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建元とは初めて年号を立てること、改元は年号がかわるという意味

明日は、新元号が発表される。どんな文字が使われ、いかなる意味が込められるのだろう。
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思えば、今日に続く元号が建てられたのは、文武天皇の五年(701年)の大宝元年でありました。
持統天皇が太上天皇として孫の文武天皇を支え、大宝令が完成し国家の体制も整いつつあった時期です。


それまでの日本には、元号はありませんでした。なぜなら、続日本紀に「建元」の文字が使われているからです。建元とは「初めて元号をったてる」という意味です。以来、「改元」され続けて今日に至っているのです。

それでは、「大化改新」の「大化」はどうなるのでしょう。「白鳳や白雉」はどうなる。孝徳天皇の「大化と白雉」はなかったのだろうか、という疑問が生れます。
「白雉」については、白雉では小さな瑞兆でしかないので、もっと大きな瑞兆が望ましいということで、後の世に「白雉」を「白鳳」にすり替えた、国として過去の元号を差し替えたのだと、日本書紀の講座で習いました。

天武天皇崩御の年には「朱鳥(あかみどり・あけとり)」という元号も顔を出しています。
では、大化・白雉・朱鳥はなぜ続かなかったのでしょう。万葉集には「朱鳥」の元号が記述されていますが。

続かない元号には、政治的理由があったでしょう。そこには残されなかった歴史があるでしょう。
今がどんな時代なのか、日記の隅にでも一言書き残しておきましょうか。
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今日は、女帝神社に行きました。福岡県みやこ町にあります。神社の御神体は、大きな円墳です。なかには家形石棺があり、縄掛突起のある家形石棺で溶結凝灰岩製です。
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それにしても、女帝神社ですか。昔の人は、何を頼りに「女帝」という言葉を選んだのでしょう。近くに円墳が並んでいました。
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6世紀後半の群集墓でしょうか。いずれも大きな石で造っていました。
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この時代、列島中、各地で巨石の横穴式石室が大量に出現します。
時代は変わったのです。王家でなくとも横穴式石室が造れたのです・・・

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明日、新元号にどんな文字が選ばれるのでしょう。
ちなみに、私は過去の元号の中で、平城天皇の「大同」が意味も深く、ゆかしいと思っています。


元号と云えば、
もちろん、「九州年号」と呼ばれる年号があることも知っています。子どものころ住んでいた熊本の寺や神社に九州年号と呼ばれる年号が使われていました。それが、「私年号」と呼ばれるものだそうです。
何で、そんな年号を使う必要があったのか、使いたかったのか、その辺りを知りたいと思いました。
では、また。

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by tizudesiru | 2019-03-31 22:17 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

磐井の乱後の倭国の変貌

磐井の乱後の倭国の変貌(その1)
6世紀後半には人々の暮らしが急激に変わり、列島各地で群集墓が造られました。
人々は横穴式石室を持つ墳墓を丘陵に大量に造ったのです。

なぜ人々の生活が変わったのか。それは「屯倉(みやけ)」が日本中に置かれたため物流のネットワークができて経済が活性化したためだというのです。

では、列島に「屯倉」が急速に置かれた時期は何時かというと、

それは、磐井の乱の後です。
磐井の乱後に、列島に画期が訪れました。
磐井が殺されると、息子の葛子は糟谷屯倉を献上しました。

(その糟谷屯倉に置かれたらしい役所建物・倉庫群が、福岡県古賀市の鹿部田淵(ししぶたぶち)遺跡として紹介もされ、一部が公園として残されています。)
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磐井の乱後に、世の中が変わったのです。

それにしても、磐井の乱についての書紀の記述は不思議が多いのです。
まず、磐井の乱が起こった理由。
近江の毛野臣(建内宿禰の子・波多八代宿祢は、淡海臣らの祖)が六万の兵を率いて任那に往き、新羅に敗れていた南加羅などを復興して任那に合併しようとしました。これを知った新羅は、もともと反逆を考えていた磐井をそそのかしたのです。
そこで、磐井は毛野臣の軍を遮りました。継体天皇二十一年のことです。


その時、磐井が毛野臣に対して乱暴に事挙げした言葉が意味深です。
「昔は、同じ仲間として肩を並べ肘を触れ合わせて一つ器でともに食べたものだ。(おまえが)使者になった途端に私をお前に従わせるなどどうしてできようか」
近江の毛野臣と磐井は知り合いでした。
(不思議ではありません。倭王権は近江を抑えていたし、三野・尾張と九州は深い関係にありました。毛野臣が途中で磐井に阻止されたのは、もともと磐井の知り合いだったので磐井の言い分を理解し、任那行きを止めたのかも知れません。しかし、継体天皇二十三年、毛野臣は再び使者として渡海します。二年滞在しさんざん悪評を立てられ召喚され、帰りに病没しました)

