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万葉の歌人・大伴旅人は大宰府の歴史を知った

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もしかしたら、大宰府政庁が置かれる前に九州の権力者の王都が大宰府にあったのではないか、大宰府王都説や白村江敗戦後の筑紫都督府説、など様々な説がありますが、その可能性はどれほどでしょうか。


前回までに、福岡県太宰府市の大野城や蔵司(くらのつかさ)の紹介をしました。そこで出土した古いタイプの瓦の出土を紹介していますが、草創期の瓦は何処で焼かれたのか分かりません。その瓦は、太宰府だけでなく大野城市や宇美町にまたがる四王寺山(大野城にほぼ重なる)の多くの地点から出土しているのに、何処で焼かれたかわからないままです(Ⅱ期Ⅲ期の瓦が焼かれた場所はほぼ分かっています)。それにしても山城の倉庫に草創期から瓦があることを、大宰府の官人たちはどう思っていたのか、気になります。
山城の倉庫建物に瓦を葺くなど7世紀という時代を考えると異様で、大宰府に赴任した官人たちもそれを知っていたし、山城を見たはずです。政庁の裏山なのですから。

彼らが大野城や大城山をどう思っていたのか探れる資料としての万葉集、その歌で考えてみましょう。まず、「大城山」を詠んだものです。
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明らかに大宰府の住んでいる人の歌で、政庁の裏山が色づいたというのです。
大宰府政庁からは背振山地・三郡山地が見えるし、遠く筑後の山々も見えます。それらの名の知れた神山が林立する中で「大城山だけは冷たい雨に濡れたわけでもないのに色づいた」というのです。これは自然にはない珍しい? ことで、つまり標高の高い背振山から色づくのが当たり前です。なのに大城山が色づいた…そこに此の歌の意味と作者の思いがあるのです。

「はっきりと時雨が降ったわけでもないのに、さすがはあの大城山、昔から王城として崇められてきた大城山だからこそ、いち早く色づいたのだな。さすがに神山なのだ」

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大伴坂上郎女は兄嫁が大宰府で没したので、兄・大伴旅人の家族の面倒を見るために都から大宰府に来ていました。旅人が大納言となり都に呼び戻されたので、坂上郎女も都へ帰りました。都で筑紫のことを思いだして詠んだのが「今もかも・・」の歌です。
霍公鳥は不如帰とも書き夏鳥です。私は不如帰=郭公と思っていましたが、違うそうです。鳴き声を聞いたら霍公鳥の声は寂しくはありませんでした。私はきっと寂しい声だと思い込んでいたのです。万葉集辞典には「かほと=ほととぎすか。郭公。カッコウと鳴くのでこの名がある。初夏、南から渡ってくる。略」とあり、「ほととぎす=霍公鳥。やまほととぎすとも。渡り鳥。夏鳥。夏の到来を告げて鳴く。背は灰青色。略」とあるのです。


では、坂上郎女の歌です。彼女が「大城山が古代の権力者が造ったものだった」と思っていたのなら、このような意味を込めたでしょうか。 
「あの誰もが毎日のように眺めた大城の山に夏が来て、今頃たくさんの霍公鳥が鳴いているのだろう。霊魂は鳥となって夏になると大城山に戻ってくるのだろうが、私はもう筑紫に戻ることはない。」

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山上臣憶良は大宝元年(701)に無位で遣唐使として唐に渡りました。帰国後徐々に出世し、霊亀二年(716)には伯耆守。養老五年(721)に退朝した後に東宮に仕え、皇太子(聖武天皇)の教育係になりました。そして、神亀三年(726)に筑前国司となったのですが、既に退朝しているのですから、かなり変です。何か政治的な裏工作でもあったのでしょうか。
大伴旅人が都から遠い筑紫に赴任した後、旅人のいない都で「長屋王の変」が起きました。長屋王は左大臣、旅人は中納言としてともに中央で活躍していたのですから二人は親密だったようです。武人である旅人が都にいる間は、事が起こせなかったのではないか、と考えます。
憶良の筑前守就任は、大伴旅人の監視であったのでしょう。大宰府の旅人に対して山上憶良は異常に接近し、徹底的にご機嫌を伺いました。旅人の妻の法事には『日本挽歌』を献じ、大伴氏の祖先の大伴佐堤比古朗子(おおともさでひこのいらつこ)の物語を徹底的に取材し、見送った松浦佐用比賣に関する歌や神功皇后にまつわる伝承を取材し、肥後の大伴熊凝(18歳で死亡)に代わって歌を詠んだり「貧窮問答歌」など多くの長歌を謹上したりしたのは、旅人に接近するためだったのではないでしょうか。 

