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卑弥呼の出身地は何処か?邪馬台国論争は終わっているのに

倭女王・卑弥呼の出身地は何処か?!
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またもや、NHKで邪馬台国を取り上げていました。今回は、「卑弥呼の出身地は何処か? 何処の豪族が卑弥呼を選んだのか」という視点で考えたそうです。
なぜ、この番組が造られたのか、不思議でした。邪馬台国論争は終わっています。なのに、「倭国の内乱を鎮めるのに選ばれた女王」の出身地を考えようというのです。
番組では、権力を持っていた国から選ぶと豪族たちは納得せずまとまらないので、鉄を持っていた九州からは選ばれてはいないだろうという展開でした。スタートが「卑弥呼の墓は箸墓」ですから、やはり結論ありきの番組でした。

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NHKとしての番組の意図は「魏書・倭人伝をよむかぎり、邪馬台国は九州で決まり」だから、これでは箸墓の可能性は無くなる。だから、箸墓が卑弥呼の墓とすると、出身地は九州ではない可能性があると云うことですね。倭人伝には

女王國 萬二千餘里 
(帯方)郡より女王国に至るには、万二千余里

という決定的な漢字があるからです。邪馬台国は九州から一歩も出ないのです。それに、女王国は伊都国の南にあるのです。みんな書かれていて、ひっくり返せないのです。狗奴国は女王国の南に在り、邪馬台国と戦争をしていたのです。

しかし、卑弥呼の墓は箸墓であるから、女王の墓が奈良盆地に造られたのは何故か、誰がそれを指示したのか、何処の豪族が選んだのかと、NHKは別の視点で考えたというのです。
この展開だと、古代社会では武器は何の意味もなかった?!卑弥呼は鏡の出土しない地域の女王となった? 伊都国の監視の届かない地域で女王は祭祀をした? 巫女であれば他国の神祭りにすぐになじめた? と、なるのでしょうか? では、軍事力を持っていた国々は、女王の選出に納得していたのでしょうか? 
三国志魏書の倭人伝には、そういう出身地を探す手がかりがあるのでしょうか?
気になりますね。

では、魏志倭人伝にはどう書いてあるでしょうか?
読めなくても、見てみたいですよね。

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この後も続きますが、みんな書かれているのです。
退屈でなければ、読んでみますか? 或所で講師が「邪馬台国論争は終わっている。論じるだけ時間の無駄。邪馬台国の、それ以後を考えたい」と言われました。わたしも、方々で同じようなことを云っています。誰が解決を引き延ばしているのでしょうか。どんな結論でも、真実であれば構わないのに。

確かに、無駄かもしれませんね。それでも。

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by tizudesiru | 2018-01-30 11:44 | 323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK | Trackback(5223)

藤原鎌足の不思議な25年間? 内臣として何をしていた?

鎌足は25年間、内臣(うちつおみだった!!
中臣(藤原)鎌足(鎌子)は不思議な人です。書紀大化改新での謀(はかりごと)以外に何をしたのでしょう。中大兄皇子の腹心の部下だったと何度も書きましたが、どんな仕事をしていたのでしょう。記録では、25年間ずっと内(うちつおみ)でした。
大臣(うちつおほおみ)になったのは、薨去の前です。

天智八年(669)十月 藤原内大臣の家に行幸した天皇は、「積善の者には余慶がもたらされる。何かあるならすぐに申し出なさい」と鎌足に言葉をかけました。
これに対して鎌足は、
「葬儀は簡単なものにしてください。生きては軍国(おおやけ)に務めを果たしておりません。死去してまで煩わすことはできません」と、応えました。その言葉を取りあげ、続けて「時の賢人が『この一言は先哲の善言にも並ぶのもだ』と言った」と、日本書紀はその死を惜しみました。


議政官を記録の中から見ると、任命が明らかなのは、下記のとおりです。
よく見ると各帝に仕えてずっと「内大臣」となっているのは、鎌足だけです。
中大兄が孝徳朝の難波宮を去った時、腹心の部下の鎌足は難波宮に残ったのでしょうか? 
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(近江神宮)
議政官任命を「公卿補任」で見る


大化元年~五年(645~649)孝徳
      左大臣 安倍倉梯麻呂  (五年三月没)巨勢徳陀(五年4月~)
      右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(五年三月自殺)大伴長徳(五年4月~)
      内臣  中臣鎌子


白雉元年~五年(650~654)孝徳
      左大臣 巨勢徳陀
      右大臣 大伴長徳(~三年7月没)
      内臣  中臣鎌子 *紫冠を授け、封をます

斉明元年~七年(655~661)斉明
      左大臣 巨勢徳陀(~四年正月没)その後なし
      内臣  中臣鎌子

天智元年~六年(662~667)天智称制
      大臣  蘇我連子(~三年五月没)その後なし
      内臣  中臣鎌子

天智七年~八年(668~669)天智即位
      内臣  中臣鎌子(~八年没)八年に内大臣

天智九年(670) 天智 *議政官の任命なし
      
天智十年(天智十二月没)~壬申の乱(671~672)
      太政大臣 大友皇子(~7月自殺)
      左大臣  蘇我赤兄(~8月流罪)
      右大臣  中臣金(~8月没)
      御史大夫 蘇我果安(~7月自殺) 巨勢比等(~8月流罪) 紀大人(?)

