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丹後半島・竹野川下流に間人皇后は身を隠したのか

古代の丹後半島は、高貴な人が身を隠す場所だった?
雄略天皇が兄の市辺押磐(いちのへのおしは)皇子を射殺したので、その遺児の憶計(おけ)と弘計(をけ)王が、真っ先に逃げた所が丹波国の余社(よさ)郡でした。ここから播磨の赤石郡に行き、名を「丹波小子(たにはのわらは)」と改めて、針間の縮見(しじみ)の屯倉の首(おびと)に仕えた(日本書紀)、とあります。

間人皇后も丹波国に逃げた
丹後半島の間人(たいざ)に在るのが、聖徳太子の母・穴穂部間人(はしうど)皇后の避難の伝承です。
丹後半島の北の景勝地、間人(たいざ)に行きました。

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砂浜の先に見えるのが竹野川の下流にある立岩です。
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立岩の辺りの海、夏はこのような美しい海になるのです。
立岩と向き合うのが穴穂部間人皇后の母子像です。
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用明天皇の皇后だった穴穂部間人皇后は「蘇我物部戦争」を避けてこの地に避難したと云うことです。
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まず、間人(たいざ)の役所に行きました。そこで、間人皇后の伝承と祭について聞きました。知っている人が少ないようでした。
皇后伝承の祭りは、間人町(たいざまち)の祭りではなく「個人的な、少数の家の人が続けている祭」だそうです。

役場で「間人皇后に所縁ある場所かも知れない」ところ、「御所の坪」という意味ありげな場所を教えてもらいました。
役所の方とお寺の方に教えてもらった場所は、家一軒ほどずれたでしょうか。でも、ほぼ同じ所でした。

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早速、行ってみました。
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祭の御神輿は、三柱神社から出るそうです。
奥の鳥居が三柱神社です。海からの斜面を上り詰めた所に神社があります。
「御所の坪」は、だいたい海と神社の間にあるようです。海に向かって降りましょう。

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「御所の坪」という小字(こあざ)の地名に付きました。
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そこは狭い空き地でした。集められたお地蔵さんが置かれていました。
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阿波国二拾三箇所の石塔が建てられていたので、ここにお詣りすれば二十三カ所を巡礼したことになったのでしょうね。

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お寺の奥様のお話によると、伝統の祭りを行っているのは、東さんと言う方々だそうです。祭の案内板は、先ほどの役所の筋向いにありました。

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小さな祠が水無月神社のようです。謂れが書かれていました。
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川すそ祭りは、ここの「水無月神社」で行われているようです。

祭を執り行っている人達は、竹野川を中心とした交通運輸の仕事をしていて、その神として水無月神社を祀って来たそうです。

此処に用明天皇の皇后・穴穂部間人皇后が「蘇我物部の乱」を避けて、大浜の地に避難したという伝承があると書かれていました。祭を執り行っているのは、皇后について来た供人だと云うことです。

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間人の川すそ祭の謂(案内板に書かれていること)
間人と書きて、タイザと読む

不思議のいわれを調べ、我が東氏の由来を探求しここに明文にする。水無月神社は内外の浜なる後ヶ浜川尻に鎮座す。東氏の祭神たる水無月神社は、東氏の遠い先祖より毎年七月二十八日(旧暦六月二十八日)に竹野川の川尻松林に同族相集い、夜を徹して神前に篭り、立岩厳頭に御幣を掲げ、かがり火をこうこうとたき盛大にして賑々しく、斎宮神社の桜井宮司の司祭にて祭神せるものなり。竹野川の川尻松林に大太鼓を叩く響きはしょうらい(松風の音)と共に木霊し、善男善女の参拝は引きも切らず、また妊産婦の参拝は特にに多し、露天は軒を並べ、客を呼ぶ声も高く世の更けるを忘るる程なりしが、敗戦後は髪を軽んずる風潮を生み我が水無月祭も疎となりたり。されども、東氏の遠き祖先より祭事せるものを廃断するは誠に遺憾にして、祖先に対し相済まぬ儀と心得、またこの伝統ある祭事を子孫に伝える義務ありと思料し(中略)神社を行者岩の境内地に昭和51年11月6日千遷宮せるものなり。

間人に於いて各種氏姓あれど一つの氏のみが一つの神事をし、年に一度同族が相集う行事は吾ら東氏のみにして他姓にはなし。

東氏のみが何故何時のころからかかる行事を行いしにや不明なれど、古き昔より口伝を以って相伝え今日に至れるものなり。水無月神社は東氏のみにて祭事せるも、その講中に只一人異姓に者あり。泊氏なり。何故泊氏が東氏請中に加わりしにや不明なれど、往古よりともに祭事す。‥‥我が間人は第31代用明天皇の御后穴穂部間人皇后を通じ大和の国斑鳩の宮との所縁あり。東氏の祖先を明らかにするため古事記、日本書紀またその他の文献より左に明文する。