そんな憶良が旅人の妻の法事に捧げた長歌「日本挽歌」に付けられた反歌五首の最後の歌が「大野山きりたちわたる・・」の歌ですから、次のように読みます。

「古の王城だった大野山に霧が立ち渡っている。霊魂が現れたものが霧や雲だというが古の霊魂が大野山に漂っているのだ。更に、私の嘆きのため息が霧となって、大野山に深く霧が立ち込める。」
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大宰府の官人たちは、毎日眺める大野城に畏怖の念を持ったと私は思います。


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by tizudesiru | 2019-01-24 16:11 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴旅人が太宰帥だった時代、大野城の城門に鬼瓦があった

福岡県の太宰府市や大野城市宇美町にまたがる「大野城」は天智天皇が築城させた古代山城として知られるが朝鮮式山城として大野城が白村江敗戦後に築城される前から或権力者が作った山城が四王寺山にはあったのではないか、というお話をしてきました。
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そもそも大宰府の都府楼跡(政庁跡)に露出している礎石は、創建時(Ⅰ期)のものではありません。Ⅱ期Ⅲ期の瓦葺の建物時代のものです。
Ⅰ期は掘立柱建物で礎石はなく、この都府楼のⅠ期に出土する瓦が「主城原」のⅠ期で出土する単弁の瓦と共通します。両者は同時期なのです。

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大野城築城から1350年の節目に「四王寺山の1350年」という図録が出されました。
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そこに、大野城のⅠ期遺構で出土した瓦の写真があり、三種類の単弁の軒先丸瓦が紹介されています。上の写真が主城原で出土した瓦で、三種類の瓦が出土したのは主城原のみです。
Ⅱ期になると、瓦当文様が違ってきます。鴻臚館式と老次式の華やかな瓦当文様になります。下の「老司系軒丸瓦」で単弁のようだけど複弁八葉蓮華文軒丸瓦だそうです。
一番外側の外区外縁に陽起鋸歯文(ようききょしもん)ギザギザの△文様がつながって取り巻いているのが、老次式の特徴です。鴻臚館式にはこの鋸歯文がありません。
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Ⅰ期の瓦とはかなり違っています。これほど変化するには、文化的な変革があったということです。それは、文化の変化だけでしょうか。何らかの政治的社会的変化があったことになりませんか。礎石建物に瓦が葺かれた「大野城の太宰府口城門」址からの出土です。
山城には大きな城門が作られたのです。
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此の鬼瓦は第Ⅱ期大宰府政庁の造営に伴って造られた「大宰府式鬼瓦Ⅰ式A」で、大宰府の中枢施設からのみ出土する、そうです。これは、大野城の大宰府口城門から出土したものですから、大野城はさぞや立派だったことでしょう。

「大宰府」が置かれるまで、太宰府には大きな施設はなかったかもしれません。然し、その田舎に瓦葺の掘立柱の建物はあったのです。そんな建築物を造った人は何処に住んだのでしょう。「大野城」の城門址を見ると北と南の双方に集中しています。北の糟谷・博多側と、南の太宰府側に。大宰府側が未開発であったなら、宇美町側(粕屋郡側)博多側から主に出入りしたとなります。だから、主城原に官衙も建てられていたのでしょう。

でも、宇美側の有力者が大野城を利用していたと考えると、矛盾が生じます。
水城の築造の意味がなくなるからです。水城は「博多側からの侵入を防いでいる」そうですから。

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全く、謎だらけの大野城です。だけど現実には、大伴旅人が大宰府に赴任していたころ、大野城はあったのです。都から来た官人は、大野城をどんな目で見たのでしょうね。
又、明日。



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by tizudesiru | 2019-01-21 23:57 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

太宰府都府楼の隣・蔵司に王宮があったのか

福岡県太宰府市にヤマト王権の出先「大宰府政庁」址があります。私が子供のころは田畑や家屋の中に意味深な小字があったと思いますが、今はすっかり公園になっています。北に見えるのは大野山(大城山)で、大野城が置かれているのです。


