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万葉集巻九の冒頭歌は雄略天皇・そこに詠まれた鹿の運命

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明日、令和元年5月28日(火)のことです。筑紫古代文化研究会の講座(福岡市中央区天神・光ビル)で「万葉集巻九・紀伊国十三首」のお話をします。
始めは、「有間皇子とは」から話し始めて、紀伊国十三首までたどり着きます。

万葉集の中で、巻九は最高に読み応えのある巻です。

巻九の冒頭歌は、雄略天皇の歌です。

万葉集巻第九 「雑歌」
     泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首

1664 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寝家良霜
    ゆふされば おぐらのやまに ふすしかは こよいはなかず いねにけらしも
泊瀬朝倉宮天皇とは、雄略天皇のことです。
雄略天皇御製歌が万葉集の巻の冒頭に置かれているのは、巻一と巻九なのです。
然も、そこに掲載された大きな意味もあるのです。

夕されば(夕方が去って夜になって)
小椋の山に臥す鹿は(小椋の山で臥している鹿は)
今夜は鳴かず(どうしたことか、毎晩のように鳴いていたのに今夜は鳴かないなあ)
いねにけらしも(寝てしまったのだろうな)
この歌は、いかにも意味深です。鹿は臥しています。では、既に寝ているのです。この詠み手は「鹿は臥している」と知っていて、「今宵は鳴かず」と云っていますから、「もう臥しているから今夜は鳴かないのだな。もう寝てしまったのかな」となって、なんだか歯がかみ合いません

よく似た歌が、万葉集巻八の「秋雑歌」の冒頭に在ります。
  巻八  「秋雑歌」
      岡本天皇御製歌一首(舒明天皇)
1511 ゆうされば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずいねにけらしも
こちらであれば、「いつもなら夜になったら小倉の山に住む鹿が鳴くのだが、今夜はなかないが寝てしまったのだろうか」と自然に意味が流れます。
しかし、そうであっても巻九(1664)も巻八(1511)も、なぜ鹿が鳴かなかったのか分かりません。何時もなら鳴いている鹿が鳴かない。
二人の天皇が鳴かない鹿を思っている、そこに共通するのは何でしょう。それは、「鹿の死」なのです。万葉集には鹿を詠んだ歌が五十五首ぐらいはあります。
其のほとんどが、妻を呼ぶ牡鹿の鳴き声です。
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そして、万葉集時代の人々は、鹿が鳴かないわけを知っていました。
秋の牡鹿が妻を呼んで鳴いているその声が聞こえない。
その声が聞こえないのは、牡鹿に異変があったからにほかなりません。
二人の天皇の歌は、鹿の身に起こった異変・事件を暗示しているのです。
その事件こそが、有間皇子謀反事件でした。
こんなお話を交えて、紀伊国行幸で詠まれた有間皇子所縁の地を辿ります。


巻八の冒頭歌は、志貴皇子のあの有名な歌です。
  巻八  「春雑歌」
      志貴皇子よろこびの御歌一首
1418 石ばしる 垂水の上のさわらびの もえいづる春になりにけるかも

万葉集は何処を読んでも面白い。初期万葉集が編纂された時、秘密や謎はなかったのです。
全てきちんと書かれていた。
しかし、元明天皇には都合が悪かったのです。だから、人麻呂は断罪された。

そのうち、お話しましょうね。



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by tizudesiru | 2019-05-28 01:30 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

大若子を祀る櫛田神社は福岡平野と背振山の周辺に在る

前回は、野芥の櫛田神社にお詣りしました。今回は、その野芥の櫛田神社から分祀したという荒江野芥神社への参詣です。
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注連縄に特徴があります。野芥の櫛田神社も同じ様式でした。下の写真が野芥櫛田神社です。
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よく似ているでしょう。 

