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カテゴリ:363神籠石が歴史論争から外され、更に・( 5 )

神籠石系古代山城の築造時期の問題提起

元号の「平成」が「令和」に代わり、国内には新しいことが起きそうな期待感が高まっていますが、古代史の世界は残念なことが連続しています。
近畿の巨大古墳群が世界遺産に登録されることを目指すそうです。
あの古墳群が5世紀の王権の証明とでもいうのでしょうか。5世紀と言いたい、そのように5世紀であって欲しい、それは願望としては理解できます。しかし、史実としてはどうでしょうか
大化改新(645年)まで、豪族を抑えきれていなかった近畿です。戸籍も持たない、行政区もなかった、経済的に力を持った豪族が権力を握っていたと思われる地域です。そこで、中国の中央集権国家に倣って、新しい国家像を求めて蘇我氏を滅ぼしたのです。
統一政権=王権の確立は、まだなかったのです。
阿毎多利思北孤が畿内に居たのなら、行政区があり組織があり戸籍があって税もあり、王宮も王妃も後宮も皇太子もいたのですから、「大化改新」をする必要はありません。
何にもなかったから留学生が帰国した後に中央集権国家を目指そうと、彼ら学者と若者が軽皇子(孝徳天皇)を中心に集まったのです。

日本書紀と隋書を読めば、自明のことです。アメノタリシホコは阿蘇山のある九州に居たのです。王権はそこに成立していた。ですから、大化改新の前に近畿王権が確立していたはずはありません。推古天皇は女性ですし、タリシホコではありえません。

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アメノタリシホコは佛教で国を教化しようとしていました。それを見た蘇我氏も物部氏も仏教とその文化にあこがれました。しかし、近畿に仏教を入れるには抵抗勢力が強かったのです。蘇我氏が私的に仏教を保護したのもそのためでした。
やがて、蘇我氏と物部氏は交易の利権を巡って対立し、蘇我氏が勝利しました。
そこで、蘇我氏は物部氏の莫大な土地と財産を奪いました。大阪市の上町台地の大阪城辺りには、古代の難波堀江がありました。そこは古代の流通の拠点だったのです。そして、その辺りは物部氏の私有地だったでしょう。

蘇我物部戦争に敗北した物部氏はすべてを失い、難波堀江辺りは蘇我氏の土地となりました。
が、ほどなく上町台地の一等地は、乙巳の変(645)で蘇我氏本家を滅ぼした孝徳帝の所有地となったのです。ですから、そこに難波名柄豊崎宮は造営されました。


単純な恐ろしい話です。政変のたびに莫大な財産の所有者が変わるのです。
孝徳天皇は理想に向かって難波宮を造営しました。しかし、律令を持たなかったので「詔勅」で政治を行いました。命令系統が整ってなかったのです。その痕跡もなかったので、過去の権力の組織を再利用することもできませんでした。ゼロからの出発でした。

何にもなかったのです。そして、そこには過去の大型古墳があった?
不自然で、違和感がありすぎです。王権の古墳ではないでしょう。
 
6世紀の半ば過ぎから7世紀初めにかけて、国内の流通が一変しました。その経済力をバックに大きな威信物を希望した新興豪族が作ったと考えることは出来ます。

以上、「古代史の残念」について一言書きました。
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令和元年、最初の投稿ですが、カテゴリ「363神籠石が歴史論争から外され‥」につながる内容になります。
古代山城についての昨今の動き・見解には、驚きあきれます。理解できない説が文化庁の説をはじめ諸説が横行しています。
「古代山城として朝鮮式山城が白村江敗戦後に造られ、その後、交通の発展に伴い神籠石系山城が作られた。唐・新羅に対しての防御の意味で造られたので、神籠石系山城は見せかけの山城で建物も何も作られなかった。ハリボテのようなものだった」
そうでしょうか。これまで、九州の地方自治体がコツコツと積み上げて来た研究はどうなるのでしょう。まるで、地方をないがしろにした言葉だけの説です。

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そこで思い出しました。今年三月の「善一田古墳と古代筑紫の世界」シンポジウムのスライドです。安閑紀の屯倉の位置を示した地図に、朝鮮式山城と神籠石系山城が一緒に示されていました。
すると、古代山城は安閑紀の屯倉(磐井の乱後の全国に造られた)と時期がリンクするのですね。