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政庁跡をふつうに「都府楼」と呼んでいますが、古代も此処を都府楼と読んでいたのでしょうか。不思議な呼び名です。
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都府楼跡の東隣と西隣は小高くなって森になっています。西隣は蔵司(くらのつかさ)と呼ばれて、古代には武器庫だったといいます。新聞記事で焼けて溶けた鉄鏃の塊が大量に出土したと書かれていた記憶があります、ずいぶん前の話ですが。裏手は谷で池があります。
この蔵司に以前は料亭がありました。何時か行ってみようと思っていましたが料亭は無くなり、跡地は文化財として福岡県が管理しているのでしょう。発掘調査があっていますから、立ち入り禁止です。見学会があって何とか写真だけ取りました。

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蔵司は二段になって、下の段が発掘中でした。木々の奥(東側)が都府楼跡です。都府楼跡は更に大きく段が下がります。つまり、蔵司の方が都府楼の役所を見下ろす位置にあったのです。見晴らしもよくなりますが、高官に対して失礼ではなかったのですかね。
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上の段は広く礎石が並んでいますから大型建物はあったのです。江戸時代の絵からはもっと多くの礎石があったことが確認できるそうです。
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蔵司の礎石は他の遺構の礎石に比べて厚みがないそうです。つまり、薄い礎石では上に重い物は置けないというのです。ですから、倉庫とは思えないという話でした。
「ではでは、人間の住まいならOKなのですね! ふむふむ、それではここは王宮だったかもしれませんね、古代の」
しかし、肯定はされませんでした。が、ここが倉庫だとしたら確かに不自然です。隣の大宰府政庁を見下ろすことになりますし、倉庫を一等地に造る意味は何でしょう。迎賓館址はここから徒歩で15分くらい離れた二日市駅の近くにありますから、客館跡でもないでしょう。でも、大型建物跡があり、火事などで鉄鏃の焼け溶けた塊が出土したのです。
面白い事実です。

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蔵司の敷地は決して狭くはありません。何らかの公的な建物があったでしょうね。
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観光地として知られる太宰府天満宮は、蔵司や都府楼跡の前の道を東に進み、突き当りに位置します。このあたりの建物は条坊に沿って作られているそうです。
藤原宮より大宰府の条坊が古いというのは、本当ですか?

では、この辺で。


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by tizudesiru | 2019-01-18 23:33 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

当時の太宰府は田舎だったが、山城を築いた

「太宰府はヤマト王権の出先機関・大宰府が置かれるまでは、間違いなくど田舎でした」
と、ある学芸員さんが言われました。若い方ですので何処の誰かは言いませんが、これには「発掘の結果からそう思う」という付け加えがありました。
学芸員さんの話だと、大野城・基肄城は白村江敗戦後に造られたということです。水城・大野城の土木工事も一緒にやれたというのです。大野城は土塁が6キロほどあるそうです。
それも急な斜面にある、のです。そして、山地を削平して建物を建て米を運び入れねばなりません。同じ規格の建物だそうですから、設計図があったのです。それを読める人、指示する人、働く人の組織があって、その食料と寝床も確保しなければなりません。人のいないところで山城を造って、ヤマトを守ったのでしょうか・・・

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佐賀県にある基山です。土塁は山頂部から連なる尾根に造られているのです。
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辺りは平たんではありません。基肄城は、基山と坊住(ぼうじゅ)山にまたがりますので、間を谷川が流れています。
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現在地と書かれているところに、谷水を排除する水門と城門がありました。
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此の水門を通り抜けて基肄城の中に入った者は、大宝律令では一年の徒刑となっていたそうです。701年辺りでは此の山城が機能していて、都でも関心があったのですね。
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10間×3間とは大きい建物ですね。
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今では、初期の出入り口の状況をうかがい知ることは難しいようです。
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基山山頂のの土塁をみましょう。
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広い土塁はうねうねと続いています。
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見晴らしも抜群です。やはりここも、白村江敗戦後にいっきに造ったのでしょうか。
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基山は大城山とほぼ南北に向かい合っています。真南の関係になるのは、基肄城の北帝門ではないでしょうか。天智天皇が基肄城を築く時、この基山で古代から祀っていた神が降ろされました。その時から筑紫神社に祭られているそうです。
ご祭神は変わった可能性もありますが。
 
