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神籠石系古代山城の築造時期の問題提起

元号の「平成」が「令和」に代わり、国内には新しいことが起きそうな期待感が高まっていますが、古代史の世界は残念なことが連続しています。
近畿の巨大古墳群が世界遺産に登録されることを目指すそうです。
あの古墳群が5世紀の王権の証明とでもいうのでしょうか。5世紀と言いたい、そのように5世紀であって欲しい、それは願望としては理解できます。しかし、史実としてはどうでしょうか
大化改新(645年)まで、豪族を抑えきれていなかった近畿です。戸籍も持たない、行政区もなかった、経済的に力を持った豪族が権力を握っていたと思われる地域です。そこで、中国の中央集権国家に倣って、新しい国家像を求めて蘇我氏を滅ぼしたのです。
統一政権=王権の確立は、まだなかったのです。
阿毎多利思北孤が畿内に居たのなら、行政区があり組織があり戸籍があって税もあり、王宮も王妃も後宮も皇太子もいたのですから、「大化改新」をする必要はありません。
何にもなかったから留学生が帰国した後に中央集権国家を目指そうと、彼ら学者と若者が軽皇子(孝徳天皇)を中心に集まったのです。

日本書紀と隋書を読めば、自明のことです。アメノタリシホコは阿蘇山のある九州に居たのです。王権はそこに成立していた。ですから、大化改新の前に近畿王権が確立していたはずはありません。推古天皇は女性ですし、タリシホコではありえません。

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アメノタリシホコは佛教で国を教化しようとしていました。それを見た蘇我氏も物部氏も仏教とその文化にあこがれました。しかし、近畿に仏教を入れるには抵抗勢力が強かったのです。蘇我氏が私的に仏教を保護したのもそのためでした。
やがて、蘇我氏と物部氏は交易の利権を巡って対立し、蘇我氏が勝利しました。
そこで、蘇我氏は物部氏の莫大な土地と財産を奪いました。大阪市の上町台地の大阪城辺りには、古代の難波堀江がありました。そこは古代の流通の拠点だったのです。そして、その辺りは物部氏の私有地だったでしょう。

蘇我物部戦争に敗北した物部氏はすべてを失い、難波堀江辺りは蘇我氏の土地となりました。
が、ほどなく上町台地の一等地は、乙巳の変(645)で蘇我氏本家を滅ぼした孝徳帝の所有地となったのです。ですから、そこに難波名柄豊崎宮は造営されました。


単純な恐ろしい話です。政変のたびに莫大な財産の所有者が変わるのです。
孝徳天皇は理想に向かって難波宮を造営しました。しかし、律令を持たなかったので「詔勅」で政治を行いました。命令系統が整ってなかったのです。その痕跡もなかったので、過去の権力の組織を再利用することもできませんでした。ゼロからの出発でした。

何にもなかったのです。そして、そこには過去の大型古墳があった?
不自然で、違和感がありすぎです。王権の古墳ではないでしょう。
 
6世紀の半ば過ぎから7世紀初めにかけて、国内の流通が一変しました。その経済力をバックに大きな威信物を希望した新興豪族が作ったと考えることは出来ます。

以上、「古代史の残念」について一言書きました。
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令和元年、最初の投稿ですが、カテゴリ「363神籠石が歴史論争から外され‥」につながる内容になります。
古代山城についての昨今の動き・見解には、驚きあきれます。理解できない説が文化庁の説をはじめ諸説が横行しています。
「古代山城として朝鮮式山城が白村江敗戦後に造られ、その後、交通の発展に伴い神籠石系山城が作られた。唐・新羅に対しての防御の意味で造られたので、神籠石系山城は見せかけの山城で建物も何も作られなかった。ハリボテのようなものだった」
そうでしょうか。これまで、九州の地方自治体がコツコツと積み上げて来た研究はどうなるのでしょう。まるで、地方をないがしろにした言葉だけの説です。

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そこで思い出しました。今年三月の「善一田古墳と古代筑紫の世界」シンポジウムのスライドです。安閑紀の屯倉の位置を示した地図に、朝鮮式山城と神籠石系山城が一緒に示されていました。
すると、古代山城は安閑紀の屯倉(磐井の乱後の全国に造られた)と時期がリンクするのですね。

