神鉾神社の祭神は八千矛神(大国主命)

神鉾神社の御祭神は八千矛神

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竹野の森山地区の神鉾神社も長い階段を上らねばなりません。南は耳納山地、北には筑紫平野を望みます。三郡山地と筑豊三山が見えます。ここ神鉾神社が、江戸時代の農民一揆で生葉と共に久留米藩に立ち向かった地区の守り神です。
(享保一揆については、前々回にブログで紹介しています。宝暦一揆については少ししか書いていませんが、キリシタン大名だった有馬氏の末裔の圧政は、今も語り継がれているのです。天草四郎の旗印を何百年も守り続けたあの有馬氏の圧政ですよ。藩が困窮したから、すべてが間違っていったのでしょうね)
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筑紫平野が一望できる神社に鎮まるのは、八千矛神です。
ここには、大国主命=八千矛神が祭られているのです。何故って、
もともと筑紫平野をおさめていた神が大国主だったからでしょうね。

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筑豊三山、左から古処山、屏山、馬見山です。杉木立の向うには、英彦山がみえるはずです。
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神社の屋根には門光紋が打ってあります。上の写真、瓦を変えた時、自慢の瓦を境内に飾ってありました。誇るべき神文なのでしょうね。
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拝殿の裏に祭殿があります。拝殿にはあの「義士衣錦」の額。
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掲げられている「義士衣錦」額には、農民の無念と希望と誇りを秘めているのでしょうね。八角形の飾りが天井に張り付けてありました。
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天上の八角形の意味は何でしょうね。ここは下宮です。
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上宮は山の中にあります。更に更に階段を上ります。
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無理だとおもって見上げるだけにしました。
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神鉾神社の「夜渡」の写真です、夜渡と書いて、「よど」と読みます。神社の夏祭りや秋祭りのことを田主丸ではそう呼びます。夜を通して楽しむという意味でしょうか。
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16枚の花弁の菊の中に目玉のような円が重なっていますが、これは、大国主を意味するマークなのだそうです。
こうして神社に集まって、昔の話もしたでしょう。あの宝暦一揆(1754年)の話も出たでしょう。竹野郡で極刑に処された11人のうち、墓が見つかっているのは、門ノ上村庄屋の忠助、亀山村の庄屋の伴造、騒動の発起人としてさらし首にされた野中村の久兵衛のわずか三名で、ほとんど墓もなく野に眠っているのです。処刑された人々は、村の指導者だったのです。村に残されたのは怒りや悲しみばかりでなく、喪失感、大きな損失だったのです。夜なら顔も見られず集まって泣いて語り合えたし、とがめられなかったでしょうね。
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宝暦一揆の法要が行われています。
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田主丸の人は先祖の深い思いが込められた大地に暮らしておられるのですね。忘れまいぞ、と。
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ぜひ、わたしも蝋燭を上げたいですね。
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こんどは、神鉾神社の上宮に参詣するつもりです。


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# by tizudesiru | 2017-10-11 01:13 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

月岡古墳は大和政権側の古墳なのか

若宮八幡神社の若宮古墳群の不思議
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若宮八幡のある吉井町は水上交通で栄えた町でした。若宮八幡は此処に有ります。
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吉井町の若宮八幡は、久留米藩の享保一揆の寄り合いが持たれた場所でした。月ノ岡古墳と日ノ岡古墳は、ここにあります。
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では、月の岡古墳を見に行きましょう。本殿の正面左奥にそれは有ります。
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神社の裏に廻り、濠を渡ると、古墳の鳥居が見えてきます。
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80mの前方後円墳です。5世紀中ごろと書かれています。外側に三重の濠があったそうです。石室は竪穴ですから、九州ではほぼ4世紀の石室ですよね。
以前に見た報告書では、たしか4世紀の古墳と書かれていたように思うのですが、ファイルを探さなくてはなりませんね。

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金銅装眉庇付冑(こんどうそうまびさしつきかぶと)は、誰でも持てるものではありませんでした。さらに、ここで発掘された甲冑の分析をした研究者の報告では、甲冑の鋲留の技術を調査研究の結果「国産品」であるという見解でした。
甲冑など半島からの移入品だと教え込まれていた私には、「国産品」という言葉は新鮮でしたので、よく覚えています。
ここは重要な古墳です。しかも、石棺は長持ち型です。石棺と眉庇付冑から「ここは倭王権とつながりが深く、倭王権が入り込んだ証拠の古墳」だというのは、月ノ岡古墳の定説です。
何もかも「大和王権」と結びつけて考えられるのですね。しかし、ここは装飾古墳ではありません。150mほど離れた日ノ岡古墳は横穴式石室の中に装飾があります。
では、では、大和王権の後に「装飾古墳の文化が入り込み席巻した」というのでしょうか。耳納山地の北側には装飾古墳がどっと増えるのですから。定説では説明がつきませんね。
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では、日ノ岡古墳も見ましょうか。広い境内を横切りまして、若宮八幡神社の正面横の古墳に向かいます。
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日ノ岡古墳と神社の間には、道路が通っています。
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墳長は78mとあり、月ノ岡古墳とほぼ同規模です。同心円とわらび手文、三角文の文様が描かれています。この日ノ岡古墳が後の時代とつながるのは、ラインを引いて確認することができます。もう、何処に行っても紹介していますが、改めて載せましょう。
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日ノ岡古墳、寺徳古墳・下馬場古墳は装飾古墳です。その墳丘部をつなぐと、高良大社の社殿にラインが届きます。おもしろいことですね。
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三か所の装飾古墳が一本の線上に並ぶのは大変不思議ですよね。
江戸時代に若宮八幡が一揆衆の集合地になったと云うことは、古くから祖先の地として二つの古墳を守っていたからかもしれません。が、月の岡古墳と日ノ岡古墳には共通点はないのです。装飾古墳の勢力が入って来て、元の勢力を取り込んで(嫁にするとか、氏を継ぐとか)いったのでしょうかねえ。色々あったでしょうね。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-09 17:30 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない!?

前畑遺跡筑紫野市は残さない
という話を今日聞きました。えええええ、本当ですか!!
非常に残念です。高度成長の時代じゃないのに、開発でしょうか。
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ここには、縄文時代・弥生時代・古墳時代から中世・近世までの遺跡が集まっています。そうでしょう、筑前と筑後の物流・文化・人々の交差点ですから、筑紫野は。
文化庁も県も努力したと風の便りに聞きましたが、遺跡は残りません。写真の部分はほとんど壊されます。残されるのは、山手の土塁が顕著なところではないのです。主要な部分、見学会で紹介された場所は、ことごとく無くなります。残念の一言です。
今は、見学も許可されていないそうです。

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版築の後も鮮明です。遺跡を調査している段階から、「ここは他と違う」と仕事している人が言い出して、調査が大きく動いたそうです。誰が見ても他と違う様子だったのです。
なぜ、こんなところに大きな版築土塁が在るのでしょう。まだ、何も分かってはいないのです。

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ここが騒がれているように羅城の一部だとしたら、倭国の都は九州にあったということになるではありませんか。筑紫野市にとっても大きな観光資源だと思うのですが、素人のたわごとでしょうか。
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これからの日本の人口は減っていくのです。開発が大事なものを壊していくのは、みんな承知しています。承知の上で経済成長を支えて来たのでしょう、今まで。しかし、考えなくちゃならないのは是からのことでしょう。
何を無くしてはならないのか、何に目をつぶるのか、重要な選択を間違ってはならないと思います。
しっかり目を開けて、何が未来にとって必要なのか、残されるべきか考えないと…
失った後では間に合わないのです。一人の市民として、行く先の短いものとして、わたしは前畑遺跡の消滅は悲しいと思います。

今日、遺跡の運命を聞かされてショックだったので書きました。


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# by tizudesiru | 2017-10-08 21:16 | 288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない | Trackback

耳納山・鯰・政変・一揆、田主丸の伝承いろいろ

耳納山の牛鬼伝承
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康平五年(1062)のある夜、ゴーンゴーンという鐘の音に然廓上人は目を覚まし「こんな夜中に誰が鐘をついているのだろう」と不思議に思いました。鐘つき堂には誰もいないのです。不思議な出来事は幾晩も続き、果ては婦女子が怪物に襲われるという怪異までもおこるようになり、「御仏の御霊光にかけても」と意を決した上人は正体を突き止めるべく木陰に実を潜め時の到るのを待っていました。
そこに現れた怪物は、顔は牛、体は鬼。しかし、上人はただ経文を読み続けました。すると、御仏の功徳によってか牛鬼も神通力を失い五体の自由さえ失いました。夜が明けるころ、駆け付けた村人たちにより怪物の首は都へ送られ、怪物の手は切り取られて寺に残されるこことなったのでした。耳は山に埋められて、その山を名付けて「耳納山」となった、という伝承が田主丸の紹介本に書かれていました。(写真は、その本をデジカメで撮ったものです)

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古墳で御こもり・塚神と八代龍王
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地徳の善院区の吉岡家の敷地内にある古墳には「塚神」として十一面観音が祀ってあります。この塚神の謂れは、次のようなものです。90年ほど前のこと、吉岡家の幼い長女が病弱で医者にかかっても効果が見られませんでした。ある日、トウニンサン(祷人)が訪れ、「塚の口を開けなさい。そして、十一面観音を祀りなさい」と勧められ、娘の快気を祈って教えに従ったそうです。
吉岡家のあたりはホノケ(字)といい、八龍ということだそうです。古墳の上には以前から「水の神」として八代龍王が祀られていたからでしょう。
この墳丘では年に一度「御こもり」が行われているそうです。この御こもりは一旦絶えたのだそうですが、村内で雷に打たれた人が亡くなることがあって、復活したのだそうです。


阿蘇神社の守り神鯰を食べない人々
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森山地区の人々は、鯰を阿蘇神社の使いと信じ、絶対に鯰を食べないという禁忌を守っていました。上の鯰の石像は、昭和十年(1935)に伊勢神宮に参詣した祈念に奉納されたものです。村人の支えによって代表が伊勢神宮に参拝した祈念なのです。タブーを守ることは、地区の人々の団結力も培ったのです。
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鯰は川魚として昔からよく食べられていましたが、それを禁忌として守ることは、阿蘇神社が中世の菊池市とのつながりができた頃に勧請されたとしても、長く人々の団結力を培ったのでしょう。
藩政に苦しみ一揆を起こした人々
その団結力は一揆にも反映されました。
享保十三年(1728)の一揆は、藩の税制改革が過酷であったので、当時、厳禁とされていた寄り合いを農民たちが各地で持ったのです。そして「大庄屋衆より聞き書覚」によれば、生葉郡若宮の森(現 吉井町若宮八幡境内)で二月二十七日から三月二日までの間に、最初は五~六〇人、次に八〇〇余人、さらに下郡からも参加して二〇〇〇余人の寄り合いを持ったのでした。
三月四日には、城下に押し掛ける覚悟で、菅笠・かうばし(はったいこ)の類を用意したのです。
この事態に、家老中達四名の連盟による税制改革案の撤廃書を出しましたが、信用ならぬと騒動は収まりませんでした。江戸には使者がたてられましたが、藩主からは「税制改革の方針どおりに進めよ」との申し渡しがありました。家老の有間右近も江戸に出府し藩主に一考を促しますが、「騒ぎ立て不届きの至り」と取り合いません。

八月上旬になって、上三郡の農民は「寄合極書」を申し合わせ、竹野郡・山本群からも嘆願書が提出されました。やがて、生葉郡竹野郡の農民の農民が動き出しました。大庄屋は制止しますが聞き入れられません。
八月二十日、農民は城下へ向かって進むことを相談して決めます。大庄屋は郡奉行所に農民の要求を報告しました。八月二十三日、農民はついに久留米市御井の切り通しまで進出したのです。

