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丹後半島の大型古墳は倭五王の時代とリンクするのか

丹後半島に出かけたのは、元伊勢皇第神社や元伊勢豊受神社に参詣するためではありません。何より、気になっていたのは「丹後半島の大型古墳は、古墳時代前期で突然消滅する」という博物館側の説明を、確かめに行ったのです。

丹波国と九州の結びつきは、何時?どのように?
とても気になりました。なぜ、突然消滅したのか、何があったのか。大型古墳の消滅と倭五王家の滅亡とリンクするのか。何処に住み、何を経済的背景に持ち、いかにして権力を築いたのか…考える糸口を見つけたかったからです。
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(阿蘇海とは、天橋立の内海の名称です。古代はこの辺りが中心地でした。この広い内海は、天然の良港だったのでしょう)

籠神社や国分寺跡も天橋立の付け根にあります。国分寺跡を訪ねてみましょうか。
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直線的に画面を横切る緑は天の橋立の砂嘴(さし)です。内海が阿蘇海。奥は宮津湾になります。
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国分寺跡の横の寺院で写真を撮りました。
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写真は丹後半島ですが、山地が多く平地が少ないので食料生産では、米以外が考えられますね。それでも、ここは古代の中心地で国分寺も造られました。

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国分寺の基壇が芝生の奥に見えます。

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聖武天皇の天平13年(741)以降、ここに国分寺が建てられたとはいえ、それ以前から人口も集中した場所だったのは間違いありません。
雪舟は、古代の伝承の残るこの地を克明に書き残したのです。

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古代~聖武天皇御代~雪舟の時代と、時は変わっても、ここは丹後の中心地でした。
何ゆえに、かくも長く栄えたのか…それは、やはり海運でしょうか。


すぐ近くに、籠神社がります。もちろん丹後国一宮ですが、「海部氏の系図(国宝)」が有名ですね。
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(籠神社)
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(博物館に「海部氏(かいふし)系図」の複製がありました。この系図には、朝廷に提出した時「改竄無し・偽りなし」などを証明する印がうたれていました。)
当時は、系譜や系図は厳しく検閲されたのですね。
籠神社は海部氏(海人族)の神社だと云うことです。その神社が、阿蘇海の一番奥に鎮座するということは、海運を握った人々が反映させた地域だとなりますね。

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ところで、前々回に紹介した「元伊勢豊受大神社」と同じようなことが、この神社の説明板にも書かれていました。
さて、どちらが「吉佐宮(よさのみや)」なのでしょう。
確かに、ここには奥宮真名井神社がありますね。


では、そこにも行ってみましょうね。また、次回に。
古墳にたどり着くのは、もう少し後になりそうです。

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by tizudesiru | 2018-04-16 11:36 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

卑弥呼も倭五王もタリシホコの登場しない「日本書紀」と「日本旧記」

倭五王の五人目の「倭王武」の行方を捜していました…
倭王興の弟で、478年に宋に上表した倭王武の行方、です。
これまで、倭五王の行方を探してきましたが、結局、影も形もないのです。
なぜ、倭五王の痕跡がないのか。わたしの結論は次の①~⑤のなかの⑤なのです。

①日本書紀の編纂者は、宋書の倭五王をまったく知らなかった。故に、書紀には書かれていない。
➁編纂者は倭五王を知っていたが、8世紀の近畿の王権とは無関係なので正史に書かなかった。
③編纂者は倭五王を知っていたが、書けば歴史上矛盾が生じるのでほのめかすことも避けた。
④編纂者は倭五王のことを史書に書いているが、現代の学者も見いだせない
⑤「日本書紀」は、「日本は白村江戦で唐と戦った倭国とは別国である」と主張し、
唐との外交回復を願って編纂されたものである。当時、敗戦後の倭国関係者もこぞって歴史の改竄に賛同する立場をとり倭国を隠した。故に、倭国関係の卑弥呼・倭五王・タリシホコは、書紀に登場するはずはない。

わたしは⑤を主張しているのです。
自著「太宰府・宝満・沖ノ島」(不知火書房)で、書いています。


そもそも、倭五王は「日本書紀」に登場してはならなかった、のです。

書紀によると、倭王興は雄略天皇と時期が重なります。が、他の倭王達は誰とも重なりません。いずれの天皇にも当てはまらないのです。倭五王の活躍は全く無視された形で、8世紀に歴史書「日本書紀」は編纂されたのです。ですから、後世の学者にとっては、外国の資料と合致しない部分が多い「日本書紀」を読み解くことは難解な仕事でした。