10世紀の和名抄には間人、大日本地名辞典には「間人は愛人のこと」、土師人の意かとも言い、15世紀の一色軍記には「対座」とあり、丹後旧記には田伊佐津とある。現在の定説は、間人村濫觴記なり。(前掲)東氏の鼻祖は東漢直駒の後胤にして、千余その血脈は二流三流に別れ連綿として繁茂せり。また木目見宿祢は相見となり、浦田麿の子孫は谷、上谷、下谷、小谷と称し、下戸部は下戸に、穂見中江麿は中江に、中臣スグリは中村となる。その外記するに枚をもて挙げるべからず。千余連綿として子孫の繁茂黄するはみな鼻祖の余訳なるべし。水無月神社の祭りを司っている。
上記のように案内板に書かれていました。

「間人(たいざ)がに」で有名な「間人(たいざ)」ですが、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)ゆかりの旧跡であると、「丹後町史・間人村濫觴記録」が伝えているそうです。

聖徳太子の母であり、用命天皇の后であった間人皇后が、夫の死後、蘇我馬子と物部守屋の争いに巻き込まれ、丹後の地に難を避けて、大浜の里(現在の間人村)に滞在したそうです。
この時、間人皇后に仕えて同行した中に、後に蘇我馬子の命令で崇峻天皇を暗殺し、その後天皇殺しの罪で蘇我馬子に惨殺される東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)がいました。東さんはその末裔と称されているそうです。

聖徳太子と蘇我馬子に物部守屋が滅ぼされて、間人皇后は大和の地へ戻ることになり、その時、大浜の里を離れる時に三首の歌を残されました。

大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行末栄ふ 人の間人

間人皇后が大浜の里を退座するのに因んで、間人(退座)村と宛名したと、「間人村濫觴記録」が伝えています。間人=はしうど(はしひと)と呼んでは失礼だというので、「退座された地」と云う意味で「たいざ」とよぶことにしたのだそうです。
残された三首を見ると、後の世の人が作歌したとも思えますが。

日本書紀では、
敏達天皇の十四年(585)八月、敏達天皇崩御。九月、用明天皇即位。
用明天皇一年(586)穴穂部間人皇女を立てて皇后と為す。
  二年(587)四月、天皇、仏教への帰依を詔す。天皇崩御。

   六月、蘇我馬子、炊屋姫尊を奉じ、穴穂部皇子と宅部皇子を殺させる。
   七月、蘇我馬子、物部守屋を滅す。
   八月、泊瀬部皇子(崇峻天皇)即位。

上のように展開していますから、穴穂部間人皇女が間人(たいざ)に逃げたのは、587年の5月(6月)から8月の間と云うことになりますね。
皇后が大浜の里に滞在したとしても、三ヵ月ほどになるでしょう。

間人(たいざ)の間人(はしひと)皇后は、用明天皇の妃でしょうか。

穴穂部間人皇后は、直接「日嗣・皇位継承」に関わってはいないように思います。馬子は後の推古天皇を奉じていますし、間人皇后は用明天皇崩御後に用明帝の長子の田目皇子の妃になっているからです。

田目皇子の母は、蘇我稲目の娘・石寸名(いしきな)です。用明天皇の母は稲目の娘・堅塩(きたし)媛でした。用明天皇は、叔母を殯として迎えたのですね。蘇我系の皇子に皇位継承権があったようですね。
 
欽明天皇の有力な皇子皇女の出自は、ほとんどが蘇我氏となっています。

欽明紀では、蘇我稲目の娘・小姉君が生んだのが、埿部(はしひと)穴穂部皇子で兄、即位した崇峻天皇=泊瀬部(はつせべ)皇子は弟になります。書紀の欽明紀では「はしひと」を埿部と表記しています。

古事記では、間人穴太部(はしひとのあなほべ)王、長谷部若雀(はつせべのわかさざき)命となっていますが、埿部穴穂部皇女に当たる女性としては三枝部穴太部(さえぐさのあなほべ)王=須賣伊呂杼(すめいろど)、ですかね。
 
古事記・日本書紀では、人名表記に差異があります。これは、元の資料が違っていると云うことですね。

では、本題です
間人皇后はなぜ丹後半島に逃げたのか
確かに、穴穂部間人皇女も、兄と弟の皇位継承問題にかかわって身の危険を感じたかも知れませんね。それで、三カ月ほど逃げた…ですかね。
(それにしても、田目皇子の妃となったのは何故でしょうか。蘇我系の皇女は外に出さない、外の氏に「皇位継承者の血統」は渡さないという蘇我氏の意思なのでしょうか。「血統こそが財産」の時代ですからね。)

