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大伴家持が詠んだ万葉集の最終歌の一つ前の歌「秋風の」

天平文化が花開いた奈良時代。でも、政変が連続した厳しい時代でした。
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「万葉集」は奈良時代の歌人である大伴家持が編集した、と言われています。
「万葉集」の最終歌は、4516番歌の「新(あらた)しき 年の初めの初春の今日降る雪の いやしけ吉事」ですね。
とても爽やかな新年の喜びと期待感に満たされる歌です。
この歌を詠んだのは、大伴家持でした。因幡守として国郡司を饗応する宴席で詠んだ歌です。彼がどんな思いでこの歌を詠んだのか、この歌から読み解ける歴史の一端を知りたくなりますね。
この歌が詠まれた時代を考えるために、ひとつ前の歌・4515番歌を読んでみましょう。同じ大伴家持の作歌です。
4516 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ
天平宝字二年(758)七月に詠まれた歌ですが、なんだか非常に寂しい歌です。
題には『七月の五日に、治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おほはらのいまきのまひと)の宅(いへ)にして、因幡守(いなばのかみ)大伴宿禰家持を餞(せん)する宴の歌一首』とあります。七月は旧暦ではすでに初秋でした。
大原今城真人という人が、因幡守となって赴任する大伴家持のために別れの宴を開いてくれたのでした。その心尽くしに対して詠まれたのが4515番歌なのです。
4515 秋の風が 萩の枝の先の葉まで靡かせて吹いている。この萩の花を髪に挿して宴を楽しむことのないままで、お互いに別れ別れとなっていくのだ。(別れとはつらいものだ)
家持は「相か別れむ!」と言い切りました。寂しさが切々と伝わります。万葉集のなかで「相か別れむ」という表現は、この家持の歌、4515番歌のみだそうです。
なぜ、家持はこんなに寂しい歌を詠んだのでしょう。
家持は大伴氏の御曹司、大手門を守る大伴氏という古代豪族の末裔、その家持に何があったのでしょう。
ちょうど一年前の七月、その事件はありました。大伴氏には大変な試練の時でした。家持は親しい人々や一族の有力者や大の親友を亡くしました。「橘奈良麿の謀反の発覚」事件です。
この大事件に遭遇するまでの大伴家持の半生を振り返ってみましょうか。
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家持は物心ついたときには、父の大伴旅人のもとで英才教育を受けていました。
弟の書持とも仲良く育ちました。父の旅人が大宰帥となって九州に赴任した時も、旅人の「長屋王の変」(729年、左大臣の長屋王一家が無実の罪で命を落とした事件)への対応も、目撃しました。旅人が天平三年(731年)に没した後、十代の家持の肩には大伴氏がのしかかってきたのです。
天平十年(738)の諸兄の旧宅での橘奈良麿の宴の時は、家持は内舎人(うどねり)でした。
天平十二年(740)藤原広嗣が乱を起こすと、聖武天皇について伊勢・不破・恭仁京・信楽京と聖武天皇とともに関の東を五年間も移動し続けました。
天平十六年(744)、献身的に仕えた聖武天皇の息子の安積親王の突然死家持は内舎人として仕えていましたからうちのめされました。
そして、失意のうちに越中守として赴任している時、弟の書持(文持)の薨去を知ります。
更に打ちのめされた家持は病に倒れました。越中守時代に家持の心の支えとなったのが、大伴池主の存在でした。池主と家持は深い友情で結ばれたのでした。
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しかし、聖武天皇が娘の阿倍内親王に譲位したあと、皇位継承の問題がくすぶり始めます。孝謙天皇は独身でしたので、次の皇太子が誰になるのか、大変な火種が残されたのです。
大伴氏も藤原氏も他の豪族も、次の政権をにらんで水面下で暗躍していたでしょう。それが、ついに表面化し藤原氏の反対勢力が一掃される事件が起こりました。
天平勝宝九年(757) 橘奈良麿の謀反発覚事件
何故か、家持はその事件に巻き込まれなくて済みました。それまで親しくしていた人々から距離を取っていたのです。しかし、親友だった大伴池主は事件に巻き込まれて命を落としました。池主の死を知った家持はどんな思いを抱いたでしょう。
自分が苦しい時を支えてくれた池主を死なせてしまったのです。心穏やかではなかったでしょう。
大伴池主、彼が無念の最期を遂げた一年後の七月、いろいろ思い出したでしょうから家持が宴を楽しんだはずはありません。餞する宴の歌は4515番歌以外の歌は掲載はありません。この一首のみが最終歌の前に置かれています。当然、にぎやかに餞別の会などしなかったのです。
私はそう思いますし、そう解釈ました。

