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「平成」最後の日に「令和」の弥栄を願う

今日は平成最後の日になりました。
歴代の天皇の中でも国民に寄り添うことを願われたのは今上天皇でした。多くの国民に直接声をかけられた今上天皇が退位されました。平和な時代がこれからも続きますように。
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それにしても、次が「令和」という元号であると発表されたことには驚きました。
「令和」が万葉集・巻五の「梅花歌卅二首幷序」から採用されたと聞いて、更にびっくりしました。

確かに、大宰府の大伴旅人の館で催された正月儀式「梅花の宴」は華やかな宴会で、三十二首の梅を詠んだ歌会です。天平二年正月十三日無官の者から高官の大弐紀卿までが一同に会して「梅花の歌を詠む」という前代未聞の催し事でした。
遥かに離れた都にもその事は伝わり、噂を聞いて宮中はおどろきました。
それまでの都の正月儀式は一月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、十七日頃の「射礼(じゃらい)」などで優雅な歌を詠むなどという正月儀式はなかったのです。

同じ年三月に、聖武天皇は宴を開きました。『天皇松林宮に宴を催す。文章生「曲水の詩」を賦す』とあります。旅人が行ったような優雅な儀式をやりたかったのです。
しかし、前年の長屋王事件の後遺症はまだまだ残っていて、皇后に立った光明子は苦しみ続けていました。宴どころではなかったでしょう。

都では、長屋王事件の後にあらぬ噂が流れ、人々は混乱していました。
それなのに、大宰府では優雅な儀式をしていた…違和感があります。
なぜ、大伴旅人は「梅花の宴」をしたのでしょう。そこが重要です。その旅人の意図を解く鍵は、「梅花の宴」の序文にあるのです。

初春の令月にして、気淑く風和ぐ

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令月の「令」は、漢字本来は「おきて・法律」などのように『神の言葉を以って命ずる』という意味だったのです。後に、それが敬称として用いられるようになりました。今日、ご令息・ご令嬢などと使います。同じように「令月」=よい月 となりましょう。
しかし、もう一つの令月「陰暦二月の別名を忘れてはなりません。
旅人は正月(初春)の十三日に『令月』を使いました。「正月はよい月」という意味ではなく、「陰暦二月」として旅人は使ったのです。正月に「二月を意味する」のはおかしな話です。
二月…長屋王事件は前年の神亀六年の二月に起こりました。
旅人は神亀六年二月に薨去した長屋王を偲んだのです…「天平」に改元されたのは半年後の八月でした。神亀から天平(天が反逆者を倒し平らげたの意味)に改元されました。
つまり、天平二年は「天平に改元されて初めての正月』です。
旅人は大宰府で長屋王を偲び続けていたのです、おくびにも出さずに。

梅花の宴

そこにあるのは、前年二月に謀反のかどで死に追い込まれた長屋王への追悼の思いでした。九州の古代王権が行っていた正月儀式を、高市皇子の長子である長屋王の霊魂を鎮めるために再現したのです。そうして、九州に所縁のある長屋王を偲んだと、そうとしか思えません。


そもそも、「梅花歌卅二首」は万葉集・巻五置かれているのです。
巻五の冒頭歌は、旅人の名歌「絶望と怒りの歌」、『大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首』からはじまるります。その793番歌、

よのなかは 空しきものと しるときし いよよますます かなしかりけり


この歌の強さ「悲しかりけり」と感情を率直に述べながら、深く「世の中は空しきもの」と述懐する歌、このような歌はこれまでに有りませんでした。その歌の表現の新しさに、編者が感動したかもしれません。それで、冒頭に持って来た・・・
いえいえ、そうではなく、巻五には編者の思いがあふれています。
次に794番歌として、続くのは山上憶良の歌。旅人の妻への挽歌『日本挽歌』なのです。巻五はほとんど、挽歌と雑歌がないまぜ状態ですね。
憶良の「貧窮問答歌」も巻五です。巻五は、冒頭から最後まで重く悲しい歌が連続しています。(巻五の最後は、憶良の「死亡した我が子・古日を恋うる歌」なのですよ)

