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カテゴリ:360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた( 13 )

「平成」最後の日に「令和」の弥栄を願う

今日は平成最後の日になりました。
歴代の天皇の中でも国民に寄り添うことを願われたのは今上天皇でした。多くの国民に直接声をかけられた今上天皇が退位されました。平和な時代がこれからも続きますように。
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それにしても、次が「令和」という元号であると発表されたことには驚きました。
「令和」が万葉集・巻五の「梅花歌卅二首幷序」から採用されたと聞いて、更にびっくりしました。

確かに、大宰府の大伴旅人の館で催された正月儀式「梅花の宴」は華やかな宴会で、三十二首の梅を詠んだ歌会です。天平二年正月十三日無官の者から高官の大弐紀卿までが一同に会して「梅花の歌を詠む」という前代未聞の催し事でした。
遥かに離れた都にもその事は伝わり、噂を聞いて宮中はおどろきました。
それまでの都の正月儀式は一月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、十七日頃の「射礼(じゃらい)」などで優雅な歌を詠むなどという正月儀式はなかったのです。

同じ年三月に、聖武天皇は宴を開きました。『天皇松林宮に宴を催す。文章生「曲水の詩」を賦す』とあります。旅人が行ったような優雅な儀式をやりたかったのです。
しかし、前年の長屋王事件の後遺症はまだまだ残っていて、皇后に立った光明子は苦しみ続けていました。宴どころではなかったでしょう。

都では、長屋王事件の後にあらぬ噂が流れ、人々は混乱していました。
それなのに、大宰府では優雅な儀式をしていた…違和感があります。
なぜ、大伴旅人は「梅花の宴」をしたのでしょう。そこが重要です。その旅人の意図を解く鍵は、「梅花の宴」の序文にあるのです。

初春の令月にして、気淑く風和ぐ

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令月の「令」は、漢字本来は「おきて・法律」などのように『神の言葉を以って命ずる』という意味だったのです。後に、それが敬称として用いられるようになりました。今日、ご令息・ご令嬢などと使います。同じように「令月」=よい月 となりましょう。
しかし、もう一つの令月「陰暦二月の別名を忘れてはなりません。
旅人は正月(初春)の十三日に『令月』を使いました。「正月はよい月」という意味ではなく、「陰暦二月」として旅人は使ったのです。正月に「二月を意味する」のはおかしな話です。
二月…長屋王事件は前年の神亀六年の二月に起こりました。
旅人は神亀六年二月に薨去した長屋王を偲んだのです…「天平」に改元されたのは半年後の八月でした。神亀から天平(天が反逆者を倒し平らげたの意味)に改元されました。
つまり、天平二年は「天平に改元されて初めての正月』です。
旅人は大宰府で長屋王を偲び続けていたのです、おくびにも出さずに。

梅花の宴

そこにあるのは、前年二月に謀反のかどで死に追い込まれた長屋王への追悼の思いでした。九州の古代王権が行っていた正月儀式を、高市皇子の長子である長屋王の霊魂を鎮めるために再現したのです。そうして、九州に所縁のある長屋王を偲んだと、そうとしか思えません。


そもそも、「梅花歌卅二首」は万葉集・巻五置かれているのです。
巻五の冒頭歌は、旅人の名歌「絶望と怒りの歌」、『大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首』からはじまるります。その793番歌、

よのなかは 空しきものと しるときし いよよますます かなしかりけり


この歌の強さ「悲しかりけり」と感情を率直に述べながら、深く「世の中は空しきもの」と述懐する歌、このような歌はこれまでに有りませんでした。その歌の表現の新しさに、編者が感動したかもしれません。それで、冒頭に持って来た・・・
いえいえ、そうではなく、巻五には編者の思いがあふれています。
次に794番歌として、続くのは山上憶良の歌。旅人の妻への挽歌『日本挽歌』なのです。巻五はほとんど、挽歌と雑歌がないまぜ状態ですね。
憶良の「貧窮問答歌」も巻五です。巻五は、冒頭から最後まで重く悲しい歌が連続しています。(巻五の最後は、憶良の「死亡した我が子・古日を恋うる歌」なのですよ)

これで、巻五がどのような意図で編集されたか想像に難くないでしょう。「梅花歌三十二首」は、巻五に掲載されています。それが、重く沈む歌群の中に異彩を放っているのです。


少し長くなりました。
長屋王事件について、少しスライドで補足しました。
旅人については、このブログ「大伴旅人、水城にて乙女と別れの歌をかわす
に詳しく書いています。読んでみてください。

令和の弥栄を祈らずにはおれません。
大伴旅人も柿本人麻呂も、自分がどんなに苦しい立場に追い込まれても、人生が終わろうとしていても、世を寿ぎ世の弥栄を願う歌を詠みました。それは歌人として、言霊を信じる歌人として、当然のことだったのでしょうか。

敷島の倭の国は言霊のたすくる国ぞ真福(まさきく)在りこそ  (人麻呂)
新しき年の始めのはつはるの きょうふる雪の いやしけよごと (家持)

では、令和の佳き日にお会いしましょう。
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by tizudesiru | 2019-04-30 12:47 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴卿の最後の日・初期万葉集が家持に渡る

大納言大伴旅人は、天平三年七月に没しました。
大宰府を離れたのは、天平二年の十二月でしたから、自宅に帰って半年後に薨去となったのでした。
万葉集には旅人の最後の歌が残されています。

三年辛未(かのとひつじ)に、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首

969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
970 さすすみの来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行て手向けむ


天平三年の秋七月二十五日、旅人は永眠しました。六十七才だったようです。
萩の花が詠まれていますから、詠歌の時は秋であり、病床にあったのでしょう。自分が生まれ育った故郷・明日香を懐かしんで詠んだものです。故郷の飛鳥の川の淵は、浅くなって瀬になっているのでなないだろうか、と。
あの懐かしい小野の萩の花を手向けたいものだと、旅人は詠んだのでした。


巻三には
「天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨の時歌六首」があります。余明軍の五首と県犬養宿祢人上の一首です。

454 はしきやし栄えし君の居ましせば 昨日も今日も吾を召さましを
455 かくのみにありけるものを萩の花咲てありやと問ひし君はも
456 君に恋 痛(いた)もすべなみ蘆鶴(あしたづ)の ねのみし泣かゆ朝夕にして
457 遠長く仕へむものと思へりし君にしまさねば こころどもなし
458 みどり子のはひたもとほり朝夕(あさよい)に ねのみぞ吾泣く君なしにして
 