      
分かりやすく分けてみました。
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これらの「公卿補任」の記録から分かるのは、孝徳朝の白雉五年(654)から天智十年(671)までの間、十数年も議政官が任命されていなかった(❓)ことです。そんなことはないでしょうが、記録がほとんどないのです。この時期に、誰が行政のトップだったのでしょうか。誰が政治を動かしていたのでしょうか。
「評」の行政区が書かれた木棺は出土しています。税の取り扱いはおこなわれていたのです。行政が滞ることはなかったようです。問題は、誰がそれを執り行っていたのか、です。

議政官の任命がない時期に誰が行政のトップだったのか
654~671年の間、藤原鎌足は誰に仕えていたのでしょうか。
もしかしたら
難波天皇が実在したことを示す、資料でしょうか

孝徳天皇崩御の後、行政のトップには有間皇子(難波天皇)が座っていた、その後を間人皇后(中宮天皇)が引き継いだ、中宮天皇の薨去(667)の後、葬儀・埋葬・遷都・即位が終わり、やっと、天智天皇が議政官を任命することができたと、考えることはできませんか。(次の天武朝では、皇親政治を目指していたので議政官の任命はありません。)

ここで再び、「天皇、宇智野に遊猟したまふ時に、中皇命の間人連老に奉らしめたまふ歌」の問題です。
万葉集辞典によれば、間人連老は「白雉五年(654)二条、遣唐使判官、小乙下中臣間人連老」とあります。同一人物なのです。西海使(遣唐使)として唐に行き、いつ帰ったのでしょう。
そして、書紀によれば「白雉五年二月に渡唐して7月に帰り、唐から多くの文書・宝物を持ちかえったので、大使吉士長丹などは位を上げられ、封二百戸を賜り、呉氏という姓まで賜って」います。
しかし、中国の史書「旧唐書」によれば、高宗本記・永徽五年十二月条に『倭国、琥珀・瑪瑙を献ず』と書かれています。永徽五年=白雉五年(654)ですから、遣使が十二月に皇帝に謁見したのなら、同年七月に帰ることはできません。ならば、翌年に帰国したということです。公の使いですから、朝廷で報告をするはずです。では、書紀の記述が間違っているのでしょうか。
遣使に褒美を与えた大王が孝徳帝でないならば、何処の誰だったのでしょう。

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やはり、この歌は、幼い皇女が献らせた歌ではなく、新大王の為に、中皇命(中宮天皇)として間人連老に奉らせた歌と考えたが違和感がないのです。間人連老は遣唐使判官として帰国(655)後、中宮天皇に仕えていたと云うことです。

梓弓の中筈の音で浄められた大野に、臣下が馬を並べて整列し、いよいよ儀式が始まるのです。それは、大王の霊魂に触れるための儀式でしょうね。清浄な大野に初めて踏み込む、大王位に着く人の儀式です。

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ではでは、内臣として鎌足は難波天皇にも仕えていたのでしょうか。それとも、斉明天皇について明日香に帰っていたのでしょうか。

それから、もう一つ、内臣の仕事はどんなことでしょう
中臣(藤原)鎌足のことについては、既にこれまでのブログで紹介しています。ここでは、25年間の内臣のという役職が何を意味するのかを考えてみたかったのです。
鎌足が薨去した後、内臣(うちつおみ)の任命は長くありません。と、云うことは、この役職が無ければ行政が滞ると云うことでは無いのです。内の臣ですから、王家の仕事・宮内省のような仕事をしていたのでしょうか。王家の神事とか、王家の生活のための人事や調度を整えたりなどの身の回りの世話です。天智朝では中臣祝詞が儀式でつかわれたようですから、中臣祝詞が完成していく過程に、鎌足の活躍があったのでしょうか。すると、皇居では常に神事に従事していたのでしょうか。
中臣鎌足は、「中臣」という氏の本流ではありません。本流の中臣が消えた後に現れたのでした。ですから中臣鎌足は「内臣」として、人と神の中をつなぐ祭祀をしていたのではないでしょうか。

それにしても
25年間も内臣の仕事をしたとしても、大王位が変わり、都が変わり、政変・内乱・国外出兵と混乱が続く中で「内臣は変わらない」とは、鎌足は不思議すぎます。


by tizudesiru | 2018-01-26 23:21 | 321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年 | Trackback(52)

宇治天皇の悲劇を詠んだ柿本人麻呂と額田王

人麻呂と額田王が詠んだ宇治天皇
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万葉集巻九は、大変意味深な巻でした。この巻の「挽歌」という部立の冒頭歌が、柿本人麻呂の歌です。既に紹介していると思いますが、再度取り上げました。

    宇治若郎子の宮処の歌一首
1795 
妹等がり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ

「愛しい人のところへ今来た」という意味と同じ「今木」の嶺、そこに茂りたっている「嬬を待つ木」という意味の松の木をいにしえの人(宇治若郎子)は見たのだろうか。
宇治若郎子の宮処の「松の木」は、ここに住んでいたあの悲劇の皇太子が見た松の木なのだ。


人麻呂の歌の題詞にある「宇治若郎子(うじのわきのいらつこ)の宮処の歌」、何とも意味深な題の付け方です。宇治若郎子の宮処で、人麻呂は松の木を見て、古人を偲んだのです。「松」といえば、初期万葉集では「岩代の結松」が読み手の念頭に浮かぶのです。人麻呂も「松」に関しては紀伊国の「岩代の松」と結びつけた歌を多く詠んでいます。ですから、松といえば、悲劇の皇太子・有間皇子が思い出され、それを宇治若郎子の伝承と結びつけて詠んだと思います。
人麻呂の作歌活動は日本書紀の成立以前と考えられますが、彼はどうして書紀のエピソードや神話の中身(自分の歌に詠みこんでいる)を知っていたのでしょう。
(考えられることは、人麻呂は宮廷の中に入ることができる知識人だったと云うこと。更に、正史の編纂に携わる人とも交流があったと云うことでしょう。)

