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宗像大社・三女神祭祀の始まりを語る大島の御嶽山

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何年前でしょうか、筑前大島の御岳山の山頂の発掘があったのは。わたしは、その事を新聞で知りました。そこで神湊(コウノミナト)から船に乗り大島へ出かけました。祭祀線を引くには祭祀場の位置は重要ですから、ぜひ現地を確かめたいと思ったのです。大島は私にとってなじみのリゾートです。夏は泳ぎに行きましたし、今はなくなっているのですが温泉施設で食事をしたり、大島マラソンの応援のためにお魚料理を食べに行ったり、なかなか面白い所なのです。
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関東の知人や客を三度ほど案内もしましたが、それは御岳山から北部九州の神山を紹介するためでした。御岳山の展望台からの眺めは最高で、晴れた日には背振・雷山・宝満・三郡・英彦山という霊山やその方向が一望できるのです。
もちろん宗像・津屋崎の山の説明をするには絶好の場所なのでした。「此処で神祭りをしないわけはない」と常に説明していたから、「なるほど」と納得してもらうのが嬉しかったのです。下の写真は、報告書をコピーしたものをデジカメで写したものです。わたしは展望台から沖ノ島を見たことはありません。見つけきれなかったのです。でも、見えるんですね、沖ノ島・壱岐・対馬が。
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御岳山の発掘場所を見学に行くと、一人の青年が黙々と仕事をしていました。誰もいないので彼に声をかけました。それから、聞いてみたのです。どんなやり取りだったのか定かではありませんが・・・
「この遺物は何時くらいですか、時代は?」
「奈良時代ですね」
「此の下には古い祭祀跡がありますか?」
「いや、此の下は岩盤ですから、是より下に遺構はありません」
私は驚くのと同時に安心しました。ここは神島で祭祀場があると思っていたからですが、同時に納得もしたのです。宗像氏の三女神祭祀が奈良時代辺りに成立したと思っていましたから。
数年たって出された報告書の最後に次のような「まとめ」がありました。
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沖ノ島祭祀の中の露天祭祀の時期と、大島御岳山の山上祭祀と、宗像大社辺津宮の祭祀期間が「7世紀から10世紀」という結果ですから、現在につながる祭祀の形は7世紀に成立したということです。そのころ「天孫を助け奉る神」となったのでしょう。
宗像大社は天孫を助け奉る神

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天孫降臨の話が出来上がったのは奈良時代のはじめでした。その頃は三女神の話が出来上がっていました。宗像氏は高市皇子を通して祭祀に関わるようになったのですね。それまで、宗像氏は三女神を祀っていたのでしょうか。それは分かりませんが・・・

このブロブでも紹介しましたが、宗像大社の西側の「名兒山」の名を名付けたのは、「オオナムチ命とスクナヒコナ命」でした。
「おおなむち すくなひこなの神こそは 名付けそめけむ 名のみを 名兒山と…」いう大伴坂上郎女の歌があります。奈良時代にはこのように詠まれ、人々の認識だったのです。では、
この辺りで信仰されていた神は、古代にはオオナムチとスクナヒコナだったのではありませんか。
時代が変わり宗像氏が入って来て、三女神に御祭神が変わったのかもしれません。または、宗像氏はもともとオオナムチ命を祀っていた、ということでしょうか。
そういえば、宗像氏の祖先神は「大国主命」でしたね。初めは祖先神を祀っていたけれど、古代に天皇家とのかかわりにおいて御祭神を変えたということでしょうか。それは、どの時代にもあることですから、不思議ではありません。
沖ノ島が世界遺産となったその事はすごく意義深い事です。が、多くの人間が背負い続けて来た歴史とは何だったのか、庶民を抜きにして沖ノ島祭祀はあったのか、武器をもって奉献品としたのにはどんな意味があったのか、「いうべからず」を守ってきた海人の歴史を語ることができるのか、九州の歴史の真実を語ってくれるのか、沖ノ島は大きな位置にあるのです。
白石太一郎さんは「沖ノ島祭祀は、糸島の豪族とヤマト王権と宗像氏が始めたのではないか」と云われているらしいです、ご本人から聞いたことはありませんが。 

四世紀にヤマト王権ですか? 私にはここが不思議なのです。卑弥呼の次の世代か、その次の世代にはヤマトが沖ノ島祭祀をしていた? そんなわけはないでしょう。
奈良時代・平安時代だって、九州を治めきれていなかったのではありませんか?