459 見れどあかず居ましし君が紅葉(もみじば)の 移りいゆけば悲しくもあるか


旅人の薨去は、息子の家持にとって将に人生を変える出来事・大事件でした。父の永眠と共に「初期万葉集」が家持の手に渡りそれを読み理解し守る役目が回ってきたのですから。
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そもそも、万葉集は持統天皇の詔勅により柿本人麻呂が編纂編集したものだと、紹介してきました。孫の文武天皇に「皇統の正統性と歴史を伝えるための教科書」として、持統天皇が作らせたものであると。
それが持統天皇の遺詔となり、人麻呂は主人の思いに応えようと努力したのでした。
しかし、文武帝に進呈する前に、当の帝の崩御となったのです。
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人麻呂は母の元明天皇に献上しましたが、それが元明天皇の逆鱗に触れたのでした。万葉集には皇統の真実が記されていましたから、元明天皇には許しがたい内容でした。
天智天皇の娘として、草壁皇子の妃として、文武天皇の母として極位には着きましたが、天武天皇の皇子皇女があまた存在する中での即位でしたので、何かと臣下の動きが気になっていた時期でもあったのです。
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どこかに不安を抱えていた元明天皇。そこで、御名部皇女が支えます。
周囲も二人の堅い結びつきを疑いませんでした。
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天武朝と元明天皇を支え助けたのが、姉の御名部皇女です。御名部皇女は高市皇子の妃、薨去していたとはいえ太政大臣であった高市皇子の正室なのです。高市皇子は天武天皇の長子で、財力権力を掌握していた人でした。その絶大な財力も大きな支えとなったでしょう。

しかし、二人がこの世を去ると皇位を巡って政変が続きました。
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待っていたように政変が続いたのでした。 
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そうして、天武朝の皇統は消えていきました。
それが万葉集の時代です。その時代を目撃したのが、大伴家持。


こんな万葉集のお話をしようと計画しました。「令和元年・万葉集を読む」
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会場は、熊本県西原村・萌の里の近く、平田庵の隣です。昨年の「歴史カフェ・聖徳太子の謎」と同じ場所です。
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赤い道路が高森線のバイパスです。
宜しくお願いします。


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by tizudesiru | 2019-04-15 00:49 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴旅人・水城にて乙女と別れ歌を交わす

万葉集・巻五は、大伴旅人の絶望の歌ではじまります。
     大宰帥大伴卿、凶問に報(こた)ふる歌一首  
禍故(かこ)重畳し、凶問累集す。ひたぶるに崩心の悲しびを懐き、もはら断腸の涙を流す。ただ、両君の大助によりて、傾命(けいめい)をわずかに継げらくのみ。筆の言(こと)を尽くさぬは、古今歎くところ。
792 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
        神亀五年六月二十三日


妻を亡くしたばかりの旅人の所へ、京から悲しい知らせが届きました。そのとき詠んだのが
「大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌」です。

不幸が重なり、悪い知らせが続きます。ずっと崩心の悲しみに沈み、独り断腸の涙を流しています。ただただ、両君のこの上ないお力添えによって、いくばくもない余命をようやく繋ぎ留めているばかりです。<筆では言いたいことも充分尽くせないのは、昔も今も一様に嘆くところです>*訳文は、集英社「万葉集釋注」より

792 よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます 悲しかりけり
        神亀五年六月二十三日

『かなしかりけり』とは、まあ見事な詠嘆です。この時代「悲しかりけり」と沈痛な悲しみを込めて述懐する歌は、万葉集中にはこれ以外にはない(「万葉集釋注」伊藤博)そうです。なるほど、万葉集・巻五の冒頭を飾る名歌です。更に「世の中は空しきもの」とは、仏教語の「世間虚仮」の翻案で万葉集中最初の用例だとか。

旅人の歌は当時の人には衝撃的に新しかったのでした。つまり、「世の中」を人麻呂も歌に読んでいないし、都の人もこの言葉を使ってはいなかったことになります。(その言葉が使われていた地域は筑紫ですね。そこには仏教が浸透し、仏教語が日常的に使われていたと、私はそう思います。早い時期に仏教が入っていた地域だと)
        

大伴旅人が大宰府に任ぜられたのは、六十三歳の時でした。時に、旅人は中納言、行政のトップは左大臣の長屋王でした。大宰府に赴任して間もなく妻の大伴郎女を亡くし、ほどなく悪い知らせを受けたのです。

更に、翌年の二月に長屋王事件が起きました。皇位継承権をもった長屋王の男子四人すべてが、長屋王と妃の吉備内親王とともに命を奪われました。誰が聞いてもおかしな事件でした。長屋王の四人の王子を抹殺したかった藤原氏が仕組んだ事件だと都の人々も思ったようです。事件後、都は怪しげな噂で混乱しました。

旅人は遠く大宰府にいて、どう思ったでしょう。
  神亀六年己巳、左大臣長屋王賜死の後に「膳部(かしはで)王を悲傷する歌一首」があります。巻三に、
442 世間は空しきものとあらむとぞ この照る月は満ちかけしける
     右一首、作者未詳 *膳部王は長屋王の長子でした。万葉集にも歌が掲載されています。

442番歌の作者は誰でしょう。長屋王やその王子達を知る人物で、身分も高かったはずです。更に、その名が知られると困る立場の人。そうでああれば、旅人をおいて他にないと思います。
旅人は大宰府に帥として下向していました。武人とはいえ、六十五近くの老人です。
旅人は、何より早く都に戻りたかったのです。
そんな人が、膳部王の悲劇を堂々と詠めたでしょうか。藤原氏に長屋王への同情が伝わってはなりません。せめて、名前は隠したと私は思いますが、旅人は心から無念だったのです。壬申の乱以来、大伴氏を取り立ててくれた天武朝に対する忠誠心からして、壬申の乱の英雄・高市皇子の長子である長屋王の受難を見過ごすことなどできなかったでしょう。
とはいえ、長屋王を断罪したのは聖武天皇です。

聖武天皇は我が子・基王(もといおう)が一歳で死亡したショックから、長屋王が呪詛したという讒言を信じたのでした。その事は旅人も知っていましたが、無念だったし、世の中は空しい=世間空=世間虚仮=世の無常 を感じたのです。 


