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倭王珍が安東大将軍を望んだ理由

438年、倭王讃没して、弟珍立つ

珍は宋に朝貢して、「使時節都督倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と自ら称し、上表して除正を求めました。兄の路線を継承したのです。
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438~443年(?)、倭王珍の治世は5年ほどです。

珍は兄の後を継承したのですから、没したとき高齢だったと思います。彼も高句麗を仮想敵国として軍事に力を入れたようです。
倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国諸軍事の将軍となろうとしたのですが、ここに高句麗の国名はありません。六国は同盟国でも、高句麗は倭にとって敵国だったのです。

さて、倭王珍も一番に取り組んだのが、宋の冊封体制に入ることでした。

438年、倭王珍は宋に朝貢し上表して除正を求めました。
(この後、珍は数年で没し、済が倭王となりました)


443年、倭王済、宋に奉献し安東大将軍倭国王の称号を与えられました。倭は、忠誠を誓いました。百済も宋に入貢しています。済も珍同様、高句麗を入れませんでした。

450年、高句麗が新羅を討ちました。新羅は高句麗の援助で倭を討った(400年)こともありました。が、時が経ち北魏が勢力を拡大したので、おされて高句麗も南下して新羅を脅かしたようです。新羅は身の危険を感じて百済や倭に近づきました。

451年、倭王済は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」を宋から賜りました。宋の文帝紀では、安東将軍から安東将軍に進号(位を進めた)となっています。半島の状況が、新羅も倭を頼り、宋もそれを認めたと云うことです。

新羅本紀によると、倭王は長く新羅と対立していた

倭の新羅への出兵をみると、400年前後は多いようです。400年、新羅は高句麗の援助で倭を討ちました。新羅は高句麗とよしみを通じていたのです。然し、450年、高句麗が新羅を討ちました。その後、451年に倭王が安東大将軍となった後にも増えています。
倭王は新羅を500年まで攻め続けるのです。

新羅本紀の年表で「倭人の度重なる侵攻」を再度確かめましょう。

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高句麗が軍事に力を入れる理由は、中国との関係で度々侵攻を受けていたからです。「中国が出てくる=高句麗が南下する=新羅が百済に侵攻する」
単純な構図ではありませんが、中国の軍事力は強大でした。

結果として、高句麗が倭王の敵国となったのです。


倭王珍は書紀の何れの天皇にあたるか、探してみましょう

数年で没した天皇は、安康天皇(穴穂皇子)です。

安康天皇は允恭天皇の第三子で、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を自滅に追い込んだ人でした。

また、叔父である大草香皇子の妹を「息子(大伯瀬皇子)の妻に迎えよう」と使いを出しましたが、使いが嘘をついて『同族だからと云って、どうしてわが妹を天皇の息子の妻などにできようかと答えた』と報告しました。使いの者は大草香皇子から天皇に献上された『押木珠蘰(おしきのたまかづら)』が欲しかったので、嘘をついて横領したのでした。
嘘の報告をまにうけて安康天皇は怒り、大草香皇子の家を囲んで殺してしまいました。
大草香皇子の忠臣であった親子が『わが君、罪無くしてみうせたまいぬ』と嘆き、皇子の体を懐き殉死するという、無実の皇子の悲劇でした。


更に、悲惨なことに、安康天皇は殺した大草香皇子の妻の中蒂(なかし)姫=長田皇女(ながたのひめみこ)を取り、宮中に入れて皇后としました。
この中蒂姫=長田皇女の連れ子が眉輪(まよわ)王です。大草香皇子の王子でしたが、幼いので母の傍で育てられていました。偶然、父の死の真相を知った眉輪王に、安康天皇は殺害されたのでした。
更に、眉輪王も大泊瀬皇子(雄略天皇)殺されてしまいます。


このような、安康紀の記事には、高麗も新羅も出てきません。

すると、倭王珍は安康天皇ではないのでしょう。では、父である允恭天皇でしょうか。
允恭天皇の治世は42年間となっていて長いのです。短い治世の倭王珍とは考えにくいですね。
では、更に遡って允恭天皇の兄、履中天皇や反正天皇でしょうか。 

その辺りを見ましょう。続きは次回に


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by tizudesiru | 2018-03-31 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王讃は応神天皇か、それとも仁徳天皇なのか

倭王讃は高句麗を敵としたのか?
卑弥呼宗女壱与(臺与)の時代の後、倭国はどうなったのでしょう。公開土王碑文が書かれた時期は、書紀では応神紀に対応し、宋書の倭王讃も応神紀と重なるようです。
では、応神天皇が「倭王讃」なのでしょうか。
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405年と429年は、応神紀の記述です。
この年表から読めるのは、外交に出遅れた倭国王讃

404年
、高句麗は、帯方郡に出兵した倭軍を撃退させました。倭軍は半島の奥深くまで兵を進めていたのです。

413年
、高句麗は東晋に朝貢し「使持説都督営州諸軍事征東将軍高句麗王楽浪公」を授かります。倭国も東晋に方物を献じましたが、高句麗ほどは外交力がなかったようです。

(414年
、高句麗は「公開土王の碑」を建て国威を誇示しました。)

(416年
百済も東晋より「使時節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」を授かりました。盟友の倭国王は焦ったでしょう。)

420年、宋が成立。さっそく
高句麗が朝貢「征東大将軍」、百済も朝貢「鎮東大将軍」を授かりました。またも、倭王讃は出遅れました。

421年
倭王讃が宋に朝貢し叙授され、やっと冊封体制に入りました。讃が必死に努力している時、427年に高句麗は平城に遷都し国を整えていきました。

425年、倭王讃は方物を献じ上表します。使者は司馬曹達でした。(司馬は軍事に関する官職名とされ、421年に讃が叙授されたであろう安東将軍(?)となった後、設置された官職らしい)
倭王讃は、421年の叙授により、さっそく官職を整え、うやうやしく上表しました。讃は宋の想定以上の努力をしたのです。

