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倭姫命と倭姫皇后と持統天皇

倭姫命世記(やまとひめみことせいき)を読んでいます。

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倭姫命ってどんな人でしょうね。

前回の続きです。豊鋤入姫から御杖代を受け継いだ倭姫命は、お伴の神達と共に祭殿の地を求めて放浪して、阿佐加国に着きました。

阿佐加国の阿佐加の峯に荒ぶる神・伊豆速布留(いつはやふる)神があり、行き来する人を取り殺していました。そこで、倭姫命に大若子が「種々の下賜品をその荒ぶる神に奉げてお鎮めください」と進上したので、倭姫命は阿佐加の山の峯に社を作り、その神を祀ると神は「うれし」と鎮まりました。

一書には、同じ話(阿佐加の山の神)について次のように書かれています。

{天照太神が美濃国より廻り阿濃の藤方片樋宮に至り鎮座された。この時、安佐賀の山に荒神がいて道行く人を取り殺していたので、倭姫命は度会郡の宇遅村五十鈴川上の宮に入られず、藤方片樋宮に神を祀られたのだった。

そこで、倭姫命は中臣大鹿嶋命、伊勢大若子命、忌部玉櫛命を遣わして、天皇に相聞された。

すると、天皇が『その国は、大若子の祖先の天日別命が平定した山であるから、大若子命がその神を祀りたいらげて、倭姫命を五十鈴宮に入れ奉らしめよ』と詔を出された。

こうして、大若子は引き返し種々の幣によって荒神を祀り平らげ、社を安佐駕に定め祀った。この後、倭姫命はお入りになることができた。}


上記の文は極めて意味深なのです。

そこは、大若子命の祖神(天日別命)が平定した地だというのです。
その地の「荒神を鎮めるために大若子命の力を借りよ」というのですからね。

その荒神が鎮まらなければ、「倭姫命は五十鈴宮に入ることができない」とは、すごい話です。


大若彦命は、下宮祀官の度会(わたらい)氏の祖神なのです。豊受太神宮禰宜補佐次第にその事績を記されているそうです。つまり、五十鈴川流域は、もともとは度会氏の祖先の地だったと云うことです。度会氏の聖域にヤマトヒメ命が入っていったと書いてあるのです。


さて、倭姫命は、すぐに五十鈴宮に入ったのではありませんでした。阿佐加の藤方片樋宮から更に移動しています。


次に、飯野の高宮に遷る

この時、櫛田神社(櫛を落とした処)を定め、御船に乗って幸行し魚見社(魚が船に飛び込んで来た)を定め、更に幸行して真名胡神社(御饗を奉る神がいた)を定めたのでした。


また、乙若子命が祓いをして、従う人々に弓剣を留め、兵と共に飯野の高宮に入られたので、遂に五十鈴宮に向かうことを得た、と書かれています。ここで、初めて兵という言葉を見ました。どういうことでしょうか。


ここから幸行して佐佐牟江に御船を泊めて、佐佐牟江宮を作り定め、更に幸行して大淀社(風波無く海潮よどむ)を定められたとあり、多くの社を定められました。

この時、天照太神が倭姫命に教えて云われたこと

「この神風の伊勢の国は、すなわち常世の浪の重波よする国なり。傍国(かたくに)のうまし国なり。
この国に居らむとおもふ」故に、太神の教えのままに其の社を伊勢国に立てたまふ。
よりて斎宮を五十鈴川に興し立つ。これを磯宮といふ。天照太神始めて天より降ります処なり。」

次に、飯野の高宮より伊蘇宮に還幸なりて座す

ここも、「百船(ももふね)度会(わたらい)国、玉ひろふ伊蘇国」でした。
南の山の端に良き宮処があるように見えたので、倭姫命は皇太神を戴き奉り船で幸行(みゆき)されました。

そうして、次々に出会いがあり社が立てられます。


倭姫命は幸行しながら、速河狭田社、坂手社、御船神社、御瀬社、久求社、園相社などを定めながら「よき宮処ありや」と尋ね廻りました。
「佐古久志呂宇遅(さこくしろ)の五十鈴の河上によき宮処在り」と聞いて更に御船で幸行しました。御饗神社を定め、二見の浜、堅多(かたた)社、五十鈴河後に江社、神前(かみさき)社を定め、更に幸行して矢田宮に。


次に、家田の田上宮に遷り幸行し座す

ここでいろいろな神々が出てきます。度会の大幡主命、出雲の神の子・吉雲建子(よしくもたけこ)命(伊勢都差神・櫛玉命)、その子、大歳神・桜大刀命・山の神大山罪命・朝熊水〈あさまのみなと〉神)、猿田彦の末裔・宇治土公の祖先大田命などと出会い、倭姫命は「よき宮処ありや」と問いかけました。

大田命は、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上は、これ大日本国の中に、殊に勝りて霊地(あやしきところ)に侍るなり」と、答えました。その地には見たこともない霊物(あやしきもの)があるというのです。

倭姫命がその地に行き御覧になると、なんと昔大神が誓願して「伊勢加佐波夜(かさはや)の国はよき宮処在り」と見込まれて天上より投げ降ろしたもの。

天の逆太刀(さかたち)、逆桙(さかほこ)、金鈴などだったのです。

倭姫命は喜んで事挙げされました。ついにたどり着いたのでした。

 

天照太神を度会の五十鈴河上に遷し奉る

倭姫命は五十鈴川の河上に宮処を見つけて大喜びされたのですが、普通に読んでみると先に祭られていた神があったことは事実のようです。そこへ倭姫命の導きで天照太神が降臨されたのですから、倭姫命は侵入者となりますね。
また、天上では豊受太神と天照太神が幽契(かくれちぎり)していたのですから、二神は同格でした。しかし、ここまでの「倭姫命世記」では、天照太神のことが書かれていて豊受太神のことはほとんど読めませんし、同格とはあつかわれていないようです。
倭姫命は、はじめから二神を同格と扱わなかったし、出発時からはっきりと「天照太神を戴き奉りて行幸す」と書かれています。この「行幸」は、途中から「幸行」と微妙に表現を変えていますが。行幸とは「天皇の外出。上皇、法王、女院の外出」に使われた言葉です。倭姫命とは如何なる人でしょう。
豊鋤入姫と倭姫命は時間軸をずらしてありますが、同じ目的「天照太神を奉り、宮地を求める」を持ち、但馬・倭国・木ノ国・吉備国・倭国(弥和の御室嶺上宮)までさまよいました。豊鋤入姫は架空の存在でしょうが、鏡を護身のために造らせたとありますから、鏡文化が広まった時代の人と設定されています。