こんな旅人が長屋王事件の翌年、天平では初めての正月に「梅花の宴」を執り行ったのでした。
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「時に初春の令月にして、気淑く風和ぐ」
折しも、初春の佳き月で、気は清く澄み渡り風は柔らかにそよいでいる…と旅人は書きました。
新春の『令月』の意味は何でしょう。ただ、「よい月」なのでしょうか。
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漢和辞典にあるように「のり、おきて、いいつけ、いましめ、法令の発布、命令する」でしょうか。『他人の親族への敬称』でしょうか…令嬢や令子、令夫、令主などのように「よい○○」という意味もありましょうが、「令月が陰暦の二月の別名」というのは、大変意味深です。
なぜなら、大伴旅人にとって「二月」は、前年に長屋王事件があった月だからです。
神亀六年二月に長屋王事件が起きました。そして、半年後の八月に「天平」に改元されました。天平二年は、改元されて初めての正月です。長屋王と親しく天武朝の忠臣だった大伴旅人が、この正月を穏やかな心で迎えたでしょうか。
そうは思えません。
旅人は長屋王事件を忘れてはいません。ただ、都へ帰るためには従順でなければなりません。
長屋王への同情などみじんも見せず、優雅に梅花の宴を開きました。それは、官人たちを感動させ、都までその噂は飛びました。人が追和するほどの反響だったのです。

だからこそ、旅人は大納言として都に呼び戻されました。
天平二年十二月、旅人は大宰府を発ちました。府のはずれ、水城の門まで来て「別れの儀式」をします。
都へ帰れる喜びと安堵感で、旅人は笑顔だったことでしょう。しかし、別れの儀式は静粛に行われました。
筑紫の乙女・児島が詠みます。
965 おおならばかもかもせむを かしこみとふりたき袖を 忍びてあるかも
966 倭路は雲隠りたり しかれども 我が振る袖を なめしともふな


965 貴方が並の方であったなら、別れに際して ああもしようこうもしよう思うのですが、恐れ多い方なので振りたい袖もふらずに忍んでおります。
966 あなたがお帰りになる倭路は、はるか遠くに続きます。私が振るのを忍んでいた袖を振ってしまったとしても、無礼だとは思わないでくださいませ。

旅人は娘子の歌に応えて、大宰府の人々へ別れの歌を詠ました。
967 日本路の吉備の児島を過ぎてゆかば 筑紫の子島 おもほえむかも
968 丈夫と思へる吾や 水茎の水城の上に なみだのごはむ


967 日本(やまと)へ帰る道にある吉備の小島、あの小島を過ぎて行くとき、わたしはきっと筑紫の児島を思うだろうな
968 私は自分を丈夫だと思っているのだが、その私が水城での別れに涙を流すとは何ということだ

大伴旅人と筑紫の児島の歌は「冬十二月、大宰帥大伴卿の上京」の時の歌です。行事の歌であり儀式の歌です。
二人は意を尽くした歌を詠みあいました。
ここで思うのは、筑紫の娘子はうかれめ(遊行女婦)なのでしょうか。
うかれめが、大宰帥の上京の儀式で歌を詠むのでしょうか。児島はたいへん教養のある女性ですが、遊行女婦とはたいへん疑問です。
更に、旅人と児島は「やまとじ」の漢字を倭と日本に使い分けています。
旅人は山上憶良から提案された通り「これからは倭国ではなく日本国になったのだから、そのように漢字を使い、心して日本国に帰って行こう」と心に刻んだのでした。児島は倭国の人として見送ったのでした。
大伴旅人は山上憶良から献じられた「日本挽歌」に深く感動し、忘れることはなかったのです。

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旅人は都に帰りますが、翌年、天平三年の七月に没します。
旅人は大宰府での生活をどう思ったのでしょう。妹の大伴坂上郎女は大宰府の大野山(大城山)を思い出していますが。
     「大伴坂上郎女、筑紫大城山を思う歌一首」
1474 今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ 吾なけれども


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by tizudesiru | 2019-04-08 00:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

新年号・令和、平城天皇の思いが叶った瞬間

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新年号が令和と決まり、万葉集の梅花の宴の序文から「令」と「和」がとられたと聞いて、一瞬「その時が来た」と思いました。平城天皇の深い思いが叶ったと。

平城天皇は桓武天皇の皇太子で、延暦二十五年(806年)に即位されました。
その平城(へいぜい)天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。
万葉集、そこに書かれていることを、すでに十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣に編集させ「万葉集」を世に出されました。その後、「奈良の都に戻ること」を強く提唱し、譲位した弟の嵯峨天皇と対立されました。

(それにしても、譲位していたにも関わらず、なぜ奈良遷都を強行しようとされたのでしょうと、万葉集を知らない人には不思議な上皇の判断です。平城上皇のその思いは、ついに「薬子の変」となり、破れた上皇は出家されました。その影響で、息子の阿保親王は大宰府で14年間も過ごされることになりました。)

平城天皇の奈良の都への深い思いは、万葉集と無縁ではありません。万葉集の内容を読み解いたからこそ「奈良遷都」を固執されたのです。万葉集には、皇統の正統性とその歴史が歌物語として編集されていました。
編集を命じたのは持統天皇、編纂者は柿本人麻呂を中心とした歌人学者でしょう。
しかし、そこに書かれた史的な内容はインパクトが大きく、元明天皇の逆鱗に触れ人麻呂の刑死となりました。

事の顛末の全てを承知して、大伴氏が元「万葉集」を引き受け、保麿・旅人・家持と受け継がれました。
平城天皇はその「曰く付きの歌集」を召し上げたのです。そこに、どんな天皇の思いがあったのでしょう。それは、平城天皇の元号で想像することができましょう。それは、「大同」です。

大同…意味深な元号です。前王朝も現王朝も本当は変わりはないのだと、根は同じなのだという意味です。
父の桓武天皇は、天武朝から天智朝の皇統に皇位が戻ったことを「易姓革命」だとされました。
しかし、その長子である平城天皇は、「大いに同じ」だとされたのです。
それは、万葉集を既に知っていたための元号の選択だったと思います。しかし、失意のうちに出家した上皇に従うものは有りません。万葉集もほとんど日の目を見ずに細々と受け継がれました。