そこで、継体天皇は誰が磐井を討つのか相談して、選ばれたのが物部大連麁鹿火でした。
麁鹿火は詔を受け、はりきって応えますが、祖先の名を間違えます。

「確かに磐井は狡猾で地の利を利用して反乱し、驕慢でうぬぼれです。昔から道臣より室屋に至るまで、帝を助けて戦い、民を苦しみから守ってきました・・・」

「道臣から室屋まで・・」とは、大伴氏の業績のことです。
大伴氏の遠祖が「神武天皇東征に従い、道案内をした功績により『道臣』の名を賜わった」し、室屋は大伴金村の祖父です。

(物部大連麁鹿火が大伴氏の名を持ち出すはずがありません。書紀を編纂する時使った資料に書いてあった通りに写したのでしょう)

「国家の存亡は此処にある。力を尽くせ。」
と、麁鹿火を励ました継体天皇は、斧鉞(ふえつ)を授けておかしなことを言いました。
長門より以東は朕制らむ(私が統御しよう)筑紫より以西は汝制れ(お前が統御せよ)」

磐井を討てば筑紫以西が麁鹿火の手に入るというのです。継体天皇は「長門以東」だけでいいと云うのです。
そして、大将軍物部麁鹿火と賊帥磐井が筑紫の御井郡で戦いました。
両軍は必死に戦い、ついに磐井が斬られて、果たして疆埸(きょうえき)が定まりました。疆埸とは、境界のことです。
(磐井が斬られて「境が定まる」とは、ひとつの国が奪われたということでしょう。)


十一月に磐井が斬られた後、十二月に筑紫君葛子が父に連座して誅殺されることを恐れ、糟谷屯倉を献上して死罪を免除されるように願いました。

磐井の乱(528年)について諸説ありますが、日本書紀の「磐井の子・葛子が連座して殺されることを恐れて糟屋屯倉を献上した」ことは事実だとされています。

(筑紫君葛子が屯倉を献上したということは、『筑紫より以西』は物部麁鹿火のものになっていなかったのでしょうか。筑紫より以西とは、何処を指すのでしょう)

この後、屯倉が全国に置かれました。

屯倉が急速に置かれるのは、継体天皇の長子・安閑天皇の時代です。
つまり、継体天皇は磐井の乱の三年後に崩御となりましたので、屯倉の設置は息子の安閑天皇の時代になったということです。

継体天皇二十五年に、天皇崩御です。
継体天皇はその出自も、行動も、崩御も、すべて不思議な人です。さらにその家族もなにやら変です。
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一体、何があったというのでしょうね。
継体天皇の一家に…


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by tizudesiru | 2019-03-27 15:03 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

白村江敗戦後の北部九州の混乱と疲弊を象徴する善一田

福岡県大野城市乙金の善一田古墳群の一部が公園として残されることになりました。
パンフレットもできています。

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報告を兼ねた講演会もありました。
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(画像は講演会のスライドをデジカメで許可を得て撮ったものです)
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善一田18号墳の被葬者は、副葬品に鉄滓が供献されていることから鉄器製作に携わった人であろうということでした。また、鉄器生産集団の古墳群であろうということでした。
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古墳群の特徴として、出土した三累環頭大刀の柄頭から新羅との交流がうかがえるということでした。
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また、新羅との交流をうかがわせる新羅系土器の出土は全国的にも突出しているそうです。それらは、瓶や壺と蓋という取り合わせなので、容器の中にあったものが大事だったらしく、それを運ぶために瓶や壺が使われたということでした。コンテナとして使われたものだということです。
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乙金古墳群(善一田古墳群・王城山古墳群・古野古墳群・原口古墳群)を造った人々の集落が薬師の森遺跡らしいのですが。そこにさりげなく「7世紀中頃~8世紀前半は断絶」という説明がありました。
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薬師の森遺跡に住んだ人々は、最新の技術を持って鉄の生産をしていたのでしょう。引き手数多の技術者集団だったかもしれません。そんな技術者集団の集落が7世紀の半ばに断絶するなんて…
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そこで、質問しました。「善一田に住んだ人々の断絶は、なぜ起きたのか。白村江戦とかかわりがあるのか」ということを。
次のような答えだったと思います。
かかわった可能性は否定できない。白村江戦には西日本各地から国造郡として動員されたと思われる。善一田の生産集団は那津の官家(みやけ)に管轄されていたと思われるから、白村江戦に動員されたかどうかわからない。白村江戦には地方のまつろわぬ人々を動員したという説があるので。
白村江戦後には大野城や水城の築造があったのでそれらの土木工事に駆り出されたと思われる。そのために集落が移動したのではないか。敗戦後には、大野城や水城をこの地域の人々が動員されて造ったと思われる』

