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持統天皇が霊魂となって北へ向かったわけ

持統天皇は霊魂となって北の天智陵へ向かった
未来永劫、霊魂のままでいい!
それは女帝の望みでした。太上天皇は望み通りに白い骨となり、ヨミガエリを望むことなく霊魂となって北へ向かったと、わたしは思います。葬儀を指示したのは文武天皇です。十分に太上天皇の望みを知って執り行ったことでしょう。
天智陵と持統天武陵が同じ経度にあることには意味があるはずです。それは、持統帝と天智帝に深いつながりがあったからだと思うのです。
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また、天智陵が平安京を守る位置にあるということにも意味があるでしょう。
平安京は天智帝の皇統の都として造られました。
しかし、持統・天武天皇の陵墓ともつながらないわけではありませんね。天智陵の真南には持統天皇が眠っているのですから。
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新しい皇統の都のために天智陵は移されることなく守護神となりました。
ここで、また振り返ってみましょう。
意思の強い女帝が貫いたことは天武帝の皇統を守ること。何度も書きましたが、草壁皇子の皇統を守ることでした。しかし、ここで立ち止まりましょう。草壁皇子が天武天皇の皇子であり、持統帝・元明帝・元正帝が天武帝の皇統を大事にしたのであれば、天武帝の他の皇子達の皇位継承権を認めたはず、だと。
では、元明天皇が長屋王の子どもたちのを身分を引き上げたのは何故でしょうか、例外でしょうか。
娘を長屋王に嫁がせていた元明天皇は長屋王の皇統に皇位継承権を認めてもいいと考えたようです。それは、「真の天武帝の皇統に継承してもらいたい」というのが草壁皇子の遺志だったからです。大津皇子を死なせてしまったことを悔やんでもいましたから。妃の元明天皇は夫の遺志を承知していたと思います。万葉集を読むかぎり、元明天皇の夫・草壁皇子への思いは、深く強いと思います。
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それでも、天武帝の皇統は抹殺されてしまいました。
藤原氏が外戚として権力を握るようになって、ことごとく天武帝の皇統は抹殺されていきました。ついに天武帝の皇統が絶え、天智帝の皇統が皇位継承者(光仁天皇)となりました。その息子の桓武天皇は平安京に遷都した時、怨霊・悪霊から都を守ることに腐心しました。その時、天智天皇の陵墓は守り神とされたのです。

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では、神祭りはどうでしょう。伊勢の神祭りが天武帝の祭祀であれば、そのまま次の平安京の権力者・皇統の祭祀となったでしょうか。
明治になって、たしかに天皇家の神祀りとして伊勢神宮が神道のトップとなりました。それまで、天皇の行幸が何百年もなかった伊勢神宮が…です。
ここで、やはり立ち止まり考えさせられます。
天武天皇の壬申の乱を勝利に導いた渡会(わたらい)の神は、天照大神ではなかったのではないか。それは、豊受大神だったのではないか。それを証明しているのが、「人麻呂の高市皇子の挽歌」の一節ではないかと、わたしも思うようになりました。すると、天照大神が伊勢に入ったのは豊受大神より後で、壬申の乱より後、となるでしょう。

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ここで、伊勢の神の鎮座地を求めた倭姫命とその物語は、遠い昔の人でも話でもなく天武天皇以降の時代のことだと思うのです。天智帝の消えた倭姫皇后と、持統天皇の伊勢行幸の大三輪高市麻呂との逸話を考えると、倭姫皇后は消えたのではなく天武天皇の後宮に召されたのではないか、持統天皇の行幸の目的が鎮座地探しだったのではないか、などと考えてしまうのです。
だから、持統天皇の霊魂は北へ向かった。天智陵へと。

では、また明日



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by tizudesiru | 2017-11-24 22:07 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

倭姫命と伊勢・度会の神

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮

もうこの海を見ることもないだろう
あの方の霊魂を鎮める最後の旅となるだろう
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大宝元年の紀伊国行幸(秋九月、冬十月)は、万葉集の巻一、巻二、巻九に歌が乗せられています。大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、女帝の心にあった永年の苦しみを払う行幸でした。文武天皇が持統天皇と合流したのは、十月だったのでしょう。その時、紀伊国での出来事を全て孫に伝えたのです。

持統天皇は、九月に孫の文武天皇より先に紀伊国に来ていました。その時の歌が巻一にありますが、巻九の「紀伊国十三首」と比べて軽いのですが、旅先の土地を誉め、旅の安全を祈ったのでしょう。
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大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、特別でした。紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。それが巻九の「紀伊国行幸十三首」でした。そのひと月前の持統太上天皇の紀伊国行幸、この時の歌を読んでみましょう。

54 巨勢の山のつらつら椿はさいてはいないけれど、つらつら思い偲んでみようか。巨勢山に椿が咲き乱れるその美しい春野を。
秋なので椿は咲いていませんからね。春野を想像して詠んだのです。

55 麻裳で知られる国、紀伊国の人がうらやましいことだ。この真土山をいつもいつも眺めることができる。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人は本当に羨ましいなあ。
真土山を越えると大和から紀伊國に入ります。その境の山を見ると旅情が高まるのでしょう。

56 川岸に咲き乱れるつらつら椿、巨勢の春の野はつらつら見ても見飽きないことだろうなあ、巨勢の春野は、きっと。
まだ、春は遠いけれど椿咲き乱れる春野を偲びながら、一行は紀伊国の行幸の安からんことを祈ったのでしょう。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。以前紹介した「紀伊国十三首」の重く切ない歌と比べると、九月の歌はかなり軽く感じますね。文武天皇を伴った行幸は特別だったことが分かります。


