三国史記に書かれなかった倭国
「『倭国の空白』について、以前書いたものをブログに乗せた」と知り合いに話したら、即、「それは、すでにー氏が書いている」と指摘されました。-氏が誰なのか、聞いたけど忘れました。今度は、人の名はメモをしておこうと思います。やっぱり、あの空白を見れば、何か変だと思いますよね。
私は、小学館の『日本書紀』の釈注で様々なヒントをもらいました。『これを書いた人は、何かに気が付いているのではないか』と思ったほどです。それをもとに、ネットでも検索しました。
とにかく、何が本当なのか知りたいです。いろいろ考古学の遺物が出土しているのに、「大和王権」との結びつきという方向で処理されてしまっています。そうかもしれないけど、そうではないかも知れない。そう考えるのが、専門家ではないでしょうか。なんて、偉そうなことを……ごめんなさい。
私は、小学館の『日本書紀』の釈注で様々なヒントをもらいました。『これを書いた人は、何かに気が付いているのではないか』と思ったほどです。それをもとに、ネットでも検索しました。
とにかく、何が本当なのか知りたいです。いろいろ考古学の遺物が出土しているのに、「大和王権」との結びつきという方向で処理されてしまっています。そうかもしれないけど、そうではないかも知れない。そう考えるのが、専門家ではないでしょうか。なんて、偉そうなことを……ごめんなさい。
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by tizudesiru
| 2011-09-03 08:50
| 28倭国の空白
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29 筑紫城の最後
29 筑紫城の最後
筑紫城の最後というタイトルで、この(1)から(30)までの文章のまとめにするのは、すごくはずかしい。
何も目新しい結論に行きつかなかったからである。どこかで聞いたような、見たような結論になってしまった。しかし、まとめておかなければならない。
憶測の域を超えないが、ただ、九州にも王権が生まれたようだ。各時代の王は、中国を宗主国と仰ぎ、朝貢する事を王のスティタスシンボルとした。太陽の昇る東の山を拠り所とし、陽の沈む山を魂の昇る山とし、祭祀をしていた。王が亡くなれば殯葬をし、王の魂が神となるのを見守った。次の王は、前王の霊力に守られ、子孫繁栄の為に墓制や墓の位置や葬送儀式にこだわった。王は自分の領地に祭祀場を作り、地域の山を御神体として祀った。山には国を守る霊力があると信じられていたのだ。王達は近隣の有力者と結びつき、祭られる神も増えて行った。その中で争いが生まれ、霊力を持った王が連合国の長として選ばれるようになった。「おおきみ」と呼ばれたのだろうか。外交も活発になり、交易も盛んになり、国が整うに連れて地域間の争いは苛烈を極めて行った。それぞれに勢力を伸ばそうと、離れた地域との結びつきも生まれ、王権の分派が数多く生まれた。地域差も大きくなっていった。中でも鉄と銅など金属を手にした人々が、覇権を求めることになった。鉄を持った人々が、列島のありようを変えていった。筑紫で力を持ったのが、倭王たちだった。大和の王権は、皇統を他へ広げないように近親結婚の道を選んだのだろうか。
九州の王権は、六世紀に大きな事件に巻き込まれた。外敵に備えるより、内なる敵に備えなければならなくなった。やがて、筑紫の都周辺には、四王寺山城・宮地岳山城・雷山神籠石・高良山神籠石・女山神籠石等、戦いの為の山城を築いた。それぞれの山城には氏族の神が祭られ、神力を借りて都や王権を守ろうとした。当然、大和王権は築城を知らなかった。やっと余力が出て来た処に、待っていたように百済が国交回復を望み、王子を人質とした。やがて百済は滅亡し、忠臣が救援要請を申し込んだ。大和の王権にも、同じように要請が入った事だろうし、磐井の乱後に筑紫は形式的には大和の配下に組み込まれていただろう。百済からみれば同じ倭国であり、同じ氏族と思われていたのではないだろうか。九州の王権は、喜んだに違いない。久しく待ち望んだ倭王としての活躍の場だったからだ。倭王は船を作り、兵糧を集め、大挙して百済に向かった。しかし、 九州王権の勝手な振る舞いを、大和が許さなかった。斉明天皇の一行は、雅を神代からの伝統と自負し和歌を歌い、言霊を使いながら、征西したのである。もとより百済救援は二の次、九州に再度王権の復活をさせないための出兵だった。斉明帝は朝倉の宮、中大兄は長津宮でそれぞれの仕事をしたのである。長津と名を改めたのも、九州改造の一環に過ぎない。先に太宰府に入っていた蘇我日向も仕えたであろう。