428年、429年、倭国は百済との友好を深めようとしました。

430年
倭国は宋に方物を献じ忠誠を誓います。*方物とは地方の特産物です。支配地の産物を天子の食卓に並べ、冊封体制に組み込まれていることを示しました。倭国王は、努力したのです。


435年
高句麗は北魏に朝貢し、「都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将遼東郡開国公高句麗王」に封ぜられました。高句麗は一歩も二歩も先んじ、勢いに乗っていました。

438年
倭王讃は失意のうちに没しました。弟の珍は上表して、宋に除正を求めました。何としても「使時節都督倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」の称号が欲しかったのでしょうが、宋は倭王を「安東大将軍倭国王」としたのです。倭王珍は、倭隋ら13人にもそれぞれに将軍号の下賜を求め許されています。


さて、20年間努力し続けた倭王讃は誰でしょう

倭王讃は仁徳天皇という説もあります
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公開土王碑によると倭王は高句麗と対立しています
書紀に高麗(こま)や高麗国などがどのくらい出てくるか、調べてみました。

(一記事につき一回とカウントした数字)
神功紀(1)応神紀(3)仁徳紀(2)雄略紀(5)顕宗紀(1)仁賢紀(2)継体紀
(4)欽明紀(17)敏達紀(5)推古紀(9)舒明紀(2)
皇極紀(7)孝徳紀(7)斉明紀(4)天智紀(11)天武紀(18)持統紀
(2)
*倭五王の時代は、継体天皇以前ですよね。
 

倭王讃は応神天皇か、それとも仁徳天皇か
それとも他の誰か? 果たして誰でしょう。仁徳天皇の在位87年間で、高麗(高句麗)が出てくる記事は2回、応神紀では3回あります。

応神七年秋九月、高麗人・百済人・任那人・新羅人、そろって来朝した。」

二十八年秋九月、高麗王が使いを遣して朝貢し、その時上表した。其の上表文に『高麗王が日本国に教える』とあった。その時、太子菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)は其の文を読んで怒り、高麗の使者に上表文が失礼だと責めて、その上表文を破り捨てられた。」

応神三七年の春(略)ここに阿知使主(あちのおみ)ら、高麗国に渡り呉に行こうとしたけれど道が分からなかった。道を知る人を高麗に求めた。高麗王は、久礼波・久礼志の二人をつけて道案内人とした。」
高麗が倭国と対立している様子はありませんね。

仁徳十二年秋七月の辛未の朔(つきたち)にして癸酉に、高麗国、鉄盾・鉄的をたてまつる」(高麗国は仁徳帝に贈り物をしています)

仁徳五十八年冬十月に、呉国・高麗国、並びに朝貢(みつきたてまつ)る」(ここでも、高麗国は貢物をしています)

高句麗と対立していたとは書紀からは読みにくいですね。外交努力を重ねた倭王讃の姿を書紀から見出すことはできませんでした。

更に、倭王讃の都は何処でしょう

倭王讃が「安東将軍」になったとして、将軍府はどこでしょう。役所(府)が設置されていたはずです。文官・武官の役所も設置されていたでしょう。「司馬」もその役職名でした。425年に司馬曹達が使者に立ちましたが、彼は高官だったはずです。讃は安東将軍に次ぐ高官を宋に派遣したと思います。
が、その倭の都が見つかりません。

この時代、沖ノ島祭祀をしたのは誰でしょう

ヤマト王権の祭祀という「沖ノ島祭祀」でした

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まだ、倭王は見つかりません。次回も倭王の年表をみましょう。

次は、倭王珍の時代になります
443年、倭王済も宋に称号を求めました。同年、百済も朝貢しています。倭国と百済は歩調そろえているようです
では、次回。


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by tizudesiru | 2018-03-30 10:28 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭五王は行方不明

「神籠石(こうごいし)は、消えるのか」と、気になることを書きました。
結論としては、「神籠石は死語になる」と思います。わたしは、次の世代は名称として「神籠石」を使わないと思うのです。
今まで歴史の表舞台に出さなかったものを、文化庁が名前を変えて表に引き出しました。神籠石を持つ自治体としても観光に使うつもりなら「古代山城」として「山城ブーム」に乗るでしょう。耳慣れた言葉を使うのは、当然ですから。
もちろん、神籠石が消えるかどうか、次の世代が歴史をどう捉えるかで決まりましょう。ということで。

今日は、しばらく頓挫していた倭五王に戻ります。

そろそろ、たまった宿題を片付けなければなりません。
行方
不明の倭五王を探すことです。

倭王武は、雄略天皇なのか
宋書によれば、倭王武は倭王興の弟です。倭王武が日本書紀の雄略天皇であれば、確かに、宋書や梁書の倭国伝や倭伝とは系図が合致しません。

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雄略天皇が倭王武だって…ほんとですか?
倭王武が宋に遣使して上表したのが478年雄略天皇が没したのが479年ですから、
倭王武=雄略天皇なら、遣使の翌年には死亡したことになります。

宋書に書かれた倭王武は雄略天皇になっていますが、実は日本書紀でも決定打がなく倭王武も誰だか分かっていない、ホントは見つかっていないそうです。
書紀の中には、雄略天皇が宋の冊封体制に組み込まれることを望んだことなど、一切書かれていません。宋との交流も書かれていないのです。


宋書との接点がない理由は、「倭王が宋に朝貢した」という記事を正史である日本書紀に載せるのは恥だとして、正史に掲載しなかったというのです。
現代の歴史学者としても、他に理由を見つけられないのでしょう。
ホントにそうでしょうか。倭王武は実在の人です。その父、祖父にしても、中国との交流を書紀で辿ることはできません。


