タグ:倭王武 ( 4 ) タグの人気記事

卑弥呼も倭五王もタリシホコの登場しない「日本書紀」と「日本旧記」

倭五王の五人目の「倭王武」の行方を捜していました…
倭王興の弟で、478年に宋に上表した倭王武の行方、です。
これまで、倭五王の行方を探してきましたが、結局、影も形もないのです。
なぜ、倭五王の痕跡がないのか。わたしの結論は次の①~⑤のなかの⑤なのです。

①日本書紀の編纂者は、宋書の倭五王をまったく知らなかった。故に、書紀には書かれていない。
➁編纂者は倭五王を知っていたが、8世紀の近畿の王権とは無関係なので正史に書かなかった。
③編纂者は倭五王を知っていたが、書けば歴史上矛盾が生じるのでほのめかすことも避けた。
④編纂者は倭五王のことを史書に書いているが、現代の学者も見いだせない
⑤「日本書紀」は、「日本は白村江戦で唐と戦った倭国とは別国である」と主張し、
唐との外交回復を願って編纂されたものである。当時、敗戦後の倭国関係者もこぞって歴史の改竄に賛同する立場をとり倭国を隠した。故に、倭国関係の卑弥呼・倭五王・タリシホコは、書紀に登場するはずはない。

わたしは⑤を主張しているのです。
自著「太宰府・宝満・沖ノ島」(不知火書房)で、書いています。


そもそも、倭五王は「日本書紀」に登場してはならなかった、のです。

書紀によると、倭王興は雄略天皇と時期が重なります。が、他の倭王達は誰とも重なりません。いずれの天皇にも当てはまらないのです。倭五王の活躍は全く無視された形で、8世紀に歴史書「日本書紀」は編纂されたのです。ですから、後世の学者にとっては、外国の資料と合致しない部分が多い「日本書紀」を読み解くことは難解な仕事でした。

そして、一定の学者たちは、地方の神社仏閣にも「大宝律令(701年)が施行された大宝元年(701年)以前の元号」があることを当然だと思っていたのです。
だから、外国の史書を読んだ江戸時代の学者は「卑弥呼も倭五王もタリシホコもいない日本国」と、別の歴史を持った倭国が日本の古代にあった、と考えたのです。


鎌倉・室町・江戸時代は武家政治でしたが、天皇制も残っていたので、同時に別の王朝が存在するという発想は容易でした。つまり、江戸時代までの学者は「九州年号とよぶ年号を持った王朝があった」と考えることができる状況にいた、明治までは。

もちろん、一般の人々も、古代の王朝を信じていたと思います。古い神社仏閣に「九州年号」と呼ばれた年号を残したからです。それらは、上の命令で書き残されたのではありません。

つい最近まで、人々は自家の歴史や系譜や口伝を持っていました。それらは歴史に揉まれながら、変形したり、ほとんど消えたり、何度か書き写されたり、片言だけ残ったりして現在に至っていました。もちろん、中には何の伝承も無い氏が、祖先を立派な歴史上人物に仕立てたり等、あったでしょう。が、無視できない伝承があることも忘れてはなりません。


問題は明治に在るのです! 明治に、九州の王朝説が消えた
二つ以上の王朝があったと考えることができなくなったのは、明治からです。薩長土肥の功罪は大きすぎました。神社を合祀させ、神宮寺を潰し、修験の山々をはげ山にしました。人々は新政府を信じて「廃仏毀釈」に走り、伝統と文化を破壊しました。そうして、大戦まで走ったのです。
明治を思うと悲しくなりそうです。薩長土肥の暴挙が無くても、日本人は「新世界」を開いたかも知れません。わたしはそのように思っています。ペリーも100年後の日本人を恐れました。「江戸時代の日本人は清潔感と激しい向上心と勤勉さ」を持っていたのですから。
(余計な感傷に浸りました。倭王に戻りましょう)

