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魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた

中国の河南省安陽市で発掘された墓に西高穴二号墳と命名されました。そこが記録にある「曹操高陵」と同じ場所であったこと、副葬品に「魏武王」と記した石牌(せきはい)があったことなど、魏武王は曹操を指しますから、曹操の墓であることが判明確定したのでした。
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三国志時代の曹操の墓だなんて…すごい発見でした。これを見ずに死んでしまった人に申し訳ない気持ちです。
さて、曹操の時代は地球的には寒冷期でした。邪馬台国の卑弥呼の国民も飢えました。それで、半島に助けを求めて1000人も移住したと「新羅本紀」に書かれていました。

三国志展の図録にも、次のようなグラフが掲載されていました。
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寒冷期に入り、人口は2世紀の6000万人近くから、3世紀には1000万人ほどに激減しています。作地面積が減少し、人口減少・戦争へと時代が流れたのです。人々は苦しみから「太平道」や「五斗米道」などの宗教に傾きました。「黄巾の乱」は、太平道の結社が起こした反乱でした。
乱が平定された後、残党の一部は曹操の軍団に組み込まれました。
曹操が支配した黄河流域は黄河文明の発祥の地で、人口も多く人材にも恵まれました。しかし、寒冷期に入ると戦乱が頻発し、農業も危機的状況となりました。そこで、曹操は屯田制をはじめ、土地を人民に与えて開墾させました。
結果、食料増産が進み、三国の戦いで有利になったのでした。
そして、
曹操は漢王朝の文化を受け継ぎ発展させました。書を読み、詩歌を詠み、書をよくするのは、支配者のたしなみだったのです。
 
写真は曹操の人形ですが、曹操は本当に英雄でしたね。その祖先は、漢王朝創立の功臣である曹参(そうしん)とされ、曹氏一族は官僚として長く仕えました。曹操の祖父の曹騰(そうとう)は宦官となり後漢王朝に信頼され、養子の曹崇(そうすう)は大臣となっています。曹操はその曹崇の子で、エリート官僚でした。
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220年、曹操(155~220)が没しました。子の曹丕(そうひ)は、後漢の献帝から帝位を譲り受け、「魏」が成立しました。220年の事です。
221年、魏の成立を知った劉備も「我こそ前漢皇帝の末裔」として即位したのでしたね。それが「蜀」でした。
魏・蜀・呉の三国の中で、魏が一番人口も多く豊かだったのです。
 
倭女王・卑弥呼も、曹操や「魏」のことは聞いていたでしょう。
景初二年(?)、卑弥呼が魏に遣使したのは239年だそうで、この時「親魏倭王」の印綬を受けています。なぜ、239年なのか、それは、遼東の公孫氏が魏の司馬懿(しばい)の軍に攻められ滅びたからです。倭は公孫氏の帯方郡に属していました。(三国志・倭人伝には、「景初二年」と書かれていますが、それは、「景初三年」の事で、倭人伝の間違いとなっているようです。)

卑弥呼は後漢の後を継いだ「魏」に朝貢したのですが、それは、公孫氏の滅亡と無関係ではないでしょう。寒冷期を乗り越えた「魏」を宗主国としたかったし、半島関係や国内事情もあったはずです。
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上の写真は三国志展の図録にある「毋丘倹紀功碑」ぶきゅうけんきこうひ  です。
公孫氏滅亡の史実を伝える資料だそうです。図録には、
『一行目に「正始三年(242)に高句麗が背いた」とある。
「三国志」には、正始五年から六年(244~245)にかけて魏の将軍の毋丘倹(姓が毋丘、名が倹)が高句麗に侵攻し、高句麗の首都を攻め落とすという大勝利をおさめ、征服地の三か所にその業績を記した碑を建てたと伝えるが、その一つである』と書かれているのです。
『一~二行目に魏による高句麗攻撃のさまを記し、四行目以下に功績をあげた将軍の名を列挙している。六行目には「行碑将軍領玄菟太守王頎」こうひしょうぐんりょうげんとたいしゅおうき、と推定される。王頎はこのあと帯方郡太守となり、倭女王卑弥呼と魏の外交を仲介した。』(図録より)
確かに、王頎の名は「倭人伝」に出ています。④に「太守王頎、官に至る」とありますから、「太守に着任した」のです。
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訳文は次の通りです。(講談社学術文庫 「倭国伝」 藤堂明保・竹田晃・影山輝國)


①正始元年(240)、帯方郡の太守弓遵(きゅうじゅん)は、建中校尉 梯儁(ていしゅん)らを遣わして、詔と印綬を倭国へ持って行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他を渡した。そこで、倭王は使いに託して上表文を奉り、お礼を言って詔に答えた。

➁正始四年(243)、倭王はまた、大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を使いとして、奴隷・倭の錦、赤青の絹、綿入れ、白絹、丹木、木の小太鼓、短い弓と矢を献上した。掖邪狗らは八人とも、卒善中郎将の印綬をもらった。


③正始六年(245)詔を発して倭の難升米に、黄色い垂れ旗を、帯方郡の太守の手を通して与えた。


④正始八年(247)帯方郡の太守、王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から仲が悪かったので、倭の載斯・烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻めあっている様子をのべさせた。帯方郡では、国境守備の属官の張政らをつかわし、彼に託して詔書と黄色い垂れ旗を持って行かせて、難升米に与え、おふれを書いて卑弥呼を諭した。


⑤使者の張政らが到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に直径百余歩の塚を作っていた。殉葬した男女の奴隷は百余人であった。かわって男王を立てたが、国中それに従わず、殺しあいをして、当時千余人が死んだ。そこでまた、卑弥呼の一族の娘で台与という十三歳の少女を立てて王とすると、国がようやく治まった。そこで、張政らはおふれを出して台与を諭し、台与は倭の大夫、率善中郎掖邪狗ら二十人を遣わして、張政らを送って行かせた。倭の使いはそのついでに魏の都まで行って、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千、青い大勾玉二個、めずらしい模様の雑錦二十匹を、貢ぎ物として差し出した。