ここで考えられるのは、「五人の王の誰も書紀に登場しない理由は、日本書紀の大王・天皇とは無関係の人達ではないか」と云うことです。五王が畿内の人ではないと考えると、かなりの部分が解決します。
しかし、そうなると、倭王は何処に居て、どのような国をつくり、どのように消えて行ったのか、といった問題も出てきます。

先のブログでも既に出しましたが、ここで武の上表文を再読しましょう。
倭王について何か分かるかも知れません。

478年、倭王武が、宋に国書(上表文)


宋の冊封体制にありながら、武は自らの府(役所)を開いて政治を行いたいと申し出たのでしたが、翌年479年に、宋は滅亡しました。


その後の武の行動は? まず、武の上表文を先に読みましょう。
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上表文から分かること

①倭国の王は、遠征時に甲冑を身に着けたので、見栄えのいい甲冑を持っていた。それらは、墓にも副葬されたはず。


➁東の毛人の国を征服、西の衆夷の国を服属、渡海して海北の国を平定し、中国に朝貢を忘れなかったと自慢している。広い範囲を平定したのが、倭五王の時代なら、卑弥呼の時代はそこまで統一されていなかったことになる。(では、邪馬台国畿内説は?)

倭王にとって百済は親しく高句麗は憎い国である。

④倭王武は父親と兄をほぼ同時期に失った。

⑤倭王は、父兄の志を遂げること=高句麗に勝つことだ、と思っている。

⑥宋の後ろ盾で高句麗を破りたい。

⑦このような倭国王だから開府儀同三司を授けてほしいと願った。


①~⑦まで確認しました。
ここで驚かされるのは、軍事力です。そして、戦争をする意味です。理由もなしに「刃を畏れず戦う」ことはできません。彼らは何のために命を懸けて戦ったのか。
先に挙げたように「倭王が畿内の人ではない」とすると、倭王は畿内をスルーして関東へ遠征したことになりますが、其のあたりが上表文では読めません。

半島への派兵も重要です。上表文から「高句麗憎し」が浮かびます。
百済と高句麗が対立していたから、倭国は百済側に着いて高句麗を共通の敵としたのでしょう。

倭国は何処にあったのか。
①~⑦で読めるのは、百済に近くすぐ百済に行ける地域。近畿をスルーして関東に遠征できる地域、です。伝統的に戸籍を持っていて、軍備を早く整えることができる国です。食糧生産に適した地域でもありましょう。
どうも畿内の王権ではないようですが。
然し、これだけでは十分ではありません。

また、武の必死の思いは伝わりますが、開府儀同三司を許されることはなく、宋も滅びたし、武の朝貢も終わりました。以後、朝貢の記録はないのです。この辺りは、既に書きました。



479年以後の倭王武の行動

武は開府儀同三司の理想を捨てたのでしょうか。
次の年表を見てみましょう。474・475・479・は雄略紀の記事です。
471年は江田船山古墳の金石文です。

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上の年表を見ると、いろいろ考えることができます。
その事は、また次に。


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by tizudesiru | 2018-03-27 12:16 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

共通する技術・古墳と神籠石の切り欠き加工

前回、神籠石は天武朝後半に造られてという文化庁の論考を紹介しました。
神籠石が天武朝後半だとすると、それはそれで面白い話です。これまでの疑問が一気に解決するのでしょうか。天武朝なら、高市皇子がかかわったことになりますね。すると、天武天皇も高市皇子も九州と深いつながりがあったことになります。その辺りは面白いと思うので、別の機会に書きます。

今回は、統一新羅の石室「陵山里式石室」について

統一新羅系の石室が、奈良県で採用されたのは、白村江敗戦後、 になるようです。


鞠智城跡「特別研究」の報告会での
「古代山城の立地環境」の発表から

統一新羅の山城を判別するために、発表者は韓国で二つの条件を満たす山城を探しておられました。条件の一つは陵山里式石室、二つは副葬品の銀花冠職でした。


統一新羅とは、「白村江戦後の新羅」を、三国時代の「新羅」と区別して呼ぶ。
陵山里(りょうざんり)式石室とは、切り石の板石を張った石室で、天上が高く見えるように石が加工された石室。
銀花冠飾とは、冠に刺す飾り物のこと。

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陵山里式石室の画像を見ると、床面・壁面・天井面に板石が組まれ整えられています。さらに、天井面には斜めの石が組まれ、天上がより高く見えるようになっています。このような石室を持つ墓と冠飾をセットにして、統一新羅の「九州五小京」に伴う山城を探したそうです。前々回に紹介しています。


日本にも、切り石で整えられた古墳があります。
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文殊院西古墳(奈良県桜井市)です。
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花崗岩を入念に加工し、時に玄室の天井は一枚岩で約15㎡もあり、天上の中央部分を薄く削り上げ△の形にして、全体面をアーチ型に仕上げているそうです。伝承では、安倍倉橋麻呂(孝徳朝の左大臣)の墓となっているそうです。
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孝徳朝の左大臣・安倍倉橋麻呂は、大化五年(649)の三月に薨去しています。
同年同月に右大臣・蘇我石川麻呂が讒言により殺されていますから、是が倉橋麻呂の墓だとすると意味深ですね。


薄葬令(墓を簡素にするという通達)が出されている中で、こんな立派な墓を造ったのでしょうか。

それに、左右大臣に何かあったのでしょうか。なんとなく事件の臭いがします。


左大臣・右大臣が同年同月(649年3月)薨去したので、巨勢徳陀(こせのとこた)と大伴長徳(おおとものながとこ)が四月に左右大臣になっています。(長徳は二年後に没します。)
孝徳天皇が白雉五年(654)に崩御となり、巨勢徳陀は其の四年後に没します。
大化改新の大事業はまだ途中だったでしょうね。