それとも、穴穂部間人皇后ではなく、有間皇子事件を目撃した中皇命(間人皇后)が皇位継承の御璽を持って、兄の中大兄皇子から逃げたのでしょうか。
数年後、見つけ出されて連れ戻されて、その後…薨去となり、葬儀の後に母の斉明帝と合葬され、遂に中大兄皇子が即位した、と云うことでしょうか。
そうであれば、
大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣の ひかり見るかな

「またも日嗣のひかり見る」この別れの歌の意味も分かる気がするのですが。

では、この辺で。


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by tizudesiru | 2018-04-27 20:30 | 346丹後半島に間人皇后の足跡を追う | Trackback

九州の影響を受けた赤坂今井墳丘墓・古代の丹後半島に残された謎

丹後半島には古墳時代前期からの墳丘墓が残っているそうです。
その初期古墳には、木棺に丹が使われ、鏡が副葬されています。つまり、それらの古墳は「鏡文化圏」の墓だと云うことです。
もちろん、近畿には弥生時代の鏡は出土しませんから、古墳時代前期に「鏡文化圏」の影響を受けたと云うことになります。
では、

丹後半島の初期古墳「赤坂今井墳墓」を紹介します
墳墓と呼ぶのは「この墓は、古墳時代のものではない。もっと古い墓だから古墳とは区別するので墳丘墓だ」の意味があるからです。
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さて、そこまで古いのでしょうか。

方形の墳丘に竪穴慕があり、木簡に朱が用いられ、勾玉の装飾品を身に着けた人が眠っているという、赤坂今井墳墓です。

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墳丘の上には伐られた木の切り株が残っていました。

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副葬品を見ると、鉄刀がありますが、「素環頭大刀」でも「素環頭刀子」でもありません。鉄刀です。
ですから、ここは弥生の墳丘墓ではありません。
然し、朱を用いているので、九州の弥生文化の影響を受けていると思います。

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丹後半島やもっと広い範囲の丹波國の墓から出土した鏡は、「倭製鏡」とされています。国産なのです。鏡を欲しがった人の為に、何かを熔かして作ったのです。丹波國の近くにこの時代の銅山はありませんから、手持ちの銅製品を熔かして国産の鏡をつくったのです。

その製作時期ですが、大量に銅製品が丹波に持ち込まれた可能性として「女王国と狗奴国の戦争」の後が考えられます。敗者が船で祖先から伝世の銅製品を持って移動したと。

鏡制作者は、景初三年(239)の女王卑弥呼の魏への遣使を知っていました。丹波国で出土する「青龍三年」銘の画文帯環状乳四神鏡、「景初四年」銘の斜縁盤龍鏡など、その知識を持って製作したのでしょう。
(斜縁盤龍鏡の「斜縁」とは、「三角縁神獣鏡」のように縁が三角になったもので、三角縁との違いはあまり分かりません。)

しかし、卑弥呼の遣使年・景初三年(239)に少し遅れるという意味で「景初四年」としたのでしょうが、実は景初四年は存在せず「正始元年」に変わっていたという事実を鏡制作者は知らなかったのです。


「景初四年」銘の鏡が出土したのは、由良川流域の「広峯15号墳」(前方後円墳40m)です。副葬品が多いわけでもなく鏡・玉・鉄剣などで、埴輪も葺石もありません。
専門家は、首長墓かどうかも疑わしい、としています


でも、由良川は福知山から大阪に通じ、昔は勅使も通う交通の要衝でした。古代も重要な交通網に入れられていたと思います。ここを拠点にした豪族は豊かだったのです。
古墳時代の豪族が、最高の物を墓に入れようとして手に入れた「鏡・玉・剣(鉄)」は三種の神器に通じ、九州の弥生文化にルーツがある三点でした、ということですね。

丹後半島の旅で最初に訪れた元伊勢の皇大神社も豊受大神社も由良川流域にありました。
由良川水系には、大川神社もあります。
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(由良川流域の大川神社
立派な社殿の大川神社(延喜式内名神大社)です。由良川が、古代より「大川」と呼ばれたと云うことですかね。では、ここが幹線道路の拠点であり、由良川が最重要河川だったことになりますね。

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豊かさを象徴する社殿でした。

甕棺・壺棺を持つ墳丘墓
由良川水系の前期古墳には、組み合わせ式石棺のみではなく、木棺、壺棺、何と甕棺があるのです。宝蔵山4号墳(方墳・東西25m南北20m)など。

何と甕棺です。それも4世紀後半です。
九州の甕棺の伝統がここまで及んでいるのです。
わたしは納得しました。
丹波国は海運を通して、北部九州と深い関係にあったと。九州からの大きな波は、3世紀後半から4世紀前半にかけて押し寄せた。それから、5~6世紀にかけて大きな波が押し寄せた、と。
まず、由良川水系に入り、それから竹野川水系の奥深くにも入り込んだ。その中で有力者が丹後半島の有力者と結びついて阿蘇海にも顔を出したのではないか。
色々なことを思いました。
丹波国には歴史のトビラを開く大きなカギが散らばっていましたね。
温泉も豊かだし、景色もよかったですね。