これで、巻五がどのような意図で編集されたか想像に難くないでしょう。「梅花歌三十二首」は、巻五に掲載されています。それが、重く沈む歌群の中に異彩を放っているのです。


少し長くなりました。
長屋王事件について、少しスライドで補足しました。
旅人については、このブログ「大伴旅人、水城にて乙女と別れの歌をかわす
に詳しく書いています。読んでみてください。

令和の弥栄を祈らずにはおれません。
大伴旅人も柿本人麻呂も、自分がどんなに苦しい立場に追い込まれても、人生が終わろうとしていても、世を寿ぎ世の弥栄を願う歌を詠みました。それは歌人として、言霊を信じる歌人として、当然のことだったのでしょうか。

敷島の倭の国は言霊のたすくる国ぞ真福(まさきく)在りこそ  (人麻呂)
新しき年の始めのはつはるの きょうふる雪の いやしけよごと (家持)

では、令和の佳き日にお会いしましょう。
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by tizudesiru | 2019-04-30 12:47 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

卑弥呼が九州から消える日・縄文から始まる

とうとうその日が来るのですか。誤解から始まった邪馬台国近畿説が、国家の歴史として決定される日が。何と恐ろしい! 真実がみえなくなり、歴史はゆがみます。

箸墓が卑弥呼の墓だという信じられない説を一般化した畿内説学者は、文献や考古資料では「邪馬台国九州説を撲滅することは出来ない」と知っています。
「文献では邪馬台国は読めないから、読まない。」と言い出して半世紀以上が経ちました。
(文献で読むと九州説が有力だからです)
それで、考古資料で邪馬台国を探すとして、40年の長きにわたり奈良を掘り続けたのに、頼りの纏向遺跡ですら時期が怪しくなってきました。残念ながら。
そこで、登場したのが東北・関東の見事な縄文遺物でした。
長い縄文、短い弥生、そして、怒涛の如く古墳時代に突入する東国。「その状況が近畿と似ている」 として、ここに目が付けられました。

分かりますか? 豊かな東国の縄文文化と融合して畿内の弥生は花開き、卑弥呼の神祭りが生れた、と展開するのです。畿内で卑弥呼は生まれたとするのです。
身震いがします。
確かに東国・東北の縄文文化は素晴らしい。
その基礎があったから稲作が入り、古墳文化が怒涛のように入っても、消化し古墳文化を花開かせたのです。
明治の日本と同じです。江戸時代の寺子屋教育が浸透し国民が学問をしていたから、明治の教育は浸透し、近代国家へと移行できました。
文化の浸透⇒近代的国家は、基礎教育があったからこそ可能だったのです。
同じことが言えます。豊かな縄文があったからこそ、弥生と古墳文化が素早く入り込んだのです。もちろん、畿内にも基礎があったのです。
そこへ、九州の弥生後期の文化・更に古墳文化が入って、王権が誕生したのです。


令和元年に合わせて、いよいよ始まりました。あちこちで話をしてきました『縄文ブームは卑弥呼畿内説の準備である」と。
ついに「邪馬台国九州説」をつぶす時期だと考えたのですね、当局は。
このままでいいのですか?