大和王権は当初の計画通り、無傷で大和に引き返せた。斉明帝の死も利用したとしたら、恐ろしい想像になってしまう。筑紫の、かっての王城には都督府がおかれ、天智帝の大宰府は別の場所に建造された。または、阿毎氏の王が既に都府楼跡に宮殿を築いていたので、それを利用した。「太宰府が移された時、造られた」とされた竈神社の言い伝えが、年代を特定できないのが残念である。大宰府移転、その為に、四王寺山城は大野城に造り変えられ、基山の神も筑紫神社に降ろされた。たぶん、筑紫神社に合祀されたのであろう。唐野原の寺は解体され、仏像等はいずれかに運ばれた。「結跏趺坐」の姿に造られた釈迦三尊像は、聖徳太子または阿毎多利思北孤その人に違いない。隋書に書かれた通りの姿で政を聞いていたのだろう。東西信仰の都の主要道路は、北向きに変えられ宝満山の神も降ろされた。竈山が三笠山と名を変えられたかも知れない。神功皇后の説話を持ち出して。神功皇后を持ち込んだのは、おそらく天智帝であろう。宝満山に神武天皇の母・玉依姫が鎮座するのは、後の時代である。
百済への出兵と敗戦は、筑紫国の責任であると、天智帝は熊津都督府の占領政府に対して主張したはずである。郭務悰にも会い、大和王権単一政権の確立をなしえた天智帝は、晴れて玉座に着いた。誰も意見をさしはさめなかった。偉大な仕事をなしたのである。そして、大友皇子が皇太子になる勢いが見えて来た。「天智帝は暗殺された」という俗説が生まれる要素も、即位までの行動の中にあるのかも知れない。六六二年から六七一年までのわずか十年間に、なされた改革は膨大だったことだろう。 筑紫城は捨てられ、遠の朝廷として大宰府の時代になった。神籠石山城も忘れられ、筑紫には細々と氏神を祀る社が残されていた。しかし、それすらも、醍醐帝の延喜式により大きな変革を迎え、天皇家に顧みられない神社は、小さく凋んでいったことだろう。多くは言い伝えも忘れられ、守り手も変わり、祭神も変わっていった。しかし、筑紫王権の末裔は、わずかにその痕跡を残しながら今日に至っているはずである。土地に残された記憶、同時代に生きた名もない人の伝承、それらが断片的に過去を伝えているはずである。
その一断片が地理ではないかと、筆者は思う。今、町村合併で多くの地名・歴史が消えつつある。核家族化で多くの伝承が伝わらないまま消えつつある。故郷の山河に親しまなくなり、自然と共に生きた暮らしが失われつつある。今だからこそ、故郷の山河に潜んでいる過去を見つめ直したい。
此処に来て思い付いた事がある。
菅原道真の有名な和歌は、あれは都に残した梅を歌ったのではなく、筑紫王権の滅亡後に歌われた、筑紫の人々の思いではないかと。天神と恐れられたのは道真ではなく、天神と化した筑紫の王達ではなかったか。道長と天神が重ねて考えられたから一層たたりが恐ろしかったのではないか。宇多天皇に心から忠臣と信頼されていた、心の清い道真がそれほど恐ろしく祟るだろうか。彼は、ひたすら許されることを望み都府楼前の南館に謹慎していた。が、都の人には筑紫の天神と一体となったと信じられ、道真が怖かったのではなかろうか。
東風吹かば 思い起こせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
筑紫城の最後というタイトルで、この(1)から(30)までの文章のまとめにするのは、すごくはずかしい。
何も目新しい結論に行きつかなかったからである。どこかで聞いたような、見たような結論になってしまった。しかし、まとめておかなければならない。
憶測の域を超えないが、ただ、九州にも王権が生まれたようだ。各時代の王は、中国を宗主国と仰ぎ、朝貢する事を王のスティタスシンボルとした。太陽の昇る東の山を拠り所とし、陽の沈む山を魂の昇る山とし、祭祀をしていた。王が亡くなれば殯葬をし、王の魂が神となるのを見守った。次の王は、前王の霊力に守られ、子孫繁栄の為に墓制や墓の位置や葬送儀式にこだわった。王は自分の領地に祭祀場を作り、地域の山を御神体として祀った。山には国を守る霊力があると信じられていたのだ。王達は近隣の有力者と結びつき、祭られる神も増えて行った。その中で争いが生まれ、霊力を持った王が連合国の長として選ばれるようになった。「おおきみ」と呼ばれたのだろうか。外交も活発になり、交易も盛んになり、国が整うに連れて地域間の争いは苛烈を極めて行った。それぞれに勢力を伸ばそうと、離れた地域との結びつきも生まれ、王権の分派が数多く生まれた。地域差も大きくなっていった。中でも鉄と銅など金属を手にした人々が、覇権を求めることになった。鉄を持った人々が、列島のありようを変えていった。筑紫で力を持ったのが、倭王たちだった。大和の王権は、皇統を他へ広げないように近親結婚の道を選んだのだろうか。
