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人麻呂の挽歌に詠まれた天智帝の皇統・持統天皇は見捨てなかった

古事記・日本書紀は「飛鳥」、万葉集には「飛鳥の明日香」…今日は、歌に込められた「飛鳥の意味を考えます。万葉集には「飛鳥の明日香」は四例あり、先に紹介した「元明天皇の御製歌」ともいわれる歌一首と、柿本人麻呂の挽歌二首と由縁雑歌(巻十六)の一首です。では、「飛鳥」について人麻呂の歌で考えましょう。

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(飛鳥川・豊浦)

 人麻呂は天武朝の皇子のために挽歌を読んだのではなく

天智帝の皇統のために挽歌を献じた

柿本朝臣人麻呂は、長皇子や舎人皇子に献歌していました。なぜ二人の皇子に献歌したのか、その理由は二人が天智天皇の御娘の大江皇女と新田部皇女の所生だったからだと書きました。天智帝の皇統として皇子達を持統帝が認め、人麻呂に献歌させた。天智帝天武帝の孫にあたる二皇子には皇位継承者として、持統天皇も特別に目をかけていたと、書きました。


持統天皇が寵愛していた皇子皇女だったから人麻呂が歌を献じたのであれば、挽歌でも同じことが言えるのではないでしょうか。人麻呂は、草壁皇子、高市皇子、川嶋皇子、明日香皇女に挽歌を献じています。


草壁皇子は持統帝の一人息子ですし、妃は天智帝の御娘・阿閇皇女です。挽歌は当然献じられたでしょう。しかし、後に作られた高市皇子の挽歌よりはるかに短くなっています。そこには「神々に選ばれた皇太子であったのに、自ら天原の岩戸を開き神上がりされた。」と詠まれていました。挽歌から読めるのは病死でも事故死でもなく、自死であったということです。日並皇子尊の覚悟の死を人麻呂は嘆きました。続いて、皇子の急な薨去で途方に暮れる舎人の歌が二十三首ありますが、彼らも皇子の急死に動揺しているのです。既に紹介しています。

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次に、高市皇子の長い挽歌は太政大臣としての地位を示し、妃の御名部皇女を慰めもしたでしょう。御名部皇女は天智帝の御娘で、阿閇皇女(元明天皇)の姉でした。大津皇子・草壁皇子亡き後、高市皇子の存在がいかに大きかったか、人麻呂は皇子の立つ位置をきちんと周囲に挽歌で示しました。高市皇子の子ども達が悲惨な最後を迎える要因はこの挽歌からも詠めるのです。高市皇子の存在は大きすぎましたからね。既に紹介しました。



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(飛鳥川の夕暮れ)
草壁皇子と高市皇子の挽歌は既に紹介していますから、今日紹介するのは「川嶋皇子」の挽歌です。
川嶋皇子は天智帝の御子で、大江皇女の弟です。吉野盟約の時の六人の皇子の一人でもありました。大津皇子の親友でしたが、その親友の謀反を密告しています。
川嶋皇子は持統四年(690)の紀伊国行幸に従駕しています。そこで、持統天皇に歌を献じました。

巻一「紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌 或書に高市連黒人という」
34 白浪の濱松が枝の手向け草幾代までにか年の減るらむ

白波が打ち寄せる浜の松の枝を手向け草として(結ばれて)神に祈られたという。有間皇子が祈られた時からどれほどの月日がたったのだろうか。松はまだここにあるのに。(わたしは有間皇子に逢ったことはないが、話は十分に聞いている。あの方は謀反の罪で命を落とされたが無実だったのだ。わたしは親友だった大津皇子を思い出す。大津皇子も無実ではなかったかと。)

紀伊国行幸(690)の翌年、河嶋皇子は薨去しています。早すぎる死だったのではありませんか。書紀には「皇子川嶋」と書かれ、名より皇子が先に書かれ「皇子川嶋」は敬称とはなっていません。静かに、罪人扱いをしているのです。本当に彼は罪を犯したのでしょうか。

では、万葉集巻二「柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献づる歌一首併せて短歌」を見ましょう。
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「飛鳥明日香」が長歌の冒頭に来ています。この詞で、この長歌が挽歌であると聞き手に理解させてしまうでしょう。「飛鳥」とは「鳥が飛び交う地・霊魂が漂う地・祖霊が鎮まる地」という意味があるからです。「呼兒鳥」でも紹介したように、万葉集の鳥は霊魂の顕れでもありました。

人麻呂は、川嶋皇子の挽歌では敬語を「嬬の命」以外には使っていません。人麻呂は川嶋皇子の薨去を嘆きながら、妻であったという泊瀬部皇女(天武帝の御娘)の立場で歌を詠み、敬語を避けたのです。

人麻呂が心のどこかで皇子川嶋を責めていた、のであれば、持統天皇も同じように皇子川嶋を責めていたのでしょうか。川嶋皇子は天武帝崩御年(686)の八月に封戸を加増されています。九月崩御、十月大津謀反密告の前に封戸の加増だったのです。やがて来る天皇の死「その時は、よろしくな」と、頼んだ人物がいるのです。
そして、紀伊国行幸(690)で「結松」の歌を詠んだ翌年の一月にも封戸の加増があり、同じ年の九月に没しています。この流れを見ると、川嶋皇子は高貴な人に利用されたようにも見えます。

しかし、人麻呂は川嶋皇子の挽歌を読みました。そこに持統天皇の気持ちがなかったはずはありません。持統天皇は知っていたでしょう。皇子川嶋が皇位継承に関して「草壁皇子か、大津皇子か、どちらの皇統を選ぶか」と迫られた時、深く苦しみ悩んだことを。
天武帝の病が重篤になるにつれて、周囲が暗躍したのは間違いありません。川嶋皇子も「吉野盟約の六人の皇子」として、判断を迫られたでしょう。
その時、川嶋皇子が判断の拠所としたのは何だったのか。それが問題です。


彼はなぜ親友の大津を選ばなかったのか。
そこには、皇統の秘密が絡んでくると思うのです。川嶋皇子は天智天皇の御子なのです。大津皇子は天武天皇の御子でした。二人の皇統は違っていました。
天智と天武のどちらの皇統を選ぶのか、河嶋皇子は迫られたのです。

草壁皇子が天智天皇の御子だったからこそ、皇子川嶋は親友を捨てることができたと思うのです。それは断腸の決断だったことでしょう。

結果として、大津皇子を指示した勢力を納得させる理由が謀反だった・・・そして、結果として川嶋皇子の決断が利用されてしまったのです。

皇子川嶋は苦しんだでしょうし、それを知った草壁皇子も苦しんだでしょう。その皇位継承のごたごたは、草壁皇子の死を招きました。その翌年、持統天皇は川嶋皇子を見捨てず紀伊国にも連れて行った、そう思いませんか?