文化庁の見解とはぜんぜん食い違いますね。白村江敗戦よりも100年以上早くなりますから。文化庁は8世紀とか書いていましたからね。150年も時間差ができるわけです。
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2005年(平成17年)4月12日の読売新聞です。
少しアップします。
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6世紀後半から7世紀前半に造られていた可能性とあります。
私たちは自分たちに都合のいい情報で歴史を処理してはいけないと思います。説はいろいろでしょう。
しかし、経済効果や町おこしという目的で歴史を扱ってはいけないと思います。

歴史は個人や一地域のものではないと思うし、未来の人々に真実を見つけるチャンスを残したいと思います。
ではまた、明日。


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by tizudesiru | 2019-05-11 21:53 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

神武天皇が大城山で祭った神を、天智天皇が降ろした

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福岡県太宰府市の通古賀(とおのこが)に王城(おおぎ)神社という古社があります。そこに伝わる「王城大明神縁起」に『神武天皇が四王寺山の山頂に城を構え、大野の県主・田中熊別に警固させていた。神武天皇の山城があるので、時の人は王城(おおぎ)山と云った。詔してこの山に武甕槌と事代主を祭り、東夷を平らげることを祈らせた』この後『天皇は東夷征伐に出発し、熊別は天皇に従い東国に行った。熊別は一子熊則を残し置き、荒気武彦と蚊田王を警固させた。天皇は東征し大和国に内裏を建て橿原宮と名づけた云々』ということが書かれているのです。

王城神社の縁起によると、四王寺山に「大野城」が作られる前から、神武天皇の山城があったとなります。此の伝承が事実を反映しているのであれば、或権力者が山城を造りそこで神祭りをしていたことになります。或権力者が神武天皇かどうかは判断できませんが、宝満山やその周辺、更に西側の豊前にかけて神武天皇の伝承が散在するのも事実です。それも、神功皇后伝承地と重なるのですが。
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福岡県太宰府市・大野城市・宇美町にまたがる「大野城」山頂から東を見ると、宝満山と三郡山と若杉山が見えます。西を見ると背振山系の山々から糸島地方の山々まですっかり見えるのです。ここで神祭りをしたと考えるのは自然です。
私は、神山の信仰は弥生時代から始まっていた、と思っています。
宝満山と飯盛山(福岡市早良区)を直線で結ぶと、この大城山山頂と須玖岡本遺跡の高所を直線が通ります。その直線上に、須玖岡本遺跡の王墓、吉竹高木遺跡の王墓、更に飯盛山を越えて、糸島の三雲南小路王墓の三カ所の弥生王墓と、最後に一貴山銚子塚古墳の後円部が乗るのです。

これは偶然ではない、と何度も紹介しました。
春分秋分の太陽は宝満山から昇り、飯盛山に沈むのです。飯盛山こそ、つい最近まで福岡市ではなく「平群村」に在りました。ヤマトタケルや景行天皇が詠んだあの「平群の山」が「飯盛山」だったと思います。古代には、平群の山のいつ樫の葉を髪にさして祈ったのです。飯盛山は神山で、女性神・イザナミノミコトが祀られていました。
なぜ、イザナミノミコトだけ? 当然の疑問です。わたしは女神が飯盛山(平群の山)に、男神が宝満山に祭られていたのだと思うのです。東西の男女の神に見守られて、福岡平野の弥生時代は繁栄したと思っています。それが、信仰として残されたから宝満山の男神を祭祀する場だった大城山も祭場として聖地となったと思うのです。

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弥生の信仰が古墳時代に引き継がれ、さらに仏教が入ってきた時も聖地として仏堂が建てられた可能性があると思います。瓦は、その名残ではありませんか?

大城山の麓から延びる緑の帯は水城です。三郡山系と脊振山系の間の大きな断層地形を「水城」が横切っています。神山から延びる水城も、白村江敗戦後ではなくそれ以前から作られていた可能性があると、神社伝承と版築土塁の中に敷かれた樹木の炭素年代測定からも明らかだそうです。

大きな土木事業・版築土塁が造られるには、経済的バックと政治的意義が必要です。なによりそれを完成させる技術も必要です。一つ欠けても地域全体を巻き込むことはできません。「大野城や基椽城も取り込んだ羅城説」がありますが、それらがあったというならば壮大な権力があったということになります。