そういえば、NHKで「白村江戦には九州のまつろわぬ豪族を派遣した」という展開の番組がありました。
そうじゃないだろう、と思いました。
「戦争に行け」と言われて、まつろわぬ人々が行きますか? 「いや、行きません」と答えるはずです。いうこと聞かない人たちなのですから。
わたしは畿内王権は「百済救援はしたいけど、戸籍がなかったので兵が集められなかった」と思います。
当時、戸籍を持っていた地域が兵を送れたのです。そこは九州と、遅れて吉備でした。


天智天皇は即位してすぐ「庚午年籍」を作りました。

それまで、戸籍をもたなかったに違いありません。戸籍がなくては、税も集められないし兵も出せません。当然、戸籍を持っていた豪族が兵を出せたと思います。
むずかしい話ではありません。戸籍を持っていたところが兵を組織し渡海したのです。


私の意見ですが。誰も海外派遣を喜ばないはずです。
国とか王権とかの権力と組織がなかったら二万もの出兵は無理です。
白村江敗戦後、東国から防人を出しました。九州の守りを東国の人にさせたのです。
つまり、東国にも戸籍があったことになりましょう。
誰が東国の戸籍を造ったのか。もちろん、九州の倭王権が造ったのです。歴史をしずかに眺めながら正史を読めば、自明のことでありましょう。
(畿内で戸籍を造ったのは、天智天皇と持統天皇です。二人は律令の基本は、まず戸籍だと思ったのです。)

ですから、善一田古墳を造った人々は薬師の森古墳に住み、白村江戦に動員され帰って来なかったかもしれません。新羅系の人々であれば、敵国の民となりますから、とても地域には住みづらかったでしょう。そうであれば、逃げるか移住するか、でしょうね。もちろん、引受先は東にちゃんとありました。
白村江敗戦後の混乱と北部九州の敗戦後の疲弊を彼らが免れたとは思えません。


此処で、善一田古墳群で明らかになった重大なことを考えなければなりません。
そこに住んだ人々は何者だったのかということです。
彼らはに渡来人だったのか、渡来系の人なのか、在地の人なのか、です。



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by tizudesiru | 2019-03-23 09:05 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

白村江敗戦後を語るのか善一田古墳群・大野城市

白村江敗戦後の北部九州を語るのか、善一田古墳群
善一田古墳群の現地説明会が、2016年2月に福岡県大野城市乙金でありました。
6世紀半ばからの群集墓ということでした。住宅地開発に伴う準備調査でしたから、遺跡は残されないと思われていました。
すごく心配していましたが、大野城市は残したのです。
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一部を大野城市が買い取り公園にするということです。
2019年4月27日に「善一田古墳公園」のお披露目があります。
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新羅系土器と新羅貴族の間で流行した「三累環頭大刀」の柄頭が並べて置いてありました。
あれから三年経ったのですね。
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この古墳群が大事なのは、地方豪族の生活というより一般の人々の生活が見えるからです。彼らは新羅と深くかかわっていました。5世紀後半はじまり、6世紀から7世紀の半ばまで造られ続け、祭祀は7世紀後半まで行われたそうです。
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18号墳は6世紀後半の福岡平野では最大級の大きさだそうですが、玄室長2・8m、幅2・2m、高さ3・5mと、決して大きくはありません。
那の大津を持ちながら、そのころの福岡はどうなっていたのでしょう。
磐井の乱で、糟谷の屯倉を献上した後、筑紫磐井の子・葛子の王家は滅びたのでしょうね。北部九州で最も早く福岡平野で大型古墳が造られなくなったそうです。


しかし、6世紀半ば、福岡では群集墓が画期を迎えます。平地の近くのあらゆる丘陵に古墳が造られました。大野城の乙金古墳群もその一つです。
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下は、乙金古墳群の中の古野古墳群で、5世紀後半という8号墳です。
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5世紀後半という8号墳は竪穴式石室ですか? では、もう少し古いでしょう・・・
そして、善一田古墳群の中の18号墳ですが。
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鏡はないけど馬具があります。鏡はいらなかったのでしょうか。
何年かの間に、人々の嗜好が変わったのです。それとも、この被葬者の仕事だったのでしょうか、馬具造が。
6世紀半ば、日本中が流通・政治経済・文化の面で画期を迎えます。群集墓が日本全国に造られました。
磐井の乱の後、何かが変わったのです。

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乙金古墳群では、6世紀から7世紀前半にかけて群集墓が造られましたが、7世紀半ば以降…断絶するのです。