倭姫命は大和國・伊賀国・近江国・美濃国・尾張国・伊勢国と移動しました。
この辺りが、持統天皇の最後の行幸と重なるのです。

倭姫命世記は「日本書紀」の記述に基づいて書かれていますから、豊鋤入姫の設定は無視できなかったのでしょう。

倭姫命は実在の女性だと思います。それも、実際に伊勢と関わった権力を持った女性です。すると、持統天皇が浮かび、消えた倭姫皇后と倭姫命が重なるのです。倭姫命がかかわって伊勢の神祭りや催しや他の神々との関係が整って行くからです。その過程が細かに語られ、神々に軽重・主従・役割を決めているようです。
これは、律令により祭祀を統制しようとしたことを意味するのではないでしょうか。
大きな権力でなければ、従来の祭祀や神々にランク付けをすることはできませんし、新しい神祭りを定めることもできないでしょう。権力を持った倭姫命こそ、持統天皇がモデルだったと考えます。そして、「倭姫」という皇位継承者の妃になるべき立場にいた女性だと思うのです。

倭姫世記は此処で終わりではありません。
嶋国の伊雑(いさわ)宮のことや豊受大神のことが語られるのです。
(その事は、また、別の機会に考えましょうね。)



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by tizudesiru | 2017-11-29 01:15 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

「倭姫命世記」の倭姫命、聖地を求めて放浪す

一昨日は、万葉集の不思議の一つ、高市皇子の挽歌についてお話しました。今日は、『倭姫命世記』についての話を少しさせていただきます。

『倭姫命世紀』は特異な性格の書とされています。

伊勢神道の経典として五部書が挙げられていますが、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』、「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」、『豊受皇太神御鎮座本紀』の三部書に、『造伊勢二所太神宮宝基本記』、『倭姫命世記』 を加えられて取りあげられるようになったのは、江戸時代だそうです。この中で、『倭姫命世記』と『造伊勢二所太神宮宝基本記』は、神道の教義ともいうべきものを明確に主張していて、その主張も他の三部書とは微細な点で違っているそうです。


倭姫命世記は、『天地開けし初め、神宝日いでます時』という詞で始まりますが、このスタートの詞は「中臣祓訓解」の文に同じだそうですから、同じ理解と思想の元に書かれた文章なのでしょうね。


続いて『御饌都神(みけつのかみ)と大日孁貴(おおひるめのむち)と予め幽契(かくれちぎり)を結び、ひたぶるに天が下を治め、言寿(ことほぎ)宣たまう』とあります。

御饌都神(伊勢下宮の祭神で月神)と大日孁貴(天照大神の別称、伊勢内宮の祭神で日神)が、ひそかに天上で約束をして天下を治め寿いできたと書かれています。天照大神と豊受大神は常にセットなのです。

この二神が月となり日となってきたので、永く世界が保たれてきたのだ、と始まるのです。

倭姫命世記が書かれたのは、日本書紀が広く読まれるようになった後でしたから、この正史に合わせて文章もつづられたはずです。ですから、「倭姫命世記」から正史と離れた個別の真実や事実を引き出すことは難しいかも知れません。しかし、当時の人々が何を思い、何を云おうとしたのかは想像することはできます。

例えば、神々が集まって皇御孫(すめみま)の天下りを決めて、水穂の国を平定するために遣わされた神は、オールスターですね。その初めは、天穂日です。

天穂日(あめのほひ)命 返言(かえりごと)をしなかった。

健三熊(たけみくま)命 父と同じく返言しなかった。

天若彦(あめのわかひこ) 返言しなかった。

布津主(ふつぬし)命・健雷(たけいかづち)命を降して(布津主と健雷が命令して)、

大己貴(おほなむち)神は、その子の事代主(ことしろぬし)に国を平定した時の広矛でもってあまたの鬼神をかり払わせ「葦原中津国を平定した」と復命した。


そこで、三種の神器(神財)を持たせて天津彦火瓊瓊杵(あまつひこほのににぎ)尊を天下りさせた。伴に天児屋(あめこやね)命、太玉(ふとたま)命が従った

降臨した場所は、筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)の峯であった


上記の展開を読むと、矛文化圏のオオナムチ命が先に葦原中津国を平定していたことは認めています。その子の事代主が天孫のために鬼神を退治したのですから、天下りの為に協力し活躍したのは、オホナムチの一族でした。少なくとも前政権の力を借りて、すんなりと権力が交代したというのですね。更に言えば、矛文化圏の広形銅矛は弥生の末に北部九州一帯では埋納させられていますから、弥生末に大変革があったのは間違いないでしょう。スタートは将に北部九州の説話なのです。


この天孫降臨の時、斎部(中臣氏や忌部氏)の始祖が伴として関わったとするのは、正史と同じでしょう。後世の神官の書き加えなのかも知れません。

天津彦火瓊瓊杵命、その第二子彦火火出見(ひこほほでみ)尊、彦火火出見の太子・彦波瀲武鸕草葺不合(ひこなぎさうがやふきあわせず)尊、彦波瀲武鸕草葺不合の第四子・神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇までの四代は、九州に住んでいたのでした。

神日本磐余彦は、その元年に「日本国に向かひたまふ。天皇みずから諸の皇子の舟をひきいて、師(いくさ)東に征(う)ちたまふ」と、東征し、神武天皇の八年、都を橿原に建てました

九州から侵攻した集団が最初に拠点を置いたのは、橿原だったようです。それから九代、神祭りは為政者と同じ屋根の下で行われていましたが、崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖みまきいりひこいにえ天皇)の時、倭の笠縫に天照太神と草薙劔を遷し奉った、と書かれていました。