明日は、間人の穴穂部間人皇后伝承についての紹介です。
では、また。
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by tizudesiru | 2018-04-26 12:10 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の大田南古墳・方格規矩四神鏡に青龍三年の文字あり

青龍三年(235)が刻まれた鏡は、竹野川流域で出土した
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この鏡は、卑弥呼の時代のものでしょうか。
この地の豪族の墓からの出土ですから、この鏡は卑弥呼の時代の状況を教えてくれるのでしょうか。
では、鏡の出ない畿内と結びついたのではなく直接中国と交流した? または、北部九州を通して交流した? それとも、後世に「青龍三年」という年号を刻んだ紀年銘鏡を造った?…いずれでしょうか。

大田南古墳(京丹後市弥栄町・峯山町)を訪ねましょう。
そこは、竹野川の河岸の丘にありました。

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川岸の丘陵の上に大田南古墳群25基がありました。
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大田南5号墳は残されているのですが、土取り作業があっていて見学不能でした。事業者の方に古墳の位置を教えてもらいました。

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(指先の木立の丘に大田南5号墳があります)

この丘陵には、近世の砦址(矢田城跡)があるという認識で土取りの前に調査をしたのだそうです。
すると、近世の柱の下から古代の石棺が出土し、そこに鏡があったので急きょ土取り箇所が変更され、大型古墳を潰して小型の大田南5号墳が残されることになったのだそうです。
「で、その大型古墳は何処にあったのですか?」
「そこですね。」
と教えられた場所は、大きな空間でした。つまり、もうすでに消滅し空中に幻の古墳(大田南6号墳)となっていました。


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(消滅した6号墳・古墳時代前期後半・石釧・鉄製刀子・ノミ、針状の鉄製品を出土)
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(レンタカーの後ろの空間に幻の大田南6号墳があった)

というわけで、案内板をカメラに納めました。

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残された写真を見ると、大田南5号墳が一番高所に在ります。最高の待遇と云うことでしょうか。ここではほぼ同じ氏族の古墳が営まれたということですね。一族の最高位を5号墳の被葬者に譲った、となります。

2号墳からも画文帯環状乳神獣鏡が出土していますが、やや低い位置に墓が造られていますね。

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5号墳の方格規矩四神鏡については、現在では日本製との見方が有力です。
同じ鏡が、安満宮山(あまみややま)古墳・大阪府高槻市からも出土しています。


確かに、文様も日本的だと思います。ですが、「青龍三年」という紀年に意味を見出した豪族だったと云うことです、5号墳の被葬者は。

後の世になって「青龍三年」を選んで鏡に刻ませたのですから、その年号の意味を承知していたのではないでしょうか。

2号墳の被葬者も画文帯神獣鏡を得ています。この鏡の鈕は、「龍」なのです。ただの紐を通すだけの「鈕」ではありません。このような鈕は他に例がないそうです。

竹野川を治めたであろう豪族は、過去の権力者の動向について知識があったと思います。もちろん、北部九州の出来事も権力の移動や興亡も知っていたでしょう。
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(大田南2号墳から出土した画文帯環状乳神獣鏡)

大田南古墳群の被葬者達は、支配していた竹野川を見下ろし、自分の領地(弥栄町と峯山町)をみて長い間そこに眠っていました。

5号墳は組み合わせ式石棺で、2号墳は木棺です。彼らの時代、竹野川中流域の豪族は、鏡の文化にあこがれていたのでした。すると、どの地域から手に入れた鏡でしょうか。
気になるところですね。

明日は、竹野川流域の羽衣伝説を紹介します。
では、また。

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by tizudesiru | 2018-04-23 11:58 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

大型古墳が集中する竹野川流域に豊受大神を祭る神社

大宮売神社の例祭にも大刀振り神事と笹囃し
大宮売神社は、延喜式内名神大社です。ここでも、籠神社と同じ神事が古くより執り行われています。

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案内板を見ると、大宮売神社のご祭神は、大宮売神・若宮売神です。
(この神社の説明板には、「六世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱で造酒司(みきつかさ)にも奉斎され…」とありました。「四世紀に、ヤマト王権が日本を統一した」という認識ではないのですね。)
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石碑を見ると、大宮賣神=あめのうずめの神、若宮賣=とようけの神
と彫られています。古い神が天鈿女神で、新しい神(若宮)が豊受大神というのです。そうですか…ここも、豊受大神が祀られているのですか。
籠(この)神社の元宮は、奥宮の真名井神社でしたね。