えっ、それは何か原因あり、と思いますよね。

そう、恐ろしい政治的転換点がありましたね。7世紀半ば、あの白村江戦です。
7世紀半ば以降の大野城市の群集墓の消滅を他の事件に結びつけることはできません。
白村江戦に徴用された兵士は北部九州の人たちだったからです。
大野城の人々も無関係ではありますまい。敗戦後には、水城・大野城(山城)の築造と続くのです。彼らが戦争と何の関係もなく経済的な追及をしたはずはないのです。
では、その事は、また後で。 



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by tizudesiru | 2019-03-22 15:52 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

武内大臣の館址に北條英時が住んだ理由

福岡市西区の鷲尾山(愛宕山)に武内大臣(宿禰)の館址の伝承があります。
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赤丸で囲んだ愛宕山が、鷲尾山です。愛宕山と呼ばれるようになったのは、江戸時代に黒田藩が愛宕神社を勧請したからです。
(黒田藩は壱岐真根子神社などは大事にしましたが、他の神社を移動させたり祭神を変えたりしたそうです。)
『早良郡志(福岡早良郡役所編)』によれば、

「裏山の東南愛宕山に近き山上に在って、伏見院の永仁元年三月探題・北條兼時は、この地に館を構へ後醍醐院の時には英時も同じく此の所に居住して居た。傳説によれば此の地は、往古武内大臣の館のありし阯と謂って居る。而して正保慶安の頃迄には、山上より法華教(経)の文を刻んだ瓦出で山麓の田圃よりは骸骨を掘出すことが屢(しばしば)であった。」


北條兼時は元寇の後、正応6年(1293)に九州へ下向させられた鎮西探題(初代)で、英時は南北朝時代の悲劇の武将です。

北條英時(赤橋英時)は、元享元年(1322)鎮西探題として九州に下向し、兼時と同じく愛宕山(鷲尾山)の山頂近くの山上に住みました。

その地が「往古、武内大臣の館ありし址」と云われてる福岡市西区の鷲尾山(愛宕山)なのです。愛宕山は交通の要衝を見張るに十分な位置で、糸島方面、博多湾、福岡平野全体が見渡せる城塞のような山なのです。

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見張り台として、北條氏は「鎮西探題」を鷲尾山に置いたのでしょうか。
武内大臣の館跡! 北條英時はなぜそんな伝承の地に住んだのか、です。
実は、
北條時宗(元寇の時の執権)の時代に御家騒動がありました。正室とその長男を廃し、弟の時宗が執権になった騒動です。その後、得宗家による政治体制を強化確立させるために、祖にあたる北條義時を「武内宿禰」になぞらえる伝説が流布されました。
上のような状況からして、初代九州探題の北條兼時は、当然「武内宿禰の伝承の館跡」に居を構えたでしょう。
その後、北條英時も「武内宿禰の屋敷跡の伝承地」に住んだということです。
つまり、武内宿禰の館跡の伝承を北條氏も知っていた、その時代も武内宿禰の伝承が福岡市にあったということです。

(海岸から急にそそり立つ愛宕山にはなかなか足が向きませんが)
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愛宕神社へ行くのに南側の階段を上る元気のない人は、車で北側の道路を登りましょう。駐車場もあります。
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赤橋英時は女子に人気の武将です。彼は和歌も詠む教養人でしたし、何と言っても赤橋流の北條久時の男子で、最後の執権・北條守時の弟でした。名門の出であり、妹の赤橋登子は足利尊氏の正室でした。

南北朝時代の話は、わたしも子どものころから聞かされましたが、つらいエピソードの連続です。後醍醐帝の執念が多くの武将や皇子の命を奪い、日本を次のステージに連れていったと思います。
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今日はここまでにします。



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by tizudesiru | 2019-03-21 11:09 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子を祀る神社(2)

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壱岐神社がある福岡市西区生の松原辺りは、昔は壱岐村でした。その前は額田郷で,生の松原辺りは「山門・ヤマト」と呼ばれていました。
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その昔この辺りはたいへん栄えたようで、弥生時代初期の細型銅剣など密集する地域でした。倭名類聚抄には、早良郡に「田部郷・能解郷・平群郷・野芥郷・額田郷・早良郷・曽我郷」など地名が残っています。人々は同じ地名に千数百年も住み続けているのです。同じ一族かどうかは分かりませんが、地名は受け継がれてきたのです。
では、壱岐真根子の伝承もまんざら・・・ではありますまい。

