(871)もしくは仁珠念(852)に、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原から現在の元宮に遷座され、宇佐神宮より橋本公則を迎えて社司としている。

建久4年(1193)、九州探題大友能直が、東の総社を柞原八幡宮、西の総社を大原八幡宮として鎌倉鶴岡八幡宮の参拝礼式に改めさせたといわっる。

更に、元和10年(1624)日田永山城主石川主殿守忠総により、元宮から現在の位置に遷座された。その際社殿形式に八幡造を用いている。』
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記録に在るだけでも、五度の遷座遷宮が行われたというのですね。
大きな神社は何処も所在地をどんどん変えますから、古代の祭祀線はひけません。

筑後川流域には、久留米市にしても、創建に天武天皇や高市皇子がかかわる神社がありますね。特に天武朝と筑後川流域は関わりが深いのでしょうか。

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大原(大波羅)神社は、広い境内に摂社末社が沢山ありました。
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本殿の真後ろには、大山祇神社がありました。本殿のご祭神にお詣りすると、この神様も一緒に拝むことになるのですね。

珍しい所では、昭和10年(1935)に就役した大日本帝国海軍の最上型重巡洋艦「三隅」の船の上に祀っていた神社は、此の大原神社から分祀されていたと云うことでした。艦名「三隅」が、日田盆地を流れる三隅川に因むと云うことから大原神社が艦上で祭祀する神社に選ばれたのだそうです。

その記念碑がありました。大きな神社は、政治と時代の変化をもろに受けているのです。

では、
天武天皇白鳳9(680)年に何があったのでしょう。特に天武天皇が神力を頼むことがあるとしたら。
 678年(十市皇女急死・筑紫大地震)680年(橘寺火災・金光明経をはじめて宮中で講ずる・皇后の病回復のために薬師寺建立を発願)こうしてみると、皇后の回復を願って、神社建立の発願となったのですかね。それに、筑紫大地震も大きな衝撃だったことでしょう。護国神祭祀も当然です。

文武天皇慶雲元年(704)年、この年はどうでしょう。702年12月に持統太上天皇崩御。翌年は喪に服したでしょうから、年が明けて五月に改元し、文武天皇は心新たに祭祀を始めたかったのでしょうか。

貞観13(871)年、には何があったでしょう。
 869年(陸奥貞観大地震)・870年(大宰少弐藤原元利万呂ら反乱を企てる・上総国で俘囚が反乱)871年(貞観式を頒布)未曾有の大地震・貞観大地震で日本中が震撼としたのかも知れません。民の不安も高まっていました。やはり、天変地異は大きく祭祀に関わるのですね。

建久4(1193)年、これは言わずと知れた政変の後です。
 1192年、源頼朝が征夷大将軍となっています。世の中が大きく変わった後です。神社も次の政治体制に順応しなければならないでしょうね。

元和10(1624)年、これは江戸時代ですね。
 1623年(徳川秀忠、征夷大将軍を辞職し、家光が任じられる)この数年前からキリシタンの取り締まりが激しくなり、宣教師らが多数処刑されています。江戸幕府が政治基盤の安定に奔走していた時期ですから、神社もそれに倣ったのでしょうか。


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赤ちゃんの産毛を治めて無事に成長することを願った祠です。
人々の願いも受け止めながら、大きな神社は生き残って来たのでしょうね。


大変でしたね。


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by tizudesiru | 2018-07-13 16:19 | 350九州神社の旅 | Trackback

桓武天皇・平安京遷都の意味をラインで読む

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(大阪市難波宮址)
前回のブログで、わたしはラインを使って難波宮と平安京と延喜式の話をしました。(延喜式とは十世紀に奏上された「律令を使う上での行政の細則」で、細かな令の取り扱いをまとめたもの、それを「式」といいます。)
前回のブログで書いた難波宮と三都(藤原宮・平城京・平安京)のことですが、お気づきのように、難波宮は7・8世紀の皇都ですから、10世紀の延喜式の時代と同じ次元で扱えば齟齬が生じるでしょうね。とはいえ、ラインで読むと面白い世界が広がると思います。今回はラインを使って都の姿を読み解きましょう。前回の捕捉であり、祭祀ラインの紹介になります。

長岡京から平安京へ都は遷った
平安京遷都は、桓武天皇の延暦十三年(794)です。
桓武天皇は母の身分が低位であったために極位に登ることはないと思っておられたようです。しかし、井上皇后と他戸親王の廃后・廃太子に続く薨去により、極位への道が開いたのです。
そこには藤原氏内部の争いが絡んでいました。桓武天皇は弟の早良親王を皇太子としましたが、ほどなく政争に巻き込まれ早良親王は四国に流され憤死されました。(桓武天皇には心痛の種となったようです。歴史書から早良親王の記述は削除されているそうです。)


