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万葉集は持統天皇の勅で編纂された史書だった

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:11 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

万葉集3・4番歌は、もともと難波天皇の儀式歌だったのではないか

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:08 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

天智天皇御代には優雅な歌、天武天皇御代には壬申の乱の後遺症

万葉集は、文武天皇のために編纂された「皇統の正当性と歴史」を伝える教育書であり、歌物語であるという立場で「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。
今日は、㉙から始めます。
16~21番歌が天智天皇の御代の歌であり、22~27番歌が天武天皇の御代の歌である。そこには、詩歌はどのように詠まれているのだろうか。


万葉集巻一・天智帝御代と天武帝御代では、詩歌の編集意図が異なる


16~21番歌は、額田王4首)大海人皇子(1首)井戸王(1首)が詠んだ天智天皇の御代の詩歌で、宮廷の文化行事と近江遷都が詠まれている

*ここには百済救援「白村江敗戦」は詠まれていない。

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㉙ 巻一の「近江大津宮御宇天皇代・天命開別天皇・諡して天智天皇という」という標でまとめられ、此処に置かれている詩歌は、16~21の額田王四首と大海人皇子一首と井戸王一首である。

16番歌 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して春山の万花の艶(にほ日)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)い憐れびしめたまふ時に、額田王が、歌をもちて判(ことわ)る歌 」

17番歌「額田王、近江国に下る時に作る歌」、18番歌 反歌 

19番歌「井戸王が即ち和(こた)ふる歌」

20番歌 「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌」 21番歌「皇太子の答えたまう御歌」

額田王は天智天皇の御代で大きな活躍をしていたということである。娘の十市皇女は、大友皇子の妃となって御子をもうけていた。親子ともに近江朝では幸せだったのである。

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㉚ 17・18番歌。おや、近江遷都の時、額田王が別れを惜しんだのは、天香具山ではなく、三輪山である。では、王家の本貫の山は三輪山だったと云うことになろうか。

饒速日の山だったことに。

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㉛ 天智天皇代に、額田王と大海人皇子の有名な蒲生野の歌もここに掲載されている。

20 茜さす 紫野ゆき 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

21 紫の にほへる妹を にくくあらば 人嬬ゆへに 吾れ恋めやも 

この歌は、天智天皇の遊猟(御猟)の時の歌である。

天智天皇の御代には、宮廷の文化的な行事の歌が掲載されている。

次の天武天皇代に詩歌はどのように詠まれているか


㉜ 天武天皇御代。次の王朝の明日香清御原宮天皇代の歌は、22~27の六首で、十市皇女が伊勢神宮に参赴する時に吹芡刀自が作った歌、麻續王が流される時の人の哀傷歌、それに和する歌、天皇御製歌、或本の御製歌、更に天皇御製歌となっている。 

22番歌 「十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まゐで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹芡刀自(ふぶきのとじ)が作る歌」で始まる。これを当時の読み手は、どう受け止めただろう。


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㉝ 十市皇女が伊勢に参赴する時の歌

22 河の上の ゆつ磐むらに 草むさず 常にもがもな 常(とこ)処女(おとめ)にて

天武四年、大伯皇女が伊勢の斎宮となったので、阿閇皇女と共に十市皇女も伊勢を訪れた。この時、吹芡刀自が作って奉った歌である。壬申の乱後、近江朝の総大将の妃であった十市皇女が、夫を失い子の葛野王を連れて天武帝に引き取られた後に行われた伊勢神宮への参赴であった。「水量の多い河の中にある聖なる岩々には草も生えていない。その岩のように常に変わらずありたいものだ。ずっと乙女であるように」

十市皇女は常処女でいることはできなかった。それゆえ、天武7年に宮中で突然命を絶ったのだろう。天武天皇は、十市皇女の薨去に対し、嘆き悲しんだ。本来なら、近江朝の皇后となったかも知れない人の、はかない人生を嘆いたのかもしれない。天智朝を倒した天武帝は「敵将の妃だったとはいえ、娘に再び幸せになってほしい、やり直してほしい。」と願ったのか。十市皇女の運命を知る当時の人は、壬申の乱の悲劇を思い出し、胸を痛めたに違いない。


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㉞ 天武天皇の御製歌25・26番歌は、吉野からの逃亡の歌である。壬申の乱は、天武天皇にとって、人生最大の難局だったのである。

27番歌の『芳野よく見よ』の歌は、十市皇女の薨去の翌年の天武八年「吉野行幸」の時の歌である。皇太子決めをするための「吉野盟約」が行われたとされる時の歌である。然し、この後の歴史の展開を見ると「皇太子決め」だったとは読めない。ただ、天武天皇の大喜び・歓喜の歌から、吉野行幸は特別だったに違いない。それは、暗黙の裡に皇太子となっていた草壁皇子のみならず、天武と天智の双方の皇子が兄弟の契を交わして対等になった「喜びの会合」だったからではないだろうか。永年の重荷を下ろしたという…更に、大津皇子も極位を望むことができると、天武天皇は考えたとわたしは思う

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壬申の乱による後遺症の歌以外には、麻績王の流罪の時の哀傷歌がある。
麻績王がどんな罪だったのか分からないが、世の人は彼に同情したのである。
当時の人には、説明がなくとも事件の顛末は分かったであろう。このように、天武天皇代の歌に宮廷の華やかさはない。
むしろ、悲劇の歌が掲載されている。



天智帝と天武帝の御代では、編集意図が違いすぎる
天智帝と天武帝の御代で取り上げた歌の扱いは、真逆である。
短い天智朝では王家の行事が歌われ、長い天武帝の御代では「皇女の悲劇」など壬申の乱の後遺症が詠まれている。この編集の違い、これはどうしたことか。此処に、持統天皇の本音が見えてくる。