以来 、右大臣の任命はありません。662年に大臣(おおおみ)の任命があるのみで、中臣鎌足のみが内臣として25年間勤め続けました。



同じ阿倍文殊院の敷地内に在る東古墳(下の写真)を見ると、自然石に近い巨石が組まれています。
方墳だとすると、蘇我氏系の古墳になるのでしょうか。

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奈良の安倍文殊院の東古墳と西古墳では、どちらも大きな石が使われていますが、壁面が平らに整えられた東古墳が新しいそうです。確かに、西古墳と東古墳は様子が違いますね。西古墳は統一新羅系の様式に似ています。統一新羅の影響なら7世紀後半ですから、左大臣阿倍倉橋麻呂の墓ではないと、わたしは思います。

実は、阿部文殊院のある阿部丘陵には艸墓古墳があります。そこも、大きめの石で石室が組まれていました。わたしは、こちらが石室の様子から左大臣の墓かも知れないと思うのです。
凝灰岩製の石棺も置かれています。

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艸墓古墳には石棺が置かれていましたが、似たような石組みの古墳が竜田川の近く平群(奈良県)にもあるのです。
方墳の西宮古墳です。7世紀中期となっています。

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聖徳太子御廟石室もよく似ています。天上を持ち上げる石が斜めに加工されていますから、まさに統一新羅系の石室です。
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すると、この石室も聖徳太子の時代より後、7世紀後半以降に造られたのでしょうね。
わたしは、ここは聖徳太子墓ではなく、孝徳天皇の改葬墓で間人皇后ともう一人(孝徳帝の妃だった夫人)の墓かも知れないと思っています。でも、たしか、このブログに書きましたよね。孝徳天皇と間人(はしひと)皇后と、もう一人は斉明天皇(奥の棺)と。斉明天皇と間人皇后は親子で合葬されたと記録があり、牽牛子塚(けんごしつか)古墳に比定されていました。
然し、持統天皇の時代になって、二人の中皇命の軀が牽牛子塚古墳(明日香)から移され、孝徳天皇と共に改葬されたと思うのです。

中皇命とは、天皇に事が起きた時「一時的に玉璽を受ける中継ぎ」の地位にある正妃のことです。


牽牛子塚(けんごしつか)古墳も、磯長の聖徳太子廟と同じく挟紵棺(きょうちょかん)が使われていました。同じ時代の最高の棺を使用しているのです。両古墳には挟紵棺という共通点があり、聖徳太子廟は天皇級の人物の石室なのです。


以上のことから分かることを整理すると、
天武朝後半以降、統一新羅式の石組み技術が入って来て、古墳の作り方に変化が起こった。それは、陵山里式の板石を使った仕様で、持統天皇の時代になって浸透した。
更に、これまで紹介してきたことを合わせると、
持統天皇は、かねてより孝徳天皇を尊敬し、難波宮行幸もして律令政治の継承を願っていた。
そこで、王家の谷を磯長に定め、推古・用明に続いて孝徳の墓を遷した。霊魂を鎮めた後に、政治改革に乗り出した結果、高市皇子の皇親政治派と対立することになった。…と展開していきます。

なぜ、持統帝位はそこまで孝徳天皇にこだわったのか? ですが。
それは、自分の出自に対する自負でしょう、有間皇子の父である孝徳天皇への尊崇というより自分の皇統を誇示したのではないでしょうか。つまり、血族だという自覚と自負です。
政治には欠かせない、皇統の継続の重要性を知っていたからです。

何度も書きましたね。それとも、他のブログだったかな。
では日を改めて、その事も書きましょう

では、また。
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by tizudesiru | 2018-03-24 18:03 | 131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術 | Trackback

文化庁は、「神籠石は天武朝に造られた」という

神籠石の築造を命じたのは誰か?

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律令国家の誕生と鞠智城
文化庁文化財部記念物課文化財調査官である近江さんの論考が、3月18日に頂いた『特別研究』論文集の最後に載せられていました。
はじめに
(一)古代山城築造の背景
(二)古代山城から見える防御網
問題の所在
(一)古代山城全般に対する理解について
(二)今回、問題として取り上げる点
古代山城築造の契機
(一)築城に関わる資料
(二)気になる両槻宮(ふたつきのみや)
(三)天智朝以前に築造が開始された可能性
古代山城は交通の要衝に位置しているのか
(一)情報伝達速度から駅路敷設時期を考える
(二)古代山城と駅路との関係
(三)古代山城の編年
(四)古代山城と交通路
(五)交通路から見た古代山城の築城時期
古代山城の築城目的は何か
(一)第一・二段階の山城
(二)第三段階の古代山城 天武朝の緊張
(三)古代山城の築城
律令国家と鞠智城
(一)鞠智城の謎
(二)鞠智城の評価をめぐって
(三)第二段階の古代山城として、今後、視野に入れておくべきこと


という「見出し」が付けられていますが、何が書かれているか想像できますか。
ほとんど「神籠石の意味・築造・あつかいかた」について書かれています。
鞠智城について取り上げられているのは、最後の20行で「(三)第二段階の古代山城として、今後、視野に入れておくべきこと」だけです。
驚きました。


裏を返せば、「神籠石の取り扱いが大変微妙「だと云うことです。なぜ?

