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173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

高市皇子を裏切った但馬皇女


記紀には道ならぬ恋の話が出てきますが、その恋は許されていません。

しかし、天武朝では許されたのでしょうか。


高市皇子の宮に居た但馬皇女は、穂積皇子を好きになります。二人は恋仲になったようですが、

穂積皇子も但馬皇女も咎めは受けなかったのでしょうか。

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但馬皇女、高市皇子の宮に
(いま)す時、穂積皇子を(しの)て作らす御歌一首


114 秋の田の穂向きのよれるかたよりに君によりなな
(こち)()くありとも


 秋の田の稲穂は重くて片方によってしまうが、その片よりのように貴方にわたしは寄り添いたい。どんなに人がいろいろ噂して煩わしくあっても。


穂積皇子に勅して近江志賀の山寺に
(つか)はす、但馬皇女の御歌一首


115 
(おく)れいて恋つつあらずは追いしかむ道のくまみに標結え吾がせ


行ってしまった貴方を恋しく思いながらいるよりは、追いかけて行きますから、道の曲がり角ごとに標を結って神様にお祈りしていて下さい、あなた。


但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、
(ひそか)に穂積皇子に()い、事すでに(あらは)れて作らす御歌一首


116 
人事(ひとごと)を繁みこちたみ(おの)が世に未だ渡らぬ朝川渡る


世間の噂がひどくて煩わしいので、生まれてこの方一度も渡ったことのない川を、それも朝川を私は渡る

   但馬皇女の御歌一首  一書に云う子部王(ちいさこべのおおきみ)作る


1515 事繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひてゆかましものを


世間の噂が激しくて耐えられないような里に住まないならば、今朝鳴いていた雁と一緒に連れだって飛び去ったのに


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但馬皇女(こう)ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷(ひしょう)流涕(りゅうてい)して作らす御歌一首

203 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)()(かい)の岡の寒くあらまくに


雪が降って来た。雪がたくさん降ったならあの人が眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから、多くはふってくれるな。

この二人が許されていたとは。高市皇子の妃は御名部皇女(持統帝の妹・阿閇皇女の姉)ですし、不思議です。但馬皇女は世間の噂の中でも、自分を貫いたのでした。二人を結びつけたのは、天智朝の重臣の家系だという自負でしょうか。藤原不比等の後ろ盾があったのでしょうか。

但馬皇女

父・天武天皇  母・藤原鎌足の娘、氷上娘

?生~和銅元年(708)没

高市皇子の宮に住んでいた

若い穂積皇子に惹かれていた

穂積皇子

父・天武天皇  母・蘇我赤兄の娘、大蕤(おおぬ)

壬申の乱後?生~霊亀元年(715)薨去

・持統五年(691)浄広弐  妻・大伴坂上郎女






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by tizudesiru | 2016-11-30 17:15 | 173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌 | Trackback

172続・糸島の神社・再訪問

糸島神社巡の続きです
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宮地岳山上の熊野社

吉備真備が渡唐の時神に祈ったという宮地岳の山頂の熊野神社(祠)に行きました。
吉備真備は大学者で、聖武天皇の娘の孝謙天皇の養育係でもありました。

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藤原氏のために九州の怡土城(いとじょう)築造をさせられたリ、二度も唐に遣唐使として遣られたり、東大寺造に従事させられたりなど、さんざん都の中枢より遠ざけられます。しかし、「藤原仲麻呂の乱」では、孝謙天皇が素早く真備を呼び出しました。真備は仲麻呂の逃走路を断ち、乱を鎮めました。
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福津市ではなく、糸島市の宮地岳山上の宮地嶽神社です。お宮の紋は福津市の宮地嶽神社と同じです。
あのJALの『光の道』で有名になった宮地嶽神社と、です。


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次に、正八幡神社に行きました。長野川のほとりにあります。
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そして、太田神社に行きました。

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太田神社は糸島七寺の夷巍寺の近くです。この寺の所在はまだ確認されていません。
聖武天皇の時代にはあったという七寺の内、一つも確認されていないのです。
この山門は、ぽつんと道の真ん中に残されています。
大きな仁王が二躯、山門に安置されていて、わたしは泥棒の心配をしてしまいました。
 
この寺の前の道を左に折れると、太田宮の常夜灯が民家の間に残っています。民家の屋根より高いのです。

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この前の道を進むと太田宮です。

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ここは、二丈町大字一貴山です。ここに、大田命を祀る大田神社(神額には太田)です。
神と地名と結びつかないのです。意味深な由緒書きです。

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社殿に到る階段に石が祀られています。社殿の後ろには大石がありました。

太田命は、おおたたねこ(太田タネコ)とつながりがあるのでしょうか?