文化庁の見解とはぜんぜん食い違いますね。白村江敗戦よりも100年以上早くなりますから。文化庁は8世紀とか書いていましたからね。150年も時間差ができるわけです。
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2005年(平成17年)4月12日の読売新聞です。
少しアップします。
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6世紀後半から7世紀前半に造られていた可能性とあります。
私たちは自分たちに都合のいい情報で歴史を処理してはいけないと思います。説はいろいろでしょう。
しかし、経済効果や町おこしという目的で歴史を扱ってはいけないと思います。

歴史は個人や一地域のものではないと思うし、未来の人々に真実を見つけるチャンスを残したいと思います。
ではまた、明日。


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by tizudesiru | 2019-05-11 21:53 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

継体天皇御一家の悲劇は起きたのか

後、二週間しないうちに元号が令和に変わります。今日まで使われている元号は、701年・文武天皇5年の「大宝」からで、以来切れ間なく続いてきました。
巷では「では、大宝までは元号がなかったのか」という問題が議論されてきました。
法隆寺の釈迦三尊像の光背には「法興」という元号が彫られています。飛鳥時代の金文ですから、その意味は大きいのです。
元号を決めることができるのは天子のみですから、元号があったとしたら「天子」という最高権力者が居たということにもなりましょう。自称「天子」だとしても、その人物は一定の領土を治め、人民の戸籍を握り税を取り、役人を任命し、律と令で政治を行っていたことになります。当然、歴史書を作ろうとしたでしょうし、文化や経済の振興にも力を入れたでしょう。
そういう人物でなければ、天子とは言えません。

隋書に見える『日いずる処の天子』は存在したのです。中国の史書が日本のためにでたらめを書く意味・必要は有りません。
隋書に書かれていることは、事実です。しかし、日本書紀と食い違います。

日本書紀は推古天皇ですから、アメノタリシホコは出て来ないのです。では、彼は何処にいたのか?

阿蘇山のある地域に居たに違いありません。彼は、6世紀末から7世紀初頭の人です。
600年(髄の開皇二十年)に、タリシホコは遣隋使船を出しました。
その頃は、天である兄・タリシホコが夜の明けないうちに政治を行い、夜が明けると政務を取りやめ、あとは弟の太陽に任せるという、道理のない状況でした。
隋の煬帝がその理不尽な状況を変えさせました。隋書には「俀国を諭してこれを改めさせた」とあります。
ますます、日本書紀の王権とは食い違います。

更に、俀国の場所は九州の熊本を含んだ地域でありました。
「阿蘇山あり。その石ゆえなくして火起こり、天に接する者(こと)あり、俗、以って異となし、因って禱祭(とうさい)を行う。」
この文面からも俀国の位置が想定できます。
阿蘇山が突然噴火するので、人々が異変だとして祈り祀っているというのですから。
まさか、関係ない地域のことは書きません。

隋の使者は阿蘇山を見たのでしょう。七世紀初めの俀国には使者が来たのですから。
では、俀国は何時生まれ、その後どうなったのでしょう。六世紀半ば以降には俀国は確実にあったのです。

行政区(軍尼・稲置・八十戸)を持っていた隋書の俀国。王宮も後宮もあったし、皇太子も居た。天子は男性。
内官(中央の役人)には十二等あった。大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信 の十二等。
俀国には、
戸籍・行政区があり、役人もいて、タリシホコは仏教によって国政を運営したいと思っていたのです。
(ちなみに、聖徳太子の官位十二階は、徳・仁・礼・信・義・智の順に大小が付きます。)
近畿の王権にここまで行政組織が整っていたのなら、『大化改新』の必要はありません。
大化改新が必要だったのは、国の行政組織が不十分で、権力が各豪族に拡散していたからでしょう。やはり、タリシホコの国は近畿ではありません。

しかし、歴史書では近畿に聖徳太子が居たことになっています。
八世紀の日本国には、「聖徳太子は九州ではなく近畿にいた」という歴史が必要だったのです。新しい国でしたから、古い長い歴史が必要だった。
または、倭国の一部が近畿で王権を樹立し、祖先の歴史を九州から移動させた…