a0237545_10234230.jpg
歴史を考え直すチャンスは何度もありました

江田船山古墳の「鉄刀の銘文」の発見でも、転機を逃した
熊本県菊池川流域の小さな前方後円墳から鉄刀が出土し、そこに「治天下大王」の金石文が見つかりました。これは、古代史を考え直す大きな転機だったのですが、見過ごされました。
すっかり、九州にあった王朝関係の墓と云う考え方は消えて、近畿の天皇に「大王」を当てようとしたのでした。
「治天下大王」は、「瑞歯別天皇」だとされ、いの一番に「日本書紀」の天皇があてはめられました。
その後、埼玉県で稲荷山古墳より鉄剣が出土して銘文に「左治天下」があったのです。「治天下」「大王」「ワカタケル大王」が共通するとして、「瑞歯別」も「ワカタケル」と訂正されました。5、6世紀に、熊本県と埼玉県のように離れた地域を治めていたのは、奈良県の大王だとなったのです。
ホントでしょうか?


では、奈良県の勢力が埼玉や熊本に入った時期は、いつなのでしょうか? 
a0237545_15400540.png
(さきたま古墳群の中で、最も早く造られたという稲荷山古墳)
a0237545_15364599.png
稲荷山鉄剣と江田船山の鉄刀には共通点があった「人制」という役職

何度も書きましたが、埼玉の鉄剣と熊本の鉄刀に共通するのは、治天下やワカタケル大王だけではありません。「杖刀」「典曹」と言う役職の「〇〇」が共通します。

「〇〇人」と言う役職は、何処で生まれたのでしょう。列島の西と東で共通するのは、支配者が同じだったからです。「雄略十年に筑紫国には身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉が献じたガチョウを土産に帰って来た。ところが水沼君(みぬまのきみ)の飼い犬がガチョウを噛み殺した。そこで、水沼君は鴻(おおとり)十羽と養鳥人を奉って、罪をあがないたいと申し出た。」
と書かれていて、ここにも「養鳥
」と言う役職が出てきます。

養鳥人を献じた水沼君(*)は筑紫の人です。「人」のつく役職は、九州でうまれたのでしょうね。
*別本では、水沼君ではなく筑紫の嶺県主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ねまろ)という。
いずれにしても、北部九州の人です。更に、呉の使いは、有明海から筑紫に上陸したことになりますね。

有明海とは、近畿王権の使いとしては、異例のコースになりましょう。
身狭村主青は、九州の勢力の使者だったと考えた方がいいのでしょうか。
それとも、ここは書紀編纂者のうっかりミスなのでしょうか。そして、雄略紀には「日本旧記」という史書が出てくるのです。これもミスでしょうか。

百済との友好関係、高句麗との敵対と「日本旧記」
雄略二十一年条に「日本旧記」に曰く『久麻那利を持ちて末多王(またおう)に賜う』と書かれています。
「日本旧記」という史書があったようですね。末多王とは東城王のことで、雄略二十三年には「百済の文斤王(もんこんおう)が薨じたので、昆支王(こんきおう)の子の中から聡明な末多王を選んで王となして、武器と筑紫の兵士五百人を護衛として(百済に)送らせた」と書かれています。筑紫の兵士とは…

更に続けて「この年に、百済の調賦は例年より多かった。筑紫の安致(あち)臣、馬飼臣等船軍(ふないくさ)を率いて高麗を撃った。」

高麗に兵が出ています。筑紫の兵が。
突然「高麗を撃った」と書かれているのです。「百済の貢」の後につづけて、です。


もしかしたら、この辺りには「倭の五王の歴史が隠れているかも知れませんね。
雄略紀には妙に百済との親密な関係が書かれていて、高麗を撃つともあるのです。
ここには、百済本紀からの引用と、日本旧記からの引用があるのです。
「万葉集の冒頭歌」は雄略天皇だし、ここに何かがありそうですね。
この事は、別の機会にふれます。

a0237545_01160096.png



まだまだ続きます。
今日は、次のことを云いたかったのです。
日本書紀が正史であるなら、「中国の史書に出てくる卑弥呼も倭五王もタリシホコ」も登場させないはずはありません。中国に見せるために造った正史であるなら、なおさらでしょう。しかし、日本書紀が「日本は倭国ではない」という前提のもとに編纂されたから、中国の歴史書とリンクしないのです。
それが、日本国の出発の基本姿勢だったと思います。亡命百済人を山深くの「こもりく」に隠したのも、中国に見つからないようするためだった、と思います。