なぜ、家持は難局を乗り越えることができたのか。
不思議ですが、誰かが情報を漏らして家持を救ったのです。それは、誰なのか。
答えは万葉集の中にあるはずです。4516番歌のひとつ前の歌「秋風の末吹き靡く萩の花‥」を家持が詠んだ場所『大原今城真人の宅』がヒントです。
私は、大原今城真人が大伴の氏の継続のために、藤原氏側の情報を家持に漏らしたのだと思います。彼は大伴氏をつぶしてはならないと考えた。そのために、家持を救おうと決めたのです。
だって、大原今城真人の母は「大伴女郎」なのです。大伴氏ゆかりの女性なのです。彼が大伴を断絶してはならないと考えたなら、それは自然です。
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では、「大原今城真人が藤原氏と深くかかわっていたから情報を持っていた」と言えるとしたら、それは何故か。
そのあたりは、また今度。



by tizudesiru | 2019-12-29 21:00 | 374令和元年こそ万葉集を読み解こう | Trackback

万葉集の最終歌・あらたしき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事

万葉集の最終歌は、数年前にこのブログでも取り上げました。
4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布弗流由伎能 伊夜之家餘其騰
     あらたしき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
この歌を詠んだのは、万葉集の編集者とみなされている大伴宿禰家持です。
天平宝字三年(759)正月一日、家持は「新しき年の初めの」の歌を因幡国の国庁に国郡司らを招いた宴で詠みました。前年、天平宝字二年六月、家持は因幡守に任じられ、七月に親しい者による別れの宴を済ませ、ほどなく家持は任地に赴いていたのです。
そして、正月一日の宴。この年は、正月一日と立春が重なった年でした。その年の宴歌です。
 新しい年の初めの一日が 立春に重なった今日、このめでたい日に降る雪よ どんどん降り積もれ。 吉いことが積み重なるように この国の弥栄をことほぐように 降り積もれ 
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凛と引き締まった寿歌です。国土と人々の幸せを願い、新年を寿ぐ思いが込められています。
しかし、こんな寿歌を詠んだ家持は、この時非常に寂しく辛い状況でした。
因幡守として国郡司を饗応した家持でしたが、彼の因幡守任命はいわゆる左遷でした。
家持が因幡守に任じられた一年前の天平勝宝九年(757)橘奈良麿の謀反事件がありました。そこで、反藤原勢力は一掃されていました。

橘奈良麿の父の左大臣橘諸兄の館に聖武太上天皇に従がして訪問したこともある家持だったのに、「奈良麿の謀反」に何故か巻き込まれなかったのでした。家持は443人もの処分者を出した政変を生き残ったのです。それは、彼を死なせてはならないと密かに情報を伝えた人物がいたということでしょう。だから、家持は橘諸兄たちから遠ざかり命をつないだのです。
しかし、藤原氏としては名門豪族大伴氏を率いる家持を野放しにするわけにはいきません。
家持が左遷されたのは、古代からの名門豪族である大伴氏が藤原氏にとって危険な存在だったからです。七月、藤原仲麻呂は抜かりなく家持を因幡国に遠ざけ、八月には孝謙天皇の譲位、息のかかった大炊王(淳仁天皇)に即位させました。藤原仲麻呂は光明皇后の甥で、孝謙天皇には従弟にあたり、光明皇后の権威のもとに権力を握りました。
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仲麻呂は光明皇后というバックがあったので、すべて意のままに動かせると思っていたのでしょう。
政変の度に、藤原氏によってターゲットの動向は監視され、事が起きた時には逃げ道はないのです。
橘奈良麿の謀反事件でも「反藤原氏勢力を一網打尽」計画は準備万端でした。