もともと列島は一つの国だったと、書紀は真実を曲げる必要があったのです。
しかし、それは無理です。新唐書は「日本」ですが、旧唐書には「倭国」があるではありませんか。両者はもともと別国だったと書かれているのです。
それでも、日本書紀が事実を曲げたので、あちこちにヒズミが出ているのです。

「倭国と日本は元々一つの国だった」を主張した日本書紀は、罪深い史書ではありますが、倭国の歴史も取り込んでいるので、あちこちに齟齬は有りますが、重要な語り部でもあるのです。過去を探査するための資料でもあるのです。


そうなると、磐井の乱は「磐井の反乱」ではありません。反乱を起こしたのは、オホド王(継体天皇)側ではありませんか。

磐井が滅びて、六世紀は大事な変わり目となりました。
六世紀のはじめ、書紀によると北部九州で「磐井の乱」という内乱が起りました。その後、屯倉が置かれ始め、そうして、列島各地が活気づいたというが定説です。


また、各地に屯倉が置かれたのは、近畿の王権の進出を意味すると歴史家がいわれますが。
それにしても、
日本書紀の継体紀をそのまま読めば「長門より西は、汝が統治せよ」と、継体天皇が言ったことになっていますから、磐井の乱後に長門より西を支配したのは物部麁鹿火となります。
磐井の乱後、物部政権が北部九州を支配した、それが近畿の王権だというのです。
では、磐井の乱後の九州の屯倉の位置を見ましょう。
安閑紀ですから、継体天皇の息子の時代になります。磐井の乱の後で6世紀前半~半ばです。

6世紀・安閑紀につくられた九州の屯倉の位置を①➁③④⑤⑥⑦⑧とおさえて見ました。「糟谷」という文字のポイントは、磐井の息子・葛子が献上したという「糟谷屯倉」です。こうしてみると、①~⑦までの屯倉はなぜか北九州に偏っています。⑧は熊本県の熊本市辺りです。ここは、いきなり離れています。

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(黄色のポイントは、神籠石系山城の位置です)

①~⑧は、滅びた豪族の領地だったので没収したということでしょう。
つまり、そこは筑紫君磐井の領地だった…しかし、岩戸山古墳のある辺りは無傷だから、その本拠地は手放していない、となります。
屯倉が豊前と筑前のに一部に集中しているのは、逆にそこまで磐井が入り込んでいた証拠…風土記によれば、「磐井は豊前の山中に入り込んで行方不明になった」ですから、豊前との関係が深かった証拠にもなります。

磐井の乱とは何だったのか、歴史的にまだはっきりしていません。
しかし、筑紫君磐井の子・葛子が父に連座することを畏れて糟屋屯倉を献上したと、書紀に有ります。葛子の領地が削られたのは事実でしょう。
発掘された糟屋の屯倉は、新宮町の辺りで遺構も発掘されている、というのです。
こうして、継体天皇の王朝は確立したかに見えますが、そうでもなかった…

此処で、日本書紀の不思議な記述に出くわします。継体天皇の崩御の記述です。
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辛亥年(531年)、磐井を倒したという継体天皇とその一家に何が起こったようです。
『日本の天皇と太子・皇子、倶に崩薨りますと聞けり』という百済本記の記述は事実でしょう。一家そろって死亡するのは異常事態です。

筑紫君磐井を滅ぼしたという継体天皇、その王朝も滅びたかも知れない、ということです。これは…どうなっているのでしょう。安閑天皇は、継体天皇の子どもですが、書紀では父と共にに崩御されてはいません…が、天皇と皇后と天皇の妹を合葬したと記述が有ります。
次の宣化天皇紀でも、天皇と皇后とその児を合葬したと書かれています。

継体天皇の長子・安閑天皇と弟・宣化天皇は、どちらも家族と合葬になっているのです。
やはり、継体天皇の家族に何事かあったのでしょう。
これには、「宣化天皇は欽明天皇によって殺された説」も想定される、おかしな状況です。次の欽明天皇には合葬記事は有りません。次の敏達天皇も、馬子に殺された崇峻天皇にも。推古天皇は早くに薨去した児の竹田皇子との合葬を望みましたが。