ただ、卑弥呼より前の「委奴国」の時代は否定していません。でも、神武東遷は北部九州を避けて、宮崎県の美々津の浜からの出発とした、筑紫には寄り道したとの記述にして、はぐらかしたのかも知れませんね。そこにも、王国はあったのですから。

白村江敗戦後、倭国は占領されました。多くの人は東に逃げたことでしょう。そうして、日本が唐と国交を回復する時が来たのです。
列島の人々は「倭国ではなく日本」として、何処までも考え尽くして、日本書紀を編纂したと思います。

その結果、歴史が混乱したのです。

次は、日本書紀「雄略紀」編纂の秘密についてかきましょう。

 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング
[PR]
by tizudesiru | 2018-04-04 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback(70)

倭王武は雄略天皇ではないが、応神・仁徳王朝は滅亡した

倭王武は雄略天皇ではない
前回のブログで、「倭王武は雄略天皇ではない」と書きました。更に、辛亥年は471年ではなく531年だとも書きました。最近の定説を否定しましたから、大方の人は「嘘だろう!」と思われたでしょう。ですが、

普通に「宋書」を読むと、倭王興が活躍した時期に471年は入ります。ですから、辛亥年が471年なら、稲荷山鉄剣にかかれた大王は「興」だとなるのです。(前回のブログ)
a0237545_20171723.png
「稲荷山古墳」鉄剣が秘めた古代の謎
ホントに、謎でしょうか。謎としたのは、歴史学者ではありませんか?
「宋書」に倭五王の記述があるので、日本書紀の編纂をする学者は参考にしたでしょう。でも、なぜか倭五王と対応する天皇は存在しません。なぜでしょうか? 「新羅本紀」にも侵攻したのは、倭人・倭兵と書かれていました。「三国史記」の中の『新羅本紀』は14世紀に編纂されたものです。歴史の流れを承知した上で、倭について「倭国・倭兵・倭人」と書き分けていて、すべてが倭国ではないのです。
つまり、「過去において新羅にたびたび侵攻した倭は、倭人であって倭国ではない」と発言してくれたのでした。

すると、「歴史上の某天皇が新羅に侵攻したのは事実であるが、ひとまず友好国として言及を避けた」というのでしょうか。
そうであれば、倭五王をいずれかの天皇に比定することはできるでしょう。その中で、倭王が大泊瀬稚武(オオハツセノワカタケル)天皇となります。

倭王興が活躍していたのは460~478年であり、辛亥年が定説どおり471年であるなら稲荷山鉄剣の「ワカタケル大王」は倭王興となる、自明のことです。倭王興=雄略天皇=ワカタケル大王

しかし、埼玉新聞社発刊の『稲荷山古墳』では、辛亥年=531年としています。
稲荷山鉄剣が発掘された当初は、ほとんどの学者が「辛亥年は531年」を支持していたのです。
531年なら、倭王興とワカタケル大王は時代がずれるので別人です。
倭王(478~)がワカタケル大王の可能性があるなら、定説の471年ではなく531年しかありません。

しかし、いつの間にか「辛亥年は471年で、倭王武は雄略天皇である」が定説になってしまいました。これが謎ですね。

金石文である埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文「辛亥年七月中」という干支は、歴史上の事実です。そこに「ワカタケル大王」という人名があるのなら、この大王も実在の人です。
この人が書紀の天皇の誰かと一致するのか、しないのか。王権の支配地域を考えるうえにも重要です。
a0237545_20330941.jpg

(稲荷山古墳)

中国の史書である「宋書」には、倭国王が五人登場しました。
ところが、五人そろって何処の誰だか分からないのです。この五人も書紀の天皇と一致するのかしないのか、重要です。
書紀の記述の年代は虚実ないまぜで、明らかに時代がずれていたりしますが、倭五王と対応するのなら中国の干支により実際の年代が導き出される可能性が高いからです。
a0237545_23565889.png