大きな権力があったなら、さて、何処にあったのでしょうね。ヤマトですか? ヤマトが白村江戦以前から羅城を造り始めていた、のですか? 無理がありますね。では
九州には大きな権力があったと、考える他ないでしょう。
彼らが大野城ができる前に、何らかの建物を建てていた…となります。
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四王寺山=大野城の「瓦葺き建物」はどんな場所にあったのか、だいたいわかりました。発掘で瓦が採集されていたことは承知しています。では、瓦はどこで焼いたのでしょう。古代寺院では、寺の近くで鍛冶もするし瓦も焼くし、柱も組み立てます。ここもそうだったのか、瓦窯があるとしたら何処だろう、などなど思っていたのです。
そんなに簡単に見つかるわけはありませんが、近くに窯跡があってもいいはずです。

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これは、主城原を歩いていたとき礎石群の横に置かれていた新聞記事のパネルです。礎石の下を掘ったら掘立柱遺構が出たというのです。それは「官衙」址だというのです。
そうであれば、人が出入りしたのは北の宇美側と云うことになります。大宰府は南側ですから官人が大宰府に住んでいたのなら、通うには不便です。
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新聞を上のように要約しまた。
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主城原の官衙は博多側を向いています。古代の官人は博多側から四王寺山に入ったし、その入り口に大きな建物(官衙)があった、となります。掘立柱の柱穴は四角です。そこから単弁軒先瓦が出土したのです。すると、建物より瓦の方が古いのでしょうか。または、建物を建てる時、他から瓦を移したということでしょうか。では、何処から・・・

私は、「白村江敗戦後に倭国に入った郭務悰は、二千の兵を四王寺山に置いたのではないか」と思っています。書紀には「敗戦後、戦後処理のためと思われる二千の兵が倭国に来た」と書かれています。彼らは筑紫にとどまっていますが、郭務悰らが何処に駐留したか定かではありません。彼等が駐屯した安全な場所は何処でしょう。那の大津から遠くはない守りやすい場所ですから・・・四王寺山です。そこに駐屯のための掘立柱大型建物を建てた時、瓦を近くの寺院や館から集めた・・・これは無理ではないでしょう。
または、もともと掘立柱の権力者の館が博多湾側を向いて建てられていた、となりましょう。その建物を郭務悰が利用したのなら、自然な展開です。

さて、真相は。


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by tizudesiru | 2019-01-15 12:30 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

文化庁は、「神籠石は天武朝に造られた」という

神籠石の築造を命じたのは誰か?

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律令国家の誕生と鞠智城
文化庁文化財部記念物課文化財調査官である近江さんの論考が、3月18日に頂いた『特別研究』論文集の最後に載せられていました。
はじめに
(一)古代山城築造の背景
(二)古代山城から見える防御網
問題の所在
(一)古代山城全般に対する理解について
(二)今回、問題として取り上げる点
古代山城築造の契機
(一)築城に関わる資料
(二)気になる両槻宮(ふたつきのみや)
(三)天智朝以前に築造が開始された可能性
古代山城は交通の要衝に位置しているのか
(一)情報伝達速度から駅路敷設時期を考える
(二)古代山城と駅路との関係
(三)古代山城の編年
(四)古代山城と交通路
(五)交通路から見た古代山城の築城時期
古代山城の築城目的は何か
(一)第一・二段階の山城
(二)第三段階の古代山城 天武朝の緊張
(三)古代山城の築城
律令国家と鞠智城
(一)鞠智城の謎
(二)鞠智城の評価をめぐって
(三)第二段階の古代山城として、今後、視野に入れておくべきこと


という「見出し」が付けられていますが、何が書かれているか想像できますか。
ほとんど「神籠石の意味・築造・あつかいかた」について書かれています。
鞠智城について取り上げられているのは、最後の20行で「(三)第二段階の古代山城として、今後、視野に入れておくべきこと」だけです。
驚きました。


裏を返せば、「神籠石の取り扱いが大変微妙「だと云うことです。なぜ?