私は、津屋崎古墳群の有力者が沖ノ島祭祀をしていたと思います。何のために? それは半島に渡るためです。新羅への侵攻には安全な航海が必須であり、戦勝祈願は当然でした。
つまり、倭五王は九州から船出したのです。初めは有明海からですが、北部九州に勢力を広げた狗奴国が勝浦から船出するようになり、5世紀には渡半島からの船出も多くなったと思います。現代の感覚では新羅への侵攻を支持するわけにはいきませんが、それは歴史の事実だと思います。
では、このへんで。

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by tizudesiru | 2018-12-29 11:22 | 359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群 | Trackback

元は縫山だった?縫殿神社は奴山に在ります

先日、遠慮してお参りしなかった須多田天降天神社に行きました。
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ここは、須多田古墳群の一つです。
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後円部が少し盛り上がって見えます。この古墳の正面に、須多田ミソ塚古墳があります。
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今日は奴山の正園古墳(円墳)を訪ねる予定でした。此処は、以前は奴山5号墳と呼ばれていました。あいにくの雨となったので、近くの縫殿神社に行きました。
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奴山は、元は縫山だったのでしょうね。
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更に上宮がありましたが、遠慮しました。
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あたりは静かすぎて、里山なのに深い山の中のように感じられました。
階段を下りようと下を見ると、黄葉が散り敷いていました。明日が冬至です。

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優しい色合いに心慰められて、雨の中を帰りました。
古代にここを治めた首長は、正園古墳に眠っているのでしょうか。以後の写真は正園古墳の副葬品です。

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初期須恵器器台と鉄針及び筒形銅器片。
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三角板革綴短甲。では、古いタイプの甲冑になります。それと、鉄製農耕具。
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棺外に、鉄製武器がたくさんあります。
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他に玉類もあります。
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地方の豪族の小さな円墳(32m)ですが、副葬品がたくさんあるのですね。
晴れてる日に訪ねたいと思います。縫殿神社の近くです。

では、また。


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by tizudesiru | 2018-12-21 22:58 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎古墳群・須多田、奴山の首長達は海を見ていた

津屋崎古墳群を訪ねたのは、須多田天降天神社を確かめるためでした。以前も集落内の道が分からなくて引き返したのです。今回は見つけられると思っていました。
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須多田古墳群の中ですぐに見つかるのは須多田ニタ塚古墳です。畑の中に取り残されています。
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此処は初期横穴式石室を持つ円墳で土師器が出土していますが、須恵器は見当たりません。鉄塊(鋳鉄)が出土しているのに、須恵器は見当たらないのです。
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上、報告書の写真「金属学的調査」を参考までにコピーしました。
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初冬の穏やかな光は、広々とした田園風景にあふれていました。
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西北には渡半島が見えています。古代、須多田と渡の集落の間には内海が入り込んでいましたから、一面青かったでしょうね。此処で、須多田集落の方を振り向くと、須多田ミソ塚古墳が見えました。前方後円墳であることは直ぐに分かりますが荒れた様子です。
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上の写真の右端の辺りに須多田天降天神社古墳があるはずです。
そのまま須多田集落にに向かうとすぐに須多田下ノ口古墳が見えます。須多田下ノ口古墳とミソ塚古墳からは、須恵器が出土しています。
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須多田下ノ口古墳には仏堂は建てられていますので、発掘されたのは周囲だけでしょうか。
ここからは、須恵器の他に刀子・勾玉・土師紀が出土しています。
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集落の中なので入りませんでしたが、須多田上ノ口古墳があります。
また、須多田宮ノ下古墳には土師器・鉄剣・直刀・鉄鏃・砥石が出土しています。鉄製品が多いのに、須恵器はないのでしょうか。
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須多田古墳群は上記のように、とても魅力的な処です。
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帰りに立ち寄ったのが、新原・奴山古墳群でした。奴山古墳群の22号墳の前から、須多田方面を眺めました。南奥から宮地岳・在自山・対馬見山と連なっています。山地の東は宗像市で、東郷辺りでしょうか。

津屋崎の山々は決して高くはありませんが、山を挟んで様子がやや違っています。もともと住んでいた人の首長が津屋崎古墳群を築いたとなっていますが、津屋崎側は決して広い土地ではありません。古墳を築く財力の基盤は何だったのだろうかと思います。

上の写真の左の林の中にある小さな墳丘は奴山古墳群・6世紀後半の群集墓だそうです。
では、奴山古墳群を少し散歩します。
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15号墳はまだ修復中でした。その隣は、22号墳です。
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22号墳(ホタテガイ式前方後円墳)には樹木が生い茂っています。此処には、縫殿(ぬいどの)神社がまつられています。
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縫殿神社と向かい合うのは、20号墳(円墳)です。
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奥に、前方後円墳。
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24号墳でした。
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どんどん歩いて東側に戻り道路を渡ると、25号墳が見えます。
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25号墳は奴山古墳群中で最大(35m)だそうです。樹木がないので、ここから勝浦の集落・勝島・草崎が見えます。この丘は選ばれた場所なのでしょう。
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更に、30号墳などが続きますが日も傾いたので帰ることにしました。
津屋崎古墳群が展開するのは、歩けばさわやかな風が通る台地です。
晴れた日は最高ですね。   では、又。


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by tizudesiru | 2018-12-17 16:33 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎の新原・奴山古墳群は宗像氏の奥津城ですか?