日本書紀の編纂には40年ほどかかったそうです。学者たちは、漢書・後漢書・三国志(魏志倭人伝)も宋書・隋書も読んだ上で編纂したでしょう。漢文を読める学者が、外国の史書を参考資料としながら日本書紀を編纂したと考えます。それらを参考にしなかったと考える方が無理でしょう。書紀の引用文には「〇書に曰」と出典が示され、百済本記や個人の日誌など実際に参考にされています。

それなのに、卑弥呼も倭五王もタリシホコも記紀には登場しません。これは変です。
四世紀には畿内の王権が列島を支配していたのなら、五,六世紀の倭五王が史書の中で行方不明になるわけはありません。
また、王権が列島に少なくとも二ヵ所以上あったにしても、倭王が史書から漏れることはないでしょう。敵対するなり、無視するなり、何らかの影響があるはずで、全く消えることはないと思います。

今回は倭王武の行方を捜していますが…
倭王興の弟で、478年に宋に上表した倭王武の行方

倭王武の前後には、日本史を揺るがしかねない大きな歴史の転換点がある、のです。
だからこそ、ここを素通りはできません。


雄略天皇の弟は、天皇になっていないのです。書紀編纂者が歴史を知っているなら、「興の弟の武が即位した」と天皇位の継承で臭わせるでしょう。しかし、「宋書」を読んでいても、「宋書」に合わせることはなかった。倭五王の皇統の存在を残さなかった…故意に残さなかったのかも知れません。
ここは大事なところです。

日本書紀の編纂者は、「宋書の五王と畿内王権は無関係という事実」と「もう一つの真実」を知っていた。だから、畿内の王権と直接の関係を造作しなかった、と思うのです。
其の真実とは、「倭五王の系譜は断絶した」こと、と思います。
倭五王の皇統は、倭王武の後、いくらも経たないうちに滅びた、と思うのです。
自然に滅びたのではなく、何らかの政変があったと。
では、五世紀末~六世紀初めに、政変があった?
 
それは、ありました。九州の「磐井の乱」です。

もう一つ、日本書紀の中で滅びたと思われる皇統は、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の皇統です。この皇統が、継体天皇にとって代わられるという事件が、六世紀の前半に起こりました。

さて、ここでまた問題です。わたしは、倭五王は畿内の天皇には見当たらないと書いてきました。倭王武の上表文から、倭王達は九州にいたのではないかと書きました。倭王が九州にいて、「磐井の乱」が九州で起こったのなら、「うちわもめ」のようなものだったのでしょうか。

すると、九州の事件「磐井の乱」と滅びた応神朝はどのようにかかわるのでしょうか。遠く離れて、連動するのでしょうか。

その辺りは、解決しなければなりません。

以前「宋書」倭国伝の武の上表文を読みました。
倭王が九州にいて、上表文の通りだとすると、478年まで畿内への東遷はなかったことになると、書きました。武が「治天下」を目指したのは、478年以降だとも書きました。

日本書紀は自ら「雄略天皇は倭王興である」として、武だとは書いていません。一方では「列島は近畿の王に九州から関東までに支配されていた」ように書かれています。

a0237545_00373335.png
では、滅びた応神天皇の皇統について見直しましょうね。
また、次回。

 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング


[PR]
by tizudesiru | 2018-04-03 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback(182)

倭王武は雄略天皇ではない

倭王興の選択も、やはり宋の冊封体制だった
倭王讃・珍・済まで見てきました。
彼らが望んだのは、宋の臣下となることではありません。友好国・百済の為に、半島で優位な位置を占めることでした。
a0237545_00581056.png

今回は、倭王興(460~478在位)についてです。
興は、済の世子でした。
倭王興も、即位した同年に宋に貢献しました。二年後、「安東将軍倭国王」を授与されますが、対立する高句麗は「車騎大将軍開府儀同三司」を授かりました。
開府儀同三司とは、独自に「府」を開き役職を作り自国を経営することができる地位でした。
倭王興としては、高句麗に先を越されて非常に残念だったでしょうね。

