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一貴山銚子塚古墳の真の築造時期を知りたい!素環頭大刀副葬の意味

一貴山銚子塚古墳の築造時期は、4世紀前半と聞いていました。
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****10年ほど前****

古代史の講座で、元大学教授のT先生が一貴山銚子塚古墳の話をされた時「あれは、4世紀前半とされていますが、あんがい3世紀後半かもしれませんね。」と言われました。
「素環頭大刀は、弥生時代の九州の箱式石棺に副葬されていた。」と、古代史の会で奥野正男先生から幾度も聞きました。先生の著作の中でも、素環頭大刀は「弥生の箱式石棺の中にしか出土しない」と云われます。
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***柄鏡形の古墳は古い****

一貴山銚子塚古墳が平原王墓の後を引き継いだと、わたしは書いてきました。弥生墳丘墓の平原王墓と柄鏡形(えかがみがた)の一貴山銚子塚古墳、両者は時代が違うように見えますが、どちらにも素環頭大刀が副葬されていました。
素環頭大刀は弥生後期の代表的な副葬品です。
ですから、両者の築造時期は、極めて近いと思います。

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銅剣・銅矛・銅戈が副葬されていた甕棺の後の時代、箱式石棺の時代になると、弥生後期の有力者の副葬品として、素環頭大刀が使われました。

古墳時代になっても大刀の副葬がありますが、それは飾り大刀になります。
福岡県糸島地域は飾り大刀の宝庫です。「飾り大刀」は素環頭大刀(そかんとうたち)の環頭の輪に、三葉・龍・鳳凰などの飾りが入ったものです。

後期弥生の副葬品・素環頭大刀***
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豊前の徳永川ノ上遺跡は、弥生終末期から古墳時代初期の遺跡です。
上町向原遺跡から、同時代では日本最長の素環頭大刀が出土しています。

大型の石棺墓から出土と伝わる五尺刀(119.9㎝・福岡県糸島市上町向原遺跡)は、石棺が特定できないのが残念ですが、卑弥呼が下賜された五尺刀かも知れません。伊都国歴史博物館に展示されています。

***何と、甕棺墓からも
福岡市の吉武樋渡遺跡では甕棺墓から素環頭大刀(62号甕棺)素環頭刀子(64号甕棺)が出土しています。佐賀県の椛島山遺跡(弥生後期の石棺墓)から素環頭刀子が出土しました。

素環頭刀子ですが、素環頭大刀より長さが短いものが、刀子とされています。

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***初期古墳にも素環頭刀子
藤崎6号墳
は弥生の方形周溝墓で、久里双水古墳は初期古墳です。副葬品だけ見ると、久里双水の方が古いようですね。
藤崎6号は三角縁二神二車馬鏡(22.3㎝)と素環頭大刀・刀子・ヤリガンナで、久里双水は盤龍鏡(12.15㎝)と素環頭刀子・管玉でした。時代が下るほど鏡は大きくなっています。ですから、久里双水の盤龍鏡が古いと思います。

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こうして見ると、素環頭大刀の副葬の時期がしぼられて来ます。
北部九州では、弥生後期の方形周溝墓の木棺や箱式石棺に、素環頭大刀が副葬されているのですから



***4世紀とされる若八幡古墳には飾り大刀
環頭大刀の中で、飾りのないものが素環頭、飾りのある大刀が「三葉環頭大刀・単鳳環頭大刀・単龍環頭大刀・双鳳環頭大刀」とそれぞれに呼ばれています。
いわゆる飾り大刀です。
弥生後期の素環頭大刀より、古墳時代初期の飾り大刀は装飾性が進んでいるのです。
若八幡古墳(福岡市今宿)には、最古級の短甲も副葬されていました。
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ここは、一貴山銚子塚古墳より新しい古墳でしょうね。

***ところが、です。
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***古墳の築造時期をまとめた図を見ると(黄色の丸をつけた銚子塚)

一貴山銚子塚古墳のほうが、若八幡古墳より新しくなっています。

副葬品で考えると若八幡古墳の方が新しいのです。
糸島では最大の大きさの一貴山銚子塚古墳です。トップの首長なら、最新かつ最高レベルの品々を副葬するでしょう。若八幡古墳に後れを取るはずはありません。
若八幡より築造が遅いのなら、短甲も三葉環頭大刀も鉄鏃も最高のものが置かれていたでしょう。
一貴山銚子塚には三葉環頭大刀も短甲も置かれていません。なぜなら、それらが知られる前だったから、です。
まだまだ、素環頭大刀が大きな威力を持っていた時代だったのです。