「万葉集は残したい」という平城天皇の無念が、今日晴れたと思います。
なぜなら、万葉集「梅花の宴」の序文から元号の言葉が選ばれたからです。是から万葉集の姿が明らかにされていくことでしょう。万葉集に掲載されていたのは、王朝の歴史歌であり、その正当性と弥栄を願う詩歌です。
平城天皇は承知されていました。天智朝も天武朝も違って見えているが同じなのだ、それが皇統の歴史だったのだと。(さて、何処が同じだったのか、これからは書こうとは思っていますが。)

 
大伴旅人も「万葉集」を理解し、晩年に歌に目覚めました。息子の家持は、父と柿本人麻呂と山上憶良を敬愛し、初期「万葉集を」守りました。後に付け加えたのは、万葉集の編集方針に倣った後期『万葉集」です。

さて。
梅花の宴は、天平二年の正月に、大伴旅人の館で行われた宴ですが、「古王朝の正月儀式」だったとこのブログにも書いたと思います。旅人は大宰府に来て、古王朝の正月儀式を知り、再現したと思います。
前年の神亀六年、長屋王の変(二月)があり、長屋王家に悲劇が訪れ、半年後に改元(八月)されて『天平』となったのです。天平二年は、改元後の初めての正月です。そこで、行われた梅花の宴。

梅花の宴はただの遊びではありません。尊敬していた天武朝の高市皇子の跡継ぎである長屋王の悲劇を胸にしながら、九州にあった古王朝の正月儀式を大伴旅人が再現したのです。
そこには、長屋王へ深い追悼の思いがあったはずです。


梅花の宴は、正月に、役人のトップから無官の者までが集まって「王朝を寿ぐ歌を詠む」という前代未聞の正月儀式でした。その頃の都にはない儀式だったのです。人々は驚き、その宴を称賛し、息子の家持(やかもち)も書持(ふみもち)も長く誇りにしていました。

今日は本当に、万葉集を残してくださった平城天皇に感謝を申し上げ、悪逆の氏族とまで言われた大伴氏にお祝いの言葉を述べたいと思います。本当に宜しゅうございました。
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筑紫古代史の会の例会にて「万葉集と古代史:大宰府と梅花の宴」という題目で、上記のことは取り上げました。その他のこともいろいろお話しました。
よかったら、筑紫古代史の会にもおいでになりませんか。



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by tizudesiru | 2019-04-01 14:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(2)

「天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった」の続きです。

天平二年正月、大宰府の帥の館に大弐・少弐から無位の役人まで集い宴が執り行われました。その宴では老いも若きも官位の高低もなく、ひとしく梅を詠んだのです。通常では考えられないことでした。身分を分けること、出自を明らかにすることなど、政治が目指していたことでした。律令も整えられ官位も細かく分けられて、秩序を重んじ身につけるものまで決められていましたから。
そんな風潮の中で席をほぼ同じくして歌を詠み合うなど、考えられないことだったでしょう。

もちろん、都では宮廷の正月儀式として宴(とよのあかり)が設けられ、身分・位に応じて各々に賜物がありました。しかし、身分の上下にかかわらずともに歌を詠んだりはしていません。

平安時代には宮廷で歌会があったでしょうが、「梅花の宴」は奈良時代の初めです。

旅人は思い付きで宴を開いたのでしょうか。 そんなことは有りません。
彼は、大宰帥として九州の正月儀式を再現したのです。

まず、そこで読まれた歌を詠んでみましょうか。

815 正月(むつき)たち春の来たらばかくしこそ梅を招()きつつ楽しき終へめ 

              大弐紀卿 だいにきのまえつきみ(従四位下)

816 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも   

           少弐小野大夫 しょうにおののまえつきみ(従五位上)

817 梅の花咲きたる園の青柳は縵(かずら)にすべくなりにけらずや     

          少弐粟田大夫 しょうにあはたのまえつきみ(従五位上)

818 春さればまず咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日くらさむ   

 筑前守山上大夫 つくしみちのくちのかみやまのうえのまえつきみ(従五位下)

819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを 
 豊後守大伴大夫  とよのみちのしりのかみおほとものまえつきみ(従五位下)

*大夫(だいぶ)とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地をもった貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。日本でも律令制度に用いられ、太政官に於いては三位以上、寮に於いては四位以上、国司に於いては五位以上の官吏の称とされた。単に五位を意味する場合「たいふ」と詠み分ける。

820 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり     
筑後守藤井大夫 つくしのみちのしりのかみふじいのまえつきみ(外従五位下)

821 青柳梅と花とを折りかざし飲みての後は散りぬともよし

                    笠沙弥 かさのさみ(無位 僧)

822 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも   

                  主人 あるじ(旅人)(正三位)

823 梅の花散らくはいずくしかすがにこの城()の山に雪は降りつつ 

          大監伴氏百代 だいげんばんじのももよ(正六位下)

824 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐいす鳴くも    

          少監阿氏奥島 しょうげんあじのおきしま(従六位上)

825 梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな     

          少監土氏百村 しょうげんとじのももむら(従六位上)

826 うちなびく春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか別かむ  

           大典史氏大原 だいてんしじのおほはら(正七位上)

827 春されば木末(こぬれ)隠りてうぐいすそ鳴きて去()ぬなる梅が下枝(しづえ)

        少典山氏若麻呂 しょうてんさんじのわかまろ(正八位上)

828 人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめずらしき梅の花かも

         大判事丹氏麻呂 だいはんじたんじのまろ(従六位下)

829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

       薬師張氏福子 くすりしちょうじのふくこ(正八位上)

830 万代に年は来()()とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし

    筑前介佐氏子首 つくしみちのくちのすけさじのおびと(従六位上)

831 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝なくに 

         壱岐守板氏安麻呂 いきのかみはんじのやすまろ(従六位下)

832 梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし

         神司荒氏稲布 かみつかさくわうじのいなしき(正七位下)

833 年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ

     大令史野氏宿奈麻呂 だいりょうしやじのすくなまろ(大初位上)

834 梅の花今盛りなり百(もも)(とり)の声の恋しき春来たるらし

      少令史田氏肥人 しょうりょうしでんじのこまひと(大初位下)

835 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも 

       薬師高氏義通 くすりしかうじのよしみち(正八位上)

836 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり

          陰陽師磯氏法麻呂 おんやうしきじののりまろ(正八位上)

837 春の野に鳴くやうぐいす馴付けむと我が家の園に梅が花咲く

             算師志氏大道 さんししじのおほみち(正八位上)