如何にでも解釈できるからです。

文化庁は神籠石の意味も謎も、みんな承知しているのです。

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そこで、みんなひっくるめて「神籠石」を使わず「古代山城」としたのです。そうする必要があるからです。

然し、資料はありません。

まず、「持統4年、唐で捕虜となっていた大伴部博麻(おおともべのはかま)の帰国」を持ちだしています。
博麻は白村江戦で唐軍の捕虜となりました。「唐人の謀を本国に知らせよう」と我が身を売り旅費をつくり、仲間を日本に帰しました。30年後に帰って来た博麻を持統天皇は誉め労ったという記事です。

つまり、「博麻が身売りしてまで、本国に危機を知らせたかった」ほど、天智四年には唐・新羅連合軍 来襲の危機があったとして、古代山城の第一段階が造られたとしています。長門城・金田城・大野城・基肄城・高安城などです。

然し、これ以降は、山城の築造記事はありません。

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(何故、このような大工事の記事が正史にないのでしょうか。)

それでも、神籠石は存在します。

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それで、神籠石も含む山城として、三段階に分けられました。二段階と三段階が神籠石になっています。

山城に入れられた理由は交通の要衝にあるからです。

国家的な事業と言わざるを得ないのです。


神籠石は、白村江敗戦後の大野城の石垣と比べると、格段に計画的だし丁寧に作られています。
然し、人が住んだ痕跡が見つかっていないそうです。なぜ?


神籠石が大野城より後に造られたという証拠は有りません。

しかし、誰の指示もなしに造られたのではありません。

築造を命令した人がいるはずです。財力も統率力も設計図も必要です。
同じ文化圏の技術でなければなりません。得手勝手に造ったものではないからです。

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(さて、古代官道はいつ整備されたのか、元々交通網はどのようになっていたのか。)
解決しなければなりませんね。

近藤氏(文化庁)の論考では、第三段階の古代山城(神籠石系山城)は、天武朝後半の築造と断定されていました。


by tizudesiru | 2018-03-22 12:51 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

神籠石の水門の切り欠き加工の技術が失われた理由は何か

前回も長すぎました。ですから、神籠石と切り欠き加工についてのみ紹介します。
神籠石はいつ造られたのか

神籠石という名称は、高良山神籠石から使われ始めたそうです。神の神域と列石で囲まれた土地が重なったので、神籠石と列石が結びついたようです。高良山神籠石が知られるようになると、あちこちから「同じような列石がある」と報告があり、いつの間にか「神籠石」という名称が共通語になり、論文でも「神籠石」「神籠石系山城」と使われてきたのです。

その神籠石が急に「古代山城」となり、大野城などより後に造られたことになっているのです。
いつの間にか。


大野城より後に築造という、驚きの急展開!!!?

これまでは、6世紀後半から7世紀初頭に神籠石は築造されたというのが定説でした。大野城より先に築造。


神籠石という名称は、地域に深く根付いています。


幾つか紹介します。

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(女山神籠石の石柱と列石)
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(鹿毛馬神籠石の案内板と列石)
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(雷山神籠石の石柱と列石と水門)

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確かに高度な技術です。
だから、山の上に切り石をきちんと並べるなんて、6世紀後半の九州の技術ではできないというのでしょうか。
これが、統一新羅の技術だとでもいうのでしょうか。そんなことはありません。
5・6世紀の九州の古墳造に既に使われていた技術でした。
なぜか、この技術は後世に伝わりませんでした。この技術が忽然と消えたのはなぜでしょうか。
中央政権が造らせたのなら、古代の技術は失われなかったはずです。


忽然と消えた理由は一つ。後ろ盾の権力が潰れた(無くなった・消えた)からです。
白村江敗戦で九州は大打撃を受け、技術も技術者もバラバラになってしまったのです。それで、古代の石組み技術が消えたのです。


神籠石は白村江敗戦前の権力者の所在地を探る手がかりだと、多くの人が考えたようです。
だから、いけなかったそうです。九州に別の権力があるのは許されないそうです。
研究者が神籠石を無視し続けた理由は、民間の声だったと云うことです。
ホントに、そうですか? たしかに神籠石の論争はほとんどなかったようですが。


誰が神籠石を消したのか? 知りたいです。

知ってどうする? 分かりませんが、「文化庁」らしいです。
神籠石という名称を許さないのは、文化庁だと云うことです。
ホントでしょうか? 次は「文化庁文化財部記念物課文化財調査官」の近藤氏の論考を紹介します。

では、明日。

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by tizudesiru | 2018-03-21 14:03 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