 
以上は「倭国伝」からの抜粋ですから、個人的な訳文ではありません。「卑弥呼以って死す」の意味は諸説あり、『以って』の解釈で全く違う意味になることは、みなさん、既にご存知でしょう。
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ここで、三国志展に戻ります。帯方郡太守 王頎の名を刻んだ金石文が出て来た事は卑弥呼の遣使を裏付けることになるのです。では、倭国に張政を遣わしたのは「帯方郡」であり、王頎だとなります。王頎は軍事的な指導者でありましたから、卑弥呼に対しても軍事的な判断をしたでしょう。それは、老女の指導者はいらないということです。
だから、卑弥呼は死を賜った、と思うのです。
しかし、倭国は男王では納得しなかった、のです。
倭国としては無念だったと思います。それで、男王を受け入れなかったと。

王頎の判断は間違っていたのです。張政らは慌ててやり直し、台与(壹与)を選んだのでした。彼女は女王として役目を果たしたということになり、倭人伝は終わります。
三国志展の金石文は、王頎が軍人だったことを示しました。そこで、わかることもあるのですね。卑弥呼の国は、この後、どうなったのでしょうね。
今日は、卑弥呼の死は尋常な死ではなかった、彼女は死を賜ったのだと、書きました。
では、また、お会いします。



by tizudesiru | 2019-10-22 18:56 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

三国志展に選ばれた鏡・三段式神仙鏡とは何だ?

九州国立博物館で始まった「三国志の時代展」に展示されている三段式神仙鏡。あまり知られていない鏡です。実は、重要だったのです。
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それにしても、なんとなくなじみがありませんよね。
なぜこの鏡が展示されたのか、実は意味深なのです。
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その三段式神仙鏡によく似た鏡があるのです。群馬県前橋市、前橋天神山古墳から出土した鏡(上の画像の右の鏡)です。現在の前橋天神山古墳は、気の毒な状況です。
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しかし、後円部が残されたことを喜びましょう。
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階段を登れば墳丘の上に立てます。出土した鏡は、群馬県立博物館に展示されています。
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前橋天神山古墳の説明文でもわかる通り、しっかり記述されているのは三角縁神獣鏡です。卑弥呼の鏡だと全国の人が信じているからです。
しかし、
今まで蚊帳の外に置かれていた「三段式神仙鏡」が急に脚光を浴びることとなったのです。
それは何故か、答えに迷いはありません。
卑弥呼を機内に持ってくるためです。そのためには、東国の後押しが必要なのです。
まさか、九州と東国は結び付くまい、と、考えての画策です。


「三国志展」の図録には、次のように書かれています。

日本には「呉服」や「蜀の錦」などの言葉があるが、三国ゆかりの物が日本にもたらされることがあったのだろうか。ここでは、日本で出土する鏡をもとにみていこう。

一番多いのは魏の年号を記した鏡だ。邪馬台国の卑弥呼が239年に明帝からもらった鏡は三角縁神獣鏡が有力視されている。「師(作者)は洛陽に出づ」という銘文もあり、技術的なつながりも深い。ただし、三角縁神獣鏡は基本的には日本でしか出土せず、中国では魏の年号を記した鏡は呉の領域でしか見つかっていないなど謎が多い。

蜀の鏡は不明である。ただし、五斗米道の思想を体現した三段式神仙鏡が出土している。曹操による漢中平定ののち五斗米道の信者は漢中や鄴(ぎょう)に移されたので三段式神仙鏡も魏や晋でもつくられたのだろうが、もとは蜀の地で生まれた信仰だ。

呉では神獣鏡など銅鏡の生産が盛んであったが、呉に由来する鏡は日本では少ない。日本が呉の地域の影響を強く受けるのは、倭の五王が南朝に遣使する五世紀以降である。(図録より)

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前橋天神山古墳の上に立ってあたりを見回しました。この古墳の被葬者は、かってここを治め、この地を眺めた人なのでしょうね。

彼は、どのようにして三段式神仙鏡を手に入れたのか、それは畿内との交流があったからという展開になるのでしょうか。
いえ、そうとは言えません。
東国に仏教文化が早く入ったのも、鏡や鈴の文化が浸透したのも、九州との関係があったからです。そうして、6世紀初めの政変で東国に画期が訪れた。人の移動です。
東国では「渡来系の人の移入」でかたずけていますが、それだけではない。人が大量に動く何かがあったから、です。それを、稲荷山古墳(埼玉)は訴えているではありませんか。
渡来人でかたずけてはならないと、私は思っています。
舌足らずですが、今日は、この辺で。




by tizudesiru | 2019-10-20 01:22 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