八月二十四日、家老の有間監物、同内記、同因幡、同右近ら、四人連名で「藩主の裁許無しには願い事は取り上げられぬ。ごくごく難儀の品々があれば藩主からの裁許なくとも詮議するので、そうそう居村に帰るがよい。この旨を相弁えないとすれば幾日滞留しても願いは受けぬ」と申し渡され、農民たちは各村々に引き上げたのでした。

 
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(吉井町の若宮八幡宮、広い境内があったのでしょう)
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久留米藩の税制改革は、正徳二年(1711)に始まり、享保を経て、延喬五年(1748)まで続きますが、藩の財政ひっ迫はどうにもなりませんでした。なかでも、享保十七年に大飢饉が西日本を襲った時には、年貢は平年の二割しか入らず藩は困窮し、領内では餓死者一万一一九〇人、死馬4000頭と伝わります。
更に悲惨だった宝暦一揆
享保一揆は、農民が年貢減免を要求した最初の一揆でした。ここで、彼らは団結する強さを学んだのです。同時に、為政者側は更なる弾圧と取り締まりの方法を考えたのです。ですから、宝暦一揆の場合は農民も強くなっていましたが、藩側も厳しくなっていました。
久留米藩の二大一揆は、生葉・竹野二郡を起点として起こっていますが、それは何故でしょう。この地域は江戸時代初期の「五人の庄屋」の物語が残っています。彼らは命を賭して大石堰を造り用水路を完成させ、地域のコメの生産力を上げたのです。(その後、水神として祭られています)しかし、その水路の恩恵で得た物を藩によりほとんど収奪されたのでした。生葉・竹野の農民の努力に藩は報いるどころか何もかも収奪したのです。


宝暦一揆は、藩権力に対する全領的な蜂起であったので、藩の権威維持と農民支配のために、事後処理は徹底されました。また、藩としても農民からの収奪の限界を知ることにもなったのでした。
一揆後、次々と関係者が捕らわれ始めました。6月末から7月にかけて三〇〇人にも及び、死罪三十七名、追放七十六名、過料四十七名、など厳しいものでした。
竹野郡は、庄屋が四名死罪、二名追放、村役人の重罪処分は他郡より多く、死罪三十七名のうち竹野郡の者は十一名と多いのです。(生葉郡は死罪五名)

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野中村久兵衛は、ただ一人さらし首となりました。

以上、田主丸町史の中身を少しだけ紹介しました。
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竹野の神鉾神社の拝殿の絵馬にあった「義士衣錦」の文字には歴史の重みがあるのですね。
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古代の磐井も耳納山地の西の御井で戦いました。中世の後醍醐天皇の皇子も耳納山地に陣を置きました。豊臣秀吉も耳納山地の西の端に陣を置きました。昔から耳納山地にはあまたの血と涙と汗が流れているのです。美しい山並には、様々な物語が隠れていますね。


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# by tizudesiru | 2017-10-08 01:45 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

田主丸の阿蘇神社は橘の紋

なぜか、阿蘇神社に橘の紋
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久留米市田主丸町地徳(善院、ぜい)2808
田主丸の阿蘇神社は、大クスが知られています。祭殿の後ろに樟があります。
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拝殿には橘の紋がありました。よく見ると、あちこちに橘の紋がありました。
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阿蘇神社はほとんどタカノハ(並びタカノハ、ちがえタカノハ、三段のタカノハ、などなど)ですが、ここはタチバナです。不思議です。神額にもタチバナがありますね。これは何故でしょう。
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ご祭神は、建磐龍命(たていわたつ)、合祀している祭神は、国魂神、木花咲耶姫、神功皇后、勝頼大明神、浅間之神。なんとも様々な神様が合祀されていますねえ。
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一段高い所に祠が見えています。
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人の入れ替わりで様々な神様が入れ替わり、粗末にもできず摂社・末社になったと云うことでしょうか。その中で、タチバナの紋は残されたと。
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広い境内の南は耳納山地。北には筑紫平野が広がります。
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阿蘇神社ですから、やはりナマズが置かれているのでしょう。ここだけ、阿蘇神社らしいところですね。

タチバナの紋は、ここのご祭神がもともとは「建磐龍命」ではなかったと伝えているのでしょうね。


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# by tizudesiru | 2017-10-05 14:48 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

ヒキガエルが守る姥ヶ城の天満神社

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ここには八幡宮
はない!
って、どういうこと?? 
不思議な天満宮だらけ

「南無八万大菩薩!」と弓をきりりと絞ったのは、平家物語の那須与一でしたね。武士は八幡神を信仰しました。八幡神は応神天皇で、武人の神なのでしょう。八幡神は神功皇后と一緒に祭られていますね。
案内してくださったM氏が言われました。
「不思議なことに、ここには八幡神社はありません。天満宮だらけです」
ふむ…むむ…では、八幡神を守護神とする武士の信仰が入って来なかったということですか?
それとも、神功皇后伝承が必要なかったということでしょうか? 
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「天」の字にすっかり慣れました。ここは、田主丸町地徳(姥ヶ城)の天満宮です。
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「鳥居杉」というのだそうです。境内への入口には杉の間に注連縄が張ってありました。神域を示したのでしょうね。鳥居を造るにはお金がかかるでしょうから。それとも、本来鳥居などなく、ご神域を示す「注連縄」があっただけでしょうか。
万葉集でも「標結はましを(しめ縄を張りましたのに)」とか「しめ野(標縄を張って区別した土地)」とか出てきます。大事な場所は、標縄を張って区別したのですね。
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あれ!天満宮に牛ではなく、カエルですか?
これは、ヒキガエルだそうです。
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狛犬の台座も梅ではなく牡丹(?)が彫られています。
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確かに天満神社ですね。
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神殿の南北の軒下には、青鬼・赤鬼が守りについていました。
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網戸の向うをのぞかせていただきました。
ご神体は菅原道真のはずですが、三柱の神様がおられるようです。ここも、ある時期に神様の入れ替えや合祀があったのでしょうか。
ふむふむ、ですね。ヒキガエルや三柱の御神体を参拝させていただきましたが、どうおもわれましたか?

ヒキガエルのお話、どこかにありましたね。


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# by tizudesiru | 2017-10-04 10:42 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

八代龍王(豊玉彦)が祭られた円墳と石室

八代龍王は個人宅にひっそりと…八代龍王社


田主丸町善院(ぜい)の八代龍王社の御祭神は豊玉彦
ごめんください、お邪魔しますと路地を抜けると八代龍王社が古墳の上に鎮座されていました。もともと辺りには古墳が沢山あったのでしょうね。後世、人々の集落ができ始めると塚は生活上いらないものになったかも知れません。屋敷を広げたり、畑を広げたりと、塚は無くなって忘れられ、すっかり庭の石材となり、用水路の石材となったことでしょうね。

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耳納山地の北側山麓は古墳の宝庫です。龍王社の背後には筑紫平野、目前の南には山塊。あの白建石が見えるのです。
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では、この円墳の石室にお邪魔してみましょう。やはり個人のお宅にお邪魔することになります
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お庭の奥に石室の入り口が開いていました。昔はここで蚕を飼っていたそうです。石室の中は真っ赤に朱が塗られていたそうです。狭い前室の奥に広い玄室がありました。
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天井は高く朱が残っているように見えました。下の写真は石室の天井です。
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玄室の奥壁の前にセメントの台があって、大石が少ししか確認できません。
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小口の石を積み上げて石室を造っているのですね。
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玄室の入り口の袖石です。両袖でした。壊されずに残されてよかったですね。
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しかし、古墳は放置されれば樹木が石を緩めていくかも知れませんね。

田主丸はミステリーゾーンがおおいです!
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-03 14:49 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

井樋権現は天武大地震を証明する

森影に井樋(いび)神宮
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田主丸町大字地徳(ちとく)
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井樋宮の御祭神は、天穂日命・伊弉諾尊・伊弉冉尊です。そして、ここは下宮です。中宮は此処から横の道を上っていけますが、上宮には別の道を使って登らなくてはなりません。
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上宮=井樋権現は上の写真の中の三角形の山です。かすんでいますが、電線の上のほぼ中央に小さく見えています。ここが白建山(白建石)です。天武大地震(678年)で斜面が崩れ花崗岩の岩がむき出しになったという所です。
耳納山地の西でも、高良大社の神籠石の北側が断層崖になり列石が崩れて切れています。これも天武地震の影響とされ、「神籠石」が678年以前の土木工事だと証明されたのでした。
地徳の白建石は花崗岩ですから、遠くからでも白く光って見えたでしょう。下宮の井樋宮に白い白雲母花崗岩が並べてありましたから、白い雲母がキラキラする石は井樋権現の化身だったのでしょうね。
この巨大な白石は筑後川の対岸からも目立ったようで、天武朝に筑紫国が分割された時、上座郡(かみつあさくらぐん)と下座郡(しもつあさくらぐん)を分ける郡境の直線を引くために利用されたようです。
このお話は田中正日子先生からも聞いていたので、井樋神宮を紹介してくださったMさんから再び教えてもらってうれしかったです。先生は実際に見て感動したと言われました。わたしも是非とも白建石を見たいと思いました
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古代の郡境は、筑後川の北北東に延びたの少し濃いラインで、そのラインを南にのばすとⒷの白建石につながります。今でも白い道がまっすぐに通っているのです。川向うからは目印にしやすかったのですね。
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この白建石の山頂からは8世紀~10世紀の土器が表採されています。「東川」と書かれた墨書土器もあり、麓には東川という地名も残るそうですから、何処の人が祭祀を行っていたか分かろうというものですね。
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井樋神宮の上宮と下宮は南北に並びます。祭祀は上宮で始まったのでしょうが、山頂では祭を日常的に行うには難しいこともあったろうし、その後も、山崩れ(山潮・やましお)などの被害も重なり、上宮での祭祀をある程度下宮に下ろしたのでしょうね。
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井樋神宮の入り口のミズヒキソウの花の色は白でした。清々しい空気が漂っていましたね。
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そうそう、神社と神宮は違いますよね。神社は別のところから神様に来ていただいて祭り始めた所ですが、神宮はもともとその地に生まれた信仰が中心になっていて、その宮が原点だということでしょう。
ですから、井樋神宮はこの地の信仰のご祭神を祀る神社ということですね。

それは、地域の誇りともなっているのでしょうし、参詣する者にも大変興味のあることになります。
では、また。



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# by tizudesiru | 2017-10-03 01:07 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

古代の祭祀場なのか、明見社は

古代の祭祀場 磐座と明見社
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明見社は小さな石祠でした。石祠の北には筑紫平野が広がり、明見社は北斗をここから眺めています。
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砥上山、宮地岳、大根地山、三郡山、宝満山、大城山という信仰の対象となった山々がここからは見えるのです。
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実は、この石祠の横は2mほど下がったくぼ地になっていて、清流が横を流れている十坪ほどの広場があり、磐座が祭られていました。
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この磐座は無残にも砂防ダムと橋がすぐそばに造られていて、いにしえの面影をわずかにとどめているだけですが、今も祭られ守られているようです。
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この磐座の横の橋を渡り、さらに杉林の中に入ると、井樋神社があるのです。
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実に深い森の中に井樋(いび)神社はあるのです。

それは、また明日。


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# by tizudesiru | 2017-10-01 21:06 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

謡曲「竹生島」と田主丸にあった地獄神社?