この後から、崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(とよすきいりひめ)命による国国処処に大宮処を求める旅が始まるのです。

斎部(いんべ)氏が、石凝姥(いしこりどめ)神と天目一箇(あめのまひとつ)の末裔を引きつれ、鏡と剣を作らせ、身を護る御璽としました。斎部氏は「弥生の威信財・鏡と剣の役割を熟知してたようです。

次々と祭祀場を求めて還る

はじめは但波(たんば)の吉佐宮に還幸(みゆき)なる。そこは丹波国余社郡です。「ここより更に倭国を求めたまふ」たのですから、まだ倭には入っていません。「この年、豊受の神天降りまして御饗(みあへ)奉る」をありますから、はじめから豊受大神の放浪が始まるようです。


次に、倭国の伊豆加志元(いつかしのもと)宮に遷る

次に、木乃国の奈久佐浜(なくさのはま)宮に遷る

次に、吉備国の名方浜(なかたのはま)宮に遷る

次に、倭の弥和(三輪)の御室嶺(みむろのみね)上宮に遷る


ここで、豊鋤入姫命の妹・倭姫に事依(ことよ)さしめ、御杖代(つえしろ)と定める。

「ここより倭姫命は、天照太神を戴き奉り行幸す」

ここに大きな転機があります。天照太神が特に取り出されて奉られているからです。また、これまでは宮が「遷る」でしたが、ここから倭姫命の「行幸」となるようです。

倭姫命は特別な存在だったというのでしょうか。

更にここから、相殿神に天児屋命・太玉命、御戸開きの神に天手力男命・𣑥幡姫命がきて、御門の神に豊石窓命・櫛石窓命、ならびに五部伴の神がそい仕えるのです。

倭姫命が御杖代になった時に、社殿の形式が揃ったようですね。


次に、大和国の宇多秋(うだのあき)宮に遷る *倭ではなく大和国とかかれている

ここで倭姫命の夢に「夫に嫁がざる乙女にあうように」とお告げがあり、行幸すると八佐加支刀部(やさかきとめ)という娘に会い、仕えさせました。


行幸して、佐々波多の宮に座す

次に、伊賀国に還幸し、市守の宮に隠れる *伊賀国ができたのは天武天皇の時代

次に、同国の穴穂宮に遷る

次に、伊賀国の敢都美恵(あへとみえ)宮に遷る

次に、淡海の甲可の日雲宮に遷る

次に、同国の坂田宮に還幸(みゆき)なる

次に、美濃国の伊久良河(いくらがわ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、伊勢国の桑名野代(くわなのしろ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、阿佐加の藤方片樋(ふじかたかたひ)宮に遷り座す *


*ここで荒ぶる神との説話が挿入され、一書の逸話も入ってきます。どのような思想と人々の手によりこの書が出来上がったのか、少しは想像できますね。
倭姫命は実在の誰をモデルに書かれたのでしょうね。単なる空想にも思えないのです。
今日は、ここまで。




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by tizudesiru | 2017-11-27 13:19 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

持統天皇が霊魂となって北へ向かったわけ

持統天皇は霊魂となって北の天智陵へ向かった
未来永劫、霊魂のままでいい!
それは女帝の望みでした。太上天皇は望み通りに白い骨となり、ヨミガエリを望むことなく霊魂となって北へ向かったと、わたしは思います。葬儀を指示したのは文武天皇です。十分に太上天皇の望みを知って執り行ったことでしょう。
天智陵と持統天武陵が同じ経度にあることには意味があるはずです。それは、持統帝と天智帝に深いつながりがあったからだと思うのです。
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また、天智陵が平安京を守る位置にあるということにも意味があるでしょう。
平安京は天智帝の皇統の都として造られました。
しかし、持統・天武天皇の陵墓ともつながらないわけではありませんね。天智陵の真南には持統天皇が眠っているのですから。
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新しい皇統の都のために天智陵は移されることなく守護神となりました。
ここで、また振り返ってみましょう。
意思の強い女帝が貫いたことは天武帝の皇統を守ること。何度も書きましたが、草壁皇子の皇統を守ることでした。しかし、ここで立ち止まりましょう。草壁皇子が天武天皇の皇子であり、持統帝・元明帝・元正帝が天武帝の皇統を大事にしたのであれば、天武帝の他の皇子達の皇位継承権を認めたはず、だと。
では、元明天皇が長屋王の子どもたちのを身分を引き上げたのは何故でしょうか、例外でしょうか。
娘を長屋王に嫁がせていた元明天皇は長屋王の皇統に皇位継承権を認めてもいいと考えたようです。それは、「真の天武帝の皇統に継承してもらいたい」というのが草壁皇子の遺志だったからです。大津皇子を死なせてしまったことを悔やんでもいましたから。妃の元明天皇は夫の遺志を承知していたと思います。万葉集を読むかぎり、元明天皇の夫・草壁皇子への思いは、深く強いと思います。
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それでも、天武帝の皇統は抹殺されてしまいました。
藤原氏が外戚として権力を握るようになって、ことごとく天武帝の皇統は抹殺されていきました。ついに天武帝の皇統が絶え、天智帝の皇統が皇位継承者(光仁天皇)となりました。その息子の桓武天皇は平安京に遷都した時、怨霊・悪霊から都を守ることに腐心しました。その時、天智天皇の陵墓は守り神とされたのです。

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では、神祭りはどうでしょう。伊勢の神祭りが天武帝の祭祀であれば、そのまま次の平安京の権力者・皇統の祭祀となったでしょうか。
明治になって、たしかに天皇家の神祀りとして伊勢神宮が神道のトップとなりました。それまで、天皇の行幸が何百年もなかった伊勢神宮が…です。
ここで、やはり立ち止まり考えさせられます。
天武天皇の壬申の乱を勝利に導いた渡会(わたらい)の神は、天照大神ではなかったのではないか。それは、豊受大神だったのではないか。それを証明しているのが、「人麻呂の高市皇子の挽歌」の一節ではないかと、わたしも思うようになりました。すると、天照大神が伊勢に入ったのは豊受大神より後で、壬申の乱より後、となるでしょう。