福岡県福津市の津屋崎古墳群に行きました。最近、沖ノ島関連遺産群となったので、歩きやすいように整美されています。
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津羅崎海岸に立つと相ノ島が青く浮かんで見えて風は穏やかでしたし、海にはウィンドサーフィンを楽しんでる人がたくさんいました。
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西には福岡市の立花山や志賀島が見えていました。
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北西に連なるのは渡半島、東には津屋崎の山が南北に連なります。南から宮地岳・在自山・対馬見山と続きます。
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在自山(あらじやま)の麓には「在自剣塚古墳」がありまして、そこから北に向かって、津屋崎の山並みの麓には古墳群がつながります。
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その山並みは、東の名兒山・桂岳までつながるように見えますが、間に断層があり、ここから宗像側に入ることができます。津屋崎古墳群は断層地形を挟んで勝浦地域と津屋崎地域に広がっているのです。
奴山古墳群は勝浦側も津屋崎側も望む位置に造られています。
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写真では道沿いに連なるのが奴山古墳群の群集墓です。海に浮かぶのは左が大島、中央が勝島、右に見えるのは島ではなく草崎という岬です。
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奴山古墳群の眺望のきく場所に展望台が造られていました。
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津屋崎山地がびっしりと連なるので宗像地域とはながく行政区は別でしたので、ここが宗像市の奥津城とは思えないのですが、世界遺産登録の時「関連遺産群」になりました。しかし、勝浦峯ノ畑古墳の副葬品は、沖ノ島と関係が深いので、関連遺産であることに間違いはないと思いますが、宗像市の奥津城と決めるには無理があるかなと思いました。
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展望所にはボランティアの方がおられて親切に案内されていました。遺跡で表採された須恵器と円筒埴輪の破片が置かれていて説明されていました。
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夕方近くなりましたが、そぞろ歩きしましょうか。
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スタートは板碑となりましたが、あとは、また明日。
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スタート地点から南を見ると、対馬御山・在自山・宮地嶽が連なっていました。

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by tizudesiru | 2018-12-17 00:37 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

古墳の時期を決めるのは墳丘の形・副葬品・埴輪・須恵器・石室ですか

「須多田天降天神社の築造時期について」

須多田天降天神社古墳が6世紀半ばに築造されたという、公的機関の認定に私は疑問を持っているのです。それは、「須多田天降天神社古墳は6世紀半ばに築造」に対してだけではなく、津屋崎古墳群全体の築造時期について疑問があるのです。副葬品や出土物・須恵器や・装飾大刀などから新旧の順番は地域内で比較検討して古墳群の時間的位置付けは他地域と比べれば何らかの答えが見つかると思います。

とはいえ、時期が確定される古墳がないのです。いえ、たった一つ指標になる古墳があります。それが岩戸山古墳です。岩戸山古墳とその周辺の古墳を天降天神社古墳を比較して、その時期を考えてみましょう。
(1)須恵器を比べる

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確かに、①須多田ミソ塚と➁下ノ口と③天降天神社の須恵器には違いがあります。どれが古いタイプかと云うと③の須恵器です。時に、①ミソ塚の須恵器は全国に展開している「はそう」文字は(瓦+泉)が出土しています。この須恵器の胴に穿孔(せんこう)がありますから、儀式用に作られたものです。穿たれた穴に竹の筒を差し込み酒などの注ぎ口としたのだそうです。葬送の儀式が整ってきた時代にミソ塚古墳は造られたことになります。

では、①ミソ塚古墳が③天降天神社古墳より新しい古墳であることを、八女丘陵で確かめます。

岩戸山博物館に5世紀の丸山古墳(右)と6世紀の釘崎古墳(左)の須恵器を展示しています。

明らかに5世紀の丸山古墳が古く、形も天降天神社古墳の須恵器に似ています。

6世紀になると、須恵器の形式も複雑になり、かつ大量に副葬されるようになるのです。

更に、6世紀には特徴的な「はそう」が付いてきます。「はそう」を出土する古墳の方が新しいのですね。

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6世紀の古墳には「はそう」が出土しますね。童男山古墳(左)や立山山13号墳(右)は「はそう」を伴い須恵器の種類も多いので、より新しい古墳になります。蓋つきの容器といい、焼成技術が上がっています。

 

これらの事実を総合的に見ると、天降天神社古墳の築造時期は6世紀ではなく、5世紀の様相です

(2)埴輪で時期を確かめる

では、次に埴輪をみましょう。

5世紀半ばとされる勝浦峯ノ畑古墳には形象埴輪は出ません。円筒埴輪の欠片がわずかに出ています。葺石はありますが、古い形式の古墳であることが分かります。次の写真が埴輪片です。

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峯ノ畑古墳には埴輪・葺石・革綴短甲などを出土していますが、須恵器は見当たりません。ですから。八女丘陵の丸山古墳(5世紀)より古い古墳になります。大量の鏡の副葬といい石室内の赤色顔料といい弥生の伝統を色濃く残しています。古墳としては、糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀・柄鏡形前方後円墳)に続く時期となりましょう。(一貴山銚子塚には馬具の副葬はありません。)

また、峯ノ畑の墳形も方墳部があまりバチ形に開かない柄鏡形に近く、一貴山銚子塚古墳と似ています。峯ノ畑は葺石・埴輪はありますが、形象埴輪は確認されていません。まだ、初期の段階なのです。5世紀中頃とされる「勝浦峯ノ畑古墳」は、本当に5世紀中頃としていいのでしょうか。

では、天降天神社と比べましょう。此処には円筒埴輪と朝顔形埴輪(?)らしきものが出ています。須恵器の器台も出ていますから、峯ノ畑より新しい古墳となります。では築造時期は?