地獄(じごく)神社?と読んでしまった神社
しかし、宮地嶽神社と読むとわかりました
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筑後川流域田主丸天満神社
福岡県久留米市田主丸町竹野にあります。耳納山地の北側には古墳が集中しますが、古い神社も集中しています。
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鳥居の額には天満宮と書かれているそうですが、読みにくいですね。
天満宮ですから、ご祭神は菅公(菅原道真)と木花咲耶姫です。不思議な組み合わせですね。
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清々しい神社でした。祭殿には確かに男神と女神が祭られていました。
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境内もきれいに清掃されていました。ほとんど山の中の神社ですし、人もいないのですが。
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この神社の境内にお堂が見えますが、横に鳥居が見えています。そこから階段を上れば宮地嶽神社があると聞いたので参詣しました。
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真新しい鳥居がありました。「宮地獄(みやじごく)神社」という額ですが、何も気が付かずに階段を上りました。宮地嶽(みやじだけ)神社と思って手を合わせました。
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階段を下りて気が付いた人がいたのです。地獄だと…
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鳥居の神額が、宮地獄(宮じごく)神社となっていたのです。
嶽を獄に書き間違えるなんて、まさか、ないでしょう。むかしから「獄」の字をつかっていたのか、本当は宮地嶽神社ではなかったので、「嶽」の字を故意に避けたのか。どうなのでしょうねえ。まさか、地獄とはねえ。
と書きましたが、これは、宮地だけ神社と読むのだそうです。
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もうひとつ、鳥居の横のお堂に西国三十三箇所の三十番目の御詠歌が掲げられていました。
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なんで、ここに滋賀県の竹生島の弁財天信仰に謡われる御詠歌が架けられているのでしょうか。このお堂に、市来島姫(市杵島姫)を祭っているという理由からでしょうかね。
市杵島姫はスサノウとアマテラスの誓約で生まれたことになっている三女神の一人として知られています。出雲大社にある筑紫宮に祭られる大国主命の妃でもあります。つまり、もともと九州の神なのですね。
その神が弁財天して信仰され、竹生島の都久夫須麻神社にも祭られています。都久夫須麻神社は、「三代実録」(879年)には「筑夫嶋神社」と書かれ、10世紀の「延喜式神名帳」では、「近江国浅井郡都久夫須麻神社」と書かれています。


要するに、都久夫須麻神社は筑紫島神社ということでしょうか?
神社によると、竹生島に「雄略天皇三年に浅井姫を祀る小祠が造られたこと」が祭祀の始まりだそうです。また、天智天皇が近江宮を造る時、宮中の守護神として祭られたとも。
聖武天皇の時、「琵琶湖に小島あり、そこは弁財天の聖地であるから寺院を建立せよ」と神託があったので、行基に宝厳寺を開基させたということです。
そうですか。やはり聖武天皇は天智天皇の守護神だった竹生島の神を祀り敬ったということでしょうか。

そうそう、謡曲「竹生島」(宝生流)のことも一事、書かなければなりませんでしたね。
あらすじは『延喜の聖代(醍醐天皇の御代)に仕える臣下が竹生島の参詣に出かけて琵琶湖畔に着くと、老人と若い女が乗った船があったので、同情させてもらう。湖上の春景色を眺めているうちに、舟は竹生島に着く。女が降りるのを見て、臣下はこの島は女人禁制であると聞いていると不審顔をするが、老人は島に祭られている弁財天は女体の神であり、それを知らない人が言ったことであろうと教え、島の由来を語った後、自分たちは実は人間ではないことを明し、女性は社檀の中に消え、老人は波間に姿を消す。(中入り)
臣下が待っていると、社檀が揺るぎ光輝く姿の女体の弁財天が姿を表して舞を舞う。やがて湖上の波が荒れたかと思うと龍神が現れ、光り輝く金銀珠玉を臣下に授けて、素性済度の誓いを表して水中の龍宮に飛んで消え失せる』という大変華やかな弁財天が登場するものです。

謡曲は近世に流行した演劇でしょうが、演目は平家滅亡とか大きな政変に関わる「亡霊」や神や仏が出てくる中身が多いように思います。竹生島も浅井(あざい)媛が首を斬られてできたという伝承の嶋ですから、弁財天の話も入りやすかったのでしょうね。

 

面白いことはまだまだありましたが、ここまでにします。


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# by tizudesiru | 2017-10-01 01:48 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback

穂波川流域に栄えた土師氏


狭い所に前方後円墳が集中桂川町
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古墳が集中するのは、穂波川と泉河内川の間です。川の氾濫原から一段高くなった丘陵の上に前方後円墳があるのです。
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右端に王塚古墳の墳丘が見えているはずですが、確認しにくいでしょうね。
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王塚古墳館の桂川町紹介(古墳)の画像を見てください。
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上の画像の古墳は、山が荒れていて見学不可能です。
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王塚古墳と天神山古墳は見学できます。
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この地域には7基の前方後円墳があるそうです。が、その経済を支えたのは何か、なんという氏族が政治経済を握っていたのか、わかっていません。
古墳時代の集落跡がほとんど見つかっていないのです。これだけの墳丘を続けて造るには、人手が必要ですし、技術も知識も必要です。よそから働きに来たとは考えられませんから、地域の住民がかかわったはずです。
僅かに古墳時代の遺跡が土師(はじ)地区で発掘されています。其の出土物は王塚古墳館に展示してあります。確かに須恵器の甕のようすから、古墳時代の遺跡ですね。
天神山古墳の八幡神社は土師地区から遷したということでしたから、古墳群を造ったという伝承が土師地区にはあったかも知れませんね。江戸時代までは。

更に古い伝承もあります。
『九〇一年(昌泰四年)正月、菅原道真は右大臣・従二位であったが、正月二十五日、大宰府に左遷された。この頃、土師郷に土師氏がいて、土師庄の領主であった。道真はもともと土師氏であったので、同じ土師氏であるからと、大宰府にいる道真と親交をむすんだ。九〇三年(延喜三年)二月二十五日に道真が大宰府で没したので、土師氏の人が道真をオオクニヌシノミコトを祀る神社に祭った。』という伝承が土師の老松神社神職の高森氏の家に残されているそうです。


土師地区の人は「同じ土師氏だから」とオオクニヌシをまつる老松神社に道真を祭ったのですね。なかなか面白い伝承です。
だって、大国主を祀る神社だったのでしょう!! 土師氏は大国主を祀っていたなんて?! です。
大国主命が大化改新までの倭国の神だったのではないかと、私は思っているのです。九州と日本海側と関東にその信仰は広がっていました。が、政変により大きな神社は祭神が変えられた、小さな神社は相手にされず見逃されたと思っているのです。人口の少ない集落に古い神々が残されていますものね。

時代が変わるたびに、鎌倉武士により神社の祭神の入れ替え、江戸時代の藩政による別の神社の勧請などで摂社・末社に主祭神が置き変えられるなど、いろいろあったということです。
桂川はなかなか面白い町ですよ。


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# by tizudesiru | 2017-09-25 15:48 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Trackback

初めて見た突堤の溝・天神山古墳現地説明会

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(上の写真は桂川町の王塚古墳です。奥の森の中にも古墳群があります)
筑前王塚古墳近くに天神山古墳があり、その墳丘の見学会がありました。
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大きく削られていますが、そこに豆田八幡神社があります。この神社は江戸時代に土師地区から遷されたものだそうです。その時、削られたのでしょうか。
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国道200号の上に陸橋がかかっています。渡ると天神山古墳です。
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遠賀川の支流の穂波川と泉河内川の間には古墳が集中しています。後日紹介します。
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神社の裏に回ります。
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古墳の突堤の一部が見えます。
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トレンチを見ると、地山を削り出して古墳を造ったことが分かります。前方部の角もトレンチで確認されていました。
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白い棒の先が前方後円墳の前方部の端ということでした。
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上の写真が前方部です。では、後円部へ進みましょう。
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今回の見学会のメインは、この突堤の切れ目でした。突堤に通路のような溝が造られているのです。このような溝は他に例がないとのことです。これは、1940年の調査の時も確認されていて、再確認されたのです。
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上の測量図が1940年の調査で造られたものです。左上の突堤に切れ目があります。
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決して大きくはない渠で、周溝に降りる所に一段、突堤から外へ出る所に一段階段がありました。周辺の腐葉土などの堆積物から判断して、この溝は築造時からあったということです。
それは、どういうことでしょうか。築造時、この溝は必要だったのです。
何かを運ぶために開けられたのか、お祭りをする時の通り道として掘られたのか、理由はわからないそうです。
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後円部の墳丘の上は平らになっています。瓦が落ちていますから、一昔前に社が建てられていたのでしょう。それにしても、この古墳には遺物がないのです。須恵器が神社の辺りで表採されたのみで、埴輪も葺石もないそうです。石室らしきものも未だ確認されてなくて、墳丘部を電波で探査したけれど、それらしい反応はなかったとのことです。
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怪しい古墳ですか? そうなのです、とても不思議です。
6世紀後半の古墳なら円筒埴輪だけでなく形象埴輪は伴うはずです。近くの王塚古墳のように、横穴式石室があるはずです。周溝が盾形ではなく、くびれ部で内側に突堤がカーブしているのも変です。
本当に6世紀後半でしょうか。

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私は、突然思いつきました。この溝は、古墳が出来上がった暁にはふさがれる予定だったのではないか、ということです。つまり、ここは途中で築造がストップした古墳だと思うのです。なぜか? それは、何らかの政変が起こったということでしょう。墳丘を作り、石室のための穴を掘り、石を運び込む、という手順で行われていた土木工事、その工事が途中で止まったのではないか!! だから、石室もないし、埴輪もなければ葺石もない、人々の祭祀の跡もないので生活用の土器も出ない、としか考えられないのです。そんな状況で被葬者の木棺直葬があったかも知れませんね。想像ですが。

今日、丁寧なご説明をしてくださった先生、ありがとうございました。大変面白かったです。
石室の調査をぜひお願いしたいですね。天神山古墳の築造時期は何時頃でしょう。
興味の湧く見学会でした。



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# by tizudesiru | 2017-09-24 00:07 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Trackback

香具山を詠んだ三人の天皇(2)

吾は山常の大王であるぞ

舒明天皇が香具山を詠んで主張したのは「香具山に降り立ったぞ。これからは私がヤマトの大王であるぞ」ということでした。
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万葉集の巻一の冒頭は雄略ですが、二番歌に舒明天皇の歌が置かれています。それは、明日香に入った初めての男王である舒明帝が、香具山で国見の儀式をして大王であることを宣言した歌であるからなのでしょう。
万葉集がどの大王を祖先とし、どの王朝の繁栄を願い、誰を慈しみ、誰を哀悼し、何を主張しようとしたのかという、万葉集の根幹にかかわることの、その一端が「舒明天皇の国見歌」からも読み取れるのです。


香具山を氏の守りの神山としたのは、舒明天皇です。舒明天皇は「山々が折り重なったようなヤマトの地に降り立ち、群山の中で鳥もよろけるような神山である香久山」を選びました。もちろん、周囲が開けた一等地の甘樫の丘は既に蘇我氏のものでしたから、そこに入り込むことはできなかったのです。
それでも、天香久山の周囲は開け畝傍も耳梨も見えて豊かな土地でした。

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舒明天皇はあんがい伊予国の人だったかも知れませんね。
案内板にもありました「伊予から天降った」という伊予の風土記と、萬葉集を合わせても読むとそういう結論も出てきますね。
巻一の六番歌の左脚に、「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはない。ただ山上憶良の類聚歌林によると(日本書)紀には(舒明)天皇の十一年、己巳の朔の壬午に伊予の湯に行幸された」書かれています。
また、巻一の八番歌「熟田津に~」の歌の後に、「斉明天皇が熟田津の石湯の仮宮に行かれたとき、天皇は昔日の物がなおも残っているのを見て、たちまち感愛の情が起こり、哀傷のために歌をお読みになった」ことが書かれています。