山城のためにそれまで祀られていた神が山頂から降ろされる、という話が大野城・基肄城の朝鮮式山城に共通するのです。大きな土木工事が敗戦後の食糧難(働き手を失っている)の時代にできたのかという疑問は、全く解決されてはいませんが・・・双方で祭祀が行われていたことは確かです。
神を降ろされ土木工事に従事させられ、人々はどのように戦後を生き延びたのでしょうね。
基肄城が緊急時に倉庫として役に立つかどうかも疑問ですが、此処で大土木工事がなされたのは事実ですが・・その時期は問題だとはおもいます。白村江戦より前に山城があった可能性はないのですか?
それと、当時の人の考えが、今ひとつ分かりにくいのです。 

最初に書きましたが「当時は、太宰府辺りは超田舎だった」ということです。田舎で村も小さく、人も少ないのに大土木工事をしたとは、理屈があいません。人手・財力・必要性・技術・指導者・組織力、何が抜けても国家的な工事はできないのです。他所から人を呼んだのなら、何処で寝泊まりしたのか、やっぱり気になりますからね。
今日も疑問で終わりました。では、また。


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by tizudesiru | 2019-01-17 17:08 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

神武天皇が大城山で祭った神を、天智天皇が降ろした

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福岡県太宰府市の通古賀(とおのこが)に王城(おおぎ)神社という古社があります。そこに伝わる「王城大明神縁起」に『神武天皇が四王寺山の山頂に城を構え、大野の県主・田中熊別に警固させていた。神武天皇の山城があるので、時の人は王城(おおぎ)山と云った。詔してこの山に武甕槌と事代主を祭り、東夷を平らげることを祈らせた』この後『天皇は東夷征伐に出発し、熊別は天皇に従い東国に行った。熊別は一子熊則を残し置き、荒気武彦と蚊田王を警固させた。天皇は東征し大和国に内裏を建て橿原宮と名づけた云々』ということが書かれているのです。

王城神社の縁起によると、四王寺山に「大野城」が作られる前から、神武天皇の山城があったとなります。此の伝承が事実を反映しているのであれば、或権力者が山城を造りそこで神祭りをしていたことになります。或権力者が神武天皇かどうかは判断できませんが、宝満山やその周辺、更に西側の豊前にかけて神武天皇の伝承が散在するのも事実です。それも、神功皇后伝承地と重なるのですが。
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福岡県太宰府市・大野城市・宇美町にまたがる「大野城」山頂から東を見ると、宝満山と三郡山と若杉山が見えます。西を見ると背振山系の山々から糸島地方の山々まですっかり見えるのです。ここで神祭りをしたと考えるのは自然です。
私は、神山の信仰は弥生時代から始まっていた、と思っています。
宝満山と飯盛山(福岡市早良区)を直線で結ぶと、この大城山山頂と須玖岡本遺跡の高所を直線が通ります。その直線上に、須玖岡本遺跡の王墓、吉竹高木遺跡の王墓、更に飯盛山を越えて、糸島の三雲南小路王墓の三カ所の弥生王墓と、最後に一貴山銚子塚古墳の後円部が乗るのです。

これは偶然ではない、と何度も紹介しました。
春分秋分の太陽は宝満山から昇り、飯盛山に沈むのです。飯盛山こそ、つい最近まで福岡市ではなく「平群村」に在りました。ヤマトタケルや景行天皇が詠んだあの「平群の山」が「飯盛山」だったと思います。古代には、平群の山のいつ樫の葉を髪にさして祈ったのです。飯盛山は神山で、女性神・イザナミノミコトが祀られていました。
なぜ、イザナミノミコトだけ? 当然の疑問です。わたしは女神が飯盛山(平群の山)に、男神が宝満山に祭られていたのだと思うのです。東西の男女の神に見守られて、福岡平野の弥生時代は繁栄したと思っています。それが、信仰として残されたから宝満山の男神を祭祀する場だった大城山も祭場として聖地となったと思うのです。

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弥生の信仰が古墳時代に引き継がれ、さらに仏教が入ってきた時も聖地として仏堂が建てられた可能性があると思います。瓦は、その名残ではありませんか?

