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卑弥呼はどんな姿だったのか・弥生後期の巫女の姿を考える

倭女王はどんな姿だったのか
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卑弥呼が役目を終えても、宗女壱与が女王の地位を継ぎましたが、倭国の巫女王は、どんな姿をしていたのでしょう。中国から錦を贈られたり、倭国から倭錦や白絹を献上していますから、絹織物を着ていたでしょうね。
残念ながら姿を探る絵や像が出土していません。ただ、倭人伝によると、邪馬台国の女子は髪を束ねて折り曲げていたそうです。頭の上に載せてあげていたのでしょうか。
古墳時代になると、埴輪がありますから、男性の姿は想像しやすいですね。女性も特別な存在の巫女でしょうか、埴輪が残されています。古墳時代後期の埴輪に残る巫女の姿は、豪華とは言えないまでも、弥生時代の巫女の姿と何らかの共通点はあったでしょうね。特に、髪型等そっくりではないでしょうか。

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東京国博所蔵の埴輪の巫女は、腰に鈴鏡をつけています。巫女は鈴音を鳴らし神と交信したのでしょうね。右の仁徳天皇陵古墳の巫女頭部ですが、髪型も似ています。焼成の時の火の当たり具合から額の上に髪が折り曲げられていたのでしょう。
巫女は全国同じ髪型だった? のでしょうか?

(仁徳天皇陵と言えば、今、世界遺産にすると頑張っている処です
が、さて、何世紀の古墳と決められるのでしょうか、気になります。
九州と関東と大阪の巫女埴輪の髪型は、共通していると云うことでしょうか。同じような神祭りをしていたのか(共通文化)、姿だけ似たのか、古墳の築造は近い時期なのか、どこから伝播したのか、興味は生まれますね。

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書紀の仁徳天皇は、応神天皇の子どもとなっています。その陵墓とされるのが大山古墳です。ここから出た巫女の埴輪です。竪穴式石室に、縄掛突起の石棺があります。これは、前方部の斜面で出土したそうです。武具の模写図もありますが、鋲留短甲だったような…
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純朴な埴輪の表情には、どんなドラマがあったのでしょうね。
弥生時代の巫女の姿は、少ないですが線描きで土器に残されています。でも、女性か男性か分かりにくいですね。
弥生時代には大型甕棺も丹塗祭祀具も作れる技術があるのに、人物を作らなかったのは何故でしょう。土偶はありますけど、まるで人間とかけはなれた顔に作られています。そこには、似せることへの深い恐れがあったのではないでしょうか。ひとがた(人形)には魂が込められたから、あえて作らなかったのではないでしょうか。


(ところが、中国では人形を墓に入れます。それを知って、徐々に埴輪が作られるようになったと思うのです。ですから、埴輪は墓の中ではなく、古墳の外側に並べて、被葬者の功績や在りし日の姿を後世に伝えようとしたのでしょうね。)
 
古墳時代に作られた埴輪に、弥生の伝統が少しは残っているはず

埴輪は6世紀の産物ですから、3世紀とはつながらないように思えますが、今日でも神官はスーツ姿ではありません。
現代の神官も数百年前と同じ神事用の衣服をあつらえ着用しているではありませんか。平安時代の絵巻物と同じような姿です。祝詞が完成したころの儀式服というところでしょうか。長い伝統があるので変わりにくいのでしょう。
同じことが、古代にもあったのだと思います。祭祀が変わらなければ、その姿や祭具も変わらなかったでしょう。
と云うことは、中臣祝詞が完成していく過程で、大きな宗教上の変革があったのかも知れません。そこで、現在につながる祭祀の形態ができたので、それまでの祭祀の伝統は失われた…

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(立山山13号墳の埴輪・岩戸山歴史資料館)
倭国女王の姿を思い描きながら、「卑弥呼以死」の後を考えます。


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by tizudesiru | 2018-02-08 13:00 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback(940)