持統天皇は天智天皇の皇統の皇子を決して見捨てなかったのです。だから、人麻呂は挽歌を読みましたが、そこには敬語はなく「高光る」という皇統を示す言葉もありません。皇子川嶋は「飛ぶ鳥の明日香」の霊魂となったと詠んだのです。

人麻呂の歌には、持統天皇の川嶋皇子への哀惜の情がせつせつと漂うのです。
挽歌を読むかぎり、持統天皇は決して天智天皇の皇統の川嶋皇子を見捨てなかったと、わたしは思います。 


飛鳥」が「アスカ」となったのは、人麻呂の歌より後の時代です。
明日香が霊魂の地として定着したから、平城遷都の時に元明天皇に「飛ぶ鳥 明日香の里を…」と詠まれたのです。飛鳥は決して明日香の美称ではないし、とても政治的な言葉でもあります。

過ぎ去った人々の霊魂が漂う地であり、都ではない、という意味です。
「飛鳥の明日香」という言葉を造り出したのは、人麻呂なのかも知れませんね。

次は、明日香皇女に献じられた挽歌です。



by tizudesiru | 2017-12-26 12:27 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

天智九年法隆寺炎上、そして法隆寺は残った

天智九年夏四月法隆寺炎上
なぜこの事件が大きく取り上げられているのだろうか
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天智九年(670)夏四月三十日の夜明け、法隆寺は焼失しました。
書紀によると、「法隆寺に災(ひつ)けり。一屋ものこること無し。大雨ふり雷鳴る」全焼だったのです。五月に童謡(わざうた)がその意味を語りました。
内橋の つめの遊びに 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自 出ましの 悔いはあらじぞ 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自

板を渡した仮橋のたもとの 歌垣の遊びに 出ておいでなさい。立派な玉手の家の貴人よ、八重子の奥様よ、出ておいでなさい。後悔することはないはずです。出ておいでなさい。玉手の家の 八重子の奥様。(立派なお霊屋(たまや)の素晴らしい仏たちよ。早く出てお出でなさい。そこは火事になりますから、出てきて後悔することはありません。さ、出ていらっしゃい。お霊屋のたくさんの仏たちよ

童謡は世相を表し、人の本音や事件の真相を謡ったのです。それも影口のような、云いにくいことを謡ったのです。立派な玉手の家の女主人を歌垣に誘うなんて、とんでもないことですが、後悔することはないと教えました。
どうやら、「火つけ・つけ火」だったようです。では、若草伽藍に誰が火をつけたのでしょう?!

決断したのは、天智天皇でしょうか。
西院伽藍の金堂は天智九年の再建だと紹介してきましたし、施主は天智天皇だと書きましたし、みなさん認める所です。
その人がなぜ? 
それは… 
白村江敗戦後に俀国(倭国)から運ばれたのは、一流の仏像ばかりではなく、仏具、荘厳具、侠侍・台座など様々あったと思います。高貴な人の貴重品などは川原寺に、個人の念持仏は橘寺に運ばれたとして、残りの諸々があったでしょうから。運び込まれた斑鳩寺も困っていたでしょうね。
だから、いっきに焼いて処理した…大事な仏は再建法隆寺に運び終わった後に、です。吟味してえり分けていたと思うのです。
ですから、冷静に判断した後に焼いたと思います。

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そうでなくては、天智九年(670)以前の釈迦三尊像(623年造)の仏像は残りません。
そして、釈迦三尊像より古い金銅仏があります。仏の御姿もよく似ていますから同じ工房・時期に造られたものでしょう。
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池邊大宮治天下大王天皇とは、用明天皇のことです。小治田大宮治天下大王天皇とは、推古天皇を指し、東宮聖王とは聖徳太子のことと読まれます。

おや? ここでは東宮聖王と書かれていますから歴史とは矛盾しません。
聖徳太子は法王でも大王でもなく、東宮=皇太子でした。書紀とは人間関係では矛盾しませんが、釈迦三尊像の銘文とは大きく違います。さらに、大王天皇と彫られていて、天皇という称号が使われています。用明天皇の時代にはまだ「天皇」号はなかったはずです。ですから、この銘文は明らかに後世の彫り物です。漢文の日本語化も釈迦三尊の漢文より進んでいるそうですから、あきらかに釈迦三尊像より新しい銘文であることは定説です。では、誰が、いつ何のために彫った、彫らねばならなかったのでしょう。法隆寺の仏像に銘文を彫らせた人物は、権力者・高貴な人と考えられます。

すると、銘文が作られ彫られたわけは?
もちろん、彫らせたのは天智天皇でしょう。彼は聖徳太子と同じく長く皇太子のままでしたから、深く共感していた。そこに、銘文を彫る理由があったと思います。
銘文にある、聖徳太子が薬師如来を造ったという六〇七年(丁卯)は隋の裴世清が倭国を訪れた年です。そして、六〇年後の六六七年(丁卯)は近江大津に遷都した年です。そして、翌年六六八年一月に天智天皇は即位しました。丁卯に意味があったのです。

天智帝が即位できなかったのは、中宮天皇(間人皇后)の存在があったからでした。孝徳天皇の皇后だった間人皇后(中宮天皇)は玉璽を持っていました。その間人皇后が六六五年に薨去し、殯宮の儀式が終わり母の斉明帝と同じ陵墓に埋葬した後の近江遷都でした。


近江遷都の年、天智天皇の万感の思いを込めて銘文は彫られたと思いました。東宮聖王(聖徳太子)と同じく困難な政治を補佐し続けた二十数年、やっと即位の時が巡ってきた、そういう意味で彫られたのです。東宮としての最後の年(丁卯)に、推古女帝と同じように中継ぎの女帝がいて、皇太子としての自分がいる、そこに、改めて意味を見つけたのです。
そこで、法隆寺の仏に銘文を彫らせた、釈迦三尊像の銘文に合わせて。しかし、誰が像を造ったのか書かれていません。それは、不明だったからでしょう。何しろ、運んできた仏像だったのですから。

天智天皇とは何者だったのか。これから、まだまだ書くことはあるのですが…

ですから、鬼前太后・上宮法皇・干食王后は実在したのです
光背銘文と日本書紀は、なぜ矛盾するのか。それは、もともと安置されていた場所から移動したからでしょう。

止利仏師は、上宮王家の三人を知っている…
仏師といえば、鎌倉時代の仏師の運慶・快慶のような慶派が有名ですが、古代の司馬鞍首止利の時代には「仏師」という職名は使われていないそうです。それで、この銘文に仏師があることから、銘文は後世のものという説もあるのです。銘文が後の世のものとしたら、なぜ「正史とは矛盾する人物」のことを彫り込まねばならなかったのでしょうか。おかしなことです。
前回も再建法隆寺に残された623年造の釈迦三尊像のことを考えましたが、この金銅仏の光背には、鞍首止利仏師が造ったと彫られていました。
止利仏師は何処に住んでいたのか。飛鳥なのか、九州なのか、興味の湧くところです。日本書紀に「鞍作・鞍部・鞍・鞍部司馬」が出てくるのは推古朝です。斉明朝の「鞍作臣」は、全て蘇我臣入鹿のことです。つまり、鞍作の活躍は推古朝にしか書かれていません。活躍の場は或所で切れるのです。飛鳥仏の作風が途切れるのもそのためかもしれません。古事記も先代旧事本記も推古朝で終わりますから、ここが一つの変わり目だったのでしょうね。

止利仏師は、上宮王家の三人を知っていた…

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此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。
若し是れ定業にして以って世に背かば、往きて浄土に登り、すみやかに妙果に昇らんことを」と。二月二十一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。
癸未年三月中、願いの如くつつしみて釈迦尊像併せて侠侍、及び荘厳具を造りおわる。その微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安穏にして、生を出て死に入り、三主(太后・王后・法皇)に随い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提におもむかんことを。司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。
それにしても、書紀には法隆寺の建立の記事はありません。法隆寺がいつ建てられたのか、記録としては分からないのです。炎上の記事はあるのに、です。