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櫛田神社の由緒によると、野芥や博多や佐賀の神崎の櫛田神社は、みんな天平年間の創祀だそうです。それは、それぞれの主張もありましょうが、荒江櫛田神社には『大若子が主たる祭神と思われる櫛田神社は、全国的には数が少なく』と書かれています。他ではあまり見られないということでしょうか。
発生の地(起源)は、伊勢櫛田神社』と書かれていますが、それは、倭姫世紀の話に基づいたものでしょうか。伊勢神宮の成立に関わる古文書ですが、本当はさほど古い物ではありません。
伊勢の神は「度会の神」として万葉集にも出てきます。わたらいの神であれば、宮川のある下宮(げくう)の神様です。つまり、豊受大神になります。
内宮が成立するのは7世紀後半以降ですから。五十鈴川の上流に天照大神の鎮座が必要になってからの祭祀だと思います。高天原広野姫天皇という諡号を持つ持統天皇の時代になって、必要とされた女神なのです。
そう考えると、大若子を祀る櫛田神社の起源を伊勢に求める必要はありません。
脊振山を取り巻く地域にいた大若子が祀られたと考えていいのではないかと思います。

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荒江櫛田神社の隣の社、赤い社が見えますが、「幸神社」です。
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幸神社は昔からの地域の「地神」だそうです。もとは、この境内に祀られていなかったのを、此処に合祀したのだそうです。地域の生活と結びついた地神と、古代の氏神信仰につながる社は分けられていたのですね。

ではこの辺で。


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by tizudesiru | 2019-05-26 01:06 | 350九州神社の旅 | Trackback

大若子と倭姫の接点を知っていた野芥櫛田神社

福岡県福岡市早良区野芥の櫛田神社に参詣しました。以前の参詣とは違ったことに気が付きました。それは、ご祭神のことです。
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ご祭神は、天照皇大神・大若子命・天児屋根命・手力男命・倭姫命となっていました。

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由緒(古事記・続風土記拾遺、神社誌ヨリ抜粋要約)

皇譜十二代景行天皇十八年 此ノ地方二強賊蠻居シ在リ即チ勅シテ 大若子命ニ征誅セシメラレ コレガ縁起ニテ当地 能解(のけ)ニ勧請セラレ後チ天慶二年再建ノノチハ早良六郷ノ郷社トシテ鎮座シ給ヘリト傳承ス 即チ往古ニ算スレバ其ノ創祀ハ実ニ一千三百年ノ昔 大和朝時代ナリト

*能解=野芥 

野芥櫛田神社に上記のような由緒がありました。それで、佐賀県の櫛田神社を思い出したのです。御祭神はどうだったのかな…もう忘れていたので神崎の櫛田神社のホームページで確かめました。

「神埼の櫛田神社」のホームページ

(かんざき)」発祥の地 景行天皇が今から1930余年前に櫛田宮を創祀されて以来、荒廃した地が神の幸をうける平和郷となり、神幸(かむさき)と名付けられました。これが後に神埼となりました。〈肥前國風土記〉

御祭神の御神徳は、国土万民の安泰繁栄を守護し、あらゆる災難を除き給う事は「神代より末代の今に至る迄、霊験あらたにして威徳世に盛に、利生掲焉にして賞罰分明なり」と櫛田大明神縁起に明記され、厄はらい・車両はらい・地鎮祭・縁結び・安産・病気平癒等の神さまとして仰がれています。

櫛田神社の元宮(もとみや) 弘安4年(1281)蒙古襲来。神埼本宮より末社博多櫛田神社へ神剣を移して異賊退散を祈り、霊験あらたかなものがありました。

当宮と南北各1里へだてて鎮座する高志(たかし)神社(千代田町、田中豊宮司)・白角折(おしとり)神社(旧仁比山村朝日)とは三所一体の神社です。他にも『櫛田大明神』と刻まれた石祠などが筑紫山地などあちらこちらに祀られています。

御祭神
櫛田三柱大神
櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)正面鎮座、櫛田大明神
須佐之男命(スサノオノミコト)  東御座、高志大明神
日本武命 (ヤマトタケルノミコト)西御座、白角折大明神(おしとりだいみょうじん)
と、上記のように書かれていました。

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野芥の櫛田神社は、明らかに大若子命が中心の神社です。由緒からそのようにしか読み取れません。他の四神(天照皇大神・天児屋根命・手力男命・倭姫命)は、後からくわえられた神々でしょうか。たぶん明治になって「大若子命」の関係から伊勢神宮の縁起に倣って四神が入って来たと思われます。
大若子は、ヤマトヒメが天照大神の鎮座地を求めてさまよっている時、土地を献上した豪族だったと思います。