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次の機会に




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by tizudesiru | 2016-11-29 13:34 | 172糸島の神社 | Trackback

172糸島の神社・雉琴・宇美八幡・神在・太田

糸島の神社・再訪問

糸島には神功皇后の伝承が至る所にあります。

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雉琴神社には次のような由緒書きがありました。
神功皇后は雷山(曽々岐岳)に登り神祀りをして戦勝祈願をしたら、夢枕に「ヤマトタケル」が立ち、賊徒討伐の方法を教えてもらった。雉の鳴き声を琴の音に聞いて目覚めたので、帰還の後、日本武命を祀り『雉琴神社』と名付けたと
いうことです。
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雉琴神社は他にもありました。社は既になくなっていました。近くに神功皇后の腰掛石がありました。


神功皇后伝承地の宇美神社。応神天皇の誕生伝説の地
ここは、糸島市の長糸です。
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昔は海から川をさかのぼってこの地にあがったのですね。宇美八幡の参道は川から始まっています。参道の脇に近所の田畑から集められた「支石墓」が置かれてました。運よく捨てられなかったのですね。庭石にもされなかった…
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神社の境内は。5世紀~7世紀の墳墓群です。首長の墳丘墓は山上に作られました。
糸島も、福岡平野も、周囲の小さな丘陵は全て古代の墓地と云っても過言ではありません。山を歩くと石室の石組みが露出しているのでぞっとします。
宇美八幡宮は、糟谷の宇美の宇美八幡が有名ですが。ここが、元宮という人もいます。
上宮は仲哀天皇、本宮は誉田別天皇・気長足姫命・玉依姫命・ニニギ尊
古くは長野八幡宮 
⊛宮司家は武内さん・武内宿祢の御子孫とか…
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本宮階段下に宮地嶽神社が摂社としてありました。
祭神に
勝門姫命・阿部助盛命・阿部高盛命・志那津比古・志那津比売・大山祇命
勝門姫命(勝ちど姫)とは、誰でしょうね。たらし姫のことでしょうか。

万葉集に、山上臣憶良の気長足姫の歌があります。
869 たらしひめ 神の命の 魚(な)釣らすと み立たしせりし 石をたれ見き
たらし姫が魚を釣ろうとしてお立ちになったその石を誰が見たというのだろうか
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近くに大石があります。15年ほど前に見た時は畑の中に見えていました。しかし、今はすっかり竹藪の中でした。驚きました。神在の地名は「神在り」そのものでしょうか。
他の神社にも、行きましたが
また後で







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by tizudesiru | 2016-11-29 10:20 | 172糸島の神社 | Trackback

171額田王の歌の紹介

額田王の歌を紹介します

額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。

でも、天智天皇を待つ歌がありますね。斉明天皇にも仕えています。

額田王とは如何なる人だったのでしょうか。

では、天智朝では、どんな立場だったのか。それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。
女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌はかなり政治的ですね。

最晩年には粟原寺を建立したことになっています。

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では、額田王の歌の紹介です

額田王歌


7 秋の野の 美草刈り葺きやどれりし兎道のみやこのかりほしおもほゆ


 額田王歌


8 熟田津に船乗りせむと月待たば潮もかなひぬ今はこぎいでな


 紀温泉に幸す時に額田王の作る歌


9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が背子がい立たせりけむいつ橿が本


 


 天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌



16 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を
()み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは 



額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌


17 
(うま)(さけ) 三輪の山 青丹吉 奈良の山の 山のまに いかくるまで 道の  (くま) い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむやまを (こころ)なく雲の 隠そふべしや


反歌

18 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そうべしや


*井戸王(意のへの王)の歌は省略

神の山の三輪山、その三輪山が青丹よし奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲りが重なってしまうまでも、見ながら行きたいのに。何度でも見ておきたい山なのに。私の気持ちの分からない雲が隠してしまう。心無い雲が隠してもいいのだろうか。(17)

神山の三輪山を、よりによって何で隠すのか。雲にだって心があろうに。三輪山を隠したりしていいものだろうか。(18)