壱岐真根子が九州の人だとすると、武内宿禰は何処の人でしょうか。紀ノ國で生まれたことになっていますが。
武内宿禰の父親は、屋主忍男武雄心命(やぬしのおしをたけをこころのみこと)です。
この人は、景行天皇に仕えて天皇の命で紀伊国に行き、そこで影姫と結婚し武内宿禰をもうけたことになっています。
しかし、佐賀県には武雄市があり武雄神社があり、屋主忍男武雄心命をまつる武雄神社があります。この人は、紀ノ國に行ったのでしょうか。母のヤマシタ影姫を祀る神社もありますからね。紀伊国は和歌山県ではなく、佐賀県の基山の「き国」ではないですかね。
武内宿禰を祀る神社は圧倒的に福岡が多いそうです。

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紀伊と基、似ていますね。武内宿禰は九州にルーツがあるかもしれません。
蘇我氏も平群氏も石川氏も波多氏も、武内宿禰の子ども達から出ています。
武内宿禰の子どもに、7人の男子がいます。
羽田矢代宿禰・許勢小柄宿禰・平群木兎宿禰・蘇我石川宿禰・紀角宿禰・葛城襲津彦・若子宿禰です。女子は久米能摩伊刀比売・怒能伊呂比売の二人です。
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「古語拾遺」に書かれたように、蘇我氏は数字に強かったようですね。財源をにぎっていたのでしょう。学問と血統は古代の財産でした。祖先が誰かと云うことと、文字を使えることが重要だったのです。おまけに数字が使えるのであれば、鬼に金棒だったでしょう。

地名は千年以上昔から続いているものもありました。すると、
九州から地名が移動したということでしょうか。
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江戸や明治まで続いた地名は千年以上の歴史を秘めているものがあるということを倭名類聚抄で確かめました。
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地名で歴史が分かるわけではありませんが、それでも、歴史の一部を伝えていると思います。
明治以来、地名はどんどん変わりました。より新しい流行りの地名が付けられて歴史が見えなくなりました。
また、ここで思います。明治って何だったのでしょう。人々が泣きながら文明の坂道を転げていった時期なのでしょうか、夏目漱石が書いたように。

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福岡市西区の壱岐神社です。鳥居には「壱岐宮」と神額が掛けられています。
壱岐神社と壱岐宮では、意味が違ってきます。
「神社」は別の神社から勧請してきた社殿ということですが、「宮」はその地が発生の社殿だそうです。


壱岐真根子神社は、この地が本来の鎮座地だと主張しているのです。
「壱岐真根子身代わり事件」は、ここで起こったことだというのです。


武内宿禰の身代わりになったのですから、彼らはこのあたりに関わりが深かったのでしょうね


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by tizudesiru | 2019-03-18 23:40 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

キトラ古墳が国宝になった背景は?

九州は去れ!! 古代史の論争に参加しないでいい、という宣告ですか?
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キトラ古墳が異例の速さで国宝になりました。

国宝になるまでには様々な検討がなされるのですが、耳目を疑うような速さで国宝の指定を受けたのです。
それは、来月の「文化財保護法改定」の前にどうしても国の指定が必要だったからです。私はキトラ古墳の被葬者は舎人皇子だと思い何度もブログに書きました。
檜前廃寺を見に行った時もキトラ古墳に行きました。きれいに整美され多大なお金をかけレガシィとしての資料館も完備しています。
資料館の運営を考えると、国宝とすれば観光客へのアピールも違ってきますからどうしても指定が欲しかったのですね。
此処で思うのは、明日香だから早急な要求が通ったということです。キトラを国宝にすることに異論はありません。しかし、それは全国のほかの遺跡との格差の推進であり、日本の歴史を奈良に固定する思惑の一部でありましょう。
国民の税金を使うのですから、広い視野で日本の歴史を構築してほしいのです。


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熊本城の復興はまだまだ道半ばですが、今年も熊本県民交流館・パレアホールで「鞠智城址『特別研究』成果発表会」がありました。2019年3月17日のことです。五年ほど通いましたが、今年は本当にショックでした。

九州を象徴する神籠石がすっかり消されていました。九州各地の自治体が長く調査研究をしてきたのに、神籠石は敵を欺くための「見せかけの山城」だというのです。それは、天武持統朝の遺構だというのです。
朝鮮式山城とは立地も築造技術も方法も違うのに、です。確かに神籠石は絶妙の立地で、交通の要衝にあります。

律令も整っていなかったらしい天武朝は、壬申の乱で権力を奪った王朝です。彼らが九州に重点を置いた山城を造ったというのでしょうか。


神籠石は「見せかけのための山城」と位置付ける論文や、神籠石は朝鮮式山城と同じ時期に造られた古代山城という定義の上での論文が出来上がっていました。
更に、「文化財保護法」が改正され「地方の発掘調査には予算が付かないことが喧伝されました。財政難の過疎化が進む地方は捨てられました、完全に。