如何にでも解釈できるからです。

文化庁は神籠石の意味も謎も、みんな承知しているのです。

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そこで、みんなひっくるめて「神籠石」を使わず「古代山城」としたのです。そうする必要があるからです。

然し、資料はありません。

まず、「持統4年、唐で捕虜となっていた大伴部博麻(おおともべのはかま)の帰国」を持ちだしています。
博麻は白村江戦で唐軍の捕虜となりました。「唐人の謀を本国に知らせよう」と我が身を売り旅費をつくり、仲間を日本に帰しました。30年後に帰って来た博麻を持統天皇は誉め労ったという記事です。

つまり、「博麻が身売りしてまで、本国に危機を知らせたかった」ほど、天智四年には唐・新羅連合軍 来襲の危機があったとして、古代山城の第一段階が造られたとしています。長門城・金田城・大野城・基肄城・高安城などです。

然し、これ以降は、山城の築造記事はありません。

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(何故、このような大工事の記事が正史にないのでしょうか。)

それでも、神籠石は存在します。

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それで、神籠石も含む山城として、三段階に分けられました。二段階と三段階が神籠石になっています。

山城に入れられた理由は交通の要衝にあるからです。

国家的な事業と言わざるを得ないのです。


神籠石は、白村江敗戦後の大野城の石垣と比べると、格段に計画的だし丁寧に作られています。
然し、人が住んだ痕跡が見つかっていないそうです。なぜ?


神籠石が大野城より後に造られたという証拠は有りません。

しかし、誰の指示もなしに造られたのではありません。

築造を命令した人がいるはずです。財力も統率力も設計図も必要です。
同じ文化圏の技術でなければなりません。得手勝手に造ったものではないからです。

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(さて、古代官道はいつ整備されたのか、元々交通網はどのようになっていたのか。)
解決しなければなりませんね。

近藤氏(文化庁)の論考では、第三段階の古代山城(神籠石系山城)は、天武朝後半の築造と断定されていました。


by tizudesiru | 2018-03-22 12:51 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

神籠石の水門の切り欠き加工の技術が失われた理由は何か

前回も長すぎました。ですから、神籠石と切り欠き加工についてのみ紹介します。
神籠石はいつ造られたのか

神籠石という名称は、高良山神籠石から使われ始めたそうです。神の神域と列石で囲まれた土地が重なったので、神籠石と列石が結びついたようです。高良山神籠石が知られるようになると、あちこちから「同じような列石がある」と報告があり、いつの間にか「神籠石」という名称が共通語になり、論文でも「神籠石」「神籠石系山城」と使われてきたのです。

その神籠石が急に「古代山城」となり、大野城などより後に造られたことになっているのです。
いつの間にか。


大野城より後に築造という、驚きの急展開!!!?

これまでは、6世紀後半から7世紀初頭に神籠石は築造されたというのが定説でした。大野城より先に築造。


神籠石という名称は、地域に深く根付いています。


幾つか紹介します。

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(女山神籠石の石柱と列石)
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(鹿毛馬神籠石の案内板と列石)
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(雷山神籠石の石柱と列石と水門)

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確かに高度な技術です。
だから、山の上に切り石をきちんと並べるなんて、6世紀後半の九州の技術ではできないというのでしょうか。
これが、統一新羅の技術だとでもいうのでしょうか。そんなことはありません。
5・6世紀の九州の古墳造に既に使われていた技術でした。
なぜか、この技術は後世に伝わりませんでした。この技術が忽然と消えたのはなぜでしょうか。
中央政権が造らせたのなら、古代の技術は失われなかったはずです。


忽然と消えた理由は一つ。後ろ盾の権力が潰れた(無くなった・消えた)からです。
白村江敗戦で九州は大打撃を受け、技術も技術者もバラバラになってしまったのです。それで、古代の石組み技術が消えたのです。


神籠石は白村江敗戦前の権力者の所在地を探る手がかりだと、多くの人が考えたようです。
だから、いけなかったそうです。九州に別の権力があるのは許されないそうです。
研究者が神籠石を無視し続けた理由は、民間の声だったと云うことです。
ホントに、そうですか? たしかに神籠石の論争はほとんどなかったようですが。


誰が神籠石を消したのか? 知りたいです。

知ってどうする? 分かりませんが、「文化庁」らしいです。
神籠石という名称を許さないのは、文化庁だと云うことです。
ホントでしょうか? 次は「文化庁文化財部記念物課文化財調査官」の近藤氏の論考を紹介します。

では、明日。

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by tizudesiru | 2018-03-21 14:03 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

神籠石から古代山城へ、名前を変える必要はあるのか

朝鮮式古代山城は、当然、百済の築造技術ですか?!
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2018年3月18日の麹智城跡「特別研究の報告会」の紹介をしています。

山田隆文「古代山城の立地環境ー百済・新羅との比較を通して」
山田さん(橿原考古学研究所研究員)は、「初めに」で次のように述べています。

⓵「日本における古代山城の築造は、『日本書紀』の記述によって、百済の滅亡とその後の復興軍の敗戦に起因する」

➁「その際に我が国に渡来した百済の亡命官人達が古代山城の築造に深く関わっていたことが知られる。」


③「しかし、日本の古代山城の全てが百済の様式で築造されたのかというと、必ずしもそうではなく、例えば大野城の門跡で出土した門扉軸摺金具(もんぴじくすりかなぐ)や、屋島城の懸門構造(けんもんこうぞう)など明らかに新羅山城で特徴的な要素も見られることは、周知のとおりである。」

④「そのため、日本の古代山城を研究する場合、その比較検討対象は、百済地域だけではなく、新羅、高句麗、伽耶を含めた韓半島全体としなければならない。」
という理由で、韓国に研究旅行となったのだそうです。

簡単に研究の立ち位置が書かれています。
これは、大野城・基肄城などの朝鮮式山城のことですね。白村江敗戦後に造られたという。倭国へ亡命百済人が来ていますからね。


➁大野城を造ったという百済の憶礼福留・四比福夫。あまりに石積が雑だったので、新羅軍の攻撃を畏れて慌てて造ったからだと、社会科でも教えられたのですが。雑な石積技術だったのですね。


