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カテゴリ:373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ( 6 )

魏の使者が常にとどまった伊都国と女王国との距離の問題

シンプルな疑問があります。魏の使者が常に留まるところ、伊都国の位置の問題です。
伊都国は魏から贈られた品物や出入りする集団を検閲し、諸国の動向を監視していました。女王国の出先として、また権力の一翼を担っていたことになります。その伊都国は女王国よりどのくらいの距離にあったのでしょう。女王国が畿内にあったのなら、緊急時の対応には何か月もの遅れが生じます。奈良時代は駅鈴があり馬を変えながら走ったでしょうが…弥生時代の後期にはそんなに簡単に連絡は取れなかったでしょう。ですから、伊都国の位置から考えると邪馬台国畿内説は無理です。
更に、近畿にたどり着くまでにはあまたの国や河川や山地を乗り越えなければなりません。伊都国で検閲した魏からの下賜品が届くまでに途中は危険すぎで、損傷したり紛失したりするリスクが高すぎます。すべての国を支配下に置いていたとしても、です。武器も持たなかった畿内の国が支配していたとしても…。やはり、地理的地形的にも畿内説は無理です。
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写真の奥の山は、福岡県糸島市の可也山(糸島富士)です。甘南備の山を見て楽浪郡の使者が懐かしんで「可也」と命名したかもしれません。川と可也山の間には微高地が広がり多くの遺跡が集中しています。(糸島市の遺跡地図)

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三雲南小路みくもみなみしょうじ遺跡が二基の甕棺(王墓)が発掘された方形周溝墓です。井原鑓溝いわらやりみぞ遺跡も王墓であったらしく多くの副葬品が発見されていますが、現在は場所の確定が出来ていません。平原ひらばる遺跡は大量の割られた鏡が副葬されていた弥生の方形周溝墓です。「三雲井原遺跡」と書かれた辺りには楽浪形土器が出土しますから、交易のために訪れた人や楽浪郡の使者が生活したところですね。
今は広い畑となっています。
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画面の左に見える可也山に連なる低い山は、古代の志摩国の山です。古代の志摩国は、古代の伊都国の隣に位置していることが、660年までに唐で書かれた『翰苑かんえん』に『ななめ(邪)に伊都にいたり、傍ら斯馬(しま・志摩)に連なる』とありますから、志摩国は伊都国の隣にありました。両者は地理的には現在の糸島市です。古代伊都国と志摩国の間には東西から加布里湾と今津湾が深く入り込み、志摩国はさながら島そのものでした。
ですから、現在の三重県を志摩国とするわけにはいきませんよね。
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福岡市が編集した図録の「弥生時代中期の青銅器の分布」をみると、青銅器は福岡平野の早良区に集中します。この後に邪馬台国の時代が来るのです。権力はどこに集中していたのか、想像できます。早良国が栄えた後に須玖岡本遺跡(春日市)の時代になるのです。権力の交代があったようです。
何を書いてもどんな説を出しても『魏志』の倭人伝を読めば邪馬台国は決定します。
だって、そこには産物としてクスが書かれています。おまけに豫樟があります。
どちらも楠クスノキですが、豫樟は巨大な象のようなクスノキのことです。
邪馬台国には大きな樟があったのです。
現在も、九州の神社は多くが大楠をご神木としています。山々には樟が自生しています。古代から生活の中に樟があったのです。
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ほとんどの邪馬台国シンポジウムで樟が取り上げられたことはないと思います。
九州以東には樟の自生はありません。野山に自然にクスは生えていないのです。そこで、何の議論もできません。邪馬台国の位置が決まってしまうからです。楽しくも面白くもない事実です。
だから、誰も取り上げません。「邪馬台国シンポジウム」そのものが成り立たなくなってしまうでしょう…(金銭の話になりそうですが、本意ではありません。ごめんなさい)

それなのに、今日までこの論争は解決していません。畿内に卑弥呼が生まれなおすまで終わらないのです。日本には、歴史なんてほんとはどうでもいいのでしょうね。
すっかり住みにくくなった日本、若者は自分を生かすために国外に出ていくのでしょうね。
令和元年、歴史は変わります…あの「三角縁神獣鏡」が中国鏡になろうとしているのですから‥‥「中国から一面も出ていない三角縁神獣鏡」600面も出土している三角縁神獣鏡が「中国生産の鏡」に生まれ変わろうとしています。
歴史の改ざんは、「科学的な分析」という一面から進行中なのです。
市民の手の届かないところで、一定の方向をもって予め計画され、結果をメディアが放映するという構図はできているのです。