天平勝宝九年の橘奈良麿の変は、計画通りに事が進行しました。
発端は、聖武天皇の遺詔により「道祖王ふなどおう」が皇太子指名されていたことです。天武天皇の皇子である新田部親王の王子に皇位が移るのです。それが聖武天皇の遺言でした。孝謙女帝は独身でしたから、当然だれかに皇位継承されるのですが、藤原氏としては道祖王(ふなどおう)では納得いかなかったのでした。彼は天武系の王子です。

聖武天皇崩御(756年5月)の半年後の天平勝宝八年(757年1月)、左大臣を辞していた橘諸兄を死に至らしめ(おそらく殺害されたと思います)、その同年(757)7月に「橘奈良麿の変」を実行しました。
そうとしか考えられません。藤原氏がかかわる政治的な出来事は、ほとんど半年前から準備され確実に実行されています。それも、ことごとく「半年後の法則」(私が命名したのですが)に当てはまります。
757年7月、奈良麿の謀反は、大伴家持とも親しく交流していた山背王(長屋王の子)によって密告されました。それまで反藤原仲麻呂派だった山背王が、なぜか仲間を裏切り藤原氏に密告したのです。内部事情を知り尽くした王の密告です。そして、同母の兄をはじめ443人もの人が刑に処せられました。同母の兄の安宿王はその妻子とともに佐渡に流罪でした(宝亀四年・773年には、高階真人の姓を賜り、臣下に下る)。しかし、同母の兄の黄文王は皇位継承者候補とされていたために獄中で杖に打たれ絶命しています。
家持はこの危険な網を逃れました。家持の大切な人々は、歌を交換し合った友である大伴池主も、大伴氏の期待の星だった大伴古麻呂も、道祖王も名だたる官人も獄中の拷問で絶命したのでした。
何もできなかった家持は無念でした。

家持の主人だった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、大伴家持の本心を見抜かないはずはありません。家持が大伴氏を断絶しないために不本意な選択をしたことに気が付いていたはずです。ですから、橘奈良麿の変(757年7月)のちょうど一年後に、因幡国に左遷したのです。家持が都を去ると、八月にさっさと淳仁天皇(大炊王)を即位させました。
時代の流れと一族の受難を密かにかみしめて家持は因幡国で年末を迎え、そして新年を迎えたのです。
そこで、大伴家持は新年を寿ぐ歌を詠み、それを万葉集の最終歌としたのです。
どんなにつらいことがあっても、家持が寿歌を詠み切ったのはなぜか。それは、彼が初期万葉集の編集に倣い合わせたからです。
柿本人麻呂によって編纂された「初期万葉集」では「寿歌をもって最終歌としていた」からです。
だから、家持も渾身の力を注いで最終歌を詠んだのでした。
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この大伴家持の詠歌をかみしめながら、明日を迎えましょう
明日は、万葉集最終歌の4516番歌の一つ前の歌4515番歌についてお話ししましょうね。
では、また。


by tizudesiru | 2019-12-26 22:49 | 374令和元年こそ万葉集を読み解こう | Trackback

202藤原仲麻呂暗殺計画

202藤原恵美押勝仲麻呂暗殺計画・陰謀の果てに

藤原仲麻呂は、身内からも嫌われたようです。仲麻呂暗殺計画を練ったのは、藤原北家の藤原良継でした。それが、今日のお話です。

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藤原仲麻呂の権力へ執着、そして強引なやり口への反発と不満は、有力氏族のみならず同族内にも根深くありました。

中でも、式家の人々は不満でした。藤原宇合(うまかい)(式家)藤原広嗣(ひろつぐ)り式不遇藤原朝臣宿奈(すくな)麿(まろ)(よし)(つぐ)一人

良継は大伴家持とも親交がありました。

天平勝宝七年(755)防人部領使(ことりづかひの)(かみ)とし防人八首家持進上ていす。拙劣五首万葉集良継剛毅のあったしょうの進上された三首紹介


この三首は防人の歌として進上されたものです。元は八首あったのですが、拙劣な五首は万葉集に残されていません。作者は、助丁(すけのよぼろ)丈部(はせつかべ)麿上丁(かみのよぼろ)丹比部(たじひべ)国人上丁(かみつよぼろ)丸子連(まろこのむらじ)(おほ)麿(まろ)の三人です。防人は歌が詠める人達だったのです。