では、平安京遷都のはなしに参りましょう
万葉集の時代の平城京から話が飛びますが、桓武天皇は平安京の土地をなぜ選んだのか、その理由を考えてみましょう。ラインを使えば、一つの答が導き出されます。
天武朝はあまたの政変に翻弄され遂に皇統が絶えたのですが、続日本紀によると、桓武天皇は「天武朝から皇統が天智朝に戻ったことは易姓革命である」と考えたようです。

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平安京は、東西関係にある大津宮を意識して造られた
桓武天皇が京に選んだ土地は、天智天皇の大津宮の西でした。そして、大友皇子(弘文天皇)の宮の西でもありました。そのラインが平安京の一条と二条にほぼ重なります。
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(白ポイント・大津宮錦織遺跡・ここからラインを引いています)
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ラインを見ると、平安京が選ばれた土地であると分かります
東西のラインを見る限り、桓武天皇は天智朝を引き継ぐ決意をしていたと言えます。お気づきのように、最初の大極殿は、現在の御所の地ではありません。現在の御所より西にずれています。度重なる火災によって元の位置より東に建てかえられたのです。
羅城門から都に入ると、九条に東寺と西寺があります。
都の南の入り口の羅城門は、黄色のライン上にあったのです。
桓武天皇は、都内に平城宮のように寺院を建立させませんでした。
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錦織遺跡(近江京)からの紫ラインが一条と重なり、三井寺からの水色ラインが二条と重なりました。赤のラインは東堀川と西堀川です。この四角の中に御所は造営されていました。
何処を終点にしたらいいのか分からなかったので、紫ラインは仁和寺に、水色ラインは愛宕山に向けて引きました。どんな方法で測量したのか分かりませんが、結果として御所が何処に作られるべきか分かりますし、それをラインが教えてくれるのです。
そこを選んだ人と、選ばれた理由が分かるのですね。

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嵯峨天皇の時代には、空海の霊力で平安京は守られた
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さて、平安京を守る空海の結界を何度も紹介しました。上賀茂神社と南北に向き合うのは東寺です。これは何故? 実は、空海が国家守護の祭祀を始めるのは、嵯峨天皇の御代です。桓武天皇崩御により皇位を受け継いだ兄の平城天皇は、三年で弟の嵯峨天皇に譲位しました。病気がちであったというのですが、譲位後には元気になり再度極位に登ろうとされました。なにより「都は平城京に戻すべきだ」と主張し、遂には「薬子の変」まで引き起こし、その為に出家するという事態となったのです。嵯峨天皇の御代は政変から始まったのです。そこで、

嵯峨天皇は、国家守護の仏教を学んだ空海に東寺を任せ、天皇家と都の平安を守る寺としました。(明治まで東寺の僧が御所で一月一日に護摩焚きの祈祷を行っていました。明治以後は、東寺のみで祈祷を続けているそうです。)

その空海の守りの結界が上のラインです。

九世紀の後半に皇統存続の危機
しかし、肝心の皇統が切れそうになる事態が起こります。そこで、宇多天皇は皇籍に復帰し、即位しました。そして、在位十年で御子に譲位。譲位された醍醐天皇は、延喜式により全国の「神社の祭祀」を見直し、神祭りを強化したのです。当然、天皇家の安定と安寧の為の祭祀です。(ここで、大きく祭神の入れ替えなど有ったのでしょう。)

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すると、三か所の延喜式内社に御所と難波宮が挟まれた時期は、上の図を見ると、焼失した御所が建てなおされる時でしょうか。神聖なラインの上に御所改築の場所が選ばれたかもしれません。
更に、御所が移動したら結界も変わるのでしょうか。貴船神社のラインは新しい御所を守っています。都の守りは時代の変化に合わせて徐々に変わって行ったのです。それが、祭祀ラインで分かります。

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緑ラインが行き着くのは、東は伊勢神宮(内宮)、西は淡路島の伊弉諾神宮です。伊弉諾・伊勢の東西ラインは、文武天皇陵のすぐ南を通ります…
何とも面白い結果を見せてくれます。

今日は祭祀ラインを紹介しました。グーグルアースを使って、ラインを引くのは誰もができることです。神社は移動していますからなかなか難しいのですが、山と古墳を結んでみると古代史の謎が解けるかも知れません。
貴方もやってみませんか。



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by tizudesiru | 2018-01-08 21:48 | 317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ | Trackback

飛鳥の明日香と呼ばれた霊魂の地が二ヵ所ある理由

飛鳥はいつからアスカと呼ばれたのか
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(藤原宮から天香具山)