そして、一定の学者たちは、地方の神社仏閣にも「大宝律令(701年)が施行された大宝元年(701年)以前の元号」があることを当然だと思っていたのです。
だから、外国の史書を読んだ江戸時代の学者は「卑弥呼も倭五王もタリシホコもいない日本国」と、別の歴史を持った倭国が日本の古代にあった、と考えたのです。


鎌倉・室町・江戸時代は武家政治でしたが、天皇制も残っていたので、同時に別の王朝が存在するという発想は容易でした。つまり、江戸時代までの学者は「九州年号とよぶ年号を持った王朝があった」と考えることができる状況にいた、明治までは。

もちろん、一般の人々も、古代の王朝を信じていたと思います。古い神社仏閣に「九州年号」と呼ばれた年号を残したからです。それらは、上の命令で書き残されたのではありません。

つい最近まで、人々は自家の歴史や系譜や口伝を持っていました。それらは歴史に揉まれながら、変形したり、ほとんど消えたり、何度か書き写されたり、片言だけ残ったりして現在に至っていました。もちろん、中には何の伝承も無い氏が、祖先を立派な歴史上人物に仕立てたり等、あったでしょう。が、無視できない伝承があることも忘れてはなりません。


問題は明治に在るのです! 明治に、九州の王朝説が消えた
二つ以上の王朝があったと考えることができなくなったのは、明治からです。薩長土肥の功罪は大きすぎました。神社を合祀させ、神宮寺を潰し、修験の山々をはげ山にしました。人々は新政府を信じて「廃仏毀釈」に走り、伝統と文化を破壊しました。そうして、大戦まで走ったのです。
明治を思うと悲しくなりそうです。薩長土肥の暴挙が無くても、日本人は「新世界」を開いたかも知れません。わたしはそのように思っています。ペリーも100年後の日本人を恐れました。「江戸時代の日本人は清潔感と激しい向上心と勤勉さ」を持っていたのですから。
(余計な感傷に浸りました。倭王に戻りましょう)

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歴史を考え直すチャンスは何度もありました

江田船山古墳の「鉄刀の銘文」の発見でも、転機を逃した
熊本県菊池川流域の小さな前方後円墳から鉄刀が出土し、そこに「治天下大王」の金石文が見つかりました。これは、古代史を考え直す大きな転機だったのですが、見過ごされました。
すっかり、九州にあった王朝関係の墓と云う考え方は消えて、近畿の天皇に「大王」を当てようとしたのでした。
「治天下大王」は、「瑞歯別天皇」だとされ、いの一番に「日本書紀」の天皇があてはめられました。
その後、埼玉県で稲荷山古墳より鉄剣が出土して銘文に「左治天下」があったのです。「治天下」「大王」「ワカタケル大王」が共通するとして、「瑞歯別」も「ワカタケル」と訂正されました。5、6世紀に、熊本県と埼玉県のように離れた地域を治めていたのは、奈良県の大王だとなったのです。
ホントでしょうか?


では、奈良県の勢力が埼玉や熊本に入った時期は、いつなのでしょうか? 
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(さきたま古墳群の中で、最も早く造られたという稲荷山古墳)
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稲荷山鉄剣と江田船山の鉄刀には共通点があった「人制」という役職

何度も書きましたが、埼玉の鉄剣と熊本の鉄刀に共通するのは、治天下やワカタケル大王だけではありません。「杖刀」「典曹」と言う役職の「〇〇」が共通します。

「〇〇人」と言う役職は、何処で生まれたのでしょう。列島の西と東で共通するのは、支配者が同じだったからです。「雄略十年に筑紫国には身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉が献じたガチョウを土産に帰って来た。ところが水沼君(みぬまのきみ)の飼い犬がガチョウを噛み殺した。そこで、水沼君は鴻(おおとり)十羽と養鳥人を奉って、罪をあがないたいと申し出た。」
と書かれていて、ここにも「養鳥
」と言う役職が出てきます。

養鳥人を献じた水沼君(*)は筑紫の人です。「人」のつく役職は、九州でうまれたのでしょうね。
*別本では、水沼君ではなく筑紫の嶺県主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ねまろ)という。
いずれにしても、北部九州の人です。更に、呉の使いは、有明海から筑紫に上陸したことになりますね。

有明海とは、近畿王権の使いとしては、異例のコースになりましょう。
身狭村主青は、九州の勢力の使者だったと考えた方がいいのでしょうか。
それとも、ここは書紀編纂者のうっかりミスなのでしょうか。そして、雄略紀には「日本旧記」という史書が出てくるのです。これもミスでしょうか。