九州の王権は、六世紀に大きな事件に巻き込まれた。外敵に備えるより、内なる敵に備えなければならなくなった。やがて、筑紫の都周辺には、四王寺山城・宮地岳山城・雷山神籠石・高良山神籠石・女山神籠石等、戦いの為の山城を築いた。それぞれの山城には氏族の神が祭られ、神力を借りて都や王権を守ろうとした。当然、大和王権は築城を知らなかった。やっと余力が出て来た処に、待っていたように百済が国交回復を望み、王子を人質とした。やがて百済は滅亡し、忠臣が救援要請を申し込んだ。大和の王権にも、同じように要請が入った事だろうし、磐井の乱後に筑紫は形式的には大和の配下に組み込まれていただろう。百済からみれば同じ倭国であり、同じ氏族と思われていたのではないだろうか。九州の王権は、喜んだに違いない。久しく待ち望んだ倭王としての活躍の場だったからだ。倭王は船を作り、兵糧を集め、大挙して百済に向かった。しかし、 九州王権の勝手な振る舞いを、大和が許さなかった。斉明天皇の一行は、雅を神代からの伝統と自負し和歌を歌い、言霊を使いながら、征西したのである。もとより百済救援は二の次、九州に再度王権の復活をさせないための出兵だった。斉明帝は朝倉の宮、中大兄は長津宮でそれぞれの仕事をしたのである。長津と名を改めたのも、九州改造の一環に過ぎない。先に太宰府に入っていた蘇我日向も仕えたであろう。
大和王権は当初の計画通り、無傷で大和に引き返せた。斉明帝の死も利用したとしたら、恐ろしい想像になってしまう。筑紫の、かっての王城には都督府がおかれ、天智帝の大宰府は別の場所に建造された。または、阿毎氏の王が既に都府楼跡に宮殿を築いていたので、それを利用した。「太宰府が移された時、造られた」とされた竈神社の言い伝えが、年代を特定できないのが残念である。大宰府移転、その為に、四王寺山城は大野城に造り変えられ、基山の神も筑紫神社に降ろされた。たぶん、筑紫神社に合祀されたのであろう。唐野原の寺は解体され、仏像等はいずれかに運ばれた。「結跏趺坐」の姿に造られた釈迦三尊像は、聖徳太子または阿毎多利思北孤その人に違いない。隋書に書かれた通りの姿で政を聞いていたのだろう。東西信仰の都の主要道路は、北向きに変えられ宝満山の神も降ろされた。竈山が三笠山と名を変えられたかも知れない。神功皇后の説話を持ち出して。神功皇后を持ち込んだのは、おそらく天智帝であろう。宝満山に神武天皇の母・玉依姫が鎮座するのは、後の時代である。
百済への出兵と敗戦は、筑紫国の責任であると、天智帝は熊津都督府の占領政府に対して主張したはずである。郭務悰にも会い、大和王権単一政権の確立をなしえた天智帝は、晴れて玉座に着いた。誰も意見をさしはさめなかった。偉大な仕事をなしたのである。そして、大友皇子が皇太子になる勢いが見えて来た。「天智帝は暗殺された」という俗説が生まれる要素も、即位までの行動の中にあるのかも知れない。六六二年から六七一年までのわずか十年間に、なされた改革は膨大だったことだろう。 筑紫城は捨てられ、遠の朝廷として大宰府の時代になった。神籠石山城も忘れられ、筑紫には細々と氏神を祀る社が残されていた。しかし、それすらも、醍醐帝の延喜式により大きな変革を迎え、天皇家に顧みられない神社は、小さく凋んでいったことだろう。多くは言い伝えも忘れられ、守り手も変わり、祭神も変わっていった。しかし、筑紫王権の末裔は、わずかにその痕跡を残しながら今日に至っているはずである。土地に残された記憶、同時代に生きた名もない人の伝承、それらが断片的に過去を伝えているはずである。
その一断片が地理ではないかと、筆者は思う。今、町村合併で多くの地名・歴史が消えつつある。核家族化で多くの伝承が伝わらないまま消えつつある。故郷の山河に親しまなくなり、自然と共に生きた暮らしが失われつつある。今だからこそ、故郷の山河に潜んでいる過去を見つめ直したい。
此処に来て思い付いた事がある。
菅原道真の有名な和歌は、あれは都に残した梅を歌ったのではなく、筑紫王権の滅亡後に歌われた、筑紫の人々の思いではないかと。天神と恐れられたのは道真ではなく、天神と化した筑紫の王達ではなかったか。道長と天神が重ねて考えられたから一層たたりが恐ろしかったのではないか。宇多天皇に心から忠臣と信頼されていた、心の清い道真がそれほど恐ろしく祟るだろうか。彼は、ひたすら許されることを望み都府楼前の南館に謹慎していた。が、都の人には筑紫の天神と一体となったと信じられ、道真が怖かったのではなかろうか。
東風吹かば 思い起こせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
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by tizudesiru
| 2011-09-02 09:49
| 29筑紫城の最後
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30 山岳の名と歴史や文化
山の名は歴史や文化の伝播を語るのか?