(3)峯ノ畑古墳の副葬品で築造時期を探る。

この峯ノ畑古墳は確かに横穴式石室ですが、石室に石柱が建てられた国内ただ一つの古墳です。
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然も、数多くの鏡と鉄刀を副葬する古墳で、この時期の古墳では最大級の量です。

更に、ここでは挂甲が出土していませんから、同じ古墳群の勝浦井ノ浦古墳(挂甲出土)より古いと判断されています。そして、何かわからなかった金属片が精査の結果「龍文透彫金銅製冠帽」「銅釧」であることが判明しました。疑いもなく首長の墓だったのです。

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この古墳には三角板革綴短甲が確認されていますが、革綴りですから時期は古くなります。首長は最新のものを手に入れたでしょうから。革綴短甲は重要な手掛かりです。

副葬品の多さを見ると力のある首長であることが分かります。その人が海を臨む地に埋葬されたのですから海外と関わりがあったことになり、それも大量の武器武具からして武力をもって渡海したことになりましょう。彼は倭五王時代の人で、5世紀半ばではなく副葬品から見ると4世紀の人でしょう。4世紀の短甲には既に「鋲留」の技術が施されていますから、「革綴」短甲の時期はその前の技術なのです。遅くとも4世紀末でしょうか、5世紀初頭では技術的な面で不合理です。

峯ノ畑古墳の築造時期は4世紀の中頃か、4世紀の末になるでしょうね。

天降天神社古墳は峯ノ畑古墳より新しいけれど、6世紀半ばまで下がることはないと思います。

(4)墳形で天降天神社古墳を考える

さて、一貴山銚子塚古墳と勝浦峯ノ畑古墳は、前方部が広がっていないと書きました。然し、天降天神社古墳の前方部は裾が広くなっています。図14を見ると、新原・奴山12号墳とほぼ同じ形です。天降天神社古墳は、ほぼ同じ時期の築造と考えていいと思います。新原・奴山12号墳はほぼ5世紀中頃だそうですから、天降天神社古墳も5世紀に入れてもいいでしょうか。

墳丘の形を見ると、天降天神社古墳は5世紀築造の古墳に入ると思われます。

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勝浦峯ノ畑古墳の墳丘測量図も見ましょう。何カ所かトレンチして、図面におこしてありますから、全くこの通りだったかは分かりませんが、残っている地形も反映されているでしょう。前方部の裾がだんだん広がっていくと後期の古墳になると思います。

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須恵器と埴輪と副葬品と墳丘の形で、古墳の築造時期を考えることは可能だと思います。
と、いうわけで、須多田の天降天神社古墳の築造時期は、6世紀半ばではなく5世紀に入ると思います。
それが、今日の結論です。
では、この辺で。



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by tizudesiru | 2018-12-11 00:25 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎古墳群・天降天神社古墳の築造年代を考える

たいへん面白い質問をいただきました。

旧津屋崎町の須多田天降天神社古墳は如何なる古墳ですか?

福岡県福津市にある津屋崎古墳群の中の天降天神社古墳が「どんな意味を持つ古墳か」というご質問ですが、一言では言いにくいですね。

まず、津屋崎古墳群が宗像氏の奥津城であるかという疑問もありますし、耕地面積の少ない(勝浦・津屋崎地域には内海が深く入り込み田畑の面積が極端に少なく、古代の海岸線に古墳が築造されている)土地で何をして財政の基盤としたのか、人はどのように食料を得たのか、首長は何を以って統治しえたのか、等々疑問がありすぎるのです。

何もわからないのに、古墳だけ見るわけにもいきませんからね…

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「図2」でも分かるように、古代の福津市も宗像市も内陸に海が入り込んでいます。この後、陸化していくのですが、奈良時代になっても津屋崎から勝浦にかけて海でした。この状況では耕作地はほとんどなく、この土地で大きな人口を養うことはできません。では、大きな古墳を作った首長は何を握っていたのでしょうか。墳丘墓を作るには経済力が必要ですから。そして、津屋崎を選んで墳丘墓を築いた理由は何だったのでしょうか。この疑問を持ちながら、須多田天降天神社について考えます。
(1)須多田天降天神社は、何処に何時築造されたのか

津屋崎古墳群では、北の勝浦古墳群から南に下るにしたがって時期が下ります。南に降りるにしたがって新しい古墳になるそうです。須多田古墳群(天降天神社・あもりてんじんじゃ)は南側にありますね。6世紀の古墳になるそうです。

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津屋崎古墳群の中で、天降天神社は⑦の位置に有ります。

古代にはすぐそばに海があったでしょう。近くに4基の前方後円墳があり、近くに在自剣塚古墳があります。

古代の須多田の地は内海に面しますから波は穏やかで船を停留するには良い所だったでしょう。東西1キロ~南北1キロの狭い範囲にある須多田の4基の前方後円墳は同じ一族の墳墓と思います。