この二首を山上憶良は類聚歌林に「都を近江の国に移す時に三輪山を御覧になっての御歌」としています。つまり、天皇の歌だというのです。

 天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌


20 
あかねさす紫野行き標野ゆき野守は見ずや君が袖振る

額田王、(こた)へ奉る歌一首(倭京より(たてまつ)り入る)


112 
いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我がもえるごと

吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首


113 
み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく


天皇の
大殯(おほあらき)の時の歌二首

151 かからむとかねて知りせば大御船()てし()まりに標結はましを

山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首


155 
やすみしし 我ご大王の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は ゆき別れなむ

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首


488 
君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く


*巻八・1606は、488と同じ題詞で同じ歌

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藤原宮・新益京




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by tizudesiru | 2016-11-28 17:02 | 171額田王の歌の紹介 | Trackback

169・額田王の恋歌と素顔

169額田王の恋歌と素顔


額田王は恋多き女性だったのでしょうか。
美女だったようですが。


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万葉集にも額田王の恋の歌はあります。巻四と巻八に。

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首

488 君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く

*巻八1606は、巻四488と同じ題詞で同じ歌


あなたが何時お出でになるかと待っていると、わたしが恋しく思っているからでしょうか、わたしの館の簾を動かして秋風が吹いてきました。簾をうごかしたのは、あなたではなかった…


額田王の歌は、
78916171820112113151155488・(1606)の13首 のうち1首は重複してるので、12首。


内容を見ると、非常に政治的な歌が多いようですね。

488と1606以外の歌を見てみましょう。

7は、額田王(兎道若郎子の京を歌った・悲運な皇太子を暗示

8は、額田王(百済救援軍として熟田津を出航する時の歌

9は、紀温泉に幸す時に額田王の作る歌(有間皇子事件当時の詠歌


8は、斉明天皇御製歌とも「類聚歌林」にかかれているという。天皇に代わって額田王が歌を詠んだと云われているのです。いずれも斉明天皇の時代の歌です。

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額田王は若かったのに、上の三首は恋愛とは関係ないようですね。

16は、天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌天皇の詔で判定する歌

17は、額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌(近江遷都の時の詠歌

18は17の反歌

20は、天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌(天皇の宴席での詠歌


16は、非常に文化的な内容での天皇の詔です。春と秋のどちらが優位なのかを、額田王が判定するのです。次は、遷都の時の詠歌と「類聚歌林」に書かれているので、公的な詠歌です。その次も、天皇の前で詠んだもの。

額田王は、立場的に公の場で活躍していた、常に政治の表に立っていたようです。


額田王はただの美女ではなかった!?

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額田王こたへ奉る歌一首

112は、額田王、(こた)へ奉る歌一首倭京より(たてまつ)り入る弓削皇子に奉る歌

113は、吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首弓削皇子に奉る歌

年を取った額田王に若い皇子が様々に問いかけたのでしょう。

公的な舞台から身を引いても、若い皇子に頼りにされる存在だったことが分かります。学識経験者として、政治的相談役だったのでしょうか

151は、天皇の大殯(おほあらき)の時の歌二首天皇の葬儀の挽歌

155は、山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首(天皇の葬送儀礼の挽歌


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この二首は、天智天皇の葬送儀礼の時の挽歌です。倭姫皇后や石川夫人(蘇我石川麿の娘の姪娘)と共に、額田王の挽歌も残されています。


額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。では、天智朝では、どんな立場だったのか。
それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。

女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌からかなり政治的なものが読み取れます。しかも、才能ある美女だった、そんな額田王を天智天皇も愛したに違いありません。
 
葬儀の最後まで額田王は、山城陵にいたのですから。
明日香に帰った額田王は何をしたのか、そこに、大きなメッセージが残されているのです。



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by tizudesiru | 2016-11-26 22:43 | 169額田王の恋歌と素顔 | Trackback

168・額田王は天智天皇を愛し続けた

168・額田王は天智帝を愛し続けた

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112 (いにしえ)霍公(ほととぎ)()(もえ)


過ぎた昔を懐かしむ鳥は、それは霍公鳥でしょう。霍公鳥は蜀魂とも云われていて、亡き皇帝の魂が鳥となった姿だそうですよ。あなたが見たその鳥は不如帰です。きっと私が昔のことを懐かしく思うように、懐かしそうな声でその鳥も鳴いたことでしょうね。
 


