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「平成」最後の日に「令和」の弥栄を願う

今日は平成最後の日になりました。
歴代の天皇の中でも国民に寄り添うことを願われたのは今上天皇でした。多くの国民に直接声をかけられた今上天皇が退位されました。平和な時代がこれからも続きますように。
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それにしても、次が「令和」という元号であると発表されたことには驚きました。
「令和」が万葉集・巻五の「梅花歌卅二首幷序」から採用されたと聞いて、更にびっくりしました。

確かに、大宰府の大伴旅人の館で催された正月儀式「梅花の宴」は華やかな宴会で、三十二首の梅を詠んだ歌会です。天平二年正月十三日無官の者から高官の大弐紀卿までが一同に会して「梅花の歌を詠む」という前代未聞の催し事でした。
遥かに離れた都にもその事は伝わり、噂を聞いて宮中はおどろきました。
それまでの都の正月儀式は一月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、十七日頃の「射礼(じゃらい)」などで優雅な歌を詠むなどという正月儀式はなかったのです。

同じ年三月に、聖武天皇は宴を開きました。『天皇松林宮に宴を催す。文章生「曲水の詩」を賦す』とあります。旅人が行ったような優雅な儀式をやりたかったのです。
しかし、前年の長屋王事件の後遺症はまだまだ残っていて、皇后に立った光明子は苦しみ続けていました。宴どころではなかったでしょう。

都では、長屋王事件の後にあらぬ噂が流れ、人々は混乱していました。
それなのに、大宰府では優雅な儀式をしていた…違和感があります。
なぜ、大伴旅人は「梅花の宴」をしたのでしょう。そこが重要です。その旅人の意図を解く鍵は、「梅花の宴」の序文にあるのです。

初春の令月にして、気淑く風和ぐ

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令月の「令」は、漢字本来は「おきて・法律」などのように『神の言葉を以って命ずる』という意味だったのです。後に、それが敬称として用いられるようになりました。今日、ご令息・ご令嬢などと使います。同じように「令月」=よい月 となりましょう。
しかし、もう一つの令月「陰暦二月の別名を忘れてはなりません。
旅人は正月(初春)の十三日に『令月』を使いました。「正月はよい月」という意味ではなく、「陰暦二月」として旅人は使ったのです。正月に「二月を意味する」のはおかしな話です。
二月…長屋王事件は前年の神亀六年の二月に起こりました。
旅人は神亀六年二月に薨去した長屋王を偲んだのです…「天平」に改元されたのは半年後の八月でした。神亀から天平(天が反逆者を倒し平らげたの意味)に改元されました。
つまり、天平二年は「天平に改元されて初めての正月』です。
旅人は大宰府で長屋王を偲び続けていたのです、おくびにも出さずに。

梅花の宴

そこにあるのは、前年二月に謀反のかどで死に追い込まれた長屋王への追悼の思いでした。九州の古代王権が行っていた正月儀式を、高市皇子の長子である長屋王の霊魂を鎮めるために再現したのです。そうして、九州に所縁のある長屋王を偲んだと、そうとしか思えません。


そもそも、「梅花歌卅二首」は万葉集・巻五置かれているのです。
巻五の冒頭歌は、旅人の名歌「絶望と怒りの歌」、『大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首』からはじまるります。その793番歌、

よのなかは 空しきものと しるときし いよよますます かなしかりけり


この歌の強さ「悲しかりけり」と感情を率直に述べながら、深く「世の中は空しきもの」と述懐する歌、このような歌はこれまでに有りませんでした。その歌の表現の新しさに、編者が感動したかもしれません。それで、冒頭に持って来た・・・
いえいえ、そうではなく、巻五には編者の思いがあふれています。
次に794番歌として、続くのは山上憶良の歌。旅人の妻への挽歌『日本挽歌』なのです。巻五はほとんど、挽歌と雑歌がないまぜ状態ですね。
憶良の「貧窮問答歌」も巻五です。巻五は、冒頭から最後まで重く悲しい歌が連続しています。(巻五の最後は、憶良の「死亡した我が子・古日を恋うる歌」なのですよ)

これで、巻五がどのような意図で編集されたか想像に難くないでしょう。「梅花歌三十二首」は、巻五に掲載されています。それが、重く沈む歌群の中に異彩を放っているのです。


少し長くなりました。
長屋王事件について、少しスライドで補足しました。
旅人については、このブログ「大伴旅人、水城にて乙女と別れの歌をかわす
に詳しく書いています。読んでみてください。

令和の弥栄を祈らずにはおれません。
大伴旅人も柿本人麻呂も、自分がどんなに苦しい立場に追い込まれても、人生が終わろうとしていても、世を寿ぎ世の弥栄を願う歌を詠みました。それは歌人として、言霊を信じる歌人として、当然のことだったのでしょうか。

敷島の倭の国は言霊のたすくる国ぞ真福(まさきく)在りこそ  (人麻呂)
新しき年の始めのはつはるの きょうふる雪の いやしけよごと (家持)

では、令和の佳き日にお会いしましょう。
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by tizudesiru | 2019-04-30 12:47 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