また、日本書紀の安閑紀には、屯倉を置いた理由も書かれてています。
伊甚(いじみ)屯倉は、伊甚国造が皇后を驚かせたことの購いに献上されました。
このように罪の購いに献上させたものと、単に置かれたものです。他人の土地を勝手に屯倉にすることは出来ませんから、「置いた」と書かれた屯倉は磐井の乱後に没収された土地である可能性が大きいと思います。
政変があったからこそ、屯倉が置かれたなら尚更のことです。安閑二年の屯倉を書紀から拾ってみました。
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北部九州以外で「置かれた屯倉」の中で、阿波・紀・丹波・近江・尾張・上野・駿河は、大変意味深な地域です。6世紀の九州の倭国と関係深い地域だったからです。
これらの屯倉は、磐井の乱後に没収された土地に置かれた可能性があるでしょう。
安閑紀の屯倉設置状況を見ると、王権側からの要求で設置されているものがあり、豪族が渋ると「反抗だ」として処罰されています。つまり、屯倉は、他者の土地に置かれているのです。

やはり、没収した土地に屯倉が置かれたと思います。

安閑(広国押武金日)天皇には四人の妃がいますが、世継ぎがいませんでした。(子の無い天皇は何人か書紀に登場しますが、安閑天皇もその一人です)
そこで、天皇は世継ぎがいないので死後に名が忘れられることを嘆いて大臣に相談し、名を残すために屯倉が置かれるようになったというのです。
皇后・春日山田皇女(山田赤見皇女)を別にすれば、許勢男人の娘・狭手媛、その妹・香香有媛、物部木蓮子の娘・宅媛の名に関わる屯倉はないようです。


書紀は屯倉の設置理由をあいまいにしていますが、政変も何もないのに土地の所有者が急に変わることは考えられません。

安閑天皇には、まだまだ不思議な話がありますが、又、後日。


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by tizudesiru | 2019-04-20 16:38 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

白村江敗戦後の北部九州の混乱と疲弊を象徴する善一田

福岡県大野城市乙金の善一田古墳群の一部が公園として残されることになりました。
パンフレットもできています。

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報告を兼ねた講演会もありました。
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(画像は講演会のスライドをデジカメで許可を得て撮ったものです)
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善一田18号墳の被葬者は、副葬品に鉄滓が供献されていることから鉄器製作に携わった人であろうということでした。また、鉄器生産集団の古墳群であろうということでした。
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古墳群の特徴として、出土した三累環頭大刀の柄頭から新羅との交流がうかがえるということでした。
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また、新羅との交流をうかがわせる新羅系土器の出土は全国的にも突出しているそうです。それらは、瓶や壺と蓋という取り合わせなので、容器の中にあったものが大事だったらしく、それを運ぶために瓶や壺が使われたということでした。コンテナとして使われたものだということです。
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乙金古墳群(善一田古墳群・王城山古墳群・古野古墳群・原口古墳群)を造った人々の集落が薬師の森遺跡らしいのですが。そこにさりげなく「7世紀中頃~8世紀前半は断絶」という説明がありました。
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薬師の森遺跡に住んだ人々は、最新の技術を持って鉄の生産をしていたのでしょう。引き手数多の技術者集団だったかもしれません。そんな技術者集団の集落が7世紀の半ばに断絶するなんて…
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そこで、質問しました。「善一田に住んだ人々の断絶は、なぜ起きたのか。白村江戦とかかわりがあるのか」ということを。
次のような答えだったと思います。
かかわった可能性は否定できない。白村江戦には西日本各地から国造郡として動員されたと思われる。善一田の生産集団は那津の官家(みやけ)に管轄されていたと思われるから、白村江戦に動員されたかどうかわからない。白村江戦には地方のまつろわぬ人々を動員したという説があるので。
白村江戦後には大野城や水城の築造があったのでそれらの土木工事に駆り出されたと思われる。そのために集落が移動したのではないか。敗戦後には、大野城や水城をこの地域の人々が動員されて造ったと思われる』

そういえば、NHKで「白村江戦には九州のまつろわぬ豪族を派遣した」という展開の番組がありました。
そうじゃないだろう、と思いました。
「戦争に行け」と言われて、まつろわぬ人々が行きますか? 「いや、行きません」と答えるはずです。いうこと聞かない人たちなのですから。
わたしは畿内王権は「百済救援はしたいけど、戸籍がなかったので兵が集められなかった」と思います。
当時、戸籍を持っていた地域が兵を送れたのです。そこは九州と、遅れて吉備でした。