近くに新原奴山古墳群がありますが、須多田古墳群との関係はどうなるでしょうね。親族関係もあったかもしれませんね。

さて、これらの古墳の築造時期は何時とされているのでしょう。

「国指定史跡 津屋崎古墳群 保存管理計画」(福津市教育委員会)によれば、次のような時期が提示されています。

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津屋崎古墳群は大型化する中期(5世紀)から造営された、となりますね。それも、勝浦峰ノ畑古墳は横穴式石室で100mの前方後円墳とは、いったい何が起こりこの結果となったのでしょう。しかも、沖ノ島の奉献品の鏡と同笵鏡を副葬しています。航海の安全を願った奉献品と同笵鏡です。

此処で考えられるのは、「勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀をしていた」でしょう。何のための航海だったか、それは新羅への侵攻です。新羅本紀にある「倭兵・倭・倭軍・倭国」の進行です。5世紀に倭兵は勝浦から船出した、となります。

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それは、勝浦の地名からも容易に想像できます。外海に面して長く伸びた半島は「渡(わたり)半島」、大陸や新羅に渡るという意味です。勝浦港の岬は「草崎(くさざき)」、戦崎(いくさざき)ともいえましょう。草崎の先に浮かぶ島は「勝島」で、勝浦集落の背後の山は桂(かつら)岳。漢字が桂になっていますが、もとは「勝浦岳」でしょうね。

此処にそろっているのは「勝」という言葉です。戦いに勝つと云う強い願いが込められていると思います。5世紀、半島に侵攻したのは倭の五王でしたね。

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そうして、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群は造られたのです。

さて、6世紀になって須多田古墳群の時代になるのですが、天降天神社古墳には須恵器と人物埴輪が出土しています。勝浦峯ノ畑古墳からは円筒埴輪の欠片が出土していますから、埴輪はあったのです。

然し、形象埴輪(人物や動物、道具などの埴輪)はありません。

つまり、後期の古墳から形象埴輪は出土するのです。ほぼ6世紀の古墳から様々な形象埴輪が出土すると、考えていいでしょう。

天降天神社の人物埴輪は椅子に腰かけています。このスタイルは明らかに支配者のようです。然し、6世紀の他の地域の首長の埴輪のように冠や甲や鎧や祭祀具や大刀は見当たりません。そういうものを持たない時期の埴輪でしょうか。然し、意味もなく人物埴輪を作っていないはずです。有力者の家族だったのかもしれません。または、大人になる前、武人になる前に死亡したのかもしれません。

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更に、須多田天降天神社からは、初期須恵器が出土していますが、これも重要です。須恵器は畿内から広がったとされますが、そうでしょうか。新原・奴山古墳群では1号・7号・12号・22号・30号から須恵器が採集され、1号から鍛冶具が出土しています。高温で焼ける窯はあったのです。6世紀の天降天神社古墳の時代に須恵器がないわけはないでしょう。

福岡県の須恵器は6世紀からというのが定説のようですが、それは違うでしょう。この事については、また明日。

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資料として『津屋崎古墳群Ⅱ』勝浦峯ノ畑古墳、などの報告書を使わせていただきました。

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by tizudesiru | 2018-12-09 22:52 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

群馬県藤岡市の古墳文化はいつ始まったのか

古墳文化の始まりと終焉を群馬の古墳群が教えてくれる、と旅をしながら思いました。
藤岡歴史博物館も指摘している通り「群馬の縄文時代は長く続き、弥生時代は短い。そこへ古墳文化が流入する」という状況なのです。

群馬における目覚ましい古墳文化の発展と浸透から、何かが起こった、と私は思います。
少し、思い出しましょう。
初めに訪問した藤岡市の白石稲荷山古墳の主体部は竪穴式礫槨でした。同じ前方後円墳の七輿山古墳は横穴式石室らしい(新聞記事)ですから、藤岡の場合、古墳文化は白石稲荷山辺りから始まったのでしょうか。猿田川の水系は古代の人たちの重要な足(交通手段)だったのですね。藤岡の古墳群はほとんど川沿いに在ります。
川沿いの豪族が力を持ったのでした。
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猿田川流域の白石稲荷山・皇子塚・平井1号・七輿山古墳とめぐってきました。
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四か所の古墳はすでに紹介しています。では、伊勢塚古墳を紹介します。
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藤岡市上落合字岡三一八 に有ります。七輿山古墳(上落合)と同じ上落合です。
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小さな古墳ですが、川原石を積み上げています。川を交通路として使うためにも川原石は除かねばなりませんからね。人手をかけて、川から運んだのですね。石室の中もびっしり川原石です。
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墳形は、円墳ではなく二段築造の不正八角形墳だそうです。玄室は胴張(どうばり)で丸く膨らんでいます。九州のある地域も石室が胴張です。出土物は、須恵器と埴輪。6世紀後半の古墳だそうです。伊勢塚古墳の石室入口から七越山古墳が南に見えます。同じ氏族の墓でしょうか。副葬品は見つかっていません。持ち出されたのでしょうね。
藤岡の古墳文化は短い時間で瞬く間に変化したことになりましょうか?