そして、最後の行幸が大宝二年
持統天皇の最後の行幸・美濃・三河・伊勢・伊賀

大宝二年、東国へ持統太上天皇は行幸しました。
大宝二年は女帝の崩御の年です。崩御のひと月前まで女帝は行幸の輿の上に在ったのです。行幸とは「幸を行う」ことでした。行く先々で、人々を労い褒美を与えることなのです。持統天皇も先々で褒美を与えて回りました。
その最晩年の行幸時の歌が万葉集に残されています。


大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸では、紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。もう思い残すことはないだろうと周囲は思ったでしょう。
しかし、持統天皇は旅に出ました。それも、特別のお気に入りを連れての行幸です。

今度の旅の目的は何でしょうか。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                                       *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *             
 *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を集め整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。
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この行幸時の女帝のようすにただならぬ気配はなかったのでしょうか。十月から十一月まで五か国をめぐる旅が続きました。お疲れだったと思いますが。

歌に出てくる地名です。
引馬野(ひくまの)愛知県宝飯郡御津町御馬の地・音羽川河口付近に引馬神社がある。他に豊川市や静岡県浜松市の曳馬町付近とする説もある。
阿礼の崎(あれのさき)所在地未詳
隠(なばり)三重県名張市のあたり。
円方(まとかた)三重県松阪市の東部。東黒部町一帯後。「逸文風土器」に『地形が的に似る』とある。


持統天皇の行幸は「倭姫命世記」の倭姫の歩いた道と重なります。それは何故か、気になっていました。
それは、また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-21 00:10 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

「野守は見ずや」と、額田王は大海人皇子をたしなめた

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
天武天皇は、額田王に袖を振ったのか? 
と、問われました。厄介なので避けたい質問でしたね。
この歌が詠まれたのは天智七年で、天智帝が即位した年の五月です。蒲生野は天皇の遊猟(みかり)が行われた地で、公的な宴席での余興として額田王が詠んだということです。
書紀には「大皇帝、諸王、内臣また群臣、みな悉くに従なり」と書かれていますから、近江朝の人々はこぞって出かけたのです。ですから、当然、皇后も臨席していたでしょうね。そこで詠まれたこの歌は、本当に余興の歌でしょうか。額田王は非常に細やかな気配りのできる、しかも政治的な判断力を持った人でしたから、余興の歌ではないとしたらどのようなことになるのでしょうね。

昨日、中大兄の三山歌で紹介した畝傍之姫が倭姫皇后であったなら、大海人皇子(天武帝)の袖は皇后に向かって振られたことになるでしょうか。
おっと、これは危ないですね。妙なことになってしまいます。そこで、額田王は気を利かして「わたくしに袖をお振りになるなんて、いけませんわ。」と周囲の目を自分に向けて皇后から反らせ、大海人皇子をたしなめたことになるでしょうか。それも、面白い読みになりますね。

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額田王は非常に魅力的で有能な美しい女性でした
若い時、天武天皇との間に十市皇女をもうけました。
斉明天皇の紀伊国行幸に従駕し、有間皇子事件を目撃しました。
天智天皇に仕え、近江朝の宮廷で詔に応えて歌を詠みました。
そして、天智天皇に最後まで仕え、葬送儀礼の挽歌を詠みました。
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額田王の波乱の人生は此処で終わったのではありません。天智帝亡き後に壬申の乱が起こり、娘婿の大友皇子が近江朝の総大将だったのですから、その戦いの顛末の全てを見聞きしたのです。
そして、
壬申の乱で近江朝が敗れた後、傷心の娘と孫を連れて額田王は明日香に帰りました。


明日香に帰った額田王は、幸せだったでしょうか。
いいえ、苦しい日々が待っていました。天武朝の皇親政治の重みを一身に受けていた高市皇子に再婚させられていた十市皇女が薨去したのです。天武天皇が祭場へ向かった後、宮中での突然の皇女の薨去・自殺でした。さすがの天武天皇も葬儀で男泣きしたのです。
この悲劇が額田王を苦しめないはずはないでしょう。どんなに辛かったか、苦しかったか、それを思うとわたしでさえ苦しくなります。

どんな状況でも、額田王は堪えぬいたのでしょうか。弓削皇子との歌のやり取りが万葉集に残されていましたね。額田王は若い弓削皇子に優しい返事を送りました。弓削皇子の母は大江皇女(天智帝の娘)でしたから、天智天皇つながりでやはり特別かわいかったのでしょうね。
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若い時から斉明天皇の傍近くに仕えた額田王は、鏡王の娘といわれています。斉明天皇の息子の天武天皇との間に子どもをなしたのですから、身分の高い王家の娘だったでしょう。 
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額田王の歌は、万葉集巻一にも7・8・9番歌と続けて掲載されています。どれも非常に政治的な意味の深い歌でした。額田王は優しく聡明な人で、政治的な立場に居た女官だったと思います。

額田王は
草壁皇子のために寺を建立しました

十市皇女の突然死で苦しんでたのでしょうが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後はその遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立したのです。