天智天皇は即位してすぐ「庚午年籍」を作りました。

それまで、戸籍をもたなかったに違いありません。戸籍がなくては、税も集められないし兵も出せません。当然、戸籍を持っていた豪族が兵を出せたと思います。
むずかしい話ではありません。戸籍を持っていたところが兵を組織し渡海したのです。


私の意見ですが。誰も海外派遣を喜ばないはずです。
国とか王権とかの権力と組織がなかったら二万もの出兵は無理です。
白村江敗戦後、東国から防人を出しました。九州の守りを東国の人にさせたのです。
つまり、東国にも戸籍があったことになりましょう。
誰が東国の戸籍を造ったのか。もちろん、九州の倭王権が造ったのです。歴史をしずかに眺めながら正史を読めば、自明のことでありましょう。
(畿内で戸籍を造ったのは、天智天皇と持統天皇です。二人は律令の基本は、まず戸籍だと思ったのです。)

ですから、善一田古墳を造った人々は薬師の森古墳に住み、白村江戦に動員され帰って来なかったかもしれません。新羅系の人々であれば、敵国の民となりますから、とても地域には住みづらかったでしょう。そうであれば、逃げるか移住するか、でしょうね。もちろん、引受先は東にちゃんとありました。
白村江敗戦後の混乱と北部九州の敗戦後の疲弊を彼らが免れたとは思えません。


此処で、善一田古墳群で明らかになった重大なことを考えなければなりません。
そこに住んだ人々は何者だったのかということです。
彼らはに渡来人だったのか、渡来系の人なのか、在地の人なのか、です。



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by tizudesiru | 2019-03-23 09:05 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

白村江敗戦後を語るのか善一田古墳群・大野城市

白村江敗戦後の北部九州を語るのか、善一田古墳群
善一田古墳群の現地説明会が、2016年2月に福岡県大野城市乙金でありました。
6世紀半ばからの群集墓ということでした。住宅地開発に伴う準備調査でしたから、遺跡は残されないと思われていました。
すごく心配していましたが、大野城市は残したのです。
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一部を大野城市が買い取り公園にするということです。
2019年4月27日に「善一田古墳公園」のお披露目があります。
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新羅系土器と新羅貴族の間で流行した「三累環頭大刀」の柄頭が並べて置いてありました。
あれから三年経ったのですね。
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この古墳群が大事なのは、地方豪族の生活というより一般の人々の生活が見えるからです。彼らは新羅と深くかかわっていました。5世紀後半はじまり、6世紀から7世紀の半ばまで造られ続け、祭祀は7世紀後半まで行われたそうです。
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18号墳は6世紀後半の福岡平野では最大級の大きさだそうですが、玄室長2・8m、幅2・2m、高さ3・5mと、決して大きくはありません。
那の大津を持ちながら、そのころの福岡はどうなっていたのでしょう。
磐井の乱で、糟谷の屯倉を献上した後、筑紫磐井の子・葛子の王家は滅びたのでしょうね。北部九州で最も早く福岡平野で大型古墳が造られなくなったそうです。


しかし、6世紀半ば、福岡では群集墓が画期を迎えます。平地の近くのあらゆる丘陵に古墳が造られました。大野城の乙金古墳群もその一つです。
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下は、乙金古墳群の中の古野古墳群で、5世紀後半という8号墳です。
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5世紀後半という8号墳は竪穴式石室ですか? では、もう少し古いでしょう・・・
そして、善一田古墳群の中の18号墳ですが。
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鏡はないけど馬具があります。鏡はいらなかったのでしょうか。
何年かの間に、人々の嗜好が変わったのです。それとも、この被葬者の仕事だったのでしょうか、馬具造が。
6世紀半ば、日本中が流通・政治経済・文化の面で画期を迎えます。群集墓が日本全国に造られました。
磐井の乱の後、何かが変わったのです。

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乙金古墳群では、6世紀から7世紀前半にかけて群集墓が造られましたが、7世紀半ば以降…断絶するのです。

えっ、それは何か原因あり、と思いますよね。

そう、恐ろしい政治的転換点がありましたね。7世紀半ば、あの白村江戦です。
7世紀半ば以降の大野城市の群集墓の消滅を他の事件に結びつけることはできません。
白村江戦に徴用された兵士は北部九州の人たちだったからです。
大野城の人々も無関係ではありますまい。敗戦後には、水城・大野城(山城)の築造と続くのです。彼らが戦争と何の関係もなく経済的な追及をしたはずはないのです。
では、その事は、また後で。 



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by tizudesiru | 2019-03-22 15:52 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

キトラ古墳が国宝になった背景は?