和銅三年、「飛鳥の明日香の
里を置きていなば」と別れを惜しみ、元明天皇は明日香を去りました。

和銅三年(710)には、[飛鳥(とぶとり)の明日香]という言葉が定着していたのですね。
しかし、古事記(712年撰上)・日本書紀(720年撰進)では、アスカは「飛鳥」で統一されてます。712年頃までに「飛鳥」は、「とぶとり」ではなく「アスカ」に変わったのです。元明天皇は古風な言い回しを用いて古京を懐かしんだのでしょう。

それにしても、社会科では「あすか時代」を飛鳥時代と書き、博物館のこの時代の仏像にも「飛鳥仏」と書かれています。飛鳥(とぶとり)をアスカと読むようになったのは、いつからでしょう。

ブログにも書きましたように、万葉集には「飛ぶ鳥の明日香」は四例、それは柿本人麻呂の川嶋皇子の挽歌(持統五年・691年)、同じく人麻呂の明日香皇女の挽歌(文武四年・700年)、平城宮遷都の時の元明天皇の歌(和銅三年・710年)、巻十六の由縁雑歌(後期万葉)に一例です。

「飛ぶ鳥の明日香」は、限られた地域の限られた意味を持つ言葉となっています。しかも、挽歌と結びついた言葉です。元明天皇も死別した夫や息子を「君があたりは見えずかもあらむ」と偲びました。やはり亡き人につながります。「飛ぶ鳥の」を美称とかたずけるわけにはいかないでしょう。「アスカは亡き人を思い出させる地」として、霊魂の地「アスカ・飛鳥」となったのです。
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また、人麻呂が草壁皇子(持統三年・689年)の殯宮で詠んだ歌には「飛ぶ鳥の浄(きよみ)の宮」とありますから、「飛ぶ鳥の明日香」はまだ使われていません。
とすると、「飛ぶ鳥の明日香」が定着したのは、持統三年から五年の間となりましょう。「飛ぶ鳥の浄の宮」は、人麻呂にとっても、万葉集にとっても大変重要な言葉となります。

ただ、丁丑年(天武六年677年)十二月上旬に葬ったと記されている小野毛人墓誌銘に「飛鳥浄見原宮治天下天皇」とあり、丁丑は天武六年(677年)となるのです。が、この墓誌の作成年次には疑問が持たれています。後に作られた墓誌だというのです。
大方は、明日香が「飛鳥」と定着したのは、天武天皇の御病が重篤になった時、平癒を願って「朱鳥」と改元され、宮を飛鳥浄御原宮というようになったからだと日本書紀(720年)に書かれていますから、これを支持しています。


遠津飛鳥は捨てられた…蘇我氏の残像を払う為に
考えてみると、不比等はなぜ明日香を選ばなかったのでしょう。
平城宮遷都は「藤原不比等の暗躍の結果だった」と、このブログで書きましたが、明日香を捨てる理由は何でしょう。藤原氏所縁の談山神社も近くにあって、鎌足の産湯井戸跡もあるし、大原(小原)は藤原氏の出身地だったようですし。更に、中大兄皇子と藤原鎌足には「乙巳の変」の所縁の土地が方々にあります。でも、明日香は都として選択されなかった。
一つには、都を大きくするには飛鳥は狭かったし、水の供給に問題があったと云われています。確かに、明日香川の水では十分ではなかったでしょう。

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(明日香川のながれ・甘樫の丘の北)
しかし、飛鳥を切り捨てる理由はもっと他に、深い意味があったのではないでしょうか。そこには蘇我馬子も住んだという嶋荘には嶋宮という宮殿があり、岡宮があり、浄御原宮があり、天武朝の宮が集中していました。が、何より蘇我稲目以来の蘇我氏の影も強く残る土地だったというのが大きかったのではないでしょうか。昔は、大伴氏も中臣氏も蘇我氏の組織の中に組み込まれていたのですから。
だから、

蘇我氏の残像を捨て去ること、それが遷都の最大の目的だった。
舒明天皇の墓を押坂内陵(八角墳)に改葬した理由も、「明日香からの切り離し」です。天智帝と同じ八角墳にしたのは、同じ皇統であることを強調するためです(元の陵墓は明日香にあったが改葬されたとすると、そこは…)。
推古帝と竹田皇子の合葬墓も明日香から「近津飛鳥」に改葬された(前方後円墳ではなく方墳として改葬した)ということです。方墳ですから、舒明帝の八角墳とは形式を変えています。選ばれたのは、近津飛鳥でした。