宇治若郎子について、おさらいしましょう
万葉集では、難波高津宮天皇(仁徳天皇とされている)の名が巻二に出ていましたが、宇治若郎子はその弟で皇太子でありながら、兄に皇位を譲るために自殺してしまったという人です。古事記も日本書紀も、皇位継承の争いは親族間でありました。それは一方の死によって決着しています。ですから、宇治若郎子も自殺ではなく、他殺の可能性が大でしょうね。

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更に、巻九の人麻呂の歌についておさらい
巻九は特別な巻でした。その巻九の「挽歌」の冒頭には、人麻呂の歌が五首並びます。1795番歌に続くのは、下の四首でした。
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既に紹介していますが、巻九は紀伊国行幸の十三首のために編集されていたのでしたね。

次に巻一の7番歌、額田王の歌です。

7 秋の野の美草刈り葺き宿れりし 宇治の都の仮廬(かりほ)しおもほゆ


秋の美草を刈り取って屋根を葺いて旅宿リした宇治の都の仮廬が、あの仮廬こそが偲ばれる(そこに宿リなさったあの方のことが)

額田王が「過去の思い出を懐かしんでいる」歌で、それは、旅宿リをした天皇の仮廬です。その天皇は旅の宿の屋根を草を刈り取って葺いたというのです。宮子(都)という以上は、天皇のお住まいです。旅寝の仮の住いでも宮子(都)と呼びました。
さて、この歌について、後世の編者には「いつどこで詠まれたのか、詠み手も額田王か天皇御製歌か、分からなかった」のです。

一書には比良の宮に行幸が大化四年(648)で、書紀には「斉明五年正月(659)
に紀伊温湯から帰り、三月に吉野の宮、その後に比良の浦に行幸した」と長い左脚で説明されています。

ここで、「秋の野の美草刈り葺き宿れりし」がぴったりと収まるのは、「斉明五年の正月に紀伊温湯から帰った」です。
斉明天皇は前年(658)の秋から紀伊温湯に行幸していました。ですから、額田王は前年の秋のことを詠んでいるのでしょう。

将に、斉明四年(658)十一月に起こったのが「有間皇子事件」でした。「わが背子は仮廬作らす草なくは…」、あの歌を思い出してください。草を刈り取って旅の仮廬としたのは、有間皇子だったではありませんか。

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もし、この歌が斉明帝の御製歌であれば、美草は御草となります。
 
秋の野の御草を刈り取って屋根を葺いて旅寝をしたあの皇太子、いえ、あの宇治天皇の都、一夜の都となった仮廬が思い出されてしかたがない。

と、若くして政変により命を落とした皇子を斉明天皇が偲んだことになりましょうか。しかも、是を編集した学者は、額田王が斉明四年(658)の秋の出来事を詠んだ歌だと知っていたと思います。だからこそ「斉明五年(659)正月、紀伊温湯から帰った」と遠まわしに書いたのです。

つまり、後の学者は、7番歌と額田王の9番歌「・・我が背子がい立たせりけむ いつ樫が本」と結びつかないように気を配ったのでしょうね。
すると、8番歌「にぎたづに船乗り背むと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」の歌が、ここ8番目にはめ込まれた理由が分かります。
9番歌は「紀伊温泉に幸す時」の歌で、658年の有間皇子事件を詠んでいます。8番歌が百済救援の時の歌なら660年以降の出来事になりますから、歌の時期が入れ替わっています。                                                                                                                       
本来なら、7番歌、9番歌、8番歌と並ばなければなりません。もともとは、7・9・8・の順だったでしょうね。入れ替えたので読みにくくなり「脚注」がつけられたのです。
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額田王も人麻呂も率直に「有間皇子と宇治若郎子」と結びつけて詠んだと思います。

「にぎたづに船乗りせむと」の歌が、百済救援の時の歌ではない可能性もあるでしょうから、まだ考察する余地を残しておきましょうね。

私といたしましては、万葉集の人麻呂歌集に大変興味を持っています。そのうちご紹介をするつもりです。なかなか面白いし、納得の内容なのですが。その前に、あまたの予備知識がいるので、何度も同じことを確かめている処です。


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by tizudesiru | 2018-01-26 02:01 | 320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌 | Trackback

持統天皇の紀伊国行幸・紀伊路を歩けば見えてくる謎

玉津嶋磯の浦見の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
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と、紀ノ国で四首を詠んだ人麻呂。こ歌の女性は人麻呂の妻とされています。しかし、私には妻とは思えません。確かめてみましょう。人麻呂は紀伊国で生活したのではないのです。此の歌の人麻呂は、旅の途中です。
紀伊国は、黄葉(もみじば)のようにはかなく逝ったその人の思いでの地です
その人と過ごした(遊んだ)磯を再び訪れるのは、人麻呂にとって悲しく寂しい…そこは形見の地なのです。
形見の地だからこそ、すぎにし人の霊魂が漂っている地だからこそ、ここに来たのです。
その人の霊魂に再会するために、その人が幾たびも来た海辺、思いで深い磯を求めて。
そこは、いにしえに、あの人と一緒に見た「黒牛方」という有名な岩場が見える所。
帰りには「玉津嶋の磯の真砂の臭いを染みこませていこう。あの人も触れた砂なのだから」と
玉津嶋の磯はその人には特別なところだったから、人麻呂はその真砂に触れたいと思ったのでした。


誰の霊魂に触れるために、玉津嶋の磯まで人麻呂は出かけたのでしょうか。わたしは持統天皇の霊魂だと書きました。
。(過去に人麻呂が紀伊国に来たのは、持統天皇の行幸に従駕してのことでした。)