③確かに、白村江戦後に統一新羅ができますが、統一新羅の技術が入るのは掘立柱の一期ではありません。敗戦後に造られた大野城は百済系の朝鮮式の山城でした。この時は、まだ新羅の技術は入っていないのではありませんか。
軸摺金具とは扉を開閉する時に回りやすくするために使われた金具です。懸門とは入り口が高い所に在る門で、梯子で出入りしますが、非常時には梯子を外せます。
大野城は三期の建て替えがあっていて、軸摺金具が使われるのは、後の時代になります。一緒に扱ってはいけないと思います。

④統一新羅の技術なら、完全に白村江敗戦後になります。古代山城は、天智天皇が築造した山城と決めて調査しているのですね。

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山田さんが調査している時期は、古代山城が造られた時期より、新しいと思います。修理や建て替えの時期に新羅の技術が入ったのではないでしょうか。

統一新羅の地方都市、九つの州と五カ所の小京を「九州五小京」といいます。上の地図でも分かるように、黄色の九州、青色の五小京が、半島全体にあります。紫は新羅の都です。
要するに、日本の山城は統一新羅の影響を受けたから上記の山城と共通する、と、主張されているのです。


「古代山城の立地環境について国内の事例と比較研究は進んでいる」そうです。
⓵古代山城の導入期の戦略上の重要拠点に山城が単独で立地する段階
➁駅路や官衙に接近した場所に築造される段階
と、①から➁に変化しているというのです。



えっ、ちょっと待ってください。②はなんですか?


①の金田城(対馬)大野城(福岡)・基肄城(佐賀)などが造られた後には、駅路や官衙の近くに山城が造られたという正史の記述も文献もありません。
もしかして、神籠石系山城のことを云ってるのですか?
それなら、あまりに唐突かつ横暴です。

神籠石系山城について、切り石の状況や版築や構造を取り上げないまま、調べないまま「古代山城の第二段階」という論説は、唐突で異常です。
古代の政治史の上でも科学的にも神籠石が公共の施設だと論証したうえで、説を展開しなければなりませんね。突然、奈良県の都合により福岡県や瀬戸内の神籠石を
「ヤマト政権側の古代山城」
にすり替えてしまうのは、おかしくないですか。



奈良県立橿原考古学研究所は、それでいいのですか。長い間、神籠石について研究してきたのは在野の研究家でした。それをいきなり「古代朝鮮式山城の次の段階」と、奈良県の人が決めてしまうなんて、それでいいのですか。


講演の中でも、山田さんは高良山神籠石のことを「高良山城」と呼んでいました。高良山城と呼びたかったでしょうが、「高良山神籠石」という明治以来の名称はどうなりますか。九州の人や瀬戸内の神籠石系山城のある地域の人は、ほとんど百年以上も「神籠石」と呼んできたのです。
然し、「神籠石」と呼ぶのは時代遅れというのでしょうね。


橿原考古学研究所は、奈良県の研究所の一つです。全国の名所や土地の呼び名を勝手に変える権利はありません。それとも、国の指示があったのでしょうか。

そう云えば…

こういうことが始まったのは、「阿志岐古代山城」という名称が使われた時からです。宮地岳神籠石と呼ばれていたのに、史跡の名称に「神籠石」ではダメだったそうで、「阿志岐古代山城」とされたのです。

古代山城となって、地元としては、中央に近づいた感じがしたのですかね?
然し、九州の地元の声や研究が、ここで切れた感じになりました。「神籠石」はお上に召し上げられたと云うことですね。


わたしも、このブログで、宮地岳神籠石(阿志岐山城)のことは数回取り上げています。朝鮮式山城とは違う目的の異なる工法の山城でした。

それも、同じ工法・同じような技術で作られていると思われる共通点の多い遺構です。それは、大きな権力によって指示され築造されたと考えるのが妥当でしょう。
すると、福岡を中心にした神籠石を作らせたのは、どこの誰? ですか。

旧唐書には、倭国の存在があります。白村江までは倭国が存在したのです。神籠石を造らせたのは、倭国であると考えるのは、ごく自然なことでしょう。
神籠石の集中しているところは福岡県ですから、そこに倭国の中心があったと考えるのも自然です。


倭国の中心が福岡にあったらいけない? それはなぜですか?
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(宮地岳神籠石の水門と列石)
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(高良山神籠石の列石と版築土塁)
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(女山神籠石の水門と列石*ぞやまこうごいし)

これらの神籠石をすっかり「新羅の影響で作られた」とするには、道理にかないません。
神籠石で使われた技法「持ち送り」や「切り欠き加工」は、明らかに古墳の築造時術に使われているからです。それも、5・6世紀とされる古墳です。特に、熊本の大野窟古墳や井寺古墳に顕著です。7世紀後半にその技術が使われた? いえいえ、
わたしは、6世紀後半から7世紀初頭に神籠石は造られたと思います。


九歴の小澤さんも「古墳の技術者が神籠石築造に関与した」と言われたと思います。九州の人で考古学をしている人は、古墳の技術はご存知です。


どうぞ地元の人の研究に学び、市民の声を聞き、科学的な調査をやり、地元に広報し、歴史の真実を市民のものにする方向で研究してください。若い才能は、真実を求めることに使ってほしいです。

大和に卑弥呼がいて、倭五王もいたのが事実なら、それでもかまいません。

ですが、素人も文献を見ることができるし、考古学報告書も読むことができます。そこで、さまざまに考えるのは、当然です。事実、様々な説が入り乱れています。

ですが、本当のことを知りたい、それが市民としての本音でしょうね。

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熊本城も覆い屋がかけられ、修理に入っています。このお城が親しまれるのは、加藤清正の築城だからです。市民の心の中に彼は生きていますから。歴史はその地域の人の心を癒し育むものですね。
神籠石も勝手に名称変更などせずに、それが存在する地域に長く残してほしいと思います。

では、また。

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by tizudesiru | 2018-03-20 12:31 | 327古代史の危機!? | Trackback(855)

いつの間にか消えた神籠石という名称。消したのは誰?