那珂川の河内にある乙子神社

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乙子(おとご)神社は、福岡県那珂川町に在ります。昔から気になっていた神社です。
福岡市の二か所の住吉神社(名神大社)の延長線上にあるからです。更に、福岡市の飯盛山(旧平群村の神山)の日の出のライン上に在ります。飯盛山山頂ー荒平山山頂ー乙子神社とラインで結ばれます。
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どんな神社なのだろうと思っていました。さて、参拝しようと歩き出したら、地元の人に呼び止められました。「女人禁制の祠があるから、そこには行かないで」と言われます。
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それは、大変な禁忌です。「大丈夫、そこには行きません」
女人禁制の社殿は、本殿の横の階段を上った上宮でした。
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若い女性とか、家族に不幸があった人とか、参拝できない神社は、時々聞きますが、女性は上がれない社は珍しいですね。
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ここは背振の修験道に関係深い神社のようです。神社の近くを流れているのは、那珂川です。
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乙子神社がある辺りは、面白い地名が集まっています。
という
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京の隈という地名なのです。
ブログ「宮原誠一の神社見聞録」で宮原さんは、面白いこと書いていましたね。
那珂川町の此の辺りは、昔は河内という地名だったと老人が言われたらしいです。
そして、ここには高津神社があるのです。
おや、「河内・高津・京」が揃って、なんだか意味深だというのです。
では高津神社に参詣しましょう。
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ご神体は磐座のようです。
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高津神社の由緒は消されていたのか、消してあったのか、分かりません。ただ、元寇のころ、ここに岩門城があったのです。たぶん、那珂川の水量も多く、船が奥まで入り込めたのでしょう。攻めるにも守るにも良い場所だったのです。そして、博多湾まで見渡せたということです。
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高津神社の辺りが古代の神祭りの場であることはよく分かりました。しかし、神祀りをした場所は分かったけど、古代の支配者は何処に住んだのでしょう。宮原さんは「伏見宮」の辺りに住んだはずだと云われました。
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伏見宮は確かに那珂川のほとりにあります。交通の利便性のいいところに在りました。
伏見宮から川へ降りる階段があり、昔から利用されていたと思います。
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伏見宮の千木を見ると「平切り」になっていますから、女性神なのです。
「伏見宮」は「‥宮」ですから、この神社は、ここが発生の地だということになりますね。「伏見」とは「伏し身」なのでしょうか、気になりますね。
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神楽面からすると、天鈿女命と豊姫命が主祭神でしょうか。
那珂川には面白い所がたくさんあります。
神功皇后伝承の裂田の溝もありますからね。古代から神祭りの重要な場所だったのです。
では、また。

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by tizudesiru | 2019-04-28 17:11 | 350九州神社の旅 | Trackback

卑弥呼が九州から消える日・縄文から始まる

とうとうその日が来るのですか。誤解から始まった邪馬台国近畿説が、国家の歴史として決定される日が。何と恐ろしい! 真実がみえなくなり、歴史はゆがみます。

箸墓が卑弥呼の墓だという信じられない説を一般化した畿内説学者は、文献や考古資料では「邪馬台国九州説を撲滅することは出来ない」と知っています。
「文献では邪馬台国は読めないから、読まない。」と言い出して半世紀以上が経ちました。
(文献で読むと九州説が有力だからです)
それで、考古資料で邪馬台国を探すとして、40年の長きにわたり奈良を掘り続けたのに、頼りの纏向遺跡ですら時期が怪しくなってきました。残念ながら。
そこで、登場したのが東北・関東の見事な縄文遺物でした。
長い縄文、短い弥生、そして、怒涛の如く古墳時代に突入する東国。「その状況が近畿と似ている」 として、ここに目が付けられました。

分かりますか? 豊かな東国の縄文文化と融合して畿内の弥生は花開き、卑弥呼の神祭りが生れた、と展開するのです。畿内で卑弥呼は生まれたとするのです。
身震いがします。
確かに東国・東北の縄文文化は素晴らしい。
その基礎があったから稲作が入り、古墳文化が怒涛のように入っても、消化し古墳文化を花開かせたのです。
明治の日本と同じです。江戸時代の寺子屋教育が浸透し国民が学問をしていたから、明治の教育は浸透し、近代国家へと移行できました。
文化の浸透⇒近代的国家は、基礎教育があったからこそ可能だったのです。
同じことが言えます。豊かな縄文があったからこそ、弥生と古墳文化が素早く入り込んだのです。もちろん、畿内にも基礎があったのです。
そこへ、九州の弥生後期の文化・更に古墳文化が入って、王権が誕生したのです。


令和元年に合わせて、いよいよ始まりました。あちこちで話をしてきました『縄文ブームは卑弥呼畿内説の準備である」と。
ついに「邪馬台国九州説」をつぶす時期だと考えたのですね、当局は。
このままでいいのですか?

昨年2018年の夏、

東京国博で「縄文展」開催され、噂の縄文のビーナスが展示された。 周囲では、ビーナスが揃う機会はめったにないから見に行ったという話が流れていた。
私は見に行くつもりはなかった。

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本当に縄文の土偶だろうか、という思いと、急な縄文ブームにいささかの疑問を感じていたからです。なぜ、縄文が急に脚光を浴びるようになったのか。

当局の意図は、素人の私にも分かりました。準備のための印刷物が出回っていました。
図版・図録・パンフ・すべて、当局の物は同じ方向を向いています。
ですから、素人にも分かりやすいのです。


(写真は縄文展の図録をデジカメで撮ったものです)
貴方は、この写真を見て不思議に思いませんか?
私は縄文のビーナスに対して非常に違和感を覚えていました。


「土偶は不思議だ。大量に発見されているのに、完品はない。体の一部が必ず失われている。それは病気などで体の悪い所を治すためのまじないの為らしい。遮光土器もあれもまじないの一種だろうか」という話は昔からありました。

土偶の前面に付けられた文様が深い祈りと結びついていたと、私はそう思っていましたから、文様がほとんど彫り込まれていない、然も、土偶として割損部のないビーナスを『縄文土器』として認識するのに抵抗がありました。
青森の飛行場で売っていた土産物の遮光土器も片足が欠けていたし・・・文様に覆われた完品ではない土偶が「土偶」の本来の姿ではないでしょうか。