倭王興の時代は、書紀の雄略天皇の時代と重なるのです。では、興は雄略天皇でしょうか。
年表の続きを見ましょう。『稲荷山鉄剣』には、後で触れます。

a0237545_21120846.png
474・475・479年は、日本書紀の雄略紀の記事です。
481・487・490・492・493・498・501・504
は、清寧紀、顕宗紀、仁賢紀、武烈紀の記事です。雄略天皇が没した後、20年間に四人の天皇が即位しています。
ここで、皇位継承の問題が生じたということでしょう。
他の472・477・478・502年は、中国の史書の記事です。


では、倭王興は何天皇でしょう
460年、倭王済没し、倭王興立つ。
462年、宋が倭王興に「安東将軍倭国王」を授ける
同 年、倭人が活開城を襲い、一千名を連れ去る
463年、倭人が歃良城を攻めるが、勝てずに去る
(471年、稲荷山古墳の鉄剣銘文・辛亥年)
476年、倭人が東辺を攻める
477年、倭人が五道に侵入し、功なく帰る

同 年、倭国、宋に遣使、方物を献ずる
478年、倭王興没し、倭王武立つ
(479年、雄略天皇没す・日本書紀)

これまでの倭王と同じことを繰り返し、興は力尽きたようです。

日本書紀では、雄略天皇は479年に没したことになっています。雄略天皇の没年記事は、倭王興と一年ずれていますがほぼ合致した記述なのでしょう。
日本書紀の記述「雄略天皇」と、宗書「倭王興」とは同一人物ということです。つまり、雄略天皇は倭王武ではないのです。

すると、ややこしくなるので、確認します
「ワカタケル大王」とかかれた稲荷山鉄剣「辛亥年=471年?」の大王は、倭王興だとなります。稲荷山鉄剣の銘文は、歴史の事実を伝えていますから辛亥年が471年なら、宋書の「倭王興」以外に該当者はありません。
これは、ごく自然な宋書の読み方です。

更に、「ワカタケル大王」という号から「武」という中国風名称が導き出されたという、これも、倭王「興」では、成立しません。

では、宋書に書かれた「倭王武(478~)」は、誰でしょうか。雄略天皇の次の天皇は次々に交代しますが、清寧天皇でしょうか。ですが、清寧天皇は雄略天皇の第三子で、弟ではありません。

a0237545_23451920.jpg
稲荷山鉄剣を副葬した被葬者が心から仕えたワカタケル大王は、「治天下大王」でした。天子となった大王なのです。だから、倭王興ではないでしょう。では、倭王武が治天下大王なのでしょうか。

宋書「倭王武」と、稲荷山鉄剣が指し示す「ワカタケル大王」は、ともに実在しています。同一人物かどうかは分かりませんが。

稲荷山鉄剣の「辛亥年」が
辛亥年=531年となると、事態は大きく変わります

わたしは、531年であると、以前からこのブログで書いてきました。


稲荷山鉄剣のワカタケル大王は、531年には既に没しています。多くの学者がそのように銘文を「過去形」で読んでいますから。その亡き大王を偲んでいるのが、稲荷山古墳の被葬者なのです。

その物語を再度確認しなければなりませんね。

それは、次回。
a0237545_16490367.png

参考までに、新羅本紀の記事の年表を載せました。

 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング

[PR]
by tizudesiru | 2018-04-02 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

叶わなかったのか、倭王武の開府儀同三司

武力が王の証だった時代倭王武の絶望
a0237545_11121792.jpg
倭の五王(讃・珍・済・興・武)が活躍した時代は、武力がものをいう時代で王も自ら戦いました。戦いによる犠牲と損益は計り知れません。まして、海外への遠征はリスクはあっても得るものは少ないと承知していたでしょう。しかし、倭王達は東アジアの状況から逃れることはできなかった…何とも悲惨ですが。
倭国の民は疲弊していたと思います。

そこで、書かれたのが倭王武の上表文でした。美辞麗句の散らばった美文だと、高校社会科で習いました。老教諭が「昔より祖禰みずから、甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧所にいとまなし」と唾をとばした講義を忘れません。倭王の勇猛さを「武」という名が表しているように教えられました。そのまま受け止めていましたが、数十年経って読んでみると、何とも悲惨な倭国と国民の状況が心に浮かんだのです。美文の背後には、武の絶望観が漂うと思うのは、わたしだけでしょうか。
a0237545_10220675.png
a0237545_10223760.png
宋の順帝は若く無力で、自らの運命を予感していました。そこへ、倭王武の上表文が届いたのです。「朕をこれほどまでに崇め慕う諸侯がいる。朕の統治も天によって認められたのではないか」と、彼は思ったでしょう。だから、東夷からの上表文が宋書に残されたのです。