今日まで、文化財保護法は「学者や市民が文化財の破壊を食い止めるわずかな後ろ盾だった」のですが、安倍首相の主導により今年の4月には改定されます。あと一月で変わるのです。
文化財活用は各市町村に任され、事もあろうに「観光に使って宜しい」と安倍さん自ら推奨したのです。それは表向きのことで、発掘調査には予算が付かないし、その遺物遺構を残し管理するお金が付かなくなるのです。つまり、地方の観光に使うどころか、維持管理費用・発掘費用が出ないのです。

この事が、発表会の前に基調提案されました。
「史跡をめぐる新しい文化財の保存・活用への動き」
という演題で、文化庁文化財第二課 埋蔵文化財部門 主任文化財調査官の禰冝田佳男氏の講演が一時間ありました。

その後、①古代の烽ネットワークと鞠智城 ➁平安時代の鞠智城周辺の国内情勢 ③日韓古代山城の水門構造からみた鞠智城 ④日本古代の兵庫と鞠智城 がそれぞれ40分の割り当てでしたが・・・・正直驚きました。

私たちは文化財保護法にわずかな望みをかけていたのでした、やはり。
文化財の発掘調査維持管理の予算はほとんど畿内など王権関係遺構に集中していましたから、地方はあまり関係なかったのですが・・・
今回、文化財保護法が改定されると重要遺跡に当たっても調査する前に壊されるかもしれません。遺跡の維持管理は予算不足で出来ませんから、遺跡が残されることはほとんどなくなるでしょう。第一遺跡の発見が報告されるでしょうか。

日本はこれから低成長に入って行くし、高齢化と少子化が進みましたから、もう打つ手はないのかと、黄砂に染まった春空を見ました。
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ここで、打つ手はありますか?
一人一人が節約することも大事ですが、市民のネットワークでしょうかね。



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by tizudesiru | 2019-03-18 17:21 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子を祀る神社

壱岐神社は福岡市西区に在ります。あたりは「生の松原」と呼ばれています。
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壱岐神社は壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)を祀っています。
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御神文はサンガイマツ三階松です。松の枝が三段に重なる形で、九州では由緒ある神社のご神文です。
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手水にもご神文が彫られています。
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福岡市に合併される前ここは壱岐村でしたが、それまでは額田郷でした。額田郷から壱岐村になる時、此処に「壱岐真根子」を祀る神社があったので、「壱岐」という名を村に付けたそうです。江戸時代に藩黒田藩が「壱岐真根子の身代わり伝承」を持つ神社を厚く庇護したからです。
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壱岐神社の参道は博多湾まで延びて、海岸から能古島や志賀島を望むことが出来ます。
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それにしても、武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子は武内宿禰にそっくりだったそうです。身代わりに死ぬ話は、歴史物語によくあります。昔は写真もないから似てると言ったら納得したようです。そして、武内宿禰の歴史物語は福岡が舞台だったのです。
武内宿禰の子孫に平群氏・蘇我氏がいますね。実は、曽我や平群という地名が、福岡市西区にはありました。壱岐神社あたりは山門(やまと)という地名でした。
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更に古い時代、平安時代の「倭名類聚抄」にも「額田・平群・曽我」などの地名がありました。どこかで聞いたような氏名ですね。
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さて、こんな地名を見ると、蘇我氏の祖先の武内宿禰は福岡の出身かしらと思います。
明日はそんなことを考えてみましょうね。


by tizudesiru | 2019-03-16 23:15 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

筑後国分寺は四カ所の神籠石の交点に在る

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奈良時代の筑後国分寺は、久留米市国分町711-1・日吉神社の境内に在りました。
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礎石は若干ありますが見落としそうです。国分寺は10世紀以降は衰え、中世には筑後川河畔の久留米市宮ノ陣に護国山国分寺が建てられています。
此処日吉神社のご神文を見ましたが
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不思議な文様ですね。不思議なのはご神文ばかりではなく、此の筑後国分寺は四カ所の神籠石の交差点に在るのです。
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おつぼ山神籠石と高良山神籠石、宮地岳神籠石と女山神籠石の交点です。更におまけがついて、田代太田古墳(装飾古墳)と有名な岩戸山古墳を結ぶラインもここを通ります。そして、高良山神籠石とおつぼ山神籠石のラインの上に権現塚古墳が乗ります。
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きれいに墳丘の中心を通っています。横に在るのは御塚古墳です。
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筑後国分寺は選ばれた土地に建てられたということでしょうか。
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ついでに言うと、筑前観世音寺は背振山と宝満山の山頂を結んだライン上にあり、そのラインンを東に伸ばすと筑前大塚古墳の墳丘に届き、主軸戦にラインが重なります。
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寺院や墓や首長の館などのために土地が選ばれるとき、時の権力者の意思なりが働くと思います。首長は地域の神山や祖先の墓を意識したと思います。
神籠石は六世紀の遺構だという説は納得ですが、7世紀8世紀の遺構だという文化庁の最近の見解には疑問しかありません。長い間それぞれの地方で研究してきたことは何だったのでしょう。
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日吉神社の境内には「十三塚神社」という不思議な神社もあります。是って、もしや中国の十三部・・・なんて、想像がふくらみますね。