4328 大君(おおきみ)命畏(みことかしこ)(いそ)()海原父母

4329 八十(やそ)(くに)難波

4330 難波津に(よそ)(よそ)今日

4328 大王のご命令を畏んで承り、磯や海原を渡っていくのだ。父母を置いたまま。

4329 多くの国から来た防人は難波に集まり船出の舟飾りをする。その日の私の晴れ姿を見る人がいてくれたらいいのに。

4330 難波津にできる限りの舟飾りをして、今日いよいよ命令に従って任地に行くのだ。その私を見送る母もいないのに。

進上された歌の後ろに、家持が「追いて防人の(わかれ)ぶる(いた)一首があす。家持良継えて歌を詠み

二人は非常に親密でした。

天平宝字六年(763)、良継は藤原恵美押勝暗殺計画を練るのですが、発覚しました。


伯母の光明皇后を後ろ盾に皇后直属の官吏として運命の糸を操った藤原仲麻呂。しかし、多くの反感と恨みを買っていました。

仲麻呂に陰りが見え始めるのは、

天平宝字四年(760)光明皇后薨去の辺りからです。

母の看病に疲れた孝謙上皇も病に臥せっていました。そこに道鏡が現れ、上皇の病を見ます。

道鏡は、孝謙上皇をどれほど安心させたことでしょう。

長い間病に苦しんだと、平安な日々を過ごせる都を求め続けたと、一人は、三人そろって仏門に入っていました。

国分寺も造り、東大寺の廬舎那仏も造りましたが、それでも救われないのです。道鏡以外に女帝を救える人はいなかったのです。しかし、仲麻呂は不安になりました。道鏡に権力が移っていくと思ったのです。淳仁天皇に「道鏡への上皇の寵」を諫めさせました。

当然、上皇は激怒しました。

道鏡は、志貴親王(天智天皇の皇子)の王子ともいわれています。道鏡は僧侶ですから、後継者をもうけることはできません。上皇も同じです。

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藤原良継の仲麻呂暗殺計画は、失敗しました。

そのころ、藤原恵美押勝の反乱計画も密に進んでいました。

藤原仲麻呂は、皇族だけが登れた太政大臣と同じ「大師」にまで上り詰めましたが、孝謙天皇の寵が道鏡に集まるとそれを妬み、都督使となり兵を集めました。

孝謙上皇は吉備真備を呼び寄せ、全権を与えます。

そうして、仲麻呂は寂しい末路を辿るのですが。その話は、また後で。


橘奈良麻呂は生き延びていた?

この話は、付け加えです。

奈良麻呂の謀反発覚で、大量の処分者を出し、仲麻呂の独裁体制となりました。

道祖王も大伴古麻呂の杖下に絶命しました。

しかし、奈良麻呂は逮捕されましたが、死亡の記述は「続日本紀」にはないのです。歴史的には、他のものと同じく死没したと扱われています。

しかし、私は佐賀県橘町で不思議な説明板を見ました。

おつぼ山(こう)()(いし)見学ったす。案内板さい。りう

202藤原仲麻呂暗殺計画_a0237545_20584566.png

長崎街道が墓地をカーブしながら通っています。墓地の正面100メートルほどで、おつぼ山神籠石です。
次は、「仲麻呂の最後」ですね。
また、あした

(数日旅行してました。飛鳥の写真を撮りに行っていました)



by tizudesiru | 2017-01-22 21:10 | 202藤原仲麻呂暗殺計画 | Trackback

201大伴家持が見た奈良麻呂の謀反事件

201大伴家持が見た橘奈良麻呂の謀反事件

橘宿祢奈良麻呂の謀反発覚は、長屋王事件と同じくらい世間を驚かせました。四百人以上の処罰者を出し、有力者が杖下に刑死したからです。

同時に、「とうとうこの日が来た」と世間は思ったでしょう。

大伴宿祢家持は、この日を予感していました。

だから、家持は先手を打ち連座を免れたのでした。

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天平勝宝八年(756)聖武太上天皇崩御。遺詔により(ふな)()王立太子

