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祭祀線で読む倭王の交替!歴史の闇に消えた宗女壱与

卑弥呼宗女壱与を歴史の闇へ落としたのは、まぎれもなく倭王である


一貴山銚子塚古墳の被葬者に

大接近

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平原王墓の被葬者を「玉依姫=オオヒルメノムチ」としたのは、原田大六でした。
彼は中山平次郎博士の弟子となり、板の間に毎日6時間正座し、9年間もマンツーマンで考古学を学びました。戦後、公職を追放された原田は、考古学に全身全霊で立ち向かったのでした。

その原田が遭遇した平原王墓です。わたしは運命の歯車を感じます。彼は、大きな発見をしました。それは、伊勢神宮の八咫の鏡が、「八頭花崎八葉」の文様であるという記録でした。そこで、ご神体は天照大神の別名のオオヒルメノムチの依代であると考え、モデルとなった平原女王墓の年代を2世紀後半に設定したと思います。


平原王墓の築造は2世紀後半ではない
2世紀後半なら、三雲南少路遺跡や井原鑓溝遺跡との時代的な釣り合いが取れません鏡の大量破壊や大型鏡の副葬は、明らかに前者より後の時代だからです。他の大型鏡は、古墳時代の出土だからです。
原田大六は、百年早く設定してしまったのです。中山平次郎博士について三雲南少路も井原鑓溝も周囲の遺跡も調査しているはずなのに、原田大六は「神話に引き込まれた」と思います。


平原王墓こそ、宗女壱与(臺与)の墓!八咫鏡を5面も持った女王
平原王墓の巫女王は最高の地位にありましたが、三雲南少路の夏至の日没の方向、王都の西、瑞梅寺川を渡った先に埋葬されました。あまりな仕打ちと言えるでしょう。それを指示したのは、後の世の権力者で、宝満・飯盛山の太陽の道に埋葬された人です。

その人こそ、東西ラインと呼ぶ、太陽が真東から上る聖なる祭祀線上に眠る権力者=一貴山銚子塚の被葬者
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宝満山・飯盛山の東西祭祀線の西に位置する一貴山銚子塚古墳

一貴山銚子塚古墳は、何度も取り上げたので内容が重複するかも知れません。

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写真では後円部が北にあるように見えますが、逆で後円部は南に在ります。主軸線は南北です。

柄鏡型(えかがみがた)の初期古墳、後円部が南、前方部が北。竪穴式石室に朱が塗られていた。

後漢鏡2面(内向花文鏡・方格規矩鏡*金メッキ)*頭部近くに置かれていた 
三角縁神獣鏡8面(木棺の傍らに並べられていた)
鉄鏃と大刀と剣(鉄製の素環頭大刀、鉄剣)6振
勾玉と管玉(左右の手に腕飾り)

(出土物は、京都大学が持っているそうです。京大は、考古遺物を福岡に返すべきです! 地元の人が協力して発掘したのに、持って行ってしまうのは過去の習慣で、今後は管理研究を地元に任せるべきではないでしょうか。その方が、地元の人の目に触れます。)

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ここは、未盗掘の古墳だった!


未盗掘には大変重要な意味があります。この時代の首長はどのように葬られたか分かるからです。

後漢鏡(一面は金メッキ)は大事だったから頭部に置かれた。三角縁神獣鏡はそれなりに置かれた、などなど。大刀にまだ飾りが見られないから、平原王墓の素環頭大刀からあまり時間を経ていない古墳だとか、この時期には、三角縁神獣鏡が国内で造られていた、とかも分かるでしょう。

祭祀線で一貴山を読む
ここには、弥生の葬送儀礼が残されました。しかし、東西ラインの太陽祭祀線上に乗りながら、墳丘の主軸を南北とし方向を考えています。明らかに新しい祭祀を始めようとしているようです。
この前後に、伊都国では古墳がつくられますが、南北に主軸が向くタイプと、東西に主軸が向くタイプ、その他が見られます。

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一貴山銚子塚・丸熊山・若八幡・井原1号・ワレ塚・端山。南北に主軸、南に後円部

一貴山銚子塚古墳
のような南北主軸線タイプ(上の画像)を祭祀線で見ると、例えば若八幡古墳とワレ塚古墳は、一貴山からのラインに乗ります。ついでに、細石(さざれいし)神社が乗っていますが、志賀島出土の金印(国宝)はこの神社のご神体だったという伝承もある神社です。

卑弥呼がもらった金印(親魏倭王)の伝承が先にあって、志賀島の委奴国の金印(漢委奴国王)との噂が混戦したのかも知れませんが、興味がわきます。ピンクのラインは、宝満・飯盛山の東西祭祀ラインですからね。ここは、伊都国の領域です。