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前回、籠神社の奥宮眞名井神社(比沼眞名井神社)の紹介をしましたが、比沼麻奈為神社が京丹後市に在ります。比沼麻奈為神社も延喜式内社ですが大社ではありません。同じ「ひぬまない神社」というので、双方の社殿を直線で結んでみました。
すると、大宮売神社がラインに乗るので「これは祭祀線なのかな」と思いましたが、ラインは大宮売神社本殿の南の参道を通っていたのです。
大宮売神社は本殿が動いていますが、大幅に移動したとは思えませんので祭祀線と断定することはできません。
が、三か所共に「豊受大神を祭っている」のは、意味深だと思います。

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比沼麻奈為神社にも行きました。
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さて、ここにも他の豊受大神を祭る神社と同じよう伝承が残されていました。
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本殿にもお詣りしました。
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籠神社の奥宮でも、ここでも「豊受大神」を祭っていた
或る時同時に「豊受大神」を祭れなくなった。それでも、ここは分霊を祀ることを願ったのですね。籠神社は祖先神に祭神を変えましたが、ここは変えなかったのです。
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いにしえの御祭神の逸話の虚実は、今では判断できません。
然し、ここが「ひぬまない神社」と呼ばれて、豊受大神を祭っていることは重要だと思います。天照皇大神を祭る神社は日本中に広がりましたが、ここは古代から豊受大神を祭ったのですから、そこには歴史の重みがあると思うのです。
大宮売神社の傍を流れる竹野川は高低差がほとんどなく海までが緩やかに流れています。竹野川流域は、この川によって潤ったでしょう。農作物だけではなく物流も、竹野川が左右したと思います。この地の豪族は大きな富を得ていたようです。
丹後半島の大型古墳は竹野川沿いに集中するのですから。

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大宮売神社の近くにも古墳群が集中します。群衆墓ですね。
力を持った集団がいたと云うことです。
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上の地図を見ると、中央を南北に流れる竹野川に大型古墳や古墳群が集中することが分かります。

ここに、文化と経済が発達してのです。政治の中心は何処でしょう。丹波道主は、主要河川・主要道路を抑えていたのですから、この竹野川沿いにも一族が住んだでしょうね。群衆墓の集中からして、大宮売神社の近くに住んだかも知れません。

その宗家が海部直氏なのでしょうか。丹波国という広い地域を治めていた氏族は、いつどのように消えて行ったのでしょうね。

次は、この地の伝承と古墳を訪ねます。

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by tizudesiru | 2018-04-20 11:05 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

前漢鏡を伝世する籠神社は、北部九州とつながっていた

籠神社の祭祀を司る祀職に在るのは海部(あまべ)氏
祝部(はふり)家の神殿深くに秘められた後漢鏡と前漢鏡
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天の橋立に守られた阿蘇海は天然の良港です。籠神社の祝部(はふり)の海部氏は古代よりこの地に住み、歴史の紆余曲折を見て来た家系なのです。
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この宮司家には、二面の伝世鏡がありました。前環境と後漢鏡です。将に、北部九州の弥生の甕棺の副葬品です。近畿では弥生の漢鏡は出土しませんから、北部九州と結びついていたという他ありません。
丹波国の国造であった海部直(あまべのあたい)氏は、海運によって九州と結びつていたのです。
然し、その事は秘されていた? 古代にも、公表するには問題があったのでしょう。「海部氏勘注系図」には、その鏡の由緒が書かれています。

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海部氏の系図(国宝)
平安時代には、海部直氏の系図は検閲されていたのです。余計なこと書かせない為でしょうか。系図(国宝)に押された丹後國印は、検閲の証拠と思います。
海部直氏が系図を残したのは、その出自に対する並々ならぬ思い入れがあったからです。丹波国の主であった宗家が祝(はふり)に落とされる時の無念が込められていると思います。では、その事態をなぜ受け入れたのでしょうか。

その答えは、籠神社の祭事から読めそうです。

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四月二十四日(古来、四月の二の午の日)例祭は、葵祭とよばれていますが、元は「藤祭」といいました。この神事を御蔭祭や御あれ祭とも呼んでいます。

山城(京都市)の一宮「賀茂別雷神社」や「賀茂御祖神社」でも、四月の二の午の日に御陰祭が行われ、四月の二の酉の日に「葵祭」が行われますが、共通しています。

ただ、籠神社の「葵祭」は「二の午の日」ですから、賀茂別雷神社の「二の酉の日」より、午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)ですから三日早いのです。つまり、籠神社の方が「葵祭」が早いので格上だとわたしは思います。
一般的に、神社で「神楽」が奉納される日も、格上の神社からほぼ順番に日が下がっていますから。