近津飛鳥と呼ばれるようになったのは、いつ?その理由はは何か?
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用明天皇陵(方墳)も、孝徳天皇陵(円墳)もなぜか近津飛鳥に在ります。それも、改葬されたからです。同じく王家の墓を「明日香」から切り離したかったからです。
かし、王墓の改葬ですから、簡単に実行できません。だから、人々を納得させる(欺く)ために、都に近い霊魂の地として「近津飛鳥」と呼んだのです。「飛鳥」は奈良朝が作りだした「当て字」でしょう。
要するに、明日香に残したのは、蘇我氏と天武朝の人々の墓だった(天武持統陵は「八角墳」)……それが奈良朝の藤原(不比等)氏の構想でした。

誰かが計画し実行しなければ、なんとなく墓が改葬されるはずがありません。すると、舒明・用明・推古の陵墓の改葬は、ある時期(それは奈良時代か)に一斉に実行されたと云うことになります。それは、「近つ飛鳥」という呼び名から分かります。近い遠いは都を基準に使われましたから、「近津飛鳥」は明日香より平城京に近い明日香の意味です。そして、飛ぶ鳥が「飛鳥(あすか)」となった。
理由は様々にあったでしょうが、ある権力者は藤原宮の人々(天武朝)の霊魂を明日香に残した(藤原氏が封じた)ままにしたかったのです。

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(叡福寺・聖徳太子陵墓)
とすると、聖徳太子陵が近津飛鳥に在ることは不思議なことになります。

孝徳天皇の墓は聖徳太子廟ではないか

大王ではないのですから、聖徳太子が実在でも改葬の必要はないのです。では、叡福寺の陵墓は、誰の墓なのか。それは、もちろん孝徳天皇の改葬墓です。他に該当する天皇はありません。石室の構造、石室の切り石からして終末期、石棺の台には格狭間(こざま)が彫られていました。明らかに後世の仏具の装飾でした。すると、聖徳太子墓では有りえません。更に、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(聖徳太子の母)も一緒ですからね。
大胆な説ではなく、孝徳天皇の改葬墓と考えたが自然なのです。三骨一廟の三骨とは、孝徳天皇・間人(はしひと)皇后・斉明天皇以外には考えられません。二人の女性は斉明天皇と間人皇后で、牽牛子塚古墳からの改葬です。この二人を明日香に残したままにするとは考えられません。舒明天皇陵の改葬をしたのなら、其の皇后(斉明天皇)の墓も改葬するはずでしょう。

改葬されたのです、二人の女性も近つ飛鳥に、「孝徳天皇の玉璽を守り、天智天皇に渡した中宮天皇として」間人皇后も合葬されたと考えるのが自然です。同じ間人皇后ですから、後の人々は伝承としての「穴穂部間人皇后」と名前の点で混同したかも知れません。
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これで、昨年から書いて来た「永福寺の聖徳太子陵墓の謎」の一部を書いたと思います。叡福寺聖徳太子陵の不思議については、去年のブログを見ていただきたいです。
昨年は、謎だらけであることを紹介していました。

明日香はなぜ「飛鳥」となったのか、それは何時なのか、いかなる意図があったのか、それと「飛鳥」と呼ばれる「近津飛鳥」はどうつながるのか、書きました。

七世紀から八世紀の王墓の改葬がなぜ多いのかも絡んでいましたが、そこには大王家と結んだ藤原氏の大きな野望と創作したい物語があったのです。
その物語の創作は、日本書紀を正史にする上に欠かせない作業だったのかも知れませんね。



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by tizudesiru | 2018-01-05 14:22 | 315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬 | Trackback

明日香・天智天皇が戻った倭京は何処にあったのか

天智天皇の倭京は何処にあったのか
大化改新後に、難波に都が遷りましたが、孝徳天皇を難波に置いて中大兄は倭京に戻りました。その倭京は何処にあったのでしょう。ヤマトヒメと同じく、倭京の場所も大きさも組織も分からないことが多いのです。が、天香具山と蘇我氏の寺や墓や神社は、その位置を探すカギになるはずです。
倭姫皇后は持統天皇か

さて、天智天皇の皇后の倭姫は、古人皇子の娘であると書紀に書かれています。古人皇子は中大兄皇子(天智天皇)によって誅殺されました。吉野太子とも呼ばれ、吉野に逃れた皇太子でした。その次期天皇の娘だというので、倭姫は皇后になれたのでしょうか。素直に書紀を読むとそうなります。記述を疑わなければですが、そうすると倭姫皇后がなぜ正史から消えてしまったのか(墓すら不明)、持統天皇はなぜ深く天智天皇を慕い、有間皇子を追悼するのか、最後の東国行幸や天皇の忌日の詔の意味が分からなくなります。
元明天皇(天智帝の皇女)は「天智天皇の不改常典」をもって皇位継承の根拠としました。天武天皇の王朝代に滅ぼした前王朝の法を持ちだすのは、異常です。それも皇位継承に関して、です。もろもろの事実は、一つの答えを指し示しているのです。
倭姫皇后が持統天皇だった可能性です。そうすると、もろもろの疑問が解けて、額田王が中臣大嶋と立てた粟原寺の意味もはっきりするではありませんか。
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古人大兄皇子について、おさらい

舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)、娘は倭姫。蘇我入鹿は次期天皇に古人大兄皇子を望み、古人大兄は太子となっていたと思われる。


古人大兄皇子と並んで皇位継承者とされたのは、厩戸皇子の子・山背大兄王で、その母も蘇我馬子の娘・刀自子郎女でした。古人と同じ蘇我系の母を持つ男子でした。

その山背大兄王は蘇我入鹿に襲撃されて、一族もろともに自害してしまいました。

やがて、乙巳の変。この時、古人太子は皇極天皇の傍に侍していたのですから、重要な立場で儀式に参加していたことになります。自分の支持者であった蘇我入鹿が暗殺された後、古人大兄は自宅へ逃げ帰り門を閉ざし「韓人が入鹿を殺した。わたしは心が痛い」といいました。その意味は何だったのでしょう。

殺したのは「韓人」、それは古人大兄を苦しめたのですが、この時、事件の黒幕(孝徳天皇とされる)を知っていたわけではないでしょう。太子が見た通りの無残な光景に対する気持ちを吐露したのなら、渡来系の人物が入鹿を殺したが、その原因は自分とは無関係ではないと思ったということです。

入鹿が殺されれば皇位継承権は遠のき、自分の身が危ないという意味でしょうか。書紀によればその後、倭姫は父を殺した男の妃となったのでした。

蘇我倉山田石川麻呂右大臣の娘たちも、父を死に追い込んだ中大兄の夫人となりました。越智郎女と姪郎女がそうでした。その皇女達(太田・鵜野・大江・新田部)も父の王権を倒した叔父(天武天皇)の妃となったと書紀に書かれています。これは大事な記述です。当時、この女子たちを他の豪族に分け与えるわけにはいかなかった、その血統を他に分けることはできなかった、のでしょう。「皇后となれる倭姫」となるべき女子だったから。古代では高貴な血統こそが財産でした。それは、中世まで、いえ近世まで続いた伝統的な考え方でした。落ちぶれても血統には威力がありました。だから、倭姫は望まれて天智帝の皇后となったのでした。皇位継承者となるには、高貴な女性を皇后に立てなければならなかった、まるでエジプトの王のように王家の血を引く女性を皇后にすることが必須だったと思います。


中大兄が戻りたかった倭京は何処にあったのか
飛鳥に倭京はあったのでしょうか。それとも三輪山の麓にあったのでしょうか。
其の天智天皇の権力を見るために、石神遺跡や川原宮をラインで見ましょう。石神遺跡からは木棺が出ていますし、河原宮は斉明天皇の葬儀を行ったところですし、後に寺院となりました。天智天皇の所縁の場所です。
天武・持統天皇も四大寺の一つとして大事に扱ったようですね。

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まず、右斜め上から左に下りるのラインを見ましょう。山田寺・川原寺・定林寺とラインが引けます。左上から斜め右下に下りるラインは、本薬師寺・蘇我氏の邸宅跡・川原寺・坂田寺とつながります。
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山田寺・川原寺・定林寺・坂田寺・本薬師寺、この寺院は既に紹介しています。

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(山田寺)

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(川原寺)
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(坂田寺)
坂田寺は鞍作氏の寺でした。石舞台や都塚古墳の近くの寺ですから、蘇我氏の同族でしょう。
では中央のラインです。本薬師寺から川原寺・橘寺に届きます。

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要するに、川原寺は斉明天皇・天智天皇所縁の重要な宮であり、寺院であったことがわかります。天武朝では、大官大寺・飛鳥寺・川原寺・薬師寺は四大寺とよばれ、官寺の代表の役目を果たしていました。国家的な仏教行事や僧尼の取り締まりを行っていたのでした。ただ、薬師寺は皇后の病気平癒のために造られて寺ですが、造営の途中で天武天皇の崩御となりました。在位中にはでき上がっていなかったのです。持統天皇二年に天武天皇追善の無遮大会が、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の五寺で行われたのですから、薬師寺は間に合っていないのです。

四大寺は朝廷が重視した寺です。
では、朝廷が重視した神社は何処で、どの神々でしょう。
それは、時代の浪にもまれて分からなくなっているかも知れません。しかし、位置情報は残されているかも知れません。遷座された可能性もありますが。国常立神社のある天香具山からラインを引いてみました。