それは、大嶋の遺言でしたから、大嶋も壬申の乱に無念の最後を遂げた叔父と共に、本来の主人である天智天皇の皇子の菩提を弔った、とわたしは思います。

そうでなければ、二人がここまで草壁皇子を思う理由がありません。
この流れからすると、比売朝臣額田は額田王以外には考えられません。

粟原寺の塔の露盤が国宝になっていてそこに銘文があります。そこに粟原寺は、「大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮のために造った寺である」とあります。よく見ると、天武天皇の時代の皇太子と書かれていますが、天武天皇の皇子とは書かれていません。

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銘文のなかみは、次のようになっていました。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年は持統八年(694)です。

(この年の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都でした。)
このような額田王の人生を思う時、「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌は、どのような状況で詠まれ、何を意味するのでしょうね。歌は言霊でもありましたから、公的な場では神の前で詠むのと同じだったと思います。遊びで詠むのは、後の時代と思いますが…
やはり、倭姫皇后に向かって大胆にも降られた大海人皇子の袖を、額田王が鮮やかにたしなめたと読んだほうがいいかも知れませんね。

また、あした。



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by tizudesiru | 2017-11-17 00:49 | 303額田王は大海人皇子をたしなめた | Trackback

持統天皇は天智帝と草壁皇子の皇統を守ると決意した

持統天皇の御製歌の意味は…
ずっと引き延ばしてきたこと、持統天皇がなぜ香久山を詠んだのか、このことについて書かなくてはなりませんね。前回の三輪朝臣高市麻呂の諫めが農繁期の「伊勢行幸」に対する抗議というより、「三輪山が見捨てられること、王朝の神祭りが伊勢に移ることへの深い憤り」から来たものであると書きました。
三輪山はもともと饒速日を祀る山でしたから、天氏系の氏の大切な聖地でしたからね。

では、持統天皇の御製歌を読みましょう。既に紹介したカードを使います。

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春過ぎて…冬という困難な時代を一人息子を守りながら耐え忍び、やっと春が来たと思ったら夏になってしまった…ついに、わたしがあの香具山の神祭りを引き継ぐ時がきたのだなあ
しかし
持統天皇は、「天武天皇の神祭りを引き継いでこれから自分が政をしよう」と歌ったのではありません。
引き継ごうとしたのは天智帝と舒明帝の「まつりごと」なのです。
香具山を詠んだのは三人の天皇、天智帝(中大兄)と舒明帝と持統帝でしたね。
その舒明帝や天智帝と同じ祭祀で、国の「まつりごと(政)」を行うと持統天皇は歌ったのでした。


持統天皇がこれほどまでに「天智天皇」の天香具山にこだわるのは何故でしょう。

壬申の乱という、まるで革命のような政権交代を成し遂げた天武天皇の皇后は「天智天皇のまつりごと」に倣おうとしました。天智天皇がつくりあげた戸籍「庚午年籍」を使い、天武天皇の皇親政治を止め、議政官を任命し律令政治を目指しました。夫の仕事をひっくり返したのです。でも、高市皇子に最高位を預け、内部の混乱を避けようとしたのだと考えます。

皇位継承に関しては「直系に継承」という天智天皇の意思に沿いました。具体的には天智天皇の「不改常典」(改めまじし常ののり)として、元明天皇の詔に登場します。天武朝の皇位継承を天智帝の法で縛ろうとするなんて、考えられないことでしょう。持統天皇をはじめ、まつりごとの基本は天智朝を手本としたと云うことです。なぜに?
持統天皇は心から天智天皇を慕い尊敬していたのです。それは、持統天皇の崩御の年まで続きました。
続日本紀からも、その思いが伝わります。
大宝二年(702)十一月二十五日、持統天皇は尾張・美濃・伊勢・伊賀への行幸から戻りました。その翌月の十二月二十二日に崩御となっているのです。
そんな大変な時期、崩御の二十日前、十二月二日に持統天皇は詔を出しました。
「九月九日、十二月三日は先帝の忌日(いみび)なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」
先帝とは天武天皇と天智天皇です。


九月九日は天武天皇の命日、十二月三日は天智天皇の命日。
その命日には仕事をしてはならないという詔ですが、十二月二日に次の日の仕事を休めという、かなり急な詔ではありませんか。それも、この勅は天武天皇の為に出されたのではありません。次の日の天智天皇の命日のために出されたのです。
崩御の二十日前までも、持統天皇は天智天皇を思い続けました。


その理由はもう分かりますね。
天智帝への愛以外にはありません。
今まで、万葉集で確かめてきたことが事実なら、持統天皇は有間皇子の所縁の人、妹か、許婚者か、娘です。となると、鵜野皇女こそ天智天皇に召された畝傍の媛だったと云うことになりますね。
ここで、持統天皇の一人息子・草壁皇子の父親は天智天皇だった、という天武朝にとって大変な展開となるのです。
しかし、考えてみると少しも矛盾はありません。天武天皇は「吉野盟約」で、自分の皇子と同じく天智帝の皇子も我が子として扱おうと約束します。おかしな話です。本当は自分の直系の皇子に皇位継承権を与えたかったでしょうに。天智系の皇子も我が子のように扱うと誓い、大喜びしたのでした。
吉野の盟約は、鵜野皇女の連れ子を我子とするための儀式だったと思います。

しかし、吾子・大津皇子への愛は断ちがたく、天武帝は「朝政を聴く」立場まで引き上げました。大津皇子の即位への道を開けて置いたのです。
草壁皇子は自分の出自を承知していたので、皇太子でありながら極位には着きませんでした。もちろん、草壁皇子は病弱ではありませんでした。万葉集の挽歌に詠まれた通り、狩が好きで阿騎野では御猟を楽しんでいたのです。健康な草壁皇子は大津皇子が極位に着くことを承知していたと思います。