天智九年(670)というのは、「金堂の本尊の天井に張られた板の年輪年代で導きだした」年代なのです。樹木が切られた年を年輪で探る方法です。
金堂建立時期は670年でも、本尊は古い(623年)と云うことでした。
釈迦三尊像より古いとされる金銅仏(607年)がありました。が、それは、技術的にも漢文としても釈迦三尊像より新しいというのです。


参考までに釈迦三尊の銘文(漢文)
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天智天皇にとって、法隆寺は自分の王朝の弥栄を願う為の寺でした。そして、過去の王朝の菩提を弔う寺でもありました。本尊に彫られた銘文の意味を天智天皇は熟知していたでしょう。しかし、それを消し去ることはなく、むしろ大王になれなかった皇太子霊を供養したのです。
その天智天皇の思いをヤマトヒメである持統天皇は承知していました。だから、法隆寺を大事にしたのです。

司馬鞍首止利仏師は、過去の王朝を証明する人である、それが今日の結論です



by tizudesiru | 2017-12-21 16:41 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback

法隆寺・釈迦三尊に残る日出処天子の実像

日出処天子・其の姿が残る!
1400年前の御姿が残されているんです!!
法隆寺のご本尊・釈迦三尊像の光背に銘文

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釈迦三尊像は、法隆寺の御本尊
釈迦三尊像は尺寸王身に造られた上宮法皇の御姿
西暦621年12月鬼、前太后が死去し、翌年(622年)正月22日に上宮法皇が病に倒れました。干食王后は看病に疲れ、並んで床につかれたので、これを憂いた王后王子と諸臣たちは、法皇の等身大の釈迦像を作ることを発願しました。

上宮法皇!? ちょっと待ってください。

では、この方は聖徳太子ではありません。法皇とは、大王になった人が出家した後に号するものではありませんか。厩戸皇子は太子でしたから、大王にはなっていないのです。
622年あたりで大王だったのは推古帝です。
それに、この大王は「法興」という年号も持っています。この年号は「私年号」とされています。自分勝手に作った年号という意味です。


上宮法皇は自分勝手に年号を作っていた、のでしょうか
自分の年号を建てることができるのは、天子のみです。それまでは干支を使って、中国の天子の年号を使うことで臣下の態度をとっていたのです。日出処天子と称した以上は、日没処天子と対等の立場で年号を持っていた、のではないでしょうか。

私年号」について
年号として、書紀に「大化・白雉(孝徳帝)、朱鳥(天武・持統帝)」など、時々記録されていることはありますが、今日まで続く年号が始まるのは、大宝(文武天皇・701年)からです。それも「続日本紀」には、「はじめて年号を建てた」と書かれています。それまでの王朝は、年号を持たなかったということです。ですから、「法興」はなかったとされるのです。(しかし、九州でも大宝より古い時代の年号が、寺社の由緒書きなどに伝わっていますし、最近も「九州年号」と呼ばれる年号の一覧が旧家の蔵から見つかっています。)
書紀に記載がない年号は、すべて私年号なのです。
聖徳太子は大王にもならなかったけれど法皇と号し、天子にもならなかったけれど年号を持っていた、天子のつもりになっていた、なんてありえません。
隋書によれば、タリシホコは裴世清に会っています。隋国の使者をごまかせるはずはありません。
天智天皇が立てた金堂のご本尊の光背に、「法興」はあるのです。
ですから、法隆寺の釈迦三尊光背の銘文が、なかった年号を自作自演しているとは思えません。
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年号を建てた王朝があったのです!それは何処に?
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開皇20年、タリシホコは隋に遣使を出しました。百済から仏経を得て文字を使い始めていたのですね。阿蘇山が紹介されていました。

良好な関係で始まった外交だったでしょうに、煬帝が即位して三年、大業三年(607)タリシホコは対等な「天子」としての国書を出してしまったのでした。
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「蛮夷の書、無礼なる者(こと)あり。復た以って聞するなかれ」
次の年、煬帝は文林朗裴世清(裴清)を俀(倭)国に派遣しました。裴清に相見したタリシホコは大いに悦んだのでした。
が、その後、国交は絶えました。


日本書紀には国交が絶えたとは書かれていません。
すると、やはり聖徳太子とタリシホコは別人です

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尺寸王身・王の肉体と同じ大きさの仏を作る!
そんな文化圏は何処にあったのでしょう? 
それは、阿蘇山のある九州の文化だった。すると、永い間秘仏とされた「救世観音」も聖徳太子の御姿を写したという伝承も理解できますし、クスで造られているのですから、九州で造られた仏像に違いないでしょう。俀国(倭国)は九州にあった、これが此処で辿りつける結論です。

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釈迦三尊像の銘文は、まだ残りがあります。それによると、止利仏師が出てくるのです。飛鳥大仏を造ったという止利仏師でしょうか。

次は、明日香と法隆寺の関係も考えなければなりませんね。



by tizudesiru | 2017-12-19 01:03 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback

聖徳太子所縁の法隆寺・法起寺が語るまぼろしの寺院

聖徳太子所縁の法隆寺の不思議
前回、法隆寺の7世紀の木彫仏像が、クスで造られていることを紹介しました。

樟材で造られていたのは仏像だけではなく、薬師如来像と釈迦三尊像の台座の彫刻部分もクスでした。
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聖徳太子所縁の寺の釈迦三尊は金堂の御本尊(623年造)

また、同じ金堂の薬師如来は、銘文によると607年造となっています。同じ飛鳥時代の金銅仏です。この二つ仏像の台座(前回、紹介)にクスが用いられていました。(樟は九州北限の樹木で、ご神木として古代には船にも用いられました。命を賭して海原を渡り外国に行く船の材としたのでした。)
七世紀の九州と法隆寺の間にはただならぬ御縁が…、これが前回のお話でした。
今日は、クスではなく寺院の伽藍のお話です。
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塔と金堂が東西に並ぶ法隆寺と法起寺
法隆寺の金堂は天智天皇の時に建てられたことが、年代年輪に依っても証明されました。では、天智九年以後、五重塔を金堂の西に置いたのは、誰でしょう。天智天皇が塔を何処に建てるか決めていなかったとして、ですが。
持統七年(693)には仁王会(にんのうえ)が行われ、天皇が天蓋を施入していますから、金堂が完成したということでしょうか。法起寺の三重塔より法隆寺の五重塔が古いので、法起寺三重塔の竣工の慶雲三年(706)までには五重塔は完成していたでしょう。


物部蘇我戦争(仏教をめぐる戦い)の時、聖徳太子が戦勝祈願して四天王寺が建てられました。その伽藍は東西ではなく、南北に一直線です。若草伽藍も発掘の結果、塔と金堂が南北に並んでいたそうです。
山田寺大官大寺(塔は東にずれる)も伽藍は南北に並んでいます。南北が主流だったのです。
しかし、法隆寺西院伽藍は東西に塔と金堂が並ぶ配置となりました。それは、東西に意味があったからでしょう。