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国常立神社のある天香具山からのラインを飛鳥坐神社(水色ポイント)に引くと、そのまま延びて石舞台に直線が届きます。では、天香具山から定林寺にラインを引くと、雷丘と蘇我氏邸宅跡がラインに乗ります。蘇我氏を抜きにしては何もできませんね。
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蘇我氏の飛鳥寺は真神原に建てられましたから、辺りは聖なる地だったのです。すると、斉明天皇に関わる板蓋宮・川原宮、草壁皇子が育ったという岡宮(治田神社)辺りも聖地だったことでしょう。

では、天智天皇が間人皇后や斉明皇太后やもろもろの役人を引き連れて、難波から戻って来たという倭京はどの辺りでしょうね。やはり天香久山を取り込んで考えましょうか。後の藤原宮が造られた辺り橿原市辺りかも知れませんが、わたしは北上する飛鳥川の東岸辺りに倭京はあったと思うのです。

倭京には、天照太神が祀られているでしょう。「天照太神を度会(わたらい)の五十鈴河上に遷し奉る」と倭姫命世記に書かれていましたから、倭京の頃は祭祀がなかったとしても、持統天皇の時代には天照太神を祀る社も置かれたでしょう。神祭りが入り乱れてはいるでしょうが、痕跡はのこっているはずです。



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by tizudesiru | 2017-12-05 21:06 | 306倭京は何処にあったのか | Trackback

持統天皇が霊魂となって北へ向かったわけ

持統天皇は霊魂となって北の天智陵へ向かった
未来永劫、霊魂のままでいい!
それは女帝の望みでした。太上天皇は望み通りに白い骨となり、ヨミガエリを望むことなく霊魂となって北へ向かったと、わたしは思います。葬儀を指示したのは文武天皇です。十分に太上天皇の望みを知って執り行ったことでしょう。
天智陵と持統天武陵が同じ経度にあることには意味があるはずです。それは、持統帝と天智帝に深いつながりがあったからだと思うのです。
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また、天智陵が平安京を守る位置にあるということにも意味があるでしょう。
平安京は天智帝の皇統の都として造られました。
しかし、持統・天武天皇の陵墓ともつながらないわけではありませんね。天智陵の真南には持統天皇が眠っているのですから。
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新しい皇統の都のために天智陵は移されることなく守護神となりました。
ここで、また振り返ってみましょう。
意思の強い女帝が貫いたことは天武帝の皇統を守ること。何度も書きましたが、草壁皇子の皇統を守ることでした。しかし、ここで立ち止まりましょう。草壁皇子が天武天皇の皇子であり、持統帝・元明帝・元正帝が天武帝の皇統を大事にしたのであれば、天武帝の他の皇子達の皇位継承権を認めたはず、だと。
では、元明天皇が長屋王の子どもたちのを身分を引き上げたのは何故でしょうか、例外でしょうか。
娘を長屋王に嫁がせていた元明天皇は長屋王の皇統に皇位継承権を認めてもいいと考えたようです。それは、「真の天武帝の皇統に継承してもらいたい」というのが草壁皇子の遺志だったからです。大津皇子を死なせてしまったことを悔やんでもいましたから。妃の元明天皇は夫の遺志を承知していたと思います。万葉集を読むかぎり、元明天皇の夫・草壁皇子への思いは、深く強いと思います。
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それでも、天武帝の皇統は抹殺されてしまいました。
藤原氏が外戚として権力を握るようになって、ことごとく天武帝の皇統は抹殺されていきました。ついに天武帝の皇統が絶え、天智帝の皇統が皇位継承者(光仁天皇)となりました。その息子の桓武天皇は平安京に遷都した時、怨霊・悪霊から都を守ることに腐心しました。その時、天智天皇の陵墓は守り神とされたのです。

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では、神祭りはどうでしょう。伊勢の神祭りが天武帝の祭祀であれば、そのまま次の平安京の権力者・皇統の祭祀となったでしょうか。
明治になって、たしかに天皇家の神祀りとして伊勢神宮が神道のトップとなりました。それまで、天皇の行幸が何百年もなかった伊勢神宮が…です。
ここで、やはり立ち止まり考えさせられます。
天武天皇の壬申の乱を勝利に導いた渡会(わたらい)の神は、天照大神ではなかったのではないか。それは、豊受大神だったのではないか。それを証明しているのが、「人麻呂の高市皇子の挽歌」の一節ではないかと、わたしも思うようになりました。すると、天照大神が伊勢に入ったのは豊受大神より後で、壬申の乱より後、となるでしょう。

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ここで、伊勢の神の鎮座地を求めた倭姫命とその物語は、遠い昔の人でも話でもなく天武天皇以降の時代のことだと思うのです。天智帝の消えた倭姫皇后と、持統天皇の伊勢行幸の大三輪高市麻呂との逸話を考えると、倭姫皇后は消えたのではなく天武天皇の後宮に召されたのではないか、持統天皇の行幸の目的が鎮座地探しだったのではないか、などと考えてしまうのです。
だから、持統天皇の霊魂は北へ向かった。天智陵へと。

では、また明日



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by tizudesiru | 2017-11-24 22:07 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

181藤原不比等とは何者か(1)

181藤原不比等とは何者か?