私たちはそれを傍観させられているのです。



by tizudesiru | 2019-12-20 12:18 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

三国志時代の王侯貴族の造墓は倭国に伝わったと思われる

三国志時代の陵墓の話です。「曹操高陵」が魏の武帝曹操の墓と認定される決め手となったのは、石牌「魏武王常所用挌虎大戟(ぎのぶおう つねにもちうるとこの かくこだいげき」の発見でした。そこで、この墓から見つかった男性の頭蓋骨は曹操のものだということになりました。石牌には『魏の武王が常に用いた虎をも倒す大戟」と書かれ、墓に副葬された曹操の愛用品のひとつ・戟の説明です。
やはり、三国志の時代も被葬者の愛用品が副葬されたということ。では、きっと倭国もそのあたりをまねたでしょうね。
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曹操高陵、この墓の仕様が「魏時代の王侯貴族の墓のありようを伝えている」ことになるのです。
まず、墓は地下に造られ、壁には四角いレンガが積まれています。倭国でいうならば南九州の地下式横穴墓のようなものでしょうか。
曹操は自分の墓に墳丘を築くことすらせず質素倹約を命じています。それでも、たたけば金属音のする硬い煉瓦が墓に積まれたのでした。高温で焼きしめた煉瓦ですね。
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もちろん、倭国は煉瓦で墓を造ってはいません。古墳の初期には、小口の平石を積んで煉瓦のように見せてはいますね。それに、倭国でも初期の横穴式石室墓は墓道が地下に下るように造られ、入口のほうが石室の床面より高くなっているので、魏の墓のように下に降りねばなりません。もちろん魏の陵墓のように大きくも深くもありません。斜めに降りていくだけです。それでも、倭国の竪穴系横穴式石室の墓は、地下に降りるという形式だけは魏の王墓に似ていることになるのでしょう。
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それから
武帝の棺が置かれたのは墓の最奥でした。そして、割れてはいましたが12個の鼎(てい)が副葬されていました。皇帝の葬儀においては瓦鼎(がてい)を十二口副葬するのが決まりでした。曹操の墓はそれが守られているのです。鼎は支配者の徳を表すものだそうで、殷周時代以来、鼎の副葬には重要な意味があったそうです。金属のように見えるこの鼎は素焼きの土器(瓦鼎という)で、高温で焼かれたので灰色に焼きしまっているのです。
このように、倭国の支配者も支配者たる徳を示す重要なものを副葬したのでしょうね。
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それにしても、弥生後期の平原王墓の鏡は弥生時代の副葬品としては断トツ多いです。福岡県糸島市の平原王墓では、鏡が支配者の地位を示すものだったでしょう。ここは、まだ小口の石を使った横穴墓ではありません。墳丘は小さな方形周溝墓です。鏡にも三角縁神獣鏡はありません。
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弥生時代の糸島市・飯塚市・朝倉市・春日市のいずれの鏡も前漢鏡・後漢鏡ですね。
九州では三角縁神獣鏡が副葬されるのは古墳時代になってからです。

古墳時代になって横穴式石室が浸透しますが、初期は入口が高く地下に降りるようになっている竪穴系の横穴式石室、だそうです。
初期の横穴式石室は小口の石積みです。
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鍬崎古墳から出土した鏡を見ても、まだ三角縁神獣鏡はありません。三角縁神獣鏡が副葬され始める前の時代の古墳となるのでしょうか。それとも、この古墳の被葬者は昔の鏡にあこがれて、昔の様式の鏡を中国に注文して特別仕様で送ってもらったのでしょうか。

どうなのでしょうね。九州だからそんなこと簡単にできたというのでしょうか…



by tizudesiru | 2019-12-16 21:27 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

