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日本最長の舟形石棺は、佐賀県立博物館に在る

脊振山地の南・佐賀県の古代豪族と倭国の関係
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(背振山地は南の有明海と北の玄界灘の間に連なる山塊で、南北では気候も生活環境も違いますが、南では古代から吉野ケ里のような弥生文化が開け、北では伊都国が目を光らせていました。) 
 
 倭国と日本国の関係はよく話に出ますが、倭国内の関係、つまり九州内の豪族の興亡や関係についてはあまり話に出ません。わたしは、倭国内の結びつきが気になるのです。九州で倭の五王の時代となると、石棺の時代になります。弥生の甕棺から組み合わせ式石棺となり、舟形石棺の直葬が現れて、家形石棺、横穴式石室、装飾古墳と変化していきます。順番がだいたい決まっているのですが、装飾古墳は6世紀とされています。石棺の時代から装飾古墳の時代なったのは、何か大きな出来事が起こり墓制が変化したのではないかと思うのです。
5世紀のおわりから6世紀初めにかけて、何かがあった……
つまり、舟形石棺の時代は倭の五王と重なるのですね。

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 わたしは舟形石棺の大きいものは熊本に在ると思っていましたが、10年ほど前「日本最長の舟形石棺は、佐賀県出土のものだと聞いたのです。佐賀県立博物館のロビーに置いてあるのを見たことはありましたが、今回改めて見せてもらいに行きました。
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熊本山古墳(佐賀県・久保泉町川久保字熊本山)の舟形石棺です。石棺の側面が底に向かってカーブしてます。それで、舟形と云うのでしょうね。博物館の展示室には、もう一つ石棺が在りました。
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写真の状態で発掘されたのですね。被葬者の横に鉄剣があります。
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 こちらは蓋の様子から家形石棺だと思ったのですが、舟形石棺となっています。ロビーに置かれていた舟形石棺と同じ佐賀市久保泉の川久保の「久保泉丸山3号墳」の石棺です。二つの古墳は同じ地域の古墳ですね。
久保泉丸山3号墳には、人骨が三体とは…被葬者の足元に固めてあったのですね。
更に、熊本県の菊池川流域の玉名市宮ノ後古墳の石棺とよく似ているそうです。


そうですよね。菊池川流域には家形石棺・舟形石棺、いろいろ出ていますからね。この辺りの豪族も熊本の豪族と親戚関係にあったのですかね。

彼らは何かあったら共に戦ったのでしょうか。それとも敵対したのでしょうか。気になります。それから、前回紹介した白山神社があった福岡県糸島市二丈町にも、舟形石棺が出土しています。糸島高校博物館に置かれていました。
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 御見事な石棺ですね。加工がきれいで中には丹が塗られていたそうです。

 ふうむ、なるほど、ですね。三例の舟形石棺を見ました。
 然し、三例の舟形石棺は、「舟形石棺」としてまとめられていますが、違いがありすぎますね。
 どのように理解すればいいですかね。どう見ても、一番古いのは、熊本山石棺のように思います。次は丸山古墳で、最後が二丈町のものですかね。タガネの技術がスゴイですね。熟練工が何処にもいた時代なのでしょうね。
 
こうしてみると、熊本と脊振山地の南側は早くから結びつき、その力は脊振の北にも広がったのですね。では、倭の五王の時代には、熊本の勢力の影響が脊振の南側から北側に広がり、石棺の文化は畿内まで伝播した、ということですか。

石棺はいろいろ語ってくれますね。佐賀県立博物館は、佐賀市の中央・城内に在ります。
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また、明日。

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by tizudesiru | 2018-05-26 23:19 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

祭祀線は弥生時代の福岡から始まった

祭祀線は弥生時代に

北部九州から始まった
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祭祀線って、分かりますか?
むかしの人が御墓を造る場所を選ぶとき、使ったと思われる土地探しの方法です。探したのは、魂が再生する聖なる場所と考えられるところです。そこは、地域の守りの山に抱かれた、清らかな地だったでしょう。そこを見つけるために苦心したでしょう。
山頂はめざす土地を探すための目印であり、聖地だったのです。
結果として、山と墓は動かなかったので、現在もその直線を辿ることができるのです。
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祖先の霊魂を祀ることは、一族の繁栄にもつながると考えられた
祖霊信仰と太陽信仰がともに顕れるのは、宝満山・飯盛山を結ぶ東西ラインでした。