34代舒明天皇は明日香の地に入った初めての男王でしたが、それを望んだのは蘇我氏でしょうか。
29代欽明帝の宮は桜井市で、30代敏達帝の宮も桜井市と河内長野です。明日香は田舎だったのでしょう。そこで馬子は飛鳥寺を作り華やかな仏教文化を取り入れました。しかし、用明帝の宮は桜井市、せっかく大王位に着けてやった崇峻帝も宮は桜井市倉橋でした。当時の物流を考えると、大和川を遡れる桜井市の方がずっと政治経済的には有用な土地だったのでしょう。明日香川はあまりに小さく水量も少なかったのです。
崇峻帝は愚かではなかったのですが、蘇我馬子は崇峻帝を暗殺してしまいます。


やっと明日香に迎えた舒明帝は、蘇我系の女帝・推古天皇の遺言のようなもので選ばれた天皇でした。どうしても明日香に「大王」宮を招致したいという推古帝の使命感だったのでしょう。明日香のために、蘇我氏の発展のために。
斑鳩の宮にいた山背大兄皇子は蘇我氏に除かれましたよね。
難波宮の孝徳帝の場合も、中大兄が背いた理由の中に、明日香から離れたことへの蘇我系氏の不満があったかも知れませんね。
経済を握ることが政治の目的だった、人民は関係ない、今も昔もかわらないのですね。

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以来、藤原宮に遷るまで、明日香がひとまず都でした。明日香から大津へ遷都するときの歌は、万葉集のどの歌も不安に満ち、寂しさに心おれそうです。つまり明日香を基盤に生れた王権が他へ遷ることは「本家」を捨てるように思えたのでしょう。
それでも、世は変わり都は遷っていきました。



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# by tizudesiru | 2017-09-22 11:15 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Trackback

天の香具山を詠んだ三人の天皇(1)

衣干したり天香具山

飛鳥の天香具山を訪ねましたが、草が多くてちょっと登れませんでした。でも、少し紹介しましょうね。


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案内板に従って天香具山に向かって少し歩きます。152mほどの山ですが、一人で上るのはやめました。山頂への登山口が見えています。
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ここからは西の畝傍山がよく見えます。
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大和三山の畝傍山と耳成山は死火山です。香具山は多武峰からの山稜が伸びてきてそれが独立したすそ野の一部です。
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登山口に天香具山神社と天岩戸神社の道路案内がありました。此処から二つの神社は離れています。
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平成17年にできた説明板がありました。
香具山を詠んだと万葉集に残るのは、三人の天皇です。持統天皇・舒明天皇・天智天皇です。

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舒明天皇の国見歌の石碑が建てられていました。歴代の天皇は大阪の百舌鳥古墳群や近津飛鳥(磯長)や桜井市や天理市に陵墓があります。
明日香に所縁のある天皇は欽明天皇以降ですね。
舒明天皇が明日香を手に入れて登った国見山が「香具山」だったというのです。
新しい王朝なのでしょうね、舒明朝は。

香具山のお話はつづきます。


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# by tizudesiru | 2017-09-21 15:12 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Trackback

檜隈寺跡は天皇の宮跡

キトラ古墳のすぐそばに檜隈寺跡
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中央の小高い丘にキトラ古墳があります。
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振り返るとくぼ地があり、坂道をのぼると森があります。中央の森が檜隈寺跡です。
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森の中に於美阿志(おみあし)神社があります。
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「檜隈は百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志はその阿智使主を祭祀する。檜隈寺跡は」その神社の境内にあり、塔と金堂と推定される建物跡を残す。日本書紀、天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の〇〇〇跡からは、7世紀末の瓦が出土する。〇〇〇ある十三重石塔は上層の一部を欠いているが、文化財に指定されている。」と、案内文にあります。
下の案内板には、大字桧前となっていて、地名は檜隈ではなく桧前(ひのくま)となっています。

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於美阿志神社の境内には、宣化天皇桧前廬入野宮址と書かれた石柱がありました。28代宣化天皇は、継体天皇の皇子です。
29代が同じ継体天皇の皇子の欽明天皇です。欽明天皇の陵は、明日香村大字平田にあり「檜隈坂合陵」と呼ばれています。

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更に奥に進むと石塔が見えてきます。
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石塔は於美阿志神社の社の隣の敷地に在ります。ここが塔跡のようです。
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於美阿志神社を挟んで北には講堂跡があります。近江の崇福寺・南滋賀廃寺、山城の高麗寺などで見られる瓦積基壇を持つ建物は、明日香では初めて見つかったものだと書かれています。
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基壇上には礎石が残っていました。
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於美阿志神社の神殿です。ここから北に30mほど歩くと、瓦を焼いた窯跡があります。
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古い瓦当文様もありますね。
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芝生の斜面が瓦窯跡で、すでに埋め戻されています。
奥の森は檜隈寺の講堂址ですから、古代には使用する瓦を寺院のすぐ近くで焼いたことが分かりますね。

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では、檜隈寺跡とお別れしましょう。
そうそう、わたしが何ゆえに檜隈(檜前)寺=宣化天皇宮址を取り上げたのか、大事なことを書いていませんでしたね。
わたしは日頃から飛鳥に関心を持っています。そこは「飛ぶ鳥=霊魂の国」だという意味の地名だと思うからです。しかし、其の思想は古代からの物ではありません。天香具山をトーテムとした氏族が生みだしたものです。
其の証拠に、書紀によれば、古代の歴代天皇の陵は、大阪府の百舌鳥古墳群や磯長(近つ飛鳥)や桜井市や天理市や橿原市にあるではありませんか。
その陵の事実関係はともかく、古代天皇の出身地は飛鳥ではないのです。
飛鳥に入るのは欽明天皇からで、それまでの天皇の宮跡もありません。飛鳥を宮とした宣化天皇が渡来系の氏族の寺跡と重なるのは、面白いと思ったからです。
縁もゆかりもない所に住んだりしないでしょう。何かしら関係があるのです。それは、瓦によっても分かりますからね。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-09-21 11:36 | 283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址 | Trackback

呉音と漢音で「倭人伝」の役職名・人名を読む

初めて接した漢字の発音
倭国が初めて接した漢字の発音は、今日、呉音・対馬音とか呼ばれるものだったそうです。
万葉集は万葉仮名と呼ばれる漢字で書かれています。
やはり、多くは呉音の発音で読むようです。漢音と呼ばれる今日ではよく使われる発音は、八世紀になって唐と交流が始まって後に入って来た「発音」といわれます。
中国では本来漢字の読みは一つです。しかし、日本では漢字が取り入れられた時期が幾度もあるので、読みが幾通りもあるのです。
例えば「明治めいじ」や「明神みょうじん」などのように「明」をメイ(漢音)と読んだりミョウ(呉音)とよんだりします。呉音と漢音という入ってきた時期が違うので様々な音読みがあるのです。

一・二・三、壱・弐・参、イチ・ニ・サン、日本語そのもののようですが、これらは古代中国語の呉音の発音なのです。

過去の文献の個人名など呉音で読むか漢音で読むか気になります。

「倭人伝」も呉音で読まなくちゃいけませんよね。やってみましょうか。

赤(呉音)、色無し(漢音)、青(呉、漢、両方に共通)


倭(ワ・イ)国              *地方名(読み) ワコク・イコク

卑()狗(・コウ)           *対馬、壱岐(読み)ヒク=ひこ

卑 奴(ド・)母(ボ・)離()   *対馬、壱岐(読み)ヒヌモリ=ひなもり

爾(ジ・)支(シ)→イをつけて伎(キ・)*伊都国(読み)ニギ=にぎ・ねぎ

泄(エイ・セツ)謨(ボ・)觚(・ク) *伊都国(読み)エモコ

柄(ヘイ)渠(キョ・?)觚     *伊都国(読み)ヘゴコ

兕()馬(バ・)觚       *伊都国 (読み)ジメコ・シマコ

多()模(・ボ)       *不弥国(読み)タモ=たま

投(トウ・)馬         *投馬国(読み)ヅマ・=つま

彌(ビ・)彌          *投馬国(読み)ミミ

彌 彌 那(・ダ)利()   *投馬国(読み)ミミナリ

邪(ジャ・シャ・ヤ)馬 壹(イチ・イツ) *邪馬台国(読み)ジャマイチ・ジャメイチ      

伊()支 馬            *邪馬台国(読み)イキメ

彌 馬 升(ショウ)         *邪馬台国(読み)ミメショウ・ミマショウ

彌 馬 獲(クァク)支      *邪馬台国(読み)ミマワキ・ミメワキ 

奴 佳(カ・)鞮(テイ)      *邪馬台国(読み)ヌケテ 

勝手ながら呼んでみましたが、なかなか日本語らしくなりませんね。
中国の人が聞き取った日本語を漢字に変えているからでしょうね。

漢字が日本に入って来たとき、みんな苦労したでしょう。
どんな発音なのかが分かると、万葉集も古事記も文化的に何時の時代を反映するのか察しがつきますよね。
日本国になって、唐と交流するためには新しい漢字の発音が必要でした。急いで新しい読みを取り入れられたでしょうが、それまでに培った文化はなかなか消せるものではありませんから混乱したでしょう。
万葉集の時代には「雲・天・雨・日・月」など身近な言葉は既に訓読みが浸透していました。漢字を消化するには時間がかかったと思いますが、文字を手に入れることは大きな喜びだったことでしょうね。



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# by tizudesiru | 2017-09-18 16:23 | 282呉音で書かれた万葉集と古事記 | Trackback

キトラ古墳の被葬者は舎人皇子

キトラ古墳の被葬者は
舎人皇子
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古代史ファンの注目を集めた壁画を持つキトラ古墳の被葬者はだれでしょう。私は舎人皇子と思うのです。キトラは天武帝の家族の領域に位置しています。
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天武持統陵は藤原宮(白いポイント)の真南にあります。文武陵は天武陵のほぼ南にありますが、真の文武陵は中尾山古墳とされています。
高松塚古墳Ⓑは耳成山の真南にあり、藤原宮と結ぶと間に中尾山古墳が入ります。耳成山の真南に中尾山と高松塚古墳があるのです。
皇族のトップになる高貴な人の陵墓は、適当には造営されていません。ちなみにⒶ は菖蒲池古墳です。
同じ氏や家族の墓は意味のある場所に造られ、ゆかりの人の墓や寺とラインが引けます。すると、キトラ古墳の主は、天武朝の皇子ではないかと思うのです。
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(中尾山古墳)
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(高松塚古墳)
キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵に造られた壁画を持つ古墳で、壁画も高松塚古墳に似ています。
キトラの被葬者も天武帝の皇子でしょう。それも皇位継承権があった皇子だと思います。
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天武天皇の皇子はあまた居ますが…
草壁皇子亡き後、持統天皇が皇位を受け、10年後に軽皇子(文武天皇)に譲位しました。軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子は、文武三年(699)に薨じました。彼は兄の長皇子の方が軽皇子(文武天皇)より皇位継承の地位が高いと主張したのではないでしょうか。

若い文武天皇の崩御が慶雲四年(707)です。
持統天皇も既に崩御(702)されていたし、大変な事態となりました。しかし、文武天皇の母である元明天皇が即位したのです。孫の首皇子(聖武天皇)に皇位をつなぐためでした。

和銅七年(714)首皇子が元服

和銅八年(715)氷高皇女即位
いよいよと思われたこの年、有力皇子(親王)が次々と亡くなりました。
6月(長皇子)、7月(穂積皇子)、8月(志貴皇子)、そして9月に即位したのが、氷高皇女(元正天皇)だったのです。
(父の文武天皇も15歳で即位したのに、首皇子即位はかないませんでした。聖武天皇が即位したのは、10年後の養老八年(724)です)