九州の地図を見ていて、「国見山」が多いと思う事があった。友人にその事を話すと、
「その国を首長が見渡せる場所でもあるだろうけど、国見山とは、侵略のルートなんですよ。よそ者が侵略する方法を見極める場所でもある」と聞かされて、なるほどとも思いつつ疑問も残っていた。
何時も使っている国土地理院の地図閲覧サービスで、何気なく「国見山」と入れてみた。すると、面白い結果が出て来た。
*国見山のある県(数)
岩手(3) 宮城(1) 秋田(1) 福島(2) 新潟(1) 茨城(2)
石川(2) 神奈川(1) 岐阜(1) 三重(3) 兵庫(2) 奈良(2) 広島(2) 徳島(1) 高知(2) 福岡(1) 熊本(7) 大分(1) 長崎(1) 宮崎(4) 鹿児島(2)
この中で、香奈川は「六国見山」である。広島も「七国見山」「八国見山」である。
*国見岳のある県(数)
秋田(1) 富山(1) 福井(1) 京都(1) 奈良(1) 佐賀(3) 長崎(1) 熊本(1) 宮崎(3) 鹿児島(2)
こうして見ると、「国見」と付く山は、五十七あるようだ。その中で熊本と宮崎がダントツである。鹿児島と佐賀を入れると、四十パーセントになる。熊襲の地が熊本やその南に集中していたという事だろうか。
そして、「宮地岳」という山名も多いと思ったので、検索してみた。驚いたことに、宮地岳という山は、九州にしかなかった。福津市には、宮地嶽神社がある。
福岡県 筑紫野市・前原市・福津市・糸島郡志摩町
長崎県 松浦市
熊本県 天草本渡市 *山ではなく地名
福津市の宮地岳山頂には、ここが本宮跡であり、神功皇后が三韓遠征のおり戦勝祈願をしたところであるという説明書きがある。同じように、検索では出て来なかったが、朝倉市の宮地岳にも山頂に前方後円墳と神社があり、神宮皇后のように斉明天皇が戦勝祈願をした場所だとか。筑紫野市の宮地岳は、古代山城のある山である。
では、基本的な言葉の山はどうだろうか。たとえば、「原」という字で検索すると、千一件の地名が出て来る。これでは調べようもない。
「彦山」「彦岳」はどうだろうか。かっこ内は(県名)
弥彦山 やひこやま(秋田)
雪彦山 せっびこさん(兵庫)
彦山 ひこさん(広島 福岡 長崎)ひこやま(えびの市)
英彦山 ひこさん(福岡 長崎県五島市 )
到彦山 いたひこやま(長崎県五島市)
彦岳 ひこたけ(佐賀 熊本 大分)
九州が多いようである。
「男岳」「雄岳」はどうだろう。かっこ内は(県名)
男岳 (秋田 埼玉 山口 福岡 長崎2 熊本)
男岳山(大分)
雄岳 (岩手、奈良 福岡 長崎 熊本 鹿児島)
「女岳」「雌岳」はどうだろう。
女岳 (秋田 埼玉 福岡糸島・八女 長崎壱岐・五島 熊本 鹿児島)
女岳外 (熊本) 女岳出 (熊本)
雌岳 (岩手 福岡 長崎対馬・上五島)
何となく地域の特色が感じられるが、次の「田代」は驚きの結果となった。青森に旅行した時、田代湿原に高山植物を見に行った。その後、たまたま見たのだが、あるテレビ番組で、田代湿原が取材されていた。そこで、湿原に生えるイネ科の植物の生育具合を見て、その年の稲の出来を予測するという事を紹介していた。その年の稲の出来を見る大事な行事だったようだった。「田の出来を占うから、その地を田代という」
田代湿原は、占いの地だった。そこで、田代の意味が分かった気がして印象に残ったのである。それで、田代という地名が稲作とともにあるなら、全国に普及しているだろう。そう思ったのである。
*田代の多い県(数)の順
福島(43) 秋田(32) 岩手(29) 鹿児島(25) 群馬(22)
大分(20) 青森(20) 佐賀(19) 熊本(18) 福岡(18)
山口(18) 山形(16) 愛知(16) 宮崎(14) 長崎(14)
静岡(12) 岐阜(9) 新潟(9) 栃木(7) 千葉(7)
茨城(6) 宮城(6) 島根(6) 北海道(5) 三重(4)
鳥取(3) 滋賀(3) 広島(3) 石川(3) 長野(3)
神奈川(3) 和歌山(2) 福井(2) 高地(2) 山梨(1)
埼玉(1) 兵庫(1) 岡山(1)
*田代がない都道県(富山・東京・京都・奈良・大阪・香川・愛媛・徳島・沖縄
北と南の県に田代は集中していて、畿内及びその近隣県には、極めて少ない。むしろ空白地帯になっている。文化の伝搬が基本的に違っているという事だろうか。
*福岡県 三(み)のつく地名が多い筑紫平野 平野を取り囲んでいる。三という数字に意味があったのだろうし、「み(御)」に通じるものがあるのだろう。