その事は、大津皇子にも伝わっていて、草壁の意思を受けてもいいのか、天武帝の崩御後、伊勢の姉に相談に行ったのです。大伯皇女の不安は的中し、大津皇子は死を賜りました。その政治的判断は高市皇子がしたと思います。行政のトップは太政大臣の高市皇子でしたから。
高市皇子は最高権力を握った持統天皇に畏敬の念を抱き、その胸の裡を察したのでしょう。天智系の皇統を残したいと思っていることを。

大津皇子の死後、自責の念で草壁皇子は苦しみました。そのために、自死を選んだと思います。日本書紀は「薨去」のみしか伝えていません。病気平癒のために誰も出家していないし、大赦もなく、その葬儀をどのようにしたのか、一切書かれていません。(万葉集でその様子を知る以外にないのです。)
「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」の一行のみです。弔いの使いの描写一つありません。

常々、持統天皇は、特定の皇子や皇女を大事にしています。
特に、明日香皇女の病の時は、沙門一〇四人を出家させました。人麻呂に挽歌も詠ませました。既に、紹介した通りです。しかし、大事な草壁皇子には沙門の出家はないのです。
特に寺を建立したとかもありません。草壁皇子の為に寺を建てたのは、中臣大嶋と比米額田です。
中臣大嶋は壬申の乱で斬られた中臣金の甥です。比米額田は額田王とされています。
二人は、なぜ草壁皇子の菩提を弔ったのか、答は一つです。草壁皇子が本来の主人・天智天皇の血統だからこそ菩提を弔う寺を建てたのです。
どの事実も、草壁皇子の出自と死の真実を指し示しているのです。
持統天皇は草壁皇子を失いました。その落胆と絶望はどんなに大きかったか。
しかし、残された道は一つしかありません。天智天皇の皇統・草壁皇子の皇統を守る以外にないのです。その決意の歌が「春過ぎて夏来るらし白妙のころもほしたり天の香具山」なのです。

つまり、持統天皇の御製歌は草壁皇子の出自を明かす歌なのです

持統帝が大事にした皇子・皇女は、長皇子(母・大江皇女)や舎人皇子(母・新田部皇女)、明日香皇女や阿
閇皇女・御名部皇女でした。
このような扱いをした理由はひとつ、なぜなら、彼らは天智帝の子孫だったからです。

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ですから、当然、持統天皇が大事にしたのは、先祖とつながる山田寺・川原寺・飛鳥寺・橘寺など蘇我氏・舒明帝や天智帝の所縁の寺院となりましょう。それは、同じ様式の瓦(山田寺式の瓦)が使用されていることでもわかります。
川原寺は九州で朝倉宮で崩御された斉明天皇の葬儀を天智天皇が執り行ったところでした。もともと宮殿で、後の世に寺とされたのです。橘寺は川原寺の正面の岡にある聖徳太子ゆかりの寺です。
吉備池廃寺も奥山廃寺も山田寺式の瓦が出土していますから、関係の深い寺だと云うことになりますね。
瓦は別の機会に紹介します。特に、奥山廃寺について紹介したいことがあります。

持統天皇の時代、大事にされた山田寺です。
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(冬の山田寺)
ここ山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の終焉の地です。其の霊魂は鎮められなければなりませんでした。

また、あした。



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by tizudesiru | 2017-11-16 00:42 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback(45)

柿本人麻呂は宇治川に天智朝のはかなさを詠んだ

近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌
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人麻呂は近江の国を過ぎる時、十分に近江朝を偲びました。その帰り道、宇治川の川辺に到りました。当然、見て来たばかりの淡海の風景がよみがえり、あの都があった近江から流れてきた川なのだと思ったのです。しばし川面を眺めて、近江朝の為に戦い死んでいった武人のことを偲んだのでしょうか。
264
 もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

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「近江の国より上り来る時に宇治の川辺に至りて作る歌一首」と書かれていますから、264の「もののふの」歌のみを指しているのは確かです。しかし、266番歌も人麻呂が近江朝を詠んだ歌です。なぜ、二首は離れているのでしょう。
264と266の二首は内容的にもつながっているように思うのですが、間に長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌が挟まれています。
なぜ、奥麻呂の歌がここに置かれたのか、今でこそ編集の意図が分かりませんが、平安時代までは特別の地位の人はわかっていたのかも知れません。

『新古今集』藤原定家の「駒止めて袖うち払うかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の有名な歌は、奥麻呂の歌を「本歌」として『本歌取り』したものです。定家はこの歌に心惹かれたのです。
その隣に人麻呂の秀歌があるのに、敢て奥麻呂の歌を本歌取りして「名句」にして見せたのでしょうか… 
わたしは「古今伝授」の当事者であった藤原定家は『奥麻呂の歌が人麻呂歌の間に置かれた意味を知っていた』のだと思います。奥麻呂は歌人として持統天皇のお気に入りでした。
持統四年の紀伊国行幸で「有間皇子の鎮魂の為に結松の歌」を見事に詠んだことで奥麻呂は持統帝に認められたのでした。大宝元年の紀伊国行幸では天皇の詔に応えて「見る人なしに」と還らぬ人を詠みました。だからこそ、持統天皇の最後の行幸にも従駕しています。誰もが奥麻呂を羨んだと思います。人麻呂の歌の間に奥麻呂の歌を置いたのは、その辺の暗示があるのかも知れません。
佐野の渡り・みわの崎は和歌山県新宮市とされていますから「紀伊国」行幸を引き出しますね。

