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穂波川流域に栄えた土師氏


狭い所に前方後円墳が集中桂川町
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古墳が集中するのは、穂波川と泉河内川の間です。川の氾濫原から一段高くなった丘陵の上に前方後円墳があるのです。
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右端に王塚古墳の墳丘が見えているはずですが、確認しにくいでしょうね。
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王塚古墳館の桂川町紹介(古墳)の画像を見てください。
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上の画像の古墳は、山が荒れていて見学不可能です。
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王塚古墳と天神山古墳は見学できます。
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この地域には7基の前方後円墳があるそうです。が、その経済を支えたのは何か、なんという氏族が政治経済を握っていたのか、わかっていません。
古墳時代の集落跡がほとんど見つかっていないのです。これだけの墳丘を続けて造るには、人手が必要ですし、技術も知識も必要です。よそから働きに来たとは考えられませんから、地域の住民がかかわったはずです。
僅かに古墳時代の遺跡が土師(はじ)地区で発掘されています。其の出土物は王塚古墳館に展示してあります。確かに須恵器の甕のようすから、古墳時代の遺跡ですね。
天神山古墳の八幡神社は土師地区から遷したということでしたから、古墳群を造ったという伝承が土師地区にはあったかも知れませんね。江戸時代までは。

更に古い伝承もあります。
『九〇一年(昌泰四年)正月、菅原道真は右大臣・従二位であったが、正月二十五日、大宰府に左遷された。この頃、土師郷に土師氏がいて、土師庄の領主であった。道真はもともと土師氏であったので、同じ土師氏であるからと、大宰府にいる道真と親交をむすんだ。九〇三年(延喜三年)二月二十五日に道真が大宰府で没したので、土師氏の人が道真をオオクニヌシノミコトを祀る神社に祭った。』という伝承が土師の老松神社神職の高森氏の家に残されているそうです。


土師地区の人は「同じ土師氏だから」とオオクニヌシをまつる老松神社に道真を祭ったのですね。なかなか面白い伝承です。
だって、大国主を祀る神社だったのでしょう!! 土師氏は大国主を祀っていたなんて?! です。
大国主命が大化改新までの倭国の神だったのではないかと、私は思っているのです。九州と日本海側と関東にその信仰は広がっていました。が、政変により大きな神社は祭神が変えられた、小さな神社は相手にされず見逃されたと思っているのです。人口の少ない集落に古い神々が残されていますものね。

時代が変わるたびに、鎌倉武士により神社の祭神の入れ替え、江戸時代の藩政による別の神社の勧請などで摂社・末社に主祭神が置き変えられるなど、いろいろあったということです。
桂川はなかなか面白い町ですよ。


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by tizudesiru | 2017-09-25 15:48 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Trackback

初めて見た突堤の溝・天神山古墳現地説明会

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(上の写真は桂川町の王塚古墳です。奥の森の中にも古墳群があります)
筑前王塚古墳近くに天神山古墳があり、その墳丘の見学会がありました。
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大きく削られていますが、そこに豆田八幡神社があります。この神社は江戸時代に土師地区から遷されたものだそうです。その時、削られたのでしょうか。
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国道200号の上に陸橋がかかっています。渡ると天神山古墳です。
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遠賀川の支流の穂波川と泉河内川の間には古墳が集中しています。後日紹介します。
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神社の裏に回ります。
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古墳の突堤の一部が見えます。
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トレンチを見ると、地山を削り出して古墳を造ったことが分かります。前方部の角もトレンチで確認されていました。
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白い棒の先が前方後円墳の前方部の端ということでした。
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上の写真が前方部です。では、後円部へ進みましょう。
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今回の見学会のメインは、この突堤の切れ目でした。突堤に通路のような溝が造られているのです。このような溝は他に例がないとのことです。これは、1940年の調査の時も確認されていて、再確認されたのです。
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上の測量図が1940年の調査で造られたものです。左上の突堤に切れ目があります。
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決して大きくはない渠で、周溝に降りる所に一段、突堤から外へ出る所に一段階段がありました。周辺の腐葉土などの堆積物から判断して、この溝は築造時からあったということです。
それは、どういうことでしょうか。築造時、この溝は必要だったのです。
何かを運ぶために開けられたのか、お祭りをする時の通り道として掘られたのか、理由はわからないそうです。
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後円部の墳丘の上は平らになっています。瓦が落ちていますから、一昔前に社が建てられていたのでしょう。それにしても、この古墳には遺物がないのです。須恵器が神社の辺りで表採されたのみで、埴輪も葺石もないそうです。石室らしきものも未だ確認されてなくて、墳丘部を電波で探査したけれど、それらしい反応はなかったとのことです。
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怪しい古墳ですか? そうなのです、とても不思議です。
6世紀後半の古墳なら円筒埴輪だけでなく形象埴輪は伴うはずです。近くの王塚古墳のように、横穴式石室があるはずです。周溝が盾形ではなく、くびれ部で内側に突堤がカーブしているのも変です。
本当に6世紀後半でしょうか。