239神籠石は消されるのか

神籠石は何処へ消えた?!
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慣れ親しんだ神籠石系山城という歴史用語は、無くなるのでしょうか。確かに神籠石が世間に知られた時、高良大社の神域を囲む列石と古くから使われて来た「神籠石」という言葉が、混同して使われたので理解に混乱が生じたのでしょう。しかし、正史に登場する朝鮮式山城と区別するために、明治以来ずっと神籠石・神籠石系山城という用語が使われて来たのは事実です。しかし、何故か歴史学者の歯牙にはかかりませんでした。その存在を認めることは間違いでああるかのような意見は有りました。ほとんど地方(主に九州)の自治体が地域おこしのために時々使うマイナーな用語でもありました。もちろん、大野城や基肄城、鞠智城といった正史に残る山城のイベントとは比べられないほど小さなものだったと思います。
そのささやかな歴史さえも、突然、奪われようとしていると、わたしは思いました。つい一年前の山城シンポでさえ、若い研究者が馬鹿にした笑いで「僕は神籠石は大野城より新しいと思いますよ」と、これまた若い研究者仲間に喋り掛けているのを見ました。そばを通り抜ける時、「ああ、やはり神籠石について考えてくれる人はいないのかな。九州になんで神籠石が集中するのか、少しは考えてほしいな」と、非常に残念に思いました。しかし、一転、「古代山城」という一語で、朝鮮式山城も神籠石もひとくくりにされてしまったのです。いつの間に? 何があったというのでしょう。分けて考えて来たのではありませんか、今までは。なぜ、急に変わったのでしょう。それも、近畿政権の建造物だったとは、仰天の展開ですよ。つい昨年まで、下の画像のように、朝鮮式山城と神籠石系山城は分けて示されていました。資料は、山城シンポジウムだったと思います。
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列石と版築を持つ神籠石系山城は九州から瀬戸内に分布します。それも絶妙な位置に置かれているのです。例えば、おつぼ山神籠石、帯隈山(おぶくまやま)神籠石、御所ヶ谷神籠石は一本の直線で結ぶことができます。その山城の高所にピンを立て直線で結べばいいのです。誰にでもできます。
驚いたのは、この直線がほぼ夏至の日の出のラインだったからです。
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夏至の日の出は、冬至の日没のラインでもあります。東西のラインは春分秋分の日の出・日の入りのラインではありませんか。南北のラインは、太陽が毎日南中するラインです。そこに、神籠石系山城があるのは、非常に驚きでした。これは、自著「太宰府宝満沖ノ島」でも取り上げたと思います。
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これらの神籠石に共通する列石を見てみましょう。
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雷山神籠石の列石。番号は昨年の講座(市民センターであった)で、わたしが使ったスライドの番号です。写真の日付けは、撮影に行った2013年です。写真を撮るには冬がいいかなと思います。ただ、一人で行くのは危険だと思います。
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杷木神籠石の列石は、江戸時代に筑後川の工事に使われたらしくほとんど抜き取られています。大石堰は五庄屋の伝承と共に大変な工事だったようです。古墳の石室も壊されたとか…
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鹿毛馬(かけのうま)は歩きやすく、40分ほどで列石を一周できます。列石はほとんど残されています。

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御所ケ谷神籠石は、様々な時代がごちゃ混ぜに盛り込まれた神籠石です。途中で工事の変更もあったとか…

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女山(ぞやま)神籠石には切り欠き溝がはっきりと残っています。

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高良山神籠石が、神籠石という用語の発祥の地です。列石は高良大社(延喜式内社・筑後国一宮)の神域にほぼ重なるそうです。

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阿志岐神籠石(阿志岐古代山城)の列石は、二段に積まれている場所があります。丁寧に敷石もしかれています。急斜面を列石が滑り落ちないようにしているのでしょう。もちろん、一段の列石もあります。
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唐原神籠石は見学できませんでした。ここは列石が抜き取られた跡が残っていました。抜き取られた石が中津城の石垣に転用されているということでした。