では、籠神社の祭事に戻ります。
奥宮眞名井神社の例祭は十月十五日(古くは、九月十五日の満月の日)であり、豊受大神には「月神」としての一面もあると云うことです。また、五節句(一月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)のうち、七七,九九との深い結びつきがあるとか…古来中国に於いては奇数が陽、偶数が陰ですから、その思想と結びついているのですね。

御蔭神事(「元伊勢籠神社御由緒略記」より)
『海部直氏の極秘伝によれば、之は奥宮の元初の御祭神豊受大神の御生まれの祭りとして発祥したが、後に豊受大神を祭った海部直氏に祖神彦火明命が、宿縁により現身の丹波道主命となって天下蒼生御稜威(みいづ)を垂れ給う神事と伝えられる。
此の御神事(御渡り)には、大刀振神事と云う典雅勇壮な特殊神事が遠く貞観年中から行われている。更に、神代から伝えられている鶺鴒囃し(ささばやし)の古儀も行われるが、これは爺と孫(男子)、即ち祖孫共演の篠竹のはやしであり、弥生期農耕社会の一つの習俗を伝える極めて貴重な神事であると云われている。
また、現在は中絶しているが、塩土の神が彦火火出見の為に籠船を造られた故事によって、「塩土の舞」と稱された神楽、また、彦火火出見と浦島太郎に因んだ「兒の舞」という神楽のあったことが古記により知られる。
また、眞名井神社の例祭には豊受大神に深い由縁を持つ、五穀神事という古儀が伝わっている。』


大刀振神事とは、意味深ですね。そして、塩土の神ですか。なるほど。
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今日は、籠神社と海部直氏の深い縁を紹介しました。
何より北部九州とのただならぬ結びつきを確認いたしました。
では、また。

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by tizudesiru | 2018-04-18 23:00 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の籠神社の祭神の交替は倭五王時代とリンクするのか

五王時代の痕跡を求めて、丹後半島を旅しました。
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古代においても大型古墳を築くには、経済力と統率力と技術力と人口密度などが関係してくるはずです。何の権力も経済力も無い地では大型古墳は造れません。
と、云うことで、丹波の国の古代の中心地を見ています。


丹波国のころ、古代の中心地は何処だったのかというと、律令時代は籠神社・国分寺のある国分や府中の辺でした。そこは天橋立の北の浜近くです。(7世紀になって急に中心地になったのではなく、古くから栄えていたのです。)

古代からの中心地に在る籠神社の現在の祭神は、彦火明命、相殿に豊受大神、天照大神、海神、天水分神となっています。

吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた頃の主祭神は、豊受大神。天照大神と共に四年間祭祀し、天照大神に続いて豊受大神が伊勢に移った後、天孫彦火明命を祀ったと案内板にありました。
元々の祭神は、豊受大神だったのです。(主祭神が何度も変わったのですね。)
元宮は奥宮真名井神社ですが、何故かごたごたしています。
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「神代の昔より奥宮真名井原に豊受大神を祀って来た」と案内板に書かれていたので、籠神社より徒歩で10分ほど離れている奥宮眞名井神社に行きました。
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奥宮真名井神社が、籠神社の元宮です。

この地の籠神社を守って来たのは海部氏で、大化改新までは「丹波国造家」でした。つまり、大化改新によって国造から「祝部(はふり)」へと変えられたのです。更に、その系譜を残した「海部氏の系図」(国宝)に押された印は、「丹後國印」であることが判明し、丹後国庁に提出して認知を受けたものであることが分かりました。祝部家系図が検閲を受けていた理由は何でしょう。
系図に高貴な出自であると書かれることを畏れたのでしょうか。それとも、海部氏の系図には重要なことは省かれ、公にしてもいいことが書かれていたのでしょうか。

系図によれば、海部直氏の始祖とされるのは「天照国照彦火明命」、籠神社の主祭神です。

天照国照彦火明命は『先代旧事本記』によると、彦火明命=饒速日命であり、天磐船に乗って河内の哮峯(いかるがのみね)に天下ったとされています。
籠神社の伝承と共通点がありますね。では、海部氏も「物部氏」の系譜と云うことでしょうか。
ここは饒速日の神社、石上神宮や大神神社ともつながりがあるのですね。

眞名井神社にも、「天岩船」という磐座が祀られています。

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元々の祭神は、豊受大神でしたね。
元宮は奥宮真名井神社だったと書かれていました。
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眞名井神社は、ちょうど工事中でした。これ以上神域には進みませんでしたので、ご神体の磐座に参拝しませんでした。

もともと眞名井神社には本殿はなく、磐座を直接祀っていました。
現在は、磐座の近くに寄ることも、写真撮影も禁じられているのです。心無い行為をした人がいた為に、このような残念なことになったと云うことでした。

丹後国一之宮・総社「元伊勢籠神社御由緒略記」を見ましょう。

眞名井神社=匏宮(よさのみや)吉佐宮・与謝宮・久志濱宮)
   別稱 豊受第神宮・比沼眞名井・下宮元宮・元伊勢大元宮)