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私は、突然思いつきました。この溝は、古墳が出来上がった暁にはふさがれる予定だったのではないか、ということです。つまり、ここは途中で築造がストップした古墳だと思うのです。なぜか? それは、何らかの政変が起こったということでしょう。墳丘を作り、石室のための穴を掘り、石を運び込む、という手順で行われていた土木工事、その工事が途中で止まったのではないか!! だから、石室もないし、埴輪もなければ葺石もない、人々の祭祀の跡もないので生活用の土器も出ない、としか考えられないのです。そんな状況で被葬者の木棺直葬があったかも知れませんね。想像ですが。

今日、丁寧なご説明をしてくださった先生、ありがとうございました。大変面白かったです。
石室の調査をぜひお願いしたいですね。天神山古墳の築造時期は何時頃でしょう。
興味の湧く見学会でした。



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by tizudesiru | 2017-09-24 00:07 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Trackback

香具山を詠んだ三人の天皇(2)

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by tizudesiru | 2017-09-22 11:15 | 285天香具山と所縁の三人の天皇

天の香具山を詠んだ三人の天皇(1)

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by tizudesiru | 2017-09-21 15:12 | 285天香具山と所縁の三人の天皇

檜隈寺跡は天皇の宮跡

キトラ古墳のすぐそばに檜隈寺跡
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中央の小高い丘にキトラ古墳があります。
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振り返るとくぼ地があり、坂道をのぼると森があります。中央の森が檜隈寺跡です。
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森の中に於美阿志(おみあし)神社があります。
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「檜隈は百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志はその阿智使主を祭祀する。檜隈寺跡は」その神社の境内にあり、塔と金堂と推定される建物跡を残す。日本書紀、天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の〇〇〇跡からは、7世紀末の瓦が出土する。〇〇〇ある十三重石塔は上層の一部を欠いているが、文化財に指定されている。」と、案内文にあります。
下の案内板には、大字桧前となっていて、地名は檜隈ではなく桧前(ひのくま)となっています。

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於美阿志神社の境内には、宣化天皇桧前廬入野宮址と書かれた石柱がありました。28代宣化天皇は、継体天皇の皇子です。
29代が同じ継体天皇の皇子の欽明天皇です。欽明天皇の陵は、明日香村大字平田にあり「檜隈坂合陵」と呼ばれています。

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更に奥に進むと石塔が見えてきます。
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石塔は於美阿志神社の社の隣の敷地に在ります。ここが塔跡のようです。
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於美阿志神社を挟んで北には講堂跡があります。近江の崇福寺・南滋賀廃寺、山城の高麗寺などで見られる瓦積基壇を持つ建物は、明日香では初めて見つかったものだと書かれています。
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基壇上には礎石が残っていました。
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於美阿志神社の神殿です。ここから北に30mほど歩くと、瓦を焼いた窯跡があります。
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古い瓦当文様もありますね。
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芝生の斜面が瓦窯跡で、すでに埋め戻されています。
奥の森は檜隈寺の講堂址ですから、古代には使用する瓦を寺院のすぐ近くで焼いたことが分かりますね。