魏志「倭人伝」の女王国は九州にあったのではないか

魏志倭人伝に記述された女王国はどこでしょう。魏と交流があったのなら、なんらかの痕跡が残っているはずです。
魏の武帝とされる曹操(220年没)の墓に副葬されていたという鉄鏡があります。その鉄の鏡に似ている鉄鏡が日田市のだんわら遺跡で出土したというのです。それが「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」で、9月に新聞に報道されて注目を浴びました。三国志展が太宰府で開催される数日前のことです。
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金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を発見した渡辺音吉さんはすでに亡くなっていますが、彼は自分の家の裏から土取り作業中に鏡を見つけたのでした。それを錆びないように湿気を避けようと石灰をまぶして小学校に寄付したのです。それが小学校から盗まれて行方不明になっていたところを考古学者が骨董品店から買い取ったということでした。
そこで、渡辺さんが「鉄鏡には石灰をまぶしていた」と証言し、鉄鏡を調査したところ石灰が付着していて、小学校から盗まれたものだということが判明したのです。
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弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した鏡の総数は、現在6000面ほどにもなるそうですが、鉄鏡は10面にも至らないとのことです。日田出土の鉄鏡は相当に意味のある遺物となります。
この鏡は石棺の中から出土したそうで、他にも鉄刀や轡(くつわなどの馬具が副葬されていたそうです。すると、古墳時代のものとなりましょうか。ほかにも、帯金具や金錯鉄帯鉤などもあります。
三国志の時代ではないようです。(このブログ「352 日田を歩いたら見える見歴史の風景」で渡辺さんの家を訪ねたことを取り上げています。)
それにしても、金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が貴重なものであることに変わりはありません。
日本製か、中国製か、日本製なら象嵌の技術はどこから来たのか、などなど謎が深まることでしょう。そう思ったら…
残念ながら、その出土地がはっきりしないので考古学的な価値が薄いそうです。そんな馬鹿な‥‥この鏡が出土したのは日田に違いありません。考古学に関係ない渡辺さんに嘘をつく意味はありませんから。鏡は貴重だと思ったけれど価値の程度が分からず小学校に寄付したのですから、何の欲もなかったのです
日田の鉄鏡が魏の王侯の鏡と関係があるとしたら、どうなるのでしょうね。

さて、話を弥生時代の後期に戻します。三国志の時代です。
倭人が魏との交流を求めたのであれば、当然、彼らは航海技術にたけていたでしょうし、あこがれの国の文物をまねたでしょう。
倭人の武器も剣から大刀に変わったでしょう、三国志の時代の武器は素環頭太刀でしたから。そして、戟という「ト」の字に似た武器を使ったかもしれません。(戟を捧げ持った騎乗兵の像が三国志展に出品されていました。)よく似た武器が、福岡県の津屋崎古墳群から出土しています。九州の組み合わせ式石棺から素環頭太刀が、一貴山銚子塚古墳からは素環頭太刀や金メッキの後漢鏡が出土しています。
やはり、大陸の武器にあこがれたのでしょうね。
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それから
「三国志の時代展」が九州国博に移動して、秋10月から大宰府で展示が始まりました。(2020年1月の5日まで展示の予定と聞いています。)
展示物にはいろいろな興味を誘うものがあるのですが、中でも女王国とかかわった人物・王頎の名が刻まれた石碑が、気になりました。
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毋丘倹紀功碑(ぶきゅうけんきこうひ)という吉林省で発見された石碑の一部です。
一行目に「正始三年(242)に高句麗が背いた」とあります。
正始五年から六年(244~5)にかけて、魏の将軍の毋丘倹が高句麗に侵攻し大勝利をおさめ、征服地の三か所に碑を建てたという、その碑の一つです。王頎はその将軍の一人でした。
六行目は「行碑将軍領玄菟太守王頎(こうひしょうぐんりょうげんとたいしゅおうき)」と推定されています。
王頎はこのあと帯方太守となり、倭女王卑弥呼と魏の外交を仲介しました。
おりしも狗奴国との関係が悪化していたので、卑弥呼はその仲介を帯方太守に頼んだのです。そして、告諭を受け「卑弥呼以て死す」となったのでした。卑弥呼が相談した相手の王頎は軍人です。王頎は、どうすれば相手を攻略できるかを考える立場の人ですから、戦略として卑弥呼の死を判断したのでしょう。告諭によって卑弥呼は死にました。