百済との友好関係、高句麗との敵対と「日本旧記」
雄略二十一年条に「日本旧記」に曰く『久麻那利を持ちて末多王(またおう)に賜う』と書かれています。
「日本旧記」という史書があったようですね。末多王とは東城王のことで、雄略二十三年には「百済の文斤王(もんこんおう)が薨じたので、昆支王(こんきおう)の子の中から聡明な末多王を選んで王となして、武器と筑紫の兵士五百人を護衛として(百済に)送らせた」と書かれています。筑紫の兵士とは…

更に続けて「この年に、百済の調賦は例年より多かった。筑紫の安致(あち)臣、馬飼臣等船軍(ふないくさ)を率いて高麗を撃った。」

高麗に兵が出ています。筑紫の兵が。
突然「高麗を撃った」と書かれているのです。「百済の貢」の後につづけて、です。


もしかしたら、この辺りには「倭の五王の歴史が隠れているかも知れませんね。
雄略紀には妙に百済との親密な関係が書かれていて、高麗を撃つともあるのです。
ここには、百済本紀からの引用と、日本旧記からの引用があるのです。
「万葉集の冒頭歌」は雄略天皇だし、ここに何かがありそうですね。
この事は、別の機会にふれます。

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まだまだ続きます。
今日は、次のことを云いたかったのです。
日本書紀が正史であるなら、「中国の史書に出てくる卑弥呼も倭五王もタリシホコ」も登場させないはずはありません。中国に見せるために造った正史であるなら、なおさらでしょう。しかし、日本書紀が「日本は倭国ではない」という前提のもとに編纂されたから、中国の歴史書とリンクしないのです。
それが、日本国の出発の基本姿勢だったと思います。亡命百済人を山深くの「こもりく」に隠したのも、中国に見つからないようするためだった、と思います。



ただ、卑弥呼より前の「委奴国」の時代は否定していません。でも、神武東遷は北部九州を避けて、宮崎県の美々津の浜からの出発とした、筑紫には寄り道したとの記述にして、はぐらかしたのかも知れませんね。そこにも、王国はあったのですから。

白村江敗戦後、倭国は占領されました。多くの人は東に逃げたことでしょう。そうして、日本が唐と国交を回復する時が来たのです。
列島の人々は「倭国ではなく日本」として、何処までも考え尽くして、日本書紀を編纂したと思います。

その結果、歴史が混乱したのです。

次は、日本書紀「雄略紀」編纂の秘密についてかきましょう。

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by tizudesiru | 2018-04-04 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback(1436)

倭王済が安東大将軍を望んだ理由

倭の五王は何処に? まだ見つからないのです!

五王の行方を捜すためのいくつかの条件があります
倭王は冊封体制に組み込まれることを望み、軍事に力を入れていた。それは、仮想敵国の高句麗に対抗するためだった。つまり、高句麗と対峙した天皇を探すこと。
倭王は、半島に渡る為ためにも「百済」とは親しくし、高句麗と組みやすい「新羅」には出兵を続けていたと思います。百済にしても、高句麗・新羅の勢力に対抗するためにも倭と友好関係にあることが必要でした。
五王の治世は、賛は22年間、珍は5年間ほど、済は17年間、興は18年間、倭王武は30年ほどでしょうか、武がはっきりしませんが。


中国の宋書の記述で、書紀を見直していますが、やはり、結論は「見つからない」なのでしょうか。探すことが無駄なのでしょうか…それでも、探しています。

中国・半島・列島に関わる年表から、倭王の行方を捜そう
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今回は、倭王済です。443~460年の治世だったとすると、443・444・450・451・459・460(没)と記事が拾えます。
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年表から高句麗関係を抜き出してみる(卑弥呼死後の年表)と、倭王済の時代も高句麗は大国で、中国の影響を直に受けていました。
高句麗の関係記事に、倭王済の治世(443~460)を入れてみました。

263年、魏滅び、晋(西晋)おこる
266年、
倭女王、西晋に朝貢する(壱与の素早い対応が分かる)


302年、高句麗が晋(西晋)の玄菟郡を侵す
316年、高句麗が楽浪郡を滅ぼす。
317年、西晋滅び、五胡十六国時代始まる。東晋おこる
343年、高句麗が前燕に入朝し、叙正される
355年、高句麗、前燕より進号される
372年、高句麗に前秦より仏教伝来
392年、高句麗、公開土王が即位
400年、高句麗、新羅を援助し倭を討つ
413年、高句麗、東晋より叙正される
414年、高句麗、公開土王の碑がたつ
421年、高句麗、宋より叙正
425年、高句麗、宋より進号
427年、高句麗、平譲に遷都
435年、高句麗、北魏に入貢し、叙正される