ラインに乗る弥生の三代王墓

そのライン上には、吉武高木・須玖岡本・三雲南少路王墓の弥生王墓がのりますし、この東西ラインは三世紀後半最大の一貴山銚子塚古墳に行きつきます。
こんなことは偶然ではないと思って、「ライン」と名付けながら直線を引き始めました。すると、特別の古墳は地域の神山と結びつくと云うことがはっきりしてきたのです。驚くべきことでした。

その事は、様々な会場の講演会でお話したのですが、手ごたえがほとんどありませんでした。或る時、H教授から「偶然が重なると一つのルールになり、たくさんのルールが集まると真実・定説になる」と慰められました。
そこで、気を取り直して再び地図に直線を引き始めたのでした。

わたしがブログにも載せるようになって、その後、徐々に一般化したのか、最近はあちこちで祭祀線という言葉や、ラインという言葉を聞くようになりました。
わたしは体験的に「祭祀線を引くと歴史が分かる」と思っています。どの古墳がどの山と結びつくのか、どの山がどの地域に信仰されたのか、祭祀線で分かります。すると、その時代の勢力圏・経済圏が見えてくるのです。当然、時代が下がると経済圏は広がりますね。
そこで、文献・伝承・考古学遺物を検討するのです。そして、一定の答えがみつかります。

わたしは、祭祀線を全国の人に使ってもらいたいと思っています。そうなれば「日本の歴史は変わる」と思うのです。用語として、ラインは他のメデアでも使われますから、もっぱら祭祀線に戻りましたね。
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ラインをひいて、そのラインを使うこと
パソコンで6月22日を設定して、ライン上から太陽が上がるのを調べることもできます。上の画像は、鉾立山の夏至の日の出です
。飯盛山の山頂から黄色の直線を引きました。このラインに式内名神大社の住吉神社が乗ります。そこで新たな疑問を解くことになるという展開になるのです。

吉武高木の王族から、須玖岡本の王に権力が移ったので、日知りの山が移動しました。
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⓵吉竹高木遺跡 ➁三雲南少路遺跡 ③須玖岡本遺跡 ④平原王墓 ⑤一貴山銚子塚古墳 と、権力者の墓が造営されていきました。
吉武高木から須玖岡本の時代になると、夏至や冬至や春分秋分の日の出・日の入りの山がはっきりしてきます。この時点で、日知り王と呼ばれたでしょう。
将に、日知り王で日知りの山を持っていたのですから。
この弥生の東西ラインの時代が、魏志倭人伝の前の時代で、倭人がしきりに半島や中国と交流していた時であると、考古遺物からはっきりしています。それなのに、急に、邪馬台国が近畿だとは、考古学的な歴史事実に反します。

さて、次の時代はどうでしょう。
甕棺から箱式石棺へ、そして、石室を持った古墳時代となり、墓制が変わりました。
凝灰岩の石棺を持った氏族は何処で発生し、どのように他へ侵攻したのかも祭祀線で辿ることができました。方々で喋りましたから、ご存じでしょうけれど、確認したいと思います。


そして、ラインは倭国の繁栄と侵略と滅亡までゴーストとして歴史の影を残しているのです。

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祭祀線は、千年以上前に何が起こったのかを静かに教えてくれます。正史に書かれなかった九州の姿を教えてくれるのです。
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歴史のターニングポイントになった白村江敗戦。その後、築かれたという水城です。多くの人民を半島で失って、残った女子供が作ったというのでしょうか、その水城を。
なにより、倭国がなぜ、「筑紫」と呼ばれるようになったのか、知りたいですよね。
そこに、何があったのですか?
この地で、汗と涙を流した人々の霊魂に、本当のことを伝えなければなりません。

また、あとで。

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by tizudesiru | 2018-02-28 14:17 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