上表文を奉った本人も、受け取った相手も共に平穏な状況ではなかったと思います。さて、倭王武の願いは順帝に伝わったのでしょうか。
武が順帝に上表して願ったのは

開府儀同三司でした。三公と同じように開府を認めてほしい!
順帝紀によると、昇明2年(478年)倭王興没し弟武立ち、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍と称す。」と、自ら称したのでした。そして、5月戊午条では、「倭国王の武が遣使して方物を献上して上表し、自ら開府儀同三司と称し、その承認を求め」ました。順帝は武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を授けています。(宋書)*百済は入っていません。
順帝は臣下に禅譲し(479)順帝は帝位を去り、南斉がおこりました。順帝はやがて殺されたのです。武の願い「開府儀同三司」は認められたのでしょうか。

開府儀同三司とは、漢代の終わりころ、高官の三公(例えば、太政大臣・左右大臣などのような高い地位の公人)に府(官庁の役所・みやこ)を開くことが許されました。その三公と同じように(儀同三司)、特典である府を開くこと(開府)を認めてほしいというものです。府とは「地方自治体の役所」のようなものでしょうか。
武は、自分の国で府を開き、自治国として経営がしたかったのです。
が、武には認められませんでした。
高句麗は既に「開府儀同三司」(463)を認められていましたから、武は失望したでしょう。百済が除かれた六国諸軍事安東大将軍は認められたのですが、失望は大きかったと思います。このあと、倭王武の遣使は停まりました。

百済が、南斉より「大都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王」(490)を授かっても、なぜか、倭王は遣使しませんでした。
倭王武は、何処で何をしていたのでしょう。
a0237545_00105516.jpg

倭王は九州から遠征した
それにしても、倭王武の国書の中で常に取り上げられるのが「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」です。
倭国が平定した国から、倭国の所在地を探る
上表文のような状況の中心地は何処か、どの地域から東西南北を見たのかを検討し、倭王の所在地を探る手がかりにされています。
東の毛人の五十五国は、関東を指しているのでしょうね。西の衆夷六十六国は九州ですね。海北九十五国とは半島となります。
西が九州だとすると、四国や中国・近畿は何処にも書かれてはいません。古事記にも、日本書紀にも、旧辞本記にも、九州からの東征(東遷)は書かれています。が、倭王武の上表文には東遷は書かれていません。事実であれば書かれたはずです。記述がないのは、なぜでしょう。
a0237545_10201150.jpg
武力をもっての東遷は5世紀後半から?
考えられるのは、武の国書(478年)が出されるまでは東遷はなかった、ということです。人民の移動はあったと思いますが、武力を用いての東遷はなかったと、思います。
では上表文(478)以前に、倭王が関東に遠征できたのはなぜでしょうか。
倭王は日本海側は熟知していました。出雲・丹波・越とは深く結びついていました。日本海側から参河(愛知県)に抜けて太平洋側に出たのです。瀬戸内を通って紀伊半島を廻るより、合理的で速かったと思います。近畿には別の権力者がいたから避けていたのでしょう。(邪馬台国の滅亡により大量の人・もの・技術が流入し、大阪平野は活況を呈していた)
すると、九州倭国の人民は平和と経済力を求めて近畿に逃げるでしょうね。当然、倭王は激怒したと思います。
a0237545_10570579.png
書紀の記述ですが、487~504の年表でもわかるように、国内が非常にざわついています。「492年条諸国に散亡した佐伯部を探し求める」とあります。佐伯部とは「さえぐ」人・遮る人ですから「武人」です。武人までが散亡したので、倭王は怒って諸国に探索命令を出した、というのです。
倭国に由々しき事態が起こり、列島が変化するのは五世紀の終わりから6世紀初頭で、ここで大型古墳が全国に拡散すると私は思うのです。祭神としてオオクニヌシが全国に拡散するのも、5世紀後半からだと思います。
大型古墳に共通する武具・馬具は、武力が横行した時代を示し、倭王が「治天下」を目指した証だと思います。列島内の古墳の副葬品の総合的な再検討が必要です。