三国志の時代は、ちょうど、世界的な寒冷期で世界中が飢えていました。中国でも黄巾の乱が起こり、五斗米道や太平道が浸透したのも社会不安からでした。卑弥呼が魏を宗主国として敬ったのは、魏の武王・曹操が大飢饉で飢えていた人々に土地を与え開墾を進めたからではないでしょうか。この屯田兵政策で飢えが改善されたのです。
女王国では寒冷化による飢饉がで繰り返されていたでしょう。新羅本紀には
「193年、倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来」と記録されています。渡海の危険を承知して新羅に渡ったということは、近隣の諸国も飢えていて何処も頼れなかったからでしょう。列島の何処もが飢饉で飢えていた、だから狗奴国と女王国は衝突したのです。
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新羅本紀を見るとなんだか変で、倭人の行動に矛盾が見られます。
208年、飢饉で千人もの人々が頼りにした新羅に、倭人が侵入しているのです。なぜでしょう。
173年には、『倭女王卑彌呼、遣使来聘』と書かれていますから、卑弥呼は友好のために使者を送っていました。その友好国に侵入するとは…
208年に避難民を受け入れた新羅に倭人が侵略した時、まだ、卑弥呼は女王として生きています。
卑弥呼は248年に没していますが、それまでに232年・233年と、倭人と倭兵が新羅を侵略しているのです。この新羅本紀の矛盾は、どう説明すればいいのか。
それは、「倭人・倭(国)・倭兵」は違うということです。国として行動したのか、各地の倭人として行動したのか、国の兵隊として行動したのか、意味が違いましょう。233年・289年・292年・294年は「倭兵」ですから、国の兵隊が侵略したということになります
倭兵と呼ばれる以上「国によって組織された集団」です。
それは、女王国からの派兵でしょうか。そうでないなら、何処から?
候補として狗奴国があります。狗奴国は、女王国と対立する強国でした。もちろん、武器を持たない地域は侵略などできないし、渡海してまで侵略はしませんね。
残念なことに、狗奴国も鉄を持った地域だったことになります。
すると、鉄を持っていた地域が対立したのですね。
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それでも、邪馬台国は近畿だったとなるのでしょうか‥‥



by tizudesiru | 2019-12-14 23:44 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

女王国で重視した鏡や武器の形

そもそも、卑弥呼の邪馬台国は三角縁神獣鏡で論じられていました。では、卑弥呼が外交を望んだ魏の鏡はどんなものだろうと知りたくなります。折しも、2019年は日中交流40周年ということで、記念の交流事業が催されました。国博の三国志展です
そこで展示された鏡を見なおしてみましょう。
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「獣文鏡」13.3cm。後漢・一~二世紀。
魏ではこのような鏡も用いられたかもしれないと説明がありました。銘文「徐氏がつくったこの鏡はまったく傷がない。中央に天禄がいるので、王侯貴族のように金持ちになる」と書かれているらしいです。魏ではこのような後漢鏡が出土するのです。
魏や西晋の墓からは、後漢時代に制作された鏡が多数出土している。という説明です。
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「方格規矩鳥文鏡」17cm。後漢から三国志の時代の魏の鏡
公孫氏の中心地の墓から出土したので、日本とのつながりが指摘されている。

次が、呉の鏡です。
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「画文帯環状乳神獣鏡」14.2㎝。呉の鏡で湖北省東部の銅で作られたらしい。以下湖北省出土の鏡となります。魏の鏡と呉の鏡ではかなり違った印象がありますね。
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「同行式神獣鏡「」12.3㎝。」湖北省出土。呉の鏡
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『嘉禾五年』重列式神獣鏡かかごねんじゅうれつしきしんじゅうきょう 16㎝。呉の鏡
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「仏像き鳳鏡」12.1㎝。湖北省出土。呉の鏡
この時代に、既に仏教の痕跡があるのです。

次に武器を見ましょうか。
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素環頭大刀です。この時代は武器が発達しました。三国志の時代は戦乱の時代だったのです。
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それから、騎乗兵が戟を高くかかげています。「ト」の字の形をした武器です。矛もかかげていますね。戟は「げき」と読みます。
卑弥呼はこんなものを欲しいと思ったでしょうか。女王国の周囲の首長は欲しいと思ったかもしれません。こんなものをかかげていたら怖いですね。

この続きは、また後で。



by tizudesiru | 2019-12-14 09:49 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