和銅八年、有力皇子は次々と死亡しています。
長生きして50歳を超えたのは、新田部皇子と舎人皇子でしょうか。ふたりは、天平七年(735)に没しました。
二人の違いは母の出自でした。
新田部皇子の母は鎌足の娘・五百重娘ですが、舎人皇子の母は天智天皇の娘・新田部皇女です。二人の身分は全く違っているのです。長皇子も弓削皇子も母は天智帝の皇女でした。もちろん高市皇子の母も天智帝の皇女です。皇位継承権は天智・天武の皇統にこそあったのでしょう。
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(キトラ古墳)
発掘された歯のようすから50~60の皇子となれば
キトラに眠るべき皇子は舎人皇子(舎人親王)以外にはいないのです。
万葉集からも舎人皇子が皇位継承の立場にあったことが窺えます。
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人麻呂は708年に没した柿本佐留だと考えていますから、人麻呂の歌は舎人皇子の若い時に献じたものだとなります。
舎人皇子、皇子が皇位継承の対象である限り、ゆめゆめ油断召さるな。
多武峰の霧はいつでも厚く立ち込めて皇子を狙っているのですから。


長生きした舎人親王は王者として、しかし、こじんまりとしたキトラ古墳に葬られたと思うのです。薨去の時舎人皇子に残されていたのは、優良な皇位継承者だったという名誉だけだったのでしょうか。
だからこそ、舎人皇子の息子・大炊王(淳仁天皇)は藤原仲麻呂(恵美押勝)に担がれるのです。そして、父の舎人皇子に「天皇」の追号を望むのですが果たされませんでした。

キトラ古墳に戻りますが、皇子でなければ、天体図の元には眠れないと思うのです。舎人皇子は高市皇子と同じく行政のトップ(知太政官事)にありました。721~735の十五年間もです。その間には「長屋王の変」がありました。事件に遭遇した時、舎人皇子はどんなことを考えたのでしょうね。

もしかしたら、舎人親王は常々「皇位継承の正当性を正そう」と息子に語っていたのかも知れませんね。
大炊王はそれを現実のものにしたかったと…考えられないこともありません。


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# by tizudesiru | 2017-09-17 00:26 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback

キトラ古墳の主は星空と四神と十二支神に囲まれた

キトラ古墳の被葬者は誰

キトラ古墳の被葬者として、歴史に名が残されている人を当てようとするのは、仕方がありませんね。何処の誰かが分かると、古墳の意味と時代の様相が格段に理解しやすくなりますからね。
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道の奥の斜面の木の間にキトラ古墳が見えています。

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キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵の斜面にあります。すぐ隣にある集落は「阿倍山」といいます。
その地名があるからキトラの被葬者を「阿倍御主人(あべのみうし)」とする説があるのです。阿倍御主人は大宝元年(701)三月に右大臣に任命されています。

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(写真の集落は阿倍山です)(下の写真はNHK)
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さてさて、キトラ古墳の被葬者は誰なのでしょうね。出土した歯のようすから石槨に葬られたのは一人で、50~60歳の男性のようです。
そうなると、若くして亡くなった弓削皇子説などは消えますね。
40代の高市皇子説も消えるでしょう。
すると、阿部御主人説が有力になるのでしょうか。
しかし、小さい墳丘ながらもキトラ古墳の石槨の天上に天体図があります。
阿部御主人の墓なら、右大臣なのに北斗七星のもとに眠るのでしょうか。
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上の写真は、孝明天皇の即位の儀式で着用された礼服ですが、これに北斗七星の図が使われています。
北斗は、極位に登る方が礼服に使用されるべき星座というのでしょうね。
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(キトラ古墳の天上の天体図です)
三重の同心円は、内規・赤道・外規です。
内規は常に見えている星で、外規は季節ごとに見える星だそうです。赤道は太陽の通る道となります。
中心のずれた円は黄道で、月の通り道です。
この天文図は紀元前1世紀中ごろと推定されているそうです。


紀元前の星の位置を記録したという「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したので、「中国からもたらされた星図をもとにして描かれた可能性が高い」とされています。
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中国ですか……古代の日本も月や太陽の観測はしていたはずですよね。神話にも「月読命」っておられますからね。神社の行事にも未だに月を観測する行為が残されていますからね。
それにしても古い天体図を描いたのですね。
キトラの絵師にも渡された下図があったはずですよね。それが是ですか。

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(体験館の図をお借りしました)
右大臣阿部御主人が被葬者とすると、右大臣の墓に天体図(体験館の写真を使わせていただきました)や十二支の人形図が書かれたのは何故でしょうか。
玄武に朱雀に青龍といった神聖な四神が墓に描かれたのですから、その社会的立場は相当に重要だったのではないでしょうか
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中国の山西省の金勝村7号墓の壁画にキトラ古墳の壁画が似ていると放送されていました。かなり前の放送だったので余り覚えていませんが、金勝村7号墳の被葬者は、どんな身分の人だったのでしょうか。
御存じの方がおられたら教えてください。

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そうそう、
高松塚古墳にも四神や星座が描かれていました。
何より高松塚は藤原宮大極殿の真南に位置していました。選ばれた墳丘墓でした。

では、
キトラ古墳は、どのような位置にあるのでしょう


つづく


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# by tizudesiru | 2017-09-14 15:40 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback

キトラ古墳の被葬者

聖徳太子の墓は終末期の古墳でした。
それも、明日香の岩屋山古墳に近い石室とされました。では、飛鳥の終末期古墳・キトラ古墳も見てみましょう。

終末期古墳・キトラの被葬者は?


紹介文には「キトラ古墳は高松塚に続き日本で二番目に発見された大陸風の壁画古墳です。」と書かれていました。

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発掘された時のキトラ古墳。四角い穴は鎌倉時代の盗掘の跡です。
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盗掘の穴から覗くと、四神・天体図・獣頭十二支像などの壁画が見つかりました。
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高松塚古墳に続く発見となり、中でも天体図は魅力的でTVにも取り上げられました。
壁画の保存に伴い辺りは大きな公園になりました。
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それにしても、被葬者は誰なのかが話題になりました。7世紀末~8世紀初めにかけての終末期古墳ですから、被葬者もかぎられるはずですし、天体図や玄武などの四神が描かれ、獣頭の十二支像が描かれるなど、高貴な人に限られのです。

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天武天皇の皇子である高市皇子、同じく天武天皇の皇子の弓削皇子、高官であった百済王昌成、古墳の周辺が阿倍山という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が挙げりました。
石室は狭いのですが、副葬品を見ると金や銀を使った豪華な木棺など有りますから、身分の高い人だったに違いありません。
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壁画を見ると、将に王者のものですね。しかし、古墳は小さい…
この小さな古墳に眠っていたのは何処の誰でしょう。高貴な方には違いないのですが。

つづく


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# by tizudesiru | 2017-09-13 09:36 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback

聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

聖徳太子の陵墓の石室は、飛鳥岩屋山古墳に似る

この夏、飛鳥の岩屋山古墳を訪ねてみました。
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明日香駅から線路を渡ります。
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古墳があるのは細い坂道の途中です。
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道なりに進むと、道標が見えます。
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線路を渡って、5分ほどで岩屋山古墳に着きます。
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みごとな切石の石室です。叡福寺の聖徳太子の墳墓の石室もこのようになっているのでしょうか。
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外観は削平されていて墳丘のかたちははっきりしません。
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小高い丘陵の途中なので辺りの景色がよく見えます。
この岩屋山古墳の主はどんな人だったのでしょう。
似ている石室だから、聖徳太子と同じ時代に活躍した人なのでしょうか。
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叡福寺の棺は漆塗でした。「藤原鎌足と阿武山古墳」の図によると、叡福寺は脱乾漆棺になっています。要するに布に漆を塗って固まったら、枠組を抜いていっそう軽くしたものです。
ということは、皇太子のために最高の技術を用いて棺を造ったのか、後世の人が棺を変えたか、または皇太子ではなく後世の人の墓だったのか、いずれでしょうね。

野口王墓(天武・持統陵)は切り石の石室でした
そこに、脱乾漆の天武帝の棺があります。脱乾漆は最高の技術だったのでしょうね。
図によると、終末期古墳の棺に漆がつかわれたようです。
叡福寺も漆塗りの棺ですから、高貴な人で最高の棺に葬られたということです。 
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聖徳太子は実在しなかったのか?と聞かれたことがあります。

どうでしょうか? 平安時代の一般の人は日本書紀など読みませんから、そう云うもので太子を知ったのではないでしょう。
しかし、太子信仰は平安時代に盛り上がり、所縁の寺や太子創建という伝承の寺があちこちに現れてもてはやされました。太子の誕生から逝去までの物語が広く世間に広がりました。信仰上の物語は太子の実像とずれるかも知れませんが、世の中が変わり始めた時に新しいものを取り入れていく人がいて、高貴な男性だったとしても、何の不思議もありません。

ただ、隋書の「日出る処の天子」は男性で、最高の身分だったはずですが、書紀によれば隋書に書かれたその時は女帝(推古天皇)になっています。皆さん十分にご存知です。

でも、なぜ? 

本当は、聖徳太子は皇太子ではなく天皇になっていた(この場合書紀と矛盾する、書紀は女帝)か、
または、「日出る処天子」は別の地域の天子だった(この場合よその地域の話を取り込んだことになる)か、
便宜上、聖徳太子が天子として国書を書いた(これだと、裴世清が倭国に来ているから嘘が露見したはず)か、


聖徳太子の話は、なかなか虚実ないまぜで、分かりにくいのです。

貴方はどう思いますか?


聖徳太子の実在と物語の接点にある叡福寺古墳の実態がはっきりしてくれば、これらの事のいくつかは解決されるかも知れませんね。

また、明日。


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# by tizudesiru | 2017-09-08 15:40 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback

明治まで石室内を見られた聖徳太子の陵墓

上之太子叡福寺の聖徳太子御廟
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叡福寺に太子の御廟があります。
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明治の初めの頃までは、この御廟の石室内に入ることができたそうです。
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御陵内を実検せり。即ち隧道の口を開くれば、

大沢清臣の実検記

「…御陵内を実検せり。即ち隧道の口を開くればその高さ六尺四寸、広さ6億尺、長さ二丈四尺許にして奥に石室あり。高さ広さ各一丈、長さ一丈八尺許なり。

而してしの隧道の左右は大石四枚を以って築並べ蓋うに三石を以ってせり。また、石室は左右大石各五枚、奥は二枚を以って築上げ蓋うに亦大石二枚を以ってせり。

而してその最奥の正面及び左右に石三枚を据えたり。正面の一枚は高さ一尺六寸、長さ六尺六寸、幅二尺五寸許あり。

その平面の正中を手水鉢のごとく深さ六寸許に彫り左右漸く深くして八寸余りあり。左右の横方に水抜きのごとく孔をえぐりたり、その仔細詳らかならず。又、右に据えたる一個は正面の石より三尺五寸許離れて前方によせて西面にすえたり。高さ二尺二寸、長さ八尺、幅三尺六寸五分、左にある一個は西方によせて、右なるに相対して東西に居たり。高さ二尺二寸、長さ七尺一寸五分・幅三尺あり。この左右に相対する二個は上面平らなり。ただし、この三箇の石は皆切り石にて側面は礼盤の側面如く彫れり。

又、この石の辺りに箱の破砕したるごとき板の腐朽せるあり。掻き集むるに凡そ二斗許あり。日光に照らし見るに布張黒漆の箱の腐朽してこの如くなれるなり。

是、全く御棺の破砕せるもの与」

上の実検記を検討した梅原末治の「聖徳太子磯長の御廟」で、問題点を提示しています。

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梅原末治は石室の様子を図にしたのです。それが上の第2図です。棺台が三箇あり、いわゆる三骨一廟。
奥が太子の母・穴穂部間人皇后、前面向かって左に膳郎女、右に聖徳太子の棺で、穴穂部間人皇后は石棺、他の二人は夾紵棺で、仏具の装飾などに用いられた格狭間を刻した石製の棺台にのせられていたそうです。