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遮光土器には文様の窪みに朱が残っていますから、本来は赤い色が塗られていたのです。そうしてみると、ビーナスには朱の後は有りません。高温で焼しめられた土の肌は黒光りさえしています。
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はっきり言えば、焼成温度が高いのです。そういう技術があった時期のものです。
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形の完璧さからして、時期が古くは有りません。
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見事な造形美を堪能できます。しかし、文化のレベルは古式ではありません。
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それにしても高い芸術性と焼成技術が備わっています。
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群馬県藤岡市の博物館の耳飾りを見ても、細かな細工が壊れていません。完形で風化もほとんどありません。これは、焼成温度が高く、製作技術も工具も充実していた証拠です。簡単なことです。いわゆる縄文時代とはいえ、新しいのです。長く縄文が続き熟成していた証拠です。
そこへ、九州の文化が入って来た。古墳時代になって更に色濃く九州の文化が入って来た、のです。
畿内王権が入って来た時、戸籍や行政区などの基礎ができていたから、たやすく統治できたのです。関東の文化は、九州の影響を色濃く受けています。

そんな分析は抜きで、畿内と東国を結びつけた。
その作業が続いていましたが、いよいよその路線が国民に向かって披露される。
日本の歴史の書き換えと上塗りが始まるのです。

その情報発信に駆り出されているのは、NHKです。最近のNHKには、公平さが無くなりました。もともと公平ではなかったけれど。小泉政権の頃から極端になったと思いますが。
当局に都合のいいところだけ放送する。国民の目と耳を一定の方向にもっていく、朝飯前の仕事です。


今日は、心からがっかりしたので、ブログを書きました。
先ほど、
「水曜日の『英雄たちの選択』は縄文だったよ。近畿の縄文は長くゆっくり続いたんだって」と、一言聞きました。
私は出かけていたので、そのTVを見ていません。


かねてより危惧していた事態が、いよいよ現実になると思いました。
若者も老人も「令和で新しいことが起こる」と期待しています。
そこへ、この「九州説つぶし」の激震が用意されているのです。
そう思ったのは、私だけでしょうか。これを読んで、あなたはどう思いましたか。


このような事態にならないようにと、私は願っています。どうぞ、的外れでありますようにと。TVの再放送を見て、再度かんがえるつもりです。では。


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by tizudesiru | 2019-04-27 16:08 | 365令和元年・卑弥呼が九州から消える | Trackback

令和元年・万葉集を読む in 西原村

歴史カフェ阿蘇「令和元年、万葉集を読む」は、明日です。
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今回は、万葉集の編集についてのお話です。
万葉集は、誰が何のために編纂編集させたのか。
もちろん、持統天皇が人麻呂に編集を詔したのですが。
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持統天皇が孫の軽皇子を即位させるには困難がありました。
軽皇子には多くのライバルがいました。天武天皇の皇子達です。
そして、皇位継承者選びや方法に問題があったのです。
それをクリアするには、皇位継承の正統性を主張する必要がありました。
・・・・万葉集で読み解きましょう。

では、熊本の西原村でお会いしましょう。場所は、西原村萌の里の近く、平田庵というソバ屋さんの隣です。
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では、明日。

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by tizudesiru | 2019-04-23 22:55 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

継体天皇御一家の悲劇は起きたのか

継体紀に、恐ろしく悲しい「結婚初夜」の歌があります。
それは、継体天皇の長子・勾大兄(まがりのおおえ)皇子=安閑天皇の結婚初夜の歌です。
八洲(やしま)国では妻を娶ることができなかったので、春日の国で美しい女性がいると聞いて妻にしたというのですが・‥読んでみてください。

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美しい妻を迎えたのに、何とかしようとしたのに、何もことが起こらないうちに夜が明けてしまった…という結婚初夜の歌なのです。
勾大兄皇子に何があったのでしょう。この事態に、妻となった春日山田皇女も困惑しました。
そこで、皇女は歌で答えました。

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「やすみしし我が大君が着けていらっしゃる、細かい模様の御帯が結び垂れ、誰もがみな声を出して賛嘆しています」と訳文がつけれれていますが、賛嘆、それはないでしょう。
勾大兄皇子の御帯は垂れているのです。これは暗喩です。何を暗喩しているか、言わずもがな。勾大兄皇子は結婚初夜を悲しい結果に終わらせたのです。
それを責めなかったのか、嘆いたのか、春日山田皇女は「御帯の結び垂れ」と表現しました。


二人になぜこんな悲しい結果が訪れたのか、そこが問題です。
勾大兄皇子=安閑天皇には、子どもがいません。ほかの女生徒の間にも子どもをもうけることができなかったのでした。
それはなぜか。わたしにも不思議でした。
その事に、一つの答えを示唆してくれた本を紹介します。わたしには考えても見ないことがかかれていましたので。

『不実考』続外道まんだら (徳永裕二 著) 不知火書房(出版社)
「継体天皇が皇統を継ぐに相応しい人物であることを武威や血統によってではなく信仰上において他の皇族・豪族等に納得させるためには、かっての古代首長の表徴として抜箭信仰を保持していることを示すことである。つまり継体自らは抜箭することはなかったにせよ、長子の安閑には抜箭を施したとみられる。あたかも、『旧約聖書』創世記で父・アブラハムが庶兄・イシュマエルと嫡男・イサクに割礼(ベリトミラフ)を施したように。なお、割礼は抜箭の擬きである。