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ここで、伊勢の神の鎮座地を求めた倭姫命とその物語は、遠い昔の人でも話でもなく天武天皇以降の時代のことだと思うのです。天智帝の消えた倭姫皇后と、持統天皇の伊勢行幸の大三輪高市麻呂との逸話を考えると、倭姫皇后は消えたのではなく天武天皇の後宮に召されたのではないか、持統天皇の行幸の目的が鎮座地探しだったのではないか、などと考えてしまうのです。
だから、持統天皇の霊魂は北へ向かった。天智陵へと。

では、また明日



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by tizudesiru | 2017-11-24 22:07 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

倭姫命と伊勢・度会の神

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点

崩御の時まで持統天皇が胸に秘めていたこと
今日はそのお話です。では、最後の行幸からまいりましょう。
持統天皇の最後の行幸はお気に入りの人を連れての旅だった、と前回書きました

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最後の行幸に従駕した人・万葉集には
長忌寸奥麿(意吉麻呂)、高市連黒人、与謝女王、長皇子、舎人娘子

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を詠みました。有間皇子事件を見事に詠み上げたその歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望したほどです。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。(既に紹介済)

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子についても、既に紹介しています。)

舎人娘子は舎人皇子の養育を受け持つ氏の女性でしょうか。この人は舎人皇子と恋歌をやり取りしています。それなら、持統帝が目をかけた舎人皇子の関係者となりますね。
東国へはお気に入りの人々を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。それは分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょう。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を読んみると、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべしと勅が出されています。何とも、急な勅です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないのです。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのでね。最後まで天智天皇への思いを抱いていた、最晩年に「隠す必要はない」と判断した、それが持統帝の真実の姿でした。

(十二月)六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

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天智天皇量の真南に天武持統陵・大友皇子の屋敷跡は石上神宮へ)

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり終えたというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が天の香久山を詠んだ女帝が、実は天照大神の神祭りの場を探していた、とは。

以前、持統六年(692)の伊勢行幸のとき大三輪高市麿が冠を捧げて天皇の伊勢行幸を諫めた話をしました。「大三輪」ですから高市麿は三輪山の神祀りをする氏族でした。『三月は農繁期ですから伊勢行幸はやめてください(我が三輪山は、天智天皇も大切にしておられた。その神山を捨てて伊勢に行かれるのか)』と諫言したのでしょう。
考えてみると、伊勢の神祭りを始めたのは天武天皇でした。

天武十四年(685)初めて伊勢神宮に式年遷宮の制を定める
  
諸国の歌男・歌女らに命じ、歌笛を子孫に伝習さす。
     

 

壬申の乱に勝利したのは伊勢の神のおかげだとすると、天武十四年の「はじめて式年遷宮」は遅すぎです。神への御礼は一番でなければなりません。
また、天武天皇が伊勢神宮の神祭りを始めたのであれば、その皇后の持統天皇が伊勢に行くのを止める大義名分は誰にもありません。まして、大三輪高市麿にも。
上代の三月が今の四月くらいだとすると、農作業が忙しいのは上代の四月から(五月六月)でしょうね。

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最後まで天智天皇を慕いつづけた持統天皇が、三輪山ではなく伊勢に神祭りの場を求めたのは何故でしょうね。その聖地求めの旅が平安時代~鎌倉時代初期に「倭姫の伝承」として『倭姫命世記』に書き残されたのではないかと思ったのです。

すると、持統天皇こそが倭姫皇后だったのではないか。父は有間皇子で、皇位継承者の妃となるべき立場に生れた姫だった。有間皇子事件の後は間人皇后かくまわれたが見つけ出され、古人大兄皇子の娘として天智帝の妃とされた。
そう仮定すると、紀伊国行幸の歌で有間皇子を偲び続けることも、天智・天武の陵墓が同じ経度にあることも、難波宮に重要なことを決める時に行幸があることも、有間皇子事件に類似した宇治若郎子の事件が額田王や人麻呂によって歌われるわけも、天智天皇の葬送儀礼の歌が天武帝より多く残されていることも、天智帝の血統の草壁皇子が薨去した理由も、額田王と中臣大嶋が草壁皇子の菩提を弔ったわけも、持統帝が天智帝が築いた高安城に行幸する理由も、倭姫皇后が忽然と消えた理由も、大津宮を持統帝が懐かしむ理由も、事実を歌として「万葉集」に編集した柿本人麻呂が刑死した理由も、人麻呂に対して元明天皇が激怒したわけも、平城天皇が「万葉集」を編集しなおして事実が分からないようにした理由も……ほとんど同じ糸で結ばれていたので、意味がつながり謎が解け理解できるのです。

倭姫命が天智天皇の皇后と同じ称号で呼ばれているのなら、何らかの接点があると思いませんか。
いよいよ、倭姫命世記を読まなければならなくなりましたね。
長い物語ではありません。近くの図書館にも関係書はあると思います。
では、また。




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by tizudesiru | 2017-11-21 23:49 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮

もうこの海を見ることもないだろう
あの方の霊魂を鎮める最後の旅となるだろう
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大宝元年の紀伊国行幸(秋九月、冬十月)は、万葉集の巻一、巻二、巻九に歌が乗せられています。大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、女帝の心にあった永年の苦しみを払う行幸でした。文武天皇が持統天皇と合流したのは、十月だったのでしょう。その時、紀伊国での出来事を全て孫に伝えたのです。

持統天皇は、九月に孫の文武天皇より先に紀伊国に来ていました。その時の歌が巻一にありますが、巻九の「紀伊国十三首」と比べて軽いのですが、旅先の土地を誉め、旅の安全を祈ったのでしょう。
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大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、特別でした。紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。それが巻九の「紀伊国行幸十三首」でした。そのひと月前の持統太上天皇の紀伊国行幸、この時の歌を読んでみましょう。

54 巨勢の山のつらつら椿はさいてはいないけれど、つらつら思い偲んでみようか。巨勢山に椿が咲き乱れるその美しい春野を。
秋なので椿は咲いていませんからね。春野を想像して詠んだのです。

55 麻裳で知られる国、紀伊国の人がうらやましいことだ。この真土山をいつもいつも眺めることができる。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人は本当に羨ましいなあ。
真土山を越えると大和から紀伊國に入ります。その境の山を見ると旅情が高まるのでしょう。