額田王は、王朝が変わっても、幾つになっても、天智天皇を偲びました。


額田王は天智帝の崩御・葬送儀礼の最後まで仕えた人です。

書紀には初めは天武帝(大海人皇子)に召され十市皇女をもうけたと書かれています。万葉集の「中大兄の三山歌」は、大海人皇子と中大兄が額田王を争った歌だとも解釈されています。

その額田王の歌です。(額田王については「144・有間皇子事件の目撃者」で既に紹介していますが、斉明帝にも仕えていました)

ここでは、額田王自身が最後まで愛した人は誰かということです。

それは、天武天皇(大海人皇子)ではありません。

明日香での額田王の暮らしは、天智天皇を偲ぶ毎日だったのでしょう。

額田王の歌・万葉集巻二にある112番歌は、弓削皇子(699没)とのやり取りの歌です。

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若い弓削皇子は、父の天武帝より先の帝の方を愛しているに違いない額田王に興味を覚えたのでしょうか。

ゆづるはの三井の上を鳴き渡って行った鳥がいましたが、あれは昔を懐かしむという例の鳥でしょうか。どうでしょう?


天智帝・天武帝の二人ともすでに鬼籍に入っているのです。どちらを霍公鳥にたとえてもいいのでしょうが、額田王は「ゆづるはの(王朝を譲った)三井」の上を鳴き渡った「その鳥は不如帰」と答えました。あっさりと「わたしも昔のあの方が懐かしい」と返したのでした。


弓削皇子はこの後も額田王と歌のやり取りを続けたようです。

さて、
額田王と大海人皇子とのやり取りで有名なのは、「天智天皇が、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)(668年)された時の歌」がありますね


天皇、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌


20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る


紫草の生える野には標が張られ立ち入りが禁止されている、その紫野を行きながら貴方がそんなことしては野守に見られないでしょうか、わたくしに袖を振るなんてこと。

皇太子の答へたまふ御歌


21 
(むら)(さき)のにほへる妹をにくくあらば人嬬(ひとづま)ゆえに吾恋めやも


まるで紫草のように美しい貴女を心憎く思っていたら、人妻のあなたに惹かれたりはしないでしょう。


四十歳近くの額田王としては余裕の歌なのでした。

額田王と皇太子(大海人皇子)は、天智天皇の宴の席で歌のやり取りをしているのです。衆人が見ている中で。

二人は、かっては子ども(十市皇女)までもうけた仲。誰もが知っていました。


今( 668)は、額田王は天智に仕えていて、娘(十市皇女)は天智帝の後継者である大友皇子の妃となっていました。

大友皇子と十市皇女の間に葛野王が生まれるのは、次の年(669)です。

やがて、天智十年(671)天皇崩御

そして、壬申の乱(672)大友皇子敗れる

その後、額田王と十市皇女は明日香に帰った


額田王は、明日香に帰っても天智帝を想いつづけていました
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額田王の気持ちは当然弓削皇子にも伝わったことでしょう


弓削皇子は天武天皇の息子であり、天智天皇の孫、母も天智帝皇女でした。
皇統を継げる血統だったのです。
それが故に、軽皇子(文武天皇)の立太子に異議を申し立てたのです。
それを、十市皇女の息子の葛野王に叱責され止められました。

弓削皇子が言いたかったのは何だったのか。葛野王が弓削皇子を𠮟った理由は何だったのか。気になる所です。
それが為の、弓削皇子の早世(文武三年)でしょうか

またあした




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by tizudesiru | 2016-11-25 15:24 | 168額田王は天智天皇を愛し続けた | Trackback

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

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by tizudesiru | 2016-11-24 11:34 | 167持統帝の孫・文武天皇の仕事

166・高市皇子・万葉集で一番長い挽歌

166・高松塚古墳の被葬者と耳成



持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。


死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。

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万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。



高市皇子は、
天武天皇の第一子・妻は天智帝の皇女でした。
草壁皇子の死後、後皇子尊(のちのみこのみこと)とされ、権力の中枢に入りました。
 持統天皇十年(696)七月・薨去



高市皇子の陵は、高松塚古墳という説があります。


壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。


高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、


「耳に成す山」の真南です。時の最高権力者の墓と言う場所です。

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発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。