838 梅の花散り粉(まが)ひたる岡びにはうぐいす鳴くも春かたまけて 

      大隅目榎氏鉢麻呂 おほすみのさくわんかじのはちまろ(大初位下)

839 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る  

   筑前目田氏真上 ちくしみちのくちのさくわんでんじのまかみ(従八位下)

840 春柳縵に折りし梅の花誰か浮かべし酒坏(さかづき)の上()に 

      壱岐目村氏彼方 いきのさくわんそんじのおちかた(少初位上)

841 うぐいすの音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ  

      対馬目高氏老 つしまのさくわんかうじのおゆ(少初位上)

842 我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐいす鳴くも散らまく惜しみ 

         薩摩目高氏海人 さつまのさくわんかうじのあま(大初位下)

843 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ

             土師氏御通 はにしうぢのみみち(無位)

844 妹が家に雪かも振ると見るまでにここだも粉ふ梅の花かも

             小野氏国堅 をのうぢのくにかた(無位)

845 うぐいすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ児がため

  筑前掾門氏石足 つくしのみちのくちのじょうもんじのいそたり(従七位上) 

846 霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも

           小野氏淡理 をのうぢのたもり (無位)

 

この正月儀式はたいへん文化的で華やかで、参加した人々や噂を聞いた都の人など多くの人に感銘を与えました。正月早々から上下を問わず歌を詠み合う儀式、それも梅の花を詠む宴、そこにある意味は何でしょう。

上下を重んじて身分や官位を細分化し「姓」を与えたりして氏の間に差別を持ち込み続けた当時の常識に反し、「王権を象徴する梅花の下に上下を問わず集い王朝の弥栄を寿ぐ正月儀式が九州にはありました」ということです。
当時の王朝の儀式ではないとすると、別の王家の儀式だったことになりましょう。

ちなみに日本書紀・持統紀などに見られる正月儀式は、「白馬節会(あおうまのせちえ))の原形や「射礼(じゃらい)」などが挙げられます。が、詩歌を詠む会ではありません。
正月七日の宴は「白馬節会・あおうまのせちえ」という行事に整えられていきましたが、これは天皇が白馬を見る儀式で「白馬を見ると縁起がいい」というのです。また、正月十七日に「射礼・じゃらい」という儀式は弓の音を立てて邪鬼を払うというものです。

平城天皇(在位806~9)の時代、正月儀式として詩文を作らせ御前で読み上げさせる儀式は「内宴」と云って正月二十日か二十一日に行われたのですが、その儀式が取り入れられたのはずっと後の時代です。

平城天皇とはこれまでも紹介した「大伴氏から万葉集を召し上げ、侍臣に編集させた天皇」で、万葉集に深い理解があった人です。ですから、正月儀式に詩文を詠む宴の意味を理解し、その意義を踏まえ儀式を再現したと思われます。
(平城天皇が罪人として官位も剥奪されていた家持の官位を戻した理由は何かですが、万葉集を召し上げるために他なりません。平城天皇は、万葉集の本質と意義を理解していました。だから、平安京から平城京に都を戻そうと言い出したのです。そのために嵯峨天皇と激しく対立したのです。)

平城天皇は、旅人が執り行った梅花の宴を「王朝の寿ぎの儀式」の再現だと理解したので、自らの世(70年以上後)に儀式化したのでした。理想の王家の正月儀式を大伴旅人が大宰府で再現していたと理解したからです。


当時の旅人としては、長屋王の父・高市皇子の血縁になる九州の王家の儀式をなぞり、長屋王の霊魂を鎮めたいと願ったと思います。もちろん、その事は決して表には出さなかったでしょうし、気づかれないようにしたでしょう。旅人の内心を理解した人物が居たとしたら、山上憶良をおいて他には居りません。


「後に梅の歌に追和する四首(849~51)」が巻五に掲載されていますが、旅人が追和したのであろうと云われています。が、そうであれば、「梅花の宴を懐かしんで作る」という題詞があってもおかしくありません。が、それはないので何ともいえませんが、旅人も思わぬ反響に驚いたのかもしれません。宴の成功に感動した別人の可能性もありましょう。

他にも「諸人、梅花の歌にこたえ奉る一首(856)」があります。

巻十七には、「大宰の梅花の時に追和する新しき歌六首(3901~6)」と題詞があり、「右、十二年十二月九日、大伴宿祢書持が作る」と左脚が付いています。大伴家持の弟・書持が父を偲んで十年後に追和したとわかります。

梅花の宴は、このように人々の心に残りました。なぜなら、非常に文化的な行事で都にはなかったのです。家持も弟の書持も「大宰府の梅花の宴」を深く心に刻み、誇りに思っていたのでした。




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by tizudesiru | 2019-03-01 22:03 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(1)

大伴旅人が太宰帥として九州に来たのは、神亀四年の暮れか、神亀五年(728)のはじめと云われていますが、彼が九州に来たのはこの時が最初ではありません。
元正天皇の養老四年(720)三月には、「征隼人持節大将軍として九州に来ています。隼人が反乱を起こしたのです。(この時、武人だけでなく神官も宇佐の神も総動員して隼人討伐に動員されますから、当時の戦いに呪詛力は必要だったのです。)
同じ養老四年八月に、右大臣原不比等が没しました。それで旅人は都に呼び戻されます。それは、大伴氏から鎌足の母が出ていますし、大伴坂上郎女が穂積皇子(母は藤原氏)に嫁していましたから氏として姻戚関係にもあった為の召喚なのでしょうが、それより行政のトップ藤原不比等の死亡に対して不穏な動きが起こらないように呼び戻されたと思います。旅人は武人のトップでしたから兵を動かせたし、都の平安の為に必要でした。