この「紀伊国に作る歌四首」の旅は、ゆったりした観光旅行ではありません。
深い思索と決意のもとに、人麻呂が紀伊国を再訪問した時の歌です。四首には甘い感傷もありません。有るのは亡き人への深い恋慕と敬慕の思いです。
万葉集を読むかぎり、この歌の女性は、普通の人と考えられてはいません。人麻呂がその霊魂に触れに来た女性、霊力のある高貴な女性ということです。霊力は高貴な人に備わったのです。(この時代の人は、そのように考えていたと、古事記などを読むかぎり思います。わたしがこう考えているのではありません。)

この時代の男女は、対等ではありません。女性の性は、すべて族長のものでした。何処に輿入れするかだけでなく、姫君でさえ宴会の引き出物として、お土産のようにやり取りされていたのです。古事記や日本書紀を読んでみてください。少しも対等ではありませんよ。その運命に従うことが、女性の美徳でした。主人の男性が死を賜ったら、女性は共に死んだのです。選択肢は有りません。女性が生き残れるかどうか、すべて男性側の社会が決めたのです。(現代から見ると非常に残念なことですが)

しかし、人麻呂のこの歌の女性は普通の人とは違います。すぎにし人は、霊力を持った人です。「黄葉のすぎにし人」という言葉を、人麻呂はそのように使っています。

この事を確かめに、紀ノ國に出かけてみませんか?
人麻呂が如何なる女性を敬慕したのか、その足で紀伊国を訪ねて確かめてほしいのです。

玉津嶋から始めませんか。持統天皇の紀伊国行幸の跡を訪ねる旅を。スリリングでミステリアスな万葉集の謎を解くために、ぜひ。
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玉津嶋神社
山部赤人の万葉歌碑
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玉津嶋神社の裏山の奠供山には5分で登れます。そこから片男波公園を眺めましょう。古代の紀ノ川の河口は、ここでした。吉野から紀ノ川を下って、玉津島まで来れたのです。奠供山には孝謙天皇の望海楼がありました。聖武天皇も持統天皇も文武天皇も見た風景を偲んでみるのもいいですね。
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名草山
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片男波公園の砂嘴が見えます。
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何処を見ても桜、山桜が素晴らしい。
柿本人麻呂の「紀伊國に作る歌四首」については、既に紹介しています。カテゴリ157「持統天皇の霊魂に再会した人麻呂」その他でも。
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玉津島神社は不思議な伝承の神社です。鏡山に竈門神社もあります。
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そして、牟婁の湯まで行きましょう。
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春は和歌山へ・紀伊国の旅をおすすめ
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紀伊国国分寺の春も最高に美しいですね。

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by tizudesiru | 2018-01-21 01:12 | 和歌山に旅しよう | Trackback

桓武天皇・平安京遷都の意味をラインで読む

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(大阪市難波宮址)
前回のブログで、わたしはラインを使って難波宮と平安京と延喜式の話をしました。(延喜式とは十世紀に奏上された「律令を使う上での行政の細則」で、細かな令の取り扱いをまとめたもの、それを「式」といいます。)
前回のブログで書いた難波宮と三都(藤原宮・平城京・平安京)のことですが、お気づきのように、難波宮は7・8世紀の皇都ですから、10世紀の延喜式の時代と同じ次元で扱えば齟齬が生じるでしょうね。とはいえ、ラインで読むと面白い世界が広がると思います。今回はラインを使って都の姿を読み解きましょう。前回の捕捉であり、祭祀ラインの紹介になります。

長岡京から平安京へ都は遷った
平安京遷都は、桓武天皇の延暦十三年(794)です。
桓武天皇は母の身分が低位であったために極位に登ることはないと思っておられたようです。しかし、井上皇后と他戸親王の廃后・廃太子に続く薨去により、極位への道が開いたのです。
そこには藤原氏内部の争いが絡んでいました。桓武天皇は弟の早良親王を皇太子としましたが、ほどなく政争に巻き込まれ早良親王は四国に流され憤死されました。(桓武天皇には心痛の種となったようです。歴史書から早良親王の記述は削除されているそうです。)


では、平安京遷都のはなしに参りましょう
万葉集の時代の平城京から話が飛びますが、桓武天皇は平安京の土地をなぜ選んだのか、その理由を考えてみましょう。ラインを使えば、一つの答が導き出されます。
天武朝はあまたの政変に翻弄され遂に皇統が絶えたのですが、続日本紀によると、桓武天皇は「天武朝から皇統が天智朝に戻ったことは易姓革命である」と考えたようです。

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平安京は、東西関係にある大津宮を意識して造られた
桓武天皇が京に選んだ土地は、天智天皇の大津宮の西でした。そして、大友皇子(弘文天皇)の宮の西でもありました。そのラインが平安京の一条と二条にほぼ重なります。
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(白ポイント・大津宮錦織遺跡・ここからラインを引いています)
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ラインを見ると、平安京が選ばれた土地であると分かります
東西のラインを見る限り、桓武天皇は天智朝を引き継ぐ決意をしていたと言えます。お気づきのように、最初の大極殿は、現在の御所の地ではありません。現在の御所より西にずれています。度重なる火災によって元の位置より東に建てかえられたのです。
羅城門から都に入ると、九条に東寺と西寺があります。
都の南の入り口の羅城門は、黄色のライン上にあったのです。
桓武天皇は、都内に平城宮のように寺院を建立させませんでした。
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錦織遺跡(近江京)からの紫ラインが一条と重なり、三井寺からの水色ラインが二条と重なりました。赤のラインは東堀川と西堀川です。この四角の中に御所は造営されていました。
何処を終点にしたらいいのか分からなかったので、紫ラインは仁和寺に、水色ラインは愛宕山に向けて引きました。どんな方法で測量したのか分かりませんが、結果として御所が何処に作られるべきか分かりますし、それをラインが教えてくれるのです。
そこを選んだ人と、選ばれた理由が分かるのですね。