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列石の共通点は見つかりましたか。いずれも切り石でした。切り欠き溝がありましたね。版築のための木材を据えるて見のものだそうです。
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雷山神籠石の説明板によると、切り欠き溝が彫られた理由が分かります。下は、御所ヶ谷神籠石の報告書の中の説明図です。イラストををデジカメで撮りました。
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次は、水門をみましょう。
また明日。




by tizudesiru | 2017-04-08 00:23 | 239神籠石は消された? | Trackback

235 基肄城の水門石組

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235 基肄城の石組み

   そして、瓦のなぞ
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絵地図の現在地と云う所に来ました。*基肄城は福岡・佐賀の両県に属しています。
日本書紀には「天智四年秋八月(665)に、逹率億礼福留(だちそちおくらいふくる)・達率四比福夫(だちそちしひふくぶ)を筑紫国に遣わして、大野及び椽(き)、二城を築かしむ」と記録があります。
達率とは百済の冠位(高官)です。
さて、百済は660年には滅びていましたが、救援を求められた倭国は出兵し大敗したのが663年でした。664年に水城を大宰府に築き、翌年に大野・基肄城を築いたとなっています。
では、百済の高官の指導で作られた石垣を見てみましょう。

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石組みはこの狭い谷に在ります。右は急な崖で間に谷川が流れ、左に石垣があります。
この川は高原(たから)川と云います。高良山神籠石の高良川とも似てますね。

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これは案内板の写真です。修復前でしょうかね? 
数年前に修復されていますので、下が現時点での写真です。
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水門です。人が通り抜けできるほどの広さがあります。この石組みは山側と麓側の間に柵のようになっているのです。山側に入り石組みの裏を見ると、人家があり石垣が組まれていました。
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昔は、谷全体に橋のように石柵があったのでしょうか。分かりません。
裏側(山側)から水門を見ました。大きな底石が見えます。きちんと大石を組んで
作られていました。
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麓側の人影が見えますね。
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山側から水門を見た写真です。小石が多く積まれているのは、人力で運ぶのによい大きさだったからでしょうか。あまり上手な組み方には見えませんね。神籠石の水門や列石はなかなか丈夫にできていますからね。
これを見ると大野城の百間石垣が浮かんできますね。あれは、確か「白村江敗戦後に慌てて作ったので石組みが乱雑になっている」と中学社会科で教わりました。ここも同じく乱雑なのでしょうか。
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ここには米倉もありました。倉庫群と呼ばれるところの礎石群です。郡衙も掘立柱建物だったのに、山城は礎石建ちだったのですね。 むむむ…
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というわけで、小郡市の埋蔵文化センターに展示されている基肄城の瓦の写真に戻ってきました。これを見るたびに、山城に瓦を葺く不思議を思うのです。
大事な役所を飾るのではありません。誰も見ない(?)山城を飾るのです。
山城で鍛冶を行ったという事実もありますし、山城の不思議はまだ続くのでしょうね。

では、大野城の百間石垣もついでに見ましょうか。
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ここにも川が流れています。
では、また
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by tizudesiru | 2017-03-06 11:27 | 235 基肄城の水門石組み | Trackback

228 古代山城の瓦

228 公開セミナーで伝えたかったこと

2月25,26日、久留米大学比較文化研究所主催の公開セミナーに参加させていただきました。
そこで伝えたかったことは、古代瓦が九州で発掘されていること、そこは寺院ではなく山城であること、瓦伝来ルートは畿内経由と考えなくていいのではないかということです。

まず、 古代山城の瓦何処から来たのか??

朝鮮式古代山城は、天智天皇四年(665)に築造されたという。その古代山城に瓦が出土します。七世紀の山城に瓦です。仏教文化と共に我が国にもたらされたという瓦。寺院の屋根を荘厳した瓦が、寺ではなく山城に葺かれた? 驚きますよね。それも7世紀後半です。
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わが国最初の寺と言われる飛鳥寺(元興寺)ですが、ここに葺かれた単弁蓮華文軒丸瓦とは違う文様の瓦が山城から出土しました。新羅系という鎬(しのぎ)を持つ瓦と、花弁の先が反転するかえり弁を持つ百済系と云われる瓦。
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この古瓦が福岡県の大野城から出土しました。この写真は、九州歴史資料館の特別展「四王寺山の1350年」からデジカメで撮っています。となりは、昨年の「山城シンポジウム」で発表された九州歴史資料館の報告の図をデジカメで撮ったものです。

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では、飛鳥寺の瓦を見直してみましょう。花組・星組と呼ばれる瓦です。
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飛鳥寺の瓦は、山城の瓦とは文様が違いますね。大野城の瓦は、どのルートで福岡に入って来たものでしょうね?
そもそも山城に瓦とは不思議です。その事を、発表者に聞いてみました。
「なんのために山城に瓦を葺いたのでしょうか?」
「防火です」

では、防火のために、文様のある軒先瓦を葺いたのですね。
防火なら丸瓦だけでいいと思うのですが。
瓦の文様にこだわるのは、時代によって瓦当文様が変わっていくからです。

その事は、時間の流れだけではなく文化の伝播や政治の動向も教えてくれると思うからです。
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隋書によれば、7世紀初頭、阿毎多利思比弧が仏教を受け入れていたことが分かります。
おや、国家が受け入れていたのですか
確か、明日香では氏族が受け入れて氏族が寺を建てていました。
国家ではありません。それとも、蘇我氏が大王だったのでしょうか?