聖武太上天皇は、娘の孝謙天皇に跡継ぎがないので皇太子として道祖王を立てるように遺詔を残していました。

(ふな)()王は新田部(にいたべ)親王の子です。新田部親王(父・天武帝、母・五百重娘)は、長屋王宅に窮問使として遣わされ、長屋王家の滅亡に関わりました。

そのことを聖武天皇は忘れていなかったのでした。

兄の塩焼(しおやき)王には不破(ふわ)内親王(父・聖武天皇、母・犬養(ひろ)()())を室とさせ、弟の道祖王を皇太子としたのです。

新田部皇子(親王)は長屋王の無実を知って窮問したかも知れません。三十年後に、長屋王事件関与に対する聖武太上天皇の配慮があったのでしょうか。新田部皇子に無実の者を裁かせたので、その見返りに手厚くしたという。兄に内親王を与え、弟を皇太子に成したのですから。五百重娘(いほえのいらつめ)は鎌足の子で不比等の妹ですから、光明子の身内から後継者を出そうとしたのかも知れません。五百重娘は不比等との間に藤原麿を儲けていますから、新田部親王は麻呂の兄になります。

しかし、その全ては藤原氏によって奪われてしまいます。

万葉集二十・に道祖王の歌があります。


4284
新しき年の初めに思うどちいむれておればうれしくもあるか

新年に心許した仲間と一緒に集まって宴していると、なんと楽しく嬉しいことだろうか。*どちとは親しい仲間のこと

公卿に仲間入りした初々しい公達の歌です。


しかし、元気な公達はむしろ邪魔だったのです。二月に橘諸兄が薨去しました。すると、聖武天皇の喪中に不謹慎なことをしたと、道祖王は廃太子されました。


翌月に立太子されたのは、
大炊(おおい)王(父・舎人皇子)です。

舎人皇子も長屋王事件の窮問使の一人でした。

天平勝宝九年(757)

(1月)橘諸兄(もろえ) *光明子の兄の諸兄の死亡

3月)(ふな)()王廃太子 *聖武天皇の遺言を無視

4月)大炊(おおい)王立太子 *大炊王は仲麻呂の娘の入り婿

5月)藤原仲麻呂紫微(しび)内相養老(ようろう)律令(りつりょう)施行 *新体制を整える

6月)橘奈良麻呂大弁、大伴家持大輔 *謀反事件の直前に人事

7月)橘奈良麻呂の謀反発覚奈良麻呂逮捕、黄文(きふみの)(おほきみ)・道祖王・大伴()麻呂(まろ)・小野東人ら拷問死。藤原豊成を大宰府員外(そち)に左降。*兄も降ろす

8月)改元(天平勝宝→天平宝字)

黄文王は、長屋王の王子です。吉備内親王に産まれた四王子は自経しましたが、他の女性(藤原不比等の娘)に生れた男女などは許されていました。天平九年(737)には、安宿(あすかべ)黄文(きふみ)円方(まとかた)王、()女王、(おし)海部(みぬべ)女王位階ていす。757年、長屋王の王子の藤原系の黄文王も、藤原系の道祖王も刑死しました。

聖武天皇の崩御後、皇位継承者を断罪し抹殺したのです。

万葉集に、大伴家持、大炊王、藤原仲麻呂の歌が残されています。

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家持は謀反事件と取りざたされそうな兆候を感じたのでしょうか。
藤原氏側にすり寄ったのでしょうか。時勢の移り変わりを見つめています。
対して、仲麻呂の驕りは何でしょうか。彼の末路が読めるようです。


六月二十三日の家持の歌は、謀反事件の一週間ほど前の詠歌です。

4483 いろいろなことが時と共に変わっていく。時勢の変化を見るごとに心が痛み、懐かしい古人が偲ばれてならない。(世の中とは、こんなものか。)


4484
 美しく咲いている花は時が来ればしおれていくものだが、山に生えているヤブランの根は地中深く根を下ろして長くかわらないのだろうなあ。(地中深く隠れるように、今の世を過ごす以外に道はない。)


4485
 季節の花はなかなか良いものだが、このように時の花を見ながら心を明るくして行こう。これから秋になるごとに。(花を眺めて心を晴らす以外にないのだ)