大城山の麓から延びる緑の帯は水城です。三郡山系と脊振山系の間の大きな断層地形を「水城」が横切っています。神山から延びる水城も、白村江敗戦後ではなくそれ以前から作られていた可能性があると、神社伝承と版築土塁の中に敷かれた樹木の炭素年代測定からも明らかだそうです。

大きな土木事業・版築土塁が造られるには、経済的バックと政治的意義が必要です。なによりそれを完成させる技術も必要です。一つ欠けても地域全体を巻き込むことはできません。「大野城や基椽城も取り込んだ羅城説」がありますが、それらがあったというならば壮大な権力があったということになります。

大きな権力があったなら、さて、何処にあったのでしょうね。ヤマトですか? ヤマトが白村江戦以前から羅城を造り始めていた、のですか? 無理がありますね。では
九州には大きな権力があったと、考える他ないでしょう。
彼らが大野城ができる前に、何らかの建物を建てていた…となります。
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四王寺山=大野城の「瓦葺き建物」はどんな場所にあったのか、だいたいわかりました。発掘で瓦が採集されていたことは承知しています。では、瓦はどこで焼いたのでしょう。古代寺院では、寺の近くで鍛冶もするし瓦も焼くし、柱も組み立てます。ここもそうだったのか、瓦窯があるとしたら何処だろう、などなど思っていたのです。
そんなに簡単に見つかるわけはありませんが、近くに窯跡があってもいいはずです。

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これは、主城原を歩いていたとき礎石群の横に置かれていた新聞記事のパネルです。礎石の下を掘ったら掘立柱遺構が出たというのです。それは「官衙」址だというのです。
そうであれば、人が出入りしたのは北の宇美側と云うことになります。大宰府は南側ですから官人が大宰府に住んでいたのなら、通うには不便です。
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新聞を上のように要約しまた。
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主城原の官衙は博多側を向いています。古代の官人は博多側から四王寺山に入ったし、その入り口に大きな建物(官衙)があった、となります。掘立柱の柱穴は四角です。そこから単弁軒先瓦が出土したのです。すると、建物より瓦の方が古いのでしょうか。または、建物を建てる時、他から瓦を移したということでしょうか。では、何処から・・・

私は、「白村江敗戦後に倭国に入った郭務悰は、二千の兵を四王寺山に置いたのではないか」と思っています。書紀には「敗戦後、戦後処理のためと思われる二千の兵が倭国に来た」と書かれています。彼らは筑紫にとどまっていますが、郭務悰らが何処に駐留したか定かではありません。彼等が駐屯した安全な場所は何処でしょう。那の大津から遠くはない守りやすい場所ですから・・・四王寺山です。そこに駐屯のための掘立柱大型建物を建てた時、瓦を近くの寺院や館から集めた・・・これは無理ではないでしょう。
または、もともと掘立柱の権力者の館が博多湾側を向いて建てられていた、となりましょう。その建物を郭務悰が利用したのなら、自然な展開です。

さて、真相は。


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by tizudesiru | 2019-01-15 12:30 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

神在の神石は、古代祭祀の名残!

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話題の神石について質問がありました。「見たことがありますか?」

この写真は2016年11月のものですが、更に昔はここは畑(?)でした。背の高い草が茂って、この大石までたどり着けないほどでした。でも、畑の中に石の上部が見えていました。然し、今は竹が進出していて、スゴイ竹薮になっていました。しかし、大石までの道が作られているので、多分だれでもたどり着けます。
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近くには神社があります。神在神社です。「かみあり」とは、名前からして意味深です。
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神在神社を訪ねて行けば、歩いて5分くらいの場所に神石はあります。
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石が飛んでくるわけはありませんから、昔ここまで転がして運んだとか、ここが石原で他の石は排除できたがこの大石は動かせず残ったとか、いろいろでしょうが。長い間忘れられていたのは事実です。しかし、この石を見直す動きが高まってよかったです。
ここ神在は、古代には海がすぐ近くまで入り込んでいたので、他の地域との交流もあったと思います。人々は自分たちの結束を高めるために「神祭り」をしたでしょうから、この石が信仰の対象になった可能性はあると思います。
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カテゴリ172「糸島の神社」でもこの大石を紹介していました。他にも面白い神社が糸島にはあります。
では、また。


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by tizudesiru | 2019-01-13 12:28 | 172糸島の神社 | Trackback

羅城説のある大野城・古代瓦は倉庫に葺かれた!