隋書では、国家の組織ができ上がり、80戸ごとに伊尼翼(いなぎ)を置き、10の伊尼翼は一つの軍尼(くに)に属しているというのです。
人々は税を取り立てられる体制に組み込まれているのです。
仏教は人々に浸透し人々が信仰したとも書かれています。
大化改新などしなくていいほど、国家の体制ができていたのです。

そして、その国には阿蘇山がありました。
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これは、熊本地震の十日前の阿蘇です。阿蘇山と云えば、この山しかありません。隋書に詳しい「阿蘇山」表記も発音も、九州の阿蘇山ですね。
 
素直に隋書を読むと、九州にも天子がいて隋と交流していた。日本書紀を素直に読むと、近畿にも大王がいて隋と交流していた。

別々に交流していてもいいんじゃないの!! と、なるのです。
九州のタリシヒコ側は隋に絶縁されますが、近畿王権は交流が続きましたから。

瓦の話はまだまだ続きます。
画像の①②などの番号は、セミナーでお配りした文章に対応するので消さずに残しました。
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by tizudesiru | 2017-02-26 23:05 | 225 九州の古代山城の不思議 | Trackback

227 大野城から神山を遥拝した

227 弥生の日知王であった(須玖岡本の王達)は大城山から

真東の宝満山
神山として

遥拝した

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大城山とは大野城のことです。朝鮮式古代山城と呼ばれる山城があることで知られています。
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では、九州の古代山城のうち基肄城・鞠智城・大野城の位地を見てみましょう。北から、大野城・基肄城・鞠智城です。
白いポイントです。赤は須玖岡本遺跡。青は三雲南遺跡(伊都国)です。
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鞠智城はえらく離れていますね。それも、山の中です。有明海を攻める敵にこの山奥で対処したのでしょうか。見晴らしもよくないと思いますけどねえ。のろしなどの伝達手段があったのでしょうか。
今日は、大野城でしたね。

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「天智三年(663)に水城を築き、翌年(664)に百済の亡命貴族億礼福留、四比福夫に命じて大野城と基肄城を築かせた」と正史に書かれています。白村江で大敗した後の九州の遺族たちが必死になって山城を築いたとしても、人手は足りなかったでしょうね。
女性も子供も働いたとして、どのくらいかかったのでしょう。


そして、大野城の説明板に気になることが書かれていますね。「四王寺山の名前は、宝亀5年(774)仏教の力で新羅を降伏させようとして、大野城内に四天王を祀る寺を建てたことに由来」しているとあります。
古代の戦争は呪力戦でもあったのです。
新羅が日本を呪詛しているから、こちらも負けないように呪詛してやろうというのです。

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尾花地区は、焼米ヶ原と呼ばれています。礎石群もあります。
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礎石群が一番多いのは、主城原地区です。
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主城原とはよく言ったものですね。ここに、中心の倉庫(?)群があったのでしょうか。
古代瓦は、主城原地区、クロガネ門跡、原八坊などから出土しています。

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こんな大野城は、弥生時代には遥拝所だったと思います。「大城山に在った山城で神武天皇が神祭りをしていた」との伝承が王城(おうぎ)神社に残されています。王城神社は、大城山(大野山)の山頂から麓の太宰府に移された神社です。
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東から、宝満山、大城山(大野城)、須玖岡本遺跡、吉武高木遺跡、飯盛山、三雲南王墓、一貴山銚子塚古墳。
このラインは福岡の弥生王墓と言われる三か所を貫き、糸島(伊都国)で最大の柄鏡形前方後円墳(3世紀後半~4世紀初め)まで一直線なのです。
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須玖岡本の熊野神社の辺りは、偶然にも山の山頂と山頂を結ぶラインが交叉します。
それも夏至の日の出のラインと、冬至の日の出のラインもちろん春分秋分のラインが、宝満山と飯盛山を結ぶ直線です。ここに存在した首長は、ここから見える日の出の山をヒジリ(日知り)の山としたと思います。
この話は、至る所でしましたから、ご存知の方もおられるでしょうか。