443年、倭王済が宋に遣使し、安東将軍倭国王となる

444年倭兵が金城を包囲し、食料が付きて帰る
450年、高句麗が新羅を討つ
451年、倭王済が安東大将軍倭国王に進号する
459年倭人が月城に進撃したが、破られる
460年、済没し、世子興立ち、宋に遣使貢献する


463年、高句麗、宋より車騎大将軍開府儀同三司を授かる
484年、高句麗、南斉に入貢


倭王済がどんな時代を生きたか想像がつきますよね。彼は倭王珍が成しえなかったことをやりたいと思ったようです。しかし、大きく高句麗が控えていたのです。


こうして見ても、允恭天皇とも思えません。高句麗の記事が允恭記にはないのです。仁徳紀では既に紹介した「十二年、高麗国、鉄盾・鉄的を献上した」と、「五十八年、高麗国が朝貢した」の二件でした。
では、新羅に関してはどうでしょう。

神功(11)応神(6)仁徳(3)允恭(3)雄略(7)継体(10)宣化(1)欽明(28)敏達(6)崇峻(2)推古(12)以下省略

允恭記「允恭三年、使者をやって良医を新羅に求めた。」「允恭四十二年、天皇崩御。新羅王は天皇が既に崩御と聞いて驚き悲しんで調(みつき)の船八十艘と種々の楽人八十人を貢上した。」「新羅の弔問使が喪礼が終わって帰る時「ウネメハヤ、ミミハヤ」と言った。畝傍山と耳成山を誉めたのであるが、采女と通じたと誤解して報告されたので、使者らは捕らえられた。しかし、間違いであったことが分かり許されたが、新羅の使者らはたいそう恨み、貢上物の品種と船の数を減らした。」

新羅の使者は香具山と耳成山を見たと書いてありますが、ここから允恭天皇の時代に新羅に出兵していたとは読めません。

それにしても、海中の小王国が何のために冊封体制に入り、叙正を望み、新羅への侵攻を続けたのでしょうか。いまいち理解が届きません。百済は隣国とはいえ、海を隔てていますから、親交を深めた理由が必要です。
其の理由は何でしょう。強い同盟国と言うだけでなく、倭国との間に婚姻関係があって同族と思っていたのかも知れませんね。


では、五世紀の後半、
日本中で一番百済系・新羅系の副葬品を持つ古墳は


そこは、熊本の菊池川流域の江田船山古墳です。
ここには冠だけでなく銀象嵌の鉄刀も出土しています。
被葬者は、偉大な首長に仕えたというのです。その首長は何処の誰か?
この江田船山古墳が倭王へつながる道を教えてくれるはずです。

倭王済が何処にいたのか、まだわかっていません。 

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倭王は常に半島を見ていましたが

新羅にしても海を越えてまで倭国に侵攻する意味はなかったでしょう。それより、高句麗や百済との交渉が大事だったと思います。
交渉を間違えば戦争になったでしょうから、遠い倭国にかまけている暇はなかったでしょう。


倭国は中国にとっては小国ですから、ほとんど魅力のない夷蛮の徒であったでしょうね。中国の皇帝にとって、「遠い辺鄙な地域からの朝貢は、天子として天に認められたという証」ではあったでしょう。

まだ続きますが、また次回に。


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by tizudesiru | 2018-04-01 10:43 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王珍が安東大将軍を望んだ理由

438年、倭王讃没して、弟珍立つ

珍は宋に朝貢して、「使時節都督倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と自ら称し、上表して除正を求めました。兄の路線を継承したのです。
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438~443年(?)、倭王珍の治世は5年ほどです。

珍は兄の後を継承したのですから、没したとき高齢だったと思います。彼も高句麗を仮想敵国として軍事に力を入れたようです。
倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国諸軍事の将軍となろうとしたのですが、ここに高句麗の国名はありません。六国は同盟国でも、高句麗は倭にとって敵国だったのです。

さて、倭王珍も一番に取り組んだのが、宋の冊封体制に入ることでした。

438年、倭王珍は宋に朝貢し上表して除正を求めました。
(この後、珍は数年で没し、済が倭王となりました)


443年、倭王済、宋に奉献し安東大将軍倭国王の称号を与えられました。倭は、忠誠を誓いました。百済も宋に入貢しています。済も珍同様、高句麗を入れませんでした。

450年、高句麗が新羅を討ちました。新羅は高句麗の援助で倭を討った(400年)こともありました。が、時が経ち北魏が勢力を拡大したので、おされて高句麗も南下して新羅を脅かしたようです。新羅は身の危険を感じて百済や倭に近づきました。