万葉集の編者は、何を伝えたかったのでしょう。
平安時代になって、万葉集を編集させた高貴な人の意思がそこにはあるはずです。その人は「古今伝授」により人麻呂と持統天皇の秘められた愛を知っていたでしょう。その愛に奥麻呂が入ってきたのだと、それは紀伊国行幸の時からはじまったのだと、藤原定家は読み解いたのでしょうか。それで、本歌取りの「佐野のわたりの雪の夕暮れ」を読んだのでしょうね。「雪の野原のような現実の中で心やすめる処すら持たなかった」人麻呂の心情をせつせつと。

初期万葉集を編纂・編集したのは人麻呂だと、わたしは幾度も言いました。人麻呂が持統天皇の遺勅に応えて、文武天皇のために力を尽くしたのだと…。そして、万葉集は文武天皇亡き後、元明天皇に献上されたのですが、それは元明天皇を激怒させ人麻呂は断罪されました。その後、大伴氏に預けられた万葉集は、晩年罪を得た大伴家持の遺体と共に彷徨っていましたが、平城天皇によって召し上げられ編集の手が加えられて世に出たと、紹介してきたのでした。
その決定的な平安時代の編集「あることを分かりにくくするための編集」が、数多くの万葉集の謎を造り出したのだと思います。手が入れられたのは、ほとんどが人麻呂編纂の部分に対してでしょう。後期の家持関係の歌にはほとんど編集の手は入っていないと思います。
ですから、初期万葉集と後期万葉集では、内容も編集意図も微妙に違うのです。
そういう目で、人麻呂の歌を詠むと長忌寸奥麻呂の歌が置かれた意味も想像できると思うのです。

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266 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば こころもしのに古おもほゆ
この歌は、直接的に近江朝を偲んでいます。鳥は霊魂を運ぶ、または亡き人の霊魂そのものと思われていた時代です。いにしえの都の址にたたずんで淡海を眺めている時、夕暮れの中に飛び交う鳥は大宮人のあまたの霊魂と思われたことでしょう。
鳥と化した数多の霊魂が飛び交う岸辺、そこで鳴く鳥は滅びた王朝の物語を語るのでしょうか。それを聞くと心はしおれてしまい、王朝のはかなさと天智天皇を思って人麻呂は立ち尽くしたのでした。
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何故に、ここまで人麻呂は近江朝を思うのか、不思議ですよね。
人麻呂が近江朝を詠む時、天智天皇の傍にそっと立っているのは持統天皇の思いだったのではないでしょうか。わたしにはそう思えます。

では、また。



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by tizudesiru | 2017-11-08 00:14 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback

柿本朝臣人麻呂・近江朝を偲ぶ

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
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(電車で宇治川を渡る時の一枚)
宇治川を渡る時に思い出すのが、万葉集巻三の264番歌・柿本朝臣人麻呂の歌です。しかし、考えてみると、ちょっと違和感というか、変ですよね。
宇治川を見て、天武朝に仕える人麻呂が偲ぶのは滅ぼした近江朝だったとは…ちょっと、不思議ではありませんか。
確かに、宇治川の上流には琵琶湖があり、広い淡海が少し狭くなる辺りに天智天皇の近江朝の都がありました。大津京が京だったのはほんの数年ですが、万葉集では深い哀悼の思いを込めて繰り返し詠まれました。
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万葉集巻一に、人麻呂は「天智天皇こそ日知王の皇統を継いだ大王だ」として歌に詠みました。そして、「その大王が石走る淡海国の楽浪の大津宮で天の下を統治したのに、その王朝は滅び、都は荒れ果てた」と嘆いたのでした。この歌は人麻呂の個人的な哀悼の歌ではなく、公的な場での歌です。
この歌が詠まれた時、持統帝も天武朝の皇族も、壬申の乱で天武側に加担した氏族も、その場にいたでしょう。人麻呂だけでなく誰もが近江朝を偲んだというのでしょうか。壬申の乱の功労者の高市皇子も…傍にいたのなら微妙ですね。

そして、反歌二首では「ささなみの志賀」と詠んでいます。使われたのは「楽浪」と「左散難弥乃」の漢字でしたが、「ささなみの」という枕詞は、近江朝を引き出す言葉として人々の胸に残りました。それまでは「天さかる夷(ひな)=遠い田舎」であった淡海の国でしたが、「ささなみ」の志賀といえば、滅びた王朝と深く結びつくようになったのでしょう。
「ささなみの」が一句目にある歌は、万葉集には11首あります。その中で「神」がつくささなみのが四首あります。154番の石川夫人の歌は「天智天皇の葬送儀礼に詠われた挽歌」です。206番の置始東人の歌は、弓削皇子の挽歌として詠んだ歌です。
「神楽浪」は、高貴な人の霊魂漂う地として「楽浪」に特別な場所と意味を与えているのでしょう。
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弓削皇子は大津京で薨去されたのではありません。しかし、ささなみの志賀のさざれ波に例えて「いつまでも生きながらえていたかった」という皇子の思いを詠んだのでした。母が天智帝の娘の大江皇女だったから、天智帝の皇統を継ぐ皇子だと、神楽浪の志賀の浪に例えているのでしょうか。
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そして、宇治川の歌です。人麻呂は宇治川を見ても近江朝を思い出したのでした。