こんな九州にまで倭姫は来られたのですか? ではなくて、あの話は九州で起こったことですか? と思いたくなりますね。
神社を巡っていると、ひよっこり、宇治稚郎子にあったり、仁徳天皇に会ったり、大若子に会ったりするので驚きます。伊勢神宮に伝わる「倭姫世紀」には、
十四年[乙巳]、伊勢国桑名野代宮(くはなのしろ のみや)に遷幸して、四年間奉斎。
 この時、国造大若子命〔一名大幡主命〕が現はれ参上して御共に仕へ奉ったので、国内の風俗を奏上させた。また、国造建日方命(たけひかた のみこと)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと「神風の伊勢国」と申上げ、舎人弟 伊尓方命(いにかた のみこと)、また地口・神田・神戸を進った。若子命は、舎人弟 乙若子命を進った。

と、「大若子」の記述があるのです。
此処に出てくる大若子(大幡主命)は、国造です。倭姫世紀を知っていたので、早良の人たちがご祭神に加えたのでしょうか。
大変不思議です。
では、この辺で。



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by tizudesiru | 2019-05-25 00:48 | 350九州神社の旅 | Trackback

博多湾の能古島はオノゴロ島だったのか

福岡市東区の志賀海神社の元宮は、玄界灘に向かって鎮座していました。現在は博多湾を向いていますが、古代には外海を見ていたのです。
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志賀海神社の元宮の沖津島を東に見て後ろ(西)に目を移すと、そこに玄海島が見えます。玄界島は将に博多湾の入口に控えています。
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志賀島と玄界島の間を通って船が行き来しています。
玄界島には鷹の緑丸の伝承があります。
玄海島を見て博多湾に入ると、能古島が浮かんでいます。ここにも面白い話が合って、神話時代のオノコロ島は、能古島(のこのしま)だというのです。

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能古島には防人も置かれました。国外から攻めてくるとしたら、必ず通る海峡に浮かぶ島なのです。
志賀島の高台・塩見公園の展望台からこの能古島を見ましょう。確かに、古代には防人を置いたでしょうね。能古島が重要な位置にあることは分かりました。ここがオノコロ島の可能性はあるでしょう。南の対岸には小戸があり青木ヶ原がありますからね…

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何と言っても「神話の時代の話」ですから、肯定も否定もしません。

神話の時代の話ですから、文字を手に入れた氏族が自分たちの知識と都合で「日本書紀」や「古事記」を編集したのでしょうから、それをマルマル信じようというのではないのです。
しかし、その編集は少し気になります。

国生み神話を日本書紀で見ると、イザナギとイザナミが生んだ順番は次のようになります。
①秋津島(本州) ➁伊予二名島(四国)③筑紫島(九州)④⑤隠岐島と佐度島 ⑥越洲(北陸)⑦大洲(周防大島)⑧吉備児島(児島半島)
古事記では次の通りです。

①淡路島 ➁伊予二名島(四国)③隠岐島 ④筑紫島(九州)⑤壱岐島 ⑥対馬島 ⑦佐度島 ⑧秋津島(本州)

どゆこと? と思いますよね。日本書紀と古事記では「秋津島(本州)」を生んだ順番が、一番と最後、全く違います。この違いは、編集する氏の考えと主張の違いなのでしょうね。
 
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博多湾の入口には万葉歌碑もありますが、蒙古塚もあります。
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故郷には家族も恋人もいたでしょうに、この海で失われた命がたくさんあったのですね。
失われた命を思うと、美しい海が悲しく思えます。
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では、又明日,と書いてしまいました。
またまた、大事なことを書きませんでした。
「志賀海神社の元宮が外海を向いているのは何故か」の答えです。
此の答えは分かり切ったことで、単純です。志賀海神社を祭祀した安曇氏に「渡海技術があったから」です。
彼らは外海に出ていたのです。ただの漁師なら博多七浦と呼ばれた安全な湾内の漁だけでやれたはずです。危険な玄界灘で漁をする必要はありません。
志賀海神社の神に守られて、多くの丈夫が渡海しました。

玄界灘を越えて行くからこそ海神に祈ることが重要でした。「何をしに行くのか」ですが、王家の使者として、兵隊を送る船頭として、又は自らも兵として出港したのかもしれません。
だから、古代の社は外海を向いていると、私は思います。