倭国の墓制・家形石棺は熊本で発祥

倭国の墓制家形石棺
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(遠景に阿蘇の噴煙が見える。中景は阿蘇火砕流台地の花房台地。菊池川岸に立ち南東を見る)
墓制を見れば、倭国は俀国に滅ぼされたことになる、と前回のブログに書きました。倭国とは熊本の勢力で、邪馬台国を滅ぼした狗奴国であること、狗奴国が鉄をつかって生産力をあげ北部九州を豊かにし、鉄の道具で石の加工をしたことなど、少しふれました。筑紫君の墓制は家形石棺だったことにも触れましたが、それが狗奴国とつながることの説明は足りなかったと思います。
ここでは、そのことを考えてみましょう。では、熊本に集中する装飾古墳の復習から始めましょう。壁画装飾を持つ古墳を装飾古墳とよびますが、その共通性を見つけてください。
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と、公開されている装飾古墳(パンフレットの写真を拡大)を紹介しました。横山古墳は山鹿市古墳博物館に移築されていますから見学できると思いますが、あとは公開の時期でないと見ることはできないと思います。これらの古墳の所在地は、地図で示されています。⑩や⑪は横穴墓と呼ばれる凝灰岩の崖の穴墓で、線彫の装飾が見られます。
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 熊本の古墳はこのような装飾古墳ばかりではありません。何度も紹介したように、狗奴国人は鉄の道具を持った集団ですから、刳り貫き型の石棺を多く造ることができたのです。
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びっくりしますね。宇土市の向野田古墳の女性の骨格です。30歳~40歳で出産経験もある156cmほどの背の高い女性だそうです。骨にハリスの線が見られるので、生前に重金属の中毒などで体がダメージを受けていたようです。石棺に残る水銀朱のような朱丹を人々を惑わす目的で顔や体に日常的に塗っていたことが考えられると、「新宇土市史」の中に書かれています。この本の第一巻のみを宇土市に注文して少し高かったけど買いました。写真はそこから貰いました。
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a0237545_19131288.png向野田古墳は4世紀後半の前方後円墳(89m)であり、竪穴式石槨に舟形石棺が置かれ、鏡3面・腕輪形石製品・玉類・棺外に鉄刀・鉄剣・などが副葬されていました。鏡は方格規矩鏡・内向花文鏡・鳥獣鏡で、弥生の後期に多く副葬されたのは方格規矩鏡(糸島の平原王墓の8割は方格規矩鏡)ですから、向野田古墳はその伝統を色濃く伝えているのです。前方古円墳に女性と確認された人の埋葬は珍しいそうです。それにしても、舶載三角縁神獣鏡を1面副葬された城ノ越古墳より、向野田古墳の築造が遅いとは、どういうことでしょうね。舶載(?)という眉唾な三角縁神獣鏡は4世紀の古墳から出ると聞きますよね。副葬品は古いタイプのセットだが舟形石棺を使用している点から、築造は古墳時代前期の半ばとされているそうです。
 宇土半島基部は熊本県内では最も早く前方後円墳が築かれた地域であり、4群(轟、緑川群・花園群・不知火東、松山群・不知火西部)に分けられていると、市史にあります。宇土市の市史編纂のスタンスは「古墳時代は箸中山古墳(箸墓)から始まる」ですから、最も早い築造とはいえ、畿内より早い設定はありません。それでも、轟、緑川郡の城ノ越古墳(前方後円・三角縁神獣鏡副葬)は3世紀末に属すると書いています。このあとの迫之上古墳(竪穴式石槨・鉄刀、鉄槍副葬)は4世紀中ごろ。不知火西部群の弁天山古墳が4世紀前半とされる他、他の地域はほとんど4世紀後半からの築造とされています。畿内の古墳の暦年代が次々に引き上げられる(その理由も驚きですが)中、九州は一向にその気配はありません。
 ちなみに熊本県の前方後円墳・大型円墳を持つ地域は限られており、9か所が挙げられています(他に小型の古墳群が数多くある)が、次の、①関川(諏訪川)流域 ②菊池川下流域 ③菊池川中流域 ④白川上流域 ⑤緑川中流域 ⑥宇土半島基部 ⑦氷川下流域 ⑧球磨川下流域 ⑨球磨川中流域 以上の地域と紹介されています。
 下写真は、花園町楢崎古墳です。石材は灰色のの阿蘇石です。この古墳には5基の埋葬施設があり、4基が後円部にあります。家形石棺2基・舟形石棺1基です。ここには刳抜式の技術も、組合せ式の技術も使われています。が、石材は馬門石ではありません。
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さて、家形石棺ですが、『新宇土市史』は、「家形石棺という埋葬施設の発案は九州でなされたことは間違いない」といいます。が、宇土市の前期の古墳はほとんどが舟形石棺です。
 そもそも石棺文化はいつ始まったものでしょう。弥生時代の木棺には地域の首長が埋葬されたそうです。古墳時代になると、木棺に粘土郭、木棺に竪穴式石槨、組み合せ式石棺・割竹型雛形石棺(刳抜式)に始まり、中期には横穴式石室に舟形石棺が継続し、組合せ式長持ち型・箱型・家形石棺が加わってくるそうです。後期には、横穴式石室が普及し舟形石棺から刳貫式の家形石棺が出現するというのです。要するに、弥生の組合せ式箱式石棺(一部には縄文時代のものある)は舟形石棺へ引き継がれていて、刳貫式割竹形石棺(?)→舟形石棺→家形石棺、組合わせ式も箱形石棺→長持型石棺→家形石棺 と変化したと言えるそうです。一般に、香川県の「割竹型石棺」が石棺の始まり(白石太一郎・他1985)と言われますが、それが熊本に入ったというのでしょうか。熊本の石棺の変遷を見ると……
 下図は新宇土市史「九州における舟形石棺の分布」です。◆肥前Ⅰ型・◇肥前Ⅱ型・■北肥後Ⅰ型・□北肥後Ⅱ型・●中肥後型・▲南肥後型・◉豊後Ⅰ型◎豊後Ⅱ型・△日向型・〇その他不明 ★石棺製作地。 製作地★は、菊池川下流域・宇土半島馬門・氷川流域になっているようです。
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上図を見ると、菊池川流域の舟形石棺が、矢部川流域の八女地方に入っていることがよくわかります。筑紫君磐井と火の中君は姻戚関係にあったと書かれている通りの分布図です。
では、家形石棺の分布図も見てみましょう。私が筑紫君の墓制だと思っている妻入横口式家形石棺の出自がわかります。
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  同じく新宇土市史「九州における家形石棺の分布」を見ます。〇妻入横口式家形石棺・■平入横口式家形石棺・●その他組み合わせ式家形石棺・◆刳抜式家形石棺 
 上図を見ると、家形石棺は宇土半島基部・菊池川流域に集中し、「妻入横口式石棺」は久留米地方・菊池川下流域・宇土半島基部あり、他には広がっていません。この三地方の強烈なつながりを示すのでしょう。 此処での結論は、「邪馬台国を滅ぼしたのは倭国である。倭国とは熊本の勢力で狗奴国と呼ばれた国である。狗奴国は南筑後から侵入して筑紫を豊かにし倭国と名乗り、首長は筑紫君と呼ばれたが、豊前と協力した肥後の一族内から謀反があり(いわゆる「磐井の乱」)、1年近く戦った筑紫君磐井は豊前に逃れて行方不明になり(風土記)、一族は衰退していった。」ということですが、この筑紫君の首長の墓制が妻入横口式石棺であれば、磐井の乱後には作られなくなる理由はここにあります。また、その家形石棺が、瀬戸内・吉備・畿内に伝播しているのです。それも、阿蘇石が石棺として運ばれているという事実があります。これは、どういうことでしょう。他地域の首長が、遠い九州の石棺を運ばせているのです。九州からの献上品となっていますが……首長が臣下の墓制を取り入れたとは思えません。
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 上の写真は、馬門石(阿蘇溶結凝灰岩)で作られた植山古墳の家形石棺で、ここは推古天皇と竹田皇子の改葬前の墓と言われています。きれいに掃除されていて、副葬品はなかったと思います。
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by tizudesiru | 2015-10-31 16:13 | 128倭国の墓制 | Trackback