まぼろしの古代寺院は何処に

九州の古代寺院は、ほとんど塔と金堂が東西に並びます。法起寺式と呼ばれています。塔が東、金堂が西(法隆寺は金堂が東、塔が西)です。


声はすれども姿は見えずという状態ですね。
古瓦は出土していますが、寺院が見つかっていません。
日本で一番古い丸瓦は福岡で出土しましたが、役所の屋根に葺かれていたとされています。日本中が掘立柱で寺院すらもできていない時、九州では瓦が葺かれていた… 普通の屋根に?
役所とされたのは、寺院の跡がないからだそうです。しかし、律令がしかれても九州の役所のほとんどは掘立柱の草ぶきだったと思います。


不思議なことに、古代山城に瓦が葺かれていた…
不思議なことに、白村江敗戦後に造られたという大野城や菊池城に素弁の古瓦が葺かれていました。それも、一次、二次、三次と建てなおされた山城の一番古い段階で古瓦が使われているのです。その後は太宰府政庁に伴った複弁の瓦に変わりますが。
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(鞠智城出土の瓦です)
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もしかして古代寺院があった?
しかし、仏教が伝わってすぐに、塔・金堂・講堂が揃ったのではないでしょう。まず、個人的な仏堂ができて、官が仏教を使って民を教化する政策がとられて、寺院が造られていくのではないでしょうか。その痕跡は九州に在ると思います、上岩田遺跡のような役所を含む敷地の中に仏堂が取り込まれているかたち…です。
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(筑紫観世音寺・塔と金堂が東西に並び、講堂と回廊が囲む)
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(法起寺の三重塔・天武十四年に計画され、慶雲三年に竣工)

法起寺式の伽藍配置とは

このような伽藍配置(東西に塔と金堂)の寺院ですが、その意味は何でしょう。
同じ文化・思想を共有する集団は、同じ形式の寺院を建てるのではないでしょうか。すると、東西に塔と金堂が並ぶ伽藍配置を選んだ天皇は、どのような文化圏の人なのでしょうか。
わたしは天智天皇と持統天皇の深い結び付を考えますから、東西の伽藍配置は天智天皇の意思だったと思います。持統天皇は、最後まで倭姫としての立場を貫いたと思うのです。
または、太政大臣だった高市皇子が伽藍配置を決定したのでしょうか。気になるところです。決定した人物は、九州との結びつきが深いことになるでしょうね。
確かに、高市皇子の母は九州の宗像氏の娘でしたからね。
このことは、まだ金石文を通して考えなければなりませんが。ここまでにします。
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参考までに明日香の資料館の日本の伽藍配置のパネル
資料館のパネルを見ると、近畿の寺院の伽藍はバラエティに富んでいます。
一塔三金堂の飛鳥寺が瓦葺きの寺院の始まりとなっています。飛鳥寺の創建瓦と思われる丸瓦が、四天王寺(難波宮の遺構の下層)若草伽藍から出土しています。

同じ時期の建物なのです。
それにしても、短い間に目まぐるしく伽藍配置は変わったのですね。権力の交替が激しかったのでしょうか。


では、このへんで



by tizudesiru | 2017-12-16 01:05 | 311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺 | Trackback

法隆寺は怨霊の寺なのか・隠された十字架再び!

法隆寺・救世観音は聖徳太子なのか
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聖徳太子は実在したのか? その実在をを疑う説があります。推古天皇(女帝)の太子だった厩戸皇子は、日本書紀で活躍しています。しかし、同時代の隋書に残る俀国(倭国)の首長タリシホコは女性ではなく男性であり、しかも「天子」と自称しているのです。俀国から使者も沙門も隋に到達していますし、隋から文林朗裴世清が俀国に来ています。裴世清はタリシホコに謁見したのです。隋書では阿蘇山の詳しい記述もあるし、風俗も詳しく紹介されています。
「日出処天子」から「日没処天子」に国書を出したのですが、隋の煬帝は「無礼だ」と怒り国交は結局絶えたとまで書かれています。さて、日出処天子は、何処に住んでいたのでしょうね。隋書には「竹斯国より以東、皆な倭に附庸たり」ですからね。筑紫より東は、倭国に附属していたのです。

倭王、隋都大興(長安)に使を派遣(600年)

隋書に名前が残る阿毎タリシホコと聖徳太子は同一人物? 別人?
もし、タリシホコが聖徳太子なら救世観音(聖徳太子の姿を写したとされる)を秘仏にした理由は何でしょうね。

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聖徳太子建立とされる法隆寺は670年に焼失した
「日本書紀」によると、天智九年(670)に法隆寺は焼失しました。しかし、西院伽藍には焼失を立証する址はなく、仏像も残っていたので、火災後の再建説と火災はなかったとする説が長く対立していました。しかし、今日では焼失したのは若草伽藍とされ、金堂は天智九年頃の再建で、塔は和銅四年(711)頃に竣工とされています。
不思議なことに、法隆寺(若草伽藍)は一宇も残さず焼失しましたが、飛鳥仏は残りました。

ということは火事の最中に(六七〇年)、に大量の仏像を金堂に運んだのでしょうね。
火災の業火が堂宇に及んでいる時、台座から仏まで持ち出せるほどの怪力を持った僧が数百人かいたとしても、火事場で運び出す人数は足りたと思えないのですが。

再建法隆寺に数多くの仏像が残されたのは何故か
木彫仏の用材は楠なのです。
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観音菩薩立像・勢至(せいし)菩薩立像・伝日光菩薩立像・伝月光菩薩立像(飛鳥時代・七世紀)いずれも樟から彫り出されています
(六観音のうちの四体。観音・勢至の二像は、金堂西の間の阿弥陀如来像の下にあった、そうです。日光・月光の二像は、食堂の本尊薬師如来の両脇に安置されていた、そうです。金堂の本尊は釈迦三尊像です。)

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持国天・多聞天もクス材で造られていますが、肩先・腰の天衣・両沓などは檜材での補修となっています。なぜ、このようになったのでしょうか。台座から全てクス材だった四天王(前日紹介)とは、違いますね。面相も掘りなおしてありますし。
補修の時、近くに樟がなかったか、手に入らなかったのでしょうね。

樟が使われたのは、仏像だけではありません
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薬師如来の台座ですが、請花と反花のみが、クス材です。それも、上座と下座では様式が違っているそうです。
釈迦三尊像の台座も、同じように上座・下座の様式が違う
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請花・反花のみがクス材で、あとは檜材です。下座(したざ)の下框(したがまち)を形成する巨大な檜板は、本来は建物の扉であったものが仏像台座として再利用されたものだそうです。
「樟は日本に現存する七世紀の木彫仏のほとんどの作例に共通する用材である」と、国宝法隆寺展の図録には書かれています。なぜ七世紀だけに? 