451年、倭王済は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」を宋から賜りました。宋の文帝紀では、安東将軍から安東将軍に進号(位を進めた)となっています。半島の状況が、新羅も倭を頼り、宋もそれを認めたと云うことです。

新羅本紀によると、倭王は長く新羅と対立していた

倭の新羅への出兵をみると、400年前後は多いようです。400年、新羅は高句麗の援助で倭を討ちました。新羅は高句麗とよしみを通じていたのです。然し、450年、高句麗が新羅を討ちました。その後、451年に倭王が安東大将軍となった後にも増えています。
倭王は新羅を500年まで攻め続けるのです。

新羅本紀の年表で「倭人の度重なる侵攻」を再度確かめましょう。

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高句麗が軍事に力を入れる理由は、中国との関係で度々侵攻を受けていたからです。「中国が出てくる=高句麗が南下する=新羅が百済に侵攻する」
単純な構図ではありませんが、中国の軍事力は強大でした。

結果として、高句麗が倭王の敵国となったのです。


倭王珍は書紀の何れの天皇にあたるか、探してみましょう

数年で没した天皇は、安康天皇(穴穂皇子)です。

安康天皇は允恭天皇の第三子で、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を自滅に追い込んだ人でした。

また、叔父である大草香皇子の妹を「息子(大伯瀬皇子)の妻に迎えよう」と使いを出しましたが、使いが嘘をついて『同族だからと云って、どうしてわが妹を天皇の息子の妻などにできようかと答えた』と報告しました。使いの者は大草香皇子から天皇に献上された『押木珠蘰(おしきのたまかづら)』が欲しかったので、嘘をついて横領したのでした。
嘘の報告をまにうけて安康天皇は怒り、大草香皇子の家を囲んで殺してしまいました。
大草香皇子の忠臣であった親子が『わが君、罪無くしてみうせたまいぬ』と嘆き、皇子の体を懐き殉死するという、無実の皇子の悲劇でした。


更に、悲惨なことに、安康天皇は殺した大草香皇子の妻の中蒂(なかし)姫=長田皇女(ながたのひめみこ)を取り、宮中に入れて皇后としました。
この中蒂姫=長田皇女の連れ子が眉輪(まよわ)王です。大草香皇子の王子でしたが、幼いので母の傍で育てられていました。偶然、父の死の真相を知った眉輪王に、安康天皇は殺害されたのでした。
更に、眉輪王も大泊瀬皇子(雄略天皇)殺されてしまいます。


このような、安康紀の記事には、高麗も新羅も出てきません。

すると、倭王珍は安康天皇ではないのでしょう。では、父である允恭天皇でしょうか。
允恭天皇の治世は42年間となっていて長いのです。短い治世の倭王珍とは考えにくいですね。
では、更に遡って允恭天皇の兄、履中天皇や反正天皇でしょうか。 

その辺りを見ましょう。続きは次回に


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by tizudesiru | 2018-03-31 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

狗奴国から糸島、そして津屋崎に進出したのは、倭王だった

平原王墓の巫女王が、卑弥呼宗女壱与(臺与)なら、その霊力は封じられた
福岡県糸島市の平原王墓の主は、霊力を象徴する鏡を全て割られていた

壱与の次の時代、
 
王位を奪った一族(一貴山銚子塚古墳を築造)の霊力
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次の王は、平原王墓の巫女の霊力を象徴する鏡を全て割り、霊力を封じた
東西祭祀線上に築造された一貴山銚子塚古墳は、糸島では最大の古墳

一貴山銚子塚の主は成功しましたが、一族は支配を確立できたのでしょうか。
彼らの狙いは、伊都国の統括だけではなかったようです。もっと広く世界を見ていたと思います、大陸や半島を、倭王として。

(倭女王から倭王の地位を奪った一族は、伊都国から監視役のような「一大率」や「大倭」という役職を奪ったかも知れません。
*一大率とは魏志倭人伝に書かれた検察権力を持った役職で、伊都国に置かれていました。大倭も魏志倭人伝に出てくる役職で、交易や税を監視していました。

では、一貴山銚子塚古墳の次の世代の端山古墳を祭祀線でみます

端山古墳は柄鏡形の前方後円墳で、一貴山銚子塚と同じ南北の主軸線ですから、同じ一族の墳墓でしょうね。端山の後の世代、帆立貝型の築山古墳が近くに造られましたが、築山古墳は墳丘が小さくなりますから、首長との関わりが薄くなったのでしょう。一族の間で優劣はあったでしょう。

大型古墳が太陽祭祀線上から外れていくのは、太陽祭祀から祖先霊の祭祀へ変わったからではないでしょうか。
古墳の並びや形態を見ると、一貴山銚子塚の一族の中で様々な権力争いもあったと思われるし、権力者が糸島から離れたかも知れません。

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端山古墳からの直線がつながるのは、福岡県福津市の勝浦高原古墳でした。何で、そんなところに?