信仰とは、言い難く恐ろしいものではあります。継体天皇が自分の長子を犠牲にして、権力を手に入れたという展開は、恐ろしくも実感がありました。

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ではまた。


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by tizudesiru | 2019-04-21 22:17 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

継体天皇御一家の悲劇は起きたのか

後、二週間しないうちに元号が令和に変わります。今日まで使われている元号は、701年・文武天皇5年の「大宝」からで、以来切れ間なく続いてきました。
巷では「では、大宝までは元号がなかったのか」という問題が議論されてきました。
法隆寺の釈迦三尊像の光背には「法興」という元号が彫られています。飛鳥時代の金文ですから、その意味は大きいのです。
元号を決めることができるのは天子のみですから、元号があったとしたら「天子」という最高権力者が居たということにもなりましょう。自称「天子」だとしても、その人物は一定の領土を治め、人民の戸籍を握り税を取り、役人を任命し、律と令で政治を行っていたことになります。当然、歴史書を作ろうとしたでしょうし、文化や経済の振興にも力を入れたでしょう。
そういう人物でなければ、天子とは言えません。

隋書に見える『日いずる処の天子』は存在したのです。中国の史書が日本のためにでたらめを書く意味・必要は有りません。
隋書に書かれていることは、事実です。しかし、日本書紀と食い違います。

日本書紀は推古天皇ですから、アメノタリシホコは出て来ないのです。では、彼は何処にいたのか?

阿蘇山のある地域に居たに違いありません。彼は、6世紀末から7世紀初頭の人です。
600年(髄の開皇二十年)に、タリシホコは遣隋使船を出しました。
その頃は、天である兄・タリシホコが夜の明けないうちに政治を行い、夜が明けると政務を取りやめ、あとは弟の太陽に任せるという、道理のない状況でした。
隋の煬帝がその理不尽な状況を変えさせました。隋書には「俀国を諭してこれを改めさせた」とあります。
ますます、日本書紀の王権とは食い違います。

更に、俀国の場所は九州の熊本を含んだ地域でありました。
「阿蘇山あり。その石ゆえなくして火起こり、天に接する者(こと)あり、俗、以って異となし、因って禱祭(とうさい)を行う。」
この文面からも俀国の位置が想定できます。
阿蘇山が突然噴火するので、人々が異変だとして祈り祀っているというのですから。
まさか、関係ない地域のことは書きません。

隋の使者は阿蘇山を見たのでしょう。七世紀初めの俀国には使者が来たのですから。
では、俀国は何時生まれ、その後どうなったのでしょう。六世紀半ば以降には俀国は確実にあったのです。

行政区(軍尼・稲置・八十戸)を持っていた隋書の俀国。王宮も後宮もあったし、皇太子も居た。天子は男性。
内官(中央の役人)には十二等あった。大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信 の十二等。
俀国には、
戸籍・行政区があり、役人もいて、タリシホコは仏教によって国政を運営したいと思っていたのです。
(ちなみに、聖徳太子の官位十二階は、徳・仁・礼・信・義・智の順に大小が付きます。)
近畿の王権にここまで行政組織が整っていたのなら、『大化改新』の必要はありません。
大化改新が必要だったのは、国の行政組織が不十分で、権力が各豪族に拡散していたからでしょう。やはり、タリシホコの国は近畿ではありません。

しかし、歴史書では近畿に聖徳太子が居たことになっています。
八世紀の日本国には、「聖徳太子は九州ではなく近畿にいた」という歴史が必要だったのです。新しい国でしたから、古い長い歴史が必要だった。
または、倭国の一部が近畿で王権を樹立し、祖先の歴史を九州から移動させた…

もともと列島は一つの国だったと、書紀は真実を曲げる必要があったのです。
しかし、それは無理です。新唐書は「日本」ですが、旧唐書には「倭国」があるではありませんか。両者はもともと別国だったと書かれているのです。
それでも、日本書紀が事実を曲げたので、あちこちにヒズミが出ているのです。

「倭国と日本は元々一つの国だった」を主張した日本書紀は、罪深い史書ではありますが、倭国の歴史も取り込んでいるので、あちこちに齟齬は有りますが、重要な語り部でもあるのです。過去を探査するための資料でもあるのです。


そうなると、磐井の乱は「磐井の反乱」ではありません。反乱を起こしたのは、オホド王(継体天皇)側ではありませんか。

磐井が滅びて、六世紀は大事な変わり目となりました。
六世紀のはじめ、書紀によると北部九州で「磐井の乱」という内乱が起りました。その後、屯倉が置かれ始め、そうして、列島各地が活気づいたというが定説です。


また、各地に屯倉が置かれたのは、近畿の王権の進出を意味すると歴史家がいわれますが。
それにしても、
日本書紀の継体紀をそのまま読めば「長門より西は、汝が統治せよ」と、継体天皇が言ったことになっていますから、磐井の乱後に長門より西を支配したのは物部麁鹿火となります。
磐井の乱後、物部政権が北部九州を支配した、それが近畿の王権だというのです。
では、磐井の乱後の九州の屯倉の位置を見ましょう。
安閑紀ですから、継体天皇の息子の時代になります。磐井の乱の後で6世紀前半~半ばです。

6世紀・安閑紀につくられた九州の屯倉の位置を①➁③④⑤⑥⑦⑧とおさえて見ました。「糟谷」という文字のポイントは、磐井の息子・葛子が献上したという「糟谷屯倉」です。こうしてみると、①~⑦までの屯倉はなぜか北九州に偏っています。⑧は熊本県の熊本市辺りです。ここは、いきなり離れています。

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(黄色のポイントは、神籠石系山城の位置です)