以上の資料を信頼すると、石室の構造は大和飛鳥の岩屋山古墳と似た切り石石室に、格狭間を刻した棺台を有し、漆塗りの棺をおさめる点では、磯長の御廟より北西2kmの御嶺山古墳と類似、これらから太子墓内部のようすを類推することができます。
ただ、石室が岩屋山式の切り石造りの横穴式石室であることは確実と思われますが、内部の棺および棺台については問題もあり、三骨一廟についても鎌倉時代の「聖徳太子伝私記」には記録されていますが古事記・日本書紀・延喜式などは全く触れておらず、果たして本当に三骨一廟であるかなど、問題点も多くあります。
このような問題点があるにも関わらず、被葬者=聖徳太子の最も確実性の高い古墳で、類似古墳の年代決定の拠所となる重要な古墳であるといえます。

以上、「王陵の谷・磯長谷古墳群」(竹内街道歴史資料館)の資料と文章を書き写させていただきました。

面白く読ませていただきましたし、大変参考になりました。
太子信仰の盛り上がりは理解できたのですが、太子の御廟かどうかには疑問が残りました。

太子の御廟ではないとなると、これは大変なことですね。

驚きました…では済まなくなりますね。

この古墳が類似古墳の年代決定の拠所となるのでしたら、安易な妥協はいけませんよね。

これらの問題点については、また、次に。


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# by tizudesiru | 2017-09-07 17:04 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback

聖徳太子の陵墓は、三骨一廟

聖徳太子が眠るのは叡福寺

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この夏、叡福寺を訪ねました。磯長山叡福寺は聖徳太子の御墓がある寺院です。
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「河内国 上之太子 磯長山叡福寺縁起」には次のようにかかれています。

叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地であるかっての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。

また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であるところから太子寺・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法隆寺と並んで太子信仰の中核をなした寺院である。

なお、一連の太子建立伝説を持つ八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と俗称されしたしまれている。

寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると推古天皇三十年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当時の始まりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている

現在の伽藍は天正二年(1574)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再建されたもので広大な境内には金堂、聖霊殿、宝塔などの同塔が建ち並び由緒ある寺院としての風格を保っている。

また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇二十九年(621)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年二月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎子の三人が一か所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も太子に会わんがために善男善女の参詣が絶えることがない。

当寺には重要文化財に指定された絹本着色文殊渡海図、高屋連枚人(ひらひと)墓誌の他、数多くの貴重な文化財を所蔵している。精霊殿(太子堂)は慶長八年(1603)豊臣秀頼が伊藤左馬頭(さまのかみ)則長を奉行として再建したもので、桃山時代の特長をよく示しており、宝塔は承応元年(1652)に建立されたもので、いずれも昭和五十二年一月重要文化財の指定を受けている。

棟札によって競歩十七年(1732)の再建が明確な金堂(附棟札)、肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており十七世紀前半を下らない建築と考えられる鐘楼は、共に平成十三年二月二日に大阪府指定文化財となっている。

また明治初期に塔頭、石塔律院跡から客殿庭園内に移建された巨大な石造五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、昭和五十二年三月大阪府有形文化財の指定を受けている。

 聖徳皇太子御廟所 磯長山叡福寺

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階段を登ります。
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「縁起」を読みましょう。先に全文を紹介しています。
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宝塔です。

横を通り過ぎて、まっすぐ廟に向かいます。

階段を上ると廟所です。

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此処に三人の棺があるのです。穴穂部間人皇后と膳部大郎女と聖徳太子。
「穴穂部間人皇后のために墓所を太子町太子の北側の丘陵斜面に決め、石室を築いた」との伝承があり、元々は母のために切り石の横穴式の墓を造っていたのです。

ふうん、すると推古天皇より古いタイプの陵墓となるはずですね。
叡福寺の寺伝では、「上宮太子を磯長陵に葬めまつる(書紀)」のあと、推古天皇の勅により、御廟を守るために叡福寺が建立されたとなっています。
しかし、古瓦や瓦器などは後世の物で、飛鳥から奈良時代のものは今のところ出土しておらず、7世紀前半に叡福寺が建立された証拠はないそうです。
更に
明治のはじめのころまでは廟内に入ることができたようです。明治12年に宮内庁から来て内部を記録した実検記が残されています。
それを読むと、聖徳太子の墓と決めてしまっていいのかなあと思います。もちろん、信仰上の廟所でもいいのですが、太子信仰とは切り離して考えると、この陵墓は新しいと思えるのです。


聖霊殿です。

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帰りの石段です。正面に何があるのかな?
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静かなたたずまいの町屋があります。
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聖徳太子信仰は今も根強いようです。
また、明日に続きます。



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# by tizudesiru | 2017-09-06 23:39 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback

西原の縄文土器の出現と退去

2017・9・5 縄文土器の紹介

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ほとんどの土器に文様があります。

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何種類の文様を見つけられましたか。

一度の探索で拾えるのはこの量で、結構な手ごたえがあります。

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様々な土器の縁だったり、底だったり、胴のふくらみだったり、出会ったときは、ありがとう、です。

遺物に出会いたいと思ったら、おまじないをしなくてはなりません。

「今、わたしの前に出ておいで。もし、そうしなかったら是からまた何千年もそのまま土の中に居ることになるでしょう。それでいいの? 寂しかったら、さあ、わたしの前に出ておいで。」

と、心で呼び掛けるのです。本当に心から話しかけると、次々に目に入ってきます。歩く足元に出ているのです。

「よく出てきてくれたね」

嘘みたいでしょう? でも、本当なんです。

あんまり石器に出会うので、父から

「お前には何かついているのではないか?!」

と云われたことがありました。それで、 わたしは石達に言いました。

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「ありがとう。もう、いいよ。そのままでいいよ。そのまま、ずっとそこに居ていいんだよ」

といいました。それから、探さないと出会えなくなりましたが、それでいいと思っています。

私よりずっと長く西原を見てきた遺物達に心から「ごくろうさま」といいたいですね。

今は、耕運機が畑を耕しますから畑では見つからないでしょうね。道路もアスファルトやセメントがかぶってしまいました。野原は草ぼうぼうで人間は入れません。

これから、土器も石器も静かに眠りにつくことでしょう。

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余談ですが、わたしは何処に行っても石に出会いました。25年ほど前、平尾台の近くの山道で道が通れるか見るために車を降りたら、水晶を拾いました。一緒にいた妹たちに見せると、そこに幾つか落ちていました。さらに、その道で小さな黒曜石も拾ったのです。

辺りは黒曜石の産地ではありません。古代人が何処かから運んできたものに違いないのです。

その時は、とても不思議な出会いを感じました。

石も何か人間の波長を感じるのかもしれませんね。まさか! ですけど。

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1988年12月、高齢の母と俵山に登りました。登り始めて三時間近くたって頂上に着きました。
「もう、登れないよ。これが最後ね」
と母が言いました。山頂でお弁当を開いたのですが、その腰かけた石の傍の砂地に鏃がありました。左の石鏃です。だいぶ風化していました。もともとは、右の石鏃のようなギザギザがあったのでしょうね。母との思いでの遺物です。
なぜ頂上にあったのでしょうか。今でも不思議です。

きょうは、土器と石との別れの日です。
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# by tizudesiru | 2017-09-05 09:58 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback

無理が通れば・小水城の不思議な版築

無理が通れば土塁ひっこむ?
小水城って何でしょう? 

大宰府を守る水城と同じでしょうか?
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大野城市教育委員会の「上大利小水城跡」の現地説明会に行ってきました。
天智天皇の治世につくられたという大野城(朝鮮式古代山城)から長く延びる土塁が水城です。
大宰府を守るために造られたとされています。
今回の現地説明会は、この水城ではなく「小水城」です。

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上大利の小水城が何処にあるかわかりましたか?
それは100mたらずの本当に短い土塁なのです。
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日本書紀・天智三年(664)以降に造られた水城とほぼ同じ時期に造られた「小水城」だそうです。
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右に何処にもあるような土手が見えます。これが削平された土塁です。
矢印のところで切れていますが、奥の丘陵に土塁は届いていたということです。

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矢印の辺りにトレンチがありました。
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版築土塁の基盤となるのは、谷部の底の花崗岩バイラン土でした。頑丈な部分まで掘り下げて版築をしているということでした。

1トレンチ

北側へ緩やかに傾斜している積土と土塁の裾部。積土のなかから須恵器(古墳時代)が少量出たそうです。黒い層は平安時代の土器が出土した腐植土層です。小水城の北側には、平安時代には水が溜まっていたそうです。
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版築はうすい層を何層にも重ねています。同じ土塁のはずですが、反対側の土塁の版築の層は厚いのです。明らかに工法が違っています。
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同じ土塁の中で版築の技法が違っていました。理由は、2トレンチのほうは基盤(花崗岩バイラン土)がしっかりしていたので版築も緻密ではなかったということでした。

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土塁の幅は緑の線の範囲と推定されています。
「土塁が東に向かって低くなっているのはなぜですか?」と尋ねました。
答は、木樋などの排水施設が見つかっていないので、排水のために東側が低いのかも知れないということでした。

それにしてもふしぎです。白村江敗戦後に造られたのは水城・小水城・大土居・前畑遺跡の土塁、そして大野城、基肄城・鞠智城だそうで、これらのすべてに版築技法がつかわれています。
どの土木工事を取り上げても、大変な人手と食料と統率力と経済力が必要です。
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見学会の会場の説明パネルに「巨大な防衛線」と書かれています。あの羅城説のことです。
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ここでも、羅城説が取り上げられていました。

羅城という大土木工事には、誰がかかわったのでしょう。
白村江敗戦後の筑紫國の人々が造ったという想定です。
二万の男性を亡くした筑紫国の婦女子と老人が、手弁当で版築の棒を握ったのでしょうか。食糧生産にもはげみながら…
白村江戦には兵糧として食料も持ちだしたでしょう。だから、備蓄されていた食料はすでに無かったでしょうに。残った人々は飢えていたでしょうに。


羅城があったとしても、白村江敗戦後に造るのは無理! ではないでしょうか。
無理が通ったというのでしょうか。無理が通れば道理は引っ込むのでしょうか。
…などと書きましたが、上の言葉は単なる疑問符です。
本音は、発掘している若者に頑張ってほしいのです。未来も彼らにかかっているのですが、過去も彼らにかかっているのです。彼らの真摯な思いが貫かれれば歴史は自ずから開いてくれると思うのです。

わたしは歴史のホントのところを知りたいのです。
不快な言葉があるかも知れませんが、本音は単純。歴史は世界の誰にとっても大切なものです。

今、熊本に来ています。
此処に来ると、過去の人々の努力と挫折と願いと喜びを感じることができるのです。

誰にも、素晴らしい明日を。


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# by tizudesiru | 2017-09-03 01:31 | 279小水城の不思議な版築 | Trackback

西原村は旧石器と縄文のタイムカプセル

西原村は旧石器と縄文の
   タイムカプセル

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八月の白川。熊本県大津町の橋から東を見ると阿蘇が」見えます。橋を渡ると、やがて西原村の入り口です。
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白川の水はくすんでいます。火山灰が混じっているのでしょう。
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上流の阿蘇方面は、珍しくはっきり見えました。
地震で崩れた山肌が少し見えています。立野を通る国道57は復旧していませんが、並行して白川の横を通る道路が、一週間ほど前に復旧したそうです。
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今日は西原村史の一部の紹介です。
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村史の写真で目を引く縄文時代の大珠(だいじゅ)です。石材は糸魚川産のヒスイだそうです。