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この人麻呂の秀歌については、また明日、語り合いましょう。




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by tizudesiru | 2017-11-07 00:43 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback

沖ノ島は誰が祭祀したのか・ヒストリア謎の結論

沖ノ島祭祀誰がしていたか・NHKヒストリアが謎の結論

とても興味の湧くテーマなので、期待しました。 
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世界遺産になってしまった福岡県宗像市の宗像大社の辺津宮(土壇場でひっくり返り、当初は外されていた辺津宮が世界遺産になりました)。これで、観光資源になったのですが。そして、関連遺産群として津屋崎古墳群(福津市)も一緒に宗像氏の奥津城になってしまいました。ホントですか? それでいいのですかね。
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元々、宗像氏の祭祀に不思議に思っていた私は昨日放送(2017・11・3)の「歴史秘話ヒストリア」に驚きました。でも、宗像氏が磐井の乱の後も生き残ったと云う所は、そう思います。彼らが磐井を裏切ったのか、利用したのか、チャンスをつかんだのか、ですよね。

わたしは宗像大社は大好きで学生時代から何度も通いました。遠方の客が来ると、大島の中津宮や宮地嶽神社や宗像大社に案内するのです。
特に、宗像大社の裏の高宮のがらんとした空間は如何にも祭祀場のようです。わたしが学生の頃、高宮ができたばかりだったと思いますが、真新しい玉石と木立も低かったのでサンサンと陽が降り注ぎ風が吹き抜け気分がよかったのを思い出します。今は木々に覆われ暗くて静かですが…

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辺津宮本殿もある実業家の援助により中津宮(大島)の社をモデルに建て替えられました。その信仰の厚みが世界遺産になったのでしょうか。



分からないことが多すぎて何処から書いたらいいのか

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では、祭祀の変遷から行きましょうか。沖の島には弥生時代の土器などが出土していますので、嵐の時など避難していたと思われますし、ささやかな祈りも捧げたでしょう。それが突然大きな祭祀へと変わりました。武器や鏡や玉など古墳の副葬品と同じような豪華な奉献品が岩の上に置かれるようになりました
だから、「ヤマト王権の祭祀」となったそうです。豪華な奉献品だから九州の田舎豪族にはできないとのことでした。岩の上に豪華な品物が置かれ陽を浴びて輝いたことでしょうね。
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岩上には三角縁神獣鏡も奉献されていました。
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確かに、大きな権力を持つ人物の祭祀でしょう。4世紀半ばから岩上祭祀とよばれる祭祀が始まり、5世紀で終わります。(最近は祭祀が連続する形式のパンフレットが配られていますから、祭祀は終わってはいません。岩陰祭祀にかわりますが。)

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ところで、5世紀半ばでは福岡地域で最大の津浦峯ノ畑古墳(福津市)の副葬品の中の鏡が、沖ノ島の岩上遺跡のものと同范とされています。この古墳の被葬者は何者なのでしょう。沖ノ島祭祀と関わりがあると思われる、そうです。
この人達は宗像氏なのでしょうか。津屋崎古墳群の被葬者達です。

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数年前にラインを引いてみました。草崎の石祠から勝島の最高部を通り、大島の遥拝所を通り、沖ノ島の岩上祭祀場に直線が通りました。見事にライン(白)の上にすべてが乗りましたが、宗像大社辺津宮からライン(黄緑)を引いても何も乗りませんでした。
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このラインは何を示したのでしょうね。石祠の付け根にあった勝浦漁港(福津市)は今は反対側の神湊に大きな港湾施設ができたので消滅状態です。が、福岡県で一番長い砂浜を持つ勝浦地区には古代にはたくさんの前方後円墳が造られ繁栄していたのでした。
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ここは万葉集にも詠まれるように入り江が入り込み(水色の部分)、とても農業で栄えたとは思えません。では、何をして富を築いたのか、自明のことでありましょう。

では、ここが、宗像氏の奥津城だったのでしょうか。
でも、宗像氏は豪族でしたが、盟主的存在ではなかったようですね。

地図でも分かるように、現在は勝浦漁港に行くには海岸を通る以外にはありません。道の半分から宗像になっているのです。勝浦の名が残る以上、昔は勝浦地区が広がっていたはずです。
世の移り変わりの中で、勝浦は小さくなったのでしょう。勝浦海岸の南の岬は「渡半島」です。何処に渡るか? 当然、外国・朝鮮半島に渡るのです。ちょうど倭の五王の時代でした。

ここが倭の五王の船出の地ではありませんか?

勝浦・勝島・桂岳(勝浦岳)・対馬見山(つしまみやま)・渡(わたり)半島・草崎(いくさざき・戦崎)、それらしい名前が何でもそろっているではありませんか。
NHKは、津屋崎古墳群があるとは紹介しましたが、桂川町の王塚古墳や八女の岩戸山古墳を取材して、ヤマト王権とは関係ないという説明になっていました。桂川も八女も宗像氏との接点・沖ノ島との接点は見いだせないですよ。