三角縁神獣鏡が時代を席巻した理由は何か

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九州国博では三国志の時代展が開催中です。前々回に「畿内説の学者さんたちは、卑弥呼の貰ったという鏡を三角縁神獣鏡から画文帯神獣鏡に換える方針だ」と書かせていただきました。
そこで、疑問が生じます。
そうは言っても、今日まで大量に出土した三角縁神獣鏡はどういう位置づけになるのだろう? とか、
既に500面は越えている(?)という出土状況をどのように解釈するのだろう? とか
つまり、おいそれと鏡のみを交換するわけにはいきません。
畿内を中心に三角縁神獣鏡は重要視され、ありがたがられ、羨望の的となり大量生産されたのですから、その思想の根源を考えなければなりません。
下の画像は奈良県の黒塚古墳です。30面以上の三角縁神獣鏡が出土しています。
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然し良く見ると、被葬者の頭部に置かれていたのは、13.5cmの画文帯神獣鏡ですね。しかも棺内にあったとは…三角縁神獣鏡は棺外ですから意味深です。大きな三角縁神獣鏡が棺外で、ちいさな画文帯神獣鏡が棺内です。これは大きく扱いが違います。鏡の価値の違いです。
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では、黒塚古墳の三角縁神獣鏡にはどんな思想があるのでしょう。
神獣や東王父、西王母、が当時の思想を反映しているのは明らかです。
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これらの鏡の中で、一つ意味のわからない不思議な文様があります。
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クリスマスツリーのような不思議な木(?)でしょうか。奥野正男氏は「笠松形文様」と言われましたが、何でしょうか。この文様は三角縁神獣鏡に限られた文様だそうです。それからして、中国鏡ではないと奥野氏は主張されました。
この文様は、黒塚古墳出土の鏡の半数近くに刻まれています。
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これはいったい何でしょう。当時の人々には、ありがたい意味のある文様です。そこで、今回の「三国志の時代展」に意味を考えるヒントはないかと探してみました。なかなか見つかりません。あえて挙げるなら、これです。
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これって何でしょう。笠松形文様に確かに似てはいます。三国志展の図録の説明には次のように書かれています。
「揺銭樹」ようせんじゅ*台座は緑釉陶(焼き物です)
『大小400個もの円銭を飾った青銅製の樹木が、緑釉陶の台座に挿し込まれている。円柱上の枝が四方に伸びる。枝には銅銭のほか、不老不死をつかさどる西王母、鹿に乗る人物などを配する。ある銅銭は「五利后」という銘文をもつ。揺銭樹は後漢時代の墓で140個以上出土しているが、大部分が蜀の地に集中する。死後に仙人になれるように、財に恵まれるようにといった願いや、当地の人びとが信仰した神仙の世界を反映したものと考えられる。
「三国志」魏書・邴原伝(へいげんでん)に引く「邴原別伝」に、ある樹の枝に民衆が銅銭をどんどんかけて祀った記事がある。揺銭樹の副葬は蜀の地にほぼ限られるが、銭の樹への信仰はほかの地域にも存在したようである。』

蜀は劉備が建国した国です。劉備は、前漢皇帝・劉啓の子・劉勝(中山靖王)の流れと伝えられています。220年、曹操の子・曹丕(そうひ)が漢王朝を滅ぼして魏の皇帝となると、漢王朝の正当な後継者は自分であると主張して劉備は皇帝に即位しました。劉備は国名を「漢」と自称しましたが、『三国志』は、歴史的な地名である「蜀」を採用したのです。
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揺銭樹という副葬品でしたね。三国のうちの蜀で、死者のために作られたものでした。それが三角縁神獣鏡の文様に取り入れられたとすると、西王母といい、神獣といい、揺銭樹といい、死者のための文様です。
三角縁神獣鏡とは、本来、葬送の道具として死者のために作られたということですか! 大いに納得です。墓に入れるために作られたということです。では、
魏が卑弥呼に下賜した鏡は、、葬儀の道具だったのでしょうか。
まさか?!ですよね。葬儀の道具として制作したのは、日本の人たちで技術を提供したのは、西晋に追われた人たち、呉(280年滅亡)や蜀(263年滅亡)や魏(265年魏に譲位)の人だったかもしれません。

三角縁神獣鏡の工人は呉から逃げてきた人たちだったという説を聞いたことがありますが、笠松形文様が揺銭樹なら、蜀の人も一緒に来たということでしょうか。呉の人が倭国に渡ってくることは、可能でしょう。かれらは舟を使って交易で財をなしていたのですから、舟を作る技術に優れていたのです。
280年、呉が西晋の軍勢に滅ぼされたとき、呉の人は舟で海流に乗って倭国にきたでしょう。その時、一緒に来た蜀や魏の人がいた、となります
そして、彼らが「葬儀の道具としての鏡、」を作り生業としたのでしょう。
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(この画像は「方格規矩鳥文鏡」ほうかくきくちょうもんきょう、です。後漢から三国時代の鏡で、公孫氏の中心地であった、現在の遼寧省遼陽市にある墓から出土したものだそうです。公孫氏は遼東の支配も認められ、のちに半島の楽浪郡も支配下におさめ、三世紀初頭には楽浪郡の南に帯方郡を設置しました。
倭と韓は帯方郡に属したのですから、方格規矩鏡が倭でもてはやされたのは公孫氏との関係でしょうか。)
ですから、魏の鏡とは若干違っている文様が生まれ、銅を節約するために外枠の強い三角縁が生まれた、となりましょうか。中の銅は薄くても外側が強ければ形がゆがんだりしない鏡となったのです。安価で豪華に見える三角縁神獣鏡は、首長たちに喜ばれたので大量生産となったのです。
需要がなければ生産は、ありません。みんながこぞって求めたから、全国に広がったのです。王権からの配給とは思えません。
では、鏡がなぜ葬送の道具となったのでしょう。何に使われたのでしょう。そのあたりも考えなければなりませんね。

東京国博と九州国博で開催の「三国志展」に深い絶望を感じたのですが、でも、少し思ったことを書いてみました。

まだまだ、卑弥呼はどこにいたのか。なぜ、倭女王は「魏」を選んで遣使したのか。曹操を尊敬していたのなら、それをどのように取り入れ表現したのか。卑弥呼の時代の人の思考はどのような形で残されたのか。その経済基盤は何だったのか‥等々にかかわることなど、まだ大事なことに触れていません。
以上、解決はしていませんが。
また、お会いしましょう


by tizudesiru | 2019-10-15 21:02 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