今年も「鞠智城跡『特別研究』の報告会に行きました。3月18日(日)
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熊本県知事も挨拶に来るという若手の研究者の発表の場です。
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九州歴史資料館の小澤さん(文化財専門職)の発表「石垣構築技術からみた菊池城石垣の位置づけ」は、大変面白いものでした。
福岡県太宰府市・宇美町・大野城市にまたがる朝鮮式山城の「大野城」の石垣と、鞠智城の石垣を比べてみようというものでした。

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大野城の石垣には、崩れやすいとされる「重箱積」という石組み技術が使われています(赤〇部分)が、崩れてはいない。それは、重箱積を斜めにして、力のかかり方を変えているからだそうです。
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更に、逆三角の石組を入れることで、崩れるのを防いでいるというのです。更に、石垣に一本の線を引くように「横めじ」が走るそうです。これは、版築のように一定の高さに石を積み終えて、次の段を積むという工法だったのではないかと云うことでした。
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この技術が麹池城とも共通するかを調べたというのです。

ここで、若干の疑問

白村江敗戦後に、亡命百済人が指揮して造ったという「大野城の百閒石垣」と共通する? そうであれば、同じ百済人の指揮で造ったのですかね。肥後国には石垣の技術はなかった? のですかね。
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「馬こかし」の石垣と「三枝」の石垣、両者は工法・石積・技術などほとんどの点で共通性がなく、全く別の集団が造ったと考えられる。三枝の方は近世以降に見られる石積みと思われるが、表面観察では結論は出しにくい。

朝鮮式山城の「大野城」について、工法を知ることができて面白かったです。
質問させていただきました。

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上の百済の山城の石垣の紹介の時、写真に「切り欠き加工」と思われる箇所が見受けられたので。その事への質問でした。
「百済の石垣の切り欠き加工と思われ里箇所が見られるが、この技法は朝鮮式山城に採用されているのか。神籠石系山城や熊本の大野窟古墳や井寺古墳にはこの技法が使われているが、百済の山城にはこの技術は使われているのか。」

お答えをいただきました。
「まず、写真の切り欠き加工は、実は切り欠き加工ではなくそのように見えるが、小石が入っている。また、百済の石垣には切り欠き加工は見られない。神籠石の石組は、古墳の技術者が造ったと考えられるが、朝鮮式山城より後の時期に造られたと考えている。」
 
そうなのですか!
九州歴博は「神籠石が朝鮮式山城より後の時期に造られた」という見解を持っているのです。それを造ったのは古墳の技術者だと。百済の石組には 切り欠き加工はないそうです。(では、なぜ、何のために、いつ誰が造らせたのか?疑問が膨らみます。)

分かったことです
最近の山城の研究の方向は、古代国家の事業として山城が造られたのは間違いない。従って、神籠石系山城も国家の事業であろう。その築造時期は、白村江敗戦後の朝鮮式山城築造の後であろう、となっています。

神籠石系がヤマト王権の築造とされつつあることは、昨年から顕著になりました。
考えてみると、十数か所もの離れた場所で、同じような工法により一斉に工事を始めるには、命令系統が一つでなければ動けません。しかし、それはヤマト王権でしょうか。
今日は、ここまでにします。

他の発表者は、金田明大(独立行政法人国立文化財機構独法職員)、堀内和広(長崎県教育庁新幹線文化財調査事務所)、
山田隆文(奈良県立橿原考古学研究所研究員)でした。


山田さんの「古代山城の立地環境・百済と新羅の比較」は、次にまわします。
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では、また後で。

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by tizudesiru | 2018-03-19 20:15 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

一貴山銚子塚古墳の真の築造時期を知りたい!素環頭大刀副葬の意味

一貴山銚子塚古墳の築造時期は、4世紀前半と聞いていました。
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****10年ほど前****

古代史の講座で、元大学教授のT先生が一貴山銚子塚古墳の話をされた時「あれは、4世紀前半とされていますが、あんがい3世紀後半かもしれませんね。」と言われました。
「素環頭大刀は、弥生時代の九州の箱式石棺に副葬されていた。」と、古代史の会で奥野正男先生から幾度も聞きました。先生の著作の中でも、素環頭大刀は「弥生の箱式石棺の中にしか出土しない」と云われます。
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***柄鏡形の古墳は古い****

一貴山銚子塚古墳が平原王墓の後を引き継いだと、わたしは書いてきました。弥生墳丘墓の平原王墓と柄鏡形(えかがみがた)の一貴山銚子塚古墳、両者は時代が違うように見えますが、どちらにも素環頭大刀が副葬されていました。
素環頭大刀は弥生後期の代表的な副葬品です。
ですから、両者の築造時期は、極めて近いと思います。

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銅剣・銅矛・銅戈が副葬されていた甕棺の後の時代、箱式石棺の時代になると、弥生後期の有力者の副葬品として、素環頭大刀が使われました。

古墳時代になっても大刀の副葬がありますが、それは飾り大刀になります。
福岡県糸島地域は飾り大刀の宝庫です。「飾り大刀」は素環頭大刀(そかんとうたち)の環頭の輪に、三葉・龍・鳳凰などの飾りが入ったものです。

後期弥生の副葬品・素環頭大刀***
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豊前の徳永川ノ上遺跡は、弥生終末期から古墳時代初期の遺跡です。
上町向原遺跡から、同時代では日本最長の素環頭大刀が出土しています。

大型の石棺墓から出土と伝わる五尺刀(119.9㎝・福岡県糸島市上町向原遺跡)は、石棺が特定できないのが残念ですが、卑弥呼が下賜された五尺刀かも知れません。伊都国歴史博物館に展示されています。