『神代より、奥宮の真名井原に
匏宮(よさのみや)といい豊受大神が鎮座していたが、十代崇神天皇の三十九年に大和笠縫邑から天照皇大神が遷座したので豊受け大神と共に祭祀していた。
十一代垂仁天皇の二十五年に天照皇大神が伊勢に遷座した後、二十一代雄略天皇二十二年に伊勢度会郡の山田原に豊受大神も遷座となった。


眞名井原の吉佐宮は、大化改新まで丹波国造家であった海部氏が、大化改新以降「祝部(はふり)」として守って来た。

天武天皇の白鳳十一年に、海部氏が宮名を「与謝宮(よさのみや)」から「籠宮(このみや)」に改名し、彦火火出見尊を主神として祀っていた。

元正天皇の養老三年に、本宮を奥宮眞名井神社の地から現在の本宮の地へ遷し、海部直愛志(えし)が祖神・彦火明命を主祭神とし、天照・豊受の両大神、及び海神を相殿に祀り、天水分神を合わせて祭るようになった。』


以上が、おおよその縁起の内容です。

眞名井原縁起に書かれていること、意味深ですね

①豊受大神が伊勢に遷る…天照は他所から来た神で伊勢に移ってもいいのでしょうが、豊受大神は本来眞名井原の祭神だから、神が奪われたことになりますね


➁大化改新まで丹波国造家であった海部氏が、大化改新以降「祝部(はふり)」として吉佐宮を守って来た…海部氏は国造家の地位を奪われたのでしょうか。


③天武天皇の時代に、海部氏が宮名を「与謝宮(よさのみや)」から「籠宮(このみや)」に改名したとは、変更したのか、変更させられたのか、どちらでしょう。

④元正天皇の養老三年、奥宮眞名井神社の地から現在の本宮の地へ遷った…丹波国の重要な神社となったのでしょうか?

⑤彦火火出見尊を主祭神としていたが、祖神・彦火明命に主祭神を変えた…祭神を変え、宮地を変える理由があったはずです。


現在に至るまでの間に、籠神社には祭神の入れ替えなどの大変革が何度もあったのです。そこに政権交代が見え隠れしませんか。
神代・古代・大化改新・天武天皇代・元正天皇代と、幾度もありましたね。

その事を伝える貴重な神社なのですね、籠神社は。

神代・古代の変化は、倭五王とリンクするのでしょうか。
祀職の海部(あまべ)氏は、系図では「海部直(アマベノアタイ)氏」となっています。直(アタイ)という姓(かばね)を持っていますから、古代の有力氏です。
大化改新の頃、確かに大変革ですが、丹波国造は黙って従ったのですね。

(余談ですが)
元宮の眞名井神社は工事中でしたので、参詣は遠慮しました。

が、眞名井神社の噂の石碑は見ました。確かに「三つ巴」の神紋がはめ込まれ、元の神紋は替えられていました。

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2013年くらいまでは、「三つ巴」ではなく「籠目紋」=「六芒星」の神紋が彫られていたそうです。イスラエルの六芒星と似ているというので「日本人とイスラエル人の祖先が同じ証拠」という話をする人もいたようです。
(岩手県のヘライ(?)神社でも「六芒星」の神紋を見ましたね。30年前に)

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丹後半島と倭五王との接点を探し続けています。
では、今日はここまで。


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by tizudesiru | 2018-04-17 23:20 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の大型古墳は倭五王の時代とリンクするのか

丹後半島に出かけたのは、元伊勢皇第神社や元伊勢豊受神社に参詣するためではありません。何より、気になっていたのは「丹後半島の大型古墳は、古墳時代前期で突然消滅する」という博物館側の説明を、確かめに行ったのです。

丹波国と九州の結びつきは、何時?どのように?
とても気になりました。なぜ、突然消滅したのか、何があったのか。大型古墳の消滅と倭五王家の滅亡とリンクするのか。何処に住み、何を経済的背景に持ち、いかにして権力を築いたのか…考える糸口を見つけたかったからです。
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(阿蘇海とは、天橋立の内海の名称です。古代はこの辺りが中心地でした。この広い内海は、天然の良港だったのでしょう)

籠神社や国分寺跡も天橋立の付け根にあります。国分寺跡を訪ねてみましょうか。
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直線的に画面を横切る緑は天の橋立の砂嘴(さし)です。内海が阿蘇海。奥は宮津湾になります。
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国分寺跡の横の寺院で写真を撮りました。
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写真は丹後半島ですが、山地が多く平地が少ないので食料生産では、米以外が考えられますね。それでも、ここは古代の中心地で国分寺も造られました。