古代史に密かな激震・NHKは突き進む

2019年12月4日にNHKで歴史番組「英雄たちの選択」の再放送がありました。再放送、たしか以前見た番組だと思います。
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番組で、国宝の「合掌土偶」が女性であり出産の場面を表現した土偶と紹介されました。
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女性器も表現されているそうです。
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縄文時代の人々には、妊娠と出産は大変な出来事でした。大きなリスクも伴いますが、集団には避けられない重要な出来事なのです。安産は集団の願望だったでしょうから、信仰に結び付くのは当然です。
合掌土偶の座って出産する形が、青森から岩手・宮城を経由して大阪まで伝わったという説が紹介されました。
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そこで強調されたのが、東北と近畿の結びつきでした。「九州が弥生時代に突入していた時、東北や近畿はまだ縄文時代だった」と解説者がいうのです。あっさり、近畿が鉄や青銅器を持たなかったことを認めたうえで「米や鉄で弥生を語ってはならない」という番組の展開でした。つまり、米つくりと鉄工具や武器生産で有利な九州を排除して弥生時代を語ろうというのです。
そして、紹介されたのが大阪の田井中遺跡でした。
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ここでは、弥生土器を持つ環濠集落と縄文土器を持つ集落が接近して存在していたというのです。なぜ生活形式の違う集落が共存していたのか、それは豊かな土地なので争う必要がなかったからだという展開でした。
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一方、「九州は土地が狭いので争いがおこったのではないか」という結論を出していました。「九州の土地が狭かった説」は初めて聞きました。人類学の方の話では、渡来系弥生人の混血は紀元前数世紀には終了していて、その後は縄文人とは住み分けが行われていて混血はないという話でしたが、NHKは何から結論を導きだしたのでしょうか。
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次に、青谷上寺地遺跡の遺棄された人骨の画像が出てきました。以前、この遺跡の悲惨な結末に対して、『英雄たちの選択』のレギュラーである磯田氏が「こんなことするのは九州ですよ。九州に決まっている」と言われました。一市民として、何か違和感を感じました。そうしたら、今回も同じ発言がありました。
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「こんなことするのは九州ですよ。他に考えられない」と。確かに、恐ろしい殺傷痕ですね。弥生時代に何があったのか、事件の内容はわかりませんが「こんなことするのは○○」という決めつけには、すごく違和感がありました。
弥生時代に何が悲惨な結果を導いたのか、歴史的に解明することは大事です。そこに、「こんなことするのは○○だ」という決めつけは、聞く人によっては不快ではありませんか。
邪馬台国畿内説を支持しておられるので、邪馬台国九州説に対して厳しい点はわからないわけではありません。しかし、そもそも、歴史は一体誰のものでしょうか。
日本国民のみならず、それは現代に生きる人に過去を問い直し未来を考えてもらうための大事な事実であるわけです。どこかの地域を排除して歴史を語るべきではないでしょう。
NHKは邪馬台国畿内説で番組を構成していますから公平でも公正でもありませんし、それにディレクターやプロデューサーの思想に左右されますから、真実に迫りたいという気持ちはあまりないかもしれません。
しかし、何処かを排除して歴史を論じてはならないでしょう。どんなことも歴史の事実であれば、事実として受け止めるべきでしょう。
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次に、近畿で出土した石棒が「共存のシンボル」だとして取り上げられていました。
武器を持っていた九州では争いがあったけれど、武器を持たない近畿にはなかったというのです。近畿では石棒の出土も多く、豊穣を願う祭祀が盛んだったということでした。
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確かに東北には石棒の出土がありますね。石棒は豊穣を願う祭祀具だったのでしょう。
近畿ではその祭祀が卑弥呼の祭祀(鬼道)に結び付くとの展開なのでしょうか…銅鐸が最後に紹介されていました。