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by tizudesiru | 2019-05-19 00:13 | 350九州神社の旅 | Trackback

志賀海神社の元宮が外海を向いていたのは何故か

平成最後の「山誉め祭り」(福岡市東区志賀島の志賀海神社)に行きました。4月15日のことです。既に令和になりましたが、平成最後の祭だと思っていきました。報告します。
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祭りは厳かですが、楽し気な雰囲気でした。
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祭りの後、志賀海神社の元宮を訪ねました。元宮は博多湾側ではなく、玄界灘側にあり外海を見ているのです。博多湾側に社が移ったのは、外海に出る仕事がなくなったためか、政治的な意味があるのでしょうか。地図上のピンクのポイントが沖津宮です。港の近くの水色のポイントが現在の志賀海神社です。
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沖津宮は勝馬にあります。海岸からこの少し離れた海の中です。この沖津宮と向き合っているのが中津宮で、ここは古墳になっています。この被葬者は海に関わりのある人だったのでしょう。海に突き出た岬の墓ですから。
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そして、辺津宮は中津宮とほとんど並んでいます。数年前に社は朽ちてしまい、その址だけが残されています。が、地域の人のお祀りは続いています。
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辺津宮はとても分かりにくいです。海辺の林に踏み分け路が続き、清められた空間があります。
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今は、ほんの少しの人だけが知っている聖地です。
元宮を訪ねて思うのですが、「安曇」は日本中に地名が広がりました。
魚を取って生業を立てるのであれば、博多湾側で神祭りをするでしょう。
しかし、元宮は外海を見ているのです。
神功皇后が安曇磯羅を呼び出したのは、渡海するためでした。航海技術があったのでしょう。
そうして、全国に地名が伝わった。さすれば、勝馬のどこかから船出したのでしょうか。
やはり、元宮の辺りでしょうね。
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此の浜辺は小舟を引き上げるにはいいかも知れません。奥に沖津宮が見えます。
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山誉め祭りで「君が代」と同じ言葉を今年も聞きました。毎回、不思議な感じがします。では、また。


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by tizudesiru | 2019-05-18 01:37 | 350九州神社の旅 | Trackback

690年の紀伊国行幸で持統天皇は有間皇子の霊魂に対面した

元号が令和に代わって早くも11日が経ちました。今日に続く元号が初めて建てられた(建元という)のは、文武天皇五年・701年3月です。大宝」から慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀・天平…と元号は改められて(改元という)きました。建元と改元は違うのです。

文武天皇は十五歳で即位していましたから、文武天皇五年=大宝元年(701年)には二十歳になっています。この年に、藤原宮子との間に首(おびと)皇子も生まれました。
大宝元年、都ではお祝いの連続だったでしょうね。更に、

大宝元年は、3月に大宝令が施行された記念すべき年でした。
律」が加わり「大宝律令」が成るのは、8月のことです。

大宝元年とは、大きな節目の年だったのです。
太上天皇に支えられて政治を行ってきた文武天皇も青年期を迎え、「大宝」と建元し、律令による政治を始動させました。太上天皇(持統天皇)としてはどんなにか喜ばしい年だったでしょう。
しかし、ほっとしている暇はありません。祖母として太上天皇として、孫の帝に伝えなければならないことがまだまだありました。そこで
大宝元年9月から10月にかけて、紀伊國行幸が敢行されました。
紀伊国行幸は持統太上天皇の望みで「敢行=あえて行われた」と思います。

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それにしても、紀伊国とは。そこは持統天皇にとって如何なる意味のある場所なのか。

紀伊国の白浜海岸は古代でも有名な観光地で、そこに牟婁温泉がありますが、有間皇子が牟婁温泉に護送された事件は紀伊国で起こりました。
天智天皇が孝徳天皇の長子である有間皇子を陥れ、命を奪った土地でありましたから、その卑怯な手口は長く難波宮の官人の口に上ったことでしょう。
そのため、天智天皇は間人皇后(孝徳天皇の皇后)に渡っていた「皇位継承の玉璽」を奪えず、難波宮にも近づけず、斉明帝が崩御しても長く即位できませんでした。