群馬の文化度が高かったことは理解できますが、変化の速さには違和感があります。他からの影響があったとしても、ほぼ中期・後期の古墳文化が一度に流入するとは理解しがたいです。
弥生後期の墳丘墓から初期古墳へと云う変化の過程が見えないのも不思議、それだけに興味がわきます。
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それにしても、5世紀前半という白石稲荷山古墳(175m)の前方部は横幅が広いですね。初期期の古墳は、もうこんなに裾が広がっていたのですかね? 更に、陪冢(ばいちょう)は、四角の方墳です。臣下や一族の人は、方墳を作ったのですね。主人は前方後円墳、その下につながる者は方墳、そんなルールがすぐにできていたということですか?
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円墳の皇子塚古墳は六世紀で、横穴式石室でしたね。 
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須恵器が置かれますから、6世紀と考えられたのでしょうね。
須恵器と横穴式石室は6世紀? 何を基準に古墳をみたらいいのか考えます。
平井一号墳の須恵器は、関東での生産ですよね。では、埴輪窯がその技術を進化させて作ったということでしょうか。

そうそう、気になるのは埴輪です。初期の白石稲荷山の時代に、葺石・朝顔形円筒埴輪・形象埴輪は始まりから古墳の必需品として存在した、のですね? 
形象埴輪が現れるのは6世紀からだと教えられてきたのですが・・・すっかり5世紀になっていますね。
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藤岡は埴輪の供給地だったそうで、各地に埴輪を出荷しているそうです。大きな供給地だったらしく、地域の一大産業になっていたのですね。その後、須恵器窯から瓦窯へと発展し近代まで瓦製造業が継承された、となります。千年以上産業が続いたとは、なかなかないこと、スゴイことです。

古代には埴輪産業で築いた富で、古墳が作られたのでしょうか。つまり、一斉に大きな古墳が作られて大きな需要があり、それが産業になった…どちらが先でしょうね。
埴輪造りの技術を持ち込んだ人たちは猿田彦を祀る人々で、墓制は舟形石棺を持ち込んだ、と思うのです。
更に言えば、その人たちは近畿の人ではないと思います。九州の人たちだと思うのです。

古墳文化が何時、群馬に入ったのか、それを考える手がかりが平井1号墳に有ります。勾金の大刀の時代です。
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束にサーベルのような金具が付いている大刀です。埴輪になっていますから、権力者の象徴的な持ち物だったのでしょう。

古墳を眺め見ているだけの私ですが、古墳時代の始まりが近畿の箸墓だとはどうしても思えません。

各地の古墳を見ても、遺物や副葬品が交差している上に時期の特定が資料館ごとに差があるので、何処が発生なのか出土遺物を頼りに古墳を考えることもできません。
さらに、古墳の形から考えることも、大きさから考えることも、できません。
畿内の大型でバチ形に後円部が広がる箸中山古墳を三世紀としたので、全国の古墳の時期時代を図る目安がなくなったのです。

ピラミッドにしても、武器型祭祀品にしても、弥生墳丘墓にしても、忽然と超大型が現れることはありません。ほとんど、だんだん大型化し最盛期を迎え、終末期に向かって小さくなり少数になっていく、それが自然だと思います。
そんな基本的な流れを遮断するのが、政変であり内乱でありましょうが。
群馬の古墳はそのあたりを解明するカギを持っていると思うのです。

群馬の旅は、まだまだ続くのです。

此処で「七輿山古墳の羊太夫伝承」について少し紹介したいことがあります。
羊大夫は実在の人ではないか、それも奈良時代の多胡碑に名のある人ではないか、ということ。
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上野の三碑は有名ですね。中でも一番古いのが多胡碑です。
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次のように文が残されています。


弁官符上野國片罡郡緑野郡甘  良郡并三郡内三百戸郡成給羊 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅 宣左中弁正五位下多治比真人 太政官二品穂積親王左太臣正二 位石上尊右太臣正二位藤原尊

訳すると、

弁官局からの命令である。上野国の片岡郡緑野(みどの)郡甘良(かんら)郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年3月9日甲寅711年4月1日に宣べられた。左中弁正五位下多治比真人。

知太政官事二品穂積親王、左大臣正二位石上麻呂、右大臣・正二位藤原不比等。

碑銘文に「多治比真人・穂積親王・石上麻呂・藤原不比等」のことが彫られていますから、碑文が彫られたのは奈良時代になります。この四人は万葉集に名前がありますね。
七輿山古墳の伝承は何時の時代だったのかというと、多胡碑の時代であれば「羊(ひつじ)太夫の伝承は奈良時代」になり、羊太夫その人に悲劇が訪れたとなります。彼等は七輿山古墳の被葬者の親族だったので先祖の墓に来て自害したとなります。・・・落合の地名も納得です。
多胡郡を賜わった羊は、「よう」と読まれ、渡来人説が有力です。然し、女房を七輿山古墳に葬ったのですから、古墳の被葬者一族と無関係とは思えません。やはり、「よう」ではなく伝承のように「ひつじ」太夫なのでしょう。
そして、近くの舟形石棺の主もこの一族の祖先でしょうね・

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此処でもう一つ、気になる遺物「評首と彫られた土器」があります。