昨年2018年の夏、

東京国博で「縄文展」開催され、噂の縄文のビーナスが展示された。 周囲では、ビーナスが揃う機会はめったにないから見に行ったという話が流れていた。
私は見に行くつもりはなかった。

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本当に縄文の土偶だろうか、という思いと、急な縄文ブームにいささかの疑問を感じていたからです。なぜ、縄文が急に脚光を浴びるようになったのか。

当局の意図は、素人の私にも分かりました。準備のための印刷物が出回っていました。
図版・図録・パンフ・すべて、当局の物は同じ方向を向いています。
ですから、素人にも分かりやすいのです。


(写真は縄文展の図録をデジカメで撮ったものです)
貴方は、この写真を見て不思議に思いませんか?
私は縄文のビーナスに対して非常に違和感を覚えていました。


「土偶は不思議だ。大量に発見されているのに、完品はない。体の一部が必ず失われている。それは病気などで体の悪い所を治すためのまじないの為らしい。遮光土器もあれもまじないの一種だろうか」という話は昔からありました。

土偶の前面に付けられた文様が深い祈りと結びついていたと、私はそう思っていましたから、文様がほとんど彫り込まれていない、然も、土偶として割損部のないビーナスを『縄文土器』として認識するのに抵抗がありました。
青森の飛行場で売っていた土産物の遮光土器も片足が欠けていたし・・・文様に覆われた完品ではない土偶が「土偶」の本来の姿ではないでしょうか。

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遮光土器には文様の窪みに朱が残っていますから、本来は赤い色が塗られていたのです。そうしてみると、ビーナスには朱の後は有りません。高温で焼しめられた土の肌は黒光りさえしています。
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はっきり言えば、焼成温度が高いのです。そういう技術があった時期のものです。
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形の完璧さからして、時期が古くは有りません。
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見事な造形美を堪能できます。しかし、文化のレベルは古式ではありません。
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それにしても高い芸術性と焼成技術が備わっています。
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群馬県藤岡市の博物館の耳飾りを見ても、細かな細工が壊れていません。完形で風化もほとんどありません。これは、焼成温度が高く、製作技術も工具も充実していた証拠です。簡単なことです。いわゆる縄文時代とはいえ、新しいのです。長く縄文が続き熟成していた証拠です。
そこへ、九州の文化が入って来た。古墳時代になって更に色濃く九州の文化が入って来た、のです。
畿内王権が入って来た時、戸籍や行政区などの基礎ができていたから、たやすく統治できたのです。関東の文化は、九州の影響を色濃く受けています。

そんな分析は抜きで、畿内と東国を結びつけた。
その作業が続いていましたが、いよいよその路線が国民に向かって披露される。
日本の歴史の書き換えと上塗りが始まるのです。

その情報発信に駆り出されているのは、NHKです。最近のNHKには、公平さが無くなりました。もともと公平ではなかったけれど。小泉政権の頃から極端になったと思いますが。
当局に都合のいいところだけ放送する。国民の目と耳を一定の方向にもっていく、朝飯前の仕事です。


今日は、心からがっかりしたので、ブログを書きました。
先ほど、
「水曜日の『英雄たちの選択』は縄文だったよ。近畿の縄文は長くゆっくり続いたんだって」と、一言聞きました。
私は出かけていたので、そのTVを見ていません。


かねてより危惧していた事態が、いよいよ現実になると思いました。
若者も老人も「令和で新しいことが起こる」と期待しています。
そこへ、この「九州説つぶし」の激震が用意されているのです。
そう思ったのは、私だけでしょうか。これを読んで、あなたはどう思いましたか。


このような事態にならないようにと、私は願っています。どうぞ、的外れでありますようにと。TVの再放送を見て、再度かんがえるつもりです。では。


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by tizudesiru | 2019-04-27 16:08 | 365令和元年・卑弥呼が九州から消える | Trackback

令和元年・万葉集を読む in 西原村

歴史カフェ阿蘇「令和元年、万葉集を読む」は、明日です。
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今回は、万葉集の編集についてのお話です。
万葉集は、誰が何のために編纂編集させたのか。
もちろん、持統天皇が人麻呂に編集を詔したのですが。
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持統天皇が孫の軽皇子を即位させるには困難がありました。
軽皇子には多くのライバルがいました。天武天皇の皇子達です。
そして、皇位継承者選びや方法に問題があったのです。
それをクリアするには、皇位継承の正統性を主張する必要がありました。
・・・・万葉集で読み解きましょう。