①~⑧は、滅びた豪族の領地だったので没収したということでしょう。
つまり、そこは筑紫君磐井の領地だった…しかし、岩戸山古墳のある辺りは無傷だから、その本拠地は手放していない、となります。
屯倉が豊前と筑前のに一部に集中しているのは、逆にそこまで磐井が入り込んでいた証拠…風土記によれば、「磐井は豊前の山中に入り込んで行方不明になった」ですから、豊前との関係が深かった証拠にもなります。

磐井の乱とは何だったのか、歴史的にまだはっきりしていません。
しかし、筑紫君磐井の子・葛子が父に連座することを畏れて糟屋屯倉を献上したと、書紀に有ります。葛子の領地が削られたのは事実でしょう。
発掘された糟屋の屯倉は、新宮町の辺りで遺構も発掘されている、というのです。
こうして、継体天皇の王朝は確立したかに見えますが、そうでもなかった…

此処で、日本書紀の不思議な記述に出くわします。継体天皇の崩御の記述です。
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辛亥年(531年)、磐井を倒したという継体天皇とその一家に何が起こったようです。
『日本の天皇と太子・皇子、倶に崩薨りますと聞けり』という百済本記の記述は事実でしょう。一家そろって死亡するのは異常事態です。

筑紫君磐井を滅ぼしたという継体天皇、その王朝も滅びたかも知れない、ということです。これは…どうなっているのでしょう。安閑天皇は、継体天皇の子どもですが、書紀では父と共にに崩御されてはいません…が、天皇と皇后と天皇の妹を合葬したと記述が有ります。
次の宣化天皇紀でも、天皇と皇后とその児を合葬したと書かれています。

継体天皇の長子・安閑天皇と弟・宣化天皇は、どちらも家族と合葬になっているのです。
やはり、継体天皇の家族に何事かあったのでしょう。
これには、「宣化天皇は欽明天皇によって殺された説」も想定される、おかしな状況です。次の欽明天皇には合葬記事は有りません。次の敏達天皇も、馬子に殺された崇峻天皇にも。推古天皇は早くに薨去した児の竹田皇子との合葬を望みましたが。

また、日本書紀の安閑紀には、屯倉を置いた理由も書かれてています。
伊甚(いじみ)屯倉は、伊甚国造が皇后を驚かせたことの購いに献上されました。
このように罪の購いに献上させたものと、単に置かれたものです。他人の土地を勝手に屯倉にすることは出来ませんから、「置いた」と書かれた屯倉は磐井の乱後に没収された土地である可能性が大きいと思います。
政変があったからこそ、屯倉が置かれたなら尚更のことです。安閑二年の屯倉を書紀から拾ってみました。
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北部九州以外で「置かれた屯倉」の中で、阿波・紀・丹波・近江・尾張・上野・駿河は、大変意味深な地域です。6世紀の九州の倭国と関係深い地域だったからです。
これらの屯倉は、磐井の乱後に没収された土地に置かれた可能性があるでしょう。
安閑紀の屯倉設置状況を見ると、王権側からの要求で設置されているものがあり、豪族が渋ると「反抗だ」として処罰されています。つまり、屯倉は、他者の土地に置かれているのです。

やはり、没収した土地に屯倉が置かれたと思います。

安閑(広国押武金日)天皇には四人の妃がいますが、世継ぎがいませんでした。(子の無い天皇は何人か書紀に登場しますが、安閑天皇もその一人です)
そこで、天皇は世継ぎがいないので死後に名が忘れられることを嘆いて大臣に相談し、名を残すために屯倉が置かれるようになったというのです。
皇后・春日山田皇女(山田赤見皇女)を別にすれば、許勢男人の娘・狭手媛、その妹・香香有媛、物部木蓮子の娘・宅媛の名に関わる屯倉はないようです。


書紀は屯倉の設置理由をあいまいにしていますが、政変も何もないのに土地の所有者が急に変わることは考えられません。

安閑天皇には、まだまだ不思議な話がありますが、又、後日。


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by tizudesiru | 2019-04-20 16:38 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

歴史カフェ阿蘇「令和元年・万葉集を読む」

今年も、「歴史カフェ」を熊本県西原村でします。
今年は、5回計画しています。昨年はつめて4回やりましたが、今年は4月・5月・7月・8月・9月に予定しています。

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昨年の最終回に「次の歴史カフェは、万葉集です」とお知らせはしていましたが、みなさんあまり興味のある様子ではありませんでした。

元号が「令和」に変わりますので、万葉集に興味を持っていただいたかもしれません。今は、万葉集にしていてよかったと思ってます。

1回目のテーマは、「万葉集とはそもそも何のために誰が編纂編集したのか」、ということです。
もちろん、万葉集は柿本人麻呂の編集です。その為に、彼は刑死したのです。

その辺りをお話ししたいと思っています。

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内容を少し紹介します。

持統天皇は香久山を詠んで、文武天皇の皇統を示した

 巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇は即位した後、何故香久山を詠んだのか、不思議である。持統天皇が高市皇子に造営させた藤原宮は、明らかに北に耳成山を取り込み、守りの山・象徴の山としている。28番歌は、持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」ということになる。耳成山ではなく、香久山なのである。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 
誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。
この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。
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よかったらおいでください。熊本県西原村は、まだ熊本地震からの復興の途上にありますが、西原村で歴史カフェをしたいと思っています。