九州は去れ!! 古代史の論争に参加しないでいい、という宣告ですか?
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キトラ古墳が異例の速さで国宝になりました。

国宝になるまでには様々な検討がなされるのですが、耳目を疑うような速さで国宝の指定を受けたのです。
それは、来月の「文化財保護法改定」の前にどうしても国の指定が必要だったからです。私はキトラ古墳の被葬者は舎人皇子だと思い何度もブログに書きました。
檜前廃寺を見に行った時もキトラ古墳に行きました。きれいに整美され多大なお金をかけレガシィとしての資料館も完備しています。
資料館の運営を考えると、国宝とすれば観光客へのアピールも違ってきますからどうしても指定が欲しかったのですね。
此処で思うのは、明日香だから早急な要求が通ったということです。キトラを国宝にすることに異論はありません。しかし、それは全国のほかの遺跡との格差の推進であり、日本の歴史を奈良に固定する思惑の一部でありましょう。
国民の税金を使うのですから、広い視野で日本の歴史を構築してほしいのです。


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熊本城の復興はまだまだ道半ばですが、今年も熊本県民交流館・パレアホールで「鞠智城址『特別研究』成果発表会」がありました。2019年3月17日のことです。五年ほど通いましたが、今年は本当にショックでした。

九州を象徴する神籠石がすっかり消されていました。九州各地の自治体が長く調査研究をしてきたのに、神籠石は敵を欺くための「見せかけの山城」だというのです。それは、天武持統朝の遺構だというのです。
朝鮮式山城とは立地も築造技術も方法も違うのに、です。確かに神籠石は絶妙の立地で、交通の要衝にあります。

律令も整っていなかったらしい天武朝は、壬申の乱で権力を奪った王朝です。彼らが九州に重点を置いた山城を造ったというのでしょうか。


神籠石は「見せかけのための山城」と位置付ける論文や、神籠石は朝鮮式山城と同じ時期に造られた古代山城という定義の上での論文が出来上がっていました。
更に、「文化財保護法」が改正され「地方の発掘調査には予算が付かないことが喧伝されました。財政難の過疎化が進む地方は捨てられました、完全に。

今日まで、文化財保護法は「学者や市民が文化財の破壊を食い止めるわずかな後ろ盾だった」のですが、安倍首相の主導により今年の4月には改定されます。あと一月で変わるのです。
文化財活用は各市町村に任され、事もあろうに「観光に使って宜しい」と安倍さん自ら推奨したのです。それは表向きのことで、発掘調査には予算が付かないし、その遺物遺構を残し管理するお金が付かなくなるのです。つまり、地方の観光に使うどころか、維持管理費用・発掘費用が出ないのです。

この事が、発表会の前に基調提案されました。
「史跡をめぐる新しい文化財の保存・活用への動き」
という演題で、文化庁文化財第二課 埋蔵文化財部門 主任文化財調査官の禰冝田佳男氏の講演が一時間ありました。

その後、①古代の烽ネットワークと鞠智城 ➁平安時代の鞠智城周辺の国内情勢 ③日韓古代山城の水門構造からみた鞠智城 ④日本古代の兵庫と鞠智城 がそれぞれ40分の割り当てでしたが・・・・正直驚きました。

私たちは文化財保護法にわずかな望みをかけていたのでした、やはり。
文化財の発掘調査維持管理の予算はほとんど畿内など王権関係遺構に集中していましたから、地方はあまり関係なかったのですが・・・
今回、文化財保護法が改定されると重要遺跡に当たっても調査する前に壊されるかもしれません。遺跡の維持管理は予算不足で出来ませんから、遺跡が残されることはほとんどなくなるでしょう。第一遺跡の発見が報告されるでしょうか。

日本はこれから低成長に入って行くし、高齢化と少子化が進みましたから、もう打つ手はないのかと、黄砂に染まった春空を見ました。
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ここで、打つ手はありますか?
一人一人が節約することも大事ですが、市民のネットワークでしょうかね。



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by tizudesiru | 2019-03-18 17:21 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける

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