そして、これが文武天皇に伝えようとした皇統の歴史なのである。


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また、明日。

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:07 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

持統天皇の御代に人麻呂は登場し、天皇の傍近くで活躍した

 初期万葉集は、柿本人麻呂が編纂した。持統天皇の勅を受けて文武天皇のために「分かりやすい皇統の歴史書」として完成させたが、文武天皇の崩御により元明天皇に献上する他なかった。然し、元明天皇は激怒し、人麻呂は刑死することになった… という立場で、「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。

今回は㉟からで、持統天皇の御代の歌になります。

持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか

 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎

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 持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。

巻一の28番歌の題詞には「藤原宮御宇天皇代、高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年 軽皇子に譲位  尊号太上天皇と曰」と書かれている。そして御製歌。

28 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香久山

万葉集の秀歌であるが、叙事詩とすると『耐え忍んだ冬が終わりやっと春が来て、その春も過ぎいよいよ夏が来たらしい。氏神の香具山に神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の皇統の時代になったのだ。』と読んだ。持統帝が実権を握ったのは晩年だったが、これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのだ。だが、一体、いつ詠まれたのだろうか。歌の意味と即位後の持統帝の行動とがかなり結びつかないのである。


律令政治に切り替えた持統天皇は、吉野行幸を繰り返した
 持統四年(690)即位、持統帝はそれまでの天武天皇の皇親政治を止め律令による政治を目指したらしく、太政大臣(高市皇子)と右大臣(多治比嶋)の儀政官の任命をしている。自分の時代には天武天皇の政治は引き継がないと、やりたいように政(まつりごと)をするという決意の表れでもあろう。

だが、それにしては天皇が都に居ないのは何故だろうか。持統帝は常にお出かけしているのである。吉野行幸だけでも三十数回ある。他にも親しい明日香皇女の田荘に行幸、紀伊行幸や伊勢行幸と在位中に留守が多いのである。天皇が不在でも行政は役人が行うであろうが、宮廷の祭事や神事はどうだろうか。天皇の吉野行幸は多すぎて、即位後に持統帝による神事が定期的に行われたかどうか疑わしいのだ。即位は持統四年で称制期間の三年を経た後であるが、行幸の回数を見てみよう。

持統三年の三月から吉野行幸が記録されている。三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)、  年に三回から多い時には五回と、回数の多さに驚かされる。
持統天皇は、何を考えていたのだろう。


持統天皇が作ろうとした教育書は、軽皇子の為だった

草壁皇子が薨去した年、持統天皇は皇子達の教育のために「撰善言司」を置き教科書造りを始めた。何より軽皇子(文武天皇)の為であったと思われる。

持統天皇は皇子達に良い教科書を与えようとした⇒万葉集に発展したのではないか

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㊱ 
持統天皇が即位したのか、しなかったのか、様々な説がある。年表を見ると天武天皇崩御の後、三年間空位であった。そこで持統帝は何を考えたのか。持統三年「撰善言司」を置くとあるが、目的は何だろうか。

草壁皇子の死後、皇統のための歴史書・文武帝や他の皇族の為の教科書が必要だと持統帝は思った。完成しなかったのは、他の方法を考えたからではないか。持統帝は真剣に教育書が必要だと思っていたのである。万葉集は、この「教育書としての役割を担って編纂された」と私は思う。

年表から、高市皇子太政大臣に任じすべてを委ね、紀伊国へ行幸したと読むことができる。

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人麻呂は持統三年には登場し、持統天皇の傍近くで詩歌を献じ続けた

㊲ 持統天皇の御代は圧倒的に歌の数が多い。柿本人麻呂の活躍も大きい。
 柿本氏の出自は、天足彦国押人命の後、敏達天皇の御世家門に柿樹があったので氏名とした。(姓)祖は孝昭天皇皇子、天押帯日子命(記)。天武十年(681)十二月と、和銅元年(708)四月の柿本猿(佐留)との関係も論じられている。

万葉集で年次の明らかなものは、持統三年(689)の日並皇子殯宮挽歌、同十年、高市皇子殯宮挽歌、文武四年(700)明日香皇女殯宮挽歌が挙げられる。ただ、天皇に対する挽歌はない。また、人麻呂は、和銅三年以前に没したというのが定説である。

人麻呂作歌(長歌19、短歌69)人麻呂歌集(長歌2、短歌332、旋頭歌35)人麻呂の歌中(短歌3)此の数の多さから、万葉集の編纂者は人麻呂以外に考えられない。

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持統天皇の御製歌の次の歌は、近江朝を偲ぶ歌

持統天皇代、圧倒的にこの御代の歌が多いので、「持統万葉」などと「初期万葉」は呼ばれている。持統天皇代の歌を見てみよう。

「藤原宮御宇天皇代・高天原廣野姫天皇・元年丁亥十一年 軽皇子に譲位す・尊号を太上天皇と曰」とあり、「春過ぎて」の有名な歌に始まる持統天皇代の歌が並ぶ。持統帝代の詩歌の題詞をあげてみよう。{☆は、人麻呂の作歌 △は、慶雲三年(706)持統天皇崩御後の歌となる}

28番歌 天皇御製歌、

☆29番歌 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(長歌)と反歌二首(30,31番歌)

 32・33番歌 高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或る本には高市連黒人といふ

 34番歌 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或は、山上臣憶良作るといふ

 35番歌 勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌   ◎阿閇皇女は元明天皇

☆36・37番歌 吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(長歌)と反歌 

◎持統三,四,五年のいずれかの従駕

☆38・39番歌(吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)長歌と反歌 

☆40・41・42番歌 伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・三首

43番歌 当麻真人が妻の作る歌

44番歌 石上大臣従駕にして作る歌

☆45・46・47・48・49番歌 軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・長歌と短歌四首

50番歌 藤原の宮の役民の作る歌

51番歌 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌

52・53番歌 藤原の宮の御井の歌(長歌)と短歌

54・55・56番歌 大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌・三首

57・58番歌  二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌・二首(長忌寸意吉麻呂、高市連黒人)