***何と、甕棺墓からも
福岡市の吉武樋渡遺跡では甕棺墓から素環頭大刀(62号甕棺)素環頭刀子(64号甕棺)が出土しています。佐賀県の椛島山遺跡(弥生後期の石棺墓)から素環頭刀子が出土しました。

素環頭刀子ですが、素環頭大刀より長さが短いものが、刀子とされています。

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***初期古墳にも素環頭刀子
藤崎6号墳
は弥生の方形周溝墓で、久里双水古墳は初期古墳です。副葬品だけ見ると、久里双水の方が古いようですね。
藤崎6号は三角縁二神二車馬鏡(22.3㎝)と素環頭大刀・刀子・ヤリガンナで、久里双水は盤龍鏡(12.15㎝)と素環頭刀子・管玉でした。時代が下るほど鏡は大きくなっています。ですから、久里双水の盤龍鏡が古いと思います。

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こうして見ると、素環頭大刀の副葬の時期がしぼられて来ます。
北部九州では、弥生後期の方形周溝墓の木棺や箱式石棺に、素環頭大刀が副葬されているのですから



***4世紀とされる若八幡古墳には飾り大刀
環頭大刀の中で、飾りのないものが素環頭、飾りのある大刀が「三葉環頭大刀・単鳳環頭大刀・単龍環頭大刀・双鳳環頭大刀」とそれぞれに呼ばれています。
いわゆる飾り大刀です。
弥生後期の素環頭大刀より、古墳時代初期の飾り大刀は装飾性が進んでいるのです。
若八幡古墳(福岡市今宿)には、最古級の短甲も副葬されていました。
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ここは、一貴山銚子塚古墳より新しい古墳でしょうね。

***ところが、です。
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***古墳の築造時期をまとめた図を見ると(黄色の丸をつけた銚子塚)

一貴山銚子塚古墳のほうが、若八幡古墳より新しくなっています。

副葬品で考えると若八幡古墳の方が新しいのです。
糸島では最大の大きさの一貴山銚子塚古墳です。トップの首長なら、最新かつ最高レベルの品々を副葬するでしょう。若八幡古墳に後れを取るはずはありません。
若八幡より築造が遅いのなら、短甲も三葉環頭大刀も鉄鏃も最高のものが置かれていたでしょう。
一貴山銚子塚には三葉環頭大刀も短甲も置かれていません。なぜなら、それらが知られる前だったから、です。
まだまだ、素環頭大刀が大きな威力を持っていた時代だったのです。


副葬品ではなく、墳丘の形で判断されているのではないですか?
いわゆる箸墓型の古墳(前方部がバチ形に開く)が古く、ホケノ山の帆立型古墳が古いというルールで判断されたのではありませんか。


素人は展示品や図録を素直に見ます。

****わたしは、T先生や奥野先生の云われたことを思い出すのです。

素環頭大刀は弥生後期の副葬品、図録でも全くそうですね。
本当に真の築造時期は、いつでしょうか。


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by tizudesiru | 2018-03-18 00:59 | 332あまたの副葬品は、もの申す | Trackback(39)

太陽祭祀から祖先霊祭祀へ、歴史は動いた

太陽祭祀から祖先霊祭祀へ

前日、古墳時代になって祭祀が変わってきたことに触れました。
「太陽」ではなく「祖先霊」が大きく祭祀されるようになったと。「祖先霊」の祭祀は、ラインを引くとよくわかります。重要な山や墓ほどたくさんのラインの起点や終点、通過点となるのです。


では祭祀線で、首長墓と言われる古墳を見ます。

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福岡県糸島市の三雲南少路王墓の祭祀線
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福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳の祭祀線
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福岡県八女市の岩戸山古墳の祭祀線
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福岡県福津市の宮地岳神社古墳の祭祀線

色々な山、延喜式内社、有名神社、古墳、神籠石等と結んだ直線です。これらが祭祀線として全て有効だとは言いませんが、何らかの大きな意味を持っていると思うのです。

ここに上げた古墳は、すべて築造時期が違っている
上記の古墳は墓制も微妙に違っていると思うので、同じ氏族ではないはずです

しかし、当時の人が「神と祀られた権力者には強い霊力がある」と信じていたから、ラインを引くことができた、と思います。
次の権力者は、前時代の権力者の霊力を畏れられたでしょうし、それにあやかりたいとも思ったでしょう。
では、ここで問題が起こります。

支配者の墓制をどう考えるか、支配氏族の継承や断絶を、ラインで読めるのかです。この事は、次の機会に取り上げましょう。


祭祀線の起点・終点・通過点となった信仰の山々

宝満山・脊振山・九千部山・飯盛山・井原山・雷山など

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直線は点と点の二点を結ぶとできるものです。しかし、わたしは三点以上が直線上に並ぶものだけをラインと呼びました。その中には、神祭りに使われた祭祀線が含まれていると思うのです。わたしは地図上にポイントを置きましたが、山のポイントは山頂に、神社は本殿に、墓は墳丘の中心に置きました。それでもラインが引けるのか、大事な点です。

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福岡県飯塚市桂川の「筑前王塚古墳」です。黄色のラインは、王塚~宝満山~脊振山をむすびます。
この被葬者は遠賀川上流に葬られましたが、福岡平野、佐賀平野・遠賀川流域(肥前・筑前・豊前)を支配する王だったとなるのでしょう。ちなみに、この王墓は遠賀川流域では最大で、五色の顔料を用いた
最高の装飾古墳で、各地から集めた石材で石屋形が造られ、そこににダブルの死床があります。

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熊本県菊水町の江田船山古墳です。この古墳の副葬品には有名な銀象嵌の鉄の大刀がありました。他の副葬品も、この時代では舶来品が最も多い古墳です。水色のラインは、岩戸山古墳~江田船山古墳~熊ノ岳となります。

今日は以上です。明日は、「一貴山銚子塚古墳の築造時期に異議あり」の予定です。外出しますから、アップは夜中になるかも知れません


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by tizudesiru | 2018-03-16 12:05 | 331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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