副葬品ではなく、墳丘の形で判断されているのではないですか?
いわゆる箸墓型の古墳(前方部がバチ形に開く)が古く、ホケノ山の帆立型古墳が古いというルールで判断されたのではありませんか。


素人は展示品や図録を素直に見ます。

****わたしは、T先生や奥野先生の云われたことを思い出すのです。

素環頭大刀は弥生後期の副葬品、図録でも全くそうですね。
本当に真の築造時期は、いつでしょうか。


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by tizudesiru | 2018-03-18 00:59 | 332あまたの副葬品は、もの申す | Trackback(39)

祭祀線で読む倭王の交替!歴史の闇に消えた宗女壱与

卑弥呼宗女壱与を歴史の闇へ落としたのは、まぎれもなく倭王である


一貴山銚子塚古墳の被葬者に

大接近

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平原王墓の被葬者を「玉依姫=オオヒルメノムチ」としたのは、原田大六でした。
彼は中山平次郎博士の弟子となり、板の間に毎日6時間正座し、9年間もマンツーマンで考古学を学びました。戦後、公職を追放された原田は、考古学に全身全霊で立ち向かったのでした。

その原田が遭遇した平原王墓です。わたしは運命の歯車を感じます。彼は、大きな発見をしました。それは、伊勢神宮の八咫の鏡が、「八頭花崎八葉」の文様であるという記録でした。そこで、ご神体は天照大神の別名のオオヒルメノムチの依代であると考え、モデルとなった平原女王墓の年代を2世紀後半に設定したと思います。


平原王墓の築造は2世紀後半ではない
2世紀後半なら、三雲南少路遺跡や井原鑓溝遺跡との時代的な釣り合いが取れません鏡の大量破壊や大型鏡の副葬は、明らかに前者より後の時代だからです。他の大型鏡は、古墳時代の出土だからです。
原田大六は、百年早く設定してしまったのです。中山平次郎博士について三雲南少路も井原鑓溝も周囲の遺跡も調査しているはずなのに、原田大六は「神話に引き込まれた」と思います。


平原王墓こそ、宗女壱与(臺与)の墓!八咫鏡を5面も持った女王
平原王墓の巫女王は最高の地位にありましたが、三雲南少路の夏至の日没の方向、王都の西、瑞梅寺川を渡った先に埋葬されました。あまりな仕打ちと言えるでしょう。それを指示したのは、後の世の権力者で、宝満・飯盛山の太陽の道に埋葬された人です。

その人こそ、東西ラインと呼ぶ、太陽が真東から上る聖なる祭祀線上に眠る権力者=一貴山銚子塚の被葬者
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宝満山・飯盛山の東西祭祀線の西に位置する一貴山銚子塚古墳

一貴山銚子塚古墳は、何度も取り上げたので内容が重複するかも知れません。

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写真では後円部が北にあるように見えますが、逆で後円部は南に在ります。主軸線は南北です。

柄鏡型(えかがみがた)の初期古墳、後円部が南、前方部が北。竪穴式石室に朱が塗られていた。

後漢鏡2面(内向花文鏡・方格規矩鏡*金メッキ)*頭部近くに置かれていた 
三角縁神獣鏡8面(木棺の傍らに並べられていた)
鉄鏃と大刀と剣(鉄製の素環頭大刀、鉄剣)6振
勾玉と管玉(左右の手に腕飾り)

(出土物は、京都大学が持っているそうです。京大は、考古遺物を福岡に返すべきです! 地元の人が協力して発掘したのに、持って行ってしまうのは過去の習慣で、今後は管理研究を地元に任せるべきではないでしょうか。その方が、地元の人の目に触れます。)

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ここは、未盗掘の古墳だった!