弥生後期の政変・広形銅戈はどこへ消えたか

東京国博と九州国博で開催の「三国志展」に深い絶望を感じたのですが、でも、少し思ったことを書いてみましょう。
それは、卑弥呼はどこにいたのか。なぜ、倭女王は「」を選んで遣使したのか。曹操を尊敬していたのなら、それをどのように取り入れ表現したのか。卑弥呼の時代の人の思考はどのような形で残されたのか。その経済基盤は何だったのか‥等々にかかわることでもあります。
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まず、弥生時代の全盛期・弥生中期に甕棺墓のほとんどが消えたということです。弥生後期の墓が急激に減り、甕棺も急に小さくなります。それも、甕棺文化圏の中心から。
大型甕棺は弥生中期に突然消えるのです。それは、甕棺文化圏全体で起きた変化で、青銅器が墓ではなく土中に埋納される事態になりました。
これは、埋納祭祀などではなく祭祀具隠しでしょう。奪われたくないから隠したのです。何か大きな権力が動いた証拠です。隠さざるを得なかった…
ここに、不思議な現象があります。中広形銅矛と広形銅矛の問題です。
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広形銅矛とは、中広形銅矛の発展形です。
銅剣・銅戈・銅矛は、細形から中細形へ、それから中広形へ、そして広形へと形態が変化し大きくなります。上の図によれば、甕棺文化圏の広形銅矛は非常に少ないのです、対馬には大量に出土しますが。福岡平野に鋳型はあるのに、出土がほとんどなしです。どういうことでしょう。
対馬に大量に広形銅矛が出土した理由は、ふたつ。移動する必要がなかったか、奪われなかったからです。では、北部九州の広形銅矛はどうなったのか。それは、甕棺文化圏の人が持って移動したと思います。なぜ? それは、知らない土地に行くための、それが金品代わりだったからです。
そして、銅矛(どうほこ)だけではなく、銅戈(どうか)も同じ運命をたどりました。両者は、同じ出来事に出くわしたのです。
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広形銅戈の鋳型はあります。春日地域で生産していたのです。しかし…製品はありません。糸島などに完品が若干残っていますが。当時、生産していたし、流通もしていたのです。それなのに、鋳型のある福岡平野での広形銅戈の出土例がほとんどない……
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パネルには『中広形銅戈は、分布域が北部九州にほぼ限定され、この点銅矛とは異なる。広形銅戈は出土数がきわめて少ないことから、鋳つぶされて広形銅矛の原料になったとする説もある。』と説明されています。

確かに、前段階の「中広形銅戈」は北部九州で大量に出土してます。
しかし、次の段階の「広形銅戈」は、ほとんど出土がありません。なぜ?
広形銅戈の鋳型はあるのですから、おかしいです。
鋳つぶされた説は当然です。では、同じ北部九州の銅矛になったのでしょうか。
いえいえ、そうではない。それは、先にあげた「銅矛」の出土図で明らかです。
明らかに、広形銅矛は生産が減少したためか、出土が減少しています。原料が増えてはいないし、生産につながっていません。

広形銅戈はどこかに持ち込まれ、鋳つぶされたのですが、そこは北部九州ではないどこか、です。
ヒントは「ガラス工房」です。春日市須玖五反田遺跡は弥生のガラス工房跡です。ガラス工房は、丹後半島と大阪に伝播したのではないでしょうか。ガラス製品は生活必需品ではありませんから、経済的な有力者しか必要としません。
需要と供給が一致したのが、丹後半島と大阪湾岸だったのではないでしょうか。
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北部九州に急激な変化が起きた時、人々は何を考えたか。それは、移住でしょう。

北部九州にしか勢力を伸ばしていなかった銅戈祭祀の人々は、金品の代わりに銅戈を抱えて移動した、そう考えます。
何か大きな変化が起こったので、移動せざるを得なかったのです。
もちろん、四国地方には行けません。知り合いがいないのですから。そこには、銅矛祭祀の人たちが移動していますから。

もう一つ言えること、北部九州の文化の一つ「銅矛祭祀」は、中国地方ではなく四国地方に伝播していたということです。弥生時代の北部九州文化は四国に進出した、となります。中国地方では出雲地域に進出していたということです。
出雲も政変の影響を受けたことになります。
神話と伝承によれば、出雲はその後も侵略を受けます。
もちろん、古墳時代に北部九州でも大きな政変がありました。不思議なことに出雲も連動していますね。
銅矛・銅戈を祭祀道具とした人々の移動について考えました。では、銅剣を祭祀道具とした人々は、どうなったのでしょう?
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鉄素材の素環頭太刀は、九州の弥生の組み合わせ式石棺の中から出土します。武器として工具として鉄は活躍しました。
福岡県糸島市の平原王墓(女性王)には素環頭太刀が副葬されていました。  
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平原王墓では、内行花文鏡など鏡は割られて副葬されていました。日本で一番大きな鏡が割られていたのです。鏡が祭祀道具であれば、その呪力を奪ったことになります。この女性の胸のあたりに置かれていたのが、素環頭太刀です。
副葬された鏡の量からして、この女性が当時のトップ首長であることは間違いありません。その胸に置かれた素環頭太刀にはどんな意味があるのか、自明でありましょう。特別な太刀、大事な鏡より一段意味のある副葬品です。
まさに、卑弥呼が下賜された五尺刀ではありませんか。
この平原王墓について年代を卑弥呼の死亡年よりあげたり下げたり、学者は苦心惨憺していますが、普通に言えば、この人が「以って死す」の卑弥呼ではありませんか。
今のところ、そう考えざるを得ませんね。
卑弥呼は敗れたのです、呪力を失って。邪馬台国はほろんだでしょう。
だから、人々は混乱し移住せざるを得なかった。
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最近、何人もの知り合いが笑って言ってました。「卑弥呼が魏を主国としていたのなら、創始者たる曹操の墓より大きな墓を自分のために作ったりしませんよね。」
そう言われると、そうかもしれません。曹操高陵は地下にあり、墳丘も作らせず木も植えさせませんでした。そういう意味では、どでかい前方後円墳には違和感がありますね。
そうは言っても、大型古墳は首長のあこがれとなって全国に広がるのですから、あこがれの首長が存在していて、彼にあやかりたいと思ったということですよね。
それは、圧倒的な武力を持っていた首長でしょうか。武力は経済力で支えられますから、何を経済基盤としたか考えねばなりませんね。

しかし、今考えているのは、曹操の国を頼った卑弥呼には、どんな政治的状況があったか、邪馬台国が滅亡して人々はどうなったのか、です。
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糸島富士と呼ばれる可也山は、半島の可也にちなむ地名です。ここに半島の人が多く訪れたのです。この山は、いろいろ見てきたでしょうね
では、またお会いしましょう。


by tizudesiru | 2019-10-10 15:15 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