津屋崎古墳群の被葬者達、彼らが半島に攻め入る時、沖ノ島で勝ち戦を祈ったからこそ「武器・武具」を奉献したのではないでしょうか、5世紀まで。と、思います。

しかし、祭祀が途絶えた。途中で半世紀以上の空白ができたと、考古学者の話です。

岩上祭祀をした氏は滅んだか、衰退したのでしょうか。
次の祭祀は岩上ではありませんでした。岩陰です。

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空白の後に、6世紀の後半から岩陰祭祀が始まるのです。この空白は何故起きたのか。それは「磐井の乱の影響だと考古学者が云う」と説明されていました。
わたしも「なるほど、磐井の乱で祭祀どころではなかったのか」と納得したのですが、この2,3年でこの文言は消えました。どうなったのでしょう、報告書にもあった文言なのに。空白の意味をしりたいです。

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それから、良かったと思う事がありました
栄山江流域の前方後円墳は6世紀の学説を紹介
このことを紹介してくれたことです。韓国の前方後円墳が、日本の前方後円墳のルーツだと一時騒がれたことがありました。でも、日本とのかかわりはあるけれど、日本から入った墓制だという研究をNHKは取材していました。
なぜ倭人の墓制が入ったのかついては、倭人が半島で鉄を求めたからだとされていました。納得の展開でした。倭人は弥生時代から鉄を求めて海を渡りましたからね。
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それから、青銅器が一つの遺跡から15本出るのも珍しいと紹介されました。木棺墓からの出土です。(ここには、福岡平野のような青銅器の埋納はなかったのでしょうか。筑前筑後では青銅器は大量に埋納されていましたが。)
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(15本の青銅器が出た田熊石畑遺跡)
確かに、たくさんの青銅器です。
宗像には甕棺墓はないとも言われます。朝町遺跡では、木棺墓・土壙墓は173基に対し、甕棺墓は2基で、有力者は木棺墓です。鏡の副葬はほとんどありません。
田熊石畑遺跡には、銅戈・銅矛・銅剣・勾玉・管玉・ガラス小玉などが副葬されていました。やはり、鏡はなかったようですね。

鏡が大量に副葬される福岡平野と若干違いますね。すると、宗像氏は北部九州では祭祀などを見る限り、別の文化を持つ集団だったのでしょうか。
では、では、津屋崎古墳群ともつながらないのではないでしょうか。

宗像氏は確かに不思議な氏族です。歴史の深い意味を背負った氏族だと思います。だからこそ、NHKさんに結論を急いでほしくないと思います。せっかく韓国にまで取材したのだから、結論を出したいのでしょうけれど…
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そうそう、かなり前の嘉麻市のシンポジウムで面白い一言がありました。
磐井の乱後に屯倉がどっと造られたのは、王権の侵入があった証拠ということで、地図上に屯倉の位置を確かめると「宗像は屯倉の空白地帯になっている」ということでした。なるほど、おもしろいなあ、と思いました。宗像氏はかなり前から王権と結びついていたのでしょうか。

では、では、王権にとって宗像は特別だったというのでしょうね。
7世紀後半の天武朝で活躍した高市皇子は、宗像氏とつながる人でしたね。

文章がまとまりませんでした。
疑問点を一部書きましたが、気になったことはまだあります。が、沖ノ島が大事な位置にあり、歴史の語り部であることには何の反論もありません。大切に守ってほしいと思います。
又、明日。






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by tizudesiru | 2017-11-04 17:27 | 298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論 | Trackback

297鉄の副葬も甕棺墓の時代から

鉄製品も甕棺墓の時代から製造していた
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甕棺の中に鉄剣と鉄戈が副葬されていました。甕棺の中の鉄製品ですから、銅と鉄はほとんど同じ時期に倭国にもたらされていたのです。しかも、甕棺に副葬された大型鉄戈は国産です。鋳造の大型鉄戈は我が国にしか出土しないそうですから、鉄を輸入して熔かして型に流して戈を造ったということです。大型甕棺を製作し焼成する力があったのですから、鉄を熔かすこともできたでしょう。北部九州では細形銅剣・細形銅矛などとともに銅戈が甕棺の中に副葬されました。その中で、矛を大事にする集団や剣を大事にする集団、戈を大事にする集団と各々の神祭りに使う祭器が違っていったのでしょう。
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安徳台は本当に台地になって他と隔離されています。この後の古墳時代になってつくられた墳丘墓は、ここ安徳台にはありません。なぜでしょうか、この台地は次の時代には使わなかったのです

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古墳時代は明らかに弥生時代とは違っています。
三角縁神獣鏡が出土した妙法寺古墳は、前方後方墳で方形の組み合わせです。同じ那珂川町なのに甕棺墓の時代とかなり違った社会になったのではないでしょうか。

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この古墳の時代の人たちの埴輪や土製品は、弥生の甕棺の技術を反映していません。
近隣の弥生時代の祭祀土器を見ましょう。みごとな丹塗の祭祀土器です。
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夜須町や糸島市の祭祀土器です。
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すごく出来がいいですね。しかし、溝に捨てられていました。なぜ大事な神祭り祖先祭りの品を溝などに捨てたのでしょう。
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生活用具も……
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この技術は何処へ行ったのでしょう。

祭祀用の青銅器が大型化した時代に、弥生集落に異変が起こりました。祭祀具の埋納です。
進んで村祭りの祭器を埋めたことになっています、土中に。
考えられません、何かがあったとしか。大型銅矛をまとめて埋めた集団。銅戈も、銅剣も埋められました。異なる地域の離れている集団が、同じことをするなんて不思議です。
埋めるしかなかった、村はずれの人目につかない処に埋めて隠したかった、見つかれば収奪されたのでしょう。弥生人たちは万に一つの運に懸けて祭祀具を土中に葬ったと思います。氏(集団)の宝を埋めて場所が分からなくなって掘りだせずに今日まで残った! なんて嘘でしょう。
埋めさせられたか、泣く泣く埋めるしかなかったと、わたしは思います。