不比等は、天武天皇(40代天皇)の嬪であった妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(695生)をもうけています。

天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね?

天武天皇と藤原夫人の歌を万葉集に見ましょう。

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天武天皇(四十代)から藤原夫人へ賜う御歌

巻二103・わたしの住んでいる大宮に大雪が降った。そちらの住まいの大原の古い里に降るのは、もっと後であろうな

 

藤原夫人(五百重娘)のこたえ奉る歌

巻二104・それはわたくしの岡の神に言いつけて降らせた雪の、そのくだけたものがそちらにも散り敷いたのでしょうね。 

二人は楽しそうにやり取りをしています。藤原夫人は、天武帝が心許した女性だったのでしょうか。

天武帝の死後、この異母妹に不比等は近づいたのでした。

後宮は、女帝である持統帝の治世では機能していなかった。婦人たちはバラバラになったのでしょうか。

不比等は、父の藤原鎌足の鏡王女や安見兒に対する態度とは全く違いますね。
不比等は図々しすぎませんか。本来なら、秘話として処理されたでしょうに。麿は藤原四兄弟の末っ子になっています。少しも隠されていないようですね。

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不比等の母は誰か

千年の長きにわたって、藤原氏が朝廷の重臣であり、皇室との関係を保ち続けてきたのは、異常というか奇跡でしょう。道筋を開いたのは、不比等でしょうか。

不比等は鎌足(669没)の二子であり、壬申の乱(672)には参加していません。乱の当時は十五歳。その母は?

興福寺縁起には、鏡女王が不比等の生母(創作説もあり)とされています。

興福寺は、平城京の別区のようになっている藤原氏の氏寺です。

なぜ、興福寺縁起に鏡女王生母説が出て来たのでしょう? 

高貴な出自の鏡女王の名が必要だったとしか思えません。

 

前回のブログ(180)に書いた鏡王女は、その出自もはっきりしていません。名前の記述も、鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)、鏡女王(興福寺縁起・延喜式)と微妙に違っていて、同一人物ではないとする説があります。

天武十二年(683)、天武天皇が鏡王女の病気を見舞っています。それは、女王薨去の前日でした。もちろん後宮の女性ではありません。

天皇が病を見舞うとは、鏡王女は特別な女性ですね。天武天皇にもゆかりのある女王なのです。

興福寺縁起では、この鏡女王が不比等の母だというのです。なぜでしょう。車持国子君の娘が不比等の母ではないのですか?


長いので次にまわします。
また、後で




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by tizudesiru | 2016-12-21 14:56 | 181藤原不比等とは何者か(1) | Trackback

178天武帝の霊魂は伊勢へ

178天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌

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天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので皇后としての持統天皇の歌となります。

持統天皇の歌は162番歌は、草壁皇子の挽歌167番より前に載せられていますが、現実には草壁皇子の歌の方が時期的に先に詠まれたものです。


草壁皇子薨去(689)の方が、天武帝崩御の八年後(693)より早いのです。
持統帝は人麻呂の歌を夢の中で思い出したのかも知れません。
草壁皇子の挽歌の「高照らす日の皇子は飛ぶ鳥の浄の宮に神ながら太しきまして」と同じ言葉を使っています。      

では、夢の中での一首


162 明日香の
(きよ)御原(みはら)の宮に天の下知らしめしし ()(すみ)しし(わご)大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国は おきつ()も ()みたる波に 塩気(しおけ)のみ 香れる国に (うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子


明日香の浄御原の宮に天下をお治めになられた、支配者である我が大王は、高きより天下を照らす日の皇子であるのに
どう思われたのだろうか、神風の伊勢の国は沖の藻も靡いている波の上を、塩の気のみが漂い香っている国。そんな国に(何故行かれたのか)。言葉にできないほど慕わしい高照らす日の皇子が…


この歌は中途半端だそうです。夢の中での歌だから、言葉や思いが尽くされていないのでしょうか。
それにしても


日の皇子である天武天皇が行かれたのは、塩気のみが香る伊勢の国でした。


持統天皇にとって、天武帝が伊勢国へ行くとは理解しがたいと、いうのです。伊勢とは、壬申の乱で天武に加勢した神の坐す土地で、天照大神を祀る神社のある土地です。壬申の乱後に、天武帝は皇女を斎宮として送りました。