それから、個人的に4月は万葉集のお話が三回重なりました。

福岡市の百道パレスでは、九州古代史の会主催で「万葉集に見る倭国の痕跡」のお話をしました。もう、4月7日に済んでいます。忙しくて、お知らせしておりませんでした。

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次は、
4月23日(火)13時半~16時まで。筑紫古代史の会(天神・光ビル)で「万葉集と古代史・難波宮と間人皇后」のお話をする予定です。

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孝徳天皇の皇后だった間人皇后の波乱の半生を万葉集からと丹後半島の伝承から読み解きます。4月23日です。

ご興味のある方は、どうぞおいでください。
では、また、後日、お会いしましょう。



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by tizudesiru | 2019-04-17 20:33 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

大伴卿の最後の日・初期万葉集が家持に渡る

大納言大伴旅人は、天平三年七月に没しました。
大宰府を離れたのは、天平二年の十二月でしたから、自宅に帰って半年後に薨去となったのでした。
万葉集には旅人の最後の歌が残されています。

三年辛未(かのとひつじ)に、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首

969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
970 さすすみの来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行て手向けむ


天平三年の秋七月二十五日、旅人は永眠しました。六十七才だったようです。
萩の花が詠まれていますから、詠歌の時は秋であり、病床にあったのでしょう。自分が生まれ育った故郷・明日香を懐かしんで詠んだものです。故郷の飛鳥の川の淵は、浅くなって瀬になっているのでなないだろうか、と。
あの懐かしい小野の萩の花を手向けたいものだと、旅人は詠んだのでした。


巻三には
「天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨の時歌六首」があります。余明軍の五首と県犬養宿祢人上の一首です。

454 はしきやし栄えし君の居ましせば 昨日も今日も吾を召さましを
455 かくのみにありけるものを萩の花咲てありやと問ひし君はも
456 君に恋 痛(いた)もすべなみ蘆鶴(あしたづ)の ねのみし泣かゆ朝夕にして
457 遠長く仕へむものと思へりし君にしまさねば こころどもなし
458 みどり子のはひたもとほり朝夕(あさよい)に ねのみぞ吾泣く君なしにして
 
459 見れどあかず居ましし君が紅葉(もみじば)の 移りいゆけば悲しくもあるか


旅人の薨去は、息子の家持にとって将に人生を変える出来事・大事件でした。父の永眠と共に「初期万葉集」が家持の手に渡りそれを読み理解し守る役目が回ってきたのですから。
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そもそも、万葉集は持統天皇の詔勅により柿本人麻呂が編纂編集したものだと、紹介してきました。孫の文武天皇に「皇統の正統性と歴史を伝えるための教科書」として、持統天皇が作らせたものであると。
それが持統天皇の遺詔となり、人麻呂は主人の思いに応えようと努力したのでした。
しかし、文武帝に進呈する前に、当の帝の崩御となったのです。
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人麻呂は母の元明天皇に献上しましたが、それが元明天皇の逆鱗に触れたのでした。万葉集には皇統の真実が記されていましたから、元明天皇には許しがたい内容でした。
天智天皇の娘として、草壁皇子の妃として、文武天皇の母として極位には着きましたが、天武天皇の皇子皇女があまた存在する中での即位でしたので、何かと臣下の動きが気になっていた時期でもあったのです。
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どこかに不安を抱えていた元明天皇。そこで、御名部皇女が支えます。
周囲も二人の堅い結びつきを疑いませんでした。
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天武朝と元明天皇を支え助けたのが、姉の御名部皇女です。御名部皇女は高市皇子の妃、薨去していたとはいえ太政大臣であった高市皇子の正室なのです。高市皇子は天武天皇の長子で、財力権力を掌握していた人でした。その絶大な財力も大きな支えとなったでしょう。

しかし、二人がこの世を去ると皇位を巡って政変が続きました。
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待っていたように政変が続いたのでした。 
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そうして、天武朝の皇統は消えていきました。
それが万葉集の時代です。その時代を目撃したのが、大伴家持。


こんな万葉集のお話をしようと計画しました。「令和元年・万葉集を読む」
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会場は、熊本県西原村・萌の里の近く、平田庵の隣です。昨年の「歴史カフェ・聖徳太子の謎」と同じ場所です。
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赤い道路が高森線のバイパスです。
宜しくお願いします。


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by tizudesiru | 2019-04-15 00:49 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴旅人・水城にて乙女と別れ歌を交わす

万葉集・巻五は、大伴旅人の絶望の歌ではじまります。
     大宰帥大伴卿、凶問に報(こた)ふる歌一首  
禍故(かこ)重畳し、凶問累集す。ひたぶるに崩心の悲しびを懐き、もはら断腸の涙を流す。ただ、両君の大助によりて、傾命(けいめい)をわずかに継げらくのみ。筆の言(こと)を尽くさぬは、古今歎くところ。
792 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
        神亀五年六月二十三日


妻を亡くしたばかりの旅人の所へ、京から悲しい知らせが届きました。そのとき詠んだのが
「大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌」です。

不幸が重なり、悪い知らせが続きます。ずっと崩心の悲しみに沈み、独り断腸の涙を流しています。ただただ、両君のこの上ないお力添えによって、いくばくもない余命をようやく繋ぎ留めているばかりです。<筆では言いたいことも充分尽くせないのは、昔も今も一様に嘆くところです>*訳文は、集英社「万葉集釋注」より

792 よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます 悲しかりけり
        神亀五年六月二十三日

『かなしかりけり』とは、まあ見事な詠嘆です。この時代「悲しかりけり」と沈痛な悲しみを込めて述懐する歌は、万葉集中にはこれ以外にはない(「万葉集釋注」伊藤博)そうです。なるほど、万葉集・巻五の冒頭を飾る名歌です。更に「世の中は空しきもの」とは、仏教語の「世間虚仮」の翻案で万葉集中最初の用例だとか。