黄色のラインは、夏至の日の出のラインです。このまま進むと、香椎宮本殿をかすめ、遠賀川流域の六ヶ嶽山頂まで届きます
。(このブログでも、一貴山銚子塚古墳の主が遠賀川流域の六ヶ嶽に降臨(侵略)したことを書いています。それは、祭祀線で読んだことです。)


若八幡古墳は一貴山銚子塚より後の時期の古墳です。刳り抜き形木棺の周りは粘土。井原1号墳や一貴山銚子塚古墳と同じように、粘土の間に鉄器が挟み込まれていました。ここには、方形板皮綴短甲が副葬され、最古級の甲冑の一つとなっています。
つまり、一貴山銚子塚に甲冑は副葬されていないので、若八幡が後の新しい古墳だとなります。ここ若八幡でも、鏡(三角縁二神二獣鏡)が頭部に置かれていました。大刀も三葉環頭大刀で後の時代のものです。素環頭大刀ではないのです。



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今宿大塚・銭瓶塚・西堂古賀碕・賽の本1号 などは東西に主軸、東に後円(稲葉1号・池ノ浦、西に後円)
今宿大塚古墳は6世紀の後期の古墳です。今宿大塚古墳は柄鏡型の前方後円墳ではありません。前方部は大きくなっています。この時代になって、東西の主軸に変わる何事かが起こったのでしょうね。




今日のまとめ、
⓵伊勢神宮の御神体は、八頭花碕八葉の八咫鏡(大型鏡)である。
 その鏡は、福岡県の糸島市(伊都国)の平原王墓の鏡と同型である。(前回)
平原王墓の女性王は、東西祭祀ラインから外されている。それは、首長の交替があったからである。
➁平原王墓の被葬者の地位を奪ったのは一貴山銚子塚の被葬者である。彼は弥生の葬送儀礼を継承しながらも、祭祀を変えた。辺りの有力者を傘下に取り込んだ。


卑弥呼宗女壱与を平原に封じたのは、一貴山銚子塚の被葬者である

原田大六氏に敬意を表しながら、以上紹介しました。

古代の王や女王が選んだ祭祀ラインのパワースポットは、明日紹介しましょう。


これは、余談


一貴山銚子塚を掘ったのは、有光教一や小林行雄や森貞次郎です。なかでも、三角縁神獣鏡の研究で知られる小林行雄は一貴山銚子塚から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡の研究を進め、「同范鏡論」の基礎を築いたのです。
一貴山銚子塚は、古墳研究の基となるべき古墳です。古墳の形、出土物、弥生時代との接触、など時代の変化と副葬品の推移を探るのに最高の場所・糸島市に出土した初期古墳なのですから。

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糸島市の皆さん、一貴山銚子塚古墳の考古遺物を京都大学から返してもらってはいかがでしょうか?
九州国立博物館にでも、永久貸し出しをしてほしいと思うのは、わたしだけでしょうか。

では、明日はパワースポット・細石神社です。

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by tizudesiru | 2018-03-11 10:53 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

伊勢神宮の八咫鏡、天皇家の祭祀は伊都国から始まった

伊勢神宮の八咫鏡、
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天皇家の祭祀は伊都国から
古墳への鏡の大量副葬の風習は、北部九州から始まりました。
伊勢神宮のご神体=八咫鏡も北部九州が発祥の地です。
伊勢神宮のご神体
八咫鏡
直接見ることはできません。
原田大六は「八咫鏡と同型だ」と言った
福岡県糸島市の
平原王墓(1号墳)を発掘した原田大六は「1号墳から出土した大型内向花文鏡(内向花文八葉鏡)を其の文様と大きさから八咫鏡と同型ではないか」という説を示しました。


伊勢神宮
に関する『御鎮座伝記』
「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉也」とあります。そのまま、八つの頭花・八枚の葉の形 の文様の鏡なのです。
将に、弥生遺跡の平原王墓の大型銅鏡の文様です。


八咫鏡=八頭花碕八葉の文様の鏡
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古墳時代の大型内向花文鏡と比べてみましょう。
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伊都国歴史博物館の図録の紹介写真を見ると、大型鏡の中で、内向花文鏡は三面です。
平原王墓(糸島市)柳本大塚古墳(奈良県)下池山古墳(奈良県)

平原王墓
の銅鏡は鈕の周りに八葉の文様がありますが、柳本大塚も下池山も四枚の葉しかありません。では、八咫鏡は、柳本大塚・下池山古墳の鏡ではありません。


伊勢神宮の八咫の鏡と同型は、平原王墓の銅鏡のみです。すると、
平原王墓の被葬者は、伊勢神宮に祀られている天照大神のモデルだった。だから、伊勢神宮は大型内向花文鏡をご神体とした。