それは、倭王が海北を目指したからでしょう。
伊都国からではなく、倭王として半島に進出するには、広い船泊と船出の浜が必要でした。最適な場所、そこは、福津市の勝浦海岸でした。勝浦は、津屋崎湾が深く入り込み、天然の良港です。更に船団を組んだ船が一斉に出航するのに最適の勝浦海岸が外海に開いていました。
 端山古墳の一族が津屋崎の広い内海に目を付けたのは、新羅への出兵の為でした。
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(右から勝浦港・草崎(岬)・奥に勝島・更に奥に大島)
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(ひろい田園が広がります。奈良時代には津屋崎湾の一部、ここは海でした。)
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祭祀線は勝浦高原古墳に結び付きます。
三雲南小路王墓~端山古墳~今宿大塚古墳~勝浦高原古墳が直線でつながりました。(今宿大塚は6世紀で、後に造られた)
勝浦古墳群は、北部九州ではこの時期に最も勢いがあったようです。

沖ノ島祭祀をしたのは、勝浦峯ノ畑古墳の被葬者

糸島の大型古墳が衰退した後の世代では、勝浦峯ノ畑古墳が最大規模であり、勝浦地域では勝浦高原古墳が最も古い時期となります。
わたしは、沖の島の岩上祭祀をしたのは、この津屋崎古墳群の人達だったと思います。勝浦峯ノ畑古墳に副葬されていた三角縁神獣鏡は、沖ノ島のものと同范鏡でした。同范鏡とは、同じ鋳型で造られた鏡と云うことです。
岩の上に置かれた奉献品は、同時代の古墳の副葬品と同じだというので「王権祭祀」とされ、その王権がヤマト(近畿)にあったというのが定説です。
近畿の王権祭祀? ホントでしょうか。
確かに、武器や武具を奉献した理由は、単なる航海の安全祈願だけではないでしょう。半島に出兵する際の戦勝祈願も大きかったと思います。だからこそ、船出の地も「勝浦」と呼んだのです。背後の山は「勝浦岳=桂岳」です。


倭五王の時代、草崎(いくさざき=戦﨑)を見て、勝島に見送られながら、若い兵士が半島に渡ったと思います。万感の思いを込めて「名兒山」を見つめたことでしょう。愛しい子(娘)の名を胸に刻みながら。沖ノ島を過ぎると、もう引き返すことはできません。

沖ノ島の岩上祭祀は4世紀半
ちょうど、倭五王の半島出兵とリンクしています。ですが、倭五王は近畿の人ではありません。
兵を集めるには、権力者が集団を支配し、税や戸籍を掌握しておかなければなりません。そして、半島に渡るための舟や港を持たねばなりません。
北部九州や海北の航路を熟知した者にしか、半島進出はできないと思います。

半島進出に倭王がこだわり続けた理由
それは、半島侵攻が目的で北部九州に進出した人々だからです。
そうとしか、考えられません。弥生時代、女王国と戦った狗奴国の人たち。飢饉のために困窮する女王国を見ながら支援せずに、半島への進出を押し通した氏族だと思います。

再度、確認してみましょう

北部九州が早くから大陸や半島と交流があったことは、狗奴国の人も早くから知っていました。狗奴国は有明海から引き潮に乗って五島列島まで渡り、半島を目指したと思います。古くから鉄を求めて、半島へ渡っていたはずです。
倭女王卑弥呼は新羅と友好国となりましたが、狗奴国はどうでしょう。
有明海ルートの他に、更に、海北の航路が欲しかったのです。そこで新羅との軋轢が生じ、それを解消するために半島に出兵することになったので、どうしても北部九州を支配したかったと思います。
そして、新羅を討つつもりだったと。

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193年の大飢饉で、邪馬台国と友好国だったから新羅は難民を引き受けたのです。交流も深かったはずです。だから、突然の侵攻(208)は有りえません。
わたしは、新羅本紀には狗奴国と倭国のことがかき分けられていると思うのです。
大きな権力がなくては出兵はできませんから、侵攻したのは倭人の国に違いありません。
新羅本紀では「倭人」「倭国」「倭女王」と使い分けています。倭国と倭人は別の集団なのでしょうか。新羅本紀の編纂者は意図的にかきわけているのでしょう。
年表を見る限り、「倭国」は663年に百済救援をした国です。「倭人」はずっと新羅に侵攻し続ける国なのです。

a0237545_00341187.png
倭王は「倭人」と書かれた国の王だった

北部九州に進出した狗奴国出身の支配者は、半島進出に心を奪われていました。そのために、狗奴国の進出を嫌って東へ逃げた人々が経済を握り、徐々に力をつけて行くことなど考えもしなかったでしょう。