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嵯峨天皇の時代には、空海の霊力で平安京は守られた
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さて、平安京を守る空海の結界を何度も紹介しました。上賀茂神社と南北に向き合うのは東寺です。これは何故? 実は、空海が国家守護の祭祀を始めるのは、嵯峨天皇の御代です。桓武天皇崩御により皇位を受け継いだ兄の平城天皇は、三年で弟の嵯峨天皇に譲位しました。病気がちであったというのですが、譲位後には元気になり再度極位に登ろうとされました。なにより「都は平城京に戻すべきだ」と主張し、遂には「薬子の変」まで引き起こし、その為に出家するという事態となったのです。嵯峨天皇の御代は政変から始まったのです。そこで、

嵯峨天皇は、国家守護の仏教を学んだ空海に東寺を任せ、天皇家と都の平安を守る寺としました。(明治まで東寺の僧が御所で一月一日に護摩焚きの祈祷を行っていました。明治以後は、東寺のみで祈祷を続けているそうです。)

その空海の守りの結界が上のラインです。

九世紀の後半に皇統存続の危機
しかし、肝心の皇統が切れそうになる事態が起こります。そこで、宇多天皇は皇籍に復帰し、即位しました。そして、在位十年で御子に譲位。譲位された醍醐天皇は、延喜式により全国の「神社の祭祀」を見直し、神祭りを強化したのです。当然、天皇家の安定と安寧の為の祭祀です。(ここで、大きく祭神の入れ替えなど有ったのでしょう。)

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すると、三か所の延喜式内社に御所と難波宮が挟まれた時期は、上の図を見ると、焼失した御所が建てなおされる時でしょうか。神聖なラインの上に御所改築の場所が選ばれたかもしれません。
更に、御所が移動したら結界も変わるのでしょうか。貴船神社のラインは新しい御所を守っています。都の守りは時代の変化に合わせて徐々に変わって行ったのです。それが、祭祀ラインで分かります。

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緑ラインが行き着くのは、東は伊勢神宮(内宮)、西は淡路島の伊弉諾神宮です。伊弉諾・伊勢の東西ラインは、文武天皇陵のすぐ南を通ります…
何とも面白い結果を見せてくれます。

今日は祭祀ラインを紹介しました。グーグルアースを使って、ラインを引くのは誰もができることです。神社は移動していますからなかなか難しいのですが、山と古墳を結んでみると古代史の謎が解けるかも知れません。
貴方もやってみませんか。



by tizudesiru | 2018-01-08 21:48 | 317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ | Trackback

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年
藤原宮は15年で捨てられたが、難波宮は生き延びた
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(大阪城南・難波宮址)
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(歴史博物館画像・難波宮)
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難波宮は交通の要衝にあり、外交・経済活動の要の地にありました
何処と深くつながっていたか、ラインで見ましょう

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東西に意味があるなら、藤原氏が難波宮の真東に社殿を建てた理由はひとつ
藤原宮は捨てられましたが、難波宮は長く使われ続けています。平城京遷都を計画した時、為政者にとって難波宮はどのような意味があったのでしょう。春日大社の位置を考えれば、その答えは自明のことでありましょう。

難波宮から見ると平城京はほとんど真東に当たりますが、難波宮大極殿に対応するのは平城京の大極殿ではないのです。難波宮大極殿からの東へラインを引くと、東西の関係に収まるのは藤原氏の氏神・春日大社です。春日大社は難波宮の位置を意識して造られたのです。藤原氏の氏神と孝徳天皇霊の霊的な一体化です。
聖武天皇は難波宮を副都としましたから、難波宮はずっと重要な位置に在りました。

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新しい体制(律令政治)への転換を目指して「大化の改新」の詔をだした孝徳天皇の難波宮。そこは、律令政治の出発の地であり、理想の地でありました。
律令政治を藤原鎌足も孝徳天皇と共に目指しました。豪族の合議ではなく、律令によって国を動かす。富の分配を豪族以外で行うためには、律令が必要でした。
春日大社の社殿の位置は、鎌足と孝徳天皇(軽皇子)は深く結びついていたと強調したかったから選ばれたのでしょう。

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孝徳天皇の難波宮は人々を驚かせた
第一次難波宮は掘立柱の宮殿でしたが、「表現できないほど素晴らしい」と人々を驚嘆させました。この難波宮を詠んだ歌が「難波津の歌」であると、去年このブログでも書いています。仁徳天皇の代を寿ぐ歌ではなく、孝徳天皇の宮を寿ぐ歌に他ならないと。
発掘された難波宮の壮大な宮殿跡を見ると、「大化改新はなかった」などとは思えません。大化改新の詔は、孝徳天皇の理想が具現化したものに違いないでしょう。藤原鎌足は孝徳天皇(軽皇子)と理想を語り合っていました。
(鎌足は軽皇子を尊敬していたし、皇子も鎌足を気に入っていたのです。)
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その後、難波宮は火災にあいながらも存続し続けました。天武天皇も持統天皇も難波宮を使いました。文武天皇も行幸しています。
瓦葺の第二次難波宮の宮殿は、第一次難波宮とほぼ同じ位置に同じ配置で造営されました。奈良時代には、藤原氏は鎌足と軽皇子を結びつけ、春日大社の地を大極殿の真東としたのです。東西ラインは難波宮の重要性を肯定していますが……他のラインはどうでしょうか。