すると、倭国の武人が各地に天下ったのですね。
ここで、疑問符。なぜ、平原王墓の女性は首長が眠る祭祀線上に埋葬されなかったのでしょうか。


それは、政変により倭王の地位を奪われたからです。では、誰に? それは、首長が眠るべき位置を奪った人物、一貴山銚子塚古墳の被葬者だと思います。では、次に

一貴山銚子塚古墳の被葬者に大接近
しましょう。

今日のまとめ
伊勢神宮の御神体は、八頭花碕八葉の八咫鏡(大型鏡)である。
 その鏡は、福岡県の糸島市(伊都国)の平原王墓の鏡と同型である。
➁平原王墓の女性王は、東西祭祀ラインから外されている。それは、首長の交替があったからである。
③平原王墓の被葬者の地位を奪ったのは一貴山銚子塚の被葬者である
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by tizudesiru | 2018-03-10 15:30 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

祭祀線から外された平原王墓の巫女王は壱与(臺与)か

すべて割られていた平原王墓の銅鏡
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平原王墓は弥生の周溝墓です。そこには割竹形木棺があり、40面の銅鏡が副葬されていました。一つの墳丘墓で40面の銅鏡の副葬は、平原王墓が一位です。
内向花文鏡の5面は大型で、銅鏡の中では最大です。(鏡もすべて国宝です)


40面の銅鏡は全て割られていました。
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(福岡県糸島市の平原王墓の内向花文鏡・伊都国歴史博物館)
 
出土状況を見ると、明らかに割られています。ここに、何か理由があるはずです。
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近隣の王墓も割られていたのでしょうか。伊都国の井原鑓溝遺跡・中原遺跡・三雲南小路遺跡を見ましょう。

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江戸時代に発見されたという井原鑓溝(いわらやりみぞ)の鏡は、記録によると割れていますね。三雲南少路王墓も、中原遺跡の鏡も割れていました。
後の世に撹拌されて割れたのでしょうか。初めから割られて副葬されたのでしょうか。
割れたのか、割られたのか、判断しにくいです。
割られたと断定できるのは、平原王墓だけです。

では、福岡平野の須玖岡本王墓はどうでしょう。
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須玖岡本遺跡の銅鏡も細かく割れています。
須玖岡本の大石の下にあった甕棺の銅鏡ですが、細かく割れています。大石に押しつぶされたのでしょうか。それとも、割った銅鏡を副葬したのでしょうか…

同じく甕棺の銅鏡が副葬されていた福岡県飯塚市の立岩遺跡。こちらの鏡はきちんと残っていましたね。

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?立岩遺跡の銅鏡は割られていません。キチンと元形をとどめています。後の世に撹拌されなかったからでしょうか。それとも、割らずに副葬したのでしょうか。

割られていた平原王墓の銅鏡の意味は

伊都国と須玖岡本の王墓も割られていたとなると、そこに、弥生の王の悲劇が見えるのではないか


では、祭祀の上でも敗北した平原王墓の女性は、誰なのか。
わたしは、壱与(臺与)だと思います。

祭祀具である鏡が割られたのは、政治や祭祀に関する事件があったからです。それは、「世々、王あり」と書かれた伊都国で起こった事件ですから、「倭人伝」とつながる出来事です。卑弥呼の後を継いだ壱与の運命を物語る墓だと思います。

須玖岡本の大石の下にあった甕棺の銅鏡は細かく割れていたのに、同じような甕棺の立岩遺跡の鏡はきちんと残っていましたね。甕棺という条件は同じです。
理にかないません。どちらも残っていいはずです。
飯塚と福岡・糸島では、葬送儀礼に違いがあった、のです。

確認しますが、須玖岡本の甕棺は大石の下にあったのだから、後の世の人が壊して埋め戻したりはしていないでしょう。初めから割れていたと思うのが自然です。

思い出してみると、吉武高木の銅鏡は割られていなかったと思います。

平原王墓(須玖岡本王墓、三雲南少路王墓)の銅鏡は、割られていた。その理由は政変!


由々しき事態です。そこには、政権の交替が見えるからです。
弥生時代の政変に巻き込まれた女性王となると、限られます。

最大の銅鏡(経46・5cm)を5面も副葬し、数も最高だという平原王墓
 
そこは、ただの巫女、単なる巫女王の墓ではない
此の女性は特別の人、倭の女王以外には考えられません。

割られなかった古墳時代の銅鏡

次の古墳時代の鏡は割れていないのです。
伊都国の初期古墳の鏡の写真を見ましょう。3世紀末から4世紀初めの遺跡から出土したものです。
最近、古墳の年代がちぐはぐですか、九州では余り年代は動きません。

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どの古墳の銅鏡にも、故意に割られた痕跡は見当たりません。

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平原王墓は、宝満山からの弥生王墓の聖なるラインの上には乗りません。