卑弥呼が貰った鏡を変えて畿内説を示唆する方向に

東京と九州の国立博物館で開催されている「三国志展」の開催意図は、他でもありません。邪馬台国九州説の撲滅でしょう。今日、「邪馬台国が九州に在った」と言っているのは素人で、考古学者は畿内説になっている。というのが事実です。文化庁もその方向です。
その意図がはっきり表れているのが、今回の三国志展です。
私が知りたいのは事実と真実です。本当に、邪馬台国畿内説でいいのか、未だに納得がいきません。
これまでに計画的に行われてきた蛮行を、科学的とか、最新の知見とか、表現していますが‥‥


九州説潰しに、関東からの縄文文化の伝播でせめ、巨大古墳の世界遺産化でせめ、文献は嘘が多いとして読みを変え文字を変えを承認し、九州などの地方の発掘費用を文化庁が遮断し、特定地方の古墳群を観光地化して市民の意識を操作し、ついに「邪馬台国畿内説の重要な証拠であった三角縁神獣鏡の否定」に取り掛かりました。
それが、画文帯神獣鏡への切り替えです。

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国博の三国志展では、三角縁神獣鏡を否定しています。さも公平な態度で、しかし、代わりに画文帯神獣鏡を出してきました。前漢鏡でも後漢鏡でもありません。大きな神獣鏡です、それも、環状乳画文帯神獣鏡です。この鏡は、三角縁神獣鏡が危なくなってきた時、現れた鏡です。
あの、奈良のホケノ山古墳(箸墓の近く)から出土した画文帯神獣鏡に結びつけるはずです。
学者さんたちは、「もうすぐホケノ山古墳の年代は、三世紀後半~四世紀前半から、三世紀半ばに引き上げられる」と言ってました。
三世紀半ばになれば、卑弥呼の墓と言われる箸墓より古くなります。
それが狙いなのです。ホケノ山古墳が箸墓より早く作られた古墳とされているので、四世紀ではまずいのです。なんとか三世紀の248年に没した卑弥呼より、先に葬られた人の墓だとしたかったでしょう。それが、既に準備されています、もちろんマスコミを使って。


今度の三国志展も、畿内説に持って行くための市民の意識改革の一環です。全体を見回すとそうなります。わたし達市民は何時も振り回されます。発掘するお金もないし、資料を調べる時間もありません。しかし、直感はあります。なんだか変だと思う‥‥
そうです、変なのです。
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それは、素環頭大刀です。大刀の柄の先端に丸い環が付いています。
ここに紐や布を通して手首に巻きつけ、戦いのとき手から離れないようにするのです。相手に叩き落されたらおしまいですから、落さないための紐通しの環なのです。
三国志の時代の刀は素環頭で、戦いの道具でもあります。

また、文字を書くために木を削る道具の刀子も形は素環頭と似ています。この時代は素環頭だった…素環頭大刀は九州の組み合わせ式石棺の中から出土します。
糸島の初期古墳である一貴山銚子塚古墳からも出土します。
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九州の弥生遺跡からどんなに大量の鉄や銅の武器・工具が出ようとも、それは渡来人の持ち込みだとなりましたね。紀元前4世紀には渡来人が来て、九州の平地を席巻したとなりつつあります。九州の平地の全てに渡来人居住地というくくりになり、縄文系の人は山地に住みその骨は消えていった、となっているのです学者さんたちは、そこで手を打ったという‥‥前代未聞の展開です。
ですから、残るのは古墳の時期の確定です。
ホケノ山古墳も一貴山銚子塚古墳も、このブログで何度も取り上げました。下の写真のようにホケノ山古墳の墳丘から箸墓が見えます。なんとしても、ここを三世紀半ばにしなければなりません…
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あれほど三角縁神獣鏡が大量に出土したと騒いだ黒塚古墳の時代は終わらされました。下の写真は黒塚古墳。ここも三世紀と言われたのでしたね。
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わたしには考古学がすっかり色あせて感じられます。本当の事が分からないまま、全く別のステージにいざなわれているからです。税金を使うのなら、どんなに恥ずかしい歴史でも真実を知らせてほしいです。
文化庁は誰のために何を目指していくのでしょう。個人や特定地域の為ではなく、広く市民のための、現在の日本に至るまでの歴史を、そこを掘り続けてほしいです。

絶望と混沌の中で死んでいった人の事を忘れてはなりません。



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by tizudesiru | 2019-10-08 10:35 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

神となった関羽の像に会える・九州国博「三国志展」

10月から九州国博で「三国志展」が始まりました。会場に入ると関羽像に出会います。
219年、関羽は非業の最期を遂げましたが、敵将の曹操からも「義の人」と称賛されました。その関羽の像は、スリムです。顔の半分が顎髭という一般化された関羽像と違って、どこか若くりりしく見えます。三国志の中では、人気ナンバーワンですかね。諸葛孔明が好きな人も多いようですが。
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関羽は張飛とともに早くから劉備に仕えました。「同年同月同日に生まれること」を願うのではなく、「同年同月同日に死ぬこと」を誓い、劉備・関羽・張飛は「兄弟のような恩愛」で結ばれていました。
劉備・関羽・張飛が誓いを立てた「桃園結義」以来、三人は行動を共にしていましたが、徐州の戦いで劉備が曹操に敗れます。劉備とはぐれた関羽は、劉備の二人の夫人を守るためにやむなく曹操に投降したのでした。
敵将曹操は、関羽を厚遇しました。「一万人の兵に匹敵する」と言われた関羽でしたから。
関羽は曹操の恩義に報いるために、白馬・延津(えんしん)の戦いで曹操のために活躍します。
が、劉備の所在を知ると関羽は曹操に別れを告げたのです。劉備のもとへ戻る関羽を曹操は止めずに、「義である」と称賛しました。
十九年後の219年、関羽は曹操軍と呉の孫権軍に挟み撃ちにされ、非業の死を遂げました。
その翌年220年、曹操も没します。曹操の子・曹丕(そうひ)が、後漢の献帝(けんてい)から帝位を譲られ「魏」が成立するのです。
つまり、「魏」という国は、曹操が没した後に生まれた国ですね。
後漢から帝位を譲られた曹氏に対して、天下を治めるべきは前漢の中山靖王劉勝に連なる家柄であるとして、221年に劉備が蜀の地で皇帝になることを宣言しました。
そして、229年、孫権も帝位につき、魏・蜀・呉の三国の時代となるのです。