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では、檜隈寺跡とお別れしましょう。
そうそう、わたしが何ゆえに檜隈(檜前)寺=宣化天皇宮址を取り上げたのか、大事なことを書いていませんでしたね。
わたしは日頃から飛鳥に関心を持っています。そこは「飛ぶ鳥=霊魂の国」だという意味の地名だと思うからです。しかし、其の思想は古代からの物ではありません。天香具山をトーテムとした氏族が生みだしたものです。
其の証拠に、書紀によれば、古代の歴代天皇の陵は、大阪府の百舌鳥古墳群や磯長(近つ飛鳥)や桜井市や天理市や橿原市にあるではありませんか。
その陵の事実関係はともかく、古代天皇の出身地は飛鳥ではないのです。
飛鳥に入るのは欽明天皇からで、それまでの天皇の宮跡もありません。飛鳥を宮とした宣化天皇が渡来系の氏族の寺跡と重なるのは、面白いと思ったからです。
縁もゆかりもない所に住んだりしないでしょう。何かしら関係があるのです。それは、瓦によっても分かりますからね。
では、また。


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by tizudesiru | 2017-09-21 11:36 | 283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址 | Trackback

呉音と漢音で「倭人伝」の役職名・人名を読む

初めて接した漢字の発音
倭国が初めて接した漢字の発音は、今日、呉音・対馬音とか呼ばれるものだったそうです。
万葉集は万葉仮名と呼ばれる漢字で書かれています。
やはり、多くは呉音の発音で読むようです。漢音と呼ばれる今日ではよく使われる発音は、八世紀になって唐と交流が始まって後に入って来た「発音」といわれます。
中国では本来漢字の読みは一つです。しかし、日本では漢字が取り入れられた時期が幾度もあるので、読みが幾通りもあるのです。
例えば「明治めいじ」や「明神みょうじん」などのように「明」をメイ(漢音)と読んだりミョウ(呉音)とよんだりします。呉音と漢音という入ってきた時期が違うので様々な音読みがあるのです。

一・二・三、壱・弐・参、イチ・ニ・サン、日本語そのもののようですが、これらは古代中国語の呉音の発音なのです。

過去の文献の個人名など呉音で読むか漢音で読むか気になります。

「倭人伝」も呉音で読まなくちゃいけませんよね。やってみましょうか。

赤(呉音)、色無し(漢音)、青(呉、漢、両方に共通)


倭(ワ・イ)国              *地方名(読み) ワコク・イコク

卑()狗(・コウ)           *対馬、壱岐(読み)ヒク=ひこ

卑 奴(ド・)母(ボ・)離()   *対馬、壱岐(読み)ヒヌモリ=ひなもり

爾(ジ・)支(シ)→イをつけて伎(キ・)*伊都国(読み)ニギ=にぎ・ねぎ

泄(エイ・セツ)謨(ボ・)觚(・ク) *伊都国(読み)エモコ

柄(ヘイ)渠(キョ・?)觚     *伊都国(読み)ヘゴコ

兕()馬(バ・)觚       *伊都国 (読み)ジメコ・シマコ

多()模(・ボ)       *不弥国(読み)タモ=たま

投(トウ・)馬         *投馬国(読み)ヅマ・=つま

彌(ビ・)彌          *投馬国(読み)ミミ

彌 彌 那(・ダ)利()   *投馬国(読み)ミミナリ

邪(ジャ・シャ・ヤ)馬 壹(イチ・イツ) *邪馬台国(読み)ジャマイチ・ジャメイチ      

伊()支 馬            *邪馬台国(読み)イキメ

彌 馬 升(ショウ)         *邪馬台国(読み)ミメショウ・ミマショウ

彌 馬 獲(クァク)支      *邪馬台国(読み)ミマワキ・ミメワキ 

奴 佳(カ・)鞮(テイ)      *邪馬台国(読み)ヌケテ 

勝手ながら呼んでみましたが、なかなか日本語らしくなりませんね。
中国の人が聞き取った日本語を漢字に変えているからでしょうね。

漢字が日本に入って来たとき、みんな苦労したでしょう。
どんな発音なのかが分かると、万葉集も古事記も文化的に何時の時代を反映するのか察しがつきますよね。
日本国になって、唐と交流するためには新しい漢字の発音が必要でした。急いで新しい読みを取り入れられたでしょうが、それまでに培った文化はなかなか消せるものではありませんから混乱したでしょう。
万葉集の時代には「雲・天・雨・日・月」など身近な言葉は既に訓読みが浸透していました。漢字を消化するには時間がかかったと思いますが、文字を手に入れることは大きな喜びだったことでしょうね。