ですから、神亀四年の暮に武人のトップである中納言大伴旅人を太宰帥として下向させたとは、どこか不自然でした。(または、神亀五年のはじめに大宰府へ下向)
神亀五年はじめ、大宰府帥となっていた中納言・大伴旅人は妻の大伴郎女(大伴坂上郎女ではない)を亡くしました。たぶん無理な大宰府への旅がこたえたのでしょう。大宰府まで同行した妻の死、遠い都で弟が死亡したという知らせ、旅人は愕然としました。
そんな旅人に異常接近したのが、山上憶良でした。
憶良は、旅人に代わって「大伴郎女の挽歌」を詠み、国司として大宰府の歴史や文化を伝えたり、あまたの長歌や紀行文や詩文を献じたりしました。憶良の教示のおかげで、旅人の知見は広がり歌は急激に変化しています。
それにしても、職を辞した後に皇太子(後の聖武天皇)の教育係でもあった山上憶良が、筑前国国司として大宰府に来ていたのは、大伴旅人の動向を見張るためだったという説がありますが、そうかもしれません。憶良の旅人に対する奉仕の度合はまるでゴマスリ・忖度にしか見えませんから、そこに何らかの下心があったとも考えられます。
(私は、旅人の監視役だったのは小野老、「青丹よし奈良の都は咲く花のにおへるがごと今盛なり」と詠んだ小野老と思っているのですが。)

そして、神亀六年(729)二月、長屋王の変が起こりました。
長屋王は左大臣、当代随一の権力と経済を握っていたでしょう。当然、藤原四兄弟とは意見の対立がありました。火種があったことを旅人は承知していました。
もともと藤原氏は天智天皇によって引き上げられて氏族でした。壬申の乱で後退したものの、藤原不比等によって文武・元明・元正朝において力をつけていました。養老元年(717)不比等は『議政官」として朝議に参加できる者は各氏族より一名』という原則を破り、息子の房前を参議に加えていました。その批判をかわすためでしょうか、養老二年に長屋王が大納言、大伴旅人が中納言として議政官に加えられました。そのあたりの事情を旅人は十分に知っていました。

長屋王の変は、当時の人々が大いに驚いた大事件でした。都には「長屋王事件」に対する同情と哀悼が混じりあった噂話があふれ、混乱を極めていました。流言飛語を止めようとする勅も出されたほどです。しかし、混乱と人々の同情は収まりませんでした。
都からの親族の便りもあるし、太宰帥として旅人は成り行きを把握していました。

長屋王賜死の理不尽を旅人が憤らなかったはずは有りません。彼は激怒し慟哭し悲嘆にくれたことでしょう。しかし、大宰府に送られた官人の中に都の藤原氏と直結している者がいるのです。義憤や同情など表に出してはなりません。
どうしても都に帰らねばならないから下手なことは出来ないと、旅人は思ったことでしょう。
身動きの取れない圧迫感のある追い詰められた状況で、旅人が詠んだのは「酔っぱらいの歌・十三首』なのです。
武人である丈夫が、酒を飲んで泣くなど普通の状況ではありえません。(その歌を万葉集に残した人物も旅人の置かれた立場と心情を理解していた、となると、息子の大伴家持以外には考えられません。)旅人の「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」を読みましょう。
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大伴旅人がここまで長屋王事件に揺り動かされたのは何故? でしょうか。
大伴氏は古代有力豪族でしたが、孝徳天皇の右大臣大伴長徳(ながとこ)以来、議政官への道は遠のいていました。
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 大伴氏は「壬申の乱」で活躍し、大伴御行(みゆき)に続いて大伴安麿(やすまろ)が大宝元年(701)から和銅七年(714)まで大納言を務めました。
大伴氏は、天武朝の忠臣となりましたから、天智朝の忠臣だった藤原氏には不快な存在に思えたでしょう。
大伴氏は奈良時代を通じて藤原氏の横暴に釘を刺し続けましたから、謀判事件にかかわることも多くついには「悪逆の氏族」とも評されたのです。然し、その姿勢は「天武朝の繁栄を守る」ということだったと思います。
天武天皇の長子・高市皇子への忠誠心も大きかったでしょうから、その御子の「長屋王の変」は、旅人にとって衝撃となったのです。

ですから、「長屋王の賜死」を知った旅人の無念はいかばかりだったでしょう。
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作者の分からない「世の中は空しきものとあらむとぞ この照る月は満ちかけしける」の歌を詠んだのは、大伴旅人をおいて他にはないでしょう。
旅人だからこそ、その名はふされたのです。


では、長屋王事件の翌年の正月に行われた「梅花の宴」とは何だったのか、言及しなくてもいいくらいはっきりしていますね。カモフラージュです。本心を隠して、『京都のみなさん、大宰府では「長屋王事件」とは関係なく「宴会」を楽しみました。大伴卿も楽しんでいましたよ』という報告を導くための偽装だった、と思います。
次は、梅花の宴の歌を紹介しましょう。


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by tizudesiru | 2019-02-22 10:42 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback(161)

万葉の歌人・大伴旅人は大宰府の歴史を知った

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もしかしたら、大宰府政庁が置かれる前に九州の権力者の王都が大宰府にあったのではないか、大宰府王都説や白村江敗戦後の筑紫都督府説、など様々な説がありますが、その可能性はどれほどでしょうか。


前回までに、福岡県太宰府市の大野城や蔵司(くらのつかさ)の紹介をしました。そこで出土した古いタイプの瓦の出土を紹介していますが、草創期の瓦は何処で焼かれたのか分かりません。その瓦は、太宰府だけでなく大野城市や宇美町にまたがる四王寺山(大野城にほぼ重なる)の多くの地点から出土しているのに、何処で焼かれたかわからないままです(Ⅱ期Ⅲ期の瓦が焼かれた場所はほぼ分かっています)。それにしても山城の倉庫に草創期から瓦があることを、大宰府の官人たちはどう思っていたのか、気になります。
山城の倉庫建物に瓦を葺くなど7世紀という時代を考えると異様で、大宰府に赴任した官人たちもそれを知っていたし、山城を見たはずです。政庁の裏山なのですから。

彼らが大野城や大城山をどう思っていたのか探れる資料としての万葉集、その歌で考えてみましょう。まず、「大城山」を詠んだものです。
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明らかに大宰府の住んでいる人の歌で、政庁の裏山が色づいたというのです。
大宰府政庁からは背振山地・三郡山地が見えるし、遠く筑後の山々も見えます。それらの名の知れた神山が林立する中で「大城山だけは冷たい雨に濡れたわけでもないのに色づいた」というのです。これは自然にはない珍しい? ことで、つまり標高の高い背振山から色づくのが当たり前です。なのに大城山が色づいた…そこに此の歌の意味と作者の思いがあるのです。