では、高市皇子となります。


高市皇子は最高権力者となったことになります。書紀では「太政大臣」となっています。妃は御名部皇女(天智天皇の娘・蘇我石川麿の孫)でした。

高市皇子の挽歌は、長歌は草壁皇子の2倍以上あります。

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高市皇子尊の城上(きのへ)(あらき)(のみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

 

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

 

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の


ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。


(わが大王の)きこしめす 
背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ ()す国を 定めたまふと (とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ) 召したまひて ちはやぶる 人を(やは)せと (まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら (よさ)したまへば 大御身に 太刀取り()かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を (あども)ひたまひ 


我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和佐射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 


ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。

この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

要約すれば・


鼓の音は雷の声かと聞き違えるほど

兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え

弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ

飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった

立向かう兵士も命がけで戦っていた時、

渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまった

そうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった


高市皇子の壬申の乱での活躍が語られました。
要約しましたが、壬申の乱は夏だったはずですが、ここではま冬の厳しい戦いとして書かれています。

 長いのでここで一休み。

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さて、続きです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 
()綿花(ふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に (よそ)い奉りて (つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ (ぬば)(たま) ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ (うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 


天下をお治めになった我が大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに


何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまった、のです。
次は、殯宮の様子です。


言さえく 百済の原ゆ 
神葬(かむはぶり) て あし   て ら ぬ も 大王

万代(よろづよ)に て し 香久山宮   と つ き む 


あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神としてお鎮まりされてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は、いつまでも残って行くと思われただろう。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように、皇子のことを心にかけてお偲びしたい。畏れ多いことだけれど。


さて、人麻呂は高市皇子を如何に詠み奉ったでしょうか。

天武天皇が天下を治めた

その皇子は天皇のために戦の前線にたった

その戦いは、敵を圧倒した

すっかり皇子の代になると思っていたのに

皇子は亡くなり、誰もが混乱した

皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいだろう

皇子をこれからも偲んでいこう


という内容です。


あまた言葉が並んでいますが……

高市皇子は、確かに大王だったようです。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に使われていますから。

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高市皇子は、耳成山の真南に葬られた方のようです。

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しかし、その耳成山との霊力は断たれます。

なぜ?

それは、明日

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by tizudesiru | 2016-11-23 15:20 | 166高市皇子と高松塚古墳 | Trackback

165・天武大地震(678年)=筑紫大地震

天武天皇七年(678)


九州で大地震
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(福岡県久留米市で、耳納断層に関わる筑紫大地震の爪痕の特別展があっています)

この地震により、筑紫平野の寺院や役所が倒壊しました。上岩田遺跡の瓦が出土しています。ほとんどが垂木先瓦でした。「たるきさきかわら」とは、屋根ではなく垂木の木部が風雨にさらされて痛むのを防ぐための瓦です。
屋根を葺く瓦は他の寺院に運ばれて再利用されたので発掘されなかったのです。
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(小郡埋蔵文化財センターの展示物・写真撮影可能)

八弁蓮華文の文様で、蓮弁の中に子葉があります。飛鳥の山田寺の瓦の文様と同じでしょうか。
瓦のお話もしたいですね……
また、東日本で地震がありました。
大きな被害になりませんように。
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by tizudesiru | 2016-11-22 12:12 | 165天武大地震(筑紫大地震)678年 | Trackback

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂ことあげす

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

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「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前のブログ(157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂)に書きました。

人麻呂の紀伊國の旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。

形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れる為の旅でした。黒牛方は、有間皇子の終焉の地、藤白坂の近くの海岸です。その海岸に、

女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は、女帝の霊魂に確かめに行ったのです。

「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」

人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。

答は「詔のままにせよ」だったのです。

無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えること。

それが、持統帝の詔でした。

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人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしました。


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葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。

だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞご無事で、真にお幸せにと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時にお逢いしたかった。

百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。

わたしは亡き帝のために何度も何度も事挙げする。

反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)

敷島のの倭の国は、言霊の霊力によって幸をもたらす國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く、無事でおいで下さい。


人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、そこに、

文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。

やむを得ず、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に奏上したのでした。

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元明天皇は激怒しました。

そこに皇統の秘密が書かれていたのです

それは、誰にも知られていることだったと思います。が、

それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。
それが故に、草壁皇子が苦しみ、持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。
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人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。

それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。


またあとで





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by tizudesiru | 2016-11-21 11:33 | 164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
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177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
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179天武帝と持統帝の溝
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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
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309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
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315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
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