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平安時代の住居跡から出て来たという土器に刻まれていた「評首」こおりのおびと。評(こおり)と呼んでいますが正確な読みは不明で「こおり」と読んだであろうという説で「評」は「こおり」となっています。「評」は701年の大宝律令が成立するまでの行政区と云われています。評が「郡」に変わったのだそうです。
平安時代は大宝律令から70年以上たっていますから、当然「評」という行政区はありません。
然し、「評首」という名称なり役職の呼び名が残っていたということでしょうか。
刻書土器の持ち主は「こおりのおびと」に格別な思い入れがあった、その呼び名を使うことが誇りだった、ということでしょうか。または、奈良時代の後期・平安時代の初期になっても「評」という行政区が使われ続いていた、のでしょうか。

ふむ、群馬はなかなかミステリアス。
長い群馬のたびに御付き合いくださってありがとうございます。
では、また明日。

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by tizudesiru | 2018-12-06 23:54 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback(19)

七輿山で落ち合った7人の女房伝説と宗永寺舟形石棺

群馬の古墳探訪の旅、藤岡市を歩いているところです。
皇子塚古墳のある丘を北に降りると、くぼ地が見えました。そこは七輿山古墳の周濠でした。
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七輿山古墳(145m・前方後円墳)大きいので全体がつかみにくいですね。濠は内と外に二重に巡り、その堤には、円筒・朝顔形円筒・人物・馬・盾などの埴輪、他にも須恵器や土師器が置かれていました。
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藤岡歴史資料館に七輿山古墳の埴輪が展示されていました。
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館長さんのお話によると、「円筒埴輪に七本の筋があります。これは、被葬者の身分が高いことの証」ということでした。七条凸帯というそうです。6世紀前半の古墳だそうです。後円部は東、西の前方部が広いですね。
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七輿山古墳には「羊太夫(ひつじだゆう)」の伝承があります。

奈良時代に新設された多胡郡(たごぐん)を賜わった羊太夫は、八束小脛(やつかのこはぎ)という神童の引く天馬に乗って朝廷に日参していました。ある日羊太夫は悪ふざけで小脛の両脇に一本ずつ生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷に日参できなくなりました。朝廷は羊太夫が謀叛(むほん)を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので「七輿山」という名前が伝えられているのです。

羊大夫一族は、ここまで逃げてきて落ち合ったのに、7人の女房は自害したのですか。なんとも悲しい伝承です。七輿山古墳の東にお寺があって、そこに舟形石棺があります。舟形石棺と云えば、九州の熊本が発生でしょうか。気になる伝承と舟形石棺ですよ。
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舟形石棺は、古老の伝えでは宗永寺裏東塚古墳にあったのもだそうです。それが宗永寺山門の西南方向35mにあった天神山古墳の墳頂に移され、現在は寺の境内に置かれているのです。転々としたのですね。
凝灰岩で作られていますから、石棺製作の石材の伝統が伝播しています。
最初に作られたのは、小さな古墳だったのでしょう。それでも、石材の伝統は守ったということですね。
それにしても、宗永寺の石棺は熊本の舟形石棺に形が似ていますね。
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七輿山古墳、なかなか面白かったですね。地名は、上落合字七輿です。
では、又明日。


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by tizudesiru | 2018-12-05 00:00 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback(8)

九州と共通する葬送儀礼と石積み技術を持つ皇子塚古墳と平井1号墳

古墳時代の時間迷路の中、導かれるままに群馬の旅を続けています。藤岡歴史博物館の正面に見える皇子塚(おうじつか)古墳に立ち寄りました。中央の丸い木の後ろの古墳がが皇子塚古墳になります。その左横が平井地区1号古墳です。この双方の古墳から装飾大刀が出土しています。
皇子塚古墳には、単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)が石室の外に置かれていました。この大刀は、何を教えてくれるのでしょう。
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藤岡歴史博物館に、二つの古墳の紹介がありました。
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皇子塚(おうじつか)古墳は、径31mの小さな円墳です。横穴式石室(全長8.33m)があります。玄室は3.52mの長さがあります。
皇子塚古墳の墳丘には、円筒埴輪のほか、朝顔型・人物・馬・盾・靫(ゆぎ)・大刀・鞆(とも)などの埴輪が出土しています。石室から、人骨・馬具・ビーズ玉・鉄鏃・耳環が出土し、前庭から単龍環頭大刀の柄頭、須恵器、甕、坏などの土師器(はじき)6世紀後半とのことです。
単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)は、石室内ではなく、外の前庭にあったのです。この頃は、大事な宝物と云うより、魔除けの道具だったのでしょうか
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径31mの円墳で四段築造、葺石と埴輪・周濠が確認され、南東に開口する両袖型の横穴式石室(8.33m)、前室(1.89m)玄室(3.52m)のある副室構造で、羨道(せんどう、2.64m)の前には細長い墓道状の前庭が付設していました。
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群馬では、切り石の横穴式石室でも副葬品に飾大刀(装飾大刀)なのですね。6世紀後半の四段築造の皇子塚古墳に、形象埴輪と飾大刀と横穴式石室が伴うのですね。玄室は凝灰岩の切り石の互目積(ごのめづみ)、前室は川原石の乱石積です。凝灰岩が石室に使われた理由は何でしょう? 九州の石棺が凝灰岩であることとつながるのでしょうね