卑弥呼の出身地は何処か?邪馬台国論争は終わっているのに

倭女王・卑弥呼の出身地は何処か?!
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またもや、NHKで邪馬台国を取り上げていました。今回は、「卑弥呼の出身地は何処か? 何処の豪族が卑弥呼を選んだのか」という視点で考えたそうです。
なぜ、この番組が造られたのか、不思議でした。邪馬台国論争は終わっています。なのに、「倭国の内乱を鎮めるのに選ばれた女王」の出身地を考えようというのです。
番組では、権力を持っていた国から選ぶと豪族たちは納得せずまとまらないので、鉄を持っていた九州からは選ばれてはいないだろうという展開でした。スタートが「卑弥呼の墓は箸墓」ですから、やはり結論ありきの番組でした。

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NHKとしての番組の意図は「魏書・倭人伝をよむかぎり、邪馬台国は九州で決まり」だから、これでは箸墓の可能性は無くなる。だから、箸墓が卑弥呼の墓とすると、出身地は九州ではない可能性があると云うことですね。倭人伝には

女王國 萬二千餘里 
(帯方)郡より女王国に至るには、万二千余里

という決定的な漢字があるからです。邪馬台国は九州から一歩も出ないのです。それに、女王国は伊都国の南にあるのです。みんな書かれていて、ひっくり返せないのです。狗奴国は女王国の南に在り、邪馬台国と戦争をしていたのです。

しかし、卑弥呼の墓は箸墓であるから、女王の墓が奈良盆地に造られたのは何故か、誰がそれを指示したのか、何処の豪族が選んだのかと、NHKは別の視点で考えたというのです。
この展開だと、古代社会では武器は何の意味もなかった?!卑弥呼は鏡の出土しない地域の女王となった? 伊都国の監視の届かない地域で女王は祭祀をした? 巫女であれば他国の神祭りにすぐになじめた? と、なるのでしょうか? では、軍事力を持っていた国々は、女王の選出に納得していたのでしょうか? 
三国志魏書の倭人伝には、そういう出身地を探す手がかりがあるのでしょうか?
気になりますね。

では、魏志倭人伝にはどう書いてあるでしょうか?
読めなくても、見てみたいですよね。

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この後も続きますが、みんな書かれているのです。
退屈でなければ、読んでみますか? 或所で講師が「邪馬台国論争は終わっている。論じるだけ時間の無駄。邪馬台国の、それ以後を考えたい」と言われました。わたしも、方々で同じようなことを云っています。誰が解決を引き延ばしているのでしょうか。どんな結論でも、真実であれば構わないのに。

確かに、無駄かもしれませんね。それでも。

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by tizudesiru | 2018-01-30 11:44 | 323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK | Trackback(5223)