朝鮮式山城という大野城(福岡県太宰府市・大野城市・宇美町のまたがる山城)を訪ねました。なぜ山城に瓦が出土するのかという疑問があったからです。
前回訪ねた主城原には、礎石群がありました。朝鮮式山城は「神籠石系山城」と違って、削平された土地があり、建物群(倉庫という)が並び、それも三期にわたって建て替えが行われたということです。
神籠石系山城は、削平された土地はなく、古代の建物群もありません。なぜか生活用品も出土していないのです。朝鮮式山城とは違いすぎるのです。
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さて、大城山の山頂と毘沙門堂を目指しました。目的は「大野城の古代瓦はどんなところで出土したのか」、確かめたかったからです。その瓦は、いつどのような理由で山城に使われたのか、知りたいです。
歩きながら思ったことですが、尾根に倉庫群を造る意味は何でしょう。それも版築で造った土塁を歩いてたどり着くような所に造られていました。白村江敗戦後に造られたとなっていますが、敗戦後なら二万にも及ぶ男たちは戦に出ていましたから、残された女たちは必至で食糧生産をしていたでしょう。
そんな状況の所に、版築土塁の山城を築いて米を集めるなんて、無謀ではないでしょうか。同時に水城も築いていたとなると二重の土木工事とは狂気の沙汰、ではありませんか。

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四王寺川に沿って少し歩き、それから山道を毘沙門堂まで登ります。そこは、大城山の山頂近くです。つまり、「四王寺山」とも呼ばれる「大野城」は、いくつもの小さな山の連なった皿のような山塊で、中心部が谷底になって四王寺川が流れているのです。その中で標高が一番高い場所が「大城山」になります。
万葉集にも「大野山」と歌われたり、「大城山」と呼ばれたりしています。山としても、城としても認識されていたのです。

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地図で確認しますが、毘沙門堂のある大城山山頂辺りの「礎石群」は地図上に掲載されていません。発掘しにくい状況なのでしょうか。
ここは早くから人の手が入り、戦前は観光名所だったそうです。

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毘沙門堂への山道を歩いていると、道に須恵器の欠片や土師器の欠片が落ちていました。やっぱり、と思って写真を撮りました。
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更に歩いていると、何と瓦の欠片が土手に在りました。
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布目の後が見えますね。古代の平瓦ですかね。それで、辺りを見てみると、やはり土器片や丸瓦片などが落ちていました。証拠の写真を撮りました。
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そのまま目立つところに置いておきましたから、気になる人は見に行ってください。(遺物はその場にあってこそ意味がありますから、持って帰らないでね)
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何と、毘沙門堂の近くにも瓦片が落ちていました。
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瓦片には布目の後が見られます。ここには、礎石群は確認されていないのでしょうが、創建当時の古代瓦の欠片がバラバラ落ちています・・・ここには、瓦葺きの建物があったのです。7世紀の仏堂だったかもしれません。または、その後の8世紀の瓦でしょうか。
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毘沙門堂にお参りして、山頂に行きます。大城山の山頂は毘沙門堂の西隣りです。
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山頂は削平されたようには見えませんでした。では、瓦葺き建物は隣の毘沙門堂のあたりにあったのでしょうね。
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調査報告書によると、大野城で古代瓦が出土するのは、一期の掘っ建て柱の時期だそうです。つまり、建物に礎石が使われる前に、既に瓦を葺いていたということです。大野城も大宰府政庁と同じように現在「建て替えが三度(三期)あった」ことになっています。その一番古い時期に古代瓦が出るのです。
常識では、「瓦が重いので柱が土に沈まないように礎石を置いた」とされて、瓦と礎石と仏教文化はセットです。