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不思議なことに、難波宮は平安時代の「延喜式式内社」に挟まれているのです。
延喜の帝(醍醐天皇)の代に奏上された延喜式、その中の式内社の中でも官より奉幣されるべき名神大社がありますが、その名神大社に難波宮が挟まれるという、由々しき事態になっているのです。

醍醐天皇は、皇統が切れそうになった時、皇籍に復帰された宇多天皇の御子で、宇多天皇の在位十年に譲位を受けた天皇でした。そして、どうしても果たさなければならない使命が、皇統の継続と維持でした。だからこそ、全国の神祭りを見直し、皇統の弥栄と継承を祈るための神社が選ばれました。
皇統への祟り神は封じ込められ、退座させられ、古代の氏族が祭祀する神々の霊力は断ち切られました。そのために式内名神大社は配置されました。(このことを紹介することが、このブログを始めた理由でもありました)
古代には霊力は信じられていたし、それは日常生活も政治も経済も左右したのでした。


画像を見てください。
下鴨神社・御所・酒解神社・難波宮・生国魂神社のラインは、難波宮大極殿を見事に挟みます。下鴨神社など三社は、みな式内名神大社になります。式内社の三社に挟まれることは、めったにありません。しかもラインは天皇のお住まいそのものを通ります。すると、御所と難波宮は三か所の式内社の霊力で守られたことになりますね。

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舒明天皇・天智天皇・持統天皇が詠んだ天香具山にもラインが届く
また、明日香の天香具山と結ぶと、越智神社(若干ずれている)を通り、藤原宮の大極殿をラインが通ります。平安京・平城京・藤原宮がこんなラインで結ばれるとしたら、どんな意味があるかわかります。藤原宮の大極殿(白ポイント)を通るのですからね。

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不思議なことに、天香具山と結ぶと藤原宮が、下鴨神社と結ぶと御所が取り込まれるのです。こうして、十世紀には三都は新しい物語に組み込まれていくのです。
ラインは自然にできたものではありません。その時代を生きた為政者の切なる願いや、暗躍する野望を背景に作られたものなのです。
孝徳天皇崩御の654年から聖武天皇崩御の756年の約百年間、その後も難波宮は激動の時代をずっと見まもりました。藤原宮や平城宮より長く存続した宮処なのです。
それは、万葉集のほとんどの歌が詠まれた時期ともだいたい重なります。

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あらためて、難波津の歌を読みかえしましょうか。孝徳天皇を偲びながら。


by tizudesiru | 2018-01-07 12:30 | 316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮 | Trackback

飛鳥の明日香と呼ばれた霊魂の地が二ヵ所ある理由

飛鳥はいつからアスカと呼ばれたのか
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(藤原宮から天香具山)

和銅三年、「飛鳥の明日香の
里を置きていなば」と別れを惜しみ、元明天皇は明日香を去りました。

和銅三年(710)には、[飛鳥(とぶとり)の明日香]という言葉が定着していたのですね。
しかし、古事記(712年撰上)・日本書紀(720年撰進)では、アスカは「飛鳥」で統一されてます。712年頃までに「飛鳥」は、「とぶとり」ではなく「アスカ」に変わったのです。元明天皇は古風な言い回しを用いて古京を懐かしんだのでしょう。

それにしても、社会科では「あすか時代」を飛鳥時代と書き、博物館のこの時代の仏像にも「飛鳥仏」と書かれています。飛鳥(とぶとり)をアスカと読むようになったのは、いつからでしょう。

ブログにも書きましたように、万葉集には「飛ぶ鳥の明日香」は四例、それは柿本人麻呂の川嶋皇子の挽歌(持統五年・691年)、同じく人麻呂の明日香皇女の挽歌(文武四年・700年)、平城宮遷都の時の元明天皇の歌(和銅三年・710年)、巻十六の由縁雑歌(後期万葉)に一例です。

「飛ぶ鳥の明日香」は、限られた地域の限られた意味を持つ言葉となっています。しかも、挽歌と結びついた言葉です。元明天皇も死別した夫や息子を「君があたりは見えずかもあらむ」と偲びました。やはり亡き人につながります。「飛ぶ鳥の」を美称とかたずけるわけにはいかないでしょう。「アスカは亡き人を思い出させる地」として、霊魂の地「アスカ・飛鳥」となったのです。
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また、人麻呂が草壁皇子(持統三年・689年)の殯宮で詠んだ歌には「飛ぶ鳥の浄(きよみ)の宮」とありますから、「飛ぶ鳥の明日香」はまだ使われていません。
とすると、「飛ぶ鳥の明日香」が定着したのは、持統三年から五年の間となりましょう。「飛ぶ鳥の浄の宮」は、人麻呂にとっても、万葉集にとっても大変重要な言葉となります。

ただ、丁丑年(天武六年677年)十二月上旬に葬ったと記されている小野毛人墓誌銘に「飛鳥浄見原宮治天下天皇」とあり、丁丑は天武六年(677年)となるのです。が、この墓誌の作成年次には疑問が持たれています。後に作られた墓誌だというのです。
大方は、明日香が「飛鳥」と定着したのは、天武天皇の御病が重篤になった時、平癒を願って「朱鳥」と改元され、宮を飛鳥浄御原宮というようになったからだと日本書紀(720年)に書かれていますから、これを支持しています。