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by tizudesiru | 2017-09-18 16:23 | 282呉音で書かれた万葉集と古事記 | Trackback

キトラ古墳の被葬者は舎人皇子

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by tizudesiru | 2017-09-17 00:26 | 281終末期古墳・キトラの被葬者

キトラ古墳の主は星空と四神と十二支神に囲まれた

キトラ古墳の被葬者は誰

キトラ古墳の被葬者として、歴史に名が残されている人を当てようとするのは、仕方がありませんね。何処の誰かが分かると、古墳の意味と時代の様相が格段に理解しやすくなりますからね。
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道の奥の斜面の木の間にキトラ古墳が見えています。

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キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵の斜面にあります。すぐ隣にある集落は「阿倍山」といいます。
その地名があるからキトラの被葬者を「阿倍御主人(あべのみうし)」とする説があるのです。阿倍御主人は大宝元年(701)三月に右大臣に任命されています。

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(写真の集落は阿倍山です)(下の写真はNHK)
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さてさて、キトラ古墳の被葬者は誰なのでしょうね。出土した歯のようすから石槨に葬られたのは一人で、50~60歳の男性のようです。
そうなると、若くして亡くなった弓削皇子説などは消えますね。
40代の高市皇子説も消えるでしょう。
すると、阿部御主人説が有力になるのでしょうか。
しかし、小さい墳丘ながらもキトラ古墳の石槨の天上に天体図があります。
阿部御主人の墓なら、右大臣なのに北斗七星のもとに眠るのでしょうか。
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上の写真は、孝明天皇の即位の儀式で着用された礼服ですが、これに北斗七星の図が使われています。
北斗は、極位に登る方が礼服に使用されるべき星座というのでしょうね。
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(キトラ古墳の天上の天体図です)
三重の同心円は、内規・赤道・外規です。
内規は常に見えている星で、外規は季節ごとに見える星だそうです。赤道は太陽の通る道となります。
中心のずれた円は黄道で、月の通り道です。
この天文図は紀元前1世紀中ごろと推定されているそうです。


紀元前の星の位置を記録したという「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したので、「中国からもたらされた星図をもとにして描かれた可能性が高い」とされています。
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中国ですか……古代の日本も月や太陽の観測はしていたはずですよね。神話にも「月読命」っておられますからね。神社の行事にも未だに月を観測する行為が残されていますからね。
それにしても古い天体図を描いたのですね。
キトラの絵師にも渡された下図があったはずですよね。それが是ですか。

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(体験館の図をお借りしました)
右大臣阿部御主人が被葬者とすると、右大臣の墓に天体図(体験館の写真を使わせていただきました)や十二支の人形図が書かれたのは何故でしょうか。
玄武に朱雀に青龍といった神聖な四神が墓に描かれたのですから、その社会的立場は相当に重要だったのではないでしょうか
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中国の山西省の金勝村7号墓の壁画にキトラ古墳の壁画が似ていると放送されていました。かなり前の放送だったので余り覚えていませんが、金勝村7号墳の被葬者は、どんな身分の人だったのでしょうか。
御存じの方がおられたら教えてください。

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そうそう、
高松塚古墳にも四神や星座が描かれていました。
何より高松塚は藤原宮大極殿の真南に位置していました。選ばれた墳丘墓でした。

では、
キトラ古墳は、どのような位置にあるのでしょう


つづく


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by tizudesiru | 2017-09-14 15:40 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback

キトラ古墳の被葬者

聖徳太子の墓は終末期の古墳でした。
それも、明日香の岩屋山古墳に近い石室とされました。では、飛鳥の終末期古墳・キトラ古墳も見てみましょう。

終末期古墳・キトラの被葬者は?