56 川岸に咲き乱れるつらつら椿、巨勢の春の野はつらつら見ても見飽きないことだろうなあ、巨勢の春野は、きっと。
まだ、春は遠いけれど椿咲き乱れる春野を偲びながら、一行は紀伊国の行幸の安からんことを祈ったのでしょう。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。以前紹介した「紀伊国十三首」の重く切ない歌と比べると、九月の歌はかなり軽く感じますね。文武天皇を伴った行幸は特別だったことが分かります。


そして、最後の行幸が大宝二年
持統天皇の最後の行幸・美濃・三河・伊勢・伊賀

大宝二年、東国へ持統太上天皇は行幸しました。
大宝二年は女帝の崩御の年です。崩御のひと月前まで女帝は行幸の輿の上に在ったのです。行幸とは「幸を行う」ことでした。行く先々で、人々を労い褒美を与えることなのです。持統天皇も先々で褒美を与えて回りました。
その最晩年の行幸時の歌が万葉集に残されています。


大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸では、紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。もう思い残すことはないだろうと周囲は思ったでしょう。
しかし、持統天皇は旅に出ました。それも、特別のお気に入りを連れての行幸です。

今度の旅の目的は何でしょうか。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                                       *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *             
 *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を集め整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。
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この行幸時の女帝のようすにただならぬ気配はなかったのでしょうか。十月から十一月まで五か国をめぐる旅が続きました。お疲れだったと思いますが。

歌に出てくる地名です。
引馬野(ひくまの)愛知県宝飯郡御津町御馬の地・音羽川河口付近に引馬神社がある。他に豊川市や静岡県浜松市の曳馬町付近とする説もある。
阿礼の崎(あれのさき)所在地未詳
隠(なばり)三重県名張市のあたり。
円方(まとかた)三重県松阪市の東部。東黒部町一帯後。「逸文風土器」に『地形が的に似る』とある。


持統天皇の行幸は「倭姫命世記」の倭姫の歩いた道と重なります。それは何故か、気になっていました。
それは、また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-21 00:10 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

倭姫皇后の運命を握った神とは有力氏族

いつまでもお慕いいたします

人はよしおもひやむとも玉蘰 影に見えつつ忘らへぬかも
天智天皇の崩御後にヤマトヒメ皇后は詠みました。
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149 人はよしたとえ大王を忘れてしまうことがあっても、わたしには大王の御姿がいつもいつも影のように見えていて忘れることはできない。

153 いさなとりをする海のように広い淡海の海、この海のはるか沖から漕いで来る船よ、岸辺近くを漕ぎ来る船よ、沖の船、櫂をひどく撥ねさせないでおくれ。岸辺の船の櫂もひどく撥ねさせないでおくれ。あの方の霊魂は鳥となってもまだ若い鳥だから、櫂がひどく撥ねると驚いて飛び立ってしまうでしょう。(だから強くひどく撥ねさせないで)
切々と皇后は訴えました。皇后の挽歌だけでなく、身近な女性たちの歌も紹介しましょう。中に、舎人の歌がありますから、葬儀の場では男性の歌も多く献じられたのでしょうね。

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婦人(姓氏は未詳)、額田王、石川夫人、舎人吉年の歌が残されています。冬の淡海はきっと暗く沈んでいたことでしょうね。
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この後、倭姫皇后の消息は分からなくなります。どうなったのでしょうね。大友皇子の即位まで、玉璽は預からなければならなかったでしょうし、泣いてばかりでは務まりません。

こんな大役を果たす皇后はどのように選ばれたのでしょう。

人麻呂の「日並皇子尊の挽歌」の中にヒントがあります。
「天地のはじめの時の ひさかたの天の河原に 八百万千万の神の 神集い集いいまして 神はかり はかりし時に 天照日女之命 天をば知らしめせと…」
人麻呂の長歌は、上記のように始まります。ここに、支配者を選ぶ儀式のことが書かれています。

神集い 集いいまして(たくさんの神が寄り集まって)
神はかり はかりし(神々が相談を重ねて)


この詞は祝詞(のりと)でもおなじみですよね。上代は神々が集まって相談して支配者を決めていたのです。それは、舒明天皇が即位する時も大臣たちが集まって決めていました。人麻呂は「神」と詠みましたが、それは現実の人間達だったのです。
支配者を決める風習を変えたのは、乙巳の変だったのでしょうね。合議制ではなく、大宮殿を作り役所を整え、律令によって政治を行うことを目指した時に、氏族の主張が優先した合議制は合理的ではなかったのでしょうね。


それで、皇后撰びに戻りますが、上代の大王が選ばれたように皇后も有力者が話し合って選んだと思います。ただ、選ばれる女子の氏は限られていたと云うことです。
古代豪族の中で大后を出した氏は限られていたと思います。

倭姫皇后が古人皇子の娘なら舒明天皇の孫ですから、選ばれるべき立場だったのでしょうね。

(ここで、わたしは妄想します。持統天皇が年に数回も吉野に行幸した理由は何だろうかと。吉野に出かける理由の一つに、誰かに会いに行くのだとしたら、それは誰だろうかと。
吉野太子に所縁の人か、太子に関わった人に会いに行っていたとしたら、それも心ひかれる物語になるでしょうね。)


さて、神々が寄り集まって皇后を決めたのだとしたら、その存在は特別ですし、その最後がどうなったのか、陵墓は何処にあるのか、書き残されねばなりません。
しかし、倭姫皇后については何もないのです。挽歌は残したものの、忽然と消えているのです。数百年前とされる仁徳天皇の磐姫皇后ですら、細かに記述されています。だから、大王となった天智天皇の皇后である倭姫が忽然と消えるのはおかしすぎます。

ヤマトヒメは何処へ行ったのか?
前の王朝の後宮の女性たちが次の政権の大王の後宮に入れられたのなら、倭姫も天武帝の後宮に入れられなければなりません。でも、倭姫は天武帝の後宮に入ってはいません。皇后となったのは、持統天皇です。
倭姫が消えたのは何故か?と思いませんか。
天武帝の持統皇后と天智帝の倭姫皇后の接点はないのか、非常に遠くしかし非常に近い存在、と考えませんか。わたしはここに釘付けになりました。二人の接点、それは、あるのです。