旅人の歌は当時の人には衝撃的に新しかったのでした。つまり、「世の中」を人麻呂も歌に読んでいないし、都の人もこの言葉を使ってはいなかったことになります。(その言葉が使われていた地域は筑紫ですね。そこには仏教が浸透し、仏教語が日常的に使われていたと、私はそう思います。早い時期に仏教が入っていた地域だと)
        

大伴旅人が大宰府に任ぜられたのは、六十三歳の時でした。時に、旅人は中納言、行政のトップは左大臣の長屋王でした。大宰府に赴任して間もなく妻の大伴郎女を亡くし、ほどなく悪い知らせを受けたのです。

更に、翌年の二月に長屋王事件が起きました。皇位継承権をもった長屋王の男子四人すべてが、長屋王と妃の吉備内親王とともに命を奪われました。誰が聞いてもおかしな事件でした。長屋王の四人の王子を抹殺したかった藤原氏が仕組んだ事件だと都の人々も思ったようです。事件後、都は怪しげな噂で混乱しました。

旅人は遠く大宰府にいて、どう思ったでしょう。
  神亀六年己巳、左大臣長屋王賜死の後に「膳部(かしはで)王を悲傷する歌一首」があります。巻三に、
442 世間は空しきものとあらむとぞ この照る月は満ちかけしける
     右一首、作者未詳 *膳部王は長屋王の長子でした。万葉集にも歌が掲載されています。

442番歌の作者は誰でしょう。長屋王やその王子達を知る人物で、身分も高かったはずです。更に、その名が知られると困る立場の人。そうでああれば、旅人をおいて他にないと思います。
旅人は大宰府に帥として下向していました。武人とはいえ、六十五近くの老人です。
旅人は、何より早く都に戻りたかったのです。
そんな人が、膳部王の悲劇を堂々と詠めたでしょうか。藤原氏に長屋王への同情が伝わってはなりません。せめて、名前は隠したと私は思いますが、旅人は心から無念だったのです。壬申の乱以来、大伴氏を取り立ててくれた天武朝に対する忠誠心からして、壬申の乱の英雄・高市皇子の長子である長屋王の受難を見過ごすことなどできなかったでしょう。
とはいえ、長屋王を断罪したのは聖武天皇です。

聖武天皇は我が子・基王(もといおう)が一歳で死亡したショックから、長屋王が呪詛したという讒言を信じたのでした。その事は旅人も知っていましたが、無念だったし、世の中は空しい=世間空=世間虚仮=世の無常 を感じたのです。 


こんな旅人が長屋王事件の翌年、天平では初めての正月に「梅花の宴」を執り行ったのでした。
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「時に初春の令月にして、気淑く風和ぐ」
折しも、初春の佳き月で、気は清く澄み渡り風は柔らかにそよいでいる…と旅人は書きました。
新春の『令月』の意味は何でしょう。ただ、「よい月」なのでしょうか。
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漢和辞典にあるように「のり、おきて、いいつけ、いましめ、法令の発布、命令する」でしょうか。『他人の親族への敬称』でしょうか…令嬢や令子、令夫、令主などのように「よい○○」という意味もありましょうが、「令月が陰暦の二月の別名」というのは、大変意味深です。
なぜなら、大伴旅人にとって「二月」は、前年に長屋王事件があった月だからです。
神亀六年二月に長屋王事件が起きました。そして、半年後の八月に「天平」に改元されました。天平二年は、改元されて初めての正月です。長屋王と親しく天武朝の忠臣だった大伴旅人が、この正月を穏やかな心で迎えたでしょうか。
そうは思えません。
旅人は長屋王事件を忘れてはいません。ただ、都へ帰るためには従順でなければなりません。
長屋王への同情などみじんも見せず、優雅に梅花の宴を開きました。それは、官人たちを感動させ、都までその噂は飛びました。人が追和するほどの反響だったのです。

だからこそ、旅人は大納言として都に呼び戻されました。
天平二年十二月、旅人は大宰府を発ちました。府のはずれ、水城の門まで来て「別れの儀式」をします。
都へ帰れる喜びと安堵感で、旅人は笑顔だったことでしょう。しかし、別れの儀式は静粛に行われました。
筑紫の乙女・児島が詠みます。
965 おおならばかもかもせむを かしこみとふりたき袖を 忍びてあるかも
966 倭路は雲隠りたり しかれども 我が振る袖を なめしともふな


965 貴方が並の方であったなら、別れに際して ああもしようこうもしよう思うのですが、恐れ多い方なので振りたい袖もふらずに忍んでおります。
966 あなたがお帰りになる倭路は、はるか遠くに続きます。私が振るのを忍んでいた袖を振ってしまったとしても、無礼だとは思わないでくださいませ。

旅人は娘子の歌に応えて、大宰府の人々へ別れの歌を詠ました。
967 日本路の吉備の児島を過ぎてゆかば 筑紫の子島 おもほえむかも
968 丈夫と思へる吾や 水茎の水城の上に なみだのごはむ


967 日本(やまと)へ帰る道にある吉備の小島、あの小島を過ぎて行くとき、わたしはきっと筑紫の児島を思うだろうな
968 私は自分を丈夫だと思っているのだが、その私が水城での別れに涙を流すとは何ということだ