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by tizudesiru | 2019-03-16 00:40 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(2)

「天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった」の続きです。

天平二年正月、大宰府の帥の館に大弐・少弐から無位の役人まで集い宴が執り行われました。その宴では老いも若きも官位の高低もなく、ひとしく梅を詠んだのです。通常では考えられないことでした。身分を分けること、出自を明らかにすることなど、政治が目指していたことでした。律令も整えられ官位も細かく分けられて、秩序を重んじ身につけるものまで決められていましたから。
そんな風潮の中で席をほぼ同じくして歌を詠み合うなど、考えられないことだったでしょう。

もちろん、都では宮廷の正月儀式として宴(とよのあかり)が設けられ、身分・位に応じて各々に賜物がありました。しかし、身分の上下にかかわらずともに歌を詠んだりはしていません。

平安時代には宮廷で歌会があったでしょうが、「梅花の宴」は奈良時代の初めです。

旅人は思い付きで宴を開いたのでしょうか。 そんなことは有りません。
彼は、大宰帥として九州の正月儀式を再現したのです。

まず、そこで読まれた歌を詠んでみましょうか。

815 正月(むつき)たち春の来たらばかくしこそ梅を招()きつつ楽しき終へめ 

              大弐紀卿 だいにきのまえつきみ(従四位下)

816 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも   

           少弐小野大夫 しょうにおののまえつきみ(従五位上)

817 梅の花咲きたる園の青柳は縵(かずら)にすべくなりにけらずや     

          少弐粟田大夫 しょうにあはたのまえつきみ(従五位上)

818 春さればまず咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日くらさむ   

 筑前守山上大夫 つくしみちのくちのかみやまのうえのまえつきみ(従五位下)

819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを 
 豊後守大伴大夫  とよのみちのしりのかみおほとものまえつきみ(従五位下)

*大夫(だいぶ)とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地をもった貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。日本でも律令制度に用いられ、太政官に於いては三位以上、寮に於いては四位以上、国司に於いては五位以上の官吏の称とされた。単に五位を意味する場合「たいふ」と詠み分ける。

820 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり     
筑後守藤井大夫 つくしのみちのしりのかみふじいのまえつきみ(外従五位下)

821 青柳梅と花とを折りかざし飲みての後は散りぬともよし

                    笠沙弥 かさのさみ(無位 僧)

822 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも   

                  主人 あるじ(旅人)(正三位)

823 梅の花散らくはいずくしかすがにこの城()の山に雪は降りつつ 

          大監伴氏百代 だいげんばんじのももよ(正六位下)

824 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐいす鳴くも    

          少監阿氏奥島 しょうげんあじのおきしま(従六位上)

825 梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな     

          少監土氏百村 しょうげんとじのももむら(従六位上)

826 うちなびく春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか別かむ  

           大典史氏大原 だいてんしじのおほはら(正七位上)

827 春されば木末(こぬれ)隠りてうぐいすそ鳴きて去()ぬなる梅が下枝(しづえ)

        少典山氏若麻呂 しょうてんさんじのわかまろ(正八位上)

828 人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめずらしき梅の花かも

         大判事丹氏麻呂 だいはんじたんじのまろ(従六位下)

829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

       薬師張氏福子 くすりしちょうじのふくこ(正八位上)

830 万代に年は来()()とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし

    筑前介佐氏子首 つくしみちのくちのすけさじのおびと(従六位上)

831 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝なくに 

         壱岐守板氏安麻呂 いきのかみはんじのやすまろ(従六位下)

832 梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし

         神司荒氏稲布 かみつかさくわうじのいなしき(正七位下)

833 年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ

     大令史野氏宿奈麻呂 だいりょうしやじのすくなまろ(大初位上)

834 梅の花今盛りなり百(もも)(とり)の声の恋しき春来たるらし

      少令史田氏肥人 しょうりょうしでんじのこまひと(大初位下)

835 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも 

       薬師高氏義通 くすりしかうじのよしみち(正八位上)

836 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり

          陰陽師磯氏法麻呂 おんやうしきじののりまろ(正八位上)

837 春の野に鳴くやうぐいす馴付けむと我が家の園に梅が花咲く

             算師志氏大道 さんししじのおほみち(正八位上)