三奈木(甘木) 三春(浮羽) 三丸(大川) 三沢(小郡) 三川(太刀洗)三輪町 三並・三牟田(夜須) 高三潴(三潴) 三八松みやまつ(大木) 御井(久留米)
他地域にも三がつく地名がある。福岡の三宅は屯倉らしいが。
三雲・三坂(前原) 三代みしろ(新宮) 下三緒・鶴三緒(飯塚) 三苫・三宅(福岡) 三池・三池島・三川・三里(大牟田) 三楽さんらく・三毛門(豊前) 三萩野(北九州)
*福岡県 隈のつく地名も捜してみた 県全体に広がっている。熊本の熊とは字がちがっているが、熊襲とつながりがあるかも知れない。「隈」は福岡平野・筑紫平野に多い。この地域のつながりを示すのだろう。
隈(筑紫野) 西隈(那珂川) 隈江くまのえ(甘木) 隈上(浮羽) 月隈・干隈・田隈・千隈・七隈・金隈(福岡) 乙隈・山隈・横隈・今隈(小郡) 篠隈(夜須) 山隈(三輪) 大隈(嘉穂) 大隈(糟屋) 西隈(那珂川) 田隈(大牟田)
熊野(筑後) 松隈(志摩) 花熊(犀川) 大隈(嘉穂) 大隈(糟屋) 小熊野・熊手・熊西・熊谷・熊本(北九州) 吉隈(桂川) 赤熊(豊前)
*地理から文化の伝播を見てみると、畿内は九州とのつながりが少ない。それは何故か。仮説を立てれば、「邪馬台国は狗奴国との戦いに敗れ、大和への移動を余儀なくされた。または、近畿に逃げた邪馬台国の一部が地元勢力と結びついて、大きくなった。(それなら、地名や文化の伝播があってもいいではないか)』
勝利した狗奴国は倭の宗主国と名乗りを上げ勢力を広げた。女王国の末裔大和と、狗奴国の熊襲とは、宿命の対決が始まったのである。そして、祖先の土地をとり返したのが、磐井の乱(五二七年)だった。この辺りから、文化の近畿からの九州へ流入が始まる。
文化の伝播の違いはこのあたりから生まれた。自信を取り戻した近畿王権は言霊による文化を深めていった。万葉集に熊襲の歌が集められる事は決してないのである。九州男児などという強い男のイメージを作り出したのは、「武」により国を建てた熊襲の名残りかも知れない。
こうなると、巨大古墳が大和に突然生まれた事も理解できる。彼らは、祖先の地を離れ、封禅の儀のような、天の力を得るために円墳を作り、王の霊力と地の力を受けるために方墳を作った。前方後円墳の文化が大きな意味をもつようになった。当然、三角縁神獣鏡の意味もはっきりしてくる。女王国への執着と誇りである。先祖の地奪還のため、大和は幾度も九州に征西した。岡の縣主や、伊都の縣主が、九州の王家を裏切って神宮皇后を迎えたとする日本書紀の記述は、「かっての宗主国の末裔として迎えようとした」その事を裏付けるものかも知れない。大和が九州平定に情熱を注ぐ意味が分かったような気がする。しかし、征西は思うようにいかなかった。継体天皇の時代になって、やっと九州との戦に勝てたようであるが、統治の面では長続きがしなかった。憶測であるが、九州の王朝が細々と存続し続けたからであろう。彼らは筑紫城に住み「天子」として君臨していた。隋に使者を送ったのも、彼らかも知れない。磐井の乱後落ち込んでいた王権がやっと復興し、国家の体制も整ってきていたのだろう。そこで、天子を名乗り大きく飛躍したいと望んでいたのかも知れない。天子「アメノタリシヒコ」を名乗るには聖徳太子では条件が悪すぎる。
六百六十二年の百済の窮状の訴えにも九州王権として、支援しようとした。六世紀の筑紫君磐井は新羅と結んだが、百年後の筑紫の君はそれができなかった。「大化の改新」を成し遂げた大和勢力におされぎみだったのか。それとも、自力で百済を支援できると判断を誤ったのか。韓半島の実情を知らなかったのか。
白村江戦で敗れた九州王権は、倭国として戦後処理され疲弊し滅亡していった。
*畿内の「畿」の漢和辞典による意味は、①みやこ②王城を中心に五百里四方の土地で、天子が直接治める処 と書かれている。我が国では、京都を中心に山城・大和・河内・和泉・摂津を指す。「畿内」の語源は、六四五年大化改新による「畿内制」に始まると近畿地方のブログに書かれていた。明治から公用語になったそうである。畿内には孝徳帝の並々ならぬ思いが込められていたのだろう。大化の改新は、邪馬台国の再出発だったのである。
地図を広げて、ここまで来てしまった。
こうして見ると、地図にはまだまだ様々な事が潜んでいそうである。結論は、地図に残されているかも知れない。
以上の(1)から(30)までの長たらしい文章は、5年前にまとめたものです。この5年間ほったらかしていました。その間に、世の中の事情も変わり、考古学主導の古代史もずいぶん変化したようです。