59番歌  誉謝女王が作る歌

60番歌  長皇子の御歌

61番歌  舎人娘子、従駕にして作る歌

62番歌  三野連、入唐する時に、春日蔵首老が作る歌 ・大宝二年六月

63番歌  山上臣憶良、大唐に在る時に、 本郷を憶いて作る歌 ・大宝二年

64・65番歌 *慶雲三年丙午に、難波宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌 長皇子の御歌 △  

66・67・68・69番歌 太上天皇、難波宮に幸す時の歌 ・四首(置始東人 高安大島、身人部王、清江娘子)・

70番歌  太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌    ・大寶元年か?

71・72番歌  大行天皇、難波の宮に幸す時の歌・二首(忍坂部乙麻呂、式部卿藤原宇合)・文武三年

73番歌  長皇子の御歌

74・75番歌  大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌 ・二首(或は天皇御製歌、長屋王)・大寶二年か?

  

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即位の年、持統天皇は紀伊国の有間皇子の所縁の地を訪ね、歌を詠ませた・人麻呂も紀伊国行幸に従駕していた?

 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしている。

持統四年(690)1月即位、2月吉野行幸、5月吉野行幸、6月泊瀬行幸、7月高市皇子太政大臣、多治比島真人を右大臣、八省百寮を選任。8月吉野行幸。9月戸籍を作らせ、紀伊国行幸。10月吉野行幸。11月元嘉暦と儀鳳暦を施行。12月吉野行幸。

 吉野行幸も不思議なのだが、持統四年(690)の紀伊国行幸も不思議である。持統帝の即位は四年一月、前年の四月に日並(ひなみしの)皇子(草壁皇子)を亡くした後、残された阿閇皇女を連れての行幸だった。

孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。が、その即位後の吉野行幸、紀伊國行幸とは、持統帝は即位後に何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。
(阿閇皇女にも有間皇子事件を知らせ、皇子の霊魂を共に鎮魂をするためだったのか)
では、朱鳥四年の紀伊国行幸を読んでみよう。
(紀伊国行幸の歌は、明日取り上げます)

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持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしているので、ほとんど都にはいなかったことになろうか。これでは天皇としての仕事も滞ると思われ、「持統帝は即位していなかった説」も生まれようというものである。すべてが高市皇子にゆだねられ、太政大臣高市皇子が政権の中枢に座りほぼ天皇と同じ立場となっていたことになるのだろうか。そうなると、軽皇子(文武天皇)が成長した暁には高市皇子の存在がネックになるではないか。高市皇子はその権力の象徴として、耳成山を北にして藤原宮を造営している。絶大な財力も彼の手にあったのである。それが為に軽皇子の元服の半年前に薨去となったのだろうか。しかも、万葉集の高市皇子の扱いは微妙である。其の力を認めながらもどこかでおとしめているように思われるが、これは気のせいだろうか。
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また、明日。


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by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の不思議・持統天皇は近江朝と有間皇子を偲び続けた

今日の辺りは、すでに何度か書いたことと70%ほど重なります。
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初期万葉集は、端的にいうと「持統天皇が編纂させた史書である」としてブログを進めています。長いので少しずつ紹介しています。今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の㉟からです。
持統4年の紀伊国行幸は、草壁皇子の薨去の翌年ですから、妻の阿閇皇女は夫の草壁皇子を当然偲ぶでしょうね。

草壁皇子の妃・阿閇皇女・前年に薨去した夫を偲ぶ歌

㊵ 
持統四年の紀伊国行幸で有間皇子事件を詠んだ川嶋皇子と草壁皇子を偲んだ阿閇皇女

朱鳥四年(690)四月、持統天皇は草壁皇子妃の阿閇皇女を連れて紀伊國に行幸した。阿閇皇女は天智天皇と石川夫人(姪娘)の娘であり、後の元明天皇である。皇女は前年4月に夫・草壁皇子と死別していた。残された三人の子どもたちはまだ幼かったので、軽皇子が七歳、氷高皇女が十歳で末っ子の吉備皇女は五歳くらいだが、都に残しての行幸だったのだろうか。

 勢能山を越える時、阿閇皇女の御作歌

35 此れやこの倭にしては我()が恋ふる 木路()にありとふ 名に負ふ勢の山

 
 阿閇皇女は、背ノ山を越える時、草壁皇子を偲んだ。背ノ山を越えると紀伊国である。船で紀ノ川を下れば、背ノ山と妹山の間を抜けるとやがて川幅が広がり紀伊國の風景が広がる。

「紀伊国への路に有るという背ノ山のことは倭でも聞いていました。川を挟んで妹山と向き合っている背ノ山をぜひとも見たいと日頃から思っていたのです。これがその名のとおりの背ノ山、そうなのですね。(背ノ山をやっと見たのだが、我が身は背の君を失っているので、背ノ山と聞くと草壁皇子を思い出して切ない。紀伊國の背ノ山が川を挟んで妹山と向き合ってはいるのは、まるで川を渡れない私と夫のようではないか)」夫を失って一年、まだ皇女の歌には喪失感が漂っている。女帝と皇女は草壁皇子を偲んで紀伊国でともに泣いたのであろう。持統天皇が異母妹で息子の妻の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸したのは、皇女を励ますためでもあったろう。そして、もう一つ目的があった。

持統帝は未だ悲しみの癒えない嫁に、この行幸で伝えたいことがあったのだ。同じ持統四年の紀伊国行幸の時の川嶋皇子の歌が、その事を示している。川嶋皇子の歌は巻一の34首目で、阿閇皇女の歌の一首手前にある。そこには何と有間皇子事件が詠まれている。