間人皇后が薨去して初めて天智帝が即位できた」という事実を、難波宮の官人も持統天皇も藤原氏も忘れてはいません。ですから、有間皇子事件は多くの官人にとっても触れたくない事件だったでしょう。
しかし、持統天皇は紀伊国行幸を敢行します。それはなぜか。
実は、大宝元年の紀伊国行幸の意味を解くカギは、690年の紀伊国行幸にあるのです。
701年、文武天皇と持統太上天皇はなぜ紀伊国に御幸したのかを解くカギです。

万葉集には「紀伊国行幸」は、690年と701年の二回敢行され、歌が残されています。
690年は、持統天皇にとって正念場、大変な年でした。
持統三年(689年)三月、草壁皇子が薨去
しました。
持統天皇の一人息子が亡くなったのです。
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡(おくりな)されたとおり、草壁皇子こそ極位に上ってほしいと持統天皇が望んだ人でした。
その皇子が薨去したのですから、持統四年一月に持統帝即位となり、七月に高市皇子を太政大臣、多治比嶋を右大臣に任命しました。
その後、9月に紀伊国行幸の敢行なのです。何を思っての旅だったのでしょうか。
そこで詠まれたのは、なんと有間皇子をしのぶ歌でした。
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川嶋皇子・長忌寸意吉麻呂が歌を献上しています。
持統四年(690年)、持統天皇は紀伊国に行幸し、有間皇子の所縁の地を訪ねているのです。そこで、従駕の者に歌を詠ませたのでした。
その中に川嶋皇子の歌があります。
「紀伊国に幸す時の御作歌」ですから公の場での詠歌です。
公の場で、有間皇子ゆかりの結松を詠みました。川嶋皇子は有間皇子事件の時はまだ生まれていません。彼は事件を知らないのです。
しかし、敢えて歌を詠んだのには、それなりの理由と意味があるはずです。


持統四年(690)の持統天皇には、強い決意がありました。
如何なることがあっても孫の軽皇子(草壁皇子の長子)を大王に育てなければならない。
今を乗り切るために、行政のトップは高市皇子に任せる以外ない。
そんな時に、有間皇子をしのぶ歌を詠んだのです。有間皇子の霊魂を鎮めて、何を願ったのでしょうか。
この行幸が、次の701年の紀伊国行幸の下地となるのです。


今度の火曜日、下記のようなことをお話ししたいと思います。
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有間皇子はなぜ殺されたのか。
有間皇子の自傷歌はなぜ『挽歌』に編集されたのか。

5月14日(火)の「筑紫古代文化研究会」(福岡市天神・光ビル)では、有間皇子の話と「690年の紀伊行幸」の話をする予定です。(「701年の紀伊国行幸」は、次にまわします。5月の4週(火)の予定です。)

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写真は和歌山県の11月の白崎。
その名の通り石灰岩の岬です。ここで詠まれた万葉集・巻九の歌。

1668 白崎者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧 (原文)
1668 白崎は幸く在り待て 大船に真梶しじぬき 又かへりみむ (読み)
この歌が詠まれたのは、「大宝二年辛丑冬十月」でした。
この歌については、四週の「紀伊国行幸十三首」で話したいと思います。

上の写真は、白崎で11月に取ったものです。旧暦の冬十月は、今日では11月終わりから12月初めのころです。
1300年昔の白崎も、この写真のように海も空も青く晴れ挙げったいたのでしょうか。


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では、又、お会いしましょう。


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by tizudesiru | 2019-05-12 11:24 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

神籠石系古代山城の築造時期の問題提起

元号の「平成」が「令和」に代わり、国内には新しいことが起きそうな期待感が高まっていますが、古代史の世界は残念なことが連続しています。
近畿の巨大古墳群が世界遺産に登録されることを目指すそうです。
あの古墳群が5世紀の王権の証明とでもいうのでしょうか。5世紀と言いたい、そのように5世紀であって欲しい、それは願望としては理解できます。しかし、史実としてはどうでしょうか
大化改新(645年)まで、豪族を抑えきれていなかった近畿です。戸籍も持たない、行政区もなかった、経済的に力を持った豪族が権力を握っていたと思われる地域です。そこで、中国の中央集権国家に倣って、新しい国家像を求めて蘇我氏を滅ぼしたのです。
統一政権=王権の確立は、まだなかったのです。
阿毎多利思北孤が畿内に居たのなら、行政区があり組織があり戸籍があって税もあり、王宮も王妃も後宮も皇太子もいたのですから、「大化改新」をする必要はありません。
何にもなかったから留学生が帰国した後に中央集権国家を目指そうと、彼ら学者と若者が軽皇子(孝徳天皇)を中心に集まったのです。