最近こそ二千年の神祀りの神社とか平気で報道しているけれど、伊勢神宮が歴史に登場したのは新しいのです。



更に、明治になるまで、伊勢には天皇の参拝がなかったという。


その伊勢に、天武天皇の霊魂が行かれたというのですから意味深ですね。


伊勢神宮は天武天皇にとって、皇室にとって大事な神であり、氏神の神社であったのです。一般の人が願い事をすることも禁じられていました。


そういえば、万葉集に詠まれる神社には「石上神宮」がありましたね。石上神宮は物部氏の神社で、ご神体は剣(空を切る時のフッという音から、フツ主の神ですね)

とすると、弥生の神であった鏡と剣と玉を祖先神とする氏族のルーツは、北部九州なのですね。


天武天皇は九州と深い関係があったのですね。最初の妻は宗形氏の娘です。息子の高市皇子は「藤原宮」の瓦に、九州の観世音寺や大宰府政庁と同じ文様の複弁蓮華文の軒先丸瓦を葺いています。

九州との繋がりを意識していたのでしょうね。

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観世音寺の軒先丸瓦と軒先平瓦
写真は「一瓦一説」(森郁夫)の写真をデジカメで撮ったもの





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by tizudesiru | 2016-12-14 11:32 | 178天武帝の霊魂は伊勢へ | Trackback

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

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持統天皇と天武天皇の合葬墓は、野口王墓(写真はNHKの映像をデジカメで撮影)

天智陵の真南に天武陵があります。
天智陵を改葬したのは文武天皇(持統天皇の孫)でした。天智陵は藤原氏の土地に築造されているそうです。藤原氏は持統天皇と天武天皇に仕えたのです。

さて、藤原氏は天智帝の腹心の部下であったと何度も書きました。
しかし、藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました。

では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。

気になるところですよね。ですが、今回は天武天皇と持統天皇の絆です。


天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌


まず、持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。

天皇(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首


159 八隅しし 我が大王の 
(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし (かむ)(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ (ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は ()る時もなし


世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。


もし天武帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい
、というのです。

太后の御歌」となっているので、崩御後余り日が経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。

次の歌は「太上天皇の御製歌」となっているので、

一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首


160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると
()ずやも智男雲


燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。


161 
()南山(たやま)にたなびく雲の青雲の(ほし)(さか)りゆく月を(はな)れて


北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。


何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」
が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。

あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でした。


「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになり
すべての皇子と皇女の母となったのでした。

その皇后・持統天皇と天武天皇との絆は深かったのでしょうか。
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(系図は、小学館「日本書紀(3)」の挿入図をデジカメで撮影)

持統天皇は帝王(天智天皇)の娘で、礼節を好み、母性の徳があったと書かれています。草壁皇子は、大津宮で生んだとも

そうすると、大津宮に遷都(667)する前、白村江敗戦(663)の前、天智元年(662)に、草壁皇子は生まれたのですね? 九州に身重の娘を連れて来ていた? 父の天智帝の宮で草壁皇子を生んだ? 
この時、持統帝は17歳ということになります。
草壁皇子が生まれた大津宮が九州の那の大津ならば、持統天皇は幼くして母を亡くしていますから、その後、父の宮で暮らしていた?
では、大海人皇子と結婚した後は、何処でどのように暮らしていたのでしょうね。この辺りがあいまいなのですね。

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by tizudesiru | 2016-12-11 10:30 | 177持統帝と天武帝の絆の深さ? | Trackback

165・天武大地震(678年)=筑紫大地震

天武天皇七年(678)


九州で大地震
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(福岡県久留米市で、耳納断層に関わる筑紫大地震の爪痕の特別展があっています)

この地震により、筑紫平野の寺院や役所が倒壊しました。上岩田遺跡の瓦が出土しています。ほとんどが垂木先瓦でした。「たるきさきかわら」とは、屋根ではなく垂木の木部が風雨にさらされて痛むのを防ぐための瓦です。
屋根を葺く瓦は他の寺院に運ばれて再利用されたので発掘されなかったのです。
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(小郡埋蔵文化財センターの展示物・写真撮影可能)

八弁蓮華文の文様で、蓮弁の中に子葉があります。飛鳥の山田寺の瓦の文様と同じでしょうか。
瓦のお話もしたいですね……
また、東日本で地震がありました。
大きな被害になりませんように。
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by tizudesiru | 2016-11-22 12:12 | 165天武大地震(筑紫大地震)678年 | Trackback

162・天武朝の女性たちの悲劇・その2

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by tizudesiru | 2016-11-19 10:43 | 161天武朝の女性たちの悲劇


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景

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