二人の皇后を結びつけるのは、倭姫です。
それはまた明日。



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by tizudesiru | 2017-11-19 00:12 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback

倭姫皇后の運命を握った神は

この一週間、トンデモ説を紹介しています
万葉集は妄想を誘う歌集です。中でも様々に妄想を膨らませてくれる不思議で魅力的な人は、倭姫皇后ですね。天智天皇の葬送儀礼の挽歌が残されているので実在の人には違いありません。今日は、その倭姫についてのお話です。トンデモ説ではありませんが。
天智帝の皇后・倭姫とは何者か

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知りたいですよね、倭姫皇后について。天智天皇の皇后はどのように選ばれたのか。
皇后になれる女性は決まっています。高貴な血統の姫しかなれません。
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大化改新の後も、皇后になれる条件は守られました。なぜなら、大王に事があれば皇后が玉璽を預かることになっていたからです。おろそかに玉璽を扱ってはなりませんから、皇后には大王家の血筋の娘が立てられたのです。どんなに高齢でも、若輩でも、役目は同じでした。
そういえば、年の差がありながら、間人皇女(舒明天皇の娘)が孝徳天皇の皇后に立てられましたね。大化改新後、立后されるべき女性がいなかったのでしょうか? 若い間人皇女以外には? そんなことはないでしょう。古人大兄皇子(舒明天皇の皇子)の娘・ヤマトヒメがいたはずです。それとも、ヤマトヒメはまだ幼く生まれたばかりだったのでしょうか。幼すぎたのか、政敵として父親を討ったばかりだったので孝徳天皇の皇后として具合が悪かったのか、でしょうか。

天智天皇の皇后の倭姫は、名前からして意味深ですね。カムヤマト磐余彦のように意味深な名前です。ヤマトは諱(いみな)ではなく、尊号でしょうか? 万葉集では高貴な方は名前が書かれていません。卿・大臣・天皇・太上天皇・大行天皇・皇后・皇太后などと書かれていますが、該当者が一人ならその人が誰なのかわかるのです。
誰を指すか特定されない場合もありますが、それでも二人ほどにしぼられます。
光明皇后の場合では、藤原皇后・皇后・太后・皇太后・籐皇后などと書かれて必要に応じて使い分けられていますが、諱は書かれていません。皇子皇女の諱は書かれていないのが普通です。


すると、倭姫の「倭」とは諱ではなく、その養育する氏を指し示すのでしょう。当時、倭氏がいたと云うことでしょうか。 皇太子・古人大兄皇子の娘ですから、まさに「倭の姫」だったのですね。
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古人大兄皇子は舒明天皇の皇子で、天智帝とは異母兄弟になります。吉野山に入ったので吉野太子とか、古人太子と呼ばれ、舒明天皇の太子(ひつぎのみこ)=皇太子と誰もが認めていたのでしょうね。しかし、謀反の罪により討たれました

大化改新(645)と呼ばれる乙巳の変は6月でしたが、その9月に古人大兄は謀反を計画したそうです、書紀によれば。蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子(もののべのえいのむらじしひ)、吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)、倭漢文直麻呂(やまとのふみのあたいまろ)、朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)と相談したようです。しかし、吉備笠臣垂は、中大兄に自首しました。
その為、古人皇子とその子達ともに討たれ、その妃妾は自ら首をくくった、と書紀に書かれています。
この状況の中を倭姫は生き残ったのです。

ちなみに、 自首した大錦下吉備笠臣垂(しだる)は、天平宝字元年(756)に吉野皇子(古人皇子)の反を告げた功により、功田二十町を賜っています。裏切って何十年どころか、百年以上経っての功田の下賜でした。なぜ百年余後なのでしょうか? 不自然ではありませんか…
他に物部朴井連は饒速日の末裔なので「物部」と冠していたのです。舒明天皇に近い人だったのでしょうね。この人は討たれたのですかね。
朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)は、小山下(しょうせんげ)という身分で天智元年「百済救援」の役に出て戦死したと思います。天智帝に仕えていたと云うことは、古人大兄を裏切っていたのですね。裏切り者は、吉備笠臣垂だけではなかったのでしょう。
さて、吉備笠臣垂が功田を賜った年は、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位した年でした。
天平宝字元年(756)、草壁皇子に岡宮御宇天皇と追号しています。この年に、藤原仲麻呂が「大保」に任命され、「恵美押勝」の姓を賜りました。非常に意味深な年なのです。


廃除された古人皇子の娘という、そういう背景を持った倭姫皇后です。父と家族の命を奪った叔父の天智帝の皇后となったのです。
では、天智天皇の聖体不豫の時に詠んだ皇后の歌です。
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147 天の原を振り仰いでみると、その天上の高きより長く垂れているのような大王の御命は、はるかに何処までもつながっているのです。
皇后は天皇の傍で祈り続けたのでしょう。しかし、天智天皇の病は重篤となり、言葉を交わすこともできなくなりました。

148 青々とした木々が旗のように見える木幡の山、その木幡の山の上を大王の御魂が何度も通っていることは風や雲の動きで私にも分かりますが、大王と直にお話することはもはやできないとは。
どちらも不思議な歌ですね。

聖体不豫の時、皇后はそば近くで平癒を神に祈り続け、言霊によりその霊魂を現世にとどめようとしているのでしょうか。皇后の役割として皇位継承の中継ぎをするだけではなく、聖体不豫の時に言霊により聖体を浄め守る役目もあったのでしょう。大王が神に選ばれた存在であるように、皇后も神に選ばれた存在であったのでしょうね。

また、明日




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by tizudesiru | 2017-11-18 10:06 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback

「野守は見ずや」と、額田王は大海人皇子をたしなめた

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
天武天皇は、額田王に袖を振ったのか? 
と、問われました。厄介なので避けたい質問でしたね。
この歌が詠まれたのは天智七年で、天智帝が即位した年の五月です。蒲生野は天皇の遊猟(みかり)が行われた地で、公的な宴席での余興として額田王が詠んだということです。
書紀には「大皇帝、諸王、内臣また群臣、みな悉くに従なり」と書かれていますから、近江朝の人々はこぞって出かけたのです。ですから、当然、皇后も臨席していたでしょうね。そこで詠まれたこの歌は、本当に余興の歌でしょうか。額田王は非常に細やかな気配りのできる、しかも政治的な判断力を持った人でしたから、余興の歌ではないとしたらどのようなことになるのでしょうね。

昨日、中大兄の三山歌で紹介した畝傍之姫が倭姫皇后であったなら、大海人皇子(天武帝)の袖は皇后に向かって振られたことになるでしょうか。
おっと、これは危ないですね。妙なことになってしまいます。そこで、額田王は気を利かして「わたくしに袖をお振りになるなんて、いけませんわ。」と周囲の目を自分に向けて皇后から反らせ、大海人皇子をたしなめたことになるでしょうか。それも、面白い読みになりますね。

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額田王は非常に魅力的で有能な美しい女性でした
若い時、天武天皇との間に十市皇女をもうけました。
斉明天皇の紀伊国行幸に従駕し、有間皇子事件を目撃しました。
天智天皇に仕え、近江朝の宮廷で詔に応えて歌を詠みました。
そして、天智天皇に最後まで仕え、葬送儀礼の挽歌を詠みました。
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額田王の波乱の人生は此処で終わったのではありません。天智帝亡き後に壬申の乱が起こり、娘婿の大友皇子が近江朝の総大将だったのですから、その戦いの顛末の全てを見聞きしたのです。
そして、
壬申の乱で近江朝が敗れた後、傷心の娘と孫を連れて額田王は明日香に帰りました。


明日香に帰った額田王は、幸せだったでしょうか。
いいえ、苦しい日々が待っていました。天武朝の皇親政治の重みを一身に受けていた高市皇子に再婚させられていた十市皇女が薨去したのです。天武天皇が祭場へ向かった後、宮中での突然の皇女の薨去・自殺でした。さすがの天武天皇も葬儀で男泣きしたのです。
この悲劇が額田王を苦しめないはずはないでしょう。どんなに辛かったか、苦しかったか、それを思うとわたしでさえ苦しくなります。

どんな状況でも、額田王は堪えぬいたのでしょうか。弓削皇子との歌のやり取りが万葉集に残されていましたね。額田王は若い弓削皇子に優しい返事を送りました。弓削皇子の母は大江皇女(天智帝の娘)でしたから、天智天皇つながりでやはり特別かわいかったのでしょうね。
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若い時から斉明天皇の傍近くに仕えた額田王は、鏡王の娘といわれています。斉明天皇の息子の天武天皇との間に子どもをなしたのですから、身分の高い王家の娘だったでしょう。 
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額田王の歌は、万葉集巻一にも7・8・9番歌と続けて掲載されています。どれも非常に政治的な意味の深い歌でした。額田王は優しく聡明な人で、政治的な立場に居た女官だったと思います。

額田王は
草壁皇子のために寺を建立しました

十市皇女の突然死で苦しんでたのでしょうが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後はその遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立したのです。

それは、大嶋の遺言でしたから、大嶋も壬申の乱に無念の最後を遂げた叔父と共に、本来の主人である天智天皇の皇子の菩提を弔った、とわたしは思います。

そうでなければ、二人がここまで草壁皇子を思う理由がありません。
この流れからすると、比売朝臣額田は額田王以外には考えられません。

粟原寺の塔の露盤が国宝になっていてそこに銘文があります。そこに粟原寺は、「大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮のために造った寺である」とあります。よく見ると、天武天皇の時代の皇太子と書かれていますが、天武天皇の皇子とは書かれていません。

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銘文のなかみは、次のようになっていました。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年は持統八年(694)です。

(この年の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都でした。)
このような額田王の人生を思う時、「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌は、どのような状況で詠まれ、何を意味するのでしょうね。歌は言霊でもありましたから、公的な場では神の前で詠むのと同じだったと思います。遊びで詠むのは、後の時代と思いますが…
やはり、倭姫皇后に向かって大胆にも降られた大海人皇子の袖を、額田王が鮮やかにたしなめたと読んだほうがいいかも知れませんね。

また、あした。



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by tizudesiru | 2017-11-17 00:49 | 303額田王は大海人皇子をたしなめた | Trackback

持統天皇は天智帝と草壁皇子の皇統を守ると決意した

持統天皇の御製歌の意味は…
ずっと引き延ばしてきたこと、持統天皇がなぜ香久山を詠んだのか、このことについて書かなくてはなりませんね。前回の三輪朝臣高市麻呂の諫めが農繁期の「伊勢行幸」に対する抗議というより、「三輪山が見捨てられること、王朝の神祭りが伊勢に移ることへの深い憤り」から来たものであると書きました。
三輪山はもともと饒速日を祀る山でしたから、天氏系の氏の大切な聖地でしたからね。

では、持統天皇の御製歌を読みましょう。既に紹介したカードを使います。

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春過ぎて…冬という困難な時代を一人息子を守りながら耐え忍び、やっと春が来たと思ったら夏になってしまった…ついに、わたしがあの香具山の神祭りを引き継ぐ時がきたのだなあ
しかし
持統天皇は、「天武天皇の神祭りを引き継いでこれから自分が政をしよう」と歌ったのではありません。
引き継ごうとしたのは天智帝と舒明帝の「まつりごと」なのです。
香具山を詠んだのは三人の天皇、天智帝(中大兄)と舒明帝と持統帝でしたね。
その舒明帝や天智帝と同じ祭祀で、国の「まつりごと(政)」を行うと持統天皇は歌ったのでした。


持統天皇がこれほどまでに「天智天皇」の天香具山にこだわるのは何故でしょう。

壬申の乱という、まるで革命のような政権交代を成し遂げた天武天皇の皇后は「天智天皇のまつりごと」に倣おうとしました。天智天皇がつくりあげた戸籍「庚午年籍」を使い、天武天皇の皇親政治を止め、議政官を任命し律令政治を目指しました。夫の仕事をひっくり返したのです。でも、高市皇子に最高位を預け、内部の混乱を避けようとしたのだと考えます。