武力による東遷は、478年以降
そのヒントは、宋書の上表文にあります。

宋の滅亡を見た倭国王は、国内に「治天下」の王となるべく、「天子」への道を求めて突き進みました。
こうして、拡散して行く権力・人・物・技術・祭祀と神。その果てに倭王権に滅亡の危機がおとずれるのです。
倭国の人民が流出する中で倭王はその「逃亡した人民を返すように要望した」これが引き金になって、磐井の乱までつながったのではないでしょうか。
何時の時代も、武力では何も得ることはできないのですね。結果として、武力の行使は、自身も国をも亡ぼすのですから。

また、次回に。

 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング


[PR]
by tizudesiru | 2018-02-16 12:00 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback(66)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

記事ランキング

最新の記事

津屋崎古墳群・須多田、奴山の..
at 2018-12-17 16:33
津屋崎の新原・奴山古墳群は宗..
at 2018-12-17 00:37
古墳の時期を決めるのは墳丘の..
at 2018-12-11 00:25
津屋崎古墳群・天降天神社古墳..
at 2018-12-09 22:52
群馬県藤岡市の古墳文化はいつ..
at 2018-12-06 23:54
七輿山で落ち合った7人の女房..
at 2018-12-05 00:00
九州と共通する葬送儀礼と石積..
at 2018-12-04 00:08
白石稲荷山古墳の家形埴輪は倉..
at 2018-12-02 11:49
藤岡歴史資料館・藤岡の特別な..
at 2018-12-02 01:02
宗像の弥生遺跡・田熊
at 2018-12-01 09:06
甕棺墓がほとんど出ない宗像の..
at 2018-11-24 00:54
邪馬台国の滅亡を再検討する・..
at 2018-11-19 23:33
筑前町・弥生時代の遺跡消息一..
at 2018-11-19 00:48
弥生集落を去る時、人々は祭祀..
at 2018-11-17 23:15
邪馬台国の滅亡にリンクする弥..
at 2018-11-17 01:27
伊豆神社の本宮・久我神社の創..
at 2018-11-02 09:25
明神ヶ辻から降りて来た厳神社..
at 2018-11-01 12:00
遠賀川流域の水巻町の伊豆神社..
at 2018-10-31 12:00
遠賀川河口・柿本人麻呂の嶋門..
at 2018-10-30 14:02
法隆寺釈迦三尊像の台座の落書..
at 2018-09-03 13:12

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代

画像一覧

以前の記事

2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

最新のコメント

WEB小説「北円堂の秘密..
by omachi at 12:25
観世音寺絵図に、碾磑(み..
by 尊敬します at 19:36
oh! 「すべて」展や「..
by 尊敬します at 23:30
筑紫野市さんへお伝えくだ..
by 尊敬します at 23:36
何時もありがとうございま..
by tizudesiru at 21:33
拝殿でお神楽をやっていた..
by 尊敬します at 23:00
> 宮原さん ありがと..
by tizudesiru at 20:17
宮地嶽神社の扁額の文字は..
by 宮原 at 10:33
たぶん、夾紵棺の技術、大..
by 尊敬します at 22:58
もう読まれましたか。 ..
by 大町阿礼 at 21:21
> 名無しさん ほんと..
by tizudesiru at 11:55
> aさん コメントあ..
by tizudesiru at 11:20
郭務宗が二千人の人々を率..
by 名無し at 09:10
間夫という山名は鉱山に関..
by a at 01:51
いつも楽しく拝見させてい..
by 尊敬します at 23:15
>いつもありがとうござい..
by tizudesiru at 20:27
弥生の風公園のわら細工の..
by 尊敬します at 22:29
> コメントありがとうご..
by tizudesiru at 23:06
建物の遺構もさることなが..
by 暇人 at 22:48
ごめんなさい。 楼閣じ..
by 尊敬します at 00:10

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