七世紀にはわざわざ九州から樟を手に入れることができたが、八世紀になるとできなくなった、のでしょうか。


用材に樟が使われていた理由

わたしは、白村江敗戦後に俀国(倭国)から仏像を運んできたと思います。仏像の用材は産地を示すだけでなく、その製作地も示しているのです。

救世観音も百済観音も、そのほかの法隆寺の飛鳥時代の木彫仏はクス材で造られています。これは、九州で造られたことを示していると思います。クスの北限は福岡市ですから、古代に自然木としての樟は九州にしかないのです。
8世紀になって、近畿では楠材が簡単には手に入らなくなって檜を使用した、檜が思いのほか適した用材だったので、以後仏像に多用されるようになった、のではないでしょうか。

それにしても、明日香から遠い斑鳩の法隆寺に仏像が運ばれたのは何故でしょう、飛鳥でもよかったでしょうに。当時は明日香が京だったのですから、最高の宝物は都(明日香)に置かれるべきです。が、天智帝はそうはしなかった。
天智天皇は斑鳩の地を選んだ、そこに法隆寺を造営して、大量の飛鳥仏を運び入れた、のです。案外、交通の便(大和川の舟利用)が作用したのかも知れません。

それに、すべて死者の持ち物だったから、怨霊の持ち物だったから、封じるために斑鳩を選んだ、その祟りを思うと厚く供養せざるを得なかった、鎮魂の為に一か所に集めた、のでしょうか。
それとも、多くの霊魂を供養するためには多くの仏像が必要だったのでしょうか。
そして、安置されていた元の寺院の伽藍(塔と金堂が東西にならぶ)に倣って西院伽藍を建立したと思います。


霊魂を鎮める寺が法隆寺
東西に塔と金堂が並んだ寺院、金堂と塔が入れ替わる場合もありますが、法隆寺・橘寺・川原寺は伽藍配置が東西だし、同じ目的の寺院でしょうね。
三寺院には、白村江敗戦で怨霊となった高貴な人の霊魂を鎮める務めがあった

今日の結論です

仏像の写真は1994年「国宝法隆寺展」の図録をデジカメで写したものです。
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また、あした。


by tizudesiru | 2017-12-13 16:15 | 310法隆寺は怨霊の寺なのか | Trackback(3239)

白村江敗戦後、橘寺は彷徨える仏たちを供養した

飛鳥仏四十九体の悲運を受け止めた橘寺
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昨日から注目している橘寺は、川原寺の南に位置し千数百年の歴史を刻んできた古刹です。元は尼寺で、聖徳太子誕生の地とされ、聖徳太子建立の七大寺に上げられています。(上宮法王帝説)

今日は、昔ここ橘寺に集められていた仏像の話です。その金銅仏は、現在国宝になっています。飛鳥仏と呼ばれる四十九体の金銅仏がなぜ、橘寺に集められていたのか、その理由は不明です。

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これらの仏像は今では国宝ですが、これまで過酷な運命を乗り越えて来ました。それは、日本中の仏像が遭遇した困難と混乱でもありました。
明治になって、廃仏毀釈のあおりを受けて日本中の寺院が困窮しました。有名寺院の仏像も襖絵も、どんどん外国に売られました。法隆寺すら困窮し、困り果てた住職が皇室に仏像を献上して、その見返りに金銭を得る道を選んだのです。苦渋の選択だったでしょう。

明治十一年に法隆寺から皇室に献納されたいわゆる「御物金銅像四十九体」はもとは
橘寺に在ったものと云われ、法隆寺金堂の仏像などの目録を記した「金堂日記」には、「橘寺の常住僧が少なくなったので、安全を期するため仏像を承暦二年(1078)十月に法隆寺に移し、金堂の大厨子内に安置した」と、次第が記されています。

橘寺から法隆寺へ、法隆寺から皇室へ、更に現在は東京国博へ
御物金銅像四十九体はもともと何処にあったのか?
現在、東京国博にある飛鳥仏の内四十九体は、橘寺に在ったものであることに異存はありませんが、では、それらの仏像はもともと何処にあったのでしょう。個人の持ち物が集められたとして、その理由は何でしょう。飛鳥仏・白鳳仏ですから同じ時期の仏像です…それが官寺でもない橘寺に集められたのは何故でしょう。
これらの仏像を有力者が自分の館や仏堂に安置し、そこで念仏を唱えていたというのです。それであれば私有物ですから、集める必要はありません。ほとんどが七世紀の仏像ということです。或日、念仏を唱えていた信心深い人が仏像を手放した…

白村江敗戦後に俀国(倭国)で集められた金銅仏ではないか
わたしは白村江敗戦で疲弊した地域から持ち込まれたと考えました。仏教が浸透していたと、隋書にある俀国(倭国)からです。二万人もの戦死者を出した地域は働き手を失った上に、敗戦後は未曾有の経済的混乱に直面したと思います。その時に集められた仏像だと思うのです。四十九体すべてがそうだとは思いません。が、かなりの仏像がそのような過去を持っていると思うのです。

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165号は語る
宝冠を戴き顔を正面に向け、腰を前に出して直立する。左手に宝珠を載せ、右手は宝珠の上に伏せる。このように腹前で宝珠を奉持する菩薩像は、「観無量寿経」が流布する以前の初期観音像を伝えた姿とされます。
このような菩薩立像の日本での作例は、法隆寺夢殿の観音菩薩立像(救世観音)が代表として挙げられます。救世観音は、古式の観音の形式で造られているのです!(わたしは、この救世観音も俀国のものだったのではないかと思っているのです)
さて、165号には銘文が刻まれています。「辛亥年の七月十日に逝去した笠評君(かさのこおりのきみ)のため、遺児と伯父の二人が造像を発願した」と。地方行政単位の「評」を使用しているので、辛亥年は白雉二年(651)に比定されています。では、651年あたりは、まだ「観無量寿経」は流布していなかったのですね。それとも…651年より60年も前に「評」を使っていた地域があったのでしょうか。

他にも銘文のある金銅仏・156号
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156号には銘文が彫られています。
「丙寅の年に高屋大夫が、亡くなった韓(半島)の婦人・阿麻古のために鋳造した」と読めるようです。丙寅年については606年(推古朝)・666年(天智朝)が考えられています。同じ丙寅年の野中寺の仏像は年月日と干支の組み合わせで666年であることが確定しています。が、作風を比べると156号の方が古いそうです。
では、156号の仏像が606年だったすると、仏教が浸透している地域は限られます。韓半島の婦人を妻とした男性が妻の為に仏像を造らせたという、その地域は何処でしょう。そこは半島と近く、深く交流している処です。

法隆寺の7世紀の木彫仏は全てクス材で造られている
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以前にも取り上げました、クスは福岡市の立花山が北限であることを。韓国では寒くてクスは育ちません。仏像のクス材は九州で調達されたのです。(法隆寺の百済観音も救世観音もクス材ですから、九州で造られたのでしょうね。クス材は、飛鳥時代7世紀のすべての木彫仏像の共通点です!)
さて、台座の鬼から付属品まで全てクスで造られた多聞天立像の光背にも、文字が刻まれています。
「薬師徳保(くすしのとくほ)
上而」、「鍛師□古(かぬちしのまらこ)二人作也」、「汗久皮臣(うくはのおみ)」と刻まれています。薬師・鍛師は工人でしょうが、汗久皮臣の「うくは」とは、浮羽のことでしょうか。
「薬師光」の針書もあるそうですが、刻銘とは違いますよね。「薬師光」は運ばれた仏像の傷んだところを修復でもしたのでしょうか?