未盗掘には大変重要な意味があります。この時代の首長はどのように葬られたか分かるからです。

後漢鏡(一面は金メッキ)は大事だったから頭部に置かれた。三角縁神獣鏡はそれなりに置かれた、などなど。大刀にまだ飾りが見られないから、平原王墓の素環頭大刀からあまり時間を経ていない古墳だとか、この時期には、三角縁神獣鏡が国内で造られていた、とかも分かるでしょう。

祭祀線で一貴山を読む
ここには、弥生の葬送儀礼が残されました。しかし、東西ラインの太陽祭祀線上に乗りながら、墳丘の主軸を南北とし方向を考えています。明らかに新しい祭祀を始めようとしているようです。
この前後に、伊都国では古墳がつくられますが、南北に主軸が向くタイプと、東西に主軸が向くタイプ、その他が見られます。

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一貴山銚子塚・丸熊山・若八幡・井原1号・ワレ塚・端山。南北に主軸、南に後円部

一貴山銚子塚古墳
のような南北主軸線タイプ(上の画像)を祭祀線で見ると、例えば若八幡古墳とワレ塚古墳は、一貴山からのラインに乗ります。ついでに、細石(さざれいし)神社が乗っていますが、志賀島出土の金印(国宝)はこの神社のご神体だったという伝承もある神社です。

卑弥呼がもらった金印(親魏倭王)の伝承が先にあって、志賀島の委奴国の金印(漢委奴国王)との噂が混戦したのかも知れませんが、興味がわきます。ピンクのラインは、宝満・飯盛山の東西祭祀ラインですからね。ここは、伊都国の領域です。

黄色のラインは、夏至の日の出のラインです。このまま進むと、香椎宮本殿をかすめ、遠賀川流域の六ヶ嶽山頂まで届きます
。(このブログでも、一貴山銚子塚古墳の主が遠賀川流域の六ヶ嶽に降臨(侵略)したことを書いています。それは、祭祀線で読んだことです。)


若八幡古墳は一貴山銚子塚より後の時期の古墳です。刳り抜き形木棺の周りは粘土。井原1号墳や一貴山銚子塚古墳と同じように、粘土の間に鉄器が挟み込まれていました。ここには、方形板皮綴短甲が副葬され、最古級の甲冑の一つとなっています。
つまり、一貴山銚子塚に甲冑は副葬されていないので、若八幡が後の新しい古墳だとなります。ここ若八幡でも、鏡(三角縁二神二獣鏡)が頭部に置かれていました。大刀も三葉環頭大刀で後の時代のものです。素環頭大刀ではないのです。



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今宿大塚・銭瓶塚・西堂古賀碕・賽の本1号 などは東西に主軸、東に後円(稲葉1号・池ノ浦、西に後円)
今宿大塚古墳は6世紀の後期の古墳です。今宿大塚古墳は柄鏡型の前方後円墳ではありません。前方部は大きくなっています。この時代になって、東西の主軸に変わる何事かが起こったのでしょうね。




今日のまとめ、
⓵伊勢神宮の御神体は、八頭花碕八葉の八咫鏡(大型鏡)である。
 その鏡は、福岡県の糸島市(伊都国)の平原王墓の鏡と同型である。(前回)
平原王墓の女性王は、東西祭祀ラインから外されている。それは、首長の交替があったからである。
➁平原王墓の被葬者の地位を奪ったのは一貴山銚子塚の被葬者である。彼は弥生の葬送儀礼を継承しながらも、祭祀を変えた。辺りの有力者を傘下に取り込んだ。


卑弥呼宗女壱与を平原に封じたのは、一貴山銚子塚の被葬者である

原田大六氏に敬意を表しながら、以上紹介しました。

古代の王や女王が選んだ祭祀ラインのパワースポットは、明日紹介しましょう。


これは、余談


一貴山銚子塚を掘ったのは、有光教一や小林行雄や森貞次郎です。なかでも、三角縁神獣鏡の研究で知られる小林行雄は一貴山銚子塚から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡の研究を進め、「同范鏡論」の基礎を築いたのです。
一貴山銚子塚は、古墳研究の基となるべき古墳です。古墳の形、出土物、弥生時代との接触、など時代の変化と副葬品の推移を探るのに最高の場所・糸島市に出土した初期古墳なのですから。

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糸島市の皆さん、一貴山銚子塚古墳の考古遺物を京都大学から返してもらってはいかがでしょうか?
九州国立博物館にでも、永久貸し出しをしてほしいと思うのは、わたしだけでしょうか。

では、明日はパワースポット・細石神社です。

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by tizudesiru | 2018-03-11 10:53 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