正史「三国志」は、155年の曹操の誕生から書き出されていますから、155年から280年の「呉が西晋に滅ぼされ、西晋が成立する」までを三国志の時代として、「三国志展」は開催されています。
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あの赤壁の戦いは、208年ですからまだ三国は成立していません。
この時、劉備・孫権軍対、曹操軍の戦いで、曹操が破れます。ここで、天下三分の形態が固まるのです。
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三国志展には、気になる一級文物がたくさん展示されています。


中国が門外不出の展示物を国外に出してくれたのです。この展示物のために、多大な時間をかけて相当な人が働きかけられたことでしょう。写真も撮っていいのです。
すごいサービスだと思います。とても、面白かったです。
思ったのは、この時、卑弥呼は生きていたのだということです。魏からたくさんの文物を下賜されていますから、かならず同時代のにおいのするものをもらっているはずです。そう思ってみると、面白いのです。
では、また。


by tizudesiru | 2019-10-05 01:44 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

金隈弥生遺跡は 卑弥呼の時代まで六百年間継続し、136 体の人骨が出土

福岡県福岡市の金隈(かねのくま)遺跡に出かけました。甕棺墓が見学できるように公開されています。『金隈遺跡では、約2,400年前から1,800年前、弥生時代のおよそ600年にわたって甕棺348基をはじめ土壙墓(どこうぼ)119基石棺墓2基の合計469基もの墓が発見されています。』とパンフレットに書かれています。ここから136体分の人骨が出土しました。貝輪や石製の小玉、甕棺に供えられた小型の壺が出土していますが、青銅製の武器などはありません。福岡平野の西の吉武高木遺跡と東の金隈遺跡ではずいぶん違っています。西の吉武高木遺跡では、弥生時代の前期の鏡や玉や銅剣が特定の墓域から出土していますから。(福岡市博物館に展示されています)
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4体分の人骨が展示されていますが、本物だそうです。他は九州大学で保管されているそうです。ここの骨で、弥生人の骨格の特色が分かったと聞きました。DNA分析を加えれば更に詳しいことが分かるでしょうね。期待がふくらみます。
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折り重なるように甕棺墓と土壙墓がありますから、長い間に同じ場所に埋葬を繰り返したのですね。
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子ども用の甕棺も多いですね。下の写真のように、子どもに副葬されたゴホウラ貝輪もあります。ゴホウラ製貝輪は男性に、イモガイ製貝輪は女性に副葬されるのだそうですから、この子は男子でしょう。
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この甕棺墓群は北部九州の弥生時代の文化や政治の変化を解明できるのでしょうね。600年も続いたのですから。パンフレットには「遺跡の年代を測る『ものさし』として利用することもできます。また、かめ棺墓の中からは状態のよい多くの人骨や貝輪が発見され、弥生時代に生きた人々のすがたや、ほかの地域との交流を研究する上で貴重な資料となっています」
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この遺跡の案内板には、弥生前期から後期の初頭にかけての遺跡と書かれていました。その間は、400年となっています。これは発掘当時の50年前の認識なのでしょうね。昭和47年当時のままの文章ですね…
紀元前200年から紀元後200年の四百年間ここは墓地だったのです。ちょうど卑弥呼(248年没)の時代まで使われていたのですね。それにしても、パンフレットには600年間と書かれていましたが、この説明板には400年間と書かれています。200年の誤差は、大きいですね。
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なるほど、甕棺の形態の変化がわかるのですね。甕棺の変化から時期を推定できるということです。下の図の水色は土壙墓で、この遺跡では土壙墓が最も古い墓とされています。
「弥生時代前期後半ころ(約2300年前)からのちは、かめ棺墓が主体になります。甕棺墓は中期のおわり(約2000年前)にかけて減り、それ以降はわずかに石棺墓がつくられるにすぎません。金隈遺跡は弥生時代のおわり(約1800年前)まで、墓地として使われていたと考えられます。」(パンフレット)
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なぜか、栄えた甕棺文化は断絶するのです。みごとな大型土器の技法は失われたのでしょうか。この甕棺技術が埴輪製作技術につながったのではないでしょうか。カメカンの需要がなくなって工人たち集団は生活に困ったでしょうから。
人が移動するのは、需要と供給の問題、経済活動です。生活の成り立たないところに人は住みません。つまり、弥生後期に何かがあったのです。政治的経済的混乱…それは内乱でしょうか。
そして、誰もいなくなった…三国志の時代を生きた人たちはどうなったのでしょう。

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遺跡は勾配のきつい丘の上に有ります。弥生の森と書かれた広場の中心に横穴式石室の古墳があり、そこが遺跡の最高地となります。屋根をかぶせて残されたのは、甕棺と土壙墓の部分です。下の図の上下(東西方向、西が上)が急な崖になっていることが分かります。金隈遺跡は丘陵の尾根に作られた墓なのです。
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丘の上に展示施設があるので、資料館には階段を上ってたどり着きます。
あたりを歩いていると、気のせいか前方後円墳の上を散策しているように感じられます。北の古墳に向かって緩やかに登りますが、そこが後円部のように思えるのです。気のせいですが。古墳への道は細くくびれています。
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三国志の時代が終わって・・・
弥生人が墓を造らなくなって二百年、この被葬者が此処に墓を造った、ということですか。二百年経っていても、ここは墓地だったのですね。ふむ・・・

面白い金隈遺跡の紹介でした。
ここで、はっきりさせたいのは
卑弥呼の時代には大きな変化があったということですそれは、技術者の移動を余儀なくした…
さらに、弥生時代の骨は甕棺の中には残りやすいが、土壌には残りにくいことです。今、やたらに弥生の人骨と言って木棺墓から立派な木片とともに、立派な人骨が出土しています、ある地方で。それも、組み合わせ式の木簡は金属器で加工した「ほぞ穴」のある立派なものです。残らないはずの木材と残らないはずの人骨が相次いで見つかっている…日本はどうなったのでしょう
「日本は酸性土壌なので、人骨は土の中では30年で消える」と、ある骨の研究者は言われました。しかし、日本のある地方では、木棺墓に弥生の全身の骨がごっそり何体も出土しているという、狐につままれたような話が写真集でまとめられています。
どうなっているのですかねえ。
日本の科学はこれでいいのですかねえ…きになります。
では、またお会いします。