(2)香椎宮と六嶽神社の祭祀線

(2)香椎宮と六嶽神社
 この二つの神社が結びつくなんて、想像できません。六嶽には宗像三女神が降りたという伝承があるのです。香椎宮とつながりがあるとは思えません。しかし、麓の六嶽神社と香椎宮をつなぐと、間にぴったり宮若市の若宮八幡が入ります。ラインが分かりにくいので、水色に変えました。香椎宮本殿を出た水色ラインは、北東に伸びています。
 このラインは、宮若市の若宮八幡宮を通過するとき本殿を横切ります。
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 画面の若宮神社を通過するラインがいくつかありますが、紫ラインは、宮地嶽古墳からのものです。少しずれる青ラインは、宗像大社からのものです。ピンクラインは、竹原古墳からのものです。が、ここでの説明は省きます。
 水色ラインに話を戻すと、香椎・若宮八幡・六嶽と三社の本殿を結ぶという結果が出ています。三社は話し合って社殿を造営したのでしょうか。そうではありません。建て替え時期がそれぞれ違います。強固な言い伝えがあって、同じ場所に社殿を造営したとしか言いようがありません。それでも、三社がつながっている。その意味はなんでしょう。香椎宮の御祭神が宗像三女神だったなんて事は、まったく考えられません。香椎宮は仲哀天皇の廟であり、神功皇后の伝承の地でもあります。
 若宮八幡は718年の創建で、ご祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・武内宿祢です。仁徳天皇を祭神に加えたとき「若宮八幡」と名を変えたそうです。718年(養老2)は藤原不比等らにより「養老律令」ができた年です (施行は757年、757年は橘奈良麻呂の変で、橘氏大伴氏の一族多数が刑死している。720年に「日本書紀」ができている)。若宮八幡は藤原氏が栄えていた時期の創建ですから、政治的匂いがします。ご祭神も応神・神功ですから香椎宮とのつながりも十分です。
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 では、なぜ六嶽神社とつながるのでしょう。
 ご祭神は、もちろん宗像三女神ですが、ほかに応神天皇・神功皇后・武内宿祢・他も合祀されています。もともと応神天皇・神功皇后がご祭神だったところに宗像三女神が降臨したのでしょうか。また、六嶽の旭岳には、ニニギノ命の御陵があるという伝承もあります。冠は、天冠(てんがい)岳に、衣を羽衣岳に埋葬したそうです。近くの八剣岳もヤマトタケルの住まいのあとだという伝承もありますから、伝承にあふれた土地ということで、驚かされます。いずれも日本書紀や古事記の重要な登場人物です。
 三社の創建は、いつでしょう。三社は連続して造営されたか、または、六嶽神社と香椎宮の間に遅れて(718年)若宮八幡が入ってきたのか。宗像三女神との直接の結びつきは、なかなか出てきません。そこで、六嶽を別のラインで見てみましょう。
 14番目のラインです。14 一貴山銚子塚古墳―香椎宮―六嶽―(劔神社)
 なんと糸島地方で一番大きな古墳からのラインです。 一貴山銚子塚古墳と六嶽山頂を結ぶと、香椎宮の裏の杜を通ります。14番目のラインは、ポイントが若干ずれるので無理かなとも思いましたが、香椎宮と糸島地方は、ほかにも密接なつながりがありそうなので捨てがたいのです。それは、次の「香椎宮と糸島地方」で取り上げます。
 さて、一貴山銚子塚古墳です。ブログでも数回取り上げました。4世紀の古墳で漢鏡(方格規矩四神鏡・内向花文鏡)が頭部付近に、三角縁神獣鏡が側縁(足元付近)左右に4枚ずつに置かれていることでも有名です。方格規矩四神鏡(現品は京都大学にあるそうですが)には鍍金(金メッキ)が施されて、国内には数面しか見られないそうです。
 一貴山銚子塚の被葬者が六嶽とつながっているとしたら、その人物の近親者で、ニニギ命? それは、4世紀の出来事だった? 間に存在する香椎宮。なぜ一貴山銚子塚・六嶽ラインに香椎宮があるのか(正確には香椎宮裏の杜ですが)。一貴山の被葬者は、香椎の宮の住人の親族だった可能性があります。そして、六嶽の地(遠賀川流域)に出て行った(降臨)。逆はあるでしょうか。4世紀の六嶽の人物が糸島に出て行った。後者は、可能性が低いと思います。伊都の首長である一貴山銚子塚の主は、弥生王墓が並ぶ宝満・飯盛ラインに眠っているからです。福岡平野の弥生の伝統を背負った人物であり、遠賀川流域から来たとは考えられません。神功皇后を迎えに行った伊都県主の祖が「日本書紀」に出てきますが、同じく岡県主の祖も神功皇后を迎えに出ています。伊都国と遠賀川流域の有力者は、同一行動をしているのです。何らかの協力関係にあったのです。六嶽と一貴山が結びつく理由が、ここにあるように思います。つまり、神功皇后の時代より以前に伊都国と遠賀川流域はつながっていたのです。
 さらに、一貴山銚子塚古墳は前方部が南に、後円部が北になります。この古墳の主軸は南北になるのです。弥生の王墓ラインに並びながら、南北を主軸とする。新しい思想が入り込んでいるようです。大陸から入った思想でしょう。天命を受けて国を治める首長が北極星をいただいて、北に後円部を持ってきたのかもしれません。木棺が東西に置かれていたのなら尚のこと面白いですね。
(画像から、ピンクのラインをたどってくださいね)
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 六嶽伝承のニニギの命と、神宮皇后・応神天皇のつながりは、今のところ全くわかりません。しかし、ラインを引いてみると、親族と言わなくても同じ氏族だったと思われます。
by tizudesiru | 2012-11-12 12:00 | 80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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