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㊶ 
 紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌 或は山上臣憶良の作という

34 白波の濱松が枝()手向け草 幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ

川嶋皇子の父は天智天皇、母は色夫古(しこぶこの)(いらつめ)姉は大江皇女である。大江皇女は天武天皇の妃となり、長皇子・弓削皇子を生んでいる。

「懐風藻」伝によると川嶋皇子は大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契を結んでいたが、天武天皇崩御の後の十月、大津謀反を朝廷に密告した。その事で大津皇子は死を賜っていた。この密告の年・朱鳥元年八月には、川嶋皇子は「封百戸」を与えられている。持統天皇の信任厚かったということだ。持統五年(691)にも「封百戸」を与えられているが、同年九月に薨去した。それは、上記の紀伊国行幸の翌年のことである。

皇子川嶋のこの歌は、明らかに有間皇子事件の悲劇性を詠み、御霊を慰めている。「白波が寄せる浜辺の松の枝を神に手向けるように結んで祈ったという有間皇子。あの事件からいったい何年たったことだろうか。皇子のことを思うと心が痛む。幾年過ぎても皇子を忘れることはない」という大意になる。然し…

川嶋皇子は三十年前の有間皇子事件を生まれていないので知らないはずである。が、「幾代までにか年の経ぬらむ」と有間皇子を偲んだ歌を詠み、「紀伊国に幸す時」だから公的な場で持統天皇に献じたのであろう。すると、はたまた違和感が漂う。川嶋皇子の御作歌が詠まれた持統四年(690)は、前年に皇太子である草壁皇子を失った後の行幸であるのに、草壁皇子ではなく有間皇子を偲ぶとはどういうことだろうか。

有間皇子事件を知らない川嶋皇子が、なぜ「結び松」を詠んだのか

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㊷ 川嶋皇子の歌は、天皇の行幸に従駕して献じたものであるなら、行幸先の土地を誉め旅の無事を祈る歌になるはずだが、持統四年の行幸では有間皇子の霊魂を鎮めているのだ。

この時の行幸に従駕して献じられた歌は巻二「挽歌」にも残されているが、やはり有間皇子を偲ぶ歌である。行幸の目的は、有間皇子の霊魂を鎮めるためだったことになる。題詞に『紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌。或は山上臣憶良作ると云う』とあり、歌の左下にも『日本紀には、朱鳥四年庚寅の秋九月に、天皇紀伊国に幸すという』という脚がある。『紀伊国行幸』が題詞と左脚の両方に書かれているのは、これが事実であることを強調しているのだろう。此処の朱鳥四年の紀伊国行幸に関しては、巻一には阿閇皇女の歌と二首だけしか見当たらないが、あとは巻二の「挽歌」に掲載されていて、この紀伊国行幸が有間皇子を偲ぶ旅だったのは揺るがないのである。

 また、川嶋皇子の一首(三四)とよく似た歌は、巻九の「山上の歌一首」である。

1716 白波の 浜松の木の 手むけ草 幾世までにか 年は経にけむ(巻九)

左下の脚に「或は川嶋皇子の御作歌という」とある。山上とは、山上臣憶良のことである。この年、憶良も持統天皇に従駕して紀伊国に旅をしているので、その時のものであろう。なぜ、二人の人物の名が必要だったのだろうか。元歌は山上の方だが、川嶋皇子の御作歌なら更に無実の有間皇子の悲劇性を強調する、と万葉集編者は考えたということか。川嶋皇子が有間皇子を思うという姿が必要だったということだろうか。

有間皇子の事件からは三〇年以上のかなりの時を経過しているが、大津皇子事件からはわずか四年である。その記憶は誰にも新しいはず、まして川嶋皇子には生々しい記憶のはずである。

万葉集の編集意図としては、有間皇子の無実を際立たせるために大津皇子謀反事件の密告者である川嶋皇子の歌が必要だと判断したから、巻一の「雑歌」34に川嶋皇子の歌が置かれたのだろう。それも、持統天皇の前で公的に詠んだというのである。

つまり、朱鳥四年の紀伊国行幸に従駕した川嶋皇子の歌には、『わたしは大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子の謀反は無実であると知ったので、このようにあの結松を見て、何年たったのだろうかと古に思いをはせたのだ』と持統天皇に献じ、更に、『親友を裏切ったあの皇子川島でさえも有間皇子を偲んでいる。有間皇子事件は誰にも痛ましく思われるのだ』と周囲にも伝えているのだ。

それにしても、万葉集で「持統天皇の紀伊国行幸時」の詠歌となると従駕者が「有間皇子を悼む歌」となるのは、皇子の魂鎮めだけでなく、持統天皇との並々ならぬ因縁もありそうである。

わたしは度々持統天皇と有間皇子の関係を取り上げている。如何なる縁があるのかを。

持統天皇は天智天皇の近江朝を偲び、その霊魂を鎮め続けた


㊸ 
漂う霊魂を鎮めたのは持統天皇

 阿閇皇女と川嶋皇子の歌は重いが、これだけが重たいのではない。川嶋皇子の歌の前には、高市古人の二首があり近江朝を偲ぶ歌となっていて、その前には「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」の長歌と反歌が置かれている。持統天皇の御製歌「春過ぎて」の後には、何と近江朝を偲ぶ歌が続くのである。そして、阿閇皇女の歌に至る。勢能山(背の山)の歌まで「失った人=すぎにし人」を偲ぶ歌が続くのである。