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by tizudesiru | 2019-09-10 10:33 | 368 北部九州で弥生文化は花開いた | Trackback

卑弥呼が九州から消える日・縄文から始まる

とうとうその日が来るのですか。誤解から始まった邪馬台国近畿説が、国家の歴史として決定される日が。何と恐ろしい! 真実がみえなくなり、歴史はゆがみます。

箸墓が卑弥呼の墓だという信じられない説を一般化した畿内説学者は、文献や考古資料では「邪馬台国九州説を撲滅することは出来ない」と知っています。
「文献では邪馬台国は読めないから、読まない。」と言い出して半世紀以上が経ちました。
(文献で読むと九州説が有力だからです)
それで、考古資料で邪馬台国を探すとして、40年の長きにわたり奈良を掘り続けたのに、頼りの纏向遺跡ですら時期が怪しくなってきました。残念ながら。
そこで、登場したのが東北・関東の見事な縄文遺物でした。
長い縄文、短い弥生、そして、怒涛の如く古墳時代に突入する東国。「その状況が近畿と似ている」 として、ここに目が付けられました。

分かりますか? 豊かな東国の縄文文化と融合して畿内の弥生は花開き、卑弥呼の神祭りが生れた、と展開するのです。畿内で卑弥呼は生まれたとするのです。
身震いがします。
確かに東国・東北の縄文文化は素晴らしい。
その基礎があったから稲作が入り、古墳文化が怒涛のように入っても、消化し古墳文化を花開かせたのです。
明治の日本と同じです。江戸時代の寺子屋教育が浸透し国民が学問をしていたから、明治の教育は浸透し、近代国家へと移行できました。
文化の浸透⇒近代的国家は、基礎教育があったからこそ可能だったのです。
同じことが言えます。豊かな縄文があったからこそ、弥生と古墳文化が素早く入り込んだのです。もちろん、畿内にも基礎があったのです。
そこへ、九州の弥生後期の文化・更に古墳文化が入って、王権が誕生したのです。


令和元年に合わせて、いよいよ始まりました。あちこちで話をしてきました『縄文ブームは卑弥呼畿内説の準備である」と。
ついに「邪馬台国九州説」をつぶす時期だと考えたのですね、当局は。
このままでいいのですか?

昨年2018年の夏、

東京国博で「縄文展」開催され、噂の縄文のビーナスが展示された。 周囲では、ビーナスが揃う機会はめったにないから見に行ったという話が流れていた。
私は見に行くつもりはなかった。

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本当に縄文の土偶だろうか、という思いと、急な縄文ブームにいささかの疑問を感じていたからです。なぜ、縄文が急に脚光を浴びるようになったのか。

当局の意図は、素人の私にも分かりました。準備のための印刷物が出回っていました。
図版・図録・パンフ・すべて、当局の物は同じ方向を向いています。
ですから、素人にも分かりやすいのです。


(写真は縄文展の図録をデジカメで撮ったものです)
貴方は、この写真を見て不思議に思いませんか?
私は縄文のビーナスに対して非常に違和感を覚えていました。


「土偶は不思議だ。大量に発見されているのに、完品はない。体の一部が必ず失われている。それは病気などで体の悪い所を治すためのまじないの為らしい。遮光土器もあれもまじないの一種だろうか」という話は昔からありました。

土偶の前面に付けられた文様が深い祈りと結びついていたと、私はそう思っていましたから、文様がほとんど彫り込まれていない、然も、土偶として割損部のないビーナスを『縄文土器』として認識するのに抵抗がありました。
青森の飛行場で売っていた土産物の遮光土器も片足が欠けていたし・・・文様に覆われた完品ではない土偶が「土偶」の本来の姿ではないでしょうか。

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遮光土器には文様の窪みに朱が残っていますから、本来は赤い色が塗られていたのです。そうしてみると、ビーナスには朱の後は有りません。高温で焼しめられた土の肌は黒光りさえしています。
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はっきり言えば、焼成温度が高いのです。そういう技術があった時期のものです。
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形の完璧さからして、時期が古くは有りません。
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見事な造形美を堪能できます。しかし、文化のレベルは古式ではありません。
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それにしても高い芸術性と焼成技術が備わっています。
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群馬県藤岡市の博物館の耳飾りを見ても、細かな細工が壊れていません。完形で風化もほとんどありません。これは、焼成温度が高く、製作技術も工具も充実していた証拠です。簡単なことです。いわゆる縄文時代とはいえ、新しいのです。長く縄文が続き熟成していた証拠です。
そこへ、九州の文化が入って来た。古墳時代になって更に色濃く九州の文化が入って来た、のです。
畿内王権が入って来た時、戸籍や行政区などの基礎ができていたから、たやすく統治できたのです。関東の文化は、九州の影響を色濃く受けています。

そんな分析は抜きで、畿内と東国を結びつけた。
その作業が続いていましたが、いよいよその路線が国民に向かって披露される。
日本の歴史の書き換えと上塗りが始まるのです。

その情報発信に駆り出されているのは、NHKです。最近のNHKには、公平さが無くなりました。もともと公平ではなかったけれど。小泉政権の頃から極端になったと思いますが。
当局に都合のいいところだけ放送する。国民の目と耳を一定の方向にもっていく、朝飯前の仕事です。


今日は、心からがっかりしたので、ブログを書きました。
先ほど、
「水曜日の『英雄たちの選択』は縄文だったよ。近畿の縄文は長くゆっくり続いたんだって」と、一言聞きました。
私は出かけていたので、そのTVを見ていません。


かねてより危惧していた事態が、いよいよ現実になると思いました。
若者も老人も「令和で新しいことが起こる」と期待しています。
そこへ、この「九州説つぶし」の激震が用意されているのです。
そう思ったのは、私だけでしょうか。これを読んで、あなたはどう思いましたか。


このような事態にならないようにと、私は願っています。どうぞ、的外れでありますようにと。TVの再放送を見て、再度かんがえるつもりです。では。


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by tizudesiru | 2019-04-27 16:08 | 365令和元年・卑弥呼が九州から消える | Trackback

百年の嘘を ホケノ山古墳に粉飾

伊都国の平原王墓と、山城の椿井大塚古墳が同時代?