橘寺の仏像が安全のために法隆寺に移されたことの意味
法隆寺と橘寺の結びつきは深く大きいのです。二つの寺の共通点は何でしょう。
わたしは両寺ともに「白村江敗戦後に俀国の仏像を守ろうとして運んできた」と思うのです。それでなければ、法隆寺の釈迦三尊像の銘文の謎も解けません。法隆寺に何体もの本尊がある理由が分かりません。
川原寺には俀国の王族の愛蔵品が運ばれ、橘寺には有力者の持念仏が運ばれたのではないかと、思うのです。
多聞天像の頭部に打ち込まれた光背を留める釘がありますが、それらの技術の共通する仏像は、製作地が近いのではないでしょうか、、、、、、。

都が平城京に遷る時、川原寺と橘寺は明日香に残り、彷徨える戦死者の霊魂と行き場のない仏を供養した…そう思うのです。
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写真は、国立博物館の「美の国日本」展の図録を使わせていただきました。
また、明日。


by tizudesiru | 2017-12-12 00:58 | 309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像 | Trackback

蘇我馬子は飛鳥の大王だった

蘇我馬子の墓は方墳・家形石棺
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(石舞台古墳は約50mの方墳)
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(石舞台古墳・横穴式石室に家形石棺が置かれていた。馬子の石棺を復元したもの)
石舞台古墳石室に大量の石棺の破片が出土しています。家形石棺が破壊されたのだそうです。

方墳に石棺が蘇我氏の墓制だったようです。下の写真は、石舞台の近くの都塚古墳(方墳)の家形石棺です。同じ蘇我氏の墓と思われます。
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馬子の墓にはたくさんのラインがかかりました。例えば、水色のライン、大阪府の磯長の「伝・馬子の墓」に向かって直線を引きました。どちらが本当の馬子の墓でしょうね。
石舞台と磯長の「伝・馬子墓」を結ぶと、磯長神社をラインが通りました。
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ここには、叡福寺の聖徳太子の墓(用明天皇の皇子)、用明天皇陵(蘇我堅塩媛の所生)、敏達天皇陵とその皇后の推古天皇陵(堅塩媛の所生)、竹内街道沿いには孝徳天皇陵があるのです。そして、ここには、蘇我馬子と蘇我倉山田石川麻呂(馬子の弟)の墓もあるそうです。天皇陵の近くに馬子の墓がある…どういうことでしょうか? 馬子が近津飛鳥の王家の谷に眠っているとは。それも、上宮王家の聖徳太子の墓の前に「伝・馬子の墓」は在るのですから、馬子は上宮王家と関係の深い存在となりますね。

二上山は黄泉の国の入り口

石舞台から二上山にラインを引くと、橘寺を通りました。
二上山は天武陵から見ると夏至の日没の方向となります。天武朝では、二上山があの世の象徴(入口)でした。だから野口王墓(天武・持統陵)の位置が選ばれ陵が造られたのです。大津皇子は、守り神として二上山に改葬されました。謀反の人の霊力は大きかったのです。
さて、石舞台古墳から二上山を望む時、死者として誰を思うでしょう。
当然、石舞台なら蘇我馬子ですね。では、大臣馬子も大王のように二上山を黄泉国の入口としたのでしょうね。

二上山・聖徳太子建立の七寺の一つ橘寺・石舞台
黄色のラインです。
橘寺が造られたのは、いつでしょうか。飛鳥寺は蘇我氏の寺というより官寺として、公的な行事が行われ、宮殿の一部のように機能していました。飛鳥寺は私的な寺では無かったのです。
では、橘寺はどうでしょう? いつ橘寺が造られたか分かりませんが、創建瓦とされるのは「複弁蓮華文軒丸瓦」で、すぐ北にある川原寺と同范もあるそうですから、川原寺と前後した時期に寺になったのでしょう。川原寺は僧寺、橘寺は尼寺です。
聖徳太子建立の七寺は、法隆学問寺、四天王寺、中宮尼寺、蜂岳寺(広隆寺)、池尻尼寺(法起寺)、葛城尼寺、橘尼寺、です。(上宮聖徳法王帝説)
尼寺が多いようです。古代の寺は、尼寺で始まりました。女子が仏(男子)に仕えるという考えです。巫女が神(男子)に仕えたように、仏を男子と見たからです。橘寺は古い寺ですね。
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(東を正面として、中門・塔・金堂・講堂が東西に並んでいた。講堂前に石列?)
古い橘尼寺の正面は東でしたから、黄色ラインは古代なら塔と金堂の上を通っていたでしょう。塔心礎は一辺1.5mの方形造り出しに丸い穴、その三方に添木を受ける半円形穴が彫られています。これは、河内の西琳寺や野中寺、法隆寺若草伽藍の心礎と似ているそうです。
河内の野中寺に伝わる「丙寅年の年記のある弥勒菩薩像の銘文に「橘寺知識」とあり、これをこの橘寺とすれば、天智五年(666)には「橘寺」は存在したことになります。

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(写真は、橘寺塔心礎「明日香村史・上巻」より)

大王は火振り山を支配した
余談ですが、橘寺の南には「ヒフリ山」▲ があります。飛鳥を中心に「ヒブリ山」「火振り山」と呼ばれる山が9か所もありますが、何をしていたのでしょう。ヒフリ山は、火を振り回す山ではないでしょう。交通の要衝にあるから、烽火などに関係する山と云われています。
しかし、集落の近くや豪族の館の近くに在りますから、人々の生活に直結した山だったでしょう。山を暦として使っていたのだと思います。各豪族は自分の暦の山を持っていたのです。
下の地図も「明日香村史」の挿入図ですが、16・15番は川原寺と橘寺です。其の南の▲がヒフリ山です。地図上に三か所ありますね。図中の2の豊浦寺の西にも在ります。現在まで「山名」として残されたとは驚きです。
豊浦寺が推古天皇の豊浦宮址とすると、推古帝はヒフリ山を持っていたと考えられます。また、蘇我蝦夷は豊浦大臣とも呼ばれましたから、このヒフリ山を支配したのは蝦夷かもしれません。山田寺の隣の岡もヒフリ山ですから、ここは蘇我山田石川麻呂の暦の山だったでしょうね。そうして、よく見ると火振り山のほとんどを支配したのは、蘇我氏のようです。

更に、蝦夷が畝傍に家を持っていたことも書紀に在りますから、稲目・馬子・蝦夷・入鹿らの邸宅が、畝傍山の麓から軽・豊浦・島などにあったと云うことは、蘇我氏こそが飛鳥の支配者だったと云うことになります。
そうです、蘇我氏が飛鳥の大王だったのでしょう。
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馬子は推古天皇の叔父で、厩戸皇子と国記・天皇記を編纂しました。
馬子こそ明日香の大王だった

わたしは蘇我氏こそ明日香の大王だったと思います。それでなくて、どうして国記や天皇記を編纂できるでしょうか。また、祖廟の高宮で八佾(やつら)の舞が舞えるでしょうか。八列六十四人の舞は、天子のみに許されたものです。臣下に許されるはずはありません。それを蘇我蝦夷が行ったと非難されていますが、あんがい事実だった、大王だったのではないでしょうか。
大王だから、大陵(おほみささぎ)小陵(をみささぎ)を造ったのでしょう。