では、熊本の西原村でお会いしましょう。場所は、西原村萌の里の近く、平田庵というソバ屋さんの隣です。
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では、明日。

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by tizudesiru | 2019-04-23 22:55 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

大伴卿の最後の日・初期万葉集が家持に渡る

大納言大伴旅人は、天平三年七月に没しました。
大宰府を離れたのは、天平二年の十二月でしたから、自宅に帰って半年後に薨去となったのでした。
万葉集には旅人の最後の歌が残されています。

三年辛未(かのとひつじ)に、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首

969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
970 さすすみの来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行て手向けむ


天平三年の秋七月二十五日、旅人は永眠しました。六十七才だったようです。
萩の花が詠まれていますから、詠歌の時は秋であり、病床にあったのでしょう。自分が生まれ育った故郷・明日香を懐かしんで詠んだものです。故郷の飛鳥の川の淵は、浅くなって瀬になっているのでなないだろうか、と。
あの懐かしい小野の萩の花を手向けたいものだと、旅人は詠んだのでした。


巻三には
「天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨の時歌六首」があります。余明軍の五首と県犬養宿祢人上の一首です。

454 はしきやし栄えし君の居ましせば 昨日も今日も吾を召さましを
455 かくのみにありけるものを萩の花咲てありやと問ひし君はも
456 君に恋 痛(いた)もすべなみ蘆鶴(あしたづ)の ねのみし泣かゆ朝夕にして
457 遠長く仕へむものと思へりし君にしまさねば こころどもなし
458 みどり子のはひたもとほり朝夕(あさよい)に ねのみぞ吾泣く君なしにして
 
459 見れどあかず居ましし君が紅葉(もみじば)の 移りいゆけば悲しくもあるか


旅人の薨去は、息子の家持にとって将に人生を変える出来事・大事件でした。父の永眠と共に「初期万葉集」が家持の手に渡りそれを読み理解し守る役目が回ってきたのですから。
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そもそも、万葉集は持統天皇の詔勅により柿本人麻呂が編纂編集したものだと、紹介してきました。孫の文武天皇に「皇統の正統性と歴史を伝えるための教科書」として、持統天皇が作らせたものであると。
それが持統天皇の遺詔となり、人麻呂は主人の思いに応えようと努力したのでした。
しかし、文武帝に進呈する前に、当の帝の崩御となったのです。
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人麻呂は母の元明天皇に献上しましたが、それが元明天皇の逆鱗に触れたのでした。万葉集には皇統の真実が記されていましたから、元明天皇には許しがたい内容でした。
天智天皇の娘として、草壁皇子の妃として、文武天皇の母として極位には着きましたが、天武天皇の皇子皇女があまた存在する中での即位でしたので、何かと臣下の動きが気になっていた時期でもあったのです。
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どこかに不安を抱えていた元明天皇。そこで、御名部皇女が支えます。
周囲も二人の堅い結びつきを疑いませんでした。
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天武朝と元明天皇を支え助けたのが、姉の御名部皇女です。御名部皇女は高市皇子の妃、薨去していたとはいえ太政大臣であった高市皇子の正室なのです。高市皇子は天武天皇の長子で、財力権力を掌握していた人でした。その絶大な財力も大きな支えとなったでしょう。

しかし、二人がこの世を去ると皇位を巡って政変が続きました。
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待っていたように政変が続いたのでした。 
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そうして、天武朝の皇統は消えていきました。
それが万葉集の時代です。その時代を目撃したのが、大伴家持。


こんな万葉集のお話をしようと計画しました。「令和元年・万葉集を読む」
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会場は、熊本県西原村・萌の里の近く、平田庵の隣です。昨年の「歴史カフェ・聖徳太子の謎」と同じ場所です。
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赤い道路が高森線のバイパスです。
宜しくお願いします。


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by tizudesiru | 2019-04-15 00:49 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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98北部九州のミステリー
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101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
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131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける

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