「はっきりと時雨が降ったわけでもないのに、さすがはあの大城山、昔から王城として崇められてきた大城山だからこそ、いち早く色づいたのだな。さすがに神山なのだ」

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大伴坂上郎女は兄嫁が大宰府で没したので、兄・大伴旅人の家族の面倒を見るために都から大宰府に来ていました。旅人が大納言となり都に呼び戻されたので、坂上郎女も都へ帰りました。都で筑紫のことを思いだして詠んだのが「今もかも・・」の歌です。
霍公鳥は不如帰とも書き夏鳥です。私は不如帰=郭公と思っていましたが、違うそうです。鳴き声を聞いたら霍公鳥の声は寂しくはありませんでした。私はきっと寂しい声だと思い込んでいたのです。万葉集辞典には「かほと=ほととぎすか。郭公。カッコウと鳴くのでこの名がある。初夏、南から渡ってくる。略」とあり、「ほととぎす=霍公鳥。やまほととぎすとも。渡り鳥。夏鳥。夏の到来を告げて鳴く。背は灰青色。略」とあるのです。


では、坂上郎女の歌です。彼女が「大城山が古代の権力者が造ったものだった」と思っていたのなら、このような意味を込めたでしょうか。 
「あの誰もが毎日のように眺めた大城の山に夏が来て、今頃たくさんの霍公鳥が鳴いているのだろう。霊魂は鳥となって夏になると大城山に戻ってくるのだろうが、私はもう筑紫に戻ることはない。」

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山上臣憶良は大宝元年(701)に無位で遣唐使として唐に渡りました。帰国後徐々に出世し、霊亀二年(716)には伯耆守。養老五年(721)に退朝した後に東宮に仕え、皇太子(聖武天皇)の教育係になりました。そして、神亀三年(726)に筑前国司となったのですが、既に退朝しているのですから、かなり変です。何か政治的な裏工作でもあったのでしょうか。
大伴旅人が都から遠い筑紫に赴任した後、旅人のいない都で「長屋王の変」が起きました。長屋王は左大臣、旅人は中納言としてともに中央で活躍していたのですから二人は親密だったようです。武人である旅人が都にいる間は、事が起こせなかったのではないか、と考えます。
憶良の筑前守就任は、大伴旅人の監視であったのでしょう。大宰府の旅人に対して山上憶良は異常に接近し、徹底的にご機嫌を伺いました。旅人の妻の法事には『日本挽歌』を献じ、大伴氏の祖先の大伴佐堤比古朗子(おおともさでひこのいらつこ)の物語を徹底的に取材し、見送った松浦佐用比賣に関する歌や神功皇后にまつわる伝承を取材し、肥後の大伴熊凝(18歳で死亡)に代わって歌を詠んだり「貧窮問答歌」など多くの長歌を謹上したりしたのは、旅人に接近するためだったのではないでしょうか。 

そんな憶良が旅人の妻の法事に捧げた長歌「日本挽歌」に付けられた反歌五首の最後の歌が「大野山きりたちわたる・・」の歌ですから、次のように読みます。

「古の王城だった大野山に霧が立ち渡っている。霊魂が現れたものが霧や雲だというが古の霊魂が大野山に漂っているのだ。更に、私の嘆きのため息が霧となって、大野山に深く霧が立ち込める。」
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大宰府の官人たちは、毎日眺める大野城に畏怖の念を持ったと私は思います。


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by tizudesiru | 2019-01-24 16:11 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴旅人が太宰帥だった時代、大野城の城門に鬼瓦があった

福岡県の太宰府市や大野城市宇美町にまたがる「大野城」は天智天皇が築城させた古代山城として知られるが朝鮮式山城として大野城が白村江敗戦後に築城される前から或権力者が作った山城が四王寺山にはあったのではないか、というお話をしてきました。
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そもそも大宰府の都府楼跡(政庁跡)に露出している礎石は、創建時(Ⅰ期)のものではありません。Ⅱ期Ⅲ期の瓦葺の建物時代のものです。
Ⅰ期は掘立柱建物で礎石はなく、この都府楼のⅠ期に出土する瓦が「主城原」のⅠ期で出土する単弁の瓦と共通します。両者は同時期なのです。

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大野城築城から1350年の節目に「四王寺山の1350年」という図録が出されました。
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そこに、大野城のⅠ期遺構で出土した瓦の写真があり、三種類の単弁の軒先丸瓦が紹介されています。上の写真が主城原で出土した瓦で、三種類の瓦が出土したのは主城原のみです。
Ⅱ期になると、瓦当文様が違ってきます。鴻臚館式と老次式の華やかな瓦当文様になります。下の「老司系軒丸瓦」で単弁のようだけど複弁八葉蓮華文軒丸瓦だそうです。
一番外側の外区外縁に陽起鋸歯文(ようききょしもん)ギザギザの△文様がつながって取り巻いているのが、老次式の特徴です。鴻臚館式にはこの鋸歯文がありません。
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Ⅰ期の瓦とはかなり違っています。これほど変化するには、文化的な変革があったということです。それは、文化の変化だけでしょうか。何らかの政治的社会的変化があったことになりませんか。礎石建物に瓦が葺かれた「大野城の太宰府口城門」址からの出土です。
山城には大きな城門が作られたのです。
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此の鬼瓦は第Ⅱ期大宰府政庁の造営に伴って造られた「大宰府式鬼瓦Ⅰ式A」で、大宰府の中枢施設からのみ出土する、そうです。これは、大野城の大宰府口城門から出土したものですから、大野城はさぞや立派だったことでしょう。

「大宰府」が置かれるまで、太宰府には大きな施設はなかったかもしれません。然し、その田舎に瓦葺の掘立柱の建物はあったのです。そんな建築物を造った人は何処に住んだのでしょう。「大野城」の城門址を見ると北と南の双方に集中しています。北の糟谷・博多側と、南の太宰府側に。大宰府側が未開発であったなら、宇美町側(粕屋郡側)博多側から主に出入りしたとなります。だから、主城原に官衙も建てられていたのでしょう。

でも、宇美側の有力者が大野城を利用していたと考えると、矛盾が生じます。
水城の築造の意味がなくなるからです。水城は「博多側からの侵入を防いでいる」そうですから。

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全く、謎だらけの大野城です。だけど現実には、大伴旅人が大宰府に赴任していたころ、大野城はあったのです。都から来た官人は、大野城をどんな目で見たのでしょうね。
又、明日。



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by tizudesiru | 2019-01-21 23:57 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