もうやり直す気力もあまりないし、放りっぱなしにしておくのもさびしいので、ブログで公開してみました。
今は、熊本の山々と神社や古墳の結びつきなどに興味を持っています。
『 申し遅れましたが、(28)と(29)の文章は、あまりに単純な結論を導き出したのもあり、ここに発表するのをやめました。機会があったら、古い結論ですが、掲載します』
と、ついこの間書いたのですが、恥のついでにアップしました。聞くところによると、三国史記の百済本記や新羅本記の空白について、どなたかが発見して、きちんとまとめておられるそうです。それを聞いて、安心してここに掲載しました。私はただの思いつきです。
九州の地図を見ていて、「国見山」が多いと思う事があった。友人にその事を話すと、
「その国を首長が見渡せる場所でもあるだろうけど、国見山とは、侵略のルートなんですよ。よそ者が侵略する方法を見極める場所でもある」と聞かされて、なるほどとも思いつつ疑問も残っていた。
何時も使っている国土地理院の地図閲覧サービスで、何気なく「国見山」と入れてみた。すると、面白い結果が出て来た。
*国見山のある県(数)
岩手(3) 宮城(1) 秋田(1) 福島(2) 新潟(1) 茨城(2)
石川(2) 神奈川(1) 岐阜(1) 三重(3) 兵庫(2) 奈良(2) 広島(2) 徳島(1) 高知(2) 福岡(1) 熊本(7) 大分(1) 長崎(1) 宮崎(4) 鹿児島(2)
この中で、香奈川は「六国見山」である。広島も「七国見山」「八国見山」である。
*国見岳のある県(数)
秋田(1) 富山(1) 福井(1) 京都(1) 奈良(1) 佐賀(3) 長崎(1) 熊本(1) 宮崎(3) 鹿児島(2)
こうして見ると、「国見」と付く山は、五十七あるようだ。その中で熊本と宮崎がダントツである。鹿児島と佐賀を入れると、四十パーセントになる。熊襲の地が熊本やその南に集中していたという事だろうか。
そして、「宮地岳」という山名も多いと思ったので、検索してみた。驚いたことに、宮地岳という山は、九州にしかなかった。福津市には、宮地嶽神社がある。
福岡県 筑紫野市・前原市・福津市・糸島郡志摩町
長崎県 松浦市
熊本県 天草本渡市 *山ではなく地名
福津市の宮地岳山頂には、ここが本宮跡であり、神功皇后が三韓遠征のおり戦勝祈願をしたところであるという説明書きがある。同じように、検索では出て来なかったが、朝倉市の宮地岳にも山頂に前方後円墳と神社があり、神宮皇后のように斉明天皇が戦勝祈願をした場所だとか。筑紫野市の宮地岳は、古代山城のある山である。
では、基本的な言葉の山はどうだろうか。たとえば、「原」という字で検索すると、千一件の地名が出て来る。これでは調べようもない。
「彦山」「彦岳」はどうだろうか。かっこ内は(県名)
弥彦山 やひこやま(秋田)
雪彦山 せっびこさん(兵庫)
彦山 ひこさん(広島 福岡 長崎)ひこやま(えびの市)
英彦山 ひこさん(福岡 長崎県五島市 )
到彦山 いたひこやま(長崎県五島市)
彦岳 ひこたけ(佐賀 熊本 大分)
九州が多いようである。
「男岳」「雄岳」はどうだろう。かっこ内は(県名)
男岳 (秋田 埼玉 山口 福岡 長崎2 熊本)
男岳山(大分)
雄岳 (岩手、奈良 福岡 長崎 熊本 鹿児島)
「女岳」「雌岳」はどうだろう。
女岳 (秋田 埼玉 福岡糸島・八女 長崎壱岐・五島 熊本 鹿児島)
女岳外 (熊本) 女岳出 (熊本)
雌岳 (岩手 福岡 長崎対馬・上五島)
何となく地域の特色が感じられるが、次の「田代」は驚きの結果となった。青森に旅行した時、田代湿原に高山植物を見に行った。その後、たまたま見たのだが、あるテレビ番組で、田代湿原が取材されていた。そこで、湿原に生えるイネ科の植物の生育具合を見て、その年の稲の出来を予測するという事を紹介していた。その年の稲の出来を見る大事な行事だったようだった。「田の出来を占うから、その地を田代という」
田代湿原は、占いの地だった。そこで、田代の意味が分かった気がして印象に残ったのである。それで、田代という地名が稲作とともにあるなら、全国に普及しているだろう。そう思ったのである。
*田代の多い県(数)の順
福島(43) 秋田(32) 岩手(29) 鹿児島(25) 群馬(22)
大分(20) 青森(20) 佐賀(19) 熊本(18) 福岡(18)