838 梅の花散り粉(まが)ひたる岡びにはうぐいす鳴くも春かたまけて 

      大隅目榎氏鉢麻呂 おほすみのさくわんかじのはちまろ(大初位下)

839 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る  

   筑前目田氏真上 ちくしみちのくちのさくわんでんじのまかみ(従八位下)

840 春柳縵に折りし梅の花誰か浮かべし酒坏(さかづき)の上()に 

      壱岐目村氏彼方 いきのさくわんそんじのおちかた(少初位上)

841 うぐいすの音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ  

      対馬目高氏老 つしまのさくわんかうじのおゆ(少初位上)

842 我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐいす鳴くも散らまく惜しみ 

         薩摩目高氏海人 さつまのさくわんかうじのあま(大初位下)

843 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ

             土師氏御通 はにしうぢのみみち(無位)

844 妹が家に雪かも振ると見るまでにここだも粉ふ梅の花かも

             小野氏国堅 をのうぢのくにかた(無位)

845 うぐいすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ児がため

  筑前掾門氏石足 つくしのみちのくちのじょうもんじのいそたり(従七位上) 

846 霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも

           小野氏淡理 をのうぢのたもり (無位)

 

この正月儀式はたいへん文化的で華やかで、参加した人々や噂を聞いた都の人など多くの人に感銘を与えました。正月早々から上下を問わず歌を詠み合う儀式、それも梅の花を詠む宴、そこにある意味は何でしょう。

上下を重んじて身分や官位を細分化し「姓」を与えたりして氏の間に差別を持ち込み続けた当時の常識に反し、「王権を象徴する梅花の下に上下を問わず集い王朝の弥栄を寿ぐ正月儀式が九州にはありました」ということです。
当時の王朝の儀式ではないとすると、別の王家の儀式だったことになりましょう。

ちなみに日本書紀・持統紀などに見られる正月儀式は、「白馬節会(あおうまのせちえ))の原形や「射礼(じゃらい)」などが挙げられます。が、詩歌を詠む会ではありません。
正月七日の宴は「白馬節会・あおうまのせちえ」という行事に整えられていきましたが、これは天皇が白馬を見る儀式で「白馬を見ると縁起がいい」というのです。また、正月十七日に「射礼・じゃらい」という儀式は弓の音を立てて邪鬼を払うというものです。

平城天皇(在位806~9)の時代、正月儀式として詩文を作らせ御前で読み上げさせる儀式は「内宴」と云って正月二十日か二十一日に行われたのですが、その儀式が取り入れられたのはずっと後の時代です。

平城天皇とはこれまでも紹介した「大伴氏から万葉集を召し上げ、侍臣に編集させた天皇」で、万葉集に深い理解があった人です。ですから、正月儀式に詩文を詠む宴の意味を理解し、その意義を踏まえ儀式を再現したと思われます。
(平城天皇が罪人として官位も剥奪されていた家持の官位を戻した理由は何かですが、万葉集を召し上げるために他なりません。平城天皇は、万葉集の本質と意義を理解していました。だから、平安京から平城京に都を戻そうと言い出したのです。そのために嵯峨天皇と激しく対立したのです。)

平城天皇は、旅人が執り行った梅花の宴を「王朝の寿ぎの儀式」の再現だと理解したので、自らの世(70年以上後)に儀式化したのでした。理想の王家の正月儀式を大伴旅人が大宰府で再現していたと理解したからです。


当時の旅人としては、長屋王の父・高市皇子の血縁になる九州の王家の儀式をなぞり、長屋王の霊魂を鎮めたいと願ったと思います。もちろん、その事は決して表には出さなかったでしょうし、気づかれないようにしたでしょう。旅人の内心を理解した人物が居たとしたら、山上憶良をおいて他には居りません。


「後に梅の歌に追和する四首(849~51)」が巻五に掲載されていますが、旅人が追和したのであろうと云われています。が、そうであれば、「梅花の宴を懐かしんで作る」という題詞があってもおかしくありません。が、それはないので何ともいえませんが、旅人も思わぬ反響に驚いたのかもしれません。宴の成功に感動した別人の可能性もありましょう。

他にも「諸人、梅花の歌にこたえ奉る一首(856)」があります。

巻十七には、「大宰の梅花の時に追和する新しき歌六首(3901~6)」と題詞があり、「右、十二年十二月九日、大伴宿祢書持が作る」と左脚が付いています。大伴家持の弟・書持が父を偲んで十年後に追和したとわかります。

梅花の宴は、このように人々の心に残りました。なぜなら、非常に文化的な行事で都にはなかったのです。家持も弟の書持も「大宰府の梅花の宴」を深く心に刻み、誇りに思っていたのでした。




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by tizudesiru | 2019-03-01 22:03 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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