太宰府都府楼の隣・蔵司に王宮があったのか

福岡県太宰府市にヤマト王権の出先「大宰府政庁」址があります。私が子供のころは田畑や家屋の中に意味深な小字があったと思いますが、今はすっかり公園になっています。北に見えるのは大野山(大城山)で、大野城が置かれているのです。


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政庁跡をふつうに「都府楼」と呼んでいますが、古代も此処を都府楼と読んでいたのでしょうか。不思議な呼び名です。
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都府楼跡の東隣と西隣は小高くなって森になっています。西隣は蔵司(くらのつかさ)と呼ばれて、古代には武器庫だったといいます。新聞記事で焼けて溶けた鉄鏃の塊が大量に出土したと書かれていた記憶があります、ずいぶん前の話ですが。裏手は谷で池があります。
この蔵司に以前は料亭がありました。何時か行ってみようと思っていましたが料亭は無くなり、跡地は文化財として福岡県が管理しているのでしょう。発掘調査があっていますから、立ち入り禁止です。見学会があって何とか写真だけ取りました。

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蔵司は二段になって、下の段が発掘中でした。木々の奥(東側)が都府楼跡です。都府楼跡は更に大きく段が下がります。つまり、蔵司の方が都府楼の役所を見下ろす位置にあったのです。見晴らしもよくなりますが、高官に対して失礼ではなかったのですかね。
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上の段は広く礎石が並んでいますから大型建物はあったのです。江戸時代の絵からはもっと多くの礎石があったことが確認できるそうです。
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蔵司の礎石は他の遺構の礎石に比べて厚みがないそうです。つまり、薄い礎石では上に重い物は置けないというのです。ですから、倉庫とは思えないという話でした。
「ではでは、人間の住まいならOKなのですね! ふむふむ、それではここは王宮だったかもしれませんね、古代の」
しかし、肯定はされませんでした。が、ここが倉庫だとしたら確かに不自然です。隣の大宰府政庁を見下ろすことになりますし、倉庫を一等地に造る意味は何でしょう。迎賓館址はここから徒歩で15分くらい離れた二日市駅の近くにありますから、客館跡でもないでしょう。でも、大型建物跡があり、火事などで鉄鏃の焼け溶けた塊が出土したのです。
面白い事実です。

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蔵司の敷地は決して狭くはありません。何らかの公的な建物があったでしょうね。
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観光地として知られる太宰府天満宮は、蔵司や都府楼跡の前の道を東に進み、突き当りに位置します。このあたりの建物は条坊に沿って作られているそうです。
藤原宮より大宰府の条坊が古いというのは、本当ですか?

では、この辺で。


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by tizudesiru | 2019-01-18 23:33 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

当時の太宰府は田舎だったが、山城を築いた

「太宰府はヤマト王権の出先機関・大宰府が置かれるまでは、間違いなくど田舎でした」
と、ある学芸員さんが言われました。若い方ですので何処の誰かは言いませんが、これには「発掘の結果からそう思う」という付け加えがありました。
学芸員さんの話だと、大野城・基肄城は白村江敗戦後に造られたということです。水城・大野城の土木工事も一緒にやれたというのです。大野城は土塁が6キロほどあるそうです。
それも急な斜面にある、のです。そして、山地を削平して建物を建て米を運び入れねばなりません。同じ規格の建物だそうですから、設計図があったのです。それを読める人、指示する人、働く人の組織があって、その食料と寝床も確保しなければなりません。人のいないところで山城を造って、ヤマトを守ったのでしょうか・・・

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佐賀県にある基山です。土塁は山頂部から連なる尾根に造られているのです。
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辺りは平たんではありません。基肄城は、基山と坊住(ぼうじゅ)山にまたがりますので、間を谷川が流れています。
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現在地と書かれているところに、谷水を排除する水門と城門がありました。
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此の水門を通り抜けて基肄城の中に入った者は、大宝律令では一年の徒刑となっていたそうです。701年辺りでは此の山城が機能していて、都でも関心があったのですね。
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10間×3間とは大きい建物ですね。
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今では、初期の出入り口の状況をうかがい知ることは難しいようです。
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基山山頂のの土塁をみましょう。
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広い土塁はうねうねと続いています。
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見晴らしも抜群です。やはりここも、白村江敗戦後にいっきに造ったのでしょうか。
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基山は大城山とほぼ南北に向かい合っています。真南の関係になるのは、基肄城の北帝門ではないでしょうか。天智天皇が基肄城を築く時、この基山で古代から祀っていた神が降ろされました。その時から筑紫神社に祭られているそうです。
ご祭神は変わった可能性もありますが。
 
山城のためにそれまで祀られていた神が山頂から降ろされる、という話が大野城・基肄城の朝鮮式山城に共通するのです。大きな土木工事が敗戦後の食糧難(働き手を失っている)の時代にできたのかという疑問は、全く解決されてはいませんが・・・双方で祭祀が行われていたことは確かです。
神を降ろされ土木工事に従事させられ、人々はどのように戦後を生き延びたのでしょうね。
基肄城が緊急時に倉庫として役に立つかどうかも疑問ですが、此処で大土木工事がなされたのは事実ですが・・その時期は問題だとはおもいます。白村江戦より前に山城があった可能性はないのですか?
それと、当時の人の考えが、今ひとつ分かりにくいのです。 

最初に書きましたが「当時は、太宰府辺りは超田舎だった」ということです。田舎で村も小さく、人も少ないのに大土木工事をしたとは、理屈があいません。人手・財力・必要性・技術・指導者・組織力、何が抜けても国家的な工事はできないのです。他所から人を呼んだのなら、何処で寝泊まりしたのか、やっぱり気になりますからね。
今日も疑問で終わりました。では、また。


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by tizudesiru | 2019-01-17 17:08 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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羽衣伝承・絹衣を身に付けた高..
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筑紫国造磐井の孫、大石麻呂の..
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令和元年後期万葉集も読む「聖..
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庚寅銘大刀と高松塚古墳に南朝..
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壬申の乱を勝利に導いた高市皇..
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馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ..
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古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何..
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大型鋳造鈴は何処で造られたのか
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在自山は天蓋山・古代は馬を飼..
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侵略者か在地豪族か?18号墳..
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「光明皇后の権力の影に不運と..
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ニニギ命は糸島から出発した
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藤原宏嗣に光明皇后との仲を疑..
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天武朝の悲劇は天武天皇から始..
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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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