以前、淡路島の銅鐸祭祀が大きく取り上げられて、まるで卑弥呼の祭祀のような番組の組み立てでしたね。「卑弥呼をそこに持って行くのか」と驚いたものでした。九州には大型銅鐸の出土はありませんから。小銅鐸や小銅鐸の鋳型の出土があるのみですから。
しかし、少し変ですよ。魏志倭人伝には「倭国大乱」という時期があります。その争いの結果、卑弥呼が擁立されたのでした。その後は、卑弥呼の女王国は南の狗奴国と対立します。そして、魏によって告諭された卑弥呼が没したのち、倭国は男王のもとにまとまらず、お互いに戦い千人以上が死んだのです。
倭国には断続的に戦闘状態が続くのです。卑弥呼の時代の前後は争いの連続なのです。その原因は何だったのでしょう。
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そして、もう一つ、鉄でも米つくりでも弥生が語れないのであれば、平和だけでも邪馬台国は語れません。戦いの証拠がないのなら、近畿に卑弥呼はいないのです。彼女は戦いの結果、平和を願って生み出された女王でした。しかも、新たな戦いによって魏の告諭を受け「以て死す」となった女性です。

近畿に戦いはなかった、であれば、卑弥呼は近畿にはいなかったことになります。
NHKさんは、そのあたりをどのように持っていくのでしょう。年末年始の歴史番組で「邪馬台国畿内説」に近づくための番組が用意されているはずです。
そうして、徐々に市民を洗脳していく計画なのでしょう。無理がとおれば道理が…の世の中です。しかし、歴史の真実を簡単に変えたり、消去したり、なかったことにしたりできるのでしょうか。
年末年始の番組に何が出て来るのか、興味の沸くところです。

by tizudesiru | 2019-12-12 15:25 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ

甕棺に葬られた倭人は、すべて渡来系の人たちだった

福岡県飯塚市のある歴史資料館のパンフレットに、立岩遺跡の甕棺の写真がある。ゴホウラ貝輪を大量に右腕に着けた男性の人骨である。この男性には鉄戈が副葬されていた。大型鉄戈である。大型鉄戈は半島には出土しないので、国産の鋳造品である。つまり、この地域には大型鉄戈を製作する技術があったということである。この時代、貝輪を造るためにゴホウラ貝を求めて南の海まで行った人がいるということである。
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この甕棺に埋葬された人「立岩の君」は渡来人なのか?というテーマで、2019年11月10日に古代史講演会が飯塚市であった。私は下関や福岡市で「甕棺人の骨格」や「弥生人のDNA分析」に関するシンポジウムや講座に参加して興味を持っていた。
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国立科学博物館副館長であり人類学研究部長の篠田謙一氏の「DNAで語る弥生人の成立」という講演は大変面白かった。
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ただ、講演の中で、篠田さんが繰り返し抑えていたのは、分析できた弥生人の骨の数が限られていること・縄文人の骨がほとんど残されていない事・多くの分析は現在進行中であること等々であった。
そうは言いながら、渡来系弥生人とされる山口県の土井が浜遺跡の頭蓋骨のように、「顔が長い・鼻の付け根が低い・現代日本人に近い」顔立ちの骨格は渡来系ということだった。それは、縄文系とされる顔立ちの人「顔が広い・目が大きい・鼻の付け根が高い」人とは形質的に違うという話だった。
すると、土井が浜をはじめ、福岡県の安徳台、佐賀県の吉野ケ里の人骨は渡来系ということである。すると、渡来系の「のっぺり型」と呼ばれる人骨は、紀元前数百年の甕棺から出土するから、弥生前期にはすでに混血が終っていたということになる。すぐには理解できないことである。
甕棺に葬られた倭人は、すべて渡来系の人たちだった_a0237545_23314086.png
では、細形青銅武器を持ち始めた時代から、中広形青銅武器を持ち、広形青銅武器を持つようになる数百年の間、日本列島は同じ形質の弥生人が闊歩していたことになる。倭人と書かれた弥生人は渡来系の人々だったと、なってしまう。
魏と交流した倭人は、渡来人系の倭人である。
甕棺に葬られた倭人は、すべて渡来系の人たちだった_a0237545_23320631.png
篠田氏は「アジア集団の持つ遺伝的な特徴・主成分分析の結果」という図を提示された。
確かに、縄文人とされる集団と、現代日本人の集団は離れている。渡来系弥生人とされる「青谷上寺地・安徳台」の人骨のDNAは現代日本人の集団の中に入っている。
ここで、現代韓国人のDNAと縄文人のDNAの間に「現代日本人」が位置することから、渡来人と縄文人の混血の結果が「倭人」だったというのだろう。

これから、遺伝子が何を語ってくれるのか、興味の沸くところですね。


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by tizudesiru | 2019-12-12 00:28 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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345柿本人麻呂は何故死んだのか
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356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
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