28 倭国の空白

28 倭国の空白
 隣国にある倭国の空白の意味 
三国史記「新羅本紀」によると、五世紀に倭が半島に十四回も出兵している
四〇二年・三月に倭人と通好して、奈勿王の子未斯欣を人質として倭に送った
四〇五年・倭兵が明活城を攻める
四〇七年・春三月倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める
四一八年・高句麗と倭への人質が逃げ帰った
四三一年・倭兵が東の辺境を攻めてきて、明活城を包囲したが功なくして帰った
四四〇年・倭人が南の辺境に侵入。夏六月また東の辺境を攻める
四四四年・夏四月に倭人が金城を十日包囲して食料がつきて帰った
四五九年・夏四月に倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い月城を囲んで進撃したが追撃してこれを破る
四六二年・夏五月倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った
四六三年・倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずに去った
四七六年・倭人が東辺を攻める
四七七年・倭人が兵をあげて五道に侵入したが、何の功もなく帰った
四八二年・五月に倭人が辺境を攻める
四八六年・夏四月に倭人が辺境を攻める
五〇〇年・春三月倭人が長峯城を攻め落とした
(この後は長い空白となる)
六六三年・倭の水軍が百済を助ける(白村江戦)
六七〇年・十二月倭国が国号を日本と改める。自ら言うところでは、日の出る処に近いからもって名にした