紹介文には「キトラ古墳は高松塚に続き日本で二番目に発見された大陸風の壁画古墳です。」と書かれていました。

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発掘された時のキトラ古墳。四角い穴は鎌倉時代の盗掘の跡です。
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盗掘の穴から覗くと、四神・天体図・獣頭十二支像などの壁画が見つかりました。
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高松塚古墳に続く発見となり、中でも天体図は魅力的でTVにも取り上げられました。
壁画の保存に伴い辺りは大きな公園になりました。
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それにしても、被葬者は誰なのかが話題になりました。7世紀末~8世紀初めにかけての終末期古墳ですから、被葬者もかぎられるはずですし、天体図や玄武などの四神が描かれ、獣頭の十二支像が描かれるなど、高貴な人に限られのです。

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天武天皇の皇子である高市皇子、同じく天武天皇の皇子の弓削皇子、高官であった百済王昌成、古墳の周辺が阿倍山という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が挙げりました。
石室は狭いのですが、副葬品を見ると金や銀を使った豪華な木棺など有りますから、身分の高い人だったに違いありません。
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壁画を見ると、将に王者のものですね。しかし、古墳は小さい…
この小さな古墳に眠っていたのは何処の誰でしょう。高貴な方には違いないのですが。

つづく


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by tizudesiru | 2017-09-13 09:36 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback

聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

聖徳太子の陵墓の石室は、飛鳥岩屋山古墳に似る

この夏、飛鳥の岩屋山古墳を訪ねてみました。
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明日香駅から線路を渡ります。
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古墳があるのは細い坂道の途中です。
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道なりに進むと、道標が見えます。
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線路を渡って、5分ほどで岩屋山古墳に着きます。
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みごとな切石の石室です。叡福寺の聖徳太子の墳墓の石室もこのようになっているのでしょうか。
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外観は削平されていて墳丘のかたちははっきりしません。
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小高い丘陵の途中なので辺りの景色がよく見えます。
この岩屋山古墳の主はどんな人だったのでしょう。
似ている石室だから、聖徳太子と同じ時代に活躍した人なのでしょうか。
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叡福寺の棺は漆塗でした。「藤原鎌足と阿武山古墳」の図によると、叡福寺は脱乾漆棺になっています。要するに布に漆を塗って固まったら、枠組を抜いていっそう軽くしたものです。
ということは、皇太子のために最高の技術を用いて棺を造ったのか、後世の人が棺を変えたか、または皇太子ではなく後世の人の墓だったのか、いずれでしょうね。

野口王墓(天武・持統陵)は切り石の石室でした
そこに、脱乾漆の天武帝の棺があります。脱乾漆は最高の技術だったのでしょうね。
図によると、終末期古墳の棺に漆がつかわれたようです。
叡福寺も漆塗りの棺ですから、高貴な人で最高の棺に葬られたということです。 
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聖徳太子は実在しなかったのか?と聞かれたことがあります。

どうでしょうか? 平安時代の一般の人は日本書紀など読みませんから、そう云うもので太子を知ったのではないでしょう。
しかし、太子信仰は平安時代に盛り上がり、所縁の寺や太子創建という伝承の寺があちこちに現れてもてはやされました。太子の誕生から逝去までの物語が広く世間に広がりました。信仰上の物語は太子の実像とずれるかも知れませんが、世の中が変わり始めた時に新しいものを取り入れていく人がいて、高貴な男性だったとしても、何の不思議もありません。

ただ、隋書の「日出る処の天子」は男性で、最高の身分だったはずですが、書紀によれば隋書に書かれたその時は女帝(推古天皇)になっています。皆さん十分にご存知です。

でも、なぜ? 

本当は、聖徳太子は皇太子ではなく天皇になっていた(この場合書紀と矛盾する、書紀は女帝)か、
または、「日出る処天子」は別の地域の天子だった(この場合よその地域の話を取り込んだことになる)か、
便宜上、聖徳太子が天子として国書を書いた(これだと、裴世清が倭国に来ているから嘘が露見したはず)か、


聖徳太子の話は、なかなか虚実ないまぜで、分かりにくいのです。

貴方はどう思いますか?


聖徳太子の実在と物語の接点にある叡福寺古墳の実態がはっきりしてくれば、これらの事のいくつかは解決されるかも知れませんね。

また、明日。


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by tizudesiru | 2017-09-08 15:40 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


by tizudesiru

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3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか

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