(以上何度も何度も書いて来たことです)
今回付け加えたのは、半島進出を願ったのは倭五王達であり、かれらの出自は狗奴国である。半島進出の目的を達するために勝浦海岸に進出し、沖ノ島祭祀を始めたと云うことでした。
a0237545_23360122.png

(ためしに、平原王墓と勝浦峯ノ畑古墳を結んでみましょう。すると、糸島地域の兜塚古墳をラインが通りました。このラインが有効なら、兜塚古墳の被葬者は弥生女王と勝浦峯 ノ畑古墳の霊力にあやかりたいと思ったのでしょうね。)

ではまた、明日。
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by tizudesiru | 2018-03-15 01:02 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

倭王の交替・邪馬台国以後の倭王の出自は中九州

わたしは、倭王が何処に住んだのかを祭祀線で探してきました。
すこしずつ、その場所を紹介してきました。

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まず、弥生時代の終焉
上の写真は、ベンガラを塗った祭祀具です。特別の形を特別に製作焼成し、特別の色を塗って特別の場所で神祭りをしたのです。その祭祀具が福岡のあちこちで一か所にまとまって出土しますが、なぜでしょう?
もしや、わけあって一度に破棄されたのではないか、わたしはそう思いました。。壊れたから、一つずつ作りなおしたのではありません。一斉に、強制的に、または集団が進んで破棄したのです。なぜ?
 
北部九州のの国が滅び、信仰が失われたからでしょう。
支配者が変わり、今までの神祭りができなくなったからだ、と思いませんか。
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もう用が無くなった、もう使うことが許されない、祀り手が逃げていなくなった、等々。
とにかく、異常な状況です。その後、組み合わせ式箱式石棺の時代になり、鉄の素環頭大刀が副葬されるようになります。価値観が変わったのです。昔からの支配者がいなくなったか、殺されたか、逃げ出したか、追われたか、社会が変わったのでしょう。


それは、弥生文化の終焉でした

大型甕棺の突然の消滅であり、青銅器の祭祀用武器の埋納でした。

その後、何処の地域の人が権力を握ったのか。とにかく、別の地域の人達です。それは何処か?
a0237545_21365668.jpg
(一度に環濠に投げ込まれた土器だと思われる)
甕棺文化圏を破壊したのは、何処の人か?
それは、鉄を持っていた肥(火)の国の勢力
つまり、倭五王の祖は狗奴国の人

火の国とは、阿蘇山のある国というより、高温の火で道具を作りだす工業国という意味でしょうか。古事記などの逸話からもそう読めます。
さて、その後、火ノ国はなぜ北部九州に侵攻したのか。当然、利権が絡んでいます。
卑弥呼の死後40年ほどで、半島への侵攻が始まっていますから、それを見ると、目的は半島への侵攻です。
狗奴国は北部九州の海を狙っていたのではないでしょうか。

北部九州に侵攻した最初の世代は、生産力の向上に励んだのですね。その後、徐々に力を持ち始めて、ついに半島に侵攻しました、その事を「新羅本紀」は語ります。倭国に関する年表で見ましょう。
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確かに、
三国史記の「新羅本紀」には、倭の侵攻が書かれています。
2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉がありました。


上の年表に、大きな矛盾が見つかりました。邪馬台国を考える上で大きなヒントです。

・173倭女王卑弥呼が新羅に遣使(友好目的でしょうか
・193倭国大飢饉で難民が新羅に入る(友好国に食料を求めたようです
・208倭人が国境を侵す(友好から方針がかわったのでしょうか?)


2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉!!

(飢饉の時、助けを求めて移動できた1000人=半島とつながりの深い北部九州の人、他からの移動は無理でしょう。近畿で飢饉があったとして、人は半島に頼るでしょうか。簡単に渡る航海技術も必要です。それに、何処を通って渡るでしょうか。)
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卑弥呼の国と新羅は友好国でした(173)から、大飢饉の時1000人もの難民が助けを求めたのです。その後、10年で侵略が始まります。なぜでしょうか、友好国としては有りえないことです。

年表をどのように読むか
大飢饉後に人口が回復したのか、
208、232、233年に、倭人は新羅に出兵した。
(この倭人は、北部九州の人でしょうか。恩のある国に侵攻するでしょうか。)
しかし、続いて邪馬台国・狗奴国の戦争が起こり、半島には出兵できなくなった。
そして、
248年の「卑弥呼、以って死す」卑弥呼の死後の40年の空白は、倭国が疲弊したからです。その後、287年、新羅に侵攻するまでに回復した。と読むことができます。