さて、隣の平井1号墳(径24m)は、横穴式石室を持つ円墳です。
玄室の壁は、凝灰岩の切り石で、互目積(ごのめづみ)で「随所に稚拙な切込みの手法を取り入れています。」と図録に有りますから、切り欠き加工を取り入れようとしていたのでしょう。
ますます、九州の6世紀の技術と共通しますね。
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皇子塚古墳の隣の平井1号墳は二段築造の円墳ですが、二本の装飾大刀が石室の奥壁から並んで出土しています。
金銅装単鳳環頭大刀(こんどうそうたんほうかんとうたち)、柄の環に鳳凰の飾りがあります。
もう一つは、銀象嵌円頭大刀(ぎんぞうがんえんとうたち)で、柄の頭が丸く膨れ、そこに銀線で象嵌が施されています。

皇子塚古墳の方が格式が高いのでしょうか、墳丘が四段築造ですから。それに、装飾大刀は石室の外に在りましたし、特別の宝物だったとは思えません。然し、平井1号墳の二本の大刀は、石室の奥壁から出土しています。完全な形での出土でした。
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藤岡歴史資料館の図録を見ると、家形埴輪にカツオギがあります。神祭りの館なのでしょうね、更に、大刀形埴輪には、勾金が付いています。群馬の古墳では、この勾金のつく大刀の埴輪がいたるところで出土しています。
これは、実に意味深です。
平井1号墳が造られた時、勾金の大刀は古墳の大刀の象徴になっていた。大刀・盾・靫・鞆・家・
歴史資料館にあった大甕は、この平井1号墳の墳頂から出土したものでした。墳頂に甕が置かれるのは、九州と同じです。勾金のついた大刀の細かな描写といい、実に興味深い図録でした。
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皇子塚古墳の西は広い芝生になっていて、藤岡歴史資料館(右)が見え、中央奥に白石稲荷山古墳が見えています。この広場の西の端では、発掘が行われていました。

掘っ建て柱の跡と土器片が見えました。地面からさほど深くないところにこの遺跡はあるのですね。
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では、いよいよ七輿山古墳を見に行きましょう。発掘の行われている処の奥、竹林の向こうの崖下に、七輿山古墳はあるのです。
では、また明日。
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by tizudesiru | 2018-12-04 00:08 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

白石稲荷山古墳の家形埴輪は倉庫ですか?

古代史の迷路を辿って群馬を旅しました。群馬には古墳時代の始まりと終焉を解くカギがあります。
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此処は、群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳(前方後円墳・175m)です。
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白石稲荷山古墳は、藤岡歴史資料館と同じ丘陵・台地上に在ります。白石古墳群の中心的位置に在るのが、白石稲荷山古墳でしょうか。この古墳のすぐ横、眼下を流れるのが猿田川です。なんとも意味深な川名です。古代にはこの辺りの神が猿田彦だった? 猿田彦を祀る人たちがここを開拓した? 小さい川ですがすぐ近くの大きな川と合流するので、川舟が行き来したのでしょう。この川を使って埴輪が他へ運ばれたらしいです。橋が見えますが、これが猿田川。左奥の林の当たりは落合といい、川の合流点です。
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では、白石稲荷山古墳(175m)にお邪魔しましょう。
白石稲荷山古墳の北側の広い空間には陪冢がありました。十二天塚古墳・十二天塚北古墳です。
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この前方後円墳は、辺りから目立つ場所に在ることが分かります。眼下に猿田川がありますが、古墳のすそを通るのでここからは見えません。
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家形埴輪が出土しています。屋根の形が立派ですね。
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後円部の墳頂には説明板がありました。前方部はこの墳丘の南にあります。
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全長175m、後円部92m、くびれ部幅50m、前方部148m。墳頂部に二つの竪穴式礫槨、出土遺物は鏡・直刀・装飾品類・石製模造品(石枕・刀子・案・杵・坩・箕・剣・勾玉・履(げた)など)ほかに、家・短甲などの埴輪が出土しています。
写真は、埴輪寄棟倉庫と書かれています。倉庫にしては立派です。倉庫であれば、屋根を立派にする必要はありません。この「寄棟倉庫」は窓がないので、「倉庫」と判断されたのでしょうね。薄暗い空間で神祭りの儀式などやっていたような気がしました。神や祖霊は暗い所に居て姿を見せませんから・・・
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墳丘の北は平らな丘ですが、ここには陪冢である十二天塚・十二天塚北古墳があったのです。ですから、猿田川にかかる橋名は「十二天橋」でした。
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猿田川の水量は多くはありませんが、ゆったりと流れていました。
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右の斜面は、白石稲荷山古墳の前方部です。
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猿田川は落合に向かって流れていきます。
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南から北に流れる猿田川。左岸の林が皇子塚古墳です。
明日は、皇子塚古墳を訪ねます。では、また。


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by tizudesiru | 2018-12-02 11:49 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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