  高市古人(黒人)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌

32 古(いにしえ)の人にわれあるや 楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)見れば悲しき

33 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

34 白浪の 濱松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ

35 これやこの倭(やまと)にしては我が恋ふる 木路(きぢ)に有りとふ名に負ふ勢の山

高市古人は「私は昔の人なのであろうか、まるで昔の人のように昔のものを見ると様々に思い出されて悲しい気持ちになる」と近江朝を追慕した。

32~35までの歌は、古の人を思うという意味で並べられたものだろう。ここに云う古とは、「近江朝の天智天皇」と「紀伊国に護送された有間皇子」と「阿閇皇女の夫である草壁皇子」の時代で、持統天皇が繰り返し懐かしんだのはこの三人であり、近江国と紀伊国だったということ、それは万葉集の中で一貫している。持統天皇はひたすら近江朝を懐かしむのである。

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㊹ 
人麻呂は、公的な場で近江朝を偲んだ。そして、個人的にも近江朝を偲び続けた。本来なら、現王朝の臣下として前王朝を偲び続けるなんてありえない。然し、誰にも遠慮する必要がなかった。持統天皇が望んでいたのだから。


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㊺ 
巻三の人麻呂の歌の隣にある歌。264,265,266番歌を見よう。

真ん中に挟まれるのは、長忌寸意吉麻呂の歌になる。歌の中身も、場所も前後の人麻呂の歌とずれている。編集の仕方がイビツで、何らかの編集意図が働いていると思われる。人麻呂の歌は、何故か、万葉集中にバラバラになっているのである。

持統天皇の絶大な信頼を得ていた柿本朝臣人麻呂。だが、集中の人麻呂の歌はバラバラにされている。人麻呂の歌がバラバラにされた理由は、後世に再編集した為に他ならない。


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人麻呂は近江朝と難波朝の歌物語を万葉集に展開していたと、わたしは思うのです。それが分からないように、歌はバラバラにされていると思うのです。
明日は、初期万葉集のクライマックスです。そこに掲載された歌は、万葉集を考えるうえで大切なポイントなのです。
では。また明日。


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by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

柿本朝臣人麻呂が詠んだ「安騎野の冬猟」すぎにし人の形見とぞ

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by tizudesiru | 2018-05-22 00:05 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

万葉集を編纂した柿本人麻呂は何故死んだのか

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柿本朝臣人麻呂こそが持統天皇の詔を受けて万葉集を編纂した。と、いう立場で、万葉集巻一に何が書かれていたのか、紹介してきました。「すぎにし人の形見とぞ」の最終回です。今日は50~57までです。

宜しくお願いします。


万葉集の編纂の意図を、万葉集そのものが語る

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。皇統の歴史として、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。


歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである

書かれているのは、草壁皇子の後継者は軽の皇子より他にはいない。軽皇子こそ統治者であり、日の皇子・大王である。その皇統は正統である。
 
編纂の勅を出した持統天皇、勅に従った柿本人麻呂
初期万葉集は、持統天皇・文武天皇の時代にまとめられたものである。巻一には長歌・短歌あわせて84首あるが、うちわけは、
雄略(1)舒明(5)皇極(1)斉明(8)天智(6)天武(6)持統(34)文武・持統太上(14) 元明(8)奈良宮(1)となっている。

巻一には、「挽歌」の部立はない。だから、どの天皇の御代の歌が多いのか、挽歌を含んだ巻二の数も必要であろうか。巻二の全150首のうちわけ、

仁徳天皇代(6)斉明(2)天智(21)天武(9)持統(105)奈良宮(7)

やはり、圧倒的に持統天皇代の歌が多い。

では、持統天皇代に活躍した歌人といえば、柿本朝臣人麻呂である。やはり、編集をした人物は人麻呂以外に考えられない。

持統天皇の崩御(702)後、人麻呂は初期万葉集の編集に励んだが、数年後に文武天皇の崩御(707)となった。人麻呂は「万葉集」を献上すべき帝までうしなったのである。


文武天皇崩御後、初期万葉集は行き場を失った

52 初期万葉集の終焉

文武天皇の崩御(707年6月)の後、元明天皇即位(707年7月)。この時、天武朝は皇位継承問題で揺らいだことだろう。そこで、元明天皇が極位に着くには、相当の政治的困難があったと思われる。天武帝の皇子は多く健在であり、高市皇子の王子達もいるからである。頼みの持統天皇も既になく、元明天皇を支えた御名部皇女(高市皇子の妃)の力は大きかったことだろう。

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78(元明天皇)79(御名部皇女)の歌

和銅元年(708)戊申(つちのえさる)に天皇としての儀式をするにあたって、元明天皇は不安に襲われたようだ(78番歌)。それを支えたのは姉の御名部皇女で、大王を支えた歌(79番歌)を詠んだのである。

この年、和銅元年4月、柿本朝臣佐留が没している。

柿本佐留が人麻呂であるのなら、和銅元年に人麻呂を罰したのは元明天皇であろう。

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元明天皇は奏上された万葉集を見て動揺したと思われる。

そこに書かれていたのは、草壁皇子につながる皇統の正当性であり皇統の歴史だった。天武帝の皇子達にはゆゆしき歌集であったはずである。この時、元明天皇を支えた御名部皇女は、高市皇子の妃であった。どんなに元明天皇は支えられたか。姉の御名部皇女は「ご心配なさいますな」と妹を励まし、諸臣を抑えたことだろう。
そして、人麻呂には厳罰が下され、人麻呂は受け止めたのである。

人麻呂刑死後、初期万葉集は彷徨った

53 
万葉集の巻一の終わり方は不自然である。元明天皇の御代の歌は、即位と「平城宮遷都」関係の歌である。

巻一の最終歌は「寧樂の宮」となっていて、歌は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮にしてともに宴する歌」の一首のみである。

 長皇子と志貴皇子の歌が並んでいたというが、志貴皇子の歌が欠けている。突然の終焉ではなく、ここにもこれ以外にも歌があったのかもしれない。巻一は最後まで第三の編集が行われているようだ。他の巻の歌の総数を見ると、

巻一(84首)、巻2(150首)、巻三(252首)、巻四(309首)、巻五(116首)、巻六(160首)、巻七(350首)、巻八(246首) 、巻九(148首)、巻十(539首)、巻十一(490首)などなど、数だけを見ると、巻一は少なすぎる。

このことから何らかの編集の手が入った結果と考えられる。それは、単なる歌の並べ替えではなく、大きな権力を持った人の意思と思考による改造であったと思う。歌を変えることはできないので並べ変えと、若干の題詞の改竄だと思われる。では、誰が手を入れたのか?