皇位継承に関しては「直系に継承」という天智天皇の意思に沿いました。具体的には天智天皇の「不改常典」(改めまじし常ののり)として、元明天皇の詔に登場します。天武朝の皇位継承を天智帝の法で縛ろうとするなんて、考えられないことでしょう。持統天皇をはじめ、まつりごとの基本は天智朝を手本としたと云うことです。なぜに?
持統天皇は心から天智天皇を慕い尊敬していたのです。それは、持統天皇の崩御の年まで続きました。
続日本紀からも、その思いが伝わります。
大宝二年(702)十一月二十五日、持統天皇は尾張・美濃・伊勢・伊賀への行幸から戻りました。その翌月の十二月二十二日に崩御となっているのです。
そんな大変な時期、崩御の二十日前、十二月二日に持統天皇は詔を出しました。
「九月九日、十二月三日は先帝の忌日(いみび)なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」
先帝とは天武天皇と天智天皇です。


九月九日は天武天皇の命日、十二月三日は天智天皇の命日。
その命日には仕事をしてはならないという詔ですが、十二月二日に次の日の仕事を休めという、かなり急な詔ではありませんか。それも、この勅は天武天皇の為に出されたのではありません。次の日の天智天皇の命日のために出されたのです。
崩御の二十日前までも、持統天皇は天智天皇を思い続けました。


その理由はもう分かりますね。
天智帝への愛以外にはありません。
今まで、万葉集で確かめてきたことが事実なら、持統天皇は有間皇子の所縁の人、妹か、許婚者か、娘です。となると、鵜野皇女こそ天智天皇に召された畝傍の媛だったと云うことになりますね。
ここで、持統天皇の一人息子・草壁皇子の父親は天智天皇だった、という天武朝にとって大変な展開となるのです。
しかし、考えてみると少しも矛盾はありません。天武天皇は「吉野盟約」で、自分の皇子と同じく天智帝の皇子も我が子として扱おうと約束します。おかしな話です。本当は自分の直系の皇子に皇位継承権を与えたかったでしょうに。天智系の皇子も我が子のように扱うと誓い、大喜びしたのでした。
吉野の盟約は、鵜野皇女の連れ子を我子とするための儀式だったと思います。

しかし、吾子・大津皇子への愛は断ちがたく、天武帝は「朝政を聴く」立場まで引き上げました。大津皇子の即位への道を開けて置いたのです。
草壁皇子は自分の出自を承知していたので、皇太子でありながら極位には着きませんでした。もちろん、草壁皇子は病弱ではありませんでした。万葉集の挽歌に詠まれた通り、狩が好きで阿騎野では御猟を楽しんでいたのです。健康な草壁皇子は大津皇子が極位に着くことを承知していたと思います。

その事は、大津皇子にも伝わっていて、草壁の意思を受けてもいいのか、天武帝の崩御後、伊勢の姉に相談に行ったのです。大伯皇女の不安は的中し、大津皇子は死を賜りました。その政治的判断は高市皇子がしたと思います。行政のトップは太政大臣の高市皇子でしたから。
高市皇子は最高権力を握った持統天皇に畏敬の念を抱き、その胸の裡を察したのでしょう。天智系の皇統を残したいと思っていることを。

大津皇子の死後、自責の念で草壁皇子は苦しみました。そのために、自死を選んだと思います。日本書紀は「薨去」のみしか伝えていません。病気平癒のために誰も出家していないし、大赦もなく、その葬儀をどのようにしたのか、一切書かれていません。(万葉集でその様子を知る以外にないのです。)
「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」の一行のみです。弔いの使いの描写一つありません。

常々、持統天皇は、特定の皇子や皇女を大事にしています。
特に、明日香皇女の病の時は、沙門一〇四人を出家させました。人麻呂に挽歌も詠ませました。既に、紹介した通りです。しかし、大事な草壁皇子には沙門の出家はないのです。
特に寺を建立したとかもありません。草壁皇子の為に寺を建てたのは、中臣大嶋と比米額田です。
中臣大嶋は壬申の乱で斬られた中臣金の甥です。比米額田は額田王とされています。
二人は、なぜ草壁皇子の菩提を弔ったのか、答は一つです。草壁皇子が本来の主人・天智天皇の血統だからこそ菩提を弔う寺を建てたのです。
どの事実も、草壁皇子の出自と死の真実を指し示しているのです。
持統天皇は草壁皇子を失いました。その落胆と絶望はどんなに大きかったか。
しかし、残された道は一つしかありません。天智天皇の皇統・草壁皇子の皇統を守る以外にないのです。その決意の歌が「春過ぎて夏来るらし白妙のころもほしたり天の香具山」なのです。

つまり、持統天皇の御製歌は草壁皇子の出自を明かす歌なのです

持統帝が大事にした皇子・皇女は、長皇子(母・大江皇女)や舎人皇子(母・新田部皇女)、明日香皇女や阿
閇皇女・御名部皇女でした。
このような扱いをした理由はひとつ、なぜなら、彼らは天智帝の子孫だったからです。

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ですから、当然、持統天皇が大事にしたのは、先祖とつながる山田寺・川原寺・飛鳥寺・橘寺など蘇我氏・舒明帝や天智帝の所縁の寺院となりましょう。それは、同じ様式の瓦(山田寺式の瓦)が使用されていることでもわかります。
川原寺は九州で朝倉宮で崩御された斉明天皇の葬儀を天智天皇が執り行ったところでした。もともと宮殿で、後の世に寺とされたのです。橘寺は川原寺の正面の岡にある聖徳太子ゆかりの寺です。
吉備池廃寺も奥山廃寺も山田寺式の瓦が出土していますから、関係の深い寺だと云うことになりますね。
瓦は別の機会に紹介します。特に、奥山廃寺について紹介したいことがあります。

持統天皇の時代、大事にされた山田寺です。
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(冬の山田寺)
ここ山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の終焉の地です。其の霊魂は鎮められなければなりませんでした。

また、あした。



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by tizudesiru | 2017-11-16 00:42 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
332モノ申す副葬品たち
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う

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