日本書紀と隋書を読めば、自明のことです。アメノタリシホコは阿蘇山のある九州に居たのです。王権はそこに成立していた。ですから、大化改新の前に近畿王権が確立していたはずはありません。推古天皇は女性ですし、タリシホコではありえません。

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アメノタリシホコは佛教で国を教化しようとしていました。それを見た蘇我氏も物部氏も仏教とその文化にあこがれました。しかし、近畿に仏教を入れるには抵抗勢力が強かったのです。蘇我氏が私的に仏教を保護したのもそのためでした。
やがて、蘇我氏と物部氏は交易の利権を巡って対立し、蘇我氏が勝利しました。
そこで、蘇我氏は物部氏の莫大な土地と財産を奪いました。大阪市の上町台地の大阪城辺りには、古代の難波堀江がありました。そこは古代の流通の拠点だったのです。そして、その辺りは物部氏の私有地だったでしょう。

蘇我物部戦争に敗北した物部氏はすべてを失い、難波堀江辺りは蘇我氏の土地となりました。
が、ほどなく上町台地の一等地は、乙巳の変(645)で蘇我氏本家を滅ぼした孝徳帝の所有地となったのです。ですから、そこに難波名柄豊崎宮は造営されました。


単純な恐ろしい話です。政変のたびに莫大な財産の所有者が変わるのです。
孝徳天皇は理想に向かって難波宮を造営しました。しかし、律令を持たなかったので「詔勅」で政治を行いました。命令系統が整ってなかったのです。その痕跡もなかったので、過去の権力の組織を再利用することもできませんでした。ゼロからの出発でした。

何にもなかったのです。そして、そこには過去の大型古墳があった?
不自然で、違和感がありすぎです。王権の古墳ではないでしょう。
 
6世紀の半ば過ぎから7世紀初めにかけて、国内の流通が一変しました。その経済力をバックに大きな威信物を希望した新興豪族が作ったと考えることは出来ます。

以上、「古代史の残念」について一言書きました。
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令和元年、最初の投稿ですが、カテゴリ「363神籠石が歴史論争から外され‥」につながる内容になります。
古代山城についての昨今の動き・見解には、驚きあきれます。理解できない説が文化庁の説をはじめ諸説が横行しています。
「古代山城として朝鮮式山城が白村江敗戦後に造られ、その後、交通の発展に伴い神籠石系山城が作られた。唐・新羅に対しての防御の意味で造られたので、神籠石系山城は見せかけの山城で建物も何も作られなかった。ハリボテのようなものだった」
そうでしょうか。これまで、九州の地方自治体がコツコツと積み上げて来た研究はどうなるのでしょう。まるで、地方をないがしろにした言葉だけの説です。

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そこで思い出しました。今年三月の「善一田古墳と古代筑紫の世界」シンポジウムのスライドです。安閑紀の屯倉の位置を示した地図に、朝鮮式山城と神籠石系山城が一緒に示されていました。
すると、古代山城は安閑紀の屯倉(磐井の乱後の全国に造られた)と時期がリンクするのですね。

文化庁の見解とはぜんぜん食い違いますね。白村江敗戦よりも100年以上早くなりますから。文化庁は8世紀とか書いていましたからね。150年も時間差ができるわけです。
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2005年(平成17年)4月12日の読売新聞です。
少しアップします。
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6世紀後半から7世紀前半に造られていた可能性とあります。
私たちは自分たちに都合のいい情報で歴史を処理してはいけないと思います。説はいろいろでしょう。
しかし、経済効果や町おこしという目的で歴史を扱ってはいけないと思います。

歴史は個人や一地域のものではないと思うし、未来の人々に真実を見つけるチャンスを残したいと思います。
ではまた、明日。


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by tizudesiru | 2019-05-11 21:53 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける

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