54
 
初期万葉集の編纂者は誰か、一次は人麻呂だが

二次、旅人・家持の手を経て、三次、806年平城天皇の元へ召し上げられ編集しなおされたと、考えている。

平城天皇は、万葉集の意義と歌の意味を深く知り、世に出す為に「編集して人麻呂の編纂の意味を隠した」となる。その時点では世に明らかにできないことが多く含まれていたからである。この再編集によって「人麻呂があえて編集し(事上げし)、文武天皇に歌で皇統の歴史の真実を知らしめようとしていた」肝心の皇統の正当性と歴史が読めなくなったのである。

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55 人麻呂が万葉集を編集した
その時期を元明天皇即位後と決めた理由は、文武天皇が「大行天皇」と書かれているからである。

サキノスメラミコト(大行天皇)、天皇位を下りた天子のことをそう呼ぶ。文武天皇崩御後、正式の諡が定まらない時期の奏上であったと思われる。しかし、元明天皇は拒否し、人麻呂を罰した。人麻呂はその事を受け入れた。


56
 
多くの事実が書き残され奏上された初期万葉集を、元明天皇は大伴安麻呂に託したのではないか。蘇我系の石川郎女を妻にしていた大伴安麻呂に。参議大伴安麿が薨去(和銅7年)した後、子の大伴旅人の手に渡った(旅人は父から万葉集の意図を聞き、晩年に歌に目覚める)。旅人の薨去(731)後、家持が受け取る(家持も、大伴坂上郎女と父の手ほどきで歌の道を知り、まい進する)。

家持は自家歌集を編纂し、初期万葉集のように年代順に歌を並べ、同じように歴史書として鎮魂歌集としての体裁とする。政変の為(藤原種継暗殺事件)、家持は冠位を剥奪され、死後に息子と共に島流しになる(万葉集は大伴氏の手により守られる)。

806年、平城天皇が家持の官位を復し、噂の『万葉集』を召し上げる。侍臣に命じて「万葉集」の編纂をするが、この時、家持編集の「後期万葉集」にはほとんど興味をしめさなかったので、そのまま年代順に編集されている。平城天皇の譲位により、万葉集は宙に浮いたが、長くその存在は語り継がれ、多くの文人・学者の耳目を集め、細々と書写され続けた。そうして、「古今伝授」により多くの噂と混然一体となって、「謎の歌集・万葉集」は平安時代を生き延びた。

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巻一の話のまとめ

万葉集巻一は、皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に教え諭すために編纂編集された教育書である。編纂を命じたのは持統天皇であり、作り上げたのは人麻呂である。ここで、人麻呂個人だったかどうか問題であるが、彼のみが刑死していると思われるので、その罪を一身に受けたと考えている。

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終わりに

57 人麻呂の詠んだ「阿騎野の冬猟歌」が初期万葉集のクライマックスである。そして、巻一の最終歌には何が置かれていたのだろうか。

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現在残されている「万葉集」で巻一の最後を飾るにふさわしい歌は、78番歌ではないだろうか。

この歌をここに置いたのは、大伴家持か平城天皇か、それは分からないが。


「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春二月藤原宮より寧樂宮に遷る時、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望みて作らす歌」

一書に云う 太上天皇御製(編集した時点で元明天皇は既に譲位していたことになる)と

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば 君があたりは見えずかもあらむ

    一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ    

 長屋の原は、中津道の平城京と藤原京の中間点である。そこで、御輿を停めて明日香に別れの儀式をする。でき過ぎの演出であった。

この時、左大臣石川麻呂は藤原宮に残されていた。元明天皇に従ったのは、藤原不比等右大臣である。「此処で元明天皇に泣いてもらって、藤原宮への未練を断とう」という……その演出をしたのは、藤原不比等を置いて他にはない。


 元明天皇は夫草壁皇子と吾子文武天皇の墓のある明日香を捨て平城宮へ遷都(710)した。藤原宮と平城宮の中間点の長屋の原で、元明天皇は十分に涙を流されたはずである。大きな時代の流れを元明天皇は感じられたことだろう。
 こうして、明日香は「霊魂の漂う京」となった。

時代はこのように変わっていったのである。


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と云うことで、「すぎにし人の形見ぞと」を終わります。
万葉集巻一について、何が書かれているか、十分ではありませんが紹介したつもりです。

後程、詠みやすいように「人麻呂は何故死んだのか」の掲載順を入れ替えます。

また、明日。
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by tizudesiru | 2018-05-20 21:16 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

川原寺に残る万葉歌は、白村江敗戦を伝えるのではないか

倭琴の面に書かれた二首
川原寺の仏堂の内にある倭琴に書かれた歌は何を語るのか
 
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万葉集巻十六「世間の無常を厭ふ歌二首」
3849 生き死にの二つの海を厭(いと)はしみ 潮干(しほひ)の山をしのひつるかも