日本書紀は真実を「臣下のくせにけしからん」といった口調で書いたのではないでしょうか。
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石舞台は非常に意味深な位置にあります。
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藤原宮と石舞台を結ぶと、飛鳥寺がラインに乗りました。飛鳥寺は重要な位置にあり、政治的な場所でした。飛鳥寺の横の広場(庭)で国の行事が執り行われ、外国の使者や客人をもてなし、帰順した人々の宴会も行いました。
飛鳥寺は、馬子の建てた寺です!! 馬子は官の役所を建てていたのではありませんか。
飛鳥寺は単なる私有寺ではなく公共の場所だったのです。蘇我馬子が住んだ島宮には、天武帝・持統帝・草壁皇子が住みました。公的な館だったのでしょう。乙巳の変の時、中大兄皇子は飛鳥寺に立て籠もりました。当然、役所のようなものだったからです。


石舞台(蘇我馬子の墓か)、小山田遺跡(蘇我蝦夷の墓か)、菖蒲池古墳(蘇我入鹿の墓か)、見瀬丸山古墳(欽明陵か)は、直線でつながります。同じ氏の墓だとすると、このラインに眠る人は大王の家系になります。見瀬丸山古墳はこの地域で最大の前方後円墳であり、日本で最長の横穴式石室の羨道を持ちます。これが本当の欽明天皇の墓であれば、蘇我氏はその有力な一族となりましょう。

王家の血を受けながら、蘇我氏は抹殺されていったのです。
また明日





by tizudesiru | 2017-12-10 22:11 | 308蘇我氏の墓がルーツを語る | Trackback

川原寺に残る万葉歌は、白村江敗戦を伝えるのではないか

倭琴の面に書かれた二首
川原寺の仏堂の内にある倭琴に書かれた歌は何を語るのか
 
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万葉集巻十六「世間の無常を厭ふ歌二首」
3849 生き死にの二つの海を厭(いと)はしみ 潮干(しほひ)の山をしのひつるかも

3850
 世の中の繁き借廬(かりほ)に住み住みて 至らむ国のたづき知らずも

右の歌二首は、川原寺の佛堂の裏(うち)に、倭琴の面にあるのなり

「生死の二つの海」とは、現世の生と死の苦しみであり、その苦しみを渡り仏智の世界(山)に入るという仏典で譬えられる世界を詠んだのだそうです。

3849 
この世で生死の苦しみに振り回されるのが煩わしいので、潮が干いたように苦しみのない極楽浄土のような山を恋しく思うのだ。

3850 様々な事がある煩わしい仮の住処のような現世に住みつづけているが、これから行くべき国(極楽浄土)がどんな様子なのか、何も知らないのだ。 

右の歌二首は、明日香の川原寺の仏堂にある倭琴(やまとごと)の面に書かれたものである

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世間之 繁借廬尓 住々而 将至國之 多附不知聞

この歌に惹かれ何度も読むうちに或る思いが突き上げて来て、どうしても頭の中から消えませんでした。それは、仏教思想が受け入れられるには時間がかかっただろうと云うことです。まして、その思想が一般化するには相当に時間がかかりましょう。

しかし、ある地方の民は早くから広く仏教に帰依していました。そこは、阿毎タリシホコの俀国(倭国)です。隋書にはそう書かれています。そこには「世間」を極楽浄土と対立する世界として捉える思想が浸透していた、と思ったのです。
古代の琴・倭琴は女子の持ち物ではありません。古代では教養のある男性の持ち物でした。男性が琴で音楽を奏で詩歌を読んだのです。では、上記の二首も男性の歌ですね。それも世間を「よのなか」と読む文化圏の男性です。

そこで、この歌は仏教が浸透していた俀国で詠まれた歌ではないか、百済救援に遠征した男性が自分の体験を詠んだのではないか、戦火に倒れた高貴な人の愛用の琴が川原寺に奉献されたのではないか、と様々に考えました。

白村江敗戦を伝えるのではないか
(このことは、数年前に或る公開講座でお話をしました。)

万葉歌は事実を詠んだ叙事詩だと何度も聞かされました。仮想して物語や思想を詠んだのではなく、事実や実体験・実感を詠んだ歌集でしたよね。二首も思想ではなく事実が詠まれているのです。

事実として読み取ってみました。微妙に解釈が変わります。

3849 この世の生と死の二つの海(苦しみ)を、同じように倭国の海と隣国の二つの海を渡り戦う、その苦しみを避けたいと、潮が干いたような苦しみのない世界をどんなに恋しく思ったことか(だが、世間の無常を避けることは出来なくて、琴の持ち主=主人は、先の敗戦で亡くなられた。)

3850 大変なことが多いこの世を仮の住処として主人と長く住んできたが、無情にも主人を亡くした我が身=琴は、これから知らない国に行くことになった。その国の様子を何一つ知らないのだ。(まるであの世のことを何一つ知らないように、遠い知らない国に行くのだなあ。)

ある高貴な方の持ち物だった倭琴の嘆きとして、亡き主人を偲ぶ歌として、二首が残されたと思ったのです。二つの海を渡った(白村江敗戦に翻弄された)高貴な人、その人は還らなかったが、琴は帰ってきた、そして、川原寺に奉納された。

二首は琴の由来を詠んでいるに違いありません。遠く仏教の浸透した地方から来た楽器であること、無情な運命に翻弄された人の持ち物であったこと(川原寺では、その人物が誰なのか分かっていたでしょう。…寺に所縁の人の奉献か、寺になった時に琴の持ち主を供養したとか)。

川原寺に奉納された時期を考えると、平城宮遷都(710)以前だろうと思うのです。それは、平城遷都後は、高貴な方はほとんど新京に引っ越したと思うからです。遷都後なら川原寺よりも都に近い寺に奉納するでしょうから。

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明日香川原寺跡の万葉歌碑
この万葉歌があるのは、川原寺跡の道路横です。
橘寺の前に道を挟んで川原寺跡がありますが、橘寺の石柱から川原寺を見ると、筋向いに歌碑が見えます。

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現在の弘福寺(もと川原寺)の前は、広い公園になっています。川原宮は、板蓋宮が焼失した後、一年余り斉明天皇の仮宮となりました。

中大兄皇子(天智天皇)称制の時に、母の斉明天皇の葬儀を川原宮で執り行いましたし、川原寺が飛鳥では重要な位置にあることは前回のブログでも紹介しました。(山田寺からのラインは、高松塚にも届く。)

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平城京遷都の時、明日香に残った川原寺
四大寺のひとつであった川原寺は、創建の時期も事情もはっきりせず謎の大寺と云われています。また、平城京遷都の時に、ほかの三大寺(飛鳥寺・薬師寺・大官大寺)は都に移りましたが、川原寺は明日香に残りました。


川原寺式と呼ばれる「複弁蓮華文」軒先瓦の文様は、この後の軒先丸瓦の主流文様となりました。後の瓦に多大な影響をもたらしたのですから、川原寺の立つ位置は大きかったのです。それなのに、遷都の時に、明日香に残されたのでした。

川原寺が特別な寺であり、歴史の事実を伝える寺だと、わたしは日頃から思っているのです。そして、巻十六の上記の二首は心を揺さぶられる名歌だと思います。

鹿児島と宮崎にお出かけしていました。また、明日。



by tizudesiru | 2017-12-09 15:30 | 307倭琴に残された万葉歌 | Trackback

明日香・天智天皇が戻った倭京は何処にあったのか

天智天皇の倭京は何処にあったのか
大化改新後に、難波に都が遷りましたが、孝徳天皇を難波に置いて中大兄は倭京に戻りました。その倭京は何処にあったのでしょう。ヤマトヒメと同じく、倭京の場所も大きさも組織も分からないことが多いのです。が、天香具山と蘇我氏の寺や墓や神社は、その位置を探すカギになるはずです。
倭姫皇后は持統天皇か