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山頂の斜面にも瓦片が落ちていました。近くに古代の建物があったということです。瓦くずを麓から運ぶとは考えられません。仏教関係の御堂があったのでしょうか。
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(県民の森に採集された古代瓦が展示されていました)
倉庫の瓦葺きが「防火が目的(学芸員の説明では)」であれば、軒先瓦に蓮弁文様の装飾は必要ありません。屋根を飾るのは、その主人が高貴な人であるか、仏像が安置されていたか、等ではありませんか。そうでないなら…何でしょうか。
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(大城山山頂から、博多湾・糸島市・脊振山・九千部山が見える)
私は、弥生時代からここ大城山は神祭りをする聖地だった、と考えています。
白村江敗戦後にも「新羅を呪詛するため」に寺が造られたと、大野城の1350年記念誌に書かれていました。各峰に四天王を祀ったから、四王寺山なのです。それは、新羅からの呪詛を跳ね返すために必死だったそうです。昔からずっと聖地だったので、白村江敗戦後に大野城が築かれ、その後も四天王が各峰に祭られた、と思うのです。

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私は、神山の信仰は弥生時代から始まっていた、と思っています。
宝満山と飯盛山(福岡市早良区)を直線で結ぶと、この大城山山頂と須玖岡本遺跡の高所を直線が通ります。その直線上に、須玖岡本遺跡の王墓、吉竹高木遺跡の王墓、飯盛山を越えて、糸島の三雲南小路王墓の三カ所の弥生王墓と、最後に一貴山銚子塚古墳の後円部が乗るのです。
これは偶然ではない、と何度も紹介しました。
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弥生の信仰が古墳時代に引き継がれ、さらに仏教が入ってきた時も聖地として仏堂が建てられたと思います。
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四王寺山=大野城の「瓦葺き建物」はどんな場所にあったのか、興味は尽きません。
発掘で瓦が採集されていたことは承知しています。では、瓦はどこで焼いたのでしょう。古代寺院では、寺の近くで鍛冶もするし瓦も焼くし、柱も組み立てます。ここもそうだったのか、瓦窯があるとしたら何処の斜面だろう、などなど思っていたのです。
そんなに簡単に窯跡見つかるわけはありませんが、近くに窯があってもいいはずです。

では、また。


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by tizudesiru | 2019-01-13 10:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大野城の主城原に王権の宮があったのか?

天智天皇が築城させたという「大野城」は、福岡県の大野城市・太宰府市・宇美町の三つの自治体にまたがる古代山城です。
この大野城から古代瓦が出土していますが、その時代トップの文化的な建物に使われたはずの瓦が、なぜ山中の倉庫に使われているのでしょうか。はなはだ疑問です。
最近、「ヤマト王権による最初の大宰府は、大野城に置かれたのではないか」という考えも出て来たそうですが、他地方の官衙は平地に置かれていますから「大宰府」だけが山中に置かれたとは考えにくいです。
そして、大野城は百済の亡命貴族が指揮して作った「朝鮮式山城」であるというのが、歴史の定説でした。ですから、正史に記述がない「神籠石系山城」とは本質的に違うものだとされてきました。然し、ここ数年間に大きな修正がありました。「神籠石系山城」という用語が消滅したのです。

「朝鮮式山城・神籠石系山城」という古代史で使われていた言葉が「使われなくなって」数年経ちました。神籠石系山城は正史(日本書紀)に登場しません。謎の山城として、九州の王権が造ったものではないかという研究がなされていましたが。

九州の王権・・・これでは具合が悪かったのでしょうか。「すべて古代山城として国防のために造られた」という見解が出されました。
文化庁の発表以来、NHKも「古代山城」というひとくくりで、神籠石系山城を扱うようになりました。両者は同じものだというのです。更に、神籠石系山城は天武・持統朝に整えられたとなっています。
本当に朝鮮式山城と神籠石系山城は、ほぼ同じ時期に造られたのでしょうか。それに、文化庁の見解の通り「神籠石系山城の方が、朝鮮式山城より新しい」とは、本当でしょうか。
疑問符をつけたままの「大野城(朝鮮式山城・日本書紀に記載あり)」を歩いてみました。