狗奴国邪馬台国戦争の後は、出兵どころではなかった、全てを失った状態が『尽くしの国=筑紫國」になったほど、人々は飢え、新天地を求めて人口は東に流失した(倭人の侵攻で信頼関係をなくしていたので、人々は半島へ渡ることができなかった)。それで、人口回復に40年ほどかかった。


飢饉―人口回復―出兵
狗奴国との戦争―卑弥呼の死ー人口流失―生産力の回復出兵

渡海しての侵攻は、生産力の向上と人口の回復がなければできません。でも、半島出兵の国は、北部九州にあったのでしょうか。

もう一つの年表の読み

➁大飢饉で頼りにした新羅に侵攻した「倭人」は、倭国(邪馬台国)ではない。

173年、卑弥呼が遣使した新羅は、倭国と友好関係であった、のです。
だから、邪馬台国が大飢饉(193年)になった時、新羅を頼りにして大量の人が避難民として渡海しました。
邪馬台国は、近隣の狗奴国を頼るより新羅を頼った、ということです。
倭国は周旋五千余里の狭い範囲でした。その中に、女王国もあったのです。日照りに河川の反乱、倭国の飢饉は広範囲にわたっていたのでしょう。
その小さな倭国連合が、208年に新羅に侵攻できるでしょうか。
ここでの結論は、一つ
208年、新羅に侵攻したのは狗奴国である
狗奴国には鉄の道具があり、生産力が向上していた
狗奴国は、有明海を引き潮と共に南下し五島列島まで渡って、海流にのって一気に半島に向かって北上していたのです。だから、三世紀の始めは、狗奴国は有明海から半島に渡ったはずです。
倭王の宮殿は、有明海に流れ込む河川の中下流にあったと思います。菊池川・白河・緑川流域、いずれも弥生時代からの大きな稲作地帯です。

しかし、狗奴国王は半島や大陸とのつながりを求めて、北の博多湾を使いたかったのです。が、まだ伊都国の存在が大きかったので、結果として狗奴国と倭国連合は対立したはずです。
そこへ、友好国への狗奴国の侵攻。こうなれば、狗奴国と邪馬台国連合は対立するでしょう。
遂に、戦争になり、卑弥呼は楽浪郡に使いを出して解決を模索したのです。しかし、老女だった卑弥呼は戦争の指揮をとることもできず、「以って死す」となりました。

新羅本紀の倭人の侵攻は、「狗奴国の野望」の証し

248年の卑弥呼死後、倭女王国は困窮を極め「尽くしの国=筑紫国」と呼ばれました。当然、出兵は不可能。

40年後、新羅への侵攻が再度始まりました。287,289、292、294、295年ですが、実は、この後の4世紀にも新羅への侵攻が続きます。北部九州の人口は回復していたのでしょうか。
この侵攻を指揮したのは、もちろん倭国連合の王ではありません。新たに「倭王」となった狗奴国の王でしょう。


倭王は、狗奴国王に交代していた

この249~287年の40年の空白ですが、卑弥呼の後を引き継いだ壱与の時代になっています。この空白は何を意味するのでしょう。筑紫国で人々を導いたのは壱与でしょうか。しかし、彼女の国は疲弊しています。
では、彼女は、やはり次の支配者(狗奴国王)に追われたのでしょうか。

壱与は人口流失を止めきれなかった
その為に、倭国を追われた? かもしれません。
何処へ逃げますかね? 中国・四国・近畿でしょうか。
四国には銅剣の密集地があります。銅戈の密集地、銅鉾の出土地と、地域が分かれます。逃げた集団の祭祀具(青銅器)が微妙に違っていると云うことです。それは、一族揃っての移動だったからでしょう。
もちろん、中広形・広形・平形という後期の形態をした青銅製武器です。細形の青銅製武器を持つ九州の弥生より後の時代の青銅器になります。

壱与がいなくなった(死亡・逃亡)ことで、次の男性の権力者が北部九州から半島に進出したと思うのです。自国の繁栄を他国の犠牲によって構築する……権力者の危険な選択でした。

今日は、[狗奴国が女王国と対立したのは、大陸との交渉権をえるためだった]ということ。倭王の祖は、狗奴国の王だったかも知れないと云うこと。倭女王国が半島に侵攻してのではない。これが結論です。
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by tizudesiru | 2018-03-07 11:08 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback


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159草壁皇子の薨去の事情
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163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
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166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
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304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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