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ちょっと気になる写真です。縄文時代の土器ですが、豊穣のシンボルとして描かれたのでしょうか。
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これは銅矛です。矛だということは、福岡平野とのつながりを示すのでしょうか。
有明海から白川を遡るとしたら、この銅矛が奉納された鳥子あたりが船着き場でしょうね。ここより上流は、速瀬と石が多くて舟での遡上には難渋するでしょう。その先数キロの立野では滝と絶壁でもちろんストップです。古代には白川を大津まで舟で来て、鳥子を通って桑鶴地区、俵山峠を越えて阿蘇谷に入ったのでしょう。古道が残っています。
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銅矛が奉納されていた鳥子の三之宮神社です。一之宮・二之宮・三之宮と、ご祭神によって神社の呼び名がちがうのです。
村史に「旧石器遺跡分布図」が掲載されていました。
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私たちが拾った遺物は上の赤丸の中に限られます。今更驚かされるのは、こんな狭い範囲にこれだけ大量に落ちているということです。もちろんトラクターで撹拌されなかったのでしょう。
ただ、父が地域の人から譲られたものも交じっているのですが。
下の写真は、村史に有る旧石器の細石刃です。貴重な黒曜石を小さく欠いて最大限に生かしたのだそうです。
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更に、下の写真は縄文時代の石匙です。小さなつまみには糸(紐)をつけて、首から下げて持ち歩いたそうです。動物の皮を剥ぐための道具だとききました。
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こんなミステリアスな西原村ですが、大断層の上に在るのです。今回の被害もその故に起こりました。布田川断層は怖いと思ってはいましたが、まさか実家が全壊になるとは思いませんでした。
傾いた家を起こし、屋根をなおし、石垣をなおし、床を張り替え、配水管をなおし、でもほとんどの家具や小物は捨てました。それでも、残された考古の遺物達です。
西原村に長く住んでいたこれら・古代の語り部を捨てるわけにはいかなかったのです。

将に西原村は古代人が現代に残したタイムカプセルです。
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流れ去った水は戻りません。そうして常に新しくなっていくのでしょう。
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最近紹介した石斧や石鏃やトロトロなどの考古資料は、阿蘇の外輪山の俵山の西麓に広がる西原村の特定の地域で拾ったものです。上の写真の中央の山(山頂が二重に見える)が俵山です。現在、阿蘇に入る俵山越えの道とトンネルがあります。
(熊本空港から南阿蘇に入るには、俵山トンネルを使ったが早いのです。俵山にも地震の爪痕が残ります。大雨が降ったらどうなるのでしょう。)

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付け加えです

これらは拾われたものですから(表採という。地層からの発掘品ではないので)、考古学的な価値はないそうです。私たち家族はもったいないと思ったのですが、今日までどうにもならなかったのでした。
しかし、拾った場所が特定しているのは大切だということで、石斧を見ていただくことになりました。
そう云って下さったのは、福岡市埋蔵文化財センターの先生でした。
良かった、の一言です。
西原にはこんなに落ちているのですから、発掘すれば他にも分かることがあるでしょうね。でも、発掘なんてお願いしているのではありません。そんなことは望んでいません。
手元の石や土器が捨てられないで済むようにと、それが何よりの願いなのです。




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# by tizudesiru | 2017-09-01 20:15 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback

黒曜石・白滝の赤と腰岳の黒

黒曜石北海道白滝の赤と九州腰岳の黒
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これは白滝の黒曜石です。十五年以上前に白滝を訪ねましたが、その時拾ったものです。
白滝(赤石山)は湧別川の上流に有るので、その河口のオホーツク海の海岸で拾えるのです。

湧別川の河の中には誰もが拾ったのでしょう。黒曜石はありませんでした。それならと思って、河原の氾濫原を探してみました。そこに落ちていました。でも、その石は上の写真のものではありません。河原で拾ったものは、川に流されて風化しているので、すりガラスのようになってガラス質の特色は見られません。

近くで北海道大学の発掘あっていて、見学がてらお話を聞きました。そこで黒曜石で石器を試作されていて、ナイフや槍先ができていました。外に出ると、素材の黒曜石が砕かれてプレハブの前に捨ててありました。
「分けてもらってもいいですか?」と、恐る恐る尋ねると「どうぞ!」といわれました。
嬉しかったのですが、一掬いだけいただきました。
たくさんあったのですが、さすがに遠慮してしまいました。

白滝の黒曜石は赤いのです。その中にマダラの黒が入っています。T大学のY教授から大きな白滝産の黒曜石を父がいただいていたので、それ以上は必要なかったのですが、わたしは拾ってしまいました。
今になって、この石は何処へ行ったらいいのか、迷っていることでしょう。
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こちらは九州の黒曜石、一番の産地は伊万里の腰岳です。これは道路のアスファルトの下敷きになりそうだったのを拾いました。伊万里にはたくさんあるのでしょうか。開いた道路にたくさん落ちていてもそのままにローラーをかけてアスファルト道路にするのです。

父が元気な頃でしたが、伊万里に出かけて道路工事に出くわして黒曜石の末路を見てしまったのでした。残念に思って、たまたま日曜日で工事があってなかったので、家族で拾いました。


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これは、25年前の甥の夏休みの自由研究です。この中にトロトロとよばれる珍しい石鏃があるのですが、分かりますか。
それは、鏃であってヤジリではない、祭祀に使われたのではないかという石器です。この時点で、日本には百五十数個しか登録されていないという貴重品です。
甥は西原村の父の住まいの近所の土手のようなところで拾いました。実は、父もそこで旧石器の台形石器を拾っています。
それは、博物館かどこかに預けたそうです。
さて、トロトロですが、4番ではないでしょうか
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決して鏃の役目はできないが、鏃のかたちをしているというものです。
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大きな発見につながるのは、子供の目と直感なのでしょうか。
なかなかのコレクションですね。

黒曜石は、大変魅力的な石です。

それから、とても大事なことを忘れていました。

黒曜石は大事な考古学の資料ですから、いらなくなっても何処にでも捨ててはなりません。
燃えないゴミとしてごみ処理する以外にないのです。
空き地などに捨てると、後々考古学的資料になってしまうからです。私も黒曜石などを人にあげる時は「決して、捨てないで。いらなくなったら燃えないゴミとして処分して」といいます。
何より処理できないものを、最近は拾わなくなりました。
国東の姫島の黒曜石が港(姫島)の周囲に落ちていましたが、一つも拾わずに帰りました。
石はその生れた場所にいるのがいいと思うようになったのです。遅いけど。


石達が嫁入り先で平安に過ごせるように祈ります。


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# by tizudesiru | 2017-08-29 22:36 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback

前畑遺跡は羅城の土塁?版築の様相を見る

以前のブログでNHKの番組を紹介しました
262「神籠石系山城を築造したのは中大兄皇子か?」で
この時「羅城」という皇都をまもる城壁のことが紹介されました。
その羅城が九州の太宰府を守るためにあったということでした。

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今回は羅城の土塁とされた「前畑遺跡」の紹介です
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NHK「英雄たちの選択」で白村江戦における中大兄皇子の決断が放送されました。
中大兄は従わない邪魔な豪族に百済救援の戦いに出兵させ、敗戦により彼らの勢力を一掃し、唐と新羅に備えるために大宰府の守りを水城・大野城・基肄城によって強化したという展開の番組でした。
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大宰府守備の為大きな羅城を築いたというのです。羅城の壁ならぬ土塁が筑紫平野の北に見つかったというのですが、それが筑紫野市の前畑遺跡でした。
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白村江敗戦後、朝鮮式山城(大野・基肄)ばかりではなく、神籠石系山城もこの時の築造となったというのです。工法も技術も朝鮮式山城とは違う神籠石系山城が。
あまりな展開に驚いたのでブログ(262)で取り上げました。

今回は、筑紫野市の前畑遺跡の写真の紹介です。
ここも、中大兄皇子の命令で作られたというのです。私にはそうは思えないのですが。
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羅城かも知れない?!

前畑遺跡の版築土塁が?!


貴方の目で確かめてください。版築の様相を。

現地説明会の写真を紹介します。
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この遺跡は壊される運命です。もうないかも知れません。立ち入り禁止の柵の奥で既に消えたかも知れません。
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この遺跡は360度のロケーション、辺りが一望できました。
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確かに版築土塁ですね。
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この土塁は白村江敗戦で疲弊しきった九州の豪族の、それも働き手が戦死した後に残された子女が、血涙を絞って造ったのでしょうか。

水城を作り、大野城を作り、基肄城を造り、鞠智城も造ったかもしれないのに、そのうえ神籠石系の山城も造ったという!!!考えられません。
人手・食料・経済の面から考えても難しいでしょうね。

私には理解できません。夫も息子も失った女たちは働く力もないでしょうし、土塁築造の働き手に食べさせる食料の生産も間に合わなかったでしょう。
彼らは農耕の片手間に土塁を造ったとは思えません。築造の指揮官もいたはずです。

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此処が羅城の土塁だとしたら、白村江戦以前のものではありませんか。
中国では羅城は皇都を守るために築造されたものです。倭国でも皇都を守るために土塁が作られたのかも知れません。
でも、そうなると皇都は九州にあったことになります。天子が九州にいたことになります。

それとも、九州でも皇都のような羅城を造ったのでしょうか。


羅城が九州にあったとなると、歴史が変わってしまいますね。
それも、面白いと思います。



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# by tizudesiru | 2017-08-27 21:35 | 262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か? | Trackback

さらば愛しき小物たち

旧石器時代からの遺物が

落ちていた村・遺跡の村


約五十年前、西原村の山を買って父母が家を建てました。
その時、ブルトーザーで開いた土地に土器や石器がありました。
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わが庭から出た二つの石斧です。左は蛇紋岩で、右は火成岩で作られています。

父母の家は遺跡の上に建ったのです。それから、我が家は遺物拾いに目覚めました。ちょうど辺りには家も少なく平たい所は畑で田圃はありませんでした。山野を歩けば様々な土器・石器が落ちていました。

特に雨上がりは表面の土が流されていたので土器も石器もはっきりと姿を見せています。

仕事が休みになると父母の家に遊びに行って辺りを歩きました。月に一度くらいの訪問ですから、遺物は適度の雨に洗われて次々に姿を現すのです。

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チャート、サヌカイト(?)、黒曜石と材質もさまざま。石匙、石鏃、スクレーパーと種類もさまざま。
父と母、妹たち、孫たちが月に一つか二つ拾うことができました。


気が付いてみると、たいへんなコレクションになっていました。

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ほとんどはガラクタでしょうか。

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これは島根県の玉です。
右は二十年前に拾いました。
海岸で海を見ていたら、砂浜に変わった石が落ちていました。何か分からないので、拾って「石を加工販売している店」に行って「これは何でしょう」と尋ねました。

店主は少し沈黙した後、「玉」と教えてくれました。私が見つけたのは、玉だったのです。
私はすぐに父にこの石を送りました。思い出の深い石です。

十二年前、ふたたび島根に行きました。出雲から日御碕までドライブして、玉作温泉に立ち寄りました。
左のつるりとした石は、その時拾った島根の玉です。これは、玉作温泉の温泉川で拾いました。

お湯から上がって川の畔を歩いていました。浅い川の水は淀んでいて、温泉水が流れ込んだのか少し濁っていました。ふっと見ると、まわりとは違った色の石が水に沈んでいます。

玉かも知れないとは思いましたが、川水が汚れているので手を入れるのは嫌でした。しかし、拾わずに帰ったら後悔するだろうと思って、思い切って拾いました。

誰が見ても玉だと分かるものですね。これを見せたい父は既に亡くなっていたので、仏壇に置きました。
島根の二つの玉は懐かしい、思いでの品です。

思い出をありがとう

この思い出深い石達とサヨナラしようと思っているところです。妹たちとも話し合ったのですが、このまま手元に置いていても、やがては出自のわからないガラクタになることでしょう。