遠津飛鳥は捨てられた…蘇我氏の残像を払う為に
考えてみると、不比等はなぜ明日香を選ばなかったのでしょう。
平城宮遷都は「藤原不比等の暗躍の結果だった」と、このブログで書きましたが、明日香を捨てる理由は何でしょう。藤原氏所縁の談山神社も近くにあって、鎌足の産湯井戸跡もあるし、大原(小原)は藤原氏の出身地だったようですし。更に、中大兄皇子と藤原鎌足には「乙巳の変」の所縁の土地が方々にあります。でも、明日香は都として選択されなかった。
一つには、都を大きくするには飛鳥は狭かったし、水の供給に問題があったと云われています。確かに、明日香川の水では十分ではなかったでしょう。

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(明日香川のながれ・甘樫の丘の北)
しかし、飛鳥を切り捨てる理由はもっと他に、深い意味があったのではないでしょうか。そこには蘇我馬子も住んだという嶋荘には嶋宮という宮殿があり、岡宮があり、浄御原宮があり、天武朝の宮が集中していました。が、何より蘇我稲目以来の蘇我氏の影も強く残る土地だったというのが大きかったのではないでしょうか。昔は、大伴氏も中臣氏も蘇我氏の組織の中に組み込まれていたのですから。
だから、

蘇我氏の残像を捨て去ること、それが遷都の最大の目的だった。
舒明天皇の墓を押坂内陵(八角墳)に改葬した理由も、「明日香からの切り離し」です。天智帝と同じ八角墳にしたのは、同じ皇統であることを強調するためです(元の陵墓は明日香にあったが改葬されたとすると、そこは…)。
推古帝と竹田皇子の合葬墓も明日香から「近津飛鳥」に改葬された(前方後円墳ではなく方墳として改葬した)ということです。方墳ですから、舒明帝の八角墳とは形式を変えています。選ばれたのは、近津飛鳥でした。

近津飛鳥と呼ばれるようになったのは、いつ?その理由はは何か?
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用明天皇陵(方墳)も、孝徳天皇陵(円墳)もなぜか近津飛鳥に在ります。それも、改葬されたからです。同じく王家の墓を「明日香」から切り離したかったからです。
かし、王墓の改葬ですから、簡単に実行できません。だから、人々を納得させる(欺く)ために、都に近い霊魂の地として「近津飛鳥」と呼んだのです。「飛鳥」は奈良朝が作りだした「当て字」でしょう。
要するに、明日香に残したのは、蘇我氏と天武朝の人々の墓だった(天武持統陵は「八角墳」)……それが奈良朝の藤原(不比等)氏の構想でした。

誰かが計画し実行しなければ、なんとなく墓が改葬されるはずがありません。すると、舒明・用明・推古の陵墓の改葬は、ある時期(それは奈良時代か)に一斉に実行されたと云うことになります。それは、「近つ飛鳥」という呼び名から分かります。近い遠いは都を基準に使われましたから、「近津飛鳥」は明日香より平城京に近い明日香の意味です。そして、飛ぶ鳥が「飛鳥(あすか)」となった。
理由は様々にあったでしょうが、ある権力者は藤原宮の人々(天武朝)の霊魂を明日香に残した(藤原氏が封じた)ままにしたかったのです。

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(叡福寺・聖徳太子陵墓)
とすると、聖徳太子陵が近津飛鳥に在ることは不思議なことになります。

孝徳天皇の墓は聖徳太子廟ではないか

大王ではないのですから、聖徳太子が実在でも改葬の必要はないのです。では、叡福寺の陵墓は、誰の墓なのか。それは、もちろん孝徳天皇の改葬墓です。他に該当する天皇はありません。石室の構造、石室の切り石からして終末期、石棺の台には格狭間(こざま)が彫られていました。明らかに後世の仏具の装飾でした。すると、聖徳太子墓では有りえません。更に、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(聖徳太子の母)も一緒ですからね。
大胆な説ではなく、孝徳天皇の改葬墓と考えたが自然なのです。三骨一廟の三骨とは、孝徳天皇・間人(はしひと)皇后・斉明天皇以外には考えられません。二人の女性は斉明天皇と間人皇后で、牽牛子塚古墳からの改葬です。この二人を明日香に残したままにするとは考えられません。舒明天皇陵の改葬をしたのなら、其の皇后(斉明天皇)の墓も改葬するはずでしょう。

改葬されたのです、二人の女性も近つ飛鳥に、「孝徳天皇の玉璽を守り、天智天皇に渡した中宮天皇として」間人皇后も合葬されたと考えるのが自然です。同じ間人皇后ですから、後の人々は伝承としての「穴穂部間人皇后」と名前の点で混同したかも知れません。
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これで、昨年から書いて来た「永福寺の聖徳太子陵墓の謎」の一部を書いたと思います。叡福寺聖徳太子陵の不思議については、去年のブログを見ていただきたいです。
昨年は、謎だらけであることを紹介していました。

明日香はなぜ「飛鳥」となったのか、それは何時なのか、いかなる意図があったのか、それと「飛鳥」と呼ばれる「近津飛鳥」はどうつながるのか、書きました。

七世紀から八世紀の王墓の改葬がなぜ多いのかも絡んでいましたが、そこには大王家と結んだ藤原氏の大きな野望と創作したい物語があったのです。
その物語の創作は、日本書紀を正史にする上に欠かせない作業だったのかも知れませんね。



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by tizudesiru | 2018-01-05 14:22 | 315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬 | Trackback

彷徨う霊魂・飛ぶ鳥の明日香

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今年宜しくお願いいたします
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2017年のブログを振り返えると、どこかで聞いた話だな、と思ったことはありませんでしたか?
万葉集の時代は、悲しい時代でした。