北部九州のミステリーその2・三雲南少路遺跡

北部九州のミステリーその2
弥生王墓・三雲南小路青の星標のポイントが、三雲南小路王墓です。
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前漢鏡の数の多さやガラス璧でも知られた王墓です。「世々王がいた」伊都国の中心に、大型甕棺に埋葬された首長は、弥生の王の一人です。大型甕棺は、脊振山頂と火山山頂の間にあります。
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更に、弥生の王墓ライン、宝満山・大城山・飯盛山の東西ラインの上に、須玖岡本・吉竹高木・三雲南小路が並びます。三雲南小路の西に、4世紀の前方後円墳・一貴山銚子塚古墳があります。
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では、三雲南小路と平原周溝墓の関係は、どうなるでしょう。
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三雲南小路と、可也山のライン上に乗っています。そのままラインが伸びて、大祖神社に届きますが、二つの王墓と大祖神社との関係が、弥生から続くものかどうかわかりません。後の時代に海の信仰と結びついたものか、または、伊都国の使者が韓半島に渡るとき、此処で神祭りをしたものか。後者かもしれませんね。
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一貴山銚子塚は古墳時代ですから、ほかの地域や、ほかの古墳との結びつきも増えてきます。北東に伸びる黄色のラインは、夏至の日の出のラインです。このラインは、糸島の若八幡神社(古墳)を通り、香椎廟を通り、六嶽山頂に届きます。南東に伸びる黄色ラインは、冬至の日の出のラインです。冬至の日は金山から出ます。このラインをそのまま伸ばすと、鳥栖の朝日山まで行きますが、金山で止まりのほうが確実でしょう。それとも、朝日山ともつながったのでしょうか。此処も古代の墓地らしいですが。
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弥生時代にも、墓地を選ぶのに山を使っていたと云えるのではないでしょうか。そして、過去の王墓とつながるように、自分の墓の位置を決めていた事になります。この後、それは一層顕著になります。
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赤インは、海の中道の大嶽を通り、福津市の波切不動古墳に届きます。この古墳には、馬具を副葬した横穴式石室があり、宮地嶽古墳より前の時代のものと聞きます。一貴山銚子塚古墳は4世紀ですから、波切不動古墳の被葬者は、糸島最大の古墳を知っていて、その霊力にあやかったことになります。青ラインは、一貴山銚子塚古墳から雷山を通り、女山の神籠石まで届きました。
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 10世紀になると、九州の古代の信仰(霊力)を遮るために、式内社は配置されました。志登神社も延喜式内社(小社)ですが、はっきりその役目を担っています。志登神社は、縦の赤ラインの雷山と柑子岳の関係を断ち、横の赤ラインの加也山・紅葉八幡・小鳥神社・寿命王塚古墳(遠賀川流域最大の前方後円墳)のつながりを断っていると、すでに紹介しました。これは、10世紀でしたね。
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古墳と結ぶラインが他地域とのつながりを教えています。大祖神社から出る水色ラインは、大嶽を通り、宮若市の竹原古墳に届きます。同じく大祖神社からの黄色ラインは、夏至の日の出のラインです。下の画像を見ると、彦山・灘山を通り、志賀海神社の旧地・辺津宮を通り、宮地嶽神社と宮地嶽古墳に届きます。志賀海神社が式内社となる前の祀りの場が、志賀島の北岸にあった事は重要です。大祖神社・志賀海神社(元宮)・宮地嶽神社がつながるからです。こうなると、渡海する際の神祭りが見えてきそうです。だいたんな事を言いますが、古代九州の海神は、結ばれていた。海人族はつながっていた事になります。そして、大祖神社から見ると志賀島の北岸と宮地嶽神社の方向に夏至の陽が昇り、宮地嶽神社から見ると、志賀海神社元宮と大祖神社の方向(灘山)に冬至の陽が沈むのです。
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 古代九州の海人族のつながりが、糸島から見えてきました。倭人は、唐津・糸島・博多湾・津屋崎(相島)からも渡海したのです。海岸の神社は、そのことを示していると思います。「万葉集」の志賀の白水郎・荒雄を思い出します。宗像の海人に頼まれて、対馬送糧の任を受け遭難しました。白水郎の絆の深さも、しのばれるではありませんか。
 倭国の中心が九州にあったことが、なぜ否定的に扱われるのか。なぜ、九州じゃいけないのか、たくさんの事実があるのに……北部九州に残された墓や山がなぜつながるのか、わからないことがたくさんあります。しかし、もう少しで、解けそうです。
 次は、100回ですから。今まで書かなかったことを書きたいと思います。

また後で


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by tizudesiru | 2013-07-25 02:05 | 98北部九州のミステリー | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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