大城山がもともと神祭りの場であったので、大野城に新羅を呪詛する役目が回って来たのでしょうか。
また明日





by tizudesiru | 2017-02-24 22:22 | 225 九州の古代山城の不思議 | Trackback

226 基肄城の不思議

226 基肄城の不思議
さすがに古代山城、当たりがすっかり見渡せます。
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西には、脊振山(奥)と九千部山(左)
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北には福岡市と博多湾、北北東に筑紫野町(市)と宝満山、北東に三笠山と大根地山、ちょっと待って!
三笠山って、現在の宮地岳ですか? 宮地岳神籠石(阿志岐古代山城)がある、宮地岳となっています。この時、友人が嬉しそうに指摘してくれたのよね。
この方位台が作られた時は、宮地岳は三笠山だったのね。
じゃあ、神功皇后伝説の「皇后の御笠が突風に吹き飛ばされた」ので名付けられた山は、宮地岳だというの? なーあんて。
貝原益軒の紹介では、宮地岳は「天の香久山」って書かれていた記憶があるけど…
なんてこと、基山で話したなあ。今、又思い出しちゃったね。

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白村江敗戦後に築造されたと、日本書紀に書かれています。すると。「こんなところに立て籠もってどうするん?武器も食料のいるだろうし」と、疑問の声が。ふむふむ、のろし台としてなら役立つかも知れないけど、古代の戦争には山城は使われてないという発表もあったけど、確かに、夜討ち朝駆け奇襲・交通路の封鎖だよねえ。
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南北に廻っている土塁遷外側は急崖
内側は車路と称する平坦地が続いて
門跡は、北側の北御門門跡、東北の萩原口文跡、仏谷門跡の三か所
この城跡には、二十数か所の礎石群があり、古瓦が出土している。
この中には城山関係のものも含まれていると推定され *
城山(きやま)とは、基山のこと

と、読み取れます。そうなんです。山城に瓦ぶきというんです。
「誰も見ない山奥の山城に瓦を葺く理由はなんでしょうか?」
昨年の山城シンポでわたしは質問しました。答は「防火のため」でした。
はあ、防火なら瓦当文様のある手間のかかる装飾瓦はいりませんよね。と思ったのです。
それにしても、基肄城は不思議です。大野城は大宰府の官人がいざという時逃げ込むための 城だと聞きました。基肄城にも逃げ込む人がいるのでしょうか。大野城・菊池城は人里が近いのですが、ここはどうなんでしょうね。
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また明日


by tizudesiru | 2017-02-23 21:57 | 225 九州の古代山城の不思議 | Trackback

225 鞠智城の八角形鼓楼

225 鞠智八角形鼓楼
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八角形の鼓楼と言われています。構造上からも人が住むところではありません。ここは熊本県の鞠智城です。
八角形建物と言えば、難波の宮がすぐ浮かびます。

大阪の博物館から大阪城と難波宮が見えます。
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難波宮の朝堂院と内裏の境目に東西に八角形の建物が置かれています。使用目的は何だったのでしょうね。
前期難波宮で孝徳天皇は崩御されましたね。
その後、内裏には誰が住んでいたのでしょうね。わたしは孝徳天皇から玉璽を預かった中皇命(間人皇后)が住んでいたと思います。
その宮殿の内裏への入口の八角形の建物は見事だったでしょうね。
難波の人々はその素晴らしさをほめたたえたことでしょう。
それにしても、鞠智城は山城です。山の中の山城です。(私は菊池で育ったので、そう思うのです)そこに太鼓をたたく八角形の建物が必要だったのでしょうか。誰が見てくれるのでしょうか。そこに住んでる少数の人が見て満足したのでしょうか。
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山城を装飾する理由は何だろうと思うのです。高貴な方がおられたのでしょうか?
難波宮のような宮殿なら私も納得するのですが。
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木が茂っている所が建物跡。異様なほど大きな八角形の建物だったそうです。
また明日。









by tizudesiru | 2017-02-23 01:04 | 225 九州の古代山城の不思議 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
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163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
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166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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