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鋳造鉄製品を作る技術を持ちながら、彼らは何処へ行ったのでしょう。持ちだした青銅器もあったでしょうね。それらは、あの薄いけれど三角縁によって形を保っている銅鏡に姿を変えたとわたしも思います。
また、あした。




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by tizudesiru | 2017-11-03 20:00 | 297鉄製品も弥生から製造していた | Trackback

幻住庵の虚白院に住んだ仙厓和尚のエピソード

仙厓和尚は文化八年(1811)法席を湛元に譲って虚白院に隠退しました。
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62歳の楽隠居ではなく、これからは心のままに大いに教化に務めようと偈を作っておられたそうです。それからの二十年間が仙厓和尚らしい面目を発揮した時代だったようです。来るものを拒まず接してくれる仙厓さんは博多の街の人気者となったのです。
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仙厓百話・第九話 諫言の褒美「雲居の梅」
藩主黒田斉清候は幼少から厳しく教育され、亀井南冥などに師事し和漢並びに蘭学を修めた人でした。特に菊花をこの上なく愛し、天下の名品を庭園に集めて自ら研究もしていたのでした。ところがある日、菊園に園丁某の飼い犬が入り込み幾本かの枝を折ってしまいました。藩主は烈火のごとく怒り、園丁を手打ちにすると言い渡しました。
これを聞いた仙厓さんは早速夜半に庭園を訪ねて鎌で藩主が大事にしていた菊を刈り取ってしまいました。当然、次の日は大騒ぎでした。
仙厓さんは藩主の前に進み「自分が菊を刈り取った」と申し出て、人命と菊とどちらが大切かを問い、「藩内の大飢饉の状況を救いもせず花いじりや菊見の宴でもありますまい」と諫めたのでした。
藩主は自分の非を認め「和尚にしてこそ」と感謝して、お礼に「雲居の梅」を賜ったと云うことです。それが、幻住庵の玄関の梅なのです。


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第二十二話 首斬役人の辞職
ある雪の日でした。仙厓さんが静かに雪景色に見とれていると、一人の男が訪ねてきました。男は藩の首斬役人で、しかもその仕事に不思議な魅力を感じていたのでした。仙厓さんのところに来て、この男はなまくさい自慢話をするのです。
「あんたその首斬役人は大抵でやめたらどうな。後生が恐ろしいとは思いならんな。」
「そら又、なしでっしょうかい。命令するたアお殿様で、殺さるるたア悪い事したものですバイ。罪やら恨みのあるならー、殿様にたたりましょうたい、わたしが何ば知りますな。」
「そうばいな。そこで、あんたに用があるがその腰の刀であの庭の竹ば一本伐ってきちゃんない。」
男は庭に下りて示された竹を鮮やかに伐り倒しました。すると、竹に降り積もっていた雪が男の頭にどっと落ちてきました。仙厓さんは男が竹をもって来るのを見ていいました。
「その竹にはもう用はなか。あんたはびしょねれになったが仙厓はびしょぬれにならんとな。」仙厓さんは続けます。「命令したのは仙厓ばい。あんたがびしょ濡れになるわけはないじゃなかな」と。
役人は唸り、仙厓和尚の言葉で男の仏心が目覚めました。彼はただちに首斬役を辞職して、ひたすら仏の道を求めて和尚の教えを乞い、後生を懺悔減罪の行に励んだそうです。

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幻住庵のあちこちには仙厓さんのエピソードが残っています。

博多の中に溶け込んだ仙厓さんは来るものを拒まず、歌や描画で世間の愚や悪を風刺したり、様々の奇行や頓智で世人に教誨を与えたりしたのです。子どもたち・武家・文人墨客・町人と集まってきました。その中に揮毫依頼者が混じっていましたから、さすがの和尚もほとほと困ったようです。
米屋甚太郎に描いた画の画賛に、
こりゃ甚太郎 虚白院へ行き書きものねだるまいぞ
また合甫長右衛門に与えた歌に、
うらめしやわが隠れ家は雪隠か 来る人ことに紙おいてゆく

仙厓和尚も八十三歳の高齢になると、さすがに書きものに筆をとるのが億劫になってきたのでしょう。
墨染の袖の湊(みなと)に筆すてて書にし愧(はじ)をさらす浪風

と、石工岸田徴平に刻ませて庵の傍に立て「絶筆の碑」としました。

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たまたま講座で会った知り合いが「午後から、菩提寺のご住職がお話をされるので聞きに行くことになっている」というので、突然わたしも聞かせていただくことにしました。突然だったのですぐに自宅に帰り、ひとまず着替えてご講話を聴くことができました。その後、境内を案内していただいてお寺の隅々にまですごく興味を引かれました。
たまたま誘ってくれた知り合いに感謝です。この催しは「博多っ子講座」として計画されていた中の一つでした。ブログの中身は、幻住庵のご住職・山根玄眞様の資料とお話の中から要約して掲載させていただきました。
まだまだ、たくさんの面白くかつ意味の深いお話がありましたが、掲載しておりません。
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博多は何処もおもしろいですね。




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by tizudesiru | 2017-11-02 16:43 | 296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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法隆寺釈迦三尊像の台座の落書..
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13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
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15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
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61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
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64続・あおによし奈良の都の祭祀線
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66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
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71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代

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