外されたのか、外れたのかですが、わたしは外されたと思います。

交代して東西ラインに葬られたのが、一貴山銚子塚古墳の主でした。祭祀線上に乗る古墳には大きな意味があるのです。
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卑弥呼と壱与の墓は何処に造られたか

倭女王・倭王について考えている途中です。「王」の称号は中国の冊封体制に入った証でした。
卑弥呼は「倭女王」でした。倭の国王と名乗ったのです。倭の女王として、彼女が何処に住んでいたか、何処に墓があるか、中国の使者が知らないはずはありません。
その事を解くチャンスがありました。
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卑弥呼の墓を追及するチャンスに遭遇したのは、原田大六でした。
1965年、平原遺跡の発掘が始まりました。
1号墓(平原王墓)は2世紀後半とし、銅鏡・鉄の素環頭大刀・勾玉という「三種の神器」を思わせる副葬品、「八咫鏡」と平原王墓出土の大型鏡との類似性から古墳との共通性を推測しました。更に、被葬者を太陽に関わる神事を行っていた巫女とし、被葬者を

玉依姫=大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神

と推量したのでした。彼は、記紀神話の記述を北部九州で起きた史実を記録したものだと考えたのです。

確かに、神武が東の日向峠から侵入したというのでしょうか。クシフルダケも東の連山にありますし、細石(さざれいし)神社もあります。
原田大六は、「発掘報告書」より価値のあることを発見したと思ったのでしょう。


平原王墓は、考古学の研究対象になれなかったのです。
原田大六著「実在した神話」は、既に忘れられたのでしょうか。

伊都国歴史博物館の西に原田氏の銅像があります。

しかし、
平原王墓が弥生の方形周溝墓として、弥生の墳丘墓として検討されることはほとんどありませんでした。

平原王墓の築造は、いつでしょうか。2世紀後半か、3世紀半ばか、3世紀後半か?

ここは重要です。被葬者が特定されるからです。大型銅鏡が八咫鏡であるなら、3世紀後半になります。

弥生時代の八咫鏡の副葬は、平原王墓だけです。後はみんな古墳時代の大型鏡です。

その意味は、ひとつ。
八咫鏡の文化の発祥は、伊都国となります。天照大神の祭祀は、ここから始まったとなります。古墳時代に引き継がれたのは、鏡の大量副葬でした。
では、では、古墳文化は、まさに伊都国の弥生の巫女王の伝統を継承したことになるのです。


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もしかして、日本のふるさと?

そうなりますね。それが、他の地域に伝播したのです。
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今、倭王について考えている途中です。
中でも、倭女王は避けて通れませんから平原王墓について書きました。倭王、彼らが何処から来て、何処へ消えたのか、それが問題です。

また、明日。




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by tizudesiru | 2018-03-09 11:53 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

147糸島高校の博物館に行きました

糸島高校の博物館に行きました
60周年記念の「公式ガイドブック」(1000円)も買いました。
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ぜひとも見せていただきたかったのは、舟形石棺でした。大正2年頃に長須隈古墳(二丈町鹿家)から掘り出されたという砂岩の刳り貫き型石棺は、盗掘を受けて上蓋が割られていましたが、見事な加工が施されていました。発見された当時は内側は真っ赤だったそうです。今は、わずかに朱が残っているだけです。雨ざらしだったそうですから、無理もありませんが。さすがに、中に入って遊ぶ生徒はいなくなったとか……
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確かに、ベンガラではない水銀朱の赤色でした。糸島の朱は輸入物だとよく聞きます。
一貴山銚子塚古墳(3世紀後半~4世紀初)の水銀朱が、糸島高校にあると聞いていたので、それも見ることができました。
水銀朱が使われた甕棺や古墳は糸島地域に数多くあります。神在遺跡の5号甕棺の内部、泊熊野遺跡の甕棺のにも水銀朱が溜まっていました。潤地頭給遺跡は玉作工房として知られていますが、水銀朱やベンガラの精製にもかかわっていたことが明らかになりました。
卑弥呼が魏から贈られた品に名の中に「真珠(水銀朱)五十斤」が記録されています。倭国への重要な下賜品でもあったのです。

これらの、細かい説明は「公式ガイドブック」の中に書かれています。当然、原田大六氏の多大な功績が掲載されているのは言うまでもありません。
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この祭祀用の土器に塗られているのはベンガラです。
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どこか特殊器台に似ていませんか。九州で水銀朱やベンガラが使われなくなって、近畿でも朱やベンガラが使われるようになったと、ある有名が研究者が話をされていました。九州の弥生時代に「水銀朱」が大量に出土することは、邪馬台国論争でも重大なことと思います。
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他にも三種類の布に包まれていた鏡や百済系陶質土器や、玉杖や顔が描かれた壺など、見ておきたいものがたくさんあります。







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by tizudesiru | 2016-11-04 08:01 | 147糸島高校博物館 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅

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