有力な皇位継承者が追い詰められ、家族ともども自ら命を絶つ話が、万葉集の時代には数多くありました。
歴史の中で似たような事件がずっと繰り返されていると思います。政敵は近親者で、結果として皇位継承者が命を奪われています。

宇治若郎子を追い詰めたのは兄の仁徳天皇で、宇治若郎子は自死しました。
木梨軽太子と軽太郎皇女の話も、結果として弟に皇位を奪われ二人は自殺しました。

山背大兄皇子は従兄弟の蘇我入鹿に攻められ家族と共に斑鳩で最後をとげました。
古人大兄皇子も吉野で家族とともに
異母兄弟の中大兄皇子に討たれました。
有間皇子も従兄弟の中大兄皇子のために藤白坂で命を絶たれました。
大友皇子(弘文天皇)も、叔父の大海人皇子側に壬申の乱で敗れ自経しました。
天武天皇の願い空しく大津皇子も死を賜りました。


後期万葉集の時代も、悲劇は続きました。

長屋王も叔父たちに糾問され自尽し、家族も共に死を撰ばされました。

聖武天皇の遺言で皇太子となった道祖(ふなど)王は、橘奈良麻呂事件でと共に杖下に絶命しました。
長屋王の遺児も次々に事件に巻き込まれて露と消えてゆきました。

この忌まわしい時代を生きた人の歌が詩歌として残されましたから、万葉集は歴史のタイムカプセルとなりました。
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数年前、何気に詠んだ万葉集の歌が思わぬ事実を突きつける、そんなことが度重なって、わたしは万葉集そのものを読み直そうと思ったのです。そして、この数年の間に、思いもよらなかった結論に行きついてしまったのです。その一つ一つを少しずつ書いてきました。
万葉集の時代を生きた人の喜びと愛と悲しみと無念を、わたしが感じたままに伝えたいと思っています。今年も読んでいただきたいと思います。
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そして、地図を楽しもう
蘇我馬子がどんな館に住み、本当の墓が何処なのか、万葉集では読めません。島の大臣と呼ばれていたので、明日香の嶋庄にある石舞台が馬子の墓と言われています。手に入るわずかな情報を使って地図にラインを引くと、様々な事が分かります。
わずかな情報でも、蘇我蝦夷や入鹿の墓が何処かを考えることができます。
わたしはかならず直線(ライン)で探します。
石舞台古墳と真の欽明天皇といわれている見瀬丸山古墳をラインでつなぎました。すると、二つの遺跡をラインが通りました。
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小山田遺跡と菖蒲池古墳です。
大小の二つの墓が甘樫丘の南すそに並んでいますから、これが、書紀にも書かれた並び墓、蘇我の蝦夷と入鹿の生前造られた壽墓という説がもっぱらです。

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甘樫丘の裾部にある二つの遺跡。ラインを引いた結果を見ると、小山田遺跡と菖蒲池古墳は蘇我氏関係の墓である、という説と矛盾しません。ラインは有効なのです。
そして、見瀬丸山古墳が真の欽明陵なら蘇我馬子大臣との関係は他人ではない・一族の可能性あり、と云うことになります。

(では、磯長(大阪府)・近津飛鳥 にあるという馬子の墓はどう考えればいいでしょうか…という新たな問題も出てきますが。磯長には、推古陵・用明陵・孝徳陵・敏達陵の他に聖徳太子陵墓もあります。)この事は、書くつもりです。
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蘇我馬子の死後ですが、石舞台と呼ばれる墓が破壊されたのは何故でしょう。封土ははがされ、あったはずの石棺は破壊されたらしく欠片しか残されていません。その副葬品の一つも伝わってはいないのです。7世紀の方墳とされながら、被葬者の伝承もありません。645年の乙巳の変は、大変な出来事だったのでしょう。石舞台が破壊された理由はここに求める他ないでしょう。

他にもいろいろラインを引いてみました。すると、藤原宮の大極殿から石舞台にラインを吹くと、紀寺跡と飛鳥寺がラインの上に乗ります。藤原宮の大極殿からまっすぐ南にラインを伸ばすと、天武持統陵にラインが届きます。
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このラインは、なんとあの菖蒲池古墳を縦断していました。そもそも、このラインはあの天智陵から南に伸ばしたラインなのです。すると、菖蒲池古墳の被葬者は何者なのでしょうか? 蘇我入鹿なら、彼は高貴な重要な人だったとなるのですね。
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さて、三角形が平安京を守っています
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天智天皇陵は三角形の底辺から南に延びたピンクのラインの起点です。この陵墓は、平安時代には聖地となりました。
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天智帝の陵墓は、平安京が造られる時、都の守りとなりました。平安京が天武帝の皇統から天智天皇の皇統に変わったことが、このラインを使った大きな理由だと思います。①は皇居でしたが焼失したので、現在地➁に皇居が遷っています。平安京の守りの神社は上賀茂神社、寺は東寺でした。皇居が➁に遷ったあとピンクのラインの北の端に貴船神社がありますが、ここが都と皇居を守りました。

ラインはその時代の権力者の思いを伝えています。
地図を見ると、上賀茂神社と東寺の間に二条城(江戸時代)が入り込んでいます。二条城は、平安京の大事な霊力を断ち切りました。上賀茂神社と松尾大社の間には金閣寺(室町時代)が入り込んでいます。室町幕府もちゃんと考えて金閣寺を建てたのです。二条城や金閣寺によって霊力を遮っているのです。武士は天皇家や皇族貴族が持っていた霊力を畏れたに違いありません。

と、このようにラインでよめるのです。
ラインの話はまだありますが。

また、今度。



by tizudesiru | 2018-01-01 00:10 | 2018の夜明けに思う | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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