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まず、神籠石系山城には、こんな大きな出入口はありません。古代ここには城門があったということです。百閒石垣と呼ばれています。
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北側の宇美町から大野城へ入ると、百閒(ひゃっけん)石垣が目に飛び込んできます。ここは昔から重要な出入り口とされていました。この横を流れる四王寺川の川底から城門の礎石が見つかり、県民の森に展示されています。
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大きな城門があったのです。
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百閒石垣にある案内板です。
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小さな四王寺川から三個もの礎石が見つかっているのです。では
県民の森公園の駐車場から主城原地区の礎石群をみに行きましょうか。駐車場から出てすぐに主城原地区の集落を通り抜けます。分かれ道を左に二度曲がると案内標識があります。
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神籠石系山城には、削平された平地はありません。もちろん礎石も建物跡もありません。しかし、大野城の主城原には、発掘されているだけでもかなりの礎石群があります。
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山道を下り始めると、礎石群が見えてきます。更に先に進むと、三間×五間の同じ規格の倉庫という礎石が見えます。大きな石ですから、重い物が上に乗ったということです。
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礎石群を越えて先に進みます。陸橋のような狭い土塁の上を歩いて次の礎石群に進みます。主城原地区には広い範囲に礎石があるのです。
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大野城はせりあがるような高い土塁が取り巻いています。
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ここはずいぶん荒れた感じでした。が・・・先に進みます。
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視野が少し大きくなって二段に礎石群がありました。
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削平されていることがよくわかります。
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更に進んでいきました。
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この礎石群は視界が大きくなり大城山の山頂も見えました。
木がなければ互いの倉庫群(?)が見えたことでしょう。であれば、倉庫群を確認できる高所に設置したのは何故でしょう。米蔵を高い場所に置けば出し入れに多大な労力が必要です。それも、白村江敗戦後にたくさんの男たちを亡くした女子供が百済の指揮官の下に築城した…とは、とても考えにくいです。同じころ、水城も造られたとなれば…疑問しか残りません。ここには、「もともと山城があった」という王城神社の伝承が、心をよぎります。

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ここには、元々山城(?)があった、はずです。其処では、神祭りが行われていたそうです。
次は毘沙門堂のある大城山の山頂まで歩きましょう。そこに何があるのか、重要ですから。
それで、このまま西に進んで四王寺山の中心の谷部に降ります。遊歩道が分かりにくくなって、藪のようなところを降りました。
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ちなみに大野城で見つかった古代瓦は「県民の森の資料館」に展示されています。
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では、また明日。


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by tizudesiru | 2019-01-11 20:37 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

江田船山古墳の石棺がひび割れた・熊本県和水町

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なごみ町の皆様にこの度の地震のお見舞いを申し上げます。

写真は、2014年夏の熊本県和水(なごみ)町に在る江田船山古墳です。ここが2019年1月3日に地震にみまわれました。熊本地震による「ひずみ」の影響で震度6弱の地震がおこったらしいです。
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江田船山古墳は豪華な副葬品とともに妻入横口式の石棺が有名です。
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新年早々に残念なニュースでしたが、被害が少なくて本当によかったです。然し、江田船山古墳の石棺にはひびが入りました。

江田船山古墳は熊本県菊池川流域に在りますが、不思議なことに菊池川流域の古墳は、バラエティに富んでいます。いろいろありの地域なのです。
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家形石棺だけではなく舟形石棺もありますし、石館の装飾古墳もあります。
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菊池川中流域の山鹿市のチブサン古墳(石館の装飾古墳)が有名ですね。
江田船山古墳の近隣には塚坊主古墳もあります。同じく装飾古墳です。
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家形石棺から舟形石棺まで、菊池川流域にはいろいろあるんです。
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この流域の石棺が瀬戸内海を通って遠く関西にまで運ばれているのです。なぜ遠くまで運ばれたのでしょう。相当な人手と日数と船の技術が必要だったではずですね。運ぶ理由も。
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もちろん江田船山古墳の周囲には石人石馬も置かれていました。ここの公園に熊本各地の石製装飾品が置かれていますから、必見です。それにしても、石製古墳装飾品が置かれているということは、江田船山の被葬者も筑紫君磐井の関係者だったということになりますね。北熊本ばかりではなく中熊本も磐井の勢力範囲ということですが。

それにしても、気になることがあります。過去の自然災害です。
貞観6年(864)7月17日、富士山爆発(「日本三代実録」)
貞観11年(869)陸奥国で大地震と津波発生。
貞観13年(871)出羽国の鳥海山が噴火。
貞観16年(874)薩摩国の開聞岳が噴火。
「三代実録」は最近よく取り上げられますからご存知かもしれませんが、休火山の噴火は見逃せません。最近の火山の活動は活発だと思うのです。どのような対応を取ったらいいのか迷いますが、慌てずに行動しようとは思っています。

今年が良い年でありますように。


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by tizudesiru | 2019-01-05 16:30 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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