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「飯塚発 古代史情報最前線・イイヅカから未来のトビラを拓く」というフォーラムでした。2月18日のテーマは『卑弥呼の戦争と武器』でした。

松木先生ほんとですか? 邪馬台国が戦争をした相手は何処ですか?
確か、狗奴国です。
狗奴国は邪馬台国の南に在ったのです。魏書に書いてあります。卑弥呼が死んだとき、帯方郡より張政が倭国に来ています。その後、卑弥呼宗女壱与が女王位に着いたあと、張政を帯方郡に送ります。倭国の使者は、そのまま魏の都に朝貢しました。つまり、魏の使いは倭国の場所もわかり、風俗も調べ、倭国の要人にも会い、卑弥呼の墓も確かめているはずです。狗奴国の位置も状況も知りえたでしょう。
そのことごとくを天子に報告したはずです。嘘や出鱈目や間違いが在ってはなりません。邪馬台国までの距離は正しいのです。
女王国まで、萬二千余里

きちんと魏書に書いてあります。
魏書を読まれているから、松木先生は「文献では邪馬台国は九州だ」と言われたのですね。では、考古学的には畿内ということですか。でも、鉄も、絹も、クスノキも無い、楽浪郡の土器も出ない畿内ですか? もちろん帯方郡の韓式の土器も出土していません。
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それに、先生の資料は大丈夫ですか?
弥生王墓の平原と、椿井大塚古墳を同時代の鏡としておられました。

漢鏡とありますが、三角縁神獣鏡が漢鏡ではないことは、周知の事実ではないのですか?
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福岡の平原王墓は、弥生時代のの女性王の墓と云われています。確かに大量の鏡が出土した方形周溝墓です。
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しかし、椿井大塚古墳は、いわゆる初期古墳ではありません。
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(椿井大塚古墳)
ここは、弥生の墓ではありません。出土鏡も三角縁神獣鏡です。松木先生は、漢鏡5期とまとめている資料を使われています。十分に確かめてのことでしょうか。全く違う時期の副葬品を並べて論じていいのでしょうか。
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さらに、ホケノ山古墳まで持ち出されていました。そのことは、また。
長くなるので、また明日。


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by tizudesiru | 2018-02-21 02:02 | 327古代史の危機!? | Trackback

えっ?鉄がありすぎる九州に邪馬台国はない?

倭の五王の話をしていますが、古代史学会大丈夫かな? と思う事があったので、その事をお知らせします。書いていいかを少し考えましたが、書かせていただきました。
飯塚市発 古代史情報最前線、今回のテーマ「卑弥呼の武器と戦争」
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このフォーラムに参加して、下のような気分になりました。
ゆうれいの正体見たり枯れ尾花


それは、後援会のあとの討論会での発言を聞いてのことです。資料と突き合わせた話し合いの、最後の最後に出た学者の発言を。
わたしは、今日は何をしにここへ来たのでしょうと、思いました。
なぜなら、邪馬台国論争で「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされていたからです。

弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。それも工具や武器の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ました。わたしは邪馬台国と戦争をしていた狗奴国は熊本だと思っています、そして、鉄の武器の差で狗奴国が勝ったと思っているのです。
ところが、

弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
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鉄で邪馬台国を論じるなら、九州で決まりだね、と思っていました。
然し、そう問屋は下ろさなかった、のです。

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鉄戈が取り上げられていました。弥生の青銅武器の威信財として、剣・矛・戈があります。中でも鉄戈は福岡の飯塚市や那珂川町などで、大型の鉄戈と変化して甕棺に副葬されているのです。更に、大型鉄戈は倭国にしか出ません。半島には大型は出土しないのです。
倭国には、大型鉄戈をつくる鉄文化があったのです。

弥生時代には、すでに銅だけではなく鉄を熔かす技術を北部九州は持っていました。


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甕棺の中の副葬ですから、伝世品ではありません。共伴する土器や木製品などで、編年もできているのです。
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弥生遺跡の鉄出土の比較を見ると、一つの遺跡だけでも熊本の鉄製品は圧倒的です。鳥取の青谷上寺地遺跡と比べると、熊本が自前ですべて作っているのですが、鳥取は他の地方からの移入品がありました。日本海側は、九州との交易が盛んだったので、技術の流失があったでしょうし、人の移動もあったはずです

弥生の鍛冶工房の様相・炉の形式が四種類
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Ⅰは、穴を掘り、穴の底に木炭や土を交互に敷き、熱効率を上げています。羽口からの空気が回るからです。ⅠとⅡ型は九州型で、ⅢとⅣ型は吉備辺りになるそうです。つまり、近畿の近くの鍛冶工房では大きな製品は造れなかったのです。
大きな鉄製品は、九州から仕入れたと云うことでした。近畿は流通で一大拠点だったというのです。

 
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倭女王卑弥呼は、魏から五尺刀を下賜されました。弥生の大刀は、素環頭大刀です。素環頭大刀は、弥生の後期組み合わせ式石棺の中から多く出土するそうです。それも、弥生の大刀も九州が圧倒的に多いのです。

しかし、鉄が多く出土する北部九州と邪馬台国は、イメージが合わないのだそうです。
でも、鉄も絹も出ない、クスノキも無い近畿にこそ、邪馬台国はないのではありませんか。文献でも、邪馬台国は九州ですけど。
でも、大事なのは、邪馬台国のその後ですよね。

講演会の中休みに、知り合いの有名ブロガー女子が「ね、どうなの? おかしくない?」と言ってきました。
そんな気分になった人も多かったようですね。

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by tizudesiru | 2018-02-20 17:57 | 327古代史の危機!? | Trackback(35)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
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45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
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53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ

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