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国分寺の基壇が芝生の奥に見えます。

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聖武天皇の天平13年(741)以降、ここに国分寺が建てられたとはいえ、それ以前から人口も集中した場所だったのは間違いありません。
雪舟は、古代の伝承の残るこの地を克明に書き残したのです。

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古代~聖武天皇御代~雪舟の時代と、時は変わっても、ここは丹後の中心地でした。
何ゆえに、かくも長く栄えたのか…それは、やはり海運でしょうか。


すぐ近くに、籠神社がります。もちろん丹後国一宮ですが、「海部氏の系図(国宝)」が有名ですね。
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(籠神社)
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(博物館に「海部氏(かいふし)系図」の複製がありました。この系図には、朝廷に提出した時「改竄無し・偽りなし」などを証明する印がうたれていました。)
当時は、系譜や系図は厳しく検閲されたのですね。
籠神社は海部氏(海人族)の神社だと云うことです。その神社が、阿蘇海の一番奥に鎮座するということは、海運を握った人々が反映させた地域だとなりますね。

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ところで、前々回に紹介した「元伊勢豊受大神社」と同じようなことが、この神社の説明板にも書かれていました。
さて、どちらが「吉佐宮(よさのみや)」なのでしょう。
確かに、ここには奥宮真名井神社がありますね。


では、そこにも行ってみましょうね。また、次回に。
古墳にたどり着くのは、もう少し後になりそうです。

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by tizudesiru | 2018-04-16 11:36 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

元伊勢下宮豊受大神社・福知山市の元伊勢神社

伊丹から高速道(大阪宮津道)を使って、元伊勢と言われる豊受大神社に行きました。
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(伊丹空港に到着5分前の大阪)
晴れていましたが、気温は低かったです。
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元伊勢下宮豊受大神宮。旧号を、与佐宮。
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ご祭神 豊受(とようけ)大神  相殿 日子番能邇々杵(ほのににぎ)命

四所別宮 多が神社・土之神社・月読宮・風之神社

本殿の周りに摂社がずらりとありました。
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この豊受大神社は、京都府福知山市に在ります。日本海にそそぐ由良川の支流の宮川沿いに。更に上流は二瀬川となり、二瀬川を上りつめると「大江山の鬼退治」で有名な「酒呑童子の里」に届き、そこには「日本の鬼の交流博物館」があります。酒呑童子の里近くに、元伊勢外宮豊受神社と元伊勢内宮皇大神社があるのは、なかなか意味深ですね。

元伊勢外宮豊受大神社が、ここに祀られた意味は何でしょうね。
そこで、青・ピンク・黄色の三本の祭祀線を引いてみました。
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「延喜式」とは、醍醐天皇の延喜年間に作られた「式」と呼ばれる行政の細則のことです。その中で、神社の取り扱いも細かく決められました。
朝廷から幣を奉られるべき神社を「式内社」として、神名が書き込まれ、中でも大社・中社・小社など、社格が決められていました。

神社の取り扱いや、神官などについての決まりごとがありましたが、
名神大社となると、国司や勅使が幣を捧げる重要な神社と云うことです。

元伊勢豊受大神社がいくつもの名神大社とつながるのは、ここが重要な神社である証拠とも言えます。

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神社が鎮守の森に隠れると分かりにくい時がありますが、石上神宮と摩氣神社は本殿を通るのが分かりますね。

丹後半島は今でこそ高速道路で簡単に行けますが、昔は遠い異界だったのでしょうか。酒呑童子の鬼退治の話や、小式部内侍の「大江山 いく野の道の遠ければ まだ文も見ず 天のはし立」という歌もあります。遠い所だったのですね。
春の丹後半島は本当にきれいでした。


明日は、不思議な「山神社」について報告しましょう。
丹後半島の温泉、最高に良かったです。


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by tizudesiru | 2018-04-13 12:04 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の古墳時代

丹後半島周辺を旅行中です。

丹後半島は古墳もなかなか面白いですね。
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この辺りの埴輪は、ちょっと違ってます。何処から伝わった形でしょうね。
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自宅に帰ったら、紹介したいと思います。


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by tizudesiru | 2018-04-10 12:00 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島を旅行中です

丹後半島に来ています
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日本三景のひとつ天橋立。
このみごとな砂嘴の内海は、阿蘇海です。外海が宮津湾。

天の橋立の付け根には、元伊勢籠神社があります。
なんだか、いろいろな意味がありそうですね。


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半島を廻って間人にも行きます。

ここが、伝承通りに穴穂部間人皇后が一時隠れた場所なのか、又は、わたしが主張するように孝徳天皇の皇后、間人皇后が隠れた場所なのか、確かめに行くのですが。
果たして、どうなりますか。


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by tizudesiru | 2018-04-09 12:00 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
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31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
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38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
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106宮地嶽古墳と石塚山古墳
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109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
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147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代

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