その前に、嫁に出そうということになりました。
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そのうち土器も紹介しましょう、縄文土器ですが。そのときは全て私の傍にはないかも知れません。



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# by tizudesiru | 2017-08-26 23:05 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback

稲荷山鉄剣の辛亥年=531年が有力

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鉄剣の辛亥年は531年(大岡晋)

稲荷山鉄剣の辛亥年は471年が定説です。
しかし、発見当時、学者の皆さんのご意見では稲荷山古墳の築造時期は六世紀前半で、辛亥年は531年が有力だったのです。
それが、書紀の雄略帝に合わせて471年になってしまったようです。
(こんな定説でいいのでしょうか)

刀剣銘文百十五文字から見た日本語の源流 (学習院大学教授 大野晋)で、大野晋氏が「時」の前後をどうよむかで、解釈が変わると指摘している文を簡単にまとめました。 


「獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下」の「時」の前後を大岡氏は、①推量形 ➁現在系 ③過去形 の三つの読み方をしています。


では、①推量でよみましょう。
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮に在るだろう時に、お助けしよう」となり推量形の読みは無理。



次は、②現在形でよみましょう。
「ワカタケル大王の寺が、今シキの宮に在るその時、吾 天下を治むることをお助けしている」又は、
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮に在る時はいつでも、私は天下をお治めすることをお助けする



更に、③過去形でよむと、
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮にあった時にわたしも天下を治めることをお助けした」となり自然だというのです。

ワカタケル大王の治世は書紀によれば456年から479年であり、倭王・武の上表文も478年である。
 従って、「ワカタケル大王の寺がシキの宮にあった時」という表現があることは、この文章を書いている時点は、479年以降であることを示す。とすれば「辛亥年」は471年に比定することはできず、降って531年に比定しなければならなくなる。

大体、「辛亥年」を471年に比定したのは、「ワカタケル大王」という名詞が確認されたとき、雄略天皇の治世は、456年から479年だが、「辛亥」の年紀が471年に有る。だから私は471年だという論理であった。
 それは、この全文の文意をよみ取った結果「471年」を考えたのではない。(略) 「辛亥年を471年」とする歴史家には、この文章全体をどうとらえ、この文章の目的・全文の意味について、どう見るのかをうかがえるとさいわいであると思う。

その事を考えるとき471年は困難になってくるのである。  (大岡晋)


「獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下」を大岡氏は過去形でよみ、その意味を考えようとされました。

これまでブログでお伝えしたように、埼玉新聞社の「稲荷山古墳」の記述によると、「稲荷山古墳の築造時期が六世紀の前半であれば、辛亥年は531年」では矛盾しませんね。531年の時点で乎獲居臣が百錬の刀を作って銘文を刻んだということになります。

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531年に鉄剣は作られたとなると、稲荷山古墳の被葬者が獲加多支鹵大王に仕えたのは、彼が若い時だったとしても6世紀の初頭でしょうか。


 日本書紀の雄略帝の治世456~479年に仕えていたとなると、無理が生じます。被葬者は杖刀人の首でしたから、若干二十歳ではないでしょう。三十歳くらいだとしても、六十年後に銘文の大刀を作った時は九十歳を越えていることになり、かなり無理です。


そうすると、獲加多支鹵大王は書紀の雄略帝とは別人かも知れません。では、もうひとりワカタケル大王(雄略帝)がいたことになるのでしょうか。


この被葬者は、自分が仕えた斯鬼宮の獲加多支鹵大王を非常に懐かしみ、大王に仕え天下佐治したことを誇りに思っています。当然、その大王はこの世の人ではありませんが、名前を云えばだれでも知っているような大王だったのでしょう。更に、礫槨とはいえ玉と鏡と剣を副葬し、自分の出自にも誇りを持っているのです。

それにしても、乎獲居臣が仕えた「獲加多支鹵大王」を日本書紀の「雄略天皇」に してしまっていいのでしょうか。雄略天皇は、「部民制」を導入したと社会科で習ったような…、日本書紀でも様々な「部」を創設しています。「部制」であって、決して「人制」ではありません。
九州の水沼君が献上した「養鳥人」も「鳥飼部」に変えています。
乎獲居臣は「杖刀人」ですし、江田船山古墳では「典曹人」です。役職には「人」がついているのです。明らかに雄略天皇の治世にはない役職でしょう。

わたしは、獲加多支鹵大王と書紀の雄略天皇はどこかでズレがあると思います。


九州と関東はつながっている。杖刀人と典曹人の人物は、同じ大王に仕えた可能性がある、と、思うのです。

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稲荷山古墳の築造時期の決め手は何でしょう。

稲荷山古墳の墳頂部には二つの亡骸を納める施設(攪乱された粘土槨・礫槨)

礫槨は、整然と副葬品が置かれており、攪乱の痕跡もなし

・頭の部分に当たる所に鏡(画文帯神獣鏡)、二つの銀環、一つの勾玉

・腹に当たる所には立派な帯金具

・右わきに三本の刀、左脇の頭よりに鉾、と刀

・左足よりに剣(金象嵌銘文のある鉄剣)

**遺物の下に木炭のような痕跡あり= 副葬品は木棺に納められていた

木棺の外

・頭のの辺りには鈴のついた杏葉(ぎょうよう)轡、辻金具、などの馬具

・足よりには小札(こざね)を貫いた挂甲(けいこう)、鉄鏃、


この中に、大事なものがまだあると思えてなりません。

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一緒に出土した画文帯神獣鏡なども、まだまだたくさんの事実を背負っていると思います。

あらためて埼玉新聞社の「稲荷山古墳」(昭和53年)を読んで、考えることが沢山ありました。座談会に出席された皆さんや大岡晋氏・直木浩二郎氏などが寄せられた文章に教えられることが多かったし、今でも解決されていないことばかりでした。

昭和53年12月に発信された言葉の一つ一つを忘れてはなりません。

「辛亥年=471年」定説は再度検討されるべきだと思いました。



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# by tizudesiru | 2017-08-26 00:15 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback

稲荷山古墳の築造は六世紀(1)

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関東地方の前方後円墳の特色
=古い形式の主体部=稲荷山古墳

「さきたま古墳群の全体、それと将軍塚古墳(明治26年発掘)など終末期の古墳(横穴式石室が含まれる)ので、最初は横穴式の石室を探した。ただ、前方後円墳の場合、特に関東地方では古い形式の主体部が新しい古墳にも残されていることがある。」そうです。

いわば棺・あるいは槨的なものが墳丘の上に営まれることもあるので、(墳丘の)上も調べたそうです。


『稲荷山古墳』(埼玉新聞社)より座談会の抜き書き」

柳田 あの近所(さきたま古墳群)にある古墳を見ますとほとんど横穴なのですね。そこで横穴を想定して準備をしたのですが、斎藤先生から、上方の竪穴も想定しなきゃと注意されて、それが当たったのです。

  (略)

柳田 出土品の話にいきますと、特に多いなと思ったのは武器、武具の類と馬具ですね。それから、三種の神器(鏡・勾玉・剣)。武器では鉾から太刀(直刀)、剣、挂甲、鉄鏃が束になったのがあるのです。馬具も作りのいい鈴杏葉(すずぎょうよう)、環鈴、これは埼玉県では初めてです。

斎藤 あのような鈴杏葉は若干例がありますが、関東地方では面白い例だと思うのです。群馬県の宝塔山(ほうとさん)古墳ですが、江戸時代かにいい鈴杏葉が出ています。ここの場合は、あれより下るのじゃないかと思います。
この古墳の副葬品で特色のある物は、(象嵌のある)剣は別としても、馬具ともう一つは帯金具。長方形の板でバンドに直接取り付ける、龍のような文様があるのです。
熊本の江田船山古墳と装身具を比べてみますと、江田船山の方には冠が出ているのです。純金のたれ飾りのついている耳飾も出ています。

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(江田船山古墳の冠や耳飾・馬具は大伽耶系とされる。同じ大伽耶系の馬具が出土するのが、稲荷山・江田船山・和歌山大谷古墳)

斎藤 帯金具となると、同じようなものですね。
東国の古墳の被葬者というのは江田船山古墳に比べると帯金具は別として、やや質素というか、東国らしいと思うんです(略)

柳田 埼玉県内には前方後円墳が百十いくつかあると思うのですが。金井塚さん、あのような副葬品について、その辺りは。
金井塚 今度の辛亥鉄剣ではいろんな方のご意見が出されました。斎藤先生が『重要なのは考古学的な研究の事実の上に立って、問題を考えていかなければならない』といわれましたが、わたしも同感です。(略)現状では銘文が独り歩きしているような現象と思います。あくまでも考古学の成果が基礎になるのではないかと。(略)
最初に問題にしたいのは、稲荷山古墳がいつ造られたのかということなのです。築造年代は二転三転しました。最初の発掘の段階では六世紀の半ばないしそれ以前。次に埼玉県教育委員会の「稲荷山古墳発掘概報」では六世紀前半ということになった訳です。理由は(書紀の)安閑紀の国造の争乱に結び付けて、その頃の築造だろうとなったのです。三回目が「考古学ジャーナル」に発表された(栗原文蔵氏)五世紀の終末から六世紀の初頭というふうに、二転三転したのです。
いま文献の方のご意見を見ていますと、どうも五世紀の終末から六世紀の初頭の上に立って考えられているようです。
(略)私は六世紀初頭の築造だと考えざるを得ないような気がするんです。確かに出土遺物の大部分は五世紀代に持って行っていいだろうと思うのですが、その全てが年代比定がなされていないのです。鏡にしても、同じものが八幡観音塚古墳(群馬県高崎)出ていますから、五世紀というわけにもいかない。須恵器や馬具、埴輪、墳丘構造も考えてみる必要があるでしょう。
a0237545_23271621.jpg
金井塚 「須恵器」は出土状態がはっきりしないが、関西では五世紀のものとされる。が、北武蔵では竪穴住居から出ている(大西遺跡)三窓一段透の脚台付坏と坩(つぼ)は、「稲荷山古墳の須恵器とほとんど同じ時期と考えて間違いない」(さきたま資料館・金子真土斯)ということでした。大西遺跡は鬼高式土器を出す竪穴住居なので、六世紀初頭の竪穴住と考えていいだろうと思います。
稲荷山古墳から土師器も出ていますが、鬼高式土器だったと思います。六世紀初頭…かなり築造時期の決め手になると思います。
a0237545_00051750.jpg

金井塚 もう一つ鈴杏葉(すずぎょうよう)ですが、立派なもので、これに類似する鈴杏葉は群馬のもの、茨城県の国松古墳のものによく似ています。埼玉県では目沼九号墳から出た鈴杏葉もそっくりです。
問題は、ここからも鬼高式土器が出ているのです。一緒に副葬されていますから、時期は六世紀ということになります。

(国松古墳の鈴杏葉 と目沼九号墳の鈴杏葉)
a0237545_00214878.jpg
a0237545_00244039.jpg
なるほど、鈴が三つついてるのですね。そういえば、
鈴杏葉って埴輪の馬を飾っていたような  

どこかで見たことがあると思ったら、江田船山古墳に出土していたと思います、鈴杏葉が。

稲荷山古墳の築造時期の決め手は何でしょう

古墳の副葬品には古いものもあるけれど、新しい時期の物もあるから、築造時期を考える時には一番新しいものを決め手にするということですね。
稲荷山古墳の墳頂部には二つの亡骸を納める施設(攪乱された粘土槨・礫槨)があったそうですから、そちらも見ましょう。
埴輪も築造時期の決め手になるかも知れませんね。
しばらく、出かけていたのでブログを休んでいました。
また、よろしくお願いします。

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# by tizudesiru | 2017-08-24 00:34 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
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255 東大寺は興福寺と並ぶ
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