 同じく三国史記「百済本紀」にある倭国関係記事の五世紀前後は、
三九七年・倭国と国交結び、王子の腆子を人質とする
四〇二年・倭国に使者を送り、大珠を求む
四〇三年・倭国の使者を手厚くねぎらう
四〇五年・腆支王即位
四〇九年・倭国の使者が夜明珠を送る 倭国の使者を熱く礼遇する
四一八年・倭国に白綿を送る
四二八年・倭国に使者を送る
(長い空白期間)
六〇七年・隋の使者が倭国に行くために百済の南路を通る
六五三年・倭国と国交を結ぶ
六六二年・白村江の戦い
 五〇〇年から六〇八年までの間は、半島の国とは何事もなかったのだろうか。どちらも六世紀の倭国関連記述がない。偶然にしては、百年間の空白は大きすぎる。この間に、倭国では何があったのか。五〇二年(梁・武帝即位)倭王武は「征東大将軍」と爵号を進めている。この後である。新羅に出兵を続けた後、新羅も入れて「六国諸軍事安東大将軍」を名乗った武は、どうなったのだろう。急に新羅・百済との関係が切れてしまっている。好太王碑文も三九九年・四〇〇年・四〇四年・四〇七年と倭人の侵出が書かれている。その倭国が、六世紀に突然半島から後退したのだろうか。
 五世紀の百済では中国外交を活発にし、梁から「寧東大将軍」「綏東大将軍」と爵号を受け、聖明王が即位し、新羅と国交を結び、都を泗沘に遷し国号を「南扶餘」とする等、内外的に大変な時期に見える。高句麗の侵入に新羅からの援軍で撃退する事もあったものの、新羅が百済北部に侵入し、聖明王自ら新羅攻撃に出たが、五五四年に敗死する。この後も、百済は陳・隋・唐へと朝貢を続け、なんとか新羅・高句麗の侵入攻撃を打開しようとするが、苦戦し続ける。百済は苦しい内情を幾度も唐の高宗に訴えた。しかし、唐は新羅の理を認めたのである。六五三年に、百済はやっと倭国と国交を結ぶのだが、六六〇年には唐・新羅連合軍により滅亡させられた。救援を頼むのが遅すぎたのだろうか。
 「百済本紀」によると、百済と倭国間には、過去に同じような事が起こっている。その時は、国交を結んで救援が成功していた。
 三九五年に、百済は広開土王と闘うが大敗した。その為であろうか、三九七年、倭国と国交を結び、王子の腆子を人質としている。この後、倭国に使者を送り大珠を求めたり、倭国の使者を手厚くねぎらったりした記述がある。
 四〇五年、枕流王が死去し末弟が弟を殺し王となったため、人質となっていた腆子王子が倭国の護衛により海中の島に待機の後、王となったのである。人質となっていた腆支王の即位を倭国が助けた。全く同じことを、白村江戦いの時も繰り返している。王子扶餘豊が人質として倭国に来ていた。そして、救援の将軍と兵隊を付けて百済に送り帰された。結果は、救援軍の大敗・百済の滅亡であったが。人質を出すとは、そういう事だったらしい。
 しかし、何故、梁・陳・隋・唐へは朝貢し助けを求めたのに、百年間も倭国へ何も言って来なかったのだろうか。倭国側に手助け出来ない状況があったのだろうか。
 九州の倭国に、未曽有の天変地異が起こった。または、政治的事件が起こった。
 考えられるのは、五二七年の磐井の乱である。大和州(移動した神武王権)の王権が、出身地・九州の筑紫の王権を討った。この内乱で、九州の倭国が大打撃を受けたのではないか。それで、隣国へ出兵する余力などなくなった。だから、百済は救援を頼めなかった。百済本紀と新羅本紀は、その事を伝えているのではないか。
 五世紀に高句麗と戦い続け、十四回も新羅に出兵していた倭が、突然全く半島から手を引くとは。倭王武の野心が、「征討大将軍」に満足して消えたとは思えない。同時に、筑紫君磐井が倭王だった可能性も出て来た。では、太宰府の筑紫城に居たのは、父の罪に連座する事を恐れて、糟屋の屯倉を献上した筑紫君葛子だろうか。または、阿毎氏の一族だろうか。
阿毎多利思北孤は、天を以て兄となし、日を以て弟となし、夜明け前に跏趺坐して、政を聴いた。夜が明けると理務を辞め、弟にゆだねたという。その宮殿は、東を向いていたことだろう。低地には無かったと思われる。彼は、筑紫の君の子孫だろうか。
 これ以上、非力の身で言及する事は難しい。その内に遺跡の発掘や、新しい学説が出て来る事だろう。
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by tizudesiru | 2011-09-03 09:46 | 28倭国の空白 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景

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