大伴旅人と筑紫の児島の歌は「冬十二月、大宰帥大伴卿の上京」の時の歌です。行事の歌であり儀式の歌です。
二人は意を尽くした歌を詠みあいました。
ここで思うのは、筑紫の娘子はうかれめ(遊行女婦)なのでしょうか。
うかれめが、大宰帥の上京の儀式で歌を詠むのでしょうか。児島はたいへん教養のある女性ですが、遊行女婦とはたいへん疑問です。
更に、旅人と児島は「やまとじ」の漢字を倭と日本に使い分けています。
旅人は山上憶良から提案された通り「これからは倭国ではなく日本国になったのだから、そのように漢字を使い、心して日本国に帰って行こう」と心に刻んだのでした。児島は倭国の人として見送ったのでした。
大伴旅人は山上憶良から献じられた「日本挽歌」に深く感動し、忘れることはなかったのです。

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旅人は都に帰りますが、翌年、天平三年の七月に没します。
旅人は大宰府での生活をどう思ったのでしょう。妹の大伴坂上郎女は大宰府の大野山(大城山)を思い出していますが。
     「大伴坂上郎女、筑紫大城山を思う歌一首」
1474 今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ 吾なけれども


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by tizudesiru | 2019-04-08 00:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

新年号・令和、平城天皇の思いが叶った瞬間

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新年号が令和と決まり、万葉集の梅花の宴の序文から「令」と「和」がとられたと聞いて、一瞬「その時が来た」と思いました。平城天皇の深い思いが叶ったと。

平城天皇は桓武天皇の皇太子で、延暦二十五年(806年)に即位されました。
その平城(へいぜい)天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。
万葉集、そこに書かれていることを、すでに十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣に編集させ「万葉集」を世に出されました。その後、「奈良の都に戻ること」を強く提唱し、譲位した弟の嵯峨天皇と対立されました。

(それにしても、譲位していたにも関わらず、なぜ奈良遷都を強行しようとされたのでしょうと、万葉集を知らない人には不思議な上皇の判断です。平城上皇のその思いは、ついに「薬子の変」となり、破れた上皇は出家されました。その影響で、息子の阿保親王は大宰府で14年間も過ごされることになりました。)

平城天皇の奈良の都への深い思いは、万葉集と無縁ではありません。万葉集の内容を読み解いたからこそ「奈良遷都」を固執されたのです。万葉集には、皇統の正統性とその歴史が歌物語として編集されていました。
編集を命じたのは持統天皇、編纂者は柿本人麻呂を中心とした歌人学者でしょう。
しかし、そこに書かれた史的な内容はインパクトが大きく、元明天皇の逆鱗に触れ人麻呂の刑死となりました。

事の顛末の全てを承知して、大伴氏が元「万葉集」を引き受け、保麿・旅人・家持と受け継がれました。
平城天皇はその「曰く付きの歌集」を召し上げたのです。そこに、どんな天皇の思いがあったのでしょう。それは、平城天皇の元号で想像することができましょう。それは、「大同」です。

大同…意味深な元号です。前王朝も現王朝も本当は変わりはないのだと、根は同じなのだという意味です。
父の桓武天皇は、天武朝から天智朝の皇統に皇位が戻ったことを「易姓革命」だとされました。
しかし、その長子である平城天皇は、「大いに同じ」だとされたのです。
それは、万葉集を既に知っていたための元号の選択だったと思います。しかし、失意のうちに出家した上皇に従うものは有りません。万葉集もほとんど日の目を見ずに細々と受け継がれました。

「万葉集は残したい」という平城天皇の無念が、今日晴れたと思います。
なぜなら、万葉集「梅花の宴」の序文から元号の言葉が選ばれたからです。是から万葉集の姿が明らかにされていくことでしょう。万葉集に掲載されていたのは、王朝の歴史歌であり、その正当性と弥栄を願う詩歌です。
平城天皇は承知されていました。天智朝も天武朝も違って見えているが同じなのだ、それが皇統の歴史だったのだと。(さて、何処が同じだったのか、これからは書こうとは思っていますが。)

 
大伴旅人も「万葉集」を理解し、晩年に歌に目覚めました。息子の家持は、父と柿本人麻呂と山上憶良を敬愛し、初期「万葉集を」守りました。後に付け加えたのは、万葉集の編集方針に倣った後期『万葉集」です。

さて。
梅花の宴は、天平二年の正月に、大伴旅人の館で行われた宴ですが、「古王朝の正月儀式」だったとこのブログにも書いたと思います。旅人は大宰府に来て、古王朝の正月儀式を知り、再現したと思います。
前年の神亀六年、長屋王の変(二月)があり、長屋王家に悲劇が訪れ、半年後に改元(八月)されて『天平』となったのです。天平二年は、改元後の初めての正月です。そこで、行われた梅花の宴。

梅花の宴はただの遊びではありません。尊敬していた天武朝の高市皇子の跡継ぎである長屋王の悲劇を胸にしながら、九州にあった古王朝の正月儀式を大伴旅人が再現したのです。
そこには、長屋王へ深い追悼の思いがあったはずです。


梅花の宴は、正月に、役人のトップから無官の者までが集まって「王朝を寿ぐ歌を詠む」という前代未聞の正月儀式でした。その頃の都にはない儀式だったのです。人々は驚き、その宴を称賛し、息子の家持(やかもち)も書持(ふみもち)も長く誇りにしていました。

今日は本当に、万葉集を残してくださった平城天皇に感謝を申し上げ、悪逆の氏族とまで言われた大伴氏にお祝いの言葉を述べたいと思います。本当に宜しゅうございました。
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筑紫古代史の会の例会にて「万葉集と古代史:大宰府と梅花の宴」という題目で、上記のことは取り上げました。その他のこともいろいろお話しました。
よかったら、筑紫古代史の会にもおいでになりませんか。



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by tizudesiru | 2019-04-01 14:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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