3850
 世の中の繁き借廬(かりほ)に住み住みて 至らむ国のたづき知らずも

右の歌二首は、川原寺の佛堂の裏(うち)に、倭琴の面にあるのなり

「生死の二つの海」とは、現世の生と死の苦しみであり、その苦しみを渡り仏智の世界(山)に入るという仏典で譬えられる世界を詠んだのだそうです。

3849 
この世で生死の苦しみに振り回されるのが煩わしいので、潮が干いたように苦しみのない極楽浄土のような山を恋しく思うのだ。

3850 様々な事がある煩わしい仮の住処のような現世に住みつづけているが、これから行くべき国(極楽浄土)がどんな様子なのか、何も知らないのだ。 

右の歌二首は、明日香の川原寺の仏堂にある倭琴(やまとごと)の面に書かれたものである

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世間之 繁借廬尓 住々而 将至國之 多附不知聞

この歌に惹かれ何度も読むうちに或る思いが突き上げて来て、どうしても頭の中から消えませんでした。それは、仏教思想が受け入れられるには時間がかかっただろうと云うことです。まして、その思想が一般化するには相当に時間がかかりましょう。

しかし、ある地方の民は早くから広く仏教に帰依していました。そこは、阿毎タリシホコの俀国(倭国)です。隋書にはそう書かれています。そこには「世間」を極楽浄土と対立する世界として捉える思想が浸透していた、と思ったのです。
古代の琴・倭琴は女子の持ち物ではありません。古代では教養のある男性の持ち物でした。男性が琴で音楽を奏で詩歌を読んだのです。では、上記の二首も男性の歌ですね。それも世間を「よのなか」と読む文化圏の男性です。

そこで、この歌は仏教が浸透していた俀国で詠まれた歌ではないか、百済救援に遠征した男性が自分の体験を詠んだのではないか、戦火に倒れた高貴な人の愛用の琴が川原寺に奉献されたのではないか、と様々に考えました。

白村江敗戦を伝えるのではないか
(このことは、数年前に或る公開講座でお話をしました。)

万葉歌は事実を詠んだ叙事詩だと何度も聞かされました。仮想して物語や思想を詠んだのではなく、事実や実体験・実感を詠んだ歌集でしたよね。二首も思想ではなく事実が詠まれているのです。

事実として読み取ってみました。微妙に解釈が変わります。

3849 この世の生と死の二つの海(苦しみ)を、同じように倭国の海と隣国の二つの海を渡り戦う、その苦しみを避けたいと、潮が干いたような苦しみのない世界をどんなに恋しく思ったことか(だが、世間の無常を避けることは出来なくて、琴の持ち主=主人は、先の敗戦で亡くなられた。)

3850 大変なことが多いこの世を仮の住処として主人と長く住んできたが、無情にも主人を亡くした我が身=琴は、これから知らない国に行くことになった。その国の様子を何一つ知らないのだ。(まるであの世のことを何一つ知らないように、遠い知らない国に行くのだなあ。)

ある高貴な方の持ち物だった倭琴の嘆きとして、亡き主人を偲ぶ歌として、二首が残されたと思ったのです。二つの海を渡った(白村江敗戦に翻弄された)高貴な人、その人は還らなかったが、琴は帰ってきた、そして、川原寺に奉納された。

二首は琴の由来を詠んでいるに違いありません。遠く仏教の浸透した地方から来た楽器であること、無情な運命に翻弄された人の持ち物であったこと(川原寺では、その人物が誰なのか分かっていたでしょう。…寺に所縁の人の奉献か、寺になった時に琴の持ち主を供養したとか)。

川原寺に奉納された時期を考えると、平城宮遷都(710)以前だろうと思うのです。それは、平城遷都後は、高貴な方はほとんど新京に引っ越したと思うからです。遷都後なら川原寺よりも都に近い寺に奉納するでしょうから。

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明日香川原寺跡の万葉歌碑
この万葉歌があるのは、川原寺跡の道路横です。
橘寺の前に道を挟んで川原寺跡がありますが、橘寺の石柱から川原寺を見ると、筋向いに歌碑が見えます。

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現在の弘福寺(もと川原寺)の前は、広い公園になっています。川原宮は、板蓋宮が焼失した後、一年余り斉明天皇の仮宮となりました。

中大兄皇子(天智天皇)称制の時に、母の斉明天皇の葬儀を川原宮で執り行いましたし、川原寺が飛鳥では重要な位置にあることは前回のブログでも紹介しました。(山田寺からのラインは、高松塚にも届く。)

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平城京遷都の時、明日香に残った川原寺
四大寺のひとつであった川原寺は、創建の時期も事情もはっきりせず謎の大寺と云われています。また、平城京遷都の時に、ほかの三大寺(飛鳥寺・薬師寺・大官大寺)は都に移りましたが、川原寺は明日香に残りました。


川原寺式と呼ばれる「複弁蓮華文」軒先瓦の文様は、この後の軒先丸瓦の主流文様となりました。後の瓦に多大な影響をもたらしたのですから、川原寺の立つ位置は大きかったのです。それなのに、遷都の時に、明日香に残されたのでした。

川原寺が特別な寺であり、歴史の事実を伝える寺だと、わたしは日頃から思っているのです。そして、巻十六の上記の二首は心を揺さぶられる名歌だと思います。

鹿児島と宮崎にお出かけしていました。また、明日。



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by tizudesiru | 2017-12-09 15:30 | 307倭琴に残された万葉歌 | Trackback

長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成

長屋王の亡骸を抱いた男・

平群廣成の慟哭


謀反罪で死を賜った長屋王


長屋王は高市皇子の長子でしたが、家族と共に死を賜わりました。その王の亡骸を埋葬したのは誰でしょう。
罪科ある人の墓はほとんどどこにあるかわかりません。しかし、長屋王の墓は伝承があり、その墓が明治になって整備されたのです。
明治までその墓を伝えたのは平群氏でしょう。

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(長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町にあります。江戸時代の文書に長屋王の墓という伝承が残されていたのです。)