まるで、事件を予知して、身に降りかかる火の粉を避けたような歌です。

奈良麻呂の謀反事件が一段落した後、大炊王と仲麻呂の歌。


4486
 天地を照らす日月の極みが無いように、治世と繁栄はこの国に極みなくゆきとどいているから何も心配することはないのだ。

4487 さあ、お前たち、たわけた真似などするのじゃない。この大和の国は天地の神々が固めた国であるぞ。


前記の二首は、天平宝字元年(
757)十一月十八日に内裏で宴の席で詠まれたものでした。

家持は事件を見ていました。

44834487の五首は、家持の孤独と大炊王と仲麻呂の驕りが臭います。

身内の大伴古麻呂の最後も見ました。大伴古麻呂は、遣唐使として唐に渡っています。唐の皇帝の朝賀の席順を新羅と争い、日本の方が上席だと主張し勝利したのです。ちなみにこの遣唐使の中に阿倍仲麻呂や吉備真備などがいました。

大伴古麻呂は、大伴氏の期待の星となりました。しかし、奈良麻呂謀反に巻き込まれ死亡しました。

家持は大伴氏を守ろうと耐え忍びます。翌年(758)六月、因幡守(鳥取県)として都から離されました。八月に孝謙天皇は譲位し、大炊王が即位しました。

藤原仲麻呂は大保に任命され、淳仁天皇から恵美押勝の姓名を賜ったのでした。

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画像はNHKのテレビの画像・デジカメで撮ったもの

この後、孝謙天皇と淳仁天皇が対立します。
そして、悲しい末路が




by tizudesiru | 2017-01-16 20:49 | 201家持と橘奈良麻呂謀反事件 | Trackback

194大伴家持は政変の目撃者

194大伴家持は政変の目撃者・(万葉集は倭国の歌)

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万葉集の時代には長歌・短歌・旋頭歌など詩歌の形式の様々ありましたが、古今集の時代になると、ほとんどが「5・7・5・7・7」の短歌に集約され、それが勅撰歌集として残されました。詩歌にも革命的変化が起こったのです。それは、政治の流れと無縁ではないでしょう。

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聖武天皇が即位した時、家持は十歳にもならない子どもでした

古代に倭歌はどのように使われていたのか。

倭歌ですから、倭国の歌です。八世紀になって、「倭国の挽歌」を止めて「日本挽歌」としようと大伴旅人に提案したのは、山上憶良でした。しかし、日本歌にはなりませんでした。

憶良の提案にあった「挽歌」のように、人の終わりに「挽歌」を使った儀式をしたようです。歌は始まりと終わりの儀式に必要なものでした。

年の初め・大王の御代の始めや、年の終わり・人の最後(葬送儀礼)に歌われたのでした。万葉集の巻一は「雑歌(くさぐさのうた)」で、儀式歌が中心です。巻一には、挽歌は有りません。挽歌は巻二にまとめられています。もともとは、巻一が雑歌・巻二は挽歌としてまとめられていたのかも知れません。

万葉集は、巻一から有間(ありま)皇子事件に向かって編集されていました。それが見えにくいのは、大伴家持の手により後期万葉集と呼ばれる歌群が持ち込まれ、後の世に手が加えられたからです。

大伴氏により、後期万葉集と呼ばれる歌群が付け加えられた。

大伴宿祢家持479首、大伴宿祢旅人76首、大伴坂上郎女84首、娘の大伴坂上大嬢11首、大伴宿祢池主29首、他に大伴氏関係の歌多数持ち込まれた。大伴氏に献上された歌群もある。

柿本朝臣人麻呂88首、柿本朝臣人麻呂之歌集369首、柿本朝臣人麻呂之歌(集)中3首と、人麻呂の歌も多いが万葉集中に分散されている。

更に、後世、高貴な人の手により大きな編集のメスが入れられたので、万葉集に託された物語が読みにくくなった。


家持の
479首の歌は、時代を移す鏡でしょう。

家持は自分の歌ばかりでなく、大伴氏や知人の歌、献上された歌も残しました。そこに見え隠れするのは、藤原氏の悪行の告発です。

では、またご一緒に


by tizudesiru | 2017-01-08 11:49 | 194万葉集は倭国の歌 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう

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