山口(18) 山形(16) 愛知(16) 宮崎(14) 長崎(14)
静岡(12) 岐阜(9) 新潟(9) 栃木(7) 千葉(7)
茨城(6) 宮城(6) 島根(6) 北海道(5) 三重(4)
鳥取(3) 滋賀(3) 広島(3) 石川(3) 長野(3)
神奈川(3) 和歌山(2) 福井(2) 高地(2) 山梨(1)
埼玉(1) 兵庫(1) 岡山(1)
*田代がない都道県(富山・東京・京都・奈良・大阪・香川・愛媛・徳島・沖縄
北と南の県に田代は集中していて、畿内及びその近隣県には、極めて少ない。むしろ空白地帯になっている。文化の伝搬が基本的に違っているという事だろうか。
*福岡県 三(み)のつく地名が多い筑紫平野 平野を取り囲んでいる。三という数字に意味があったのだろうし、「み(御)」に通じるものがあるのだろう。
三奈木(甘木) 三春(浮羽) 三丸(大川) 三沢(小郡) 三川(太刀洗)三輪町 三並・三牟田(夜須) 高三潴(三潴) 三八松みやまつ(大木) 御井(久留米)
他地域にも三がつく地名がある。福岡の三宅は屯倉らしいが。
三雲・三坂(前原) 三代みしろ(新宮) 下三緒・鶴三緒(飯塚) 三苫・三宅(福岡) 三池・三池島・三川・三里(大牟田) 三楽さんらく・三毛門(豊前) 三萩野(北九州)
*福岡県 隈のつく地名も捜してみた 県全体に広がっている。熊本の熊とは字がちがっているが、熊襲とつながりがあるかも知れない。「隈」は福岡平野・筑紫平野に多い。この地域のつながりを示すのだろう。
隈(筑紫野) 西隈(那珂川) 隈江くまのえ(甘木) 隈上(浮羽) 月隈・干隈・田隈・千隈・七隈・金隈(福岡) 乙隈・山隈・横隈・今隈(小郡) 篠隈(夜須) 山隈(三輪) 大隈(嘉穂) 大隈(糟屋) 西隈(那珂川) 田隈(大牟田)
熊野(筑後) 松隈(志摩) 花熊(犀川) 大隈(嘉穂) 大隈(糟屋) 小熊野・熊手・熊西・熊谷・熊本(北九州) 吉隈(桂川) 赤熊(豊前)
*地理から文化の伝播を見てみると、畿内は九州とのつながりが少ない。それは何故か。仮説を立てれば、「邪馬台国は狗奴国との戦いに敗れ、大和への移動を余儀なくされた。または、近畿に逃げた邪馬台国の一部が地元勢力と結びついて、大きくなった。(それなら、地名や文化の伝播があってもいいではないか)』
勝利した狗奴国は倭の宗主国と名乗りを上げ勢力を広げた。女王国の末裔大和と、狗奴国の熊襲とは、宿命の対決が始まったのである。そして、祖先の土地をとり返したのが、磐井の乱(五二七年)だった。この辺りから、文化の近畿からの九州へ流入が始まる。
文化の伝播の違いはこのあたりから生まれた。自信を取り戻した近畿王権は言霊による文化を深めていった。万葉集に熊襲の歌が集められる事は決してないのである。九州男児などという強い男のイメージを作り出したのは、「武」により国を建てた熊襲の名残りかも知れない。
こうなると、巨大古墳が大和に突然生まれた事も理解できる。彼らは、祖先の地を離れ、封禅の儀のような、天の力を得るために円墳を作り、王の霊力と地の力を受けるために方墳を作った。前方後円墳の文化が大きな意味をもつようになった。当然、三角縁神獣鏡の意味もはっきりしてくる。女王国への執着と誇りである。先祖の地奪還のため、大和は幾度も九州に征西した。岡の縣主や、伊都の縣主が、九州の王家を裏切って神宮皇后を迎えたとする日本書紀の記述は、「かっての宗主国の末裔として迎えようとした」その事を裏付けるものかも知れない。大和が九州平定に情熱を注ぐ意味が分かったような気がする。しかし、征西は思うようにいかなかった。継体天皇の時代になって、やっと九州との戦に勝てたようであるが、統治の面では長続きがしなかった。憶測であるが、九州の王朝が細々と存続し続けたからであろう。彼らは筑紫城に住み「天子」として君臨していた。隋に使者を送ったのも、彼らかも知れない。磐井の乱後落ち込んでいた王権がやっと復興し、国家の体制も整ってきていたのだろう。そこで、天子を名乗り大きく飛躍したいと望んでいたのかも知れない。天子「アメノタリシヒコ」を名乗るには聖徳太子では条件が悪すぎる。
六百六十二年の百済の窮状の訴えにも九州王権として、支援しようとした。六世紀の筑紫君磐井は新羅と結んだが、百年後の筑紫の君はそれができなかった。「大化の改新」を成し遂げた大和勢力におされぎみだったのか。それとも、自力で百済を支援できると判断を誤ったのか。韓半島の実情を知らなかったのか。
白村江戦で敗れた九州王権は、倭国として戦後処理され疲弊し滅亡していった。