さて、天智天皇の皇后の倭姫は、古人皇子の娘であると書紀に書かれています。古人皇子は中大兄皇子(天智天皇)によって誅殺されました。吉野太子とも呼ばれ、吉野に逃れた皇太子でした。その次期天皇の娘だというので、倭姫は皇后になれたのでしょうか。素直に書紀を読むとそうなります。記述を疑わなければですが、そうすると倭姫皇后がなぜ正史から消えてしまったのか(墓すら不明)、持統天皇はなぜ深く天智天皇を慕い、有間皇子を追悼するのか、最後の東国行幸や天皇の忌日の詔の意味が分からなくなります。
元明天皇(天智帝の皇女)は「天智天皇の不改常典」をもって皇位継承の根拠としました。天武天皇の王朝代に滅ぼした前王朝の法を持ちだすのは、異常です。それも皇位継承に関して、です。もろもろの事実は、一つの答えを指し示しているのです。
倭姫皇后が持統天皇だった可能性です。そうすると、もろもろの疑問が解けて、額田王が中臣大嶋と立てた粟原寺の意味もはっきりするではありませんか。
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古人大兄皇子について、おさらい

舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)、娘は倭姫。蘇我入鹿は次期天皇に古人大兄皇子を望み、古人大兄は太子となっていたと思われる。


古人大兄皇子と並んで皇位継承者とされたのは、厩戸皇子の子・山背大兄王で、その母も蘇我馬子の娘・刀自子郎女でした。古人と同じ蘇我系の母を持つ男子でした。

その山背大兄王は蘇我入鹿に襲撃されて、一族もろともに自害してしまいました。

やがて、乙巳の変。この時、古人太子は皇極天皇の傍に侍していたのですから、重要な立場で儀式に参加していたことになります。自分の支持者であった蘇我入鹿が暗殺された後、古人大兄は自宅へ逃げ帰り門を閉ざし「韓人が入鹿を殺した。わたしは心が痛い」といいました。その意味は何だったのでしょう。

殺したのは「韓人」、それは古人大兄を苦しめたのですが、この時、事件の黒幕(孝徳天皇とされる)を知っていたわけではないでしょう。太子が見た通りの無残な光景に対する気持ちを吐露したのなら、渡来系の人物が入鹿を殺したが、その原因は自分とは無関係ではないと思ったということです。

入鹿が殺されれば皇位継承権は遠のき、自分の身が危ないという意味でしょうか。書紀によればその後、倭姫は父を殺した男の妃となったのでした。

蘇我倉山田石川麻呂右大臣の娘たちも、父を死に追い込んだ中大兄の夫人となりました。越智郎女と姪郎女がそうでした。その皇女達(太田・鵜野・大江・新田部)も父の王権を倒した叔父(天武天皇)の妃となったと書紀に書かれています。これは大事な記述です。当時、この女子たちを他の豪族に分け与えるわけにはいかなかった、その血統を他に分けることはできなかった、のでしょう。「皇后となれる倭姫」となるべき女子だったから。古代では高貴な血統こそが財産でした。それは、中世まで、いえ近世まで続いた伝統的な考え方でした。落ちぶれても血統には威力がありました。だから、倭姫は望まれて天智帝の皇后となったのでした。皇位継承者となるには、高貴な女性を皇后に立てなければならなかった、まるでエジプトの王のように王家の血を引く女性を皇后にすることが必須だったと思います。


中大兄が戻りたかった倭京は何処にあったのか
飛鳥に倭京はあったのでしょうか。それとも三輪山の麓にあったのでしょうか。
其の天智天皇の権力を見るために、石神遺跡や川原宮をラインで見ましょう。石神遺跡からは木棺が出ていますし、河原宮は斉明天皇の葬儀を行ったところですし、後に寺院となりました。天智天皇の所縁の場所です。
天武・持統天皇も四大寺の一つとして大事に扱ったようですね。

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まず、右斜め上から左に下りるのラインを見ましょう。山田寺・川原寺・定林寺とラインが引けます。左上から斜め右下に下りるラインは、本薬師寺・蘇我氏の邸宅跡・川原寺・坂田寺とつながります。
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山田寺・川原寺・定林寺・坂田寺・本薬師寺、この寺院は既に紹介しています。

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(山田寺)

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(川原寺)
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(坂田寺)
坂田寺は鞍作氏の寺でした。石舞台や都塚古墳の近くの寺ですから、蘇我氏の同族でしょう。
では中央のラインです。本薬師寺から川原寺・橘寺に届きます。

a0237545_16522025.png
要するに、川原寺は斉明天皇・天智天皇所縁の重要な宮であり、寺院であったことがわかります。天武朝では、大官大寺・飛鳥寺・川原寺・薬師寺は四大寺とよばれ、官寺の代表の役目を果たしていました。国家的な仏教行事や僧尼の取り締まりを行っていたのでした。ただ、薬師寺は皇后の病気平癒のために造られて寺ですが、造営の途中で天武天皇の崩御となりました。在位中にはでき上がっていなかったのです。持統天皇二年に天武天皇追善の無遮大会が、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の五寺で行われたのですから、薬師寺は間に合っていないのです。

四大寺は朝廷が重視した寺です。
では、朝廷が重視した神社は何処で、どの神々でしょう。
それは、時代の浪にもまれて分からなくなっているかも知れません。しかし、位置情報は残されているかも知れません。遷座された可能性もありますが。国常立神社のある天香具山からラインを引いてみました。

a0237545_11294877.png

国常立神社のある天香具山からのラインを飛鳥坐神社(水色ポイント)に引くと、そのまま延びて石舞台に直線が届きます。では、天香具山から定林寺にラインを引くと、雷丘と蘇我氏邸宅跡がラインに乗ります。蘇我氏を抜きにしては何もできませんね。
a0237545_11334109.png

蘇我氏の飛鳥寺は真神原に建てられましたから、辺りは聖なる地だったのです。すると、斉明天皇に関わる板蓋宮・川原宮、草壁皇子が育ったという岡宮(治田神社)辺りも聖地だったことでしょう。

では、天智天皇が間人皇后や斉明皇太后やもろもろの役人を引き連れて、難波から戻って来たという倭京はどの辺りでしょうね。やはり天香久山を取り込んで考えましょうか。後の藤原宮が造られた辺り橿原市辺りかも知れませんが、わたしは北上する飛鳥川の東岸辺りに倭京はあったと思うのです。

倭京には、天照太神が祀られているでしょう。「天照太神を度会(わたらい)の五十鈴河上に遷し奉る」と倭姫命世記に書かれていましたから、倭京の頃は祭祀がなかったとしても、持統天皇の時代には天照太神を祀る社も置かれたでしょう。神祭りが入り乱れてはいるでしょうが、痕跡はのこっているはずです。



by tizudesiru | 2017-12-05 21:06 | 306倭京は何処にあったのか | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
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