長屋王墓の近所には夫人の吉備内親王の墓もあります。二人を近くに葬るには、それなりの努力と尽力があったと思います。続日本紀には、

「王をして自ら尽(し)なしむ。その室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王ら同じく亦自ら経(くび)る」
「長屋王・吉備内親王を生馬山(いこまやま)に葬らしむ。」
「吉備内親王は罪無し。例になずらえて送り葬るべし。」
と書かれています。

この謀反事件で、現天皇の叔母の家族を断罪したのです。吉備内親王は前天皇の妹であり、前々天皇の娘なのです
内親王の家族を全て死なせた事件なのです
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平群氏は長屋王家に出入りしていた

奈良市の長屋王の屋敷後から、多くの木簡が出土しています。その中に、平群廣足(ひろたり)平群廣成(ひろなり)の名が書かれた木簡が見つかりました。

廣足は倭舞の名人だったようで、宮中の雅楽寮(ががくりょう)より派遣を要請されています。

廣成は天平五年遣唐使として唐に派遣されています。帰国後は順調に官位を進めて、最後には従四位上(長官クラスの官職)に任ぜられ、出世を果たしました。
ですから、長屋王の邸宅に出入りしていたのは若い頃でしょうが、その時、主人の難に遭遇しました


数多の兵と役人に囲まれた王の屋敷内に、従者が出入りすることはできなかったでしょう。
屋敷の召使たちも外でじっと邸宅を見つめ、畏れおののいていたことでしょう。
遂に、長屋王と吉備内親王と四人の男子は、死を撰ばされました。
大邸宅の周りの空気は、泣き叫ぶ召使たちの声で震えたことでしょう。
王の妻だった他の女性たちは、各々の実家で知らせを聞いたでしょうから、屋敷の周りにいたのは庶民だったようです。

続日本紀によれば、このあと、都では長屋王事件に
ついて噂と憶測と追悼の声が溢れ、長く終始が
つかなくなるのです。

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吉備内親王は罪無し、しかし、長屋王は…
平群廣成は長屋王の傍に生活したのです。主人を十分に知っています。
主人がいかがわしいことをする人物かどうか、知らないはずがありません。
彼は糾問される主人を待ち続け、死後はその亡骸を抱いて泣いたと思います。
罪無くして逝ったその人を。
だから、平群氏の本貫の地に長屋王の亡骸を葬ったと思うのです。

長屋王の墓は、「前方後円墳の後円部の上に造られている」と書かれた文を読んだことがあります。
罪科のある主人を小さな墓に埋葬しなければならないと十分知りつつ、せめて王墓のような大きさにしたいと、廣成は祖先の墓を長屋王のために提供したと…そう思いませんか。
吉備内親王の墓は少し離れた微高地にありますので、当時はまるで仲良く並んでいるように見えたことでしょう。
平群町の小さな墳丘には、平群廣成の思いが込められていると、わたしは思います。

長屋王の大邸宅は、光明子のものとなりました。

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ここからは、おさらい


なぜこのような悲惨な事件が起こったのか、以前もブログに書いたと思いますが、少しおさらいしてみましょう。事件が起こったのは、
長屋王が恵まれ過ぎていたからです。父母は御名部皇女(内親王)と高市皇子(親王)で、妻は元明天皇の娘であり、文武天皇の妹でした。多大な財力と権力を持ち、当代随一の名家であり、将来も揚々たるものだったのです。

霊亀元年(715)二月、元明天皇(草壁皇子の妃)は「勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を皆皇孫の列(つら)」に入れたと続紀にあります。
長屋王の子どもたちの身分を三世王から二世王(天皇の孫)あつかいしたのです。

藤原不比等は「皇太子の首皇子が十五歳で即位すれば、外戚になれるから」と、長屋王家の特別待遇を容認していたでしょう。

しかし、元明天皇が譲位したのは皇太子の首皇子ではなく、娘の元正天皇でした。それは、政変のような衝撃だったのです。
元明天皇は、前年元服した皇太子・首皇子に不安を覚えていました。

養老二年(718)長屋王大納言。大伴旅人中納言。
     この年、養老律令を撰進(藤原不比等ら) 
     功績に関わらず不比等は右大臣のまま
養老四年(720)日本書紀撰進。藤原不比等没
養老五年(721)一月、長屋王右大臣。十二月、元明太上天皇崩御。

元明太上天皇は長屋王家へのレールを敷いて崩御されたのでした。が、チャンス到来と
藤原氏は着々と首皇子の即位に向けて準備をはじめました。

山上憶良ら当代の知識人を東宮(皇太子)の周りに集めます、そして、元正天皇に譲位を迫りました。元より中継ぎを承知だった元正天皇は、元明天皇の崩御の三年目の二月に首皇子(聖武天皇)に譲位されました。崩御からほとんど二年しかたっていなかったのですが。

この時(724年)、長屋王は左大臣となったのでした。
元明天皇の思いが元正天皇に引き継がれていたのでしょうか。
そして、この時、長屋王の運命は決まったのです。

引き金は、聖武天皇の皇太子(基王)が一歳で没したこと(728年)でした。
聖武天皇の皇位継承者より、長屋王の男子の方が有力だったのです。
神亀六年(729年)、基王の死から半年後、長屋王事件は起こりました。

長屋王がどんな左大臣だったか、都の庶民は知っていました。その事をめぐって様々な噂といざこざが起こり、殺人事件も起こりました。もちろん、聖武天皇は十分に知らされていなかったでしょうね。
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全ては、歴史の靄の中に。


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by tizudesiru | 2017-07-25 15:05 | 271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成 | Trackback

紀伊国・玉津島神社の春

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by tizudesiru | 2017-04-16 00:42 | 242紀伊国・玉津島神社


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか

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