*畿内の「畿」の漢和辞典による意味は、①みやこ②王城を中心に五百里四方の土地で、天子が直接治める処 と書かれている。我が国では、京都を中心に山城・大和・河内・和泉・摂津を指す。「畿内」の語源は、六四五年大化改新による「畿内制」に始まると近畿地方のブログに書かれていた。明治から公用語になったそうである。畿内には孝徳帝の並々ならぬ思いが込められていたのだろう。大化の改新は、邪馬台国の再出発だったのである。
地図を広げて、ここまで来てしまった。
こうして見ると、地図にはまだまだ様々な事が潜んでいそうである。結論は、地図に残されているかも知れない。
以上の(1)から(30)までの長たらしい文章は、5年前にまとめたものです。この5年間ほったらかしていました。その間に、世の中の事情も変わり、考古学主導の古代史もずいぶん変化したようです。
もうやり直す気力もあまりないし、放りっぱなしにしておくのもさびしいので、ブログで公開してみました。
今は、熊本の山々と神社や古墳の結びつきなどに興味を持っています。
『 申し遅れましたが、(28)と(29)の文章は、あまりに単純な結論を導き出したのもあり、ここに発表するのをやめました。機会があったら、古い結論ですが、掲載します』
と、ついこの間書いたのですが、恥のついでにアップしました。聞くところによると、三国史記の百済本記や新羅本記の空白について、どなたかが発見して、きちんとまとめておられるそうです。それを聞いて、安心してここに掲載しました。私はただの思いつきです。
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by tizudesiru
| 2011-09-01 09:55
| 30山岳の名と歴史や文化
|
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史
by tizudesiru
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199光明皇后の深い憂鬱
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203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
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209石舞台・都塚・坂田寺
